2 : 16 まだ誰も尋ねたことのない質問

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Easter Eggs

何が出るかな、このたまご(わくわく)
Happy Easter!

「妖精の死」

2001年 4月 6日
記事ID d10406a

妖精現実内にオープンした「ミール・エア・リーデ美術館」のコンテンツを、トップページでも少しずつ紹介します。今回の記事に出る新井昭乃(あらい・あきの)の「妖精の死」という曲は、冒頭の40秒だけですが、ストリーミングでお聴きいただけます↓
http://www.jvcmusic.co.jp/ram/vicl-60043-9.ram

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「さんざしの木の影から その瞳を見つめて笑う」(妖精の死)

不意に新井昭乃(あらい・あきの)さん作詞の歌「妖精の死」のなかのワンフレーズ「…さんざしの木の影から その瞳を見つめて笑う…」というものが頭に浮かび、それが自動的に画像化されていったことから生まれた1枚です。」と作者は説明している。

その歌のことは知らなかったけれど、「妖精の死」という少しセンチメンタルでショッキングなタイトルに、ある手ごたえを感じた。ネット上を探したら、「新居昭乃オフィシャルホームページ ビリジアンハウス」で、曲の冒頭45秒ほどを試聴できるようになっていた。歌詞はちょっと聞き取りにくいけれど、「春……ひそかに近づく足音はだれ?」といったキーワードから、たぶん、「成長もの」なのだろうと思った――「妖精の死」とは、子ども(エルフ)であった「何も知らなかった無邪気なわたし」が、女である自分の現実にとつぜん直面する「死」の物語なのかもしれない。吉原幸子の「桃」にえがかれているように――

近づいてくる変身の予感に
かすかにおののきながら
ふるい雛たちに なつかしく
謎めいた微笑みを投げ
さよならを言う と

けれど、それは本当の死では、ない、と、わたしは思う。そのときから、妖精にふたたび出会うための、本当の旅が始まるのだ。と。それは死ではなく、始まりなのだ。ひとつの終わりであると同時に、ひとつの始まり、本当の始まりなのだ。と。

とびたつとき
うすべにいろの花びらが匂う
少女たちは眠って めざめて
――旅がひとつはじまる

無垢の光のなかで無垢であることは、たしかに純真だろう。けれど、泥のなかの蓮のように立つことは、いっそう清らかだ――現実にいながら夢みる者が、夢のなかで夢みる者より、いっそうイマジネイティブであるように。なんであれ妖精の国へささげる「祭祀(さいし)」――自分の行動――の残り物(結果)を、たいらなこころで、いただくこと、甘くても苦くても、祭祀の残り物を食べて、それで満足して、楽しく生きるということ、「うた」――自分の創造――を通じて、遠い世界に触れるということ、星と地上をむすびつけるということ。

わたしは、このイラストギャラリーの第一章を「泥と競いあえるほど、透きとおった歌」と名づけた。決して「泥(闇や不正)と戦えるちからをもった透明さ」という意味では、ない。そうではなく「泥のように、それほどまでに、透きとおっている」という意味だ。「泥」とは、最も透明な世界の象徴だ。

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花は耐える
花はじぶんの春に耐える

におう闇の底を落ちながら
花ははじめて 花びらの重さをかんじる

(吉原幸子「春」)

軽いものが軽いのには、なんのふしぎもない。自分の存在の重みを感じながら、なお軽やかに歩むことができる意識こそ、本当の妖精の誕生なのだ。

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満開のさんざしの花枝に腕をかけて、森の濃い大気の中で咲く無数の白い花の間からそっとこちらを見つめる妖精乙女―というイメージですね。」とリーデさんは説明してくれた。もの言いたげな、深いまなざし。秘密めいた、ほんの少しいたずらっぽい、あわいほほえみ。これは「さよなら」と言って去ってゆく妖精なのだろうか。それとも、これから出会う妖精なのだろうか――。

本当のことを教えよう。妖精は死なない。でも「妖精の死」は、ある。少女が妖精を捨てたとき、少女のなかで妖精は失われる。けれど、妖精の国は永遠だ――おとなたちが、思いもかけず妖精と邂逅(かいこう)したとき、驚くというより、むしろなつかしさがこみあげてくるのも、そのためだ。

妖精は、少女のなかで起きた自分の死のいたみを知っている。その悲しみを感じている。そして、たえている。……妖精を失ったことを悲しまないで。見えなくなっただけで、わたしたちは、きっとまた会えるから。わたしは、いつも花のかげにいるから。あなたが、あなた自身であるわたしを、見つけてくれる日を待っているから……

関連リンク

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アウシュビッツ

2001年 4月 6日
記事ID d10406

France welcomes Afghan rebel(BBC) 反タリバン・ゲリラの軍事指導者マスード(写真左=BBCより引用)がフランスを訪問、「タリバン政府と戦うための国際的支援」を求めました。「I consider this a turning point, or a new phase in the situation in Afghanistan」だって。「this」ってなんですかね。完全に「例のあれ」が政治的に利用されてる流れのような。(写真の右側は対談したフランスのベドリーヌ外相)

Maood Vedrine

幼児番組の正義と悪じゃあるまいし、タリバンを倒せば平和になるとでも思ってるんでしょうか。「日本政府を転覆せよ、人民による革命がなんたら」と叫んでるどこかの過激派の「夢」と大同小異。よしんばその革命とやらが成功しても、もともと四分五裂の過激な荒くれ者が集まった「北部同盟」、反タリバンということで一時的に同盟を結んでますが、勝ったら勝ったでまた内輪もめってパターンでは……。で、マスード尊師はメロンをほおばりながら「タリバンのほうが良かったと発言したやつは、即刻、射殺しろ。我が組織に敵対する者は、かつての同盟とて容赦せぬ」とかね……戯画的にいえば。というか、そもそも国土の5%、さばをよんでもせいぜい10%しか支配できてない敗勢の同盟側がこれからアフガン全土を掌握できるまで軍事支援する、なんて話になったら、またぞろ何年がかりかの泥沼に突入する可能性が高い。

マスードは「He also asked for strong diplomatic pressure on Pakistan, who are the Taleban's strongest international backers.」なんて言ってるけど、パキスタン国内に避難してるJalozaiのアフガン人は今でもすでに「地獄の入口」にいるのだから。政治的思惑を当面、度外視して、パキスタンのほうを何とかしてほしい。あたり一面排泄物の泥の海、骨と皮の人間がゴミ袋にくるまって食べ物もなく死を待ってる、というのは、「援助する・しない」というレベルの話じゃないでしょう。こんな「アウシュビッツ」を黙認どころか承認してる世界各国、これは人間が正気になった日には国際法廷で裁かれますよ、人道に対する罪で……。

妖精現実内の関連記事アフガニスタンのページ

日本の外務省サイトがリニューアルしてます。ディレクトリ構造まで変わってます。妖精現実は、ほうぼうのページから外務省のページにリンクしてるので迷惑な話。もしや外務省、リニューアルに紛れてアフガンねたとかの“つごう悪い”ページを除去したかもしれませんが、手元では、ぜんぶローカルプロキシにキャッシュしてるので、もし消されてたら復元します(政府機関が出す広報文書には著作権法上、原則として転載自由)……それにしても、影響を受けるリンクがあまりに多いので、しばらく妖精現実内から ...mofa.go.jp/... へのリンク切れは、ご容赦ください。

偽春菜のページより

2001-04-04 SSML → PerlとSSTPの界面を調整、¥キー乱打のエスケープ地獄を回避して見通しよく設計が進められるほか、HTMLタグ内に直接、毒電波を記述できる。
<img src="img/ssml.cgi?(h)さくらのセリフ。(u)うにゅうのセリフ。">

♪すぐれものメカナンバー002、掲示板はっか~ → 誰かがあなたの掲示板に書きこみすると、その瞬間に、あなたのデスクトップの偽春菜サンが「うちの掲示板に誰かが新規投稿したよ。見に行こう」と、すかさず、教えてくれます。何度も自分の掲示板をのぞいて「誰も書いてくれてない」と切なさ炸裂しているかたにはピッタリのメカ。書いたそばからすぐ分かる、書かないときには見に行かない。ああ、素晴らしきかな、妖精のアイデア研究所、たたえよ、妖精のアイデア研究所……。「どうですか、ミルクちゃん」(以下略)

↑単純に自画自賛して自分で「スグレモノ」とか言ってるんじゃなく、『Oh!スーパーミルクチャン』の“王様のアイデア研究所”のパロディーです。

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新学期のラッキーアイテム

2001年 4月 3日
記事ID d10403a

Japanese girls give gifts to Afghan children: PESHAWAR, Pakistan, April 1 (UPI) -- 鉛筆削り、ノート、ボールペン、らくがき帳、クレヨン、色鉛筆、消しゴム、定規、歯ブラシ、歯磨き粉、タオル、おもちゃの自動車、なわとび、そして個人的な手紙が入っているプレゼントの箱だそうです。これだけ読むと、いい話っぽいし、もちろん純粋な善意なのでしょうけれど、Jalozai キャンプの実情と照らしあわせると、複雑な気持ちになります。「ゴミ袋をつなぎあわせただけのテントに住み、トイレもない。大雨で汚水があふれかえり、悪夢のような状態になっている。食糧の配布もなく、寒さで毎日、数人は死んでいる」

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2001-04-03 どきどきしてます?>もうすぐ高校or大学新入学な人、、
さて、妖精占い、新学期のラッキーアイテム(まんが、音楽)を発表します。ぜんぶ妖精現実のおすすめ品だよ。
おひつじ:うかれぎみのあなたには、岡田あーみん先生「ルナティック雑技団」。いきなり相性が悪かったりして(汗
おうし:土星がいすわって試練傾向のおうし座さんには、引田とも子 with ばびっと隊 「DAIJO-BU」。もうすぐ土星は、ふたごに移って流れが変わります。
ふたご:木星が入って12年に一度のラッキーイヤーのあなた。「OH!スーパーミルクチャン」でも見て笑おう。勝ってる試合であれこれ悩むな、と先人も言っている。
かに:陸奥A子先生「こんぺい荘のフランソワ」「流れ星パラダイス」
しし:おませなあなたには岡崎京子先生「リバーズ・エッジ」。同時代性を強調してるんで今からみると少し古いかもしれないけど……。古いついでに立原あゆみ先生「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」
おとめ:猫部ねこ先生「きんぎょ注意報!」
てんびん:萩尾望都先生なんて、いかが?
さそり:クラシック音楽、好きですか? シベリウスの「タピオラ」。いやし系では交響曲6番が吉。
いて:サンテグジュペリ「星の王子さま」
やぎ:大島弓子先生「綿の国星」(わたのくにほし)。大島弓子と十代で出会えるってラッキー。少女のこころで読んでください。。
みずがめ:??? 天王星と海王星が入っているみずがめ座さんは、何事につけ自分で選択する運気にあります。といわけで、ほかの星座さんのリストのなかから自分で選んでみてください、、
うお:篠有紀子先生「ストロベリー・エッセイ」「ガラス遊戯」「アルトの声の少女」

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Milkchanoopy

2001年 4月 3日
記事ID d10403

ミルクチャン 「ねえ、テツコ、シュローダーって、ドイツ人ぽい名前よねー? やっぱベートーベンだもんねー」
「そんなことよりミルク、あんた偽春菜バナー集のアジ演説のせいで、一部で左翼と間違えられてるわよ?」
「さよくぅ? なにそれ?」
「駅前とかで車のうえから叫んでる人たちのことよォ」
「ふぅん……えきまえねぇ……ひらひら(羽根の音)」

-->「胸張れる歴史作ろう 漫画家の小林よしのりさん講演

ミルクチャン
「テツコ、最近の歴史って“作る”んだってね」
「……」
「作るのは未来だと思うけど……そのために過去の歴史からのフィードバックが必要なのよ。バグ報告をにぎりつぶして胸張ってもねぇ」
「あんた、それミルクじゃなくて、ルーシーの口調になってるわよ」
「バカッツラ! 戦車が怖くてアフガン侵攻ができるか」
「出発進行! ぽー」

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Article 2: まだ誰も尋ねたことのない質問

2001年 4月 2日
記事ID d10402b

あなたは、まだ誰も尋ねたことのない質問を、ふと思いついたことがありますか?

そしてそのぼくとつで原始的な問を、無防備にも、そのまま投げかけてしまったことがありますか?

たぶん、これらは、自分のことを語りすぎ、人間のことばでいう自己主張に見えるかもしれない。けれど「わたし」の話をするのには二通りの場合がある。ひとつは、おなじみ、それは「わたし」の視点だ、と主張する場合。もうひとつは、今は意味不明で無用の空論に思えるだろうけれど、「それはわたしの視点では、ないのだ」ということを、在来のパラダイムに対して説きつける場合なのである。だから、何度も言うように、このパラダイムが認知されれば、もう「わたし」は見えなくて良くなってしまう。単に在来のパラダイムとの相対的関係において、「わたし」の意味が論点になっているにすぎない。

そして、人間の在来言語では、存在しないものについて語るのは、たいへん難しい。存在しない、ということを言い表す動詞すらなく、「好き」というかわりに「嫌っていない」というまどろっこしい表現をせざるを得ない。で、あなたがたといえば、わたしが「嫌い」の話をしている、としか思えない。「好き」という概念がないのだから仕方ないけれど、歯がゆいことだ。

Easter Eggs

クマの恐怖

あなたは、心細い夕暮れの山道をかけおりながらオヤジ(くま)が寄らないように「ほーほー」と叫びつづけたことがあるか?

電気機関車の警笛のように「いぃーん」と甲高く鳴く鹿、意外に金属的な声の鶴を聞いたか。おくびょう者のトナカイに道をゆずったか。

友だちがいっしょにいるだけで、たぶん、道に迷っても、こころづよいだろう。しかし……まったくの単独行において、道を間違えたかもしれないと感じ始めたときの、あの「疑念」、道に迷い日が暮れてきたときの、あの狂おしい「不安」、そのみずからの疑念、不安をにやりと楽しんでいる現実とは。人生? わたしたちは、この冒険からもはや生きては出られないことを知っている。であってみれば、不安や迷いを含めて、すべてを徹底的に楽しむしかあるまい。

長距離走の選手は、ひとりで走るけれど、おおぜいの人々が応援して、見守っていてくれるから新記録を出せるのだろうか。かなりそうだろうと思う。インターネットにおけるオンラインソフト作家などもちょっとこれに似てる面があるだろう。――しかし、正反対の妄想が浮かぶことがある。地球上に自分ひとりになったとき、だれの視線もなくなったとき、その無重力のなかで、しっとりと、自分のいちばん美しい歌をつむげるのでは、あるまいか、と。……もちろん、そのときは、ことばにする必要もない。すべての作曲家は、美しいメロディーをかきとめるけれど、いちばん美しい最高傑作だけは、ぜったいだれにも言わずに自分だけのひみつにしている……と想像すると楽しい。

知識というのは、ある意味、おもしろくない。なぜなら、本に書いてあるからだ。しかし、これは本質的に他との競争では、あるまい。自分自身の問題なのだ。他者をおとしめて相対的に満足する、というのは、その場しのぎの代用品にすぎない。しかし、それで本当に満足できる者がいるとしたら、やはり幸せ者と呼ぶべきなのかもしれない。

たしかに本をたくさん読んでいることを自慢するより、本を読んでいないことを明かすほうがイヤミかもしれないが、しかし、実際に本を読まないのだから仕方ない。未知を指さすこと、だれもまだ見ていない、だれの目にも見えてない幽霊と初めて直面すること、宇宙の暗黒のような虚無を見すえることは、スリリングかもしれず、恐怖かもしれない。でも、誰かが冒険を、物語をつづけなければいけないのだろう。たぶん……。

“絶望的なまでの孤独”といった言葉では、とうてい到達できない彼岸(ひがん)。薄気味悪がられながら、せせら笑われながら、おそれられながら、尊重されながら、ばかにされながら、だれかに頼りたいとしんそこ願いながら、協力者がいることを知りながら、そうした外界の動きにもかかわらず、“それ”に対峙するとき、結局、自分しかいないという事実;これは適切に評価されるか、とか、そもそも自分の属する社会において評価に値するかどうか、という問題とすら、離れて、本当に、自身の問題で、ただその幽霊が、へたくそな人間語でなんとか表現し、地上に引きずりおろそうとあがいた痕跡が、ふとおもしろかったりするのだろう。あるいは……。

不安ということと、スリリングということは、だいたい同じで、たぶん、あなた自身の実存のちからに依存している。失礼ながらもふざけ半分で山田花子ふうに言うなら、あなたの霊波が弱いと、不安になって、いっしょうけんめい否定せずには、おれないのだろう。自分の考えを持っている人にとっては、変てこなことというのは、イコール、おもしろいネタなのだから。すりきれていないもの、奇妙なもの、懐かしいほど耳慣れているようでいてどこか本質的に異質なもの。それは、おもしろい人には、おもしろく、不安屋さんには不安な材料だろう。

計算を間違えたら消しゴムで消せばいいと思っている優等生たちに、ピアノの実技試験の味が分かるだろうか。一万回もさらいこみ、絶対に間違えなく弾けるはずの曲だって、その瞬間に暗譜がとだえたら終わりなのだ。弱い者は、ますます弱くなる。強い者は、ますます強い。自分が間違えるなどと夢想だにしない。ふんぞり返る試験官たちの前で、思う存分、歌ってきかせてくる。暗譜がとだえたらどうしよう、などとくよくよしているヤツは、その時点でもう負けているのだ。自分自身の疑念に。

経験

世の常識とは逆なのだ。おもしろいものをそれ自体として尊重する人というのは、決して謙虚なのではなく、むしろ傲慢な自尊心、確立された自己を持っている、と思う。異質なものを「傲慢」に否定せずにはおれない者こそ……という話は負け犬をむち打つことなので、みなまでは言わない。単なる物知り屋さんたちにとって、なによりおそろしいことであろうが――あんがい、真の意味で傲慢な魂というのは多く、すかすかの知識で武装しているだけの空虚なる者の実存を、つねにおびやかしたりする。それゆえ、後者は傲慢な者を否定しつづけずには、いられないのだろう……。真に傲慢な者は、自分自身を否定し、自分自身の限界をわきまえ、自分自身にとっての未知にこそ興味をひかれる。自分自身の限界を漠然とであれ実感しているからこそ、みだりに危険なことは、しないし、他方において、つねにその限界の向こうへあこがれ、自分の限界をより向こうへと押し進めてゆこうとする。へびが皮を脱ぐように、過去の自分をあっさり否定してしまいさえする。対照的に、か弱い者は、自分自身の既知に頼り、そこによどむのかもしれない。

そもそも、書き手というのは、傲慢であるという意味において「不安」だ。決定権をにぎるということは、それ自体、一種、独特の「不安」であって、なにかに服従するとか、権威ありげな何かからコピペしてくる、なんていうときには、まったく不安になる余地は、ない。自分で確定しないのだから、悩んだりする余地は、ない。なんとか大百科事典○○ページより、とでも偉そうに書いておけば良い(じつは、ちっとも偉くないけど……)。さても、変なこと、新しさを含むこと、耳慣れぬことを言い出すというのは、すなわち、従来の常識への裏切りであって、外形的不備の多い新しい仮説から視座だけをくみとれるか、あるいは、面倒だったりでとりあえずなかったことにしてしまうか、ということにもつながる。

周囲の知識屋さんたちが何と言おうが言うまいが、傲慢な魂というのは――それは、たぶん、全知性体の半分を占めているのだろうけれど――ひびきあうある種の普遍性のチャンネルを持っていて、つまり、ひとつの真理をみて、切り口でむだに争ったりしない。どんな言い方をしていても、なんとなく峻烈なことを言っている、というのが感じられるからだ。ただのきれい事と、ある種、地獄を知るもののふしぎな清らかさとの微妙な差のようなものかも、しれないが……。

あまり一般向けの説明じゃないけど、バルトークの弦楽四重奏曲第4番について、ある人が「ちっとも理解できないけれど、すごいということだけは分かった」と語っていたのを連想したりする。いや、もちろん、この文章にバルトークの弦四なみの価値がある、って意味じゃないっすよ(笑

つまり、半分以上の知性というのは、ひびきあう、くみあう側にいるのだと思う。まあ半分以上(?)というあたりの数の比率の推定は、テキトーだけど。

そしてべつの半分というのは、たぶん、素直な人々で、「いろんなことを知っている、物知りだ」と素朴に尊敬してくれるのだが、もちろん、これは傲慢な者たちにとって、少しもほめことばになっていないばかりか、誤解されてがっかりしさえする。なぜなら、知っていることを話すというより、知らなかったことを、かなりリアルタイムで(このストリームをタイプする指先の運動神経と)同時に発見している、というのがポイントだから。……さらには、ずれにずれてずれまくり、知識をひけらかしているのだろう、と百八十度反対のことを感じるむきさえあるらしいけれど、実際には――傲慢な者たちには経験的に明らかなことだろうけれど――書く直前には自分にとっても未知だったことであるのだから、むしろ動機は「未知の探索」であって「知の探索」では、ない、というべきだろう。書くことで、いままさにこの瞬間に確定させている、という、その真剣勝負の現場を目撃するスリルとでもいうか。

もやもやした、ぐしゃまら世界を考え、つぎにそこに構造を入れているのであって、これは、わたしのなかで今まさに起きている経験なのだ。どこかで読んだり聞いたりした構造を受け売りしてるわけでは、ない。もちろん、ことばや表現法は、いくらでも流用するが――表現上のささいな自己主張などで時間を使ってるひまがあったら、たぶん、表現すべき内容のほうを進めたほうがいいだろう。「情報」「意味」「シニファン」「シニフィエ」……こうした用語は、できあいのりっぱな用語があるのだから、さしあたっては、それをそのまま使えばいいのであって、通常、周知の概念のエイリアスをわざわざ作るほうが混乱のもとだろう。「リアライズ←→フェアライズ」「アンソロポセントリック←→ミムセントリック」のように、言葉というか概念がまだできてない部分は、テキトーにでっちあげるしかないが。

なにより重要なのは、じつは、必ずしも、あなたに読ませるために書いているのですらない、という単純な事実かもしれない。このさめた態度が、ある人々のかんにさわるのかもしれないけれど……。

そしてまた、ひとりのこころのなかに、上の意味で傲慢な部分と、か弱い部分とが、共存するのかもしれない。

trivial

例えば、三角関数の基本公式というのは、その世界で考えると少しも自明でなく、あんまりきれいとは言えないややこしい形で、証明もけっこうめんどくさいが、オイラーの視点を持ってすると「複素数の簡単な計算により自明」になってしまう。あのぐちゃぐちゃした、符号をすぐ間違えたりする計算を、一瞬で透きとおらせてしまう、この透徹は、どうだろう。

しかし、例えば、アセンダントの計算というと、地平高度がゼロになる黄道上の点、ということで、やっぱりぐちゃぐちゃ計算するしかなかったりする。

あとからみて、トリビアルだ、というのは、簡単だ。というか、自分でもあとからみると、トリビアルに思える……式を書いちゃえばワンステップずつは明白なのだ。最初にその導出過程を思いついたときのトキメキなどすぐ忘れてしまう。

人は言うだろう。「たしかに極論すればそうなるに決まっている」――たしかにそうなるに決まっているのだが、その極論をあえてしてみるまでは、そのような「論」は、なかったというべきかもしれない(角度を入れて円周の点を決めるものだった三角関数に、「複素数の角度」を入れて「幾何学的意味なんて関係ねー。やりたいからやるんだ」というツッバシリ。そんな計算、何の役に立つのか、と問う者には「役に立つ」?貧乏くさい形容詞、使うな、と答えるか)。また、「それは極論のしすぎ、単純化のしすぎ、やりすぎ」とか言うのは「そんな遠い大陸に誰も用は、ない」というに等しく、今は用は、なくても、そこに大きな文化文明が栄える日が来ないとも限らない。

人はふだん道を歩きながら「歩き方を忘れて転んだらどうしよう」などと思わない――と言うと、あなたは、当たり前だ、と答えるかもしれない。しかし思わないこと、ないことを指摘するのは、無を見つめる者だけで、たいていの人は、だれかにそう言われて、初めて後追いするにすぎない。自分が考えていることを言葉にするのは比較的、容易だが、自分が考えていないこと(「歩き方を忘れて転んだらどうしよう」とは思ってない)を言語化するのには、ある種の「奇妙」な感覚が必要で、なぜそう思いつくのか、と言われても従来の言語では説明しにくいだろう(だって「とは考えていない」なら、無限に言える可能性があるのだから、無限のなかから任意のひとつをどうやって選ぶのかという「選択公理」の問題にもなろう)。

じつは、選択、確定というのは、でたらめ、に通じる。――無限個あるなかから、よりどりみどり、どれでもいいからテキトーに一個選びなさい、というのは、ある意味、すごく簡単なことだ。だって、どれだっていいんだもの。それこそテキトーに選べばいい。そう思えるはずだ。では、「でたらめなメロディでいいから、でたらめな曲を即興演奏しなさい」も簡単か、というと、これも「無限個にある旋律の進行の可能性のなかから、つねにある瞬間において一個だけをテキトーに選んでゆくだけ」なのだが、体質によっては、あまりデタラメをつづけられない人もいるだろう。

再現部:第一主題、第二主題

たぶん、これらは、自分のことを語りすぎ、人間のことばでいう自己主張に見えるかもしれない。けれど「わたし」の話をするのには二通りの場合がある。ひとつは、おなじみ、それは「わたし」の視点だ、と主張する場合。もうひとつは、今は意味不明で無用の空論に思えるだろうけれど、「それはわたしの視点では、ないのだ」ということを、在来のパラダイムに対して説きつける場合なのである。だから、何度も言うように、このパラダイムが認知されれば、もう「わたし」は見えなくて良くなってしまう。単に在来のパラダイムとの相対的関係において、「わたし」の意味が論点になっているにすぎない。

そして、人間の在来言語では、存在しないものについて語るのは、たいへん難しい。存在しない、ということを言い表す動詞すらなく、「好き」というかわりに「嫌っていない」というまどろっこしい表現をせざるを得ない。で、あなたがたといえば、わたしが「嫌い」の話をしている、としか思えない。「好き」という概念がないのだから仕方ないけれど、歯がゆいことだ。

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風の妖精たち

2001年 4月 2日
記事ID d10402a

「鳥は歌うことを知っている そのため鳥は世界に気づかない」

距離

「友だちがいっぱいいて楽しい←→だれも友だちがいなくて寂しい」という従来のパースペクティブによる用語法は、インターネットのトポロジーとは整合しない。例えば、このサイトを定期的に読んでる人のかなりが(全員じゃないとしても)、昔でいえば友情めいた、今でいえば共感めいたものを感じているかもしれない。また、書き手の側でも、基本的に親しい友だちに話しかける調子で書いている(実際には nobody にむかって話しているとしても)。これは従来からみると変てこなトポロジーだ。まったく知らない「遠い」場所と、心理的な魂レベルの「近い」距離が等しい距離になるような距離空間だ。

これは物理的距離と無関係な、心理的距離で、物理的に出会わなくても心理的に出会えるのだ、と、ことばにしてしまえば、明白だろう。

「ネット友だち」という概念は、実際には、「友だち」という概念を継承したうえで「ネット上の」と限定しているのでなく、在来の「友だち」と大幅にシニフィエが異なっている。しかし、「友だち」という同じシニファンを使っているので(メル友とか)、しばしば混乱の原因になる。そのあげく、オフ会で会って顔を見て酒を飲まないと「ホント」の人間関係が成り立たない、などと原始人の主張を始めたりする。相手の顔はおろか、肌の色も性別も年齢も職業も関係なく、知る必要もない(より強く、興味を持つべきでない、と言うべきか)。ただ「感じ方」「ものの見方」の深い部分でせめぎあいながらもひかれたり、強くひかれながらも反発してみせたりするにすぎない。

ここでも「賛成か反対か」という従来のパースペクティブは意味があいまいで、ネット上では「相互作用するか、しないか」という構造を入れたほうが分かりやすい。しかも、この相互作用は単純な作用反作用でないところがおもしろく、天体力学に似ている。――例えば、ある読者層というのがあって、この人々はアサヒコムならアサヒコムを定期的に読み、そしてあらさがしをするならわしだったりする。ところが、あらさがしが目的であれ、攻撃が目的であれ、定期的に巡回してる、という時点で、すでに相手の重力圏の支配を受けてることは明らかだ。無視できなくなっているのだ。

アサヒコムの側では、そうした小さな個人サイト群を定期的に巡回するわけもなく、むこうが勝手にこちらを定期購読して、みじめに遠吠えしているにすぎない。

惑星と衛星の関係に似ている。通常、衛星が惑星のまわりを回ることになっているが、実際には、惑星の側も微弱ながら衛星の重力をうけ、両者の共通重心のまわりを両者とも運動している、のだ。つまり、アサヒコムにしても、あんまり同じような声があちこちで出ていると、多少、影響を受けて軌道修正したり、さらに調子に乗ったりもするであろう。記者たちは、リファーの先になにが書かれているか、けっこう気にしているに違いない。このフィードバックも、フィードバックの反映も、物理時代に比べて、なまなましく、鋭敏になっているに違いない。

西風の見たもの

好奇心につきうごかされ、興味津々(しんしん)と書きまくり、そして、書いたそばから読み飽きてしまう。暴風のなかにいる気球は、つねに無風状態だ。風の妖精シルフィードこそ、唯一、風を知らないいのちであった。永遠に。

この世で風を知らない唯一の存在は、風の精霊たちであった。

Something which makes you somehow uneasy

Maybe you don't know the reason why I make you uneasy, unless you yourself are an explorer -- or, rather, you don't want to know the true reason.

Because that is not easy. Never.

A way to go is a way to go. If we should, then we shall. Maybe I can't complete the work, but you will go on. Will there be the end of our adventure? I don't think so. Somebody must go on. Day by day, we have a new "today." And -- you will have found a new path to explorer before you have completed the old one. What is unknown is something that always makes me thrill - sometimes sad but that is sadness which I would call modestly "happiness". You know I am so medest that I am as arrogant as a cat. Only hip cats that are modestly realistic are really ambitious, not just fancying.

(Cats are nervous too. Not just being arrogant, they are delicate in a way.)

To connect two worlds into one. To make fancies touch to reality.

So, let us be so realistic we can talk about the Fairyland. Did I make myself clear? No. I know I didn't. That's why I am always smiling -- because of the reason which nobody knows. If only you too were Nobody....

But the formula is so simple. Fairies are so realistic -- too realistic to be. That's why you call us "Sur-realistic". Sur means "super" in French you know -- very very real -- too real to be in the "usual" reality, or, in other words, a fairy is elemental being -- your kernel. Very basic and higher than anything else. Connect the two -- fairy magic more fairy-fine than words can describe -- what is truer than anything else is yourself -- the elf of yours ... "Truer" -- is this a right expression? Is "more true" the one? Who cares! How I talk is my grammar; grammar should obey me, not vice versa!

You call me a nut? Maybe you have touched the kernel of this story.... The only being that can -- and should -- be your kernel is yourself -- or maybe not, maybe it is not you -- it is something which is called a spirit or something which is called the space -- but I call it "Self".

Me? ... it is not me ... or ... it may be me ... who ... or what ... is my self? I wonder... I really don't know and -- what's more -- I'm not interested in that oldest and newest question; for that is not so important as what is produced by my self.

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日本生命、2ch掲示板を訴える

2001年 4月 2日
記事ID d10402

悲哀 - 「あなた方は仕事しているのですか? こんなところで投稿して、私たちが一生懸命お客さまに、接しているのにここで何しているのですか? ここで無駄愚痴たたく暇があったら仕事して売上上げなさい。私の勤めている保険会社の人間も、投稿しているのだろうけど情けない。今、我々の業界は大変な時期になっていることをしっているでしょう。若い子供達に言っても仕方ないのかも知れないけれど、でも保険会社の置かれている環境を分ってほしい。

裁判所からの通知

↑こういうのが来ても要するにカキコを削除するか掲示板のURLを変えればいいや、ということで。むしろ「あの有名な消されたカキコ」とかえって知れ渡るのがネットの鉄則と思うが……。書記官さんも、なんかめんどくさそうな筆跡ですねぇ(テンプレート入れておいてタイプ入力すればいいのに)。いやいや日本生命さんは悪くないでしょう、日生に限らず、すべての個人、法人は、じんそくな裁判を受ける権利がある、これは正当な権利の行使なわけで、裁判所は、いかにくそ忙しいからとて、めんどくさがっては、いけないのです。自分につごうが悪いことをもみけそうと努力するのは人間の常識で、こういうごたごたを解決するのが裁判所のお仕事……。

これが「偽春菜たん事件」だったら、ますますめんどくさそうな筆跡になるであろう。

まぁ、あなたが公認エスパーだったり、よほどの落ち度があれば、回避義務違反とか管理責任とか言われるかもしれないけど、通常、どんな激烈な内容だとて、要するに「当駅が善意で設置している伝言板にだれかが勝手に落書きした」のであって、まさか伝言板を設置する自由までは、つぶせないだろうし。無理に折ろうとすると、かえって花粉が飛び散る気もするが……。

問題のスレッド飛び散った何かそれともこのスレか――情報には情報(実証的証拠)をもって戦うのが、今後の流れになるのでしょうか。名誉きそんだ取り消せとみだりに騒ぐばかりでは、(昔は、それで、ちからで通せても)これからの時代、かえって逆効果かも……ていうか、これ、真実でしょ(笑) 生命保険のような一般社会の関心事についての、公共の利害に関するなまなましい事実である以上、社会的名誉を傷つけられたとしても名誉きそんには問いようがないというか、問おうとすると「事実かデマか徹底検証」とかえって社会の注目が集まって、当事者としては、つごうわるいわけで……。実際、真実が言えちゃう、真実が広まるって怖いでしょう、だますことでやってきた人々にとっては。なんとか規制しようとどの国の政府も知恵をしぼっているけど、パンドラの箱は、すでにひらいてしまった。

こんな騒ぎにしなければ、まずだれも見ない板だと思うけど、これって、リスクマネージメントのプロとしての判断なのか、それともネットは保険業界にとっても未知数なのか。

しかし、この騒ぎに乗じて、日本生命のライバル連中も日生のイメージダウンをあおっているみたい。こしたんたん。日本生命だけが、とくに狡猾(こうかつ)って、わけでもないと思うけど……?

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