幼稚園の先生には若い方が多い。ベテランがとにかく少ない。それでどうなるのかというと、なかなか経験の蓄積が行われないことになる。私は、若い先生があまりに多いのはよいことだと思わない。ではなぜ若い先生が多いのか。Google検索「幼稚園 先生 若い 理由」をみると、若い先生を喜ぶ保護者の多いことがうかがえる。そうだったのか……。
精神的にキツイです。正直、小学校・中学校免許の授業は受けてきたのですが、幼児教育は何も分からないまま、幼稚園配属となりました。知らないことが多いので、担当の先生に当然質問して、どう動くのかを聞くのですが…。
「日本語も分からないの?」
「そんなこと聞くなんて、勉強してないって言ってるようなものよ」
とか、そういうことを、質問したら必ずそういったことが最後に付いてくるのですわ…。先生、私らのことが嫌いなのですか? 自分で判断をしないで下さい、勝手に判断して大変なことになったら困る、私らになんでも聞くようにして。…そう最初に言われたので、質問してるんですけど。それなのに
「そんなことも分からないの?勉強不足ね」
って言われたら、どうしたら良いのか分かりませーん!!
ん〜、これはけっこう基本的な問題だと思います。けれども、この手の問題は一度経験がないと正解がひらめかないものかもしれませんね。というわけで、僭越ながら私が回答を試みます。
ズバリ、正解は「どれほど嫌味をいわれ、叱られ、馬鹿にされても、決して質問を躊躇しない」です。
「さっきもいったでしょ」「何回同じこといわせるの」「日本語からやり直した方がいいわ」「ちょっとは頭を使いなさい」「私だって暇じゃないのよ」「アンタの面倒見てるだけが私の仕事じゃないの、わかる?」「よくそれで20数年も生きてこれたわね」「ほんと、役立たずなんだから」「そんなこともできないの」……どれだけいわれても、質問し続けてください。絶対の自信がつくまで、自分で勝手に判断してはいけません。
絶対の自信とは何か。「バカッなにやってるのよ! そんなことしたら***じゃないの! なんでそんなこともわからないの!」憤怒の表情で詰問する指導官に対して、うつむくことなく目を合わせてはっきりと自説を展開できることです。幼稚園の実習ではありませんが、指導官は話を聞いてくれない、という話をよく聞きます。しかしそれは、私が見る限り当然じゃないかと思われる場合がほとんどでした。うつむいて、自信のかけらもない消え入りそうな声で「……えっと、だって、それは」さっさと本題に入れ、と。それで本当に指導官の意見を粉砕する気があるのか、といいたい。
そのくせ、気のおけない仲間のところに帰ってきた途端に「何だよあいつはよー、人の意見を聞こうともせずに頭ごなしに怒鳴りつけやがって」とか言い出す。指導官の態度に反省すべき点があることは認めますが、お前も一回死んでこい、という話です。「俺、もう嫌だなー」「ま、ちょっと我慢すればあいつともおさらばだって。それまでテキトーにやり過ごそうぜー」なんてくだらないこといってるんじゃないよ、と。
なぜ、面と向かって反論できないのか。それは自信がないからです。勝ち目がないと思っているからです。何となく「本当は自分のほうが正しいんだけど、あいつが怖いからとりあえずあいつのやり方に従っておこう」だなんて考えている人が少なくありませんが、それはとんでもない勘違いです。自分を騙しているのです。本当は指導官の意見の方がスジが通っているのに、自分を騙して認めようとしていないだけなのです。「何かヘンだな」「それはおかしいと思う」という直感だけで反発しているから、底が浅いのです。ふらついているのです。勝てないのです。そう、うつむいているうちは勝てません。
だったらなぜ素直に「申し訳ありませんでした」といわないのか。せめて指導官の意見を真摯に受け止めようとしないのか。一生、負け犬でいたいならそれでもいい。しかし本気で、いつか指導官を乗り越えたい、自分も本物になりたいのなら、まず頭を下げることです。
多くの場合、効果的な反撃は相手の意見を努めて冷静に、愚直に分析するところからはじまります。分析する材料は貪欲に集めなければなりません。こけにされ、傷つけられ、踏みつけにされつつ、それでもわからないこと、疑問に思うことを質問するのです。「うるさい」「質問ばかりするな」そういわれても、「お願いします」「どうかお願いします」と頭を下げるのです。アホみたいな話ですが、これで勝てます。相手によっては、こうして頭を下げ続けるだけで勝てます。例えば「よくあるパターン:指導官の上司に気に入られる」が発動します。例えば「よくあるパターン:じつはけっこういいヤツかも」が発動します。
王道はもちろん、知識と経験を集約して、一点でいい、指導官と互角に渡りあう実力を養うことです。そして正面を向きあって意見をぶつけ合うことです。例えその場では負けたとしても、そのとき眼前には、新たなステージへの道が開けているはずです。
……とまあ、「何とか人生相談」みたいな調子のいいことを書いたわけですが、頭を下げ続けること、弱者連合でなれあわないこと、このあたりは重要です。つきあいは大切だからいくら愚痴をいいあってもよいのですが、心の底からなれあってしまうと、まずもってろくな結果になりません。テスト前に「全然勉強してないよー」とかいうのはいいのですが、本当に勉強しなかったらどうなるか、みなさんよくご存じのはずです。「あいつひどいよね〜」とか泣き言をこぼすのはいいのですが、現場へ向かったら気持ちを切り替えなくてはなりません。
あんな人にはなりたくない、そう思うのはよいのですが、しかし学ぶべきことはそれでもたくさんあるはずです。どこかで気分をすっきりとさせて、現場では絶対に負けないこと。大嫌いな指導官に頭を下げられる強い心を育て、鍛えてください。
ところで、幼稚園における教育実習の期間は短いですから、頭を下げているだけでついに指導官に勝つことなく終わってしまうかもしれません。それではあんまりにも悔しいかもしれませんので、ひとつヒントを差し上げます。参考になるかもしれません。
まず、子どもの様子をじっと観察します。仕事をしながら、じっと観察します。暇のあるときは、なおのこと真剣に集中して観察します。「よそ見してるんじゃないよ」と叱られたら、「すみません」と謝っておけばよいでしょう。にこにこせずに、大まじめな顔でいれば、あまりひどく叱られることもないと思います。そうしてしばらく観察していると、子どもの個性が見えてきます。心配なことがどんどん出てきます。それを順次、指導官に問うていってください。「**ちゃんには**する癖がありますね。それでさっき**なことになっていたのですが、注意した方がよいのでしょうか」というように、何か具体的な事象に引っ掛けて。
そしてしばらくすると、いつもと違う行動に出る子どもが必ず現れます。これは、そのまま報告すればけっこうです。「**ちゃんが**しています。ここ数日は**していたのですが、こうした変化はよくあることなのですか」
たいてい、こうした報告は空振りになります。しかし、平常の状態を知ること、変化を捉えていくことは、必ず大なり小なりの危機の予防に結実していくのです。よほど実力のある指導官なら、実習生の報告するような内容など全部気付いているかもしれません。しかしそうした方は、「変化に気付く」実習生の実力を認めます。実力の足りない指導官なら、「変化に気付く」実習生に驚かされる場面が必ず出てきます。毎日子どもを見て「わかった気になっている」ので、見落としが無数に生じているからです。新鮮な目で子どもを見ることができる実習生は、慣れていないがゆえにビギナーズラックにあずかることができます。
ひょっとすると、皮肉っぽく「凄いわね!」といわれるだけであしらわれてしまうかもしれません。けれども、指導官は心中で舌をまいているでしょう。小さいながらも、これでひとつ勝てるのではないでしょうか。
まあそんなこんなで、どうかくじけずに実習を乗り切ってください。
BBSにいろいろ書きましたので、興味のある方はどうぞ。
うまい説明、として各所で紹介されているそうなんだけれども、この説明は一見正しそうに見えて、そのじつ根本的なところが間違っています。でも、世の中たいていのことは、概ね正しくて(ある一定のレベルに達しない大多数の方にとっては)わかりやすい、しかし理不尽な説明がまかり通るようにできています。
なんだか羨ましいサイトのひとつ。追加される記事がことごとくどこかのサイトで話題になる。
つまり、追加される記事がことごとく面白いということ。じゃあなんで毎日の訪問者数が3桁どまりなんだろう。よくわからない。
ところでJOY祭は最大で4万7000人が関心を持ったわけですが、連邦の半分くらいなんだなあ、と考えるとなんだか……。にゃごろう村の頃に、ろじぱらの代打日記に応募したのが採用されて、1日に1300くらいカウンターが回ったことがありました。うひゃーと吃驚して、少しでも何とかしようというので山田大佐と相談して、てんやわんやの対応をしたのだけれども、今になってみるとあれはなんだったんだと思う。
一時期の当サイトは連日数千人が訪問していました。で、最初のうちは「どうしよう」とか思っていたのだけれど、数日たつと「割とどうでもいい」とか考え出して、あれこれが一段落してから少しずつ客足が落ちていく状況が3ヶ月半続く状況に、すっかり感覚が麻痺してしまいました。サイト全体のページビューを示しているカウンターの数字も、いつの間にやら60万ですか。なんだか遠いところにきちゃったなあ。
にゃごろう村の目標は常時1日100人の訪問客をえる、というものだったのですが、それをあっさり達成したときには脱力したのを覚えています。サイト批評サイトリンク集と宇治IN茶筒転載版、このふたつで余裕の1日200人達成でした。サイト作成から100日あまり。1日1ヒットからとんとんとーんとうまくいきました。まあ、記事が古びてきたせいか、最近はどちらのコンテンツも往時の人気には程遠い状況ですけれども。
私がサイトを維持し、備忘録を書いている理由、動機はいっぱいあります。だから、一つ二つの理由が失われてもこのサイトは続きます。ただ、ちょっとですね、足元を見つめなおしてみると、何だかなあと思うことがたくさんあるんです。書きたくない理由、サイトを続けたくない理由というのが、地味に増えてきました。これまでにも何度か、「わざわざお客さんを減らそうとする試み」をくりかえしてきたわけですが、今後段々そういった試みの頻度が増えていくかもしれません。しばらくせめぎあいが続きそうです。
余談。りそなの銀行員が給料を減らされるそうで、その奥さん方が「家計が苦しくなる」なんていっているのだけれども、それでも年収800万円、十分じゃないのかなあ。でも、やっぱり当人にとってはそういう話じゃないのでしょうね。
一字に登録してみました。ログインしてみたかったんですよね。それと、登録数100到達記念。これを機会に1ヶ月以上一字で活動していないサイトが削除されるそうなので、またガクッと登録サイトが減るようですが、それでも一瞬であれ100に達したのは嬉しいことです。
予想通りではあるが、頭の悪い人々が多過ぎる。これだから、これだからみんな情報公開なんてしたくないんだよ。よく勉強もしないで、むやみに怖い怖いというばかりなのだからね。情報公開して、しっかり消毒して、問題のフロアはそれでも念のために完全閉鎖しているというのに、ホテルにはキャンセルが相次ぐ。万全の対策をして、自信があるから名前を出していいといっているのに。正直者がバカをみるような世の中ではダメだ。
とにかく国は安全宣言を出した。一人の感染者も現れなかった。今こそ台湾人医師の利用した各施設経営者の英断を称え、情報公開を最終的に決定した厚生労働省の決断を支持しよう。その方法は? 公表対象となった各施設を優先して利用するのだ!
正直いって、風評被害は今後いよいよ深刻になるだろう。短期間での客足回復を期待する一部関係者の願い虚しく、いくつかの施設はこのまま倒産の危機さえ迎える公算が大きい。日本人の良識が問われる、なんて昨日は書いたけれども、そんなもの問うまでもない。日本人はいつも通りに、不勉強と公共心のなさ、リスクとの付き合い方の未成熟という恥を晒した。
もし万が一、山崎幹事長経由で生徒に感染者が出たら大問題になるのだろうね。でも国会見学くらいで感染するなら、山崎幹事長が中国で会って話をしてきた要人はみな感染していそうだ。マスクなしで話をしていたのだから(先日読んだ新聞の報道写真による)。この程度のリスクでわざわざ三重から東京まできておきながら、見学なしに帰るのか。東京には中国帰りのビジネスマンが多勢闊歩しているわけだが。その辺はどうなんだ。というか、こうやってリスク0を目指す大人の背中を見て育つ子どもがどんな大人に成長するか、想像するだけで頭が痛くなる。
三重の中学の決断を「バカじゃないの」という人が一定数いる今のうちに、何とか軌道修正できないものか。どんどん、どんどん世の中アホな方へ向かっているような気がする。リスク0といえば、先般の何が何でも反戦平和主義という発想の原点もそれだよなあ、と思った。
あっはっは。21世紀の謎。
とりあえず私の意見は、blockquote要素で囲んでおきますね(笑)>誰かさん 属性はてきとーに付けてくんなまし。
単純な理由ですよ。突っ込むよりも各自の日記・blog等でリンクしてくださった方が、相互的に有益な場合が多いんですね。アクセス数も増えますし。
以上。つーわけで、突っ込みたい方は、どしどしリンクしてくださいね(は〜と(苦笑))。お便りも募集中(苦笑)。
えーと。解説しますと、blockquote要素というのは、引用部分を意味します。自分で自分が今考えた意見を引用するとはこれいかに? 過去の自分の発言を引用するなら理解できますけれども。
blockquote要素の属性としてよく使われるのがcite属性です。<blockquote cite="URI">引用部分</blockquote>
として、引用元のURIを明示するために使われます。title属性を使えば、引用元文書のタイトルも明示できます。
IEのデフォルト表示設定では、blockquote要素は左右のmargin(外側余白)を広く取るという表現になっていますが、このあたりはソフトの種類によっていろいろ異なります。CSSで自分好みの表現にかえる方が、最近ようやく増えてきましたね。という話とは何の関係もないのですが、ネットゆらゆら拾い食い日記でいぬいぬふろっぐ
と表記されているのはどうかと思いました。
なるほど。それもそうだと思いました。店長は客の暴力を止める一方で、店員の教育もしなきゃいけないと。続いて紹介されている上に立つ人の態度の話、たいへん興味深いですね。
鳥野さんは教師を目指すようですから、こういった経験をちゃんと実践に活かしてほしいと思います。教師は、新卒でいきなり管理職の立場に立たされます。だから大変なのです。教師というのは(他の職業と同様に)ダメな人が少なくなくて、生徒Aと生徒Bに違うルールで指示を出すといったことを平気でやります。そしてクラスの規律がガタガタになり、学級崩壊へとつながっていくのです。
例えば給食で嫌いなものがある場合、どうするか。まともな教師は、最初に生徒から質問があったときに、クラス全体に対してルールを説明します。「一口だけ食べなさい。それ以上は、残してもかまいません」はっきりいって、重要なのはルールそのものではありません。一口でも二口でもいい。ルールを一貫させるということです。ある生徒には「全部食べろ」といい、別の生徒には「全然食べないでもいい」というからいけない。それぞれに事情があるのかもしれませんが、そうであるならば、その事情もクラス全体に説明して伝えなければなりません。
教師が場当たり的にルールを作っていけば、子どもは混乱します。例外だらけのルールの存在は、ルールがない(これからルールが作られる状態/暗黙の了解による支配体制)よりひどいのです。結局それは、教師自ら「みんな自分勝手に俺ルールを作っていい」といっているに等しいからです。前担任と違うルールを決めるのはかまいません。私はこう考える、ということでよいのです。しかし、その自分の考えを軽々にゆるがせにしてはならないということです。
ルールをきちんと管理することが、子どもにルールを守らせる場合の大前提となります。自分がルーズな管理(例外の場当たり的な乱発)をしていながら、「なぜ最近の子どもはルールを守れないんでしょうね」だなんていわないようにしてください。
いいがかりのような気がします。安全宣言というのは、感染拡大はありませんという意味。「検査しました。もう大丈夫です」
というのは安全宣言そのものなのですが、検査には大変な手間と時間がかかりますし、確実性もいまひとつ。おいそれとそんなことはいえません。それでも知事は会見で何かいわざるをえないわけで、なるべく早期に安全宣言を出せるようにしたい、という発言となるのです。
台湾人医師の大阪滞在日から無事に十日経ちましたね。安全宣言も出て、ホッと一安心というところです。
そういえば、都ホテルなどの名前が公表されたときに、産経新聞の複数の記事で繰り返し述べられていたことがあります。無闇にSARSを怖がって、いつまでも台湾人医師の宿泊したホテルなどの利用客が減ったままだと、今後の情報公開に支障をきたすだろう、と。なるほどと思いました。むしろ積極的に情報公開したホテルなどの姿勢を高く評価し、今後の客足増につなげていかねばなりません。日本人の良識が問われているのです。
いつもいつも、庶民は自分で自分の首を締めてきました。今回こそ、よい方向へ事態が収束していくことを願いたい。
そうなのかなー、とか思いつつ。
私の場合、なれあいをやっているサイトは面白いと思う。オフレポはたいてい好き。オフレポしか読まないサイトもあるくらいです。三等兵さんのサイトとか。(最近は三等兵さん周辺のサイトを読まないので、とうとうオフレポを読むこともなくなってしまいました)
顧問に怒られた。理由は、顧問を通さずに、パンフレットに載せる為の校長の言葉を貰ったから。学校の構造は良く分からない。今まで俺がそういう職務に就いていなかったのだから仕方ないと言ったら、これは言い逃れだろうか。(中略)社会人の方にお聞きしたい。先生の考えは、生きて行く上で邪魔になるかどうかを。
高校生にもなって幼いことをいうものだ。分不相応な責任を勝手に背負って、好き勝手やられたのでは上司はたまらない。「知らなかった」といっても責任を取るのは上司なんである。
顧問の先生は、生徒の行動に責任を負っている。部活動の一環として校長先生にアタックしたのであれば、その場で生じたすべての問題は顧問の先生が引き受けることになる。だから、顧問の先生は何をするにもまず自分に相談しろ、というわけだ。面倒くさいと思うだろうが、生徒が思い上がってはいけない。生徒の責任なんてものは、所詮は教育の一環として用意された擬似的なものだと考えておいた方がよい。何かあった場合、もちろん生徒は叱られるわけだが、それさえも教育の一環として用意された擬似的なイベントなのである。本当に叱られ、詰め腹を切らされるのは先生だけなのだ。
部下の不祥事は上司の責任である。朝日新聞の珊瑚事件では中間管理職をすっ飛ばして社長が辞任したことを思い出してほしい。そして日本の大臣はしょっちゅう首が飛ぶ。実際に失敗を犯すのは下っ端なのだが、責任を取るのは管理職なんである。「知りませんでした」ではすまされない。あんまり、顧問の先生を困らせないでやってほしいものだ。
念のために書いておくと、パンフレットの製作グループは校長の直轄組織ではない。顧問の先生が製作チーフの上司に入り、中間管理職の役割をはたす。生徒は校長のタイムスケジュールなども知らないわけで、顧問の先生の仕事にはそのあたりの調整も含まれているはずである。顧問の頭越しに勝手なことをやってはいけない。それは混乱の元となる。……と、ここまで書いておいてなんなのだが、しかし困ったことがある。加藤さんの記述から推察するに、顧問の頭越しに生徒が行動するのがなぜいけないことか、先生自身がよくわかっていないようだ。それがいけないことだという直感だけが正常に機能しているらしい。だから説得の論理が意味不明で、加藤さんの誤解と混乱を招いている。
酔っ払った会社員が終電を逃がして駅員に暴力をふるう、といった話はよくある。じつに理不尽な暴力だ。しかし暴行罪なんてのは、ひどく怪我をさせた場合でもなければ微罪だから、万引きと同様にいちいち逮捕なんてされやしない。傷害罪相当のひどい怪我を負わせるか、あるいは被害にあった駅員がひどく怒るかすれば逮捕もされうるが、稀なケースである。だから、JRの発表する暴力事件の件数と、警察の出動回数が大幅に食い違うこととなる。
街中を巡回中のパトカーが、あらゆる道路交通法違反を取り締まることがないように、警察官だってあらゆる暴力(の結果としての暴行罪)を取り締まるわけではない。そんなわけで、校内暴力やら家庭内暴力やらは、しばしば放置される。社会から暴力が徹底排除されない所以である。まあ、ホームドラマなんかでも暴力シーン(「バカヤロー」ボカッ)はちょくちょく現れるわけだが、被害者がいちいち警察を呼ぶこともなければ、もちろん加害者が逮捕されることも滅多にない。それがいいことなのかどうかは、判断の難しい問題だと思う。
さて、JOYさんは暴行犯(あるいは傷害犯だろうか)の一味だ。それなりの社会的制裁を受けて当然である。しかしながら、JOY祭はいささか尋常ならざる状況だといえる。よくある暴力事件が、なぜこれほど多くの人々によるバッシングを受けるのだろうか? それは、JOYさんが暴力をふるった理由が、あまりに世間様の常識とかけ離れていたからだ。常識外の理屈に起因する暴力的行為は、(それがよいものであれ悪いものであれ)理解できる暴力的行為よりもひどく社会に叩かれる。
JOYさんの関与した暴力事件は、微罪の類いだ。おそらく問題のお店も店員も(ひどく怪我をしていない限り)被害届を出していないだろう。よくある事件、そのまま何事もなかったように忘れ去られていく事件に過ぎなかったはずだ。この程度の暴力事件は、毎日毎日、全国で無数に起きている。全部、ちゃんと取り締まられるようなら、暴力的ないじめで自殺するような人はもっとずっと減っていくはずだ。
いじめを苦にして自殺した例をみていくと、何回も警察に相談していたというケースが散見される。打撲傷、あるいは骨折に至るようなひどい暴力事件であっても、加害者が逮捕されないことは少なくない。事情聴取、厳重注意、それで終わってしまうのだ。いや、警察が動けばまだいい。話だけ聞いてそれっきり、という話は枚挙に暇がない。
JOYさんがバッシングを受けることはよいことだ。これにビビって悪いことをする人が少しでも減ったらいいと思う。しかし、JOYさんたちの行為は本当に重大な犯罪なのか、JOYさんたちは特別に凶悪な粗暴犯なのか、JOYさんたちはなぜ特別にこれほど大きく叩かれるのか、それらは一考を要する問題だ。JOYさんの日記が、「酔っ払って店員に絡んで殴っちゃいました」だったらこれほど大騒ぎになったろうか。なったはずがない。JOYさんが日記に書いた暴行の理由があまりにあんまりだったから、こういう騒ぎになっている。
JOY祭のギャラリーには、自分は暴力行為に対して怒っているのだ、と勘違いしている人があまりにも多過ぎる。実際にはJOYさんたちの異常性に直感的な嫌悪感(のようなもの)を抱いて、それで猛烈なバッシングをしているのだ。理解できる暴力なら、こんなバッシングは起きていない。JOYさんを叩くのはいい。世の中のためにもなるだろう。だが、怒って叩いてあースッキリした、というだけで終わってしまうのは虚しい。
track backが普及すれば、コメントと自サイトでの言及は融合する方向へ向かうのではなかろうか。じつはgaiaxの掲示板がこれに近い機能を持っていたことを思い出す。よその掲示板への投稿が、自分の掲示板の記事にもなるというもの。投稿した記事が手許に残るから便利、といった説明がどこかにあったような気がするのだが……。(記憶違いかな)
2ちゃんねるなどでなにやら騒動が起きるたびに思うのが、「誰かいいまとめページを作ってくれないかなー」ということ。面白そうではあるのだけれど、スレのログを読むのは正直かったるいのだ。でもたいていの場合、誰もまとめページを作ってくれない。数千人が関心を持っているのに、たった一人のボランティアがなかなか現れないということ。
JOY祭というのが盛り上がっているそうだけれども、ちょっと見たところあんまりにもスレのログが多いので私はパスすることにした。そうしてボケーっと待っていたら、幸い今回は2つのまとめページが作られた。先行したのは想太さん。人気ニュースサイトの管理人らしく、さすがに手馴れたもの。そして後発がはいから日記のラムネさんなのである。意外というか、こういう方が不意に現れてまとめページを作るというのは不思議な感じがする。
想太さんのまとめページの方に、掲示板でのJOYさんの発言(らしきもの)がまとめられているのだけれども、異端分子に対する社会的制裁というものをわかっていない方ってのは多いというか、自分が社会的制裁を受けると「理不尽だ!」としか思えないものなのだなあ、やっぱり。……なんてことを思った。JOYさん一家の理不尽な暴力も、パナウェーブの道路交通法違反も微罪だけれども、どちらも「変なヤツラ」だったから猛烈にバッシングされることになった。JOYさんはこういった、いまの日本の社会の構図に気付くだろうか? それとも、何も気付かず、単に2ちゃんねるは最低! といい続けるのだろうか。
私はもちろん、JOYさんは(これまでは自分が攻撃側に立っていた)社会的制裁の構図には気付かないと予想する。ところで、掲示板での発言が本物だとすると、JOYさんは馬鹿な人だと思った。怖いもの見たさの好奇心を押さえきれないのだろうけれど、自制心を働かせて、さっさとサイトを削除してパソコンの電源を落とせばいいものを。すでに議論の段階は過ぎて、制裁が加えられている状況なのだから、自説を展開しようとしたってダメなのだ。パナウェーブの主張を誰がまともに取り合ってくれたろう?
余談。「2ちゃんねるは最低!」はずいぶん人気を集めた。ゆうたさんは凄い。釣りページの専門家らしいけれども、いやはや。こういうヒットサイトが登場すると、2ちゃんねるでうまいことすればアクセスアップなんて簡単だ、と思う人が多勢現れる。だがそれは勘違いだ。あなたには(当然、私にも)ゆうたさんの真似はできない。それだけは覚えておいた方がいい。
せっかくだから、JOY騒動の発端となった事件そのものへの感想も書き留めておきます。
- 2003年05月18日(日) 短気な家系!?
前略
夕方、弟夫婦を呼んで居酒屋で食事。小さいのが二人もいたらお座敷でないと大変なので個室を予約してから行きました。
ひさびさに会う姪っ子は人の顔をジーっと覗き込んではニヤッ。ちっとも人見知りをしないのに日向はちょっと恥ずかしがっていました。
そのうち子供たちが食事に飽きはじめ、店内をちょろちょろ走り回って遊んでいて私たちも帰ろうか…と荷物をまとめ始めたとき、舞衣が「さっき親のしつけが悪いって言ってた」というのでヒデと目くばせをして「誰が?」と聞くと「お店の人」とのこと。
舞衣の手を引っ張り、ホールに出て「どの人だった?」と聞くと私の様子がおかしいと気づいたのか「ほくろのある人だけどよく覚えてない」と言いました。
「はっきり言いなさい!」と言うと泣きそうになりながら一人の若い男の子を指差しました。その人のところへ行って「お前、うちの子たちが走り回ってるのを見て親のしつけがどうとか言ったんだって?」と言うと「いえ、言ってません」というので舞衣に「こいつなんでしょ?」と聞くと目をこすりながら「わかんない」と、怒られたときのようにしゅんとしてしまいました。
弟たちも奥の部屋から出て来て、「どうした?」と言うので説明すると「なにぃ?」と飛んできて「従業員全員並べろ!!」と大騒ぎ。もう一度舞衣のそばに行き「お店のためにもきちんと言わないといけないからこの中の誰が言ったのかちゃんと言いなさい」と説得したらやはりその人だと言いました。
頭をなでながら「先に出ていなさい」と外に出し、そいつの胸ぐらをつかんで「やっぱりテメーが言ったんじゃねーか!!」と言うと「すいません!!」と蚊の鳴きそうな声を出していました。
殴ろうと思ったら弟が横からやってきてボカッ!バコッ!!
少しするとヒデも出てきてまたもやバキッ!ボカッ!バコッ!!
「アタシらがしつけの悪い親だよ!!」と言うと「すいません、すいません!!」と泣きそうな顔で謝り、ガタガタ震えていました。
殴るヒデの手を止めようとする店長の手を押さえ、「店のためだよ」とワタシが言うとすんなり手を引っ込めたということは殴られても仕方がないなと店長も思ったのでしょう。
ヒデは店長にも「お前んところは従業員にこういうことを平気で言うような教育をしているのか!と怒鳴りまくり。かなり大暴れしてしまいました。
いくら親のしつけが悪いと思ってもサービス業に就いている限り、心で思うのは勝手ですが絶対に口に出すものではないと思います。一円でもお店に利益をもたらした時点で私たちはお客様です。もちろん日向たちのような小さい子でもお客様であることに変わりないと思います。たとえ従業員同士でこっそり言っていても私たちの耳に入った以上、なかったことにすることは出来ません。
しかも2歳前後の子供にどうしつけをすれば走り回ったりせずおとなしく席についていることの出来る子供に育つのでしょうか?
ケンカっ早い私たちに向けてそういう言葉を発した彼には気の毒かもしれませんが、殴られて当然だと思います。親に向かって最大の侮辱だと思いました。
ひょっとしたらほかの解決法もあったかもしれませんがマナーを破った相手の人に対して謝罪の言葉だけで許すことはとてもムリでした。
帰りがけにヒデが言いました「なんでお前はそう気が短いんだ」・・・アタシか?(-_-:)
ちっ!殴り損ねたじゃん!と思っていたの、分かっちゃった?
大体これは店長が悪い。「営業マンは断ることを覚えなさい 経営者は断れるしくみを作りなさい」という面白い本があるけれども、今回の件も本のタイトル通りの発想で予防できる。いらん客にはお引き取り願う方が、土下座営業よりうまくいく。店員が一列に並べられてボコられるのを放置するような店長はダメだ。子どもが走っているのを注意してはいけない店、注意すると一列に並べられてボコられる店、ひどいもんだ。
どこかはしらないけれども、この某居酒屋は、店長を中心に一丸となって理不尽な要求を断固として撥ね付けるべきだった。店が訴えればなんとやら、という意見が出ているけれども、日記にある状況の通りだとすれば、(法的に云々という話ではなく、実際問題として)店がJOYさん一家を訴えられるわけもなく。ダメ店長の元で働く従業員の哀れ、ここにきわまれり、といったところ。
この件の救いは、とんでもないダメ親に育てられているというのに、舞衣という女の子がまともな性格をしているということ。店員さんの危機を察した少女は、なんとか自分の失言を帳消しにしようと頑張る。そのいじらしさには胸を打たれる思いがするが、その様子を克明に記すJOYさんはとうとう娘の気持ちに気付かなかった。気付いたからといってその後の行動は変わるまいが、しかし、気付いてさえいない(ように見える)のはさすがに悲しい。人は自分の見たいものしか見えないというが、しかし……。(補注:2歳なのは弟の日向。姉の舞衣は小学生。ちなみにこの情報はJOYさんがかつてWWWに公開していたもの)
そういえば私はちっとも正かなを使わない。そのうちに、とかいいつつずるずると今日にいたっている。
相手に馬鹿って言う為には自分がそいつより「馬鹿でない」という事実が必要なわけであって、
というフレーズに反応してみます。当サイトの古くからの読者にとっては新味のない話になりますが。……と書いたところで、ふと気になって最近の更新を読み返してみました。なんだかガッカリ。この備忘録はそろそろ、同じ話題の繰り返しばっかりになりつつあるようです。私のとくに主張したいことというのは、既に一通り提出してしまったようです。
一流の野球選手、必ずしも一流の野球評論家ならず。一流の音楽家、必ずしも一流の音楽評論家ならず。一流の経営者、必ずしも一流の経営コンサルタントならず。一流の政治家、必ずしも一流の政治評論家ならず。一流の軍人、必ずしも一流の軍事評論家ならず。いずれも、その逆もしかり。意見する人というのは、あくまでも意見が素晴らしければそれでいいのであって、意見する内容について自分自身が相手以上にうまくできる必要などありません。
以上を踏まえて。
政治家を馬鹿にし、批判しまくる庶民は多いわけですが、ぶつぶついっている人々の99%以上はどんなに頑張っても政治家にはなれません。もしなったとしても、やっぱり庶民に馬鹿にされ、批判されまくる程度のことしかできないでしょう。だからといって、庶民は政治家を馬鹿にしたり、批判しまくったりしてはいけないのでしょうか? いや、政治家はプロだからいいんだ? それは違います。相手が素人であっても話は同じです。
町内会長というのはボランティアです。仕事ばかりたくさんあって、報酬はまったくありません。それでも、毎年誰かが、例えば私の父のような冴えない窓際族のサラリーマンが職責を負うわけです。しかし、面倒を引き受けてくれるだけでありがたいと住民が思ってくれるかというと、そんなことはありません。父のもとにはつまらない苦情や批判がひっきりなしに押し寄せてきました。父は「力不足で申し訳ない」というばかりでしたが、さて、住民の行動として正しいのは、文句をいわないことなのでしょうか?
政治の話を離れて、社員旅行の余興について。一発芸、やります! などといって見事に滑る人がいます。当然、つっこみが入るわけですが、「おいおい、勘弁してくれよ〜」なんていっている人が、もっと凄い一発芸ができるかといえば、そんなことはありません。つっこみを入れることしかできない、という場合が少なくないのです。じゃあ、そういう人はつっこみを入れるべきではないのでしょうか?
自分の方が馬鹿であっても、人を馬鹿だということはできます。少なくとも、自分の方が馬鹿だから相手に馬鹿といってはいけない、というのはおかしい。自分の方が馬鹿であっても、相手に馬鹿といっていい場合もありうるのではありませんか。というか、自分の方が馬鹿か賢いかということは、相手に馬鹿といっていいかどうかの判断基準とならない場合が多いだろうと思います。
話が通じていないので、もう一度、整理して書き直します。
実際に法に訴えるのは、よほど圧倒的に勝つ(そしてたんまりと見返りがある)見込みのない限り、訴える側にとってもいい話ではありません。したがって、「訴えるぞ」という脅しはほとんどの場合、脅しになりません。「どうぞご自由に」と答えれば、相手はたまらずWeb上で(あるいはメールで)議論を吹っかけてくるでしょう。本気で法廷闘争に持ち込むつもりがない以上、脅しが通じなければ、議論で相手を説き伏せる以外に自分の不利益を排除する方法がないからです。
もちろん、賢い相手は話の通じやすいサーバ屋などに話を持っていきますから注意が必要です。議論の相手は自分だけだと思ってたかをくくっていると、いざとなってから慌てることになります。WWWにおける無断転載や名誉毀損といった問題を最も簡単に解決する方法は、サーバの利用規約を活用することです。それは知っておかねばなりません。(だから無法を咎められたら、基本的にはオシマイです)
ようするに私が申し上げていることは、軽々に発せられた「訴えるぞ」という脅し文句など、無視すればよいということです。ただそれだけで、お望みの議論がはじまります。あるいは逆に相手の方が折れて、問題が解消されます。しかしながら、実際に訴えられた場合にまったく勝ち目がなさそうな局面では、相手が本気かどうかによらず、素直に要求を受け入れる方が処世術としては正解に近いでしょう。とにかく、相手の脅し通り本当に裁判になるかどうか、容易に想像のつくことがほとんどなのであって、それをいちいち真に受けて怖がるのは愚かなことです。
簡単に「訴えるぞ」というバカを増やしているのは、じつはこうした簡単に「怖がる」人があまりにも多いから(というのがひとつの理由)です。もうちょっとみんなが頭を使えば、つまらない言葉のエスカレートも減るだろうにと思われてなりません。暴力に屈する人がいるから暴力が蔓延するという構図があるのです。暴力をふるう人だけを責めていても気休めにしかなりません。暴力をふるう側には(前回の更新で書いたような)「理由」があるからです。暴力が有効である限り、暴力はなくなりません。だから大切なのは、暴力に対抗する手段を、まず自分が持つことではないでしょうか。
腕力の強い人がボスになる、小学生レベルでとどまっていてはいけません。なぜ中学、高校、社会人と進むにつれて、暴力が力を失っていくのか。それは、暴力を相対的に低く見積もる価値観が、各人の中に育つからではないでしょうか。少なくとも、ガキ大将を先生が叱るから、ではないことは明らかです。「訴えてやる」問題解決への道も、同様だと思うわけです。
「馬鹿」と「大物」は排反事象である、という説。まあそういう説があってもいいのだけれど、一般的ならざる言葉の定義だとは思う。説明なしに通じる可能性は低いのではないか。私は、「馬鹿な大物」あるいは「大物だが馬鹿」といったフレーズに違和感がない。私はてっきり、「大物」の定義が争点になるのかと思っていたので、ナミさんは「馬鹿」だから「大物」ではない、というロジックには驚かされた。
それはともかくとして、はる 『文中リンクありがとうございます。これからも文中リンクで馴れ合っていけるといいですね。』
というコメントには笑った。はるさんのしたたかなポジティブ志向は興味深い。
もちろん、法に訴えても裁判という形で公正は担保されるはずだから、訴えることが脅しになるとは限らないはずなのだが、現実には訴えられることそのものが不利益になる場合というのはつねにある。
だから、法に訴える、と軽々に口にするのはよくない、とおっしゃりたいようなのだけれども、私は意見を異にします。なぜ法に訴えるぞ、という脅しが人気を博すようになったかといえば、伝統的な道徳観念が価値の多様化とともに力を失いつつあり、その一方で新しい価値観からある種の無法が堂々と行われるようになりつつあるという状況があるから(というのがひとつの理由)です。話し合いの前提条件、つまり議論の結果をどのような観点から整理し、評価していくかというルールを決めることさえ困難な局面が増えつつあるのです。
法に訴えることで、議論の評価軸を法解釈の問題、あるいは法律とどう向き合うのが社会にとって最善か、という問題に収斂させることができますが、混乱した現場を整理するのに、これ以上の方法はないのが実際のところでしょう。訴えることが脅しになるのは、実際のところ勝ち目がないことを自覚しているからであって、であれば話し合いと称する欺瞞を演じることなくさっさと身を引いてしまった方がよいのではありませんか。理のない者が相手をやりこめることに成功すれば、ろくな結果が待っていないことは目に見えています。
裁判が利益になるのは「バッチリ勝てる」人だけで、そうでもなければ誰が勝っても三方一両損あるいは三方大損にしかなりません。「訴えてやる」という言葉をわけもなく怖れるのではなく、よくよく状況を見て相手の言葉を値踏みするしたたかさを養うことが大切ではないでしょうか。「訴えてやる!」「わかりました、続きは法廷で話し合いましょう」「え!?」となるケースは少なくないはずです。
「訴えてやる」だなんて軽々にいうな、と主張すること自体はよいとしても、それだけいって満ち足りては何の利益にもなりません。「訴えてやる」という人はどうせ後を絶たないのです。したがって大切なのは、訴えることが脅しになるとは限らない
と、よく認識することです。私はそこに1項の処世術を付け加えます。「訴えることが脅しになるケースでは、素直に逃げる方がよい」
さて、今回の話題の発端となっているケースについてですが、私ならこう対応するでしょう。
ところで、Longhorn.NETの管理人氏、日記ではこんなことを書いています。
それにしても最近Longhornの最新版リークされないですね。MS怒っちゃったかな〜。そんな固いこと言わずに漏らしてくれればいいのに・・・。いくらでもテストするよ〜。なんて・・・。まぁMSも最近、リークには神経を尖らせてきたのは事実だけど、Appleみたいな秘密主義になっちゃぁ困る・・・。彼らは少しでも情報を漏らすと、首だからなぁ〜。だから毎年のMacWorldまで誰も新製品のことを知らないんですよね〜。MSはでかい組織だからそこまでは出来ないと思うけど、お願いだから秘密主義だけはやめてね、MSさん!
ところが、Build 4008のレビュー記事が3分の1回しか完成しないうちにBuild 4015が登場しているのはどういうことでしょうか。サイドバーに関しては次回詳しく解説するが、ぶちゃけ使いにくい…
といいっ放しにしている問題は? それでももちろん、自分に対する不当な発言に対して不満を表明するのは自由です。しかしながら、このような状況では、些細な発言に対して法的手段に訴えるといっても、かえって笑われることも多いでしょう。相当数の方々には効果抜群なのかもしれませんが。
おまけ情報。Longhorn.NETで疑問点とされている3Dインターフェースですが、じつはLonghornのインターフェースには3種のモードが用意されているのです。(参考:グラフィックス機能を大幅に強化した次期デスクトップOS「Longhorn」を初披露)
朝日新聞は反台湾。
備忘録でやらないと、ついつい忘れてしまうから。私は巡回先のログに必ずしも固執しないけれども、小林のウェブサイトの場合、私がまだ関心を失っていない記事を消すので不安に思ってログをとることにしたわけです。ログがどんどん消えていくサイトといえばろじぱらが有名だけれども、私はろじぱらのログはとっていません。半年経つうちに古い記事への関心を失うからです。
オーサーの作った幅/文字サイズ固定なスタイルで見るか
昔の闇黒日記のようなスタイルで見るかの二者択一というのは、 Web ページにおいてのユーザビリティだとかユニバーサルデザインだとかの偽善的な思想の否定と言えますが、その二者択一という選択を可能にしている基盤技術もまたアクセシビリティだとかの偽善的な思想に支えられており、我彼の違いは結局、どこまで矛盾を許容するかという点での程度の差でしかないと言えるでしょう。
いや、二者択一とは限りませんよ。文字サイズだけをユーザの自由にするのは、そう難しい話ではありません。MozillaやOperaならふつうに文字サイズの設定からできますし、WinIEならWebページで指定されたフォントサイズを使用しない
という機能が用意されています。それらを利用すれば、レイアウトは製作者の意図通りで、文字サイズだけは閲覧者の自由に変更することができます。
幅固定の方はちょっと厳しい。これは多くの場合、レイアウトに関わってきます。これを解除するとなると大幅にページの見た目が変わることが少なくないでしょう。でも、マルチカラムデザインがシングルカラムデザイン(?)に変わるくらいのことですから、レイアウト以外の部分(見出しのボーダーとか)の装飾は製作者の用意したものを利用できます。
Operaのユーザモードはひとつの究極であって、一足とびにそこまで行くかどうかは閲覧者の自由。そうまでしないというのも一手だと思います。
私は、WinIEを使う場合にも、フォントスタイルとフォントサイズの指定を必ず解除しています。文字サイズの小さいのが好みなので、いつも文字サイズ設定は最小にしているのですが、そうするととくにさとみかん登録サイトで文字サイズが小さくなりすぎるケースに多々遭遇します。あとはダークマター。すみけんリソースは逆に文字が大きすぎる。サイトごとに文字サイズを大小するのは面倒で付き合いきれないから、文字サイズの指定は解除します。h5要素やh6要素の文字はかえって小さくなってしまうわけだけれども、ユーザスタイルシートでフォローすればOK。あるいは、そんな下位見出しは字が小さくて読めなくても知ったことではない、といってしまう手もないではない。
ようするに私がいいたいことは、文字サイズも幅も、固定したって問題にならないということ。仕様上、OKとなっているのは、たまたまではない。問題ないからOKとなっているのです。というわけで、文字サイズ固定サイトをいじめるのはよしたらいい。それよりか、box-sizingとかの方がよほどどうしようもない。
企業サイトならお客様はどんなにバカヤロウでも神様なのかもしれませんが、趣味のサイトならお客様にもちょっとはお勉強していただいて、お互いハッピーになっていく方がよいでしょう。文字サイズ固定の解除方法を知ることは、お客様にとって決して無駄になりません。いつまでたっても、WWWから、文字の大きすぎるサイト、小さすぎるサイト、配色が変で文字が読めないサイトなどは絶対になくならないわけで、だったら閲覧者の側で対処するほうが確実に決まっているのです。製作者にブーたれて、解決されない問題にイライラする時間を他のことに使えるというのは、たいへんよい話だと思います。
テレビのお笑いがコントではなくてバラエティーに偏重している理由は、視聴率なしじゃあテレビ局は運営できないからです。ダウンタウンのコント番組が昨年だか一昨年だかに一夜限りの復活スペシャルをやりましたが、たしか10%に届かなかったんじゃなかったかな。私は夕飯食べながらそれを見ていて、非常に面白いと思ったんだけれども、やっぱり数百万人に受けたってダメなんですね。数千万人が求めるのがバラエティー番組だというのだから、テレビ局はバラエティー番組を作るしかない。
日本のテレビ報道は幼稚だということはずっと昔からいわれてきて、70年代にはポール・ボネ「不思議の国ニッポン」なんかでも散々コケにされているのだけれども、これだって「記者さんも商売だからさー」の一言で説明がつく。
話をお笑いに戻すと、テレビ局はふつうスタジオ観覧席に1万円の値をつけて売ったりはしない。ちゃんとお金を取って人を集めているのは、やっぱりコント中心のライブだ。おそらくは、テレビという広告収入で成り立つ無料媒体で人気を得るにはバラエティーの方が向いている、というだけの話に過ぎない。
しかしまあ、あれだね。松本人志と松たか子の納税額がほぼ同じだとは吃驚だ。浜崎あゆみがその4倍近いというのも意外。宇多田ヒカルだって3.5倍だから凄い。松井秀喜が2.7倍、僅差でこれをかわしたのが竹村健一。アメリカに土地を買って儲けたそうだ。評論家の鏡。明石屋さんまは0.9倍、村上春樹にちょっと負けている。その上にいるのが内田康夫、宮部みゆき、西村京太郎。宮部と西村はそれぞれ1.3倍と1.7倍だ。
国会議員のトップは中村正三郎で2倍弱、2位はガクッと落ちて1.1倍にしかならない。議員なんてのは大して金持ってないんだよね、いや、実際。金丸さんの金塊だって、あれは派閥の若いもんに配る選挙資金だったわけで。森さんの住んでたマンションはサラリーマンも使ってるようなものだったし、国松警察庁長官もふつうの場所に住んでいた。井上裕前参院議長は母校の先輩だけれども、田舎の中企業役員と軒先を並べている。かりにも三権の一角の長だった人物なのに。
日本も、フランスやイギリスみたいに貴族階級と労働者階級を分けたほうがいいのと違うか。あるいは、アメリカみたいに成り金と貧乏人を峻別するとか。日本一、税金を納めたという人でもたったの17億円。日本には金持ちがいない。まあ、多数決で政治をやっていけばそういう社会になりますよね。でも、それでいいのかなー。いいのかもしらんけど。
要するに言いたい事は一点。バラエティ番組偏重、フリートーク偏重のお笑い界の風潮をなんとかしろ。そのためにもお笑い好きは1本ネタで彼らが食っていけるように惜しみなく金を注ぎ込まねばならない。CMスポンサーがお笑いに金を払う構図を、末端のユーザーが彼らに直接金を払う構図に変えなくてはならない。だからさまぁ〜ずのDVD-BOXを買え。僕は買った。ちょ、ちょっと高かったけどな……。
ちゃんと自分の懐を痛める方向へと話を持っていくあたり、さすがアニさん、只者ではない。私も好きな作家の本は新刊で買いますよ。
私はけっこうあちこちに寄付をするのだけれども、具体的には日本折紙学会の賛助会員、千葉県立中央博物館の賛助会員、**高等学校同窓会の賛助会員、**町内会合同清掃クラブの賛助会員、とかそういったのが大半です。大学の同窓会も賛助していたっけか。会社の持ち株会はどうしようかなー。賛助しても見返りなんてないんですけれども、まあ毎年一定の人数が賛助しないと会自体が存続できないですからね。
この備忘録、無駄に長いことではなかなかのものですが、もちろんこんなのはまだまだ甘いわけです。コンスタントに呆れるほど長い更新を続けているサイトといえば、カトゆー家断絶なんかがすぐに思い浮かびます。セレクトされたニュースを全部読むだけで時間がどんどん消えてゆく。(だから、というわけではありませんが、私は自分の記事がリンクされたとき以外は個人ニュース系サイトってのは基本的に見ません)
大手ニュース系サイトの管理人さんというのは、たいていものすごいリンク集を作っていたりして、こんなにたくさん毎日チェックしているなんて冗談でしょ、と思っていたらマジだったというので驚いた……なんてのが1年半くらい前の話。私は跡地の件以前から一貫して、毎日の巡回先は20サイト未満とするよう心がけています。最近はアンテナのお陰でこれが10サイト未満にまで減少。いろいろ助かっているわけですが、この他に不定期巡回というのがあるわけです。
不定期巡回の基本はリンク元の全チェック、そして定期巡回先の記事にできてたサイトの一部を読む、というのが基本のパターン。私が不定期巡回でしょっちゅう見にいく(週に0〜2回)のがデマゴーグマイルド。定期巡回先に入れていないのだけれども、たまたま見ていたページにリンクがあると、たいてい見にいきます。それで何がしたいのかといいますと、批評が追加されたサイトへの踏み台にするんですね。
デマゴーグマイルドで紹介されるサイトは、8割方、以前見たことのあるサイトです。デマゴーグで紹介されたのを機会に、最近の様子を見に行くという次第。といってもその場で読み始めるわけではなく、その晩のダウンロードリストに追加するのがいつものパターンです。ダウンロードしたサイトを全部読むかといえばそうでもなくて、ちょっと読んでつまんないと思ったらそれっきりです。デマゴーグで紹介されるサイトの2割はしらないサイトなんだけれども、これは滅多に見にいきません。面白いとわかっているのにログを読み終えていないサイトがたくさんあるというのに、面白いかどうかよくわかんないサイトを見にいく気がしないのです。
さて、話が適当に脱線したところでリンク先の紹介を少しだけ。これまでに何度も目にしてきたような議論が展開されているわけですが、お互いに饒舌なので、長文を苦にしない方には面白いんじゃないかなあと思います。weblogツールのトラックバック機能、はてなダイアリーのコメント機能、リファラというあたりを切り口に、データは意味を自称しない
という当たり前の話を議論しています。
自称しないものを、(技術の圧倒的未熟を利用者たる人間の想像力で補って)あたかも自称するかのように扱うのが現実的方向性ってもんじゃないのかな、というのが私の感想。だから「愚者の戯事」が議論を細切れにして「幻燈稗史」の説を各個撃破にかかっているのは、それで議論には勝てるかもしれないけれど、つまらないんじゃないのかと思ったり。だってデータは意味を自称しない
ということ自体は、はっきりいって議論の前提レベルの内容と違うの?
……とまあ斜め読みで感想を書きとめておく。(大体こういうことをやるとあとで叱られるわけですがー)
先日の化粧の話のネタ元さんに返信的(?)更新があるのを発見。ていうか、言及しっぱなしのフォローなし投げやり更新態勢がバレバレ。
今現在会う友人たちは声を揃えて「今の方がだんぜん若い」といいます。5年前のアタシは目に余るほどオバサンだったと言われますよ。
なるほど、なるほどー。いや、幸せにつながっているのならいいのです。きれいになって、自信がついて、5歳も若返ってしまうならいうことありません。ただまあ、世の中に万能薬というか、誰にでも効く薬はないんですよね。みんな一度は試す価値があるかもしれない、すぐに諦めたり放り出したりせず、ある程度じっくり腰を据えて研究する価値もあるのかもしれない、けれども、その結果みんなが幸せになれるとは限らない。正確にいえば、何割かの人にとってはほとんど錯覚程度の価値しかない(はずだ)。
宗教とか、なんとかダイエット法とかみんなそうなんだけど、自分がうまくいくと「あなたもうまくいくはず」とすっかりはまってしまう人がたくさんいる。化粧については、何通かメールもいただいて(吃驚しました。こういうネタに興味のある方が多いのですか)、「化粧はイイですよ〜」みたいな方が多いようなのですが、少数意見ながら思い込みを思い込みだと言い切って頂けて嬉しいです
といった反響もありました。
化粧にはまるのも、無縁のまま過ごすのも、どっちつかずというのでもなんでもいいのですが、それぞれの判断で人生を明るくする方向へ進んでいただければと思います。(無内容な発言の典型)
- 5月17日(土)
今日は「絵日記でもかいてみようか」へのブックマークを削除した日。ブックマークを削除して気分はすっきり。
「絵日記〜」は最近イヤラシくなって来たと思います。自分の関わっている商用サイトへのクリックをしないと話しの流れが完結しないようにしたり(5/16分)とか。
潔癖症な人ってのはいるもんだなあ、と。趣味が実益を兼ねるのはイヤラシ
いのですか。まあ、それはそれでいいとしても、ブックマークを削除して気分はすっきり
というのには苦笑。
正直すぎるとバカをみますよ、私みたいに。それとも、世間の常識への挑戦がサイトのテーマのひとつなのかな。この備忘録には、そういったコンセプトがもともと内包されているので、確信犯でやっているわけです。わざわざ人を怒らせるようなことを書いている。「そういうことは書いちゃいけない」という意見に対抗して、「書くのは自由。批判するのも自由。それでいいでしょ」と。常識の不自由を攻撃しつつ、一歩突き抜けた議論の端緒を探ろうという魂胆。たいていは外れですが、ときには……?
たかが愚痴なんだから放っておけばいいのに、という話があります。処世術としては正しい。でも、いわせていただくなら、いいたいことをいえなければ私にまた不満がたまるわけであって、その愚痴はどこで書けばいいの? という堂々巡りが生じる。ふつうの愚痴とは体裁が違うかもしれないが、これもまた愚痴であるとすれば、それを咎めるのは野暮ということになるでしょう。(言葉遊びはこれくらいにします)
まあ、あれだ。私は絵日記でもかいてみようかをブックマークに入れたことは一度もないけれども、あっちこっちを経由して年に数回見ています。一度に2〜3か月分をまとめ読み。ブックマークから削除しても、問題の火はくすぶり続けるのです、たぶん。
おはようございます。
んで、よく分からない点があるのだけれど(ばっさり中略)いつも何事にも自由を主張しているのに、なんだか徳保さんらしくないなぁ、って思いました。
……わかりました、正直に書きましょう。
横浜は遠すぎる。以上。(ひでー)
なんなんでしょうね、私は西武池袋線沿線に住んでいるわけですが、休日は基本的に電車にも乗りません。町内をうろうろするくらい。実家へ帰る以外では、一番遠くへ行ったのでも池袋まで。池袋なんてのは通勤距離の半分でしかないですよ。池袋まで30分、そこから会社まで30分。でも休日は池袋までしか行かない。それだって滅多に行かない。仕事ならちょっと出張だといっては電車で2時間、3時間なんてのはどうってことないのですが……。
掲示板のログに入ってる備忘録にはこのあたりの話がよく出てくるのですが、自分のためにしかならないことにはやる気が出てこないんですよね。まあいいや、と。だから休日は、まあいいやといっておなかがすいても食事さえしない。1日1食くらいかな。最近はこのパターンになれてきて、休日はそもそも空腹感を覚えないようになってきました。こうして私は仙人への階段を一歩一歩……。
蛇足。まあ、いろいろあって、私は行きませんでした、ということです。いろいろ、というのはようするに、これといった理由は何もないということです。朝から眠い。
私がXHTML2.0でsection要素が導入されるまでは見出しと段落をまとめるのにふさわしい要素はない、というのも、前述の話に関連している。div要素で構造化もどきをやってくれたところで、ユーザスタイルシートが対応できるはずがない。だから、divだのspanだのにはなるべく頼ってくれるな、ということになる。結局、XHTML1.1以前の(つまり現行のすべての)HTML文書は、見出しと本文の関係において、いわゆるフラットでリニアな文書構造しかマークアップできないとみなす方が、問題は生じにくい。
フォント固定でも問題ないとか、スクロールバーの変更でも全然良い! と思っている人がリンク集を作る時に多少役に立つかと思って作成しました。
CSSでスクロールバーの色を変更することを忌避する方というのがいる。それはそれでいいのだけれど、同じ人がbox-sizingの使用には全然、嫌な顔をしないからわけがわからない。IEの独自拡張はダメで、Mozillaの独自拡張ならいいのだろうか? type="text/css"
とかそういったことをmeta要素を使って宣言している以上、独自拡張は一律にダメである。あるいは、Mozillaの独自拡張をOKとするなら、IEの独自拡張だってよしとするのが筋じゃないのか。とくにスクロールバーの色変更なんてのは、他のUAでの閲覧に一切の害がない。レイアウトの大幅な崩れにつながるbox-sizingの方がよほど悪質だ。
さて、CSSによる文字サイズの固定を嫌う人はじつにじつに多いのだけれども、私は皮肉をいわせていただく。「じゃあ、W3Cに、CSS3では文字サイズを固定できなくするよう、意見したらどうですか」と。具体的には、文字サイズをpx単位やpt単位などで指定することを禁じればいいわけだ。そもそも文字サイズの固定は、仕様に何ら違反していないということに注意すべきである。
WinIEでは昔から文字サイズの固定を解除できる。したがって、市場に出回っているUAの9割以上において、文字サイズの固定はまったく問題ではない。目が悪いとか、モニタの解像度の問題で文字が小さく表示されすぎる場合には、Webページで指定されたフォントサイズを使用しな
ければいいだけの話。問題なのは、文字サイズ固定の解除方法があまり知られていない、ということに過ぎない。Mozillaだって、最小文字サイズの指定をしてやれば問題を回避できる。CSSを適用しなければ、もっといい。Operaではユーザモードを使えばいいわけだ。
私がいいたいのは、スクロールバーの色変更をダメというなら、box-sizingなどのMozilla独自拡張も取り締まるべきだということ。そして、文字サイズの固定は、市場の95%以上のUAで解除できる以上、どんどんやってしまって問題ないということだ。少なくとも、文字サイズ固定はCSSの仕様上、何ら問題がないのだから、CSSでイケてるサイトリンク集の選定基準とするのはおかしいだろう。
もうひとつ、リンク集のもとになっているスレの方でよく出る意見として「幅固定批判」がある。バカか。幅は固定していいに決まっている。だから仕様上、幅固定が可能となっているのだ。CSSで幅を固定する限り、それは解除できる。よって幅固定で不都合のある場合にも、何ら問題は生じない。UAの挙動が仕様に添っていれば、CSSによるあらゆる指定は解除できる。WinIEでも、ユーザスタイルシートを適切に用いれば万事問題ないのである。おおよそ、以下のようなユーザスタイルシートを用意すればよい。
*
{margin:0 !important; padding:0 !important;width:auto !important; height:auto !important; float:none !important; position:static !important; font:normal normal normal 100%/1.5em Osaka,"Times New Roman",Times,"MS Pゴシック",sans-serif !important; text-align:left !important; text-decoration:none !important; border:none !important; color:#000 !important; background:#eee !important;}
/* 以下、自由に自分好みのCSSを記述する */
文字サイズ固定の解除なんてのはWinIEでも簡単にできるというのに、なぜみな「できない」だなんて嘘をつくのか。
単にやり方を知らないならご愁傷さまだが、知ってて知らないふりをする連中はたちが悪い。たぶん、そうした方々は私がたいていのサイトをOperaのユーザモードで閲覧しています、というと嫌そうな顔をするのだろう。CSSなんてのは無視できる、あらゆる指定は解除できる、そういった情報を広めようとせずに、CSSで文字サイズを固定するのをやめましょうだなんていっているのはバカだ。
文字サイズは固定していい、だけど閲覧者はそれを無視できる……だからCSSデザインはアクセシビリティー向上に有効なのである。肝腎なのは、最終的な文書のプレゼンテーション方法を、製作者ではなく閲覧者が決めるということだ。
製作者がちまちまと自己規制して、そのままでもそこそこアクセシビリティーの高いCSSとやらを書くのは、むしろCSSの仕様の背景にある精神に反する行為である。アクセシビリティーの向上について、中途半端な立場である。文字サイズや幅の固定などが本当によくないものだと信じるのなら、仕様からそれらを排除するよう努力したらどうか。それは、やろうとすればできる話である。仕様が許しているものを自己規制で潰し、製作者CSSが必ず閲覧者に利用されるよう画策するのは、どうかしている。
製作者がおすすめのCSSを提示するのはよい。だが、閲覧者がそれを無視できる事実を隠し、製作者側の自己規制で諸々の不具合に対応してしまうのは、世のため人のためにならないだろう。
ダメな製作者は絶対にいなくならない。だから、製作者の努力で世界を変えるのは、自ずと限界がある。しかし閲覧者がHTML文書の表示結果を制御する手段を持てば、一挙に問題は解決する。製作者のくだらないあれこれの指定を無視して、全部を閲覧者が決めてしまえば……背景色と文字色の関係で悩むことも、小さすぎる文字に泣くことも、重たい画像に苦しむこともなくなる。そして現在、既にそれは可能となっていることに注意すべきだ。
UAはさっさとCSS2に完全対応してほしい、だなんていう人がいる。私はむしろ、不具合の多い現状こそ、本当の意味でCSSの精神が普及する最後のチャンスだと思う。UAがCSSに完全対応してしまったら、製作者はより一層横暴になり、閲覧者に自分のCSSを無視させまいとするようになるだろう。製作者のCSSを閲覧者が利用するのは当然だ、という発想が強くなるだろう。
……といったことを、CSSリンク集のthumbnail版を見ながら思ったのだった。私はOperaのユーザモードで閲覧しているから、私の環境からは、どのサイトも昔の闇黒日記のように表示されている。製作者CSSを適用するとこんな見た目になる、ということを初めて知るサイトが多く、おもしろかった。CSSコミュニティーでは闇黒日記デーというのがときどき挙行されるけれども、私はとくに何の感興もない。私の場合は、いつだって闇黒日記デーなんである。
上記ページで配布されているテキストデータのHTML文書化、完了。第5章と第7章の作業が面倒で面倒で、1ヶ月近くほとんど先へ進まなかったのですが、ようやくやる気が出てきました。さて、HTML文書化が完了したらそれでよし、というわけにもいきません。書籍版の正誤情報を元に、文章のチェックをしようと思ったのですが、ゲラチェックで相当文章が手直しされていることに気付きました。私は校正作業というのが苦手なんですよね。
もうひとつ。Canvasというソフトを私は持っていませんので、画像ファイルを全部開くことができませんでした。それで、画像を作り直さなければなりません。解説上、連続した画像だというのに、その一部だけ新作とするわけにもいかず、けっこうな数の画像を作り直すことに……。
というわけで、これからまたしばらく時間をかけて、画像を作ることにします。文章の校正などは諦めて、すみさんがHTML文書版を公開されてから、順次、寄せられた意見を反映させていこうと思います。CSSデザイン例の追加については、まあ私の書くCSSもろくなものではないので、これも諦めることにします。HTML文書化しただけでファイルサイズはかなり小さくなったので、いろいろ諦めつつも無駄な作業でもなかったとはいえるんじゃないかな。
今巷で話題になっている、いわゆる有事法案。私はこの法律に絶対反対です。「備えあれば憂いなし」、この言葉はまったくの嘘。備えるから憂うようなことが起きるのです。
実例を挙げてみても明白でしょ。警察があるから治安が悪くなるし、消防署があるから火事が起こるんです。ガン保険に入るからガンになっちゃうし、自動車保険に入るから事故が起こる。地震はいつどこで起こる?起こったらどうするか?みたいな議論が各自治体で行われているようですが、即刻やめてください!そんなこと話し合ったり対策をたてたりしたら本当に地震が来ちゃうじゃないですか!
何でそんな簡単なことがわからないのかなぁ。この法案に賛成してる人は思考停止状態に陥っているのではないのでしょうか。とにかく反対!絶対はんた〜い!
私はネタとマジの区別が苦手なので、ネタならネタと書いておいてほしいです。とか、書いてみたり。
コンビニ店員のお仕事にまつわるあれこれのお話が面白いです。
麹メ淨庵鬱日記で紹介されていたもの。Yahoo掲示板でもそうなんだけれども、発言が匿名かどうかは議論の質にはまずもって関係がない。まあHNなんてのは匿名みたいなものですが、日常会話のレベルを想起すれば、本名を添えたって議論の質が全然向上しないことは簡単に予想がつきます。
先日の主人の同窓会の場所が有名チェーン店の安居酒屋だったんですよ。20代そこそこの学生がたくさんいるような居酒屋で40過ぎの大人が大人数で恥ずかしくないのかな? なんか 幹事さんのセンスを疑いました。
うちの会社(東証一部上場)の職場親睦会の場所は、取締役(本部長)も参加するというのにチェーン店の安居酒屋です。でも誰も文句をいいませんし、ましてや恥ずかしい
だなんて。学生が隣で騒いでいるわけですが、部長が「やあ、若い人が元気にやっているのを見ると、こっちも元気が出てくるねえ」なんて呑気にいっているくらいの話。私はこういう職場の仲間が好き。貧乏臭い人間同士、適当に馴れ合っているのが気持ちいいんですよ。
貴族は不自由ですよね。私のような下層労働者階級に向いた精神を持って生まれた人間にはとても勤まらない。ま、貴族もいなきゃ困るので、そちらはそちらでちゃんと職分をこなしてくれたらいいと思います。
バンドのライブというのを一番たくさん見にいったのは、大学時代だった。友人の友人にバンドをやっている人が何人かいて、大学祭シーズンになると「チケット買ってよ〜」という話が舞い込む。当時もいまも私は収入の多い人間ではないが、とにかく支出が少ないものだから、財布にはいつもたくさん(3000円くらい)お金が入っている。それでお金の匂いに敏感なヤツラが群がってくるというわけだ。
チケットはたいてい500〜1000円くらいで、まあ大学祭特価というヤツで安い方は100円というのまであった。いくら会場がただ(校舎を使うから)だといっても、機材を借りるだけだって100円では足が出てしまうんじゃなかろうか。そうでもないのかな。
私は音楽を立って聴くというのが性にあわない。音楽は食事しながら、寝ながら、本を読みながら、とにかく何かしながら聞くのがよい。いちおう、ライブ会場にも椅子はあるのだけれど、ライブがはじまったら周りがみんな立ってしまうので私は困惑する。一人眠ってしまうほどの度胸があるはずもなく、何だか盛り上がっている空気に次第次第に押し出されて壁際まで位置を後退していくのだった。
いったい何をしにきたんだろう、と思うのだけれども、答えは単に「チケットを買わされたんだから、ちょっとは聞かないと損だ」というどケチ根性でしかない。「いや、場違いなところに顔を出す方が時間の無駄。二重に損しているんじゃないのか?」みたいなツッコミを自分にいれて、すごすごとかえるのが常だった。
ハンモックと文庫本なんかが用意されているライブ会場ならいってみたい気もするけれども、人が演奏している目の前で「スピー」と寝息をたてる勇気(?)は、やっぱりない。
緒方さんがそいやSBさんはしろくまさんのライブって行く? 行けたら一緒に行きましょう。
と書いていたのは5月10日だけれども、その感想を今頃になって書きます。何となくタイミングを逃がしてしまって……。
しろくまさんのライブに顔を出すのなら、清麿さんのライブにも行った方がいいんじゃなかろうか、と。人間関係をうまく転がすには、視野を広く持たなきゃいかんのですよ。で、私はそーゆーのに疲れたので、人間関係を維持増進する努力を放り出して好き勝手やることにしているのです。だから私はどちらも(以下略) じゃなくて、くつのひも図書館はそろそろくつしたへのリンクを修正してもいいのではなかろうか、ということがいいたかった。
余談。
もともと千葉県が故郷で、親戚も千葉が多いので「酒々井」に触れる機会は幼少のころから多かったが、「酒々井」という漢字を説明するときに、なぜか「酒の匂いって書くんですよね」と言ってしまう。
酒のわいて出る井戸と覚えましょう。砒素は出ません。あと、実際には酒も出ません。がっかりですね。
もうひとつ余談。
「だって、風船、針でつついたら、ボンって爆発したのよ!」
ボンっ
ていうのは、口癖なんだろうと思います。
今月は明日から毎週土曜日も仕事ですよー。
さて、一部の方が興味津々のテキストコンテスト地方予選決勝の2位以下ですが、私の参加作品は6位です。昨晩、私は予選板に自分の予想をこう書きました。
2位は秘密として明かされないのでしょうけれども、個人的な予想。過去の例からいって、感想の多く書かれている作品が高得点という傾向がある。とすると、候補は「空の作り方」「パタゴニア」このいずれかでしょう。「テキストサイト」はコメントがからいのでちょっと……。というわけで、「空の作り方」「パタゴニア」を見比べるわけですが、いずれも賛否両論で判断が難しい。しかし、とくに印象に残った作品として挙げる人の多い「パタゴニア」が一歩リードか? というわけで、2位は「パタゴニア」というのが私の予想。
やっぱり過去の例にある通りだと思いますね。賛否両論であっても、感想の多くついている作品は高得点の可能性が高いのです。というわけで、私の予想は2位「パタゴニア」3位「空の創り方」です。FUNYAさんはたぶん自分の順位を知ろうとされないでしょうし、知っても公表されないような気がします。そこで私の期待はSBさんに集中するわけです。
あ、SBさん、更新されていますね。2位はSBさんだったんですね。おめでとうございます! というか、私が2点じゃなくて3点入れたらよかったという話ですか。1点差だもんなあ。
ふと気付いたんですが、44票でトップが67点、ということは平均1.5点なんですね。1位でも2点に達しないんだ……。厳しいなあ。私は毎回2〜3作品に3点を入れて、全部の平均で2点を入れるようにしているんです。SBさんの作品には2点を入れました。これはけっこういい点をつけたということになる、と。私は本選も地方予選も、投票者として毎回なかなか楽しんでいまして、平均で2点というのは順当なところだと思っていたのですが、ううむ。
第1組、平均1.26点。第2組、平均0.97点。第3組、平均1.21点。第4組、平均0.88点。第5組、平均0.91点。決勝戦、平均1.14点。各組1位の平均点は1.96点、1.53点、1.71点、1.77点、1.64点、1.52点。私は1位作品には毎回2〜3点を投じてきたんですけどね……。テキコン本選、地方予選ともに投票が少ない理由はこれでわかりました。割と根本的な要因があったと。でも、私はテキコン、面白いと思っているので、本選の決勝もバッチリ投票しますよ。
私は備忘録と同様に小説にも著作権を主張しませんから、みなさんどんどんパクるといいと思います。自由に改変したり、切り貼りしたりして、自分の作品ですということにしてけっこうです。そのまんまで、自分の作品ですといってもいいです。少なくとも私は咎めないし、誰かがそれを咎めた場合、私はおそらく不快感を表明します。
なぜそういうことをいちいち断るかというと、all rights reserved. なんてサイトの片隅に書き添えている方が多いからです。私の文章を転載しても、改変版を載せても、all rights reserved. と書き続けてかまいせんよ、ということを私はいっているわけです。
テキストコンテスト地方予選の決勝ですけれども、下馬評通りに相馬さんが勝ち上がりました。さすがですね。私も頑張ったんですが、惜しくも1点差の2位でした(妄想)。
面倒くさいので解題なんてやりたくないのですが、いちおう、「青線」というオチです。そういう言葉を知らない方には、「青」というテーマとほとんど関係ないじゃないか、と思われたかもしれませんね。わかりやすく、新人 J を登場させ、青二才とかそういった保険もかけておいたわけですが……。何とか書き終えたのが締め切りの数分前で、ろくに見直しもできなかったのが残念ではあります。あと1点だもんなあ(妄想)。
ところで、私は台湾にいったことがありません。最初で最後の海外体験は、高1の夏にいったアメリカ西海岸のサンブルーノ市での短期交換留学です。ロータリークラブ主宰の企画で、夏休みを10日くらい使っていろいろ見学させてもらいました。私がアメリカへいってしったことといえば、銀行の金庫が案外ちゃちで、バーナーを使ったら簡単に焼ききれそうだったこと、市議会議員が5人しかいないこと、市長さんが明るい性格の口ひげおじさんだということ、市役所員が消防署員よりも少ないこと、スーパーマーケットが閑散としていること、土地が有り余っているにもかかわらず少なからぬ人間がウサギ小屋に住んでいること、アイスホッケーの試合会場には敵方の応援団がいないこと、野球場の応援席は敵味方に分かれていないこと、夏にもかかわらず水が冷たいこと、それでも夏だからといって泳ぐ人がたくさんいること、泳がない人々は泳ぐ人々をクレイジーだといって馬鹿にしていること、高速道路は無料だが、観光地ではつまらないものにもお金を取られること、小学校がプレハブ小屋であること、高校の壁が落書きだらけで、廊下にはゴミが散らばっていること、高校より小さい大学がいくつもあること、入管のおばちゃんはパスポートの写真しか見ていないこと、街路樹が手入れされずに枯れていること、ロータリークラブの会合にジーパン姿でやってくる人が何人もいること、話ベタなアメリカ人はいっぱいいるということ、飛行機の整備士の仕事がいい加減であること、太った人が多いこと、外食は案外高いこと、などなど。案外、覚えているものですね。
テキコン地方予選に参加して、よかったなあと思います。高校時代、私は文芸弁論部に所属していましたが、3年間ろくすっぽ原稿を出しませんでした。ずっと編集とか他人の作品への意見・感想とか雑務とかにばかり興味があって、創作にはとんと心惹かれなかったわけです。「先輩も何か書いてくださいよ」というので駄作をいくつか書きましたが、いつもいつも物語というのを全然思いつかない。それで、1行2行書き始めても、すぐに行き詰まってしまうのでした。
予選第4組で書いた「お父ちゃん」は、物語を書こうと努力して、ずっとずっと考え続けたものです。にもかかわらず、お話それ自体が面白いというのはどうしても考えつかなくて、本当に困ったものでした。私が余談ばかり書くのは、計算というわけではありません。本当はお話自体を膨らませたいのですが、どうにもこうにもそれができなくって、断片的なエピソードばっかり考えつくんですね。それで仕方なくやっているというわけなので、決勝戦でも同じような展開の作品しか書けませんでした。
決勝戦の「期待の新人、 J という男」は、うんうん悩んだにもかかわらずろくなストーリーがありません。単身赴任で寂しい思いをしている中年男がいて、新人のお守りをおおせつかります。仕事が一段落したので青線に連れて行くのですが、新人はなんと台湾まで彼女を呼んでいたので、せっかくのねぎらい(?)も空振りに終わったのでした。ちゃんちゃん。それだけの話です。いや、本当はですね、インディージョーンズばりの大活躍を J にさせたかったんですよ。でも何も思い浮かばないのだから仕方ありません。
日記みたい、という感想がありましたが、それだけ「俺」という作中人物にリアリティーがあったということでしょう。素直に喜びたいと思います。ただ、私には今のところ、そういう作品しか書けないわけです。ま、創作なんてこういう機会でもなきゃすることもないわけで、楽しかったです。SBさんには申し訳ないのですが、私は締め切りがないと創作のできない人間なので、25日の件はパスさせていただきます。ごめんなさい。
相互評価ウェブサイトランキング一字の登録サイトが一挙に増えました。目標の100サイトまであと25サイト……遠いですねえ。
そんじょそこらのサイト批評掲示板よりはずっといい(自分が他サイトを評価し続ける限り、どんどん評価がもらえます)ので、興味のある方はぜひ参加してみてください。ただしReadMeなどとは異なり、いつまでも参加し続けるというタイプのサイトではありません。基本的には、一通りの意見が出揃ったと思ったら脱退すればいいだろうと思います。ランキング上位のサイトほど、よく脱退していくように見えますが、それは自然で理に適っています。
先日、紹介したばかりですが、その後の更新も面白かったので再度メモ。アンテナに登録することにします。(うわー)
if → itself の見所は掲示板。
最近、ログを遡って読んだサイトの一部とか。
おすすめは恐がり - 模倣犯です。そういえば千野さんは大方の予想通り、いつまでもぴんぴんしていますね。あの方さえ元気ならみんな白装束である必要はなく、白い布も巻かなくてよかったわけで、まったく信者泣かせな話です。
私はいま、信者と書きました。BENKEIHOODでは、「パナウェーブ研究所」は「宗教団体」と勘違いされた方々が多数いたのではないでしょうか?
と書かれているけれども、パナウェーブ研究所は千野正法会という宗教団体(注:宗教法人ではないが、実態としてはいわゆる宗教団体である)の関連組織です。だから渦巻き模様が電磁波を防ぐといった教祖の戯言をみなが信じているのです。
2月24日の備忘録を流用して、Infoに管理人紹介のコーナを作りました。50の質問に答えているわけですが、あと50個くらい、いいのがあったらどなたか教えてください。はい、いいえ、どちらでもない、といった答え方のできるものがいいと思います。
HTML4.01の仕様書邦訳は、上記ページより圧縮ファイルとして配布されています。情報をくださったかずほさんに感謝。
HTML 4.01 仕様書邦訳を通読するにはどうしたらいいか。まず、全部ダウンロードしてしまうことだと思う。gethtmlwとか波乗野郎とか、そういった名前のフリーソフトを使えば簡単なので、検索エンジン経由なりなんなりで探してみてください。
ダウンロードしてしまえば邦訳全文を対象とした単語検索も簡単にできるので、ちょっと疑問が生じた際にパパっと調べるのに使えます。目次も詳細なので、目次の文書をローカルのブックマークに入れておくのもよい方法でしょう。
仕様書の邦訳は、オンラインのものを頭から読もうとするから大変なんです。興味のわいた分野についてその都度ローカルで参照していけば、遠からずたいていの(面白そうな)ページを読み終えていることに気付くのではないでしょうか。
千野正法・パナウェーブ研究所の信者・関係者を3000人と私は書いたけれども、いささか情報が古かったようです。申し訳ありません。2500〜3000人とは、あくまでも最盛期の数字だとのこと。産経新聞によれば、現在は1200人程度なのだそうです。
ところで、警察が動きましたね。微罪に対して大袈裟な捜査。合法的な潰しのお手本です。まあ、こんなことで潰れるわけはありませんが、弱体化はするでしょう。かわいそうですが、異端分子が迫害されるのはいつの世も同じであって、信教の自由なんてものは結局のところ「内面的には自由」という程度の話なわけです。拷問やら踏み絵やらはないけれど、白い服は着るなと。電磁波攻撃を防ぐためのステッカーも禁止であると。そろそろみんなも飽きてきた頃でしょうし、何となくフェードアウトしていきそうですね、この問題は。
連続更新で百話達成、ところがそれがじつに静かな快挙だったから、次の更新に興味津々だった。ところが先ほど見てみたら、番号が再び一に戻って淡々と続いている。なんだか、わけもなく感心してしまった。
夏が近づいてきたということで、あちこちのサイトでゴキブリの話題がちらほら。とうとう5匹まとめての登場とのこと。
肝腎の対策法ですが、ホイホイなんてのは全然ダメで、スプレーも対症療法にしかなりません。毒餌系のものが一番よく効きます。毒餌は市販品でもいいですし、ホウ酸団子を自分で作ってもOKです。
私が中学生になった頃、じわじわ増えていたゴキブリがとうとう家中で昼間から見られるようになってしまいました。ねずみが走り回り、屋根裏には蝙蝠が住む家で育った両親には危機感が欠けていました。ゴキブリが電子回路に引っかかって冷蔵庫が止まり、ようやく重い腰をあげて対策が始まったわけですが、完全制圧までには長い長い時間がかかったことを覚えています。ホウ酸団子100個を家中に仕掛けてから3日後、ゴキブリの姿をまったく見ずに週末を過ごしたことに気付いたあのときの嬉しさといったら! 両親は「ふーん」と何の感動もないようでしたが。
ふぅ、リンクページをサイト名変更等ちょっとした更新をしていたんですが、駄目。もう納得行かない、全部作り直したい。カテゴリ分けも何だか微妙だし、追加したいカテゴリやサイトも随分溜まっているし。まぁ、別に頼まれてリンクしているわけじゃないけど、やっぱりリンクページって大事なんです。オレもリンクページから飛んで新しい良いサイトに出会ったり、リンクの充実してるサイトなんかはリンクページをブックマークしていたりするし。なので紹介したい良いサイトや有用なサイトをガンガンリンクしたいんですよ。アンテナ以外の自分のポータルリンク集としての充実させたい希望も込めて。
私もサイト批評サイトリンク集を作成したときはいろいろ意気込みもあったような……。
やっぱり一日、間があいてしまうと、書こうと思っていたことも書く気がなくなってしまいますね。
とにかく、はてな某は弊サイトではとうとう2番目にアクセスが多いユーザーエージェントとなってしまったのだ。ログはそれだけ流れるのであるから、ちょっとした荒らしである。
ログが流れる
とは何ぞや? 私の場合は、JavaScriptを解釈するUAのみを対象に解析を行っているので、Googleロボットもはてなロボット(ロボットという言葉遣いは大目に見てください)の巡回も解析結果には見当たりません。ちなみに、はてなロボットは画像の更新は追いかけません(というか画像は無視していると思う)ので、多くの場合、はてなロボットの巡回はカウンターの数字に影響しません。問題は文書のダウンロードによる負荷でしょうけれども、200程度なら気にするほどのことではないと思います。
ログが流れる
というのがもし、単にリンク元チェックが面倒くさいとかそういうことでしたら、何らかのフィルターではてな関連を消してしまえばいいんじゃないでしょうか。あるいは解析の方法を変えてはいかがでしょう? 当サイトの場合、はてなユーザの増加によって無駄なアクセスがけっこう減ったことを確認しています。更新しない日と比較して更新した日は、はてな経由の閲覧者が4倍に増えるんですね。はてなユーザがもっともっと増えると、トータルのサーバ負荷は大いに低減するんじゃないかと予想しています。
はてなユーザが増えたおかげで、私の場合は具体的にどんな方が当サイトをご覧になっているのかかなり見えてきました。まあ私から見えるのはブックマーク集だけなんですけれども、それだけでも一種のプライバシーの公開ですからね。案外、HTMLの標準仕様だの、CSSだのに興味のある読者が多いということはつかんでいるのです。意外とダークマターをアンテナ登録していない人が多い(4割くらい)とか。うちの読者層としてはちょっと意外な感じもするわけですが。
私に情報収集されたくない方は、アンテナをプライベートモードで利用されることをおすすめします。
アンテナって便利ですね。以前は1日20サイトくらい定期巡回していたものが、最近は1日10サイトくらいしか巡回しないですむようになりました。
カナかな団の躁鬱_Previewは私の好きなページで、アンテナに登録しています。以前はさとみかん経由でお邪魔していました。最近は自分の巡回先(約30サイト)をみんなアンテナに登録したので、さとみかんは週に1回くらいしか見なくなりました。正規版の方は全然見ていないのですが……。
なんというか、世の中虐められやすい人ってのは、いるわけですよ。どういう人が虐められやすいのかは、難しいところなんですが、まあ、虐める側に対して致命的な報復を加えられないとか、そんなところもあるのではないかと思うのです。
リンク更新に感謝。ずーっと移転前の URI にリンクされていたので、「こりゃー修正されるとき=リンク集から消えるとき」だろうなと思っていたので、ちょっと嬉しいです。
今日の備忘録は小林のウェブサイト特集。
ところでこのパソコン、買ってから 2 年以上が経過しているのだけれど、ハードディスクが 10GB 以上余っている。使用領域は 8.5 GB 弱。
私のパソコン、4年以上も使っているのに、5.5GBのHDが半分くらい余っています。「超整理法」という本に感銘を受けたのは高校時代ですが、私はパソコン内のファイルの整理に超整理法の手法を取り入れています。いわく、「1年間に1度も参照しなかったファイル、1度も使わなかった有料ソフトは削除する」「3ヶ月以上使っていないフリーソフトは削除する」「最近1ヶ月以内に参照していないファイルは「暫定」フォルダから最近の「**-**」フォルダ(年-月/Ex."03-05")に移動する」「**-**フォルダから参照したファイルは暫定フォルダにコピーする」云々。
たとえば九十九式の Home ページは CSS をオフにすると目次が最下部になってしまう。これは文書構造と装飾の切り離しが上手く行われていないような気がする。と、すると、閲覧者にとって閲覧しやすいであろう環境 (サイトデザイン等) の提供を閲覧者にバトンタッチしていないのかもしれない。なんてことを思ってきた。
常連読者の場合は最新の更新に最大の興味があるわけで、暗誦できるほど見飽きている目次なんてのはおまけの情報に過ぎません。よって、目次が最後にあるというのは意味があります。じゃあ何でふだんのCSSでは目次が最上部にあるのかって話になりますが、私の場合は最上部にあっても目次なんて目に入っていないわけでありまして、視覚系UAで閲覧する限り、あんなのは背景画像と同程度のものである、と。
音声系UAを利用する場合、目次の延々と長いのはむかつくわけで、九十九式はその点、理に適ったやり方をしていると思います。
私が目次を上に置いているのは、備忘録なんてのは所詮おまけだという発想から。ログページでも目次が先ですが、これは、間違ってリンクをたどったことに気付いた場合に、ページが読み込み途中であっても目次から適当なページへと脱出できるように、という配慮によります。文書の末尾から目次まで戻るのが面倒だという話もありますが、文書の冒頭や末尾へフォーカスを移動する手段なんてのは、文書ではなくてUAの方で用意するべき機能でしょう。それをいうなら見出し間移動もそうなんですが、このページにどんな見出しがあるのか、という情報くらいは文書の冒頭に目次としてまとめてあってもいいはずだと思います。それで、私はなるべく目次を作成するようにしています。備忘録は書きっ放しなので、目次なんて作りませんけれども。
CSS といえば興味が湧きたてのころに、「なんで class と id って属性があんだろ? 」 なんて漠然とした疑問があった。そのときは id 属性の用途に気付いていなかった (同じだと思っていた) から、そういう可愛らしい疑問が浮んできたわけなのだけれど、意味がわかればなんてことはなく、簡単に理解ができた。
id属性値はHTML文書内でユニークな存在でなくてはなりません。つまり、同じid属性値を持った要素が、同一文書中に複数存在してはいけないのです。一見、不便なようですが、このルールのためにid属性値はリンクアンカーの役割を果たします。つまりid属性値の設定された要素には直接リンクできるわけです。…後略
んじゃなんで、a 要素が既にあるのにわざわざと id 属性なんて作られたんだろ。という疑問が浮上するわけです。装飾がヘンになるから id で a 要素の代替とさせるためとか? というか、仕様書読めばわかるのかな (読んでないんです)。
HTML4.01ではname属性とid属性が両立しています。しかしながら、汎用性の高いid属性が登場した以上、name属性にはもはや存在価値がないことが明らかです。最初からid属性を考えつけばよかったのに、と思いますが、いまさらそんなことをいっても仕方ないですね。
リンクとは情報の参照である、という思想的立場を取る限り、name属性というのはもともと中途半端な存在なんです。なぜそういえるのか? 多くの場合、参照する価値のある情報のまとまりは、段落やリストといったブロックレベル要素となります。インライン要素であるa要素のname属性では、いくらa要素がiframe要素をふくむほとんどのインライン要素を子要素とできるとはいえ、やはり文書中の意味のまとまりに名前を付けるという目的に対して非力です。ブロックレベル要素に名前を付けられるid属性が望まれる所以です。
なお、a要素は入れ子にできません。それに対してid属性として名前を付けた要素が入れ子関係を持つことは何ら問題がありません。
<div id="diary030513">
<h2>平成15年5月13日</h2>
<p id="diary030513summary">本日は晴天なり。</p>
<p>小笠原気団の勢力伸張著しく、太平洋岸を高気圧が覆い、本日は全国的に晴れ。関東地方は6月上旬並みの気温となった。</p>
</div>
リンク=ジャンプという発想が蔓延した結果、まあname属性でたいていの用は足りるじゃないか、とされてしまっていますけれども、これはおかしな話です。まあ、私もCSSによる装飾とページ内移動のためにしかid属性値を使っていません。目次に用意したリンクが見出しを参照する、というのは、一応は理屈に適っているだろうという判断です。ISO-HTMLでは見出しをdiv要素の子要素にできませんし、本質的にはXHTML2.0でsection要素が導入されるまでは見出しと段落をまとめる要素がそもそも用意されていないわけです。だからまあ、HTML4.01を使う以上は、id属性を見出しに与えるというのも致し方ないところかな、と。
見出し+それに続く本文をdiv要素でまとめてid属性値をつければ実際問題としては事足りるわけですが、私は面倒くさがりなので、基本的にそういうやり方をするつもりはありません。(同じ理由で当サイトの既にある記事を、将来XHTML2.0に移行することはないと思います。section要素があるのにそれを使わず、見出し要素にid属性値をふっているという現在のマークアップを修正する作業が煩雑だからです)
この件は、以前CSSコミュニティーで段落アンカーの望ましい記述法といった観点から話題となったことがあります。(ほとぼりが冷めた頃にまた話題になるでしょう。この手の話題は、初心者が増えるとまたくりかえされるものなのです)
午後9時35分過ぎに帰寮。ちょっと書きたいこともあったんだけど、仕事がはかどらなくて疲れているので、もう寝ます。今晩も夕飯にギリギリ間に合ってよかった。
ろくに反響がないと、だんだんサボり出すという一例。
本日の更新はここまでです。明朝の更新は微妙。
メールで情報をくださった方に感謝。2chの感想スレッド、続きがあったんですね。ダークマターでも新スレ情報がないんで、もう終わったのかと思ってました。それで、メールをくださった方の希望はNAmTdZ7xさんの「挑戦」を受けて立ってくださいというもの。う〜ん、申し訳ありませんが、勝ち目のないものをですねー(以下略)。
と、いただいたメールより短い文面でおしまいにするのも申し訳ないような気がしないでもないので、屁理屈こねます。
ここでちょっと徳保氏に思ったこと。「衆愚」って、何を意味する言葉だろう。また、この言葉を使う人間は、どういう立場や考え方でこの言葉を使ってるのだろう。仮に一介の民衆の一人である人間が衆愚という言葉遣いをしているなら、少し笑ってしまう。
おっしゃる通り、これは笑うのが正解です。私の好きなフレーズなので、これからもよく使うと思います。少しづつ笑ってください。
責任ある立場の人間とて、所詮民衆の一人。矢面に立たされるのは嫌だから、民衆側につくのは感情的にありうることと俺は理解できる。
私も理解できます。けれども、私は批判します。理解と賛同は異なります。
普通の人が嫌がることをしてはいけないというのが、「常識」というものだと俺は思う。それを否定するなら、非常識と言われても仕方ないような気がするのだが、これは俺がおかしいのか。
おかしくありません。けれども、私は非常識を排除する考え方を批判します。非常識だから、社会から排除してよいのか、ということです。暴力団は理解できる、だから罪を犯してさえ街からむやみに排除しない。少なくとも暴力団幹部相手に「うちの街にこないでほしい」なんて交渉はしない。白装束は理解できない、だから現状程度の触法行為(いずれもほとんどは罰金刑程度)でさえ街から排除する。
非常識を理由として、違法行為の程度と比較して不当に自由を奪われてよいのか? これが私の疑問なのです。私は、違法行為を取り締まることにはまったく反対していません。しかし、地方自治体による無法な居住権侵害が許されるのはおかしいと主張しているのです。
行政が住民の声をハイハイ聞いているなどとは俺は思えない。比喩は悪いが、ただ聞いているだけなら、俺の好きな発泡酒が増税されるわけないからだ! 住民と行政の利点が一致したから、そうした行動になったのではないかと俺は思う。
じつにおっしゃる通り。パナウェーブ攻撃は世の中のほとんどの方が喜ぶので、それで行政があえて住民の期待に応えない理由がないのでしょう。私がいっているのは所詮は理屈、奇麗事に過ぎないという意見が多くありますが、反論の言葉はありません。でも私は、奇麗事をいう人間もいなきゃいかんだろうと思います。(奇麗事に過ぎない、という批判とセットで)
パナウェーブ攻撃が許されるのは、あまりにもパナウェーブの味方が少なすぎるからに過ぎず、実質的には朝鮮人差別と話は同じです。朝鮮総連がいろいろ悪いことをやってる(北朝鮮への不正送金は事実/拉致に関与した人間もいるという噂も絶えませんね)らしい、だからうちに街に朝鮮総連の支部が建設されるのは阻止するぞ、みたいな。それがエスカレートして、朝鮮総連の人間がうちの街へ入ることも許さないぞ、というのと白装束迫害は本質的には同じ構図なんです。
朝鮮総連についてそこまで過激な話がない(せいぜいが万景峰号の寄港禁止まで)のは、ようするに朝鮮総連は人間扱いしなきゃダメだという層が一定数いるから。もし理解者がどんどん減少していったら、拉致関与疑惑はきつい。総連と無関係な在日朝鮮人はOKだが、総連の朝鮮人は街から出て行けとなります。それは杞憂の世界です。けれども、これは単なる数の問題なんです。あまりにも少数派だから、パナウェーブは迫害されているのです。パナウェーブと千野正法は約3000人の集団です。1億人対3000人なら、3000人の人権は踏みにじられる、というのがパナウェーブ問題が伝える日本の現実だということです。
無法を絶対に禁ずるというのは、なるほど奇麗事です。でも、それをいう人間がいないのも異常です。私の無断転載に、著作権違反という批判があったのは大変よいことでした。こういう場合には当然、無断転載していいのだ、などと考える人が出てくるのは本当によくないと思います。違法行為、無法なやり方というのは、何かしらの形で批判されてしかるべきです。
地方自治体によるパナウェーブ攻撃は、圧倒的な世論の支持の元、無法であれなんであれ(良識的な節度を保ちつつ)実行されてしまいます。それはもう本当にどうしようもない現実であって、またそうでなくては世の中うまく回りません。しかし私はやはり、パナウェーブのような連中を攻撃するのは一点の曇りもない正義だという発想を批判し続けます。
無法は無法であるという認識があればこそ、物事がエスカレートすることなく、良識的な範囲内に収まっていくのです。現在でも、パナウェーブの連中はぶっ殺せとはいわれていません。人間はそんなにバカじゃない、といいたいけれども、人類の歴史は、人間がどれほどバカかということを示しています。用心を怠ってはならないと、私は考える次第です。
余談。私は朝日新聞が嫌いですが、朝日よ消えてなくなれとは思いません。今回は役に立ちませんでしたが、産経的発想が暴走しかけたとき、私はやっぱり朝日の影響力を頼らざるをえません。頼るといっても祈るだけですが、まあ、読売・産経と朝日・毎日の二大派閥が拮抗しているのが望ましいと思います。キャスティングボードを握っているのはもちろん、日経と中日。(このあたりは適当な放言です/と書けば何でも許されるというものではありませんが)
騙された。更新しているじゃないか。アンテナに再登録。あ、代わりに豺狼の路を外すってことはしません。
ちなみにこちらは更新再開。予想通り、ログが消えていますね。
過去ログを読んでいくと、挑戦的な文章がいろいろあって興味深かったです。閲覧者数が少ない場合には、単にリンクしないことで好きなだけ陰口を書けるんですよね。閲覧者が増えてくると、もっといろいろぼかして、一般論風にして書かなきゃいけなくなる。私はそういったやり方はむしろ想定外の敵を呼び込みかねないと思うし、何となく卑怯っぽい気がするので、基本的には特定の相手への批判は、それがリンクできるようなものならリンクするようにしています。
今日は母の日だそうですね。いやー、そういえば母の日だからといって何かしたってのは小学生の頃以来一度もない気がする。あ、そういえば大学時代に父が「今日は母の日だから外で食べるぞ。**もこい」みたいな話で、ついていったというそれくらい。GWにちょっとだけ実家に顔を出したんだけれども、「夏休みにも帰ってくるんだよ、寝てるだけでもいいから」とかいうのが母の見送りの言葉で、なんというか夏休みは顔を出すのもやめようかと思った。申し訳ありませんと謝りつつ。
べつに会社の寮にいたって、同僚と飲みに行くとかそんな用事しかないから親孝行した方がいいんだろうけれども、私と弟が家を出てたった1年とちょっとでこんなに母が弱気になってしまうと、正直ガックリくる。昔からとても体が弱いし、まあ平均まで生きることもないだろうから私も親孝行するなら今のうちだろうと思うのだけれども、どうにもこうにも実家に寄り付きたくない気分なのだ。
長年忙しく働いてきた父が秋には定年を迎えて、毎日家でごろごろするようになるので、そうなったら母も元のように元気になるだろうか。弟が家から通えそうもない大学ばかり受験することはとっくの昔に気付いていたわけで、私が遠くの大学に通えばよかったのかもなあとも思う。急に二人ともいなくなってしまうのがいけないんだ、という発想。まあ人生をやり直すわけにはいかないので、これからどうしようということを考えるだけなんだけれども、空元気でもいいから母には強がってほしいと思うのです。
実家にいた頃は、毎日何かしら家事を手伝っていた。ただ飯喰らいなんだからそんなのは当たり前だという話で、それもそうだと私は納得していた。私は万事にドンくさいので、「お前はほんとうに世の中でやっていけるのか心配だよ」だなんてよくいっていた。それが今ではどうだ、実家に帰っても私のすることが何にもない。風呂掃除でもしようかというと、「いや、お前は休んでなさい」てな話だ。あれほどバカにしていた「子どもをダメにする親」をそのままやってしまっている。
弟は家事手伝い必須とか、小遣いが少ないとか、テレビゲームには時間制限だとか、そういったもろもろの母の教育方針に始終「冷たい」「鬼婆」とかそんなことばっかりいっていて、大学生で暇はアホみたいにあるくせに全然実家に帰らない。たまに電話をかけてくると金の無心だというのだが、まああれも可哀想だよなあと思わないでもない。私が変人なので、ふつうの人間である弟はいつも割を食ってきた。「お兄ちゃんはそんなこといわなかった」「お兄ちゃんはそんなことしなかった」
でまあ弟は厳しい母に文句ばかりいっていたが、もうちょっと家に帰ったらいいと思うのだった。まるで召し使いのようにふるまう母の姿に何を思うか。あのバカたれが。(でも私より勉強も運動もずっとできるし、なぜかアレルギー体質も遺伝しなかった。しかも変人一家に生まれたというのにふつうの人間だ。わが弟ながら、神秘的存在ではある。いろいろ才能があるので、いろんな不幸も我慢してほしい)
母は結婚するまで実家にいて、それで結婚後もしょっちゅう実家へ帰った。それはべつに父と喧嘩したとかではない。父が仕事で忙しかったということと、母の性格の問題だと思う。母は自分の実家に帰る日数の倍の日数、父の実家へ行っていた。父の実家はぶどう農家で、夏場がとにかく忙しいのだ。で、毎年夏になるとこれを手伝っていた。私が産まれてからも、毎年夏休みは父の実家へいった。いや、夏休みに限らず長期休暇のたびに両親のそれぞれの実家へいったものだった。
で、父は仕事が忙しいのでほとんどいつも千葉県で留守番。それで新幹線には数十回も乗った。小学校の修学旅行で新幹線を利用したのだが、初めて乗るというクラスメートが多く、わいわいはしゃいでいたのを呆れ顔で眺めていたような記憶がある。
母は父の実家が忙しいときに手伝いにきて、馬車馬のように働いて帰っていくのだから、姑(つまり私の父方の祖母)と仲の悪いことはなかった。かといって、仲がよいというわけでもない。ただ、私と弟が父方の祖父母に懐き、母方の祖父母を嫌ったことには悩んだこともあるようだった。このあたりははっきりと何かエピソードがあるという話ではない。
まとまりのない回想になってしまった。これも備忘録。
この手のニュースをいちいち拾っていくときりがないわけですが、いちおう。私は辻元さん嫌いですけれども、この件については森毅さんの談話に賛成。教官らからは「訴追されてもおらず、門戸を閉ざすのは問題だ」などの意見
は正当だと思う。
とはいうものの、辻元さんのような呆れた意見を述べる方の話に聞く価値があるのかというと、私はその点では否定的。つまり、疑惑の渦中にある人だから講義するべきではないという意見には反対するけれども、この人のいうことはくだらないから教壇に招く価値がないという意見なら賛成するということ。結局辻元さんに講義をさせまいとする意見には変わりないじゃないか、という反論もありそうですが、私は結論だけ見る考え方には与しません。
講座を担当する助教授は「ピースボートを運営するなど、辻元さんはNPOの草分け的存在。NPO法成立にも深くかかわった」と依頼理由を話す。
なんていうのだけれど、ピースボートのような団体がNPOの草分けとして評価されることに私は批判的なので、私ならこうしたNPOの現状をくさすような意見をいいそうな人を呼びたい。けれどもまあ、いったん教授会を通ったものを、疑惑の渦中にある人物だからなどという横槍でつぶすのはよろしくないと思うのだった。
パナウェーブはショッカーの香り
のする集団だから迫害されるのではないか、という説。なるほど、そうだろうな、と思ったのだけれど……大正時代の日本において、朝鮮人はショッカー扱いだったということになるのだろうか。あるいは第二次大戦当時のドイツにおけるユダヤ人も。
朝鮮人は、陸軍をはじめとする官憲が保護に乗り出したので、虐殺は小規模にとどまった。間違ってもホロコーストを再現してはならない。
その一方で、オウム真理教の犯罪を許した警察の失敗も繰り返してはならない。銃を密造し、化学薬品を不法に所持し、毒ガスを製造してばら撒いて無差別殺人を行い、VXガスなどで敵を暗殺し、人を拉致・殺害し、マイクロ波焼却装置で死体を消した。無数の犯罪が繰り返されながらこれを見過ごし、ついに警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負うにいたったことは警察史上に残る世紀の大失態といってよい。
怪しい奴への監視を怠り、犯罪をむざむざ見過ごすことのないよう、お願いしたい。
はてなダイアリーで「コメントを書く」を参照すると、その日のリンク元と参照数が表示されます。8日付更新で私はいろいろなサイトの記事をご紹介しましたが、とくに多勢のお客様が参照していたのが愛・蔵太の気ままな日記でした。8日、9日の2日間で参照数が80を越えています。
たぶん、その面白さを知っているサイトが紹介されていると、ついでに見ようかと思うのではないかと。それにしても、あれほど軽い扱いだったにもかかわらず……。ううむ。
ところでこれって政府刊行物だったの?
株式会社かんぽうの公式サイトは、なんとなくネタっぽい雰囲気があるけれども、じつは本物。紛らわしい。
……ま、まあ、広報よりも訓練に力を入れているということなのかな。そういうことにさせてください。
私が思うに、自衛隊は広報サイトが小分けになりすぎているのではないかと。各部隊にいちいちサイトを作らせる必要はないわけですよ。数年かけても1万アクセスもないような、そんなサイトをわざわざ用意することはないのです。大きなサイトの1コンテンツとして、フォーマット通りの情報を記載していけば十分だと思います。例えば外務省のサイト作りは大変参考になります。各大使館がいちいちサイトを作ることなく、外務省本体がデータベースとしてフォーマットを整えて各国の情報を紹介していますよね。自衛隊もそうした方がよいのではないでしょうか。
とはいっても、防衛庁のサイトがそもそも素人然としているからなあ……。国民が不安になるような広報はやめてほしいと思います。予算が厳しくてまともな業者に頼めないのでしょうが。
そうなのかな……。内容も書き方も発表の仕方も凡庸だと私は思ったのですが。
あ、端辺圭さんのような方がこういう記事を書く、ということが特異性だったのかも。
覆面議員の公約が「教育改革」なら、学校がこの議員を真似したりするわけだ。「生徒全員が覆面姿」「教師も覆面」「構内入門に覆面可能」「覆面入試OK」なんてことがありうるのか。いやだね、おれはそんな学校。怖いな。セキュリティなんて何もなさそう。
極論かな。しかしこれを「極論」というなら、自分はOKで、他の人はNGという根拠があるのか? あるとすれば「自分は特別」って程度しか思いつかないぞ。やだやだ、そんな政治家。「金融改革」や「政治改革」がこの議員の公約なら面白いのに。
ありえない仮定を持ち出して論破してみせるという……。サスケさんが覆面に自信を持っている根拠は、覆面を脱がないことを公言しつつのトップ当選という有権者の支持です。学校がこの議員を真似したりする
場合には当然、有権者の支持を必要とします。そうなると結局、サスケの覆面はいいけれども、学校における一般人の覆面はダメ、という方向に落ち着くのではないでしょうか。
と書くと、白装束はどう考えるのか、という話になりますね。みんなが不安だといっているのだから、白装束を脱がない限り迫害されても仕方ない、街に入れなくても仕方ないのではないか、と。確たる正義は世の中にないのだから、社会は結局多数決で動かしていくしかない。しかし直接民主主義では、衆愚政治を許すことになります。ではどうしたらいいのか。そのひとつの答えが、代議制です。
サスケさんの覆面も、選挙に勝っただけで認められるというほど話は簡単ではありませんでした。議会の多数派を押さえ、さらに一定の譲歩を行ったからこそ、どうにか通用したわけです。
ところでtelさんは100人と会って、ただの一人でも「不快感」なり「異論」をはさむ可能性あるファッションなら。・・・なるたけ回避したほうがいいだろう
ともおっしゃっているのですが、ちょっと微妙な感じがします。100人に1人くらいは「日本人って黒髪ばかりで気持ち悪いよな!」とか、「73分け、キモっ」とかいう人がいるわけで。日本の議員さんがみんなサラリーマンのような格好をしているのはつまらない、一人くらい覆面がいる方がおもしろい、という意見もある。
無難なファッションというのはあるけれども、万人受けするファッションはないわけです。異論なんてのは誰のどんな行動にもつけられるわけで、異論があるからダメ、というのはどうかと思うのでした。
ちなみに、サスケさんの政治家として主張すべきこと
は覆面以外にもいろいろあるわけですが、マスコミがそのことばっかり質問するのでtelさんのような勘違いを助長しています。でもマスコミは商売でやっているので、しょうがないですよね。みちのくプロレスを軌道にのせた経験を活かし、岩手県をプロデュースして経済振興につなげるという目標なんかもあるのですが、そんなことを報道しても全国ニュースとしての需要がないので。
あと、覆面と教育改革の関連づけですが、「個性を伸ばす」みたいなキーワードを媒介することでそこそこ無難な方向へ進むかもしれません。サスケさんも学校には覆面をかぶらずに通っていたわけですから、「個性尊重=覆面OK」といった極端な形にはならないだろうと思います。つまりは、杞憂であると。
新聞を見ててあきれちゃったネタをひとつ。ふだん政治的(?)な発言をこのHPで避けてます。ま、たまには。もっとも今日はたぶん、政治的発言じゃないはず。こういう話を飲みながらすると、いつも否定される。なんでだろう。・・・情け容赦ないから?
政治的発言をしているのに、これは政治的発言じゃないなどというから否定されるのです。当然です。
おはようございます。
パナウェーブの教祖は、本人の見立てではもうすぐ命が尽きるらしい。
予言通りに彼女が帰らぬ人となれば、多勢の人が助かるわけだ。いい加減な奇跡とやらで健康を回復することなく、本当の奇跡を起こして予言通りに病気で亡くなってしまうのが、みなのため(とくに信者のため)によい。
各地の住民が理性を取り戻すことはありえないだろう。怖い怖いといって他人の人権を平気で侵害したがる多数派は、今更どうしようもない。電磁波から守られている教祖が消え、白装束が自然消滅するしか解決の道はない。よもやとは思うが、問題の解決が長引いたために「ふつうでないこと」を違法として取り締まるような法律が成立してしまわないことを祈る。地方自治体ではパナウェーブ排除条例の成立は現実的な話となっているのだ。
迷惑防止条例の適用範囲拡大でパナウェーブに対処しようという動きもある。具体的な被害をもたらす迷惑行為がないのに、これを取り締まろうとするのはおかしい。だが、みんなが白装束は怖いと思うなら、白装束は迷惑だということらしい。その迷惑とは(野次馬の殺到なども含め)虚妄の産物であるのに、その発生源たる多数派の偏見を問わないのはどうしたわけか。
黒人差別なら、差別する人がおかしいと誰もがいうのに、白装束差別では、白装束がおかしいと誰もがいう。たしかに、パナウェーブには嫌な予感がつきまとう。だから監視はつけておいた方がいいだろう。しかし、表向きはいわれのない差別をしてはならない。彼らがどこに滞在しようと、合法である限りは制限を受けるべきではない。
パナウェーブが林道の占拠など、違法すれすれのことをやっているのは事実である。だが、何か事件がおきるたびに警察署周辺の道路に違法駐車しまくるのは、報道機関の習い性になっている。こうした違法行為が常態化しているからといって、マスコミ関係者の入村を拒否し、バリケードを築くことが許されるだろうか? パナウェーブが不当に差別されているというのは、つまりこういうことを指している。白装束で、見るからに怪しげだから、というのがパナウェーブ排除の本当の理由なのだ。それはあからさまな事実だ。
パナウェーブ以外の、見た目のふつうな団体(例えば一般の企業)がパナウェーブと同様の「迷惑行為」を行ったとして、そこの社員が住民登録を拒否されるような事態になるだろうか? 産業廃棄物の違法投棄に関わったような企業だって、トカゲの尻尾切りをやっただけで何食わぬ顔で存続するではないか。それがなぜ、パナウェーブでは土地取得絡みの古い詐欺事件がこれほど大騒ぎされるのか?
反社会的行為のひとつひとつを取り締まることと、ある種の人々への差別に法的根拠を与えることとは峻別しなければならない。
ひとつの理想的な根本的解決策は、パナウェーブに対して各地の地方自治体がこれから実行しようとしている対策が人権侵害である、という認識が広まることだ。新法成立によってパナウェーブの強制解散に法的根拠を与えるのも根本的解決策のひとつだが、私は、これだけはあってはならないシナリオだと主張する。
正義のためなら無法も許される、という議論がある。たしかに法律の運用には、一定の弾力性が社会的に認められる場合がある。
問題は、無法を支える正義が明らかでないということにある。多数派の意向次第で少数派が抹殺されかねない危険思想が根底にある今回のパナウェーブ問題について、私は地方自治体の無法を批判せずにはいられない。選良たる首長、議員の仕事は単に支持者の多数派の操り人形に徹することなのか? そうではない、と私は考える。責任ある立場の方々には、どうか理性的な対応をお願いしたい。
違法行為を取り締まるのはよい。パナウェーブ研究所のメンバーを駐車違反などの容疑で逮捕するなら話はわかる。有事に備えて警官を配備するのも正しい対策だろう。
パナウェーブのような変な連中を怖がる住民たち。その気持ちは理解するけれども、地方自治体が積極的に道路を封鎖して期待に応えてしまうことを、私は批判する。パナウェーブが差別され、自由を制限される理由は何か? 変な連中だから、だ。いじめの構図なのだ。肌の色が違うから差別する、ユダヤ人だから差別する、キリシタンだから差別する、というのと同じなのだ。
白装束、覆面、たしかに怪しい。警戒心は持っておいた方がよかろう。警察は監視を怠るべきではない。だが、道ゆく先々で道路を封鎖して行き先を閉じていくという地方自治体のやり方はどうなのか? パナウェーブの人権はどうなっているのか? ゆえなく個人の自由が制限されないこと、これは民主主義国家の根幹である。怪しいやつらには十分警戒しつつ、しかしあくまでも彼らの自由は守られなければならない。
かつて私の会社はたいへんな火災事故と公害事件を起こした。とくに公害は深刻で、今ではすべて明らかにされてしまったものの、当時は会社ぐるみの隠ぺい工作もあったと聞く。こうした明らかな問題があってさえ、社員の家族が住民登録の受付を拒否され、子弟が地域の小中学校で教育を受けられなくなるなどという事態は起きなかった。しかしそれは、当然のことではないのだろうか? 今回はたまたま白い車列に子どもの姿は確認されていないようだが、オウムの前例があるから、私はやはり現状を危惧せざるをえない。
理性を失った住民の声をハイハイと聞く行政担当官は恐ろしい。自分は常に社会の多数派から人間扱いされると能天気に信じていられる人は、ある意味、幸せだ。そして危険だ。パナウェーブを恐れる住民の期待に添って行動する地方自治体は、朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂が広まったら、当然のような顔をして朝鮮人を街から追い出すだろう。「だって、住民が不安を訴えているんだから」といって。衆愚に乗っかって理性も法もキャンセルするような方々が、地方自治体という権力装置の責任者となっている日本の状況は悲しい。
パナウェーブ対策は、あくまでも法律違反の取り締まりと厳重な監視に限定するべきだ。単に住民が怖がっているという理屈で、無法を正当化してはならない。ふつうでない(=少数派である)ことだけを理由に、人権を侵害するようなことがあってはならない。
カルトの信者は人権が制限されても仕方ないという産経新聞はいつも通りの報道姿勢なのだが、朝日新聞までパナウェーブに対する人権侵害を事実上支持している。朝日新聞が守ろうとするのは、記者の理解が及ぶ範囲内で行動する人々の人権だけだということだ。
日本は、被行為者の「されない自由」を行為者の自由よりも上位に置きたがる、世界的に珍しい文化に支配されている。日本はかなりの自由が保障される国だ。しかし、それはふつうの人に限った話だということが、今回また明らかとなった。ふつうの人が嫌がることは、してはいけないということだ。個人の信教の自由なんか、多数派の感情の前には吹っ飛んでしまうのである。「だって、白装束は不気味でしょ」って。
朝日の記事では、根本的解決のために国が法整備を進めるべきだという意見が無批判に紹介されている。ひどい話である。合法な活動を行っているだけの人間が、たんにふつうでないというだけで、周囲の勝手な不安のために行動を制限される(住民登録どころか公道の通過さえ認められない)ことをよしとするのである。魔女狩り裁判を合法化しようなど、正気の沙汰ではない。人権派の朝日でさえこうなのだから、世も末だと思う。
現在の先進国民のうち、かつてのナチス党員にもっとも近いのは日本人ではないか。異端とされた集団に容赦がない。警察と国が理性を保っているからまだいいようなものの、地方自治体はそろそろ住民のいいなりになりつつある。亡国の足音が聞こえてくるとすれば、例えばこうした場面であろうと私は思う。
Kazuho/V.Sonicさんが紹介されていたサイト。Girlsカテゴリ……やはり料理に興味があるのは女性が多いということか。キューピーやカゴメのサイトも、女性の閲覧者を意識しているそうだ。現時点でメインとなっている客層を意識するのは当然だけれども、なかなか社会の変革というのは難しいものだと思う。当面、家庭料理の主な担い手は女性であり続けるのだろう。
Kazuho/V.Sonicさんの日記では、幼いお子さんの様子を綴った文章が好きです。育児日記はたいてい好き。更新が不安定なケースがほとんどなので、それだけを目的に読み続けているサイトはないのですが……。
更新に一区切りついたようなので、あらためてご紹介します。望月さんが数々のサイト批評に対して何を感じたか、どう対処してきたかという記録です。サイト批評サイトを運営されている方には参考になると思います。
話題になっている記事を読まない人、というのがいるわけで。
3つも記事を読んでいながら、私は話題の記事を読まずにきました。何となく。
今日になって、ようやく以下の経緯を辿って原点まで遡りました。
私も、これくらい話題になる記事を書いてみたいですね。豺狼の路では特異性のないサイトは埋没するというのだけれど、さようなら「テキストサイト」という記事の凡庸さをどう説明されるのでしょう? 話題を集める記事はしばしば、凡庸なものだったりします。音楽でも小説でもそうですが……。
以下、簡単に私の感想など。
私が面白いと思ったのは素面では書けないようなあの酷い文章を残し、嫌われ、創作に専念するための足かせにしようという狙いもありました。
というくだりです。さようなら「テキストサイト」程度の悪口さえ、酔わなきゃ書けないのですね。私は素面でひどいことを書く人間です。端辺圭さんのような常識人の不自由な生き方は、とても真似できないなあと思いました。
神岡日記が更新を終了してしまったので、代わりに豺狼の路を巡回先に加えました。
中高で同学年だった鈴木孝一郎くんのサイト。Yahooで今日のおすすめに選ばれたこともあります。タイにいっているとは知らず、ちょっと驚いたのだけれども、楽しそうなので安心しました。(参考:中国新聞(炎の鉄板)W杯 第18回 絶品...タイのお好み焼き「ホイトート」 バンコク在住・鈴木孝一郎さん)
しかしこー。 http://kuroneko-y.hp.infoseek.co.jp/paku5.html の
私が書いたものの男女の立場をひっくり返した小説を書いてきました。って、それはパクリというのか? せいぜい、ただの二次創作ではないのか? と、これまでの論との落差にガックリ。
提言関係のサイト、騒動終息後も更新が続いているんですね。
いずれも3月20日当時と比較してかなりの修正、追加が行われています。後者について否定的な発言を引用しましたが、それを割り引いても一読の価値はあるのではないかと思います。
パクりといえば、
反論がまとまったらコラムを再掲するのかと思ったら、5月4日付の更新によれば要求に応じるという決断は覆らないようですね。つまんない話。
上級篇ではかなり正確な情報を提供しているのですが、なぜかこのサイト自体はトンデモなHTML文書ばかりで構成されています。
佐渡島のうわさ話と僻地日記(5月2日付)にブックマークを一発消去してしまったという失敗談が載っていますが、どうやったらそんなことができるのだろう、と不思議に思いました。全部ひとつのフォルダに入れていたのかな? 私の場合、MozillaとIEとSleipnirというブックマークの3点保存をしている(ブックマークの増減は必ずSleipnirで行い、変更のたびにMozとIEにエクスポートしているわけです)ので、たとえどれかでブックマークを消してしまっても何ら問題ありません。ちなみに、最近よく使うOperaではブックマークを一切利用していません。個人的リンク集経由であちこち回るだけです。私は個人的リンク集+はてなアンテナ登録サイト以外は定期巡回しないということです。
データ管理の基本は複数の箇所にバックアップデータを置くということです。
閑話休題。
5月4日付の記事で草刈の作業中に雉の首を切ってしまう話が出てくる。まおさんはげろげろーっ
とおっしゃるのだが、そこからふと連想した話。
かつては肉が貴重だった。母方の祖母はしばしば、庭の小屋で飼っている鶏をつぶして鶏料理を作った。本当の親子で親子丼を作っていたわけだ。したがって母は、前日まで小屋の中を元気に走っていた鶏が、首を切られ、吊るされて血を抜かれ、そうして食卓に上ってくるという現実を見つめて育った。これを残酷だと思う方もいるだろうが、食物連鎖の残酷さに目をつぶることこそ、私は本当にひどいことだと思う。残酷なことだと思う。
牧場に私を連れて行った父は、牛の目のかわいらしさをひとしきり語り、そしていったものだ。「この可愛い牛も、最後は殺されて肉だけになって食べられてしまう」
肉は、最初から肉としてこの世に現れたわけではない。もとは命ある生き物だった。その単純な事実を、忘れて生きている人が多すぎる。そんなことを考えていたら、肉なんか食べられないじゃないか、という人がいる。私の答えは簡単だ。だったらあなたは、肉を食べるべきではない。
動物殺しに耐えられなくなり、菜食主義者となる人がいる。だが野菜だって、人に食べられるために生きているわけではない。埴谷雄高は『死霊』に「亡霊宇宙」の挿話を入れ、食物連鎖で結ばれていた生物たちが、死後、自分を食べた相手をたどっては告発するという喜劇的な一場を描いた
が、野菜の命を奪って人が生き長らえる構造に耐えられないならば、人は死んだ方がよいと私は思う。
人は無数の命の犠牲があって、そしてはじめて生きていくことができる。こうしたことに無自覚な人を、私は嫌う。無知は罪である。知るべきことを知ろうとしないのは罪である。
日々是精進(5月6日付)に大泉村では進入を阻止すると息巻いているようですが,不安だからと言う理由だけでそういった行為が許されるのか?
という指摘がありますが、そうした意味では日本は信教の自由に無頓着な方が多いわけです。オウム騒ぎの際も、不安だからという理由でオウム信者が全国で受け入れ拒否にあいました。その結果、学校に通えなくなった子どもが多勢出たわけですが、「それが嫌なら脱退しろ」風の意見が平気で人々の口に上ってきたことには驚かされたものです。
結局、日本人は「最大多数の幸福のためなら個人の自由はどんどん制限しますよ」という社会を志向しているのでしょう。優しい日本人の考える理想的な社会の不自由さに、私はときに辟易します。「嫌なことをされない自由」という名の、自由の制限。
いずれにせよ、法律違反のみを取り締まる警察の慎重な行動と比較して、地方自治体のパナウェーブ研究所攻撃の無法は目に余ります。不安だというだけで人権を侵害してもよいという発想の危険さに、なぜ気付かないのでしょうか。無形の空気としても社会的制裁は必要悪かもしれませんが、自治体が公式のコメントとして人権侵害を堂々と宣言するあたり、どうかしていると思います。責任ある立場の人が衆愚に迎合するのは恐ろしいことです。
私にはよくわからないのですが、化粧するのが当たり前になってしまうとすっぴんで外出するなんて考えられなくなるようですね。
SECRET LOVE(4月17日付)で寝坊したので会社で化粧したという話が出てくるのだけれど、化粧の目的ってなんなのだろうと思いました。私の職場の場合、女性社員3人のうち1人は化粧していないように見えます。私は化粧に詳しくないので、判断の根拠は頬と唇の見た感じだけなんですが……。(頬にパウダーがあるかどうか、唇に光沢があるかどうか、これでだいたい判断がつくと思います)
全社的にはどうなんでしょう。受付担当の派遣社員はたしかに化粧しています。製造担当の工員さんは、年齢に関係なく化粧していない人がほとんど。化粧している人が浮いてしまうくらいです。この中間が技術系のオフィス。技術者の方はあんまり化粧していないように見えます。
スタジオ収録のテレビに出る場合には、男女問わず化粧が必須となるという話は知っています。皮脂をパウダーで押さえないとライトの反射で光ってしまうとか、そういったいろいろの理由があるそうですね。で、それは理解したのですが、オフィス出勤で化粧する意味というのが私にはどうもよくわからないわけです。唇の光沢なんてあってもなくても同じことで、頬の粉っぽい感じにいたっては、むしろない方が私は好きなんです。
本当にみんな、化粧した後の方がきれいに見えるという自信があってやっているのでしょうか。何となく「化粧はするものだ」という思い込みだけのような気がします。小中高ではみな化粧することなどなくて、大学時代のバイト先(塾)でも化粧なんかしていない女性が大半だったわけですが……。もしすっぴんの顔が本当に人に不快感を与えるものなのだとすれば、男性も化粧した方がいいということになりませんか。
社内製作風の素朴なサイトの作りはともかく、ゲームの開発担当がレベルファイブという新興企業だということに驚きました。ドラゴンクエストほどのキラーコンテンツも外注する時代なんですね。そういえば以前のドラクエもプログラミングはちゅんそふとが担当していました。外注に抵抗感がない体質があるのかもしれませんね。
私自身は10年ほどテレビゲーム/パソコンゲームから遠ざかっているので業界の近況には疎いわけですが、最近はみんなこんな感じなのでしょうか。
リンク元サイトは基本的に見るようにしているのだけれども、楽道(らくみち)構築日記だけはずっと見ていませんでした。更新を終了したサイトだと思っていたのです。
今日、久々に見てみて驚きました。案外、更新されているんですね。
仮に地球の自転と同じスピードで何時間も走れるとしたら。また、赤道直下に陸地版グランドラインの様な一直線の乾いた土地があれば。東から西へ、太陽だけを追い掛けてまるで地球を使った壮大な球乗りをするかの如く。そしてその中でこそ僕は見つける事が出来る。地球が回っているという事実を。その実感を。
速度にしておよそ時速1700km。
赤道直下の地上0メートルに限定するから難しいんですよね。もうちょっと緯度が高いところでよければ、例えばアメリカから日本へ渡る航空便などに乗ると、いつまでも昼が続く怪現象を体験できます。逆に日本からアメリカへ向かうと、偏西風にのって快調な旅になれば、夕方に出発したのに、到着したら同じ日の午前中ということも。(余談。アメリカから日本へ太平洋を渡る便の場合、外は明るいのに窓のシャッターを下ろして「夜を作る」サービスがあります。部屋を暗くすれば夜になるという発想は面白いですよね)
そういえば、白夜を体験できる地方では、立ち止まりながらにして地球の自転を体感できるともいいますね。
最近のリンク元でちょっと気になったサイト、蟻の城。私が大学に入学した頃から続いている。短期間に大量の文章を書いても書いても、長く書き続けたサイトにログの量で勝つのはなかなか難しい。
更新を休むと、ログをじっくり読んでくれる人が増える? 割と、そういう傾向は無きにしも非ずという感じがします。よーし、これからもどんどん更新を休んじゃうぞー。
備忘録、しばらくはこんな感じだと思います。
テキストコンテスト地方予選の決勝参加作品、あー、いきなりとんでもない時系列のミスを発見。作中人物のいい間違いだと言い張ってもいいけれど、お約束としてそれはナシですよね。
今回も、時間がなかったわけではありません。あと1日、早く書き始めていればよかったんです。あるいは、くだらないシーンを削って1000字くらい短く書けば見直しの時間も取れたはずなんです。前回は30分、見直しができました。今回はまったく見直し不能。昨晩中に書いたシーンまではゴチャゴチャ書き直しましたけれども、7日の〆切間際に書いたシーンは書いたまんまです。ごめんなさい。
あと、私はワンパタ作家だなあと思いました。手抜きでそうしているのではなく、テーマが発表されてからというものずーっと考えてきたのにこうなってしまったんです。たしかに一部の展開についてひらめいたのは昨晩ですけれども、それにしたって一晩は寝かせているんです。なのに、書いてみたらワンパタだったのでガックリです。
いずれにせよ地方予選はこれで最後です。少なくとも決勝参加者は、投票しましょう。私も自作品のみ評価不能として、他の作品についてはふつうに投票しますよ。これまで予選リーグで上位に入った作品にはたいてい3点をつけてきたので、今回は自作品以外3点が並ぶのかな? 期待しています。23時45分現在、まだ決勝リーグの投票は開始されていませんけれども、日付けが変わる頃にはおそらく……。
正月以来の実家帰り。5日まで。6日から仕事。7日はテキコン地方予選の〆切。あ。
リニューアル講座の記事をGW中に増やす約束もあったはずなんだけど……。
明日からGWですね。3連休ですけれども。
リンク集を2つとも整理。リニューアル講座の記事を一部修正。