趣味Web 小説 2006-06-22

理由は後付だってかまわない

みな論理的に話をしている(2006-06-06)のご感想かと思います。私は同記事で意図的にネタ元の記事から主題をずらして自分の書きたいことを書いていまして、本来のテーマに正対した意見は当該記事のコメント欄に書き込んでいます。……という留保をつけた上で、以下、少々。

自分の要求を認めさせるのが主眼目だから、前提のすれ違いとかってな次元じゃないわけ。そういうご婦人と議論したら分かるが、前提のすれ違いを認識したとしてもそこから議論が再出発せずに、別の方向から同じ要求を認めさせる論を組み立てる。だから、全くもって議論にならない。そういう意味で、「感情は据え置きなのに(本当はI want なはずなのに)、正当化するために物語を作る」というのは、もうもう全くそのとおり。論理は多かれ少なかれ物語だけど、いろんな事実を指摘していって前提の溝を埋めていっても、それを全部無視してもっともらしい理屈を作るから「物語」とか「非論理的」とか言われる。そりゃもう実に見事な「物語」を作りますよ、事情を知らない人をころっと騙してしまうようなね。

のまネコ問題や VIP ブログ問題における2ちゃんねらの物言いにもこれは通じているのだけれども、これはある程度までは致し方ないのだと思います。なぜなら、私はこれこれの理由でこう結論付けました、なんていってみても、言葉に思いの全てを詰め込むなんて不可能。「これでいいたいことは全部書ききった!」なんて満足できるのは一瞬だけ。何かリアクションがあれば、どんどん新しい言葉を思いついてしまう。

最初に全ての論点を示すなんて、無理なんですよ。推論Aはつぶれた。しかしその過程で推論Bを思いついたので、これを示す。それに対して「当初の主張は崩れたじゃないか、往生際が悪いぞ」と怒っても仕方ない。当初提示された「理由」が間違いだったからといって、「結論」が間違いだとはいえないからです。新たに示された「理由」が「結論」の正しさを人々に納得させるかもしれない。

数学の証明問題だって、そうだったでしょう。「キミの証明はここに不備がある」と答案を突き返されても、命題は否定されていない。筋の悪い方針を捨て、新たな構想を練ればいい。「結論」の正しさに確信があれば、みな何度でも「理由」の発見に再挑戦するのです。

どうしてそこまで「結論」の正しさを確信できるのか? 「その結論が自分に都合いいから」という説明は便利に使われることが多いのですが、そう単純でもないと思う。あるいは、仮にその勘繰りが正しかったとしても、その「結論」に付された大義名分が「場」を構成する人々を説得したなら、アイデアの出自を攻撃する意義はどこにあるでしょう?

「大勢に利益のある話だとしても個人的利得が絡むなら許せない」という主張はかなり強力ですが、嫉妬心渦巻く日本の社会においても無敵ではありません。

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ジョン・グリシャムの処女作「評決のとき」は法治国家の原則がどうのとか、弁護士の個人的な名誉欲やら何やらまでごった煮になっている法廷劇。明々白々な犯罪に対して喧々諤々の議論となり、評決直前までどちらが勝つか予断を許さない。ところが結論を導くのは強烈な感情論の一撃。私は唖然としました。

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