趣味Web 小説 2006-10-07

著作権をめぐるもやもや(2006年秋版)

1.

共感するところが多い……とだけ書くと、誤解を招くかもしれないな。

YouTube で人気があるのは、たいてい「お金になるコンテンツ」の切れ端だ。具体的には、テレビ番組の切り抜きである。実際問題、その程度の需要に対応してテレビ局が人員を割くのも、サーバと回線を用意するのも、視聴者が直感的な検索によってその断片を引き出す仕組みを用意するのも難しい。だから YouTube は隙間産業として世の中の役に立っていると思う。

けれども、よく考えるまでもなく YouTube は著作権法をないがしろにすることで成立しているサービスといえる。事前にテレビ局の許可を取ってから映像をアップロードしている人が、どれだけいるだろうか。にもかかわらず、「いくら待っても多少のお金を積んでもテレビ局では実現してくれないサービスなんだもの」「そこに少なくとも数百万人をひきつける大きな需要があるんだよ」だから、と大勢が YouTube を容認している。

利用者はそれでいいかもしれないが、製作者の気持ちがないがしろにされていないか。しばしば一部アーティストの YouTube に親和的な発言がフィーチャーされるが、映像作品は一人のものではない。「YouTube へのアップロードを望んでいる出演者もいるのにテレビ局が手足を縛っている!」との主張には、「番組を切り刻んでアップロードされてもいいというスタッフだけを集めて番組を作ればいいのでは?」と答えたい。

2.

テレビ局は利益のために番組を制作するのに、YouTube でどれだけ番組の断片が人気を博しても、ろくに収入へ結びつかない。たまにファンコミュニティの成熟に力を貸し、間接的に利益をもたらしたとか何とかいう記事が書かれるけれども、我田引水と見えるのは私だけだろうか。ウェブに冷たく著作権にうるさいジャニーズ事務所が2006年の音楽業界で一人勝ちになっている事実もある。

しかしテレビ局に不利益もないのでは? との反論もしばしば目にする。これは怪しい。「YouTube エヴァンゲリオン全話」みたいなリンク集が大人気となったりするわけで、少なくとも商売を邪魔するこの手の連中をチェックするコスト分だけは損をしているといっていいだろう。

そして何より、製作者の心の問題が、どうして捨象されてしまうのか。

「亀田史郎VSやくみつる+ガッツ石松」なんて映像があったけれど、いったい何月何日にどこのテレビ局が、なんという番組で放送した内容なのか、そして番組のスポンサーはどこの会社で、宣伝したかった商品は何なのか、といった情報の大半が欠けていたと記憶する。YouTube に番組の断片が公開されたからといって、金銭的な損失は、事実上なかったろう。だがスタッフとスポンサーに敬意の表明ではなく無視で応えた人々は、権利者の心を踏みにじった。

(とくに素人の)ブログの記事を転載してリンクもせずにいたりすると、「許せない!」と怒る人が湧いて出てくる。でもリンクするより転載する方が大勢に読まれる事実がある。2~10倍くらい違うのだ。引用なんて難しいこと、YouTube はやってない。転載元もきちんと表示していない。

素人のブログの記事なんて、せいぜいアフィリエイトで小銭を得る程度の金銭的利益しか生み出さない。転載されたところで、ブログの人気が落ちるわけでもなく、損失はゼロだ。じゃあなぜ、勝手に転載された人は怒るんだ? それを見た他人までもが公憤を感じるの? 心の問題に思いを巡らせるからじゃないのか。

3.

麻草さんの説明するなぜYouTubeでの再配布を擁護するひとが、自らのコンテンツを部分配信されることに批判的なのか?という問いへの答えには納得できない。

YouTubeで再配信されるものの多くは、元情報が読み取れるようになっている。出ているタレントが誰だとか、どこのテレビ局だとか、誰が監督のアニメだとか。読み取れないものの多くは、みんながなんとなく知っているものだ(北斗の拳とか、セイント星矢とか、キン肉マンとか)(全部ジャンプだな)。それらはテレビに出てくる芸人だって何の説明もなしにネタ化するし、それを見て「パクリだ」と怒る者もいない。パブリックドメインではないが、そのような扱いを受けるほど広く知られていると、配信側が思うからだ。

そこから抜け落ちてしまう関係者が心を傷付けられるわけだ。雑誌に書いた記事が勝手に転載されても記事を書いた人は怒らない(ことが意外と多い)が、出版社は怒る(ことが多い)。雑誌の依頼がなければ、著者はそんな文章を書かなかったろうに、著者は自分が一人で苦労した気になっていて、ウェブに転載した側を擁護したりなんかするから、出版社の人は裏切られた気がしてもっと悲しくなってしまう。

「亀田VSやく+ガッツ」動画の元番組名だって把握している人は僅かで、そもそも番組に金を出したスポンサーまでフォローする人なんて1%も存在すまい。勝手に「別にこんな情報まで読み取れなくてもいいよね」ということにされた人々の悲しみなんて、どうでもいいのか?

それは麻草さんもわかっていて、だからまとまりがないまま終わるという結末を選択せざるを得なかった、中島聡さんの主張にリアリティを感じられなかったのだろう。

4.

本筋には関係ないけれど、YouTube は利用者に遵法精神が欠けているだけで、技術に罪はない、なんて意見も時々目にする。まあ技術に罪はないのだろうが、マジメな利用者ばかりだったら YouTube に大した需要はなく、話題になどならなかったろう。違法なコンテンツが多くの利用者を集め、その状況が相変わらずオマケでしかない遵法コンテンツからも僅かな成功例を生み出したに過ぎない。

5.

著作権延長問題をめぐるウェブ世論についても、YouTube をめぐるそれと同様の違和感を持っている。本来、レッシグらが主張していた著作権抑制の利益とは、著作権切れによってコンテンツの採算ラインが下がり、死蔵されてきたコンテンツが再利用され文化振興に貢献することだったはずだ。ところが実際に著作権切れの映画がどんどん出てきて、一体どんなことが起きたか。

500円DVDのような形で、絶版になっていた映像作品が再び世に出てきた事例は確かにある。しかしその一方で、他人の金儲けを破壊する行為も横行した。素人の観察だが、前者は後者に類する「目玉商品」のオマケとしてしか世に出ることができなかったように見える。

個人的には、本当に著作物の死蔵こそが問題なのだとすれば、「在庫切れの状態が15年以上継続している作品は著作者の死後すぐに著作権切れ/映画なら公開後最短15年で著作権切れ」といった仕組みを提案するのが正しく、死後70年(映画などは公開後70年)へ現行50年から延長しようという提案に、現在のような理屈で反論するのはおかしいと思う。

現に死蔵されていない、ちゃんとお金を生み出しているコンテンツを権利者から奪い去ろうとするから軋轢を生む。意地悪な見方をすれば、所詮、一部の理論家以外は、単にコンテンツの値段を下げたいだけなのだろう。死蔵されているような駄作には関心がない。名作を、権利者に金を払わずに楽しみたい、そういう身勝手な気持ちがあるだけなんだ。

ここでもやっぱり、視聴者が「この人には権利がある」と認めた一部のアーティスト以外の人々の心が無視されたまま、世論が形成されていく。映画会社なんか潰れたっていい、連中は単なる配給業者、つまり中間搾取者に過ぎないのだ、なんて罵倒する。配給する人がいなかったら誰が映画を作れるのか。なぜ自分に理解できない仕事について、自分がその仕事の重要性をよくわかっていないだけかもしれない、と謙虚に考えることができないのだろう。

上司を「ただ偉そうにしているだけ」と勘違いする会社員の滑稽さを描いたテレビドラマなどを何度観ても、自分を省みようとは思わないのか。

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補記

面白いんだけど……こういう話は私が手を出す領域ではないな。根拠の不明確なままに希望的観測で YouTube が関係者全員の利益になる可能性を説く。それはそれで結構。ただ私は、土地の有効利用を拒否して「お金の問題じゃない!」と地上げに抵抗したのも人間だとも思う。

私はもちろん土地の有効利用は推進すべきだと考えてる。YouTube が本当に素晴らしい未来を作るなら応援したい。ただ、消費者にとって不都合な製作者の心の問題なんか無視、という風潮を助長するつもりもない。土地の有効利用のためなら土地に縛られた頑迷な人々の心なんか踏みにじっていいとは考えないんだ。

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