田中秀臣さんの「経済論戦の読み方」などの著作について、私は以前、はっちゃけ気味
と書いて「どこが?」と田中さんに質問された。多数派の主張を代弁する者を見下したような書き方では、少数派が多数派を説得することは不可能だろう、というのが私の主張だった。(関連:id:deztec 2005-12-09)
その田中さんの新作「経済政策を歴史に学ぶ」は、とてもよかった。田中さんが賛成しない主張についても、まずその意見を中立的に読み解いて紹介し、揶揄的な表現を避けた穏当な批判の形式を守っている。「内輪向け」感が抜けており、現在、批判対象の主張に共感している者にも直感的な嫌悪感を抱かせないだろう。
もっとも、内輪向けの本(もともと自説に親和的な読者に向けて書かれた本)だってあっていいとは思う。
個人的にピキピキッとくるところの多かった「経済論戦の読み方」も、おそらくは完全に内輪向けとして企画されたであろう「エコノミスト・ミシュラン」の新書版アレンジと考えるなら何も問題はない。対象読者ではないのに手を出した私の選択ミスだった、とはいえそう。いまさら、ながら。
ところで父が株に夢中になって小遣い貯金を全部株に変えてしまったことは以前にも備忘録に書いたと思う。母は今回も父の趣味には寛容で、「お金があったら買いたい株がいくつかあるのに」と愚痴る父に同情(?)して借金の申し入れにも快く応じているという。「元はお父さんの稼いだお金でしょ」まあね。
というわけで、母が私の名義で貯金していた100万円は父の趣味に消えたそうだ。お金儲けには無縁の父だから、返ってくるとは思ってない。そもそも自分のお金じゃないし、文句はないよ。
第二海援隊の愛読者である祖父が株で大儲けしたくらいなので、別に経済学に長じなくたって株で成功することはできるに違いない。でもせっかく経済方面に目が向いて、偶然、ここ1年ほどの私の関心と少し重なっているのだから、少し「話せる」状態になってくれると嬉しい。この希望くらいは押し付けてもいいかな。
そこで何か1冊……と思ったのだけれど、これが難しい。「経済論戦の読み方」は前述の難の他、経済学の基本を説明する章が、やっぱりずぶの素人には眠いというか、つらいような感じが。「経済政策を歴史に学ぶ」も、基本的に一定の素養のある人でないと厳しいか。流し読みでいいから最後まで辿り着けば「あ、なるほど」とストンとくると思うのだけれど、そういう読書の技術が父にあるのかな。
そういうことなら岩田規久男さんの著書を探せばいいよ、という話を小耳に挟んだので調べてみると、あった、ありました。「日本経済を学ぶ」というちくま新書。入門書という山を越えたら選択肢は広がるわけで、「デフレは終わるのか」や「日本経済にいま何が起きているのか」も抵抗ないと思う。
私は小学校を卒業する前にバブル崩壊を迎えて高校・大学そして入社1年目あたりに不況の荒波を食っている。でも幸運にも苦労というほどの苦労もしなかったわけで、宙ぶらりんな人生。だからフワフワした言説に共感することが多かった……のか?
その点、青春時代を昭和恐慌の暴風の中で生き抜いた祖父母や、戦後復興に取り残された町に育ち、高度成長による環境の激変から70年代の狂乱物価、そして80年代の栄光と90年代以降の転落を生身で体験してきた父こそ、実証的で地に足のついた議論を展開する経済学者の言説は受け入れられていいと思うのだけれど……。
しかし実際のところ、人々が「地に足のついた言説」と感じるのは、庶民の直感的な世界認識に寄り添った理屈と結論を示す意見。なぜそうなるのか。というかそもそも、なぜ庶民の直感が「現実から遊離している」のか、そこがよくわからない。陰謀論にハマったり政治家や官僚の力を過大視したり。
父は「仮の話」ができない人で、例えば「人には殺人の自由もある」という前提条件を受け付けない。だから自由VS自由から説き起こす物語を第一歩から拒絶されてしまう。けれども、そこを何とかごまかして最後まで話を聞いてもらうことができたなら? 不思議なことに、「なるほどねぇ」と着地することもあるのです。
母は他人の意見を「とりあえず聞く」ことのできる人だから、例えばリフレ派の主張だって賛同はしなくても理解はできると思う。田中さんの「経済論戦の読み方」だって放り出さないに違いない。けれども父はどうか。岩田さんの本が、直感的拒絶の対象をひとつ減らすことに成功したら、面白い。