趣味Web 小説 2007-07-18

ペンもノートも持ってこない学生の指導法:補足など

ペンもノートも持ってこない学生の指導法(2007-07-17)の補足記事。

ブクマコメントに誤解があるようですが、僕は学生を脅したり、罰したりは一度もしませんでしたのでそこは誤解なさらないで下さい。ただ、学生自身に自分について改めて考えてみることは促しました。

これは福耳さんのコメント。本当に誤解があるなら申し訳ない。杞憂だとは思うのですが。

脅したり罰したりするような先生は、あまり福耳さんのようには悩まない。香山リカさんのように「学生の劣化」を憂い、怒るか呆れ果てるかすることが多い(という印象)。いい大人の判断に口出しすることを僭越ではないかと気に病むような福耳さんだから、私は応援したい。

ブログのタイトル、「ペンとノートを」じゃなくて「ペンもノートも」。脅してるわけじゃないと言いながら、実際は学生を見下してるのが見え隠れしてるな。

「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)、教える理由(2007-04-04)、福耳さんへ・1(2007-04-06)いずれのエピソードも、「教師が生徒を見下す」ことを受け入れられない人にとっては、許し難いでしょう。倫理的批判は、甘んじて受けます。

「ペンもノートも」という言葉は、たしかに非難がましい。なぜこの程度のこともしない(できない)のか、という一方的な憤りが内包されています。ノートを取ると話を聞けないとか、ノートなんか取らなくても成績は十分に優秀だとか、それぞれに言い分があるのに……ええ、ええ、よくわかります。

けれども、集団授業の現場で実際の対応を考えたとき、「多くの学生にとってノート作成は有意義だ」と判断したならば、蛮勇を奮うのも教師の責任でしょう。

授業の目的はノートを取ることではないだろうに。ノートを取れば成績が悪くても卒業できる学校なのだろうか。そっちの方が問題と思う。

たしかにノートは手段に過ぎませんが、プロセスを放任して果実だけ求めることができましょうか。大学はサービスが悪い(2007-03-21)や大学は理想に殉じ、底辺の学生を見捨てる。(2007-03-23)から私の問題意識はつながっています。

なるほどだが、大学生にノートのとり方を教えるほど暇じゃないだろう

90分の授業を60分にすれば、ノート指導は可能だと、私は提案しました。20分毎にお手本のノートと自分のノートを比較させ、足りない部分、ぜんぜん違っている部分をみんな転記させる。すると1回の授業で3回の練習を繰り返すことができ、先生のお喋りからノートを作っていくということについて、感覚がつかめる。

2~3回、こういうのをやればいいんです。1回休講するのと同じだけの時間しか要さない。最近の大学は、私が学んだ頃と比較して、この程度の時間も取れないほど忙しくなっているのでしょうか。

まぁ大体共感。しかし「こういうノートを作るべき」という雛形を与えるのは…??

お手本なしに指導するのは、まず不可能です。誰だって最初は真似ることから始める。黒板を写すことしか知らない学生にとって、ひたすら続く口説をノートにしていくのは、初めての経験なのです。

無論、目指す地点においては、ノートのパーソナルな側面が重要になってきます。しかし私が書いているのは、はじめの一歩の指導だということを理解していただきたい。典型的なノート作成のパターンの、最低ひとつ(それは教師の趣味で選んでよい)について、まず学ぶ必要があるのです。

違うと思うなあ/僕には甘やかしにしか見えない。黙ってても周りが何でもやってくれると思い込みかねないんじゃ/甘い幻想よりも厳しい現実を叩き付ける事が教育なんじゃないのかなあと

ノートは、まさに今、とるしかない。なのにペンも紙もない。そういう学生を見て、少なくとも福耳さんは悩んだ。多くの先生は「困ったもんだ。けしからん」としか思わない。私の提案に耳を貸すとすれば、福耳さんのような先生だけです。だから心配ご無用。厳しい現実なんて、どこでだって学べます。

人には心がありますよ。貸した鉛筆の芯がポキッと折れてしまうと、「ああっ」と悲壮な顔をする。自分で削った鉛筆で、そんな顔はしない。借りた鉛筆だから、私がどれだけ熱心に削っているかを知っているから、そういう顔をする。ふだんはまともに礼のひとつもいわない生徒にだって、そういう感情がある。

「折っちゃったか。しょうがないなあ」とかいって、もう一本貸してあげたらいい。三度か四度、芯を折ったら、ていねいな落ち着いた運筆ができるようになってくる。「来週はちゃんと持ってきましょうね」教室でそういい続けるうち、忘れ物も、少しずつだけど減ってくる。

小中学生も大学生も同じだと思う。叱りつけなくても、次第に忘れ物は減るはずです。万が一減らなくても、ペンを貸したことで学生はノートを取ることができ、漫然と話を聞くよりも多くのことを頭にインプットできたろう。それでいいではありませんか。

『「そんなんじゃ社会で生き残れないぞ」って脅すより、みんなが楽しく暮らせる社会を作っていく方がいい。』

自然に口を突いて出てきた言葉を深く考えずに書き留めた最終段落が、意外と多くの人にとって印象深かった様子。いろいろ書いて、その最後の一言だから、何か伝わるものがあったのかな。

「余計な一言」について

余計な一言、というのはありまして。貸した鉛筆の芯を折ってしまい顔を歪めた子どもに「気にしなくていいよ」なんていっちゃあいけない。にこやかに、もう一本、鉛筆を貸すのは正しいけれど、せっかく生まれた「今度こそは芯を折らないよう、ていねいに字を書こう」という気持ちは大切に育てないと。

人によっていろいろな定義があっていいと思うけど、「芯なんかいくら折ってもぜんぜん気にしないでいいよ」というのが、私にとっての「甘やかし」です。成長の芽を摘みかねない甘さ。私も一度これで失敗して痛い目にあっています。

私の提案は、成長のインセンティブとして、物を借りるときの感謝の気持ち、「申し訳ないな」という気持ちを利用しているのです。怒らない、叱らない、ということと、甘やかしてインセンティブの構造まで破壊してしまうことは別なんです。

どうしても「気にしなくていいよ」といいたいこともあるでしょう。繊細な感性を持った子どもに対応する場合とかですね。そのときは、「折れちゃった芯のことは、先生は少しも気にしていません。はい、もう一本貸しましょう。明日から、筆記用具を忘れないようにしようね。それが先生の一番の望みです」という。

先生は、気にしていない。主語に注意。あなたは気にしなさい、という含み。でもそれはいわない。

同様に、「来週も忘れたら、また貸してあげますよ」も余計な一言。ずーっと「来週こそは、ちゃんと持っていらっしゃい」といい続けなきゃダメ。貸すのがゴールじゃないわけだから。

優しい先生は、しばしば口を滑らす。それなら、怒ったり叱ったりする方が、まだいいかもしれない。怒ったり叱ったりする大人は学校と家庭にはありふれていますから。いまさら一人二人増えても大差ない。

私が怒ったり叱ったりを避けるのは、教育効果が小さいからです。本気で怒るのは、万引きのような犯罪を叱る際に大切なことだとされていて、それは私も同意します。しかし子どもが忘れ物をするとか宿題をしないといったテーマでは、意味が薄い。なのに、怒って叱ると疲れるので、満足感がある。これがいけない。

じぶんはやることをやった、と子どもに責任転嫁しちゃう。要注意です。

私の提案の位置づけ

福耳さんが仰る通り、いろいろな先生がいるのが望ましい。

私が極端を承知で、(主に)小中学生向けの補習塾のノウハウを大学教育に応用する提案を繰り返しているのは、絶対に需要はあるのに、そういうことをやっている先生が少ないからです。

私は福耳さんの実践を素晴らしいと思っていて、ぜひその方向で研究を積み重ねてほしいですし、可能な範囲で支援・応援していきたい。ただそうなると、徳保提案を実践してくれそうな人がもう見当たらない。他のどなたかが「あ、これいいな、やってみよう」と思ってくれたら嬉しい。

というか、若者が劣化したとか何とかいってる大学の先生方は、騙されたと思ってやってみてほしい。(我流で上っ面だけなぞってもうまくいかないので要注意 Ex. 余計な一言)

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