なぜ羽田の拡張ではなく、千葉県に新しい空港が作られたか。しかも東京湾岸ではなく、成田のような内陸に。
その理由は、横田飛行場(以下、横田基地)にある。
少しずつ返還が進んでいるものの、東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県の1都8県にまたがる、本州を横断する空域が、今も米軍の管制下にある。冷戦時には対ソ偵察機が飛んでいた。横田空域は、民間機も許可を得れば通過できるのだが、手続きが煩雑で忌避されている。
横田空域を背にする羽田空港は飛行ルートの設定に大きなハンデを背負っており、埋め立てて土地を拡げれば滑走路は増やせるものの、便数を増やすことは難しかった。そこで新空港は横田空域の影響のない距離まで東に逃げた位置に建設する必要があり、成田はその条件に当てはまっていた。
千葉県の浦安沖や木更津沖の案もあったが、検討の結果、横田空域に近すぎて運用が難しいことがわかった。そこで千葉県の印旛沼、富里、茨城県の霞ヶ浦周辺、谷田部なども候補地となったけれども、みんな住みなれた土地を移りたくない。反対反対の大合唱。それで御料牧場のある千葉県成田の三里塚が選ばれた。
やっぱり大反対となったけれども、国が不退転の決意で臨むや、地主の多数派が土地を手放すことに同意するに至った。成田市議会では次第に、空港建設推進派が断然多数派を占めるようになっていく。他方、騒音被害が大きく、空港の恩恵が少ない芝山町議会では、開港後も延々と空港建設反対派が大勢力を保持し続けた。
地元農家の反対というとき、「地元」の定義が必要になると思う。成田市という区切りでいうなら、空港反対が多数だったのは初期のみ。計画が具体化し、転がり始めるや、だったら完全開港を目指す、という意見が勝った。歴代市長は全員、空港推進派だ。千葉県議会議員も県知事も同じ。
ところが成田新幹線の予定地では、自分たちに利益のない空港のせいで騒音被害に遭うのは許せない、と大反対になった。空港に給油するパイプラインの建設も、たいへん難航した。いずれも予定地からちょっと離れれば、むしろ空港の恩恵の方が大きいので、県議会議員は推進派だが、地元町長は反対というねじれ現象。
結局、パイプラインは何とかなったけれど、成田新幹線は頓挫し、不便な空港になってしまった。
さて、石原慎太郎さんは、東京都知事を目指した際、まず横田基地の民間共用化を謳った。これは日米対立を煽ってカッコつけたかったからではない。東京の発展は国際化とともにある、との展望から、石原さんは羽田空港をアジアのハブ空港に育てたかった。そのためには横田空域の管制権を取り戻す必要があったのだ。
羽田空港の再拡張事業と横田空域の返還はリンクしており、1992年の一部返還がC滑走路、2006年に合意し2009年に予定される一部返還はD滑走路の供用につながっている。
横田基地の民間共用化は騒音被害の深刻化を懸念する地域住民の反対運動などのためすんなりとは進みそうにない。しかし日米両政府はアメリカ空軍と航空自衛隊の共用化で合意しており、横田空域の管制権は少しずつ日本へ返還されつつある。(今年9月25日の返還空域)
当面は、米軍から自衛隊に管制主体が変わるだけで、軍事訓練などの目的のため、横田空域の民間開放は行われない。それでも20年、30年という単位で考えるならば、これは横田空域問題解消への大きな一歩となる。今後も横田空域は外交問題であり続けるが、少しずつ、国内問題、経済問題としての側面を強めていく。
ここ数年、千葉県は成田空港の先行きに危機感を強めている。これも横田空域の返還が進みつつあるためだ。かつて「通過するだけの電車の騒音に悩まされるのは真っ平御免」と成田新幹線に反対した市町村が、成田新高速鉄道の建設に協力的になった。成田空港なき千葉県経済は、明るい展望を描きにくい。
「不便でも成田を使うしかないんでしょ?」と高を括ってきた態度が、いよいよ通用しなくなってきた。騒音を受け入れてでも成田を守らねばならない。また、ニュータウン開発が進んで駅がいくつも作られ、単なる通過地帯ではなくなったという状況の変化も大きい。
じつはアメリカの大都市近郊の空港でも、市街中心部へのアクセスに実質1時間弱程度の時間がかかる事例は珍しくない。成田新高速鉄道で成田と上野は30分台で結ばれる。まずまずの数字だと思う。歴史の古いフランクフルトやヒースローと比較するのは酷だ。
成田に国内線を入れ、羽田に国際線を入れる。乗り継ぎを便利にする取り組みが、遅々たる歩みとはいえ始まっている。羽田も環境問題、漁業問題があって、D滑走路の「次」は見えない。どのみち羽田だけではパンクしてしまうのだ。2つの空港が切磋琢磨し、協力し合う、そんな環境が整いつつあるのではないか。
そのキーとなる横田基地はアジアにおける米軍再編の大計画の中にある。つまり、沖縄につながっている。もちろんイラク、アフガニスタン、イラン、北朝鮮とも関連している。
パリ市街から電車で30分の位置にあるシャルル・ド・ゴール空港は、計画・建設の時期が重なり、市街との距離や、農地のど真ん中に作られたということからも、成田空港と比較されることがしばしばある。
なぜドゴール空港で建設反対の運動が起きなかったか。それは、地主が3人しかいなかったから、だそうだ。アパートやらマンションやらの立ち退きでもそうだけれども、100人、1000人を一人残さず説得しようとしたらたいへんだ。「妥当な金額」では3割が納得しないし、「金額の問題じゃない!」という人も出てくる。
フランスでもTGV(フランス国鉄高速鉄道)の建設では散々トラブルが生じ、抗議運動、建設反対運動も起きた(一部は今も続いている)という。了解を得なければならない人数が増えれば、日本でもフランスでも同じようなことになる。
ドゴール空港の建設予定地となった農園で働いていた雇われ農夫たちは、その後、どうなったのだろう。空港の建設作業員となり、今は空港で勤めていたりするのだろうか。