まるで他人事のように書き出すけれども。
松永さんが「正字正かな派」のために何か不幸になっているなら、あるいは、これから不幸になるという理路があるなら、松永さんが「正字正かな派」を批判する意味はあると思う。でも、「正字正かな派」は基本的に、自分自身が歴史的仮名遣いを使っているだけで、それ以上のアクションを起こそうとしていない。
「正字正かな派」が怒るのは、「正字正かな派」が批判されたときくらいだ。「正字正かな派」は、少数派なりの「正しさ」の基準を持ち、自らの生活において実践することでとりあえずは良しとしており、それが脅かされない限りは、静かに仲間を増やしているだけだ。
消極的であれ社会の多様性を許容しているわけであり、松永さんとぶつかる必然性はない。
松永さんの記事は、「自分は「正字正かな派」とは意見が異なる」といっているだけ、とも読める。とくに「正字正かな派」の反省や転向を求めるつもりはないのかもしれない。もしそうであれば、問題は、文章を素直に読むと、「正字正かな派」は**すべし、と要求しているように解釈できることだ。
お節介は重々承知しているが、「私は**という考え方を持っているので、表記だけ歴史的仮名遣いにしようとは思いません」といった書き方ならば、もう少し落ち着いた意見交換ができたのではないか。
とはいえ、「**批判」が文章を書きやすい型なのは事実。**への違和感を書き連ねることで、自ずと持論が浮かび上がってくる。そうか、自分はこんな考えを持っていたのか、と思う。
で、自分の考えがよく伝わりそうな文章が書けた、と思って公開するのだけれども、「**批判」の部分ばかり注目されて無用の反発を招くことが少なくない。
松永さんがどうなのかは、本当のところ、わからないが、私の場合はたいてい、批判の対象に私の文章を読んでほしいとも思っていない。
「**批判」は単なる文章のスタイルに過ぎず、「私の意見は、Aではない。Bでもない。AやBに同意しない理由は**であり、つまり私の考えはCである」という思考過程を素直に文章にすると、「**批判」になる、というだけの話なのだ。「**は**せねばならぬ」なんて書いていても、それは弱い願望に過ぎない。
私は自分が少数派に身を置くことが多いから、意見を「押し付けられる」ことへの恐怖感は人並み以上に持っているつもりだった。だが多数派のみなさんこそ、むしろ「批判慣れ」しておらず、ちょっと異論をぶつけられただけで危機を感じて爆発するものだと、数年間ブログをやってきて、私は思い知らされた。
なので、(大半の記事は激烈な書き方をしてもスルーされるため)まだまだ目先の面倒に負けてしまうことが多いが、少しずつ、推敲をするようになった。批判や説得の色彩を薄め、「私には異論がある」ということを強調するように。
何だかんだいって昔は、「みんなバカでどうしようもない。俺のいうことを聞け」という気分が強かったように思う。今でも、下書きの段階では、まあ、そんな感じだ。
が、いろいろ反論などをされてみると、結局、同意はできないまでも、「それはそれで理解できる」と納得できることが多かった。そうした経験が積み重なった結果、「意見は異にするが共生はできる」という範囲が拡大し、批判対象の実際の行動の変更を強く希望することが、かなり減った。
自分が同意できない意見にはネガティブな評価をせざるを得ないが、しかし批判対象の撲滅を望んではいない、というニュアンスを、うまく伝えられるような表現を模索し続けている。