趣味Web 小説 2009-02-28

おせっかいな文章 4

野嵜さんは何をしたいのですか。おかしな意見に、その場で反論する、それ自体が第一の目的なら、私からいうことはありません。

私がおせっかいを申しているのは、もし自分が野嵜さんの立場だったら、「より多くの人の誤解を解く」ことを目標にするからです。コメント欄への集中豪雨的投稿は、この目的に合致しません。

このところ、記事が長いこと自体は、とくに読者を減らす要因とはならないようです。内容さえしっかりしていれば、むしろ書くべきを余さず書くほうが、きちんと読者を集めることができる様子。

しかし、コメント欄では、やはり長文は読まれていないと思います。分量が多い、一人で何回も書いている、それだけで敬遠されてしまう。議論の直接の相手くらいは読んでくれるかもしれませんが、大多数の人が、形式的にフィルターにかけてしまう。

記事にトラックバックなどしても、9割がたの読者には無視されます。それでも、分量が多い場合、コメント欄に書くよりは、よく読んでもらえるでしょう。「闇黒日記」はトラックバックできませんが、コメント欄に反論記事の案内をすれば、だいたい同じ効果が得られます。

コメント欄に登場したtanzenさんは、その態度から察するに、説得可能な相手ではない。tanzenさんの翻意を期待してもむなしく、コメント欄を読んでいる第三者にアピールする以外に、反論のコメントを書く意義はありません。ならばそれなりの書き方がある、と私は思うわけです。

そして、そもそもコメント欄は、あまり読まれません。「備忘録ことのはインフォーマル」のコメント欄は文字も小さいですし、なおさらそうでしょう。

松永さんの誤解を解き、「この部分は事実誤認だった」という記事を書いてもらうのが、「より多くの人の誤解を解く」には一番です。コメント欄で、間違った意見にひとつひとつていねいに反論するのは、正しいやり方でしょうが、目的には適わない。理はあっても利がない。

野嵜さんが利より理を取るのはわかっているけれども、日常生活の全部をそうされているわけでもないはずで、だからおせっかいを申しました。ここは利を取ってもいい場面なのではありませんか、と。

少ししか書かない事、説明しないで根據拔きで結論だけを書く、レッテル貼りをする事だ。さう云ふ不誠實な態度がウェブ、「ブログ」で一般化してゐる。それに對して俺は反對してゐる。俺は、多くの人が、コメント欄で澤山書くやうになる事がいいと信じて、實踐してゐる。例の「福田恆存をやっつける会会長」ですら、Yahoo!ブログのコメント欄で澤山書けないと不滿を漏らしてゐた。コメント欄で澤山書けるやうな風潮を作らなければならない。「長文失禮します」ではなく「短文で大變申し訣ありません」と人々が普通に言ふやうな社會にならなければならない。さうした社會になつてゐないから、間違つた一般の風潮に合せなければならない等とは全く思はない。

優先順位の問題です。私は、より優先順位が高いのは、「正字正かな派」への誤解を解くことだと思いました。

追記

俺は利を優先して理を引込めるなんて眞似はしたくないし、した方がいいと政治的な人間に忠告されても、絶對に出來ない。「政治的に、結果として勝てさへすればいいんだ」と云ふ發想を、俺は受容れられない。

優先順位の問題と言ふならば――日本人が價値觀・發想を根本的に轉換する事が最初で、その結果として當り前のやうに日本人が正字正かなに囘歸すればいい。俺は堅くさう信じてゐる。ただ「正字正かなを使へばそれでいい」と云ふのではないんだ。徳保氏にはそれがわからない。多くの日本人にわからないだらうと思ふ。福田恆存も、斯う云ふわからない日本人を相手に戰ひを挑んだ。だからこそ、俺は福田氏を尊敬するし、信ずる。徳保氏のやうな人物は、尊敬もできなければ、信頼する事すらもできない。松永氏もわからない。「正字正かな派」と云ふ言葉をみた時、「正」と云ふ字に松永氏が疑念を抱いた、その瞬間に、松永氏は最う一般の日本人と同じであり、假名遣の先の問題――本質的な問題を見る事が出來なくなつてゐた。本質を明かにしようと考へる事それ自體を、松永氏は拒否した。それはしかし、多くの日本人が當り前の事と思つてゐる。徳保氏もさう思つてゐる。さう云ふ通念を打破しなければならないと俺は信じてゐる。さう云ふ通念をこそ先づ最初に打破しなければならない。そこでは小手先の技・人心を操縱する術・政治的手段は不要だし、寧ろ有害だとして排斥される。

この件について、私はこれ以上、口出ししません。

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