例によって例のごとくの徳保的おせっかい記事。
松永さんは「正字正かな派」の主張のポイントを踏まえずに議論されているように思う。
「正字正かな派」がどうして歴史的仮名遣いの正当性・正統性を主張し、現代仮名遣いを批判するのか。それは、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いへの変更は、それ以前の字体や仮名遣いの変遷とは一線を画すもので、無用のルール変更を行い伝統を断ち切ったため、と私は理解しています。
「ら抜き言葉」のような、自然発生的な、そして一定のメリットを持つような言葉の変化を集積して歴史的仮名遣いのルールを更新したならば、今あるような批判はなかったでしょう。実際には、小数の「識者」たちの手によって、天下り式に根本的なルール変更がなされたのです。
さらにルール変更の方針が決定的にまずいものでした。直感的な「わかりやすさ」という検証不可能な基準でルールの根底を揺るがし、表音主義を取り込んだため、理解しがたい仮名遣いのルールが多数、生じました。現代仮名遣いのテストでは丸暗記が幅を利かせることになりました。
漢字の簡素化も同様です。「わかりやすさ」を基準としてそれぞれに歴史のある漢字を一緒くたにし、字のルーツを示すパーツを変形・省略してしまったので、現代漢字は歴史から切り離され、字と字のつながりも不明となり、丸暗記の必要な領域が拡大しました。
こうした漢字と仮名遣いの変化と比較して、文法の変化は民主的な文化的手続きに基づいていた(いる)、というのが「正字正かな派」の見方だろうと思います。
例えば「新しい書き言葉」を生み出した言文一致運動では、多くの国民の(無意識にせよ)自発的な選択によって、書き言葉は変化していきました。そして戦後の改革においても、文法が天下り式に大改訂されるようなことはありませんでした。
人々の営みに基礎付けられた変化ならば、たとえそれが大きな変化であっても、伝統が「断絶」するものとはなりません。
日本語が緩やかに変化してきたことを否定する人はいません。問題は、どのような変化なら受け入れられるのか、そして、変化とどう向き合うべきか、です。
言葉は意思疎通の道具です。ほとんどの人は、幼少時に接し、青年時代までに身につけた言葉を、ほとんどそのまま使い続けます。言葉の変化とは、一人が使う言葉が変化していくのではなく、ある社会の中で、古い言葉を使う人々が減り、新しい言葉を使う人々が増えていくこと、なのです。
言葉は自然と変化していきますが、「自然なこと=よいこと」でしょうか。社会が言葉の変化を抑制することは、コミュニケーションを阻害する要因を抑制し、社会の安定と平和を守るために有意義だと思います。
ルールが大多数の国民の実際の言葉遣いと遊離してしまったときには、ルールの方を緩和するのが妥当でしょう。しかし、言葉の変化をむしろ積極的に肯定するような立場には与し難い。
私が「正字正かな派」の主張を正確に代弁できているとは思いませんが、とりあえず私の理解はこう。
……以上を仮に前提としても、松永さんの主張は、とくに否定されません。
わたしは、「表記」と「文法」が切り離して考えられることについては理解している。しかし、その上で、正字正かなが「表記」における批判にとどまり、文法についてはまったく顧慮しないことを中途半端だと考えている。わたしにとって、「失われた仮名遣い」に対する郷愁は、「失われた表現方法」への郷愁の一部である。であるから、わたしにとっては「旧字旧かな」という「字面の表記」だけでなく、「明治大正の擬古文」という文体や、言文一致運動以前の文体、あるいはいわゆる古典文法の文体*3といったものすべてに及ぶ。逆に言えば、「正字正かな派は、字面の表面的なものだけしか扱っていない」という批判である。日本語表現における相対的な視野が完全に欠落している。文字表現は文法や文体を含めた記述システム全体の中で論じられるべきであり、正書法だけを切り離して論じるのは片手落ちである。
松永さんが正書法だけを切り離して論じるのは片手落ち
と考えること自体に噛み付く「正字正かな派」は、滅多にいないはず。
では、こうした書き方に「正字正かな派」がどうして不快感を示すのか。「理解されていない」と感じるのか。その結果、本来ならお互いの道をすんなり進めるはずの二者が激突することになるのか。それは「正字正かな派」の狭量も一要因かもしれないけれど、松永さんの配慮不足に第一の原因があるのではないか。
「Aの変化は許容範囲だが、Bの変化はダメ」という主張に対して、「一方の変化ばかり問題視するのは片手落ち」と返すから反発される。「Aの変化とBの変化は同一視できない」と。
松永さんも、そこに違いがあることは理解されるはず。ならば「正字正かな派」に理解を示したした上で、異なる前提に基づく自らの立場を示せばよかったと思う。誤解されがちですが、複数の「正字正かな派」の日記を注意深く読み続ければ、批判されない限り、彼らが異論の持ち主とコトを構えないことがわかります。
続いて松永さんが野嵜さんのスイッチを入れた一節。
わたしはすべてにおいて「正しさ」を振りかざす言説を信用しない。「正確さ」は求めることができるが、絶対的な「正しさ」としてそれを振りかざす者を信用しない。自分の信念を持ち、「自分はこの考え方を選ぶ」というのならわたしは尊敬するが、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言は受け入れられない。それは「正義」を振りかざす者どもも同様である。「正字正かなではなく旧字旧かなや歴史的仮名遣いなら許容できる」というのはそういう意味である。なぜなら、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはあるからだ。
野嵜さんだって、闇黒日記は趣味の領域だし、「言葉言葉言葉」は歴史的仮名遣いに関心のある人に向けたコンテンツだから、歴史的仮名遣いで書いているのです。仕事などで現代仮名遣いネイティブの人に情報を伝える際には、現代仮名遣いを選択しているそう。
人が何事かを主張するとき、自分が考えるなりの「正しさ」が(無意識であれ)仮定されているのは当然というか、そうでなかったら批判も何もないはず。
例えば引用した松永さんの文章は、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはある
ことにネガティブな立場をも(積極的に)許容するようには読めない。つまり、この点について、松永さんは多様性を許容するのは「正しい」と主張しているに等しい。
おそらく松永さんは、「原理主義」的なものを信じない、という程度のことをいいたいのでしょう。
が、そうであれば、野嵜さんをはじめ「正字正かな派」は「原理主義」的ではない。現代仮名遣いは不合理で「間違っている」とは思っても、「現代仮名遣いを爆破し全国民を再教育しよう」とはしていません。「正しい」のは歴史的仮名遣いだ、と主張し、理解者を増やそうとしているだけです。
「正字正かな派」は、たしかに歴史的仮名遣いを(現代仮名遣いと比較して)「正しい」と主張しているけれども、その強度は、松永さんが他のヴァリアントの存在を受け入れる度量
をポジティブに評価するのと大差ないでしょう。
松永さんが「正字正かな派」の「正字正かな」という言葉の選択を批判するのは、いちゃもんの類だと思う。
無論、「正」という字に特別な思い入れを持っていて、事実上、同じことをいっている文章であっても、「正しい」という言葉が使われているかどうかを決定的な違いと考える人もいていい。
今回は「松永さんの側から「正字正かな派」を理解し無用の摩擦を避けるには」という組み立てで書いたけれども、逆のアプローチも当然、可能。まあでも、カチンときた側にものをいっても通じないので、松永さんが一歩譲る方が現実的だと思う。
こちらの記事の末尾に引用している、野嵜さんが「正しい」と云ふ事
について簡潔に所感を述べた文章を参照していただければ、松永さんが「正字正かな派」に対して抱いている懸念は(大方)杞憂だとご理解いただけるのではないか。