Twitter が普及して考えを改めたこと(2010-11-15)から連続していくつか書いた記事の補遺。
私が考えているのは、例えば、こういうこと。
その昔、「永田偽メール事件」というのがあって、ネットで散々「偽メールである証拠」が見つけ出されました。が、たしかにメールは偽ものだったのですが、「証拠」の方にも間違いはたくさんあったんですね。こうしたときに、「メールは贋物」という結論の正しさが、全ての間違いを帳消しにするのでしょうか。
私は、結論が正しければそれでいい、とは思いません。とはいえ、過去の間違い全てに訂正文を付すのは現実的ではない。あっちを訂正するならこっちも直せ、全部修正しろ、なんていわない。そういう無理はいわない。でも、と思う場面があるのです。誤解や勘違いに基づく批判は、相手から抗議があったときくらい、訂正なり削除なり、何らかの対応をしてほしい。
私の要求が過大なのかもしれない。訂正がないからといって、無責任だとは決め付けない。私の補足説明に納得されていない可能性は大いにあるし、「責任の程度に鑑みて、こんなレベルの話でいちいち訂正なんかできるか」という判断なら、それはそれで理解できます。でも、黙ってちゃわからない。
もちろん、私にわからせることに義理もメリットもありません。私が一方的に「わかりやすく示してくれたらいいのにな」という希望を持っているだけです。
Twitterで私の補足説明に「たしかに誤解してました」と認められた方の中で、最初のコメントを削除して、再びコメントし直してくれた方はいません(2010-11-18 時点)。私の説明を聞いて、「なるほど」という反応をしてくださっても、元のコメントはそのまま。過去の発言を再編集するより、新しい発言により、書き手という文脈において、過去を上書きする方が低コストなようです。
ああ、それは私も同じだな、と。自分の考えが変わったときに、何年も前の記事を検索して、「現在はこう考えています」なんていちいち追記しない。新しい記事で現在の見解を表明するだけ。例えば、古い記事がずっと大きなページビューを維持し続けているなら、追記や改稿をする場合がありますけれども、基本的には面倒の方が勝つ。
削除・再投稿しかできないTwitterと比べて、はてブのコメントは再編集が容易ですが、それでも、物理的にも、心理的にも、過去発言の再編集の前に立ちはだかる壁は高い。そのことを、認識できました。
そして私は、それが不満かというと、そうではなかったんですね。Twitterで補足説明して、「やっぱり賛成はできませんが、仰っていることはわかりました。**ということですよね」といってもらえたら、大いに満足できたのです。
あと、だいたいの方が、はてブより言葉がていねいになりますから。Twitterの@会話はプライベート気分が強く出るということだと思う。第三者の目を意識した仮面が透明になるというか。Twitterでも@の対象が著名人だと「よそ行き」の仮面が外れない人が多いので、心理的に緩やかな線引きがあるらしい。