もね、最近ちょっと、「Amazonはもちろん便利なんだけど、Amazonって、ちょっとめんどくさいよなあ」とも思っているのです。(中略)注文したものを、家で受け取るというのは、家を仕事などで空けがちな人間には、けっこうめんどくさい。
いま私の賃貸物件探しで外せない条件になっているのが「宅配ボックスがある」こと。Amazonや楽天やコミックレンタルなどの配送先は最初から住所欄に「宅配ボックス」と入れて、私が在宅であろうとなかろうと宅配ボックスへ届くようにしています。
宅配ボックスひとつで私はすごく幸せになれたので、一軒家などにお住まいの場合、自分で宅配ボックスを買って設置してもいいんじゃないかと思う。
とはいっても、私の場合、最高で1日に4つ届いたことがありました。メール便、宅急便、佐川、ゆうパックの4つ。8つあるアパートの宅配ボックスの半分を、一時的に占拠。それでもまだ空きがあってよかった……。こういう場面まで想定して一軒家に4つも宅配ボックスを設置するとか、あまり現実的な感じがしない。
むー、34cm×36cm×50cmで約6万円か。しかも温度条件が-5℃から+40℃まで。
そういえば前いたアパートでこういうの使ってる人いたなあ……。玄関前の共用の通路にこんなのを出して邪魔だとは感じたけど、「毎日じゃないし、まあいいか」と思って、私は黙認してた。
おめでとうございます!
アメブロ出張は成功だったようで、コメント欄がにぎわっているのが新鮮な感じ。
コンテンツ面では、手書きのイラストを積極的に取り入れて、手間をかけているのが目を引きますね。そして交流面では、「読者登録」と「ペタ」をきっちり活用されているのが、さすがだと思う。
香典お断りの葬式や、ご祝儀お断りの結婚披露宴が、次第に増えてきている。そういうの、私は大賛成。多様な文化や価値観が並存する世界では、案内状だけ見れば「何をどうしてほしいか一通りわかる」ようにするのが親切というもの。
「お札が偶数なのはダメ」とか、バカらしい。100年の歴史もない、当代流行の迷信に過ぎぬ。六曜(大安とか仏滅とか)が庶民の「常識」になったのも戦後の話だが、冠婚葬祭の「常識」の大半は、その手のもの。迷信を「常識」と言い換えて、社会を不自由にしている。
釈迦は六曜のような迷信を明確に否定したのに、仏式の葬儀を友引に行うのをバカにする人がいる。「迷信におもねるのは迷信を強化する片棒を担ぐのと同じ」と説明をしても、「それでも非常識はダメ」といって、にべもない。それもまたひとつの立場だとは思ったが、「ここは折れない」と決めた。この程度の意見対立で縁遠くなるなら、所詮それだけの付き合いだったということだ。
私が参加した中でいちばん簡単な葬儀は、「火葬場に集合して15秒くらい黙祷するだけ」だった。服装については「喪服不要。普段着でお越しください」となっていた。遺骨拾いは自由参加で、忙しい人は焼き上がるのを待たずに帰ってもOKだった。
火葬場ごとに運営の仕方は違うと思うが、近年は遺骨を拾っても入れる墓がないケースが増えたためか、「よく焼いてください」とお願いすると、ほとんど灰しか残らない状態にしてくれる。その葬儀では、喪主がほんのひとかけらだけ拾って小瓶にいれ、残りは火葬場引取りとしていた。
感想は人それぞれだと思うが、私は「これはいい。私も自分が主催する葬儀はこうしたい」と思った。ちなみにこの葬儀、手作りではなく葬儀屋さんに丸投げ。要望と連絡先一覧を伝えた後は、案内状、駅からの送迎バス、棺、棺に入れる花の手配などは全てお任せとし、費用は数十万円という。
現代の日本で普及・定着している様々な迷信の中で、六曜は相当にわかりやすい馬鹿馬鹿しさを抱えている。当て字に引きずられて意味が創作されていることなど、私は初めて知ったとき、脱力感さえ覚えたものだが……。
金持ちになっても母親が生活保護を受給し続けていることを看過していた芸人が、テレビやネットで批判されているのだそうだ。
はてブ方面だと「自助→公助」の2段階制を支持する方が目立つ気がする。でも世間では「自助→共助→公助」の3段階制に、まだまだ大きな支持があるように思う。しかし本音ベースでは、「共助より公助の方が精神的にラク」と感じる人が次第に増えつつある。そのあたりの、本音と建前のねじれが生んだ事件ではないかと思った。
もともとは公助に頼ることの方が「申し訳ない」という気持ちが強くて、身内に助けを求める方が心情的に自然だったのではないか。3段階制は、個人にとっても政府にとっても都合がよかったのだと思う。
ところが現在では、家族を頼る方が心理的に負担が大きく、市役所に相談する方が気楽。それは、家族は相変わらず容赦なく感情をぶつけてくるが、現代の市役所は市民の悪意を9割方遮断するからだろう。無論、変わったのは役所だけで、世間は変わっていない。注目を浴び、世間の悪意がダイレクトに伝わるようになると、「共助に頼る方がマシだった」と思い知らされる。
河本準一さんのお母さんは、息子に扶養されるのを嫌がって、生活保護の受給を継続していたのだという。自立心の発露の仕方を誤ったのか、コトの軽重を取り違えたのか……。
かつて私は親に小遣いをせびるのが嫌で、「お金をほしがらない子ども」であろうとしていた。が、物欲は人並みにある。それで、泥棒をした。「えっ!?」と自分でも驚く愚かさだ。しかし思い詰めた人は、ときに善悪の基準を見失い、矛盾を押し通そうとして反社会的な行動を取ってしまう。
悪事が露見して夢から覚め、深く反省した数年後、私は再び全く同じ構図で泥棒をした。両親の絶望はいかばかりだったか。そして「この愚かさこそ、自らの本質なのだ」と私は痛感した。
昨日の集まりで紹介された最近の話題。個人的には、こんなのはどうせ(ある方面における)日本のトップ層だけが利用できる特殊パスなので、みんなが議論する意味はないと思った。世の中を変えるようなアイデアじゃない。
あと、当人のその後の人生への悪影響がどうのこうのとかいうなら、アダルトビデオに出演する18歳とかの心配をする方が先なんじゃないかと思った。あるいは視聴率15%超の大家族モノの連続ドキュメンタリーシリーズとか……。studygiftなんて高々数十万人しか知らない世界でしょ。
私の感覚でいうと「ヘンなところに逆鱗のある人がけっこういるんだな」と思った。それで怒るなら、ずっとひどいあっちを何とかしたらいいのに、と。私の立場は「(上に書いたようなことは)どれも当人の勝手でよい」。後悔するところまで含めて本人の自由。
こちらは、私自身が賛助会員になっているNPO。地味に応援を続けている。まあ、ブリッジフォースマイルが提供しているのも、一部の人しか利用できない特殊パスには違いない。ただ……いや、まあいいや。7月1日に『カナエール』のスピーチコンテストが開催されるので、興味のある方はどうぞ。
それにしてもね、他人のやることにケチをつけるのは簡単だけど、じゃあどんな仕組みや団体ならいいのかというと、言葉を濁すか夢みたいなことをいうか……。私の場合、b4sを紹介すると決めたら、studygiftへの批判に同調するのはつらくなった。
私としては、studygiftへの批判の多くについて「そこで私たちはこんな工夫をしています」といえるのが『カナエール』だと思っている。支援の形態とか、プライバシーと「顔の見える支援」を両立する方法とか……。でも私自身、「まあ、こんなものだろう」と思って大目に見ている部分もある。あまり自信はない。
なので、この記事はこれでオシマイ。
昨年、ある人に仕事を頼んだ。はじめのうちは時々連絡があったが、いつまで経っても「着手する」という話がない。ふと気づけば、半年以上も連絡が途絶えている。
「急ぐ話ではない」とはいったが、私の希望した納期は「年内」だった。いろいろ事情はあるのだろうが、Twitterなどは毎日のように更新が続いているので、さすがに不愉快である。
生活保護を受けている人が不定期の収入を得た場合、単に生活保護費が減って相殺されるだけ。当人にとっては、諸申請の面倒があるだけで、生活は楽にならないから、不定期の小銭稼ぎでは労働意欲がわかないのだそうな。もっともな話だとは思ったが、税金と自分で稼いだお金とでは、周囲の人々の気分が違う。
生活保護制度は全体として社会にプラスだが、その外部不経済を縮小する努力は、関係者全員が負うべきだ。生活保護の支給額を上回らない限り、小銭を稼いでも生活は豊かにならない。たとえそうだとしても、労働によって税金由来の生活保護を縮小すれば、外部不経済は小さくなる。そういうことに価値を見出してほしいと思うのは、無理な注文なのだろうか。
私は虚構新聞が好きで、はてなブックマーク経由で、月に1回くらいまとめ読みしている。ただ、「虚構新聞はもっと批判されないとアンバランス」とも思っていた。
過去に私が書いてきた中では、Togetter は Twitter API の利用規約を守ってほしい(2011-06-08)でのTogetter批判も、「Togetterは今すぐTwitter APIの利用規約を守れ」という意図ではない。利用規約は守っていないTogetterは、もっと多くの批判を受けて然るべきだ。さりとて「ルール違反のサービスは今すぐ退場すべき」とは思わない。仮に二者択一ならば、私はTogetterの存続を支持する。
虚構新聞について、私は多くの点で批判側に賛同する。しかし、「だから虚構新聞は廃刊すべき」とは考えていない。「何一つ改善しない」が社主の結論でもよいと思う。思うが、虚構新聞は、そのひどさの度合いに見合った批判を受けるべきだ。何度も何度も、話題になるだび、批判され続けるべきだ。
従来から批判はあった。あったが、割合をいえば、批判は僅かだった。それは正当なバランスではなかったと私は思っている。
……とはいうものの、私自身ずっと虚構新聞批判を書かずにきたし、これからもおそらく書くまい。
以前、私も似た話を書いていたような……。
同作品は経済学擁護のシミュレーション小説としてはアンフェアで、ディストピア実現のため、経済学と同時に多くのものを世界から消しています。独占や監視密告社会の是認など、ご都合主義が目立つのです。本名のまま登場する榊原英資さんや、少し名前を変えて登場する野田幸夫(=野口悠紀雄)さんの言動も、肝心な部分(金本位制復帰への参画など)が当人の過去の言動に根拠を持っていない。
他人がいってもいないことを云々とは、小泉・榊原・野口の3氏が金本位制にコミットするという物語展開を指しています。榊原さんは本名で登場しているのだから可哀想ですね。
作中、本名のまま登場されている榊原英資元財務官は「俺がこんなことするわけがないだろう!」と不愉快に感じるでしょうし、野田幸夫=野口悠紀雄さんだって、そうですよ。
6年前か……。最初からフィクションと断って書かれた作品に対する批判の一部ですね。
個人的に連想したのが、この件。(私の中では関連しているが客観的には無関係の話題なので注意)
かつてのクラスメートの国語の成績を思えば、「どう書いたところで伝わらない。最初から読みたいようにしか読まない人がたくさんいる」と諦めてはいる。それでも、「この人までそう読むの?」とガッカリすることはあるな……。
リンク先の話題でいえば、加野瀬さんのはてブコメントには脱力した。加野瀬さんがその反応なら、9割方の読者には私の意図が伝わっていないな、と。加野瀬さんの他にも、何人か私の中で反応に注目している方がいて、賛否とは別に、「私の主張が理解されているかどうか」について、一喜一憂している。
ただ、私が脱力した加野瀬さんのコメントも、私の問題意識を誤解してのものとは限らない。「話はわかったが、現実的には大きなアクセスがある特定のサービスへの対処だけ考えれば十分」といった考察が背景にあって、それであのようなコメントになったのかもしれない。他にも合理的な解釈はいろいろありえるだろう。
私自身、「あなたの発言の趣旨はちゃんと理解してますよ」というアピールをサボり、自分の問題意識から出た言葉だけを記すことはしばしばある。まずはそれを改善するのが先だとは思う。
「マナー違反」への怒りというのは、「マナーがマナーとして確立している」ことによって増幅される。なので、「それって限定されたコミュニティの中だけの文化でしょ」と周囲が冷淡になれば、小さな不快感が大きな怪物へ育つのを止めることだってできるのではないか。