はてなダイアリーで更新していた日記のアーカイブ。
実家からりんごが届いた。
自動で更新されたのだけれど、何もチェックがなかった。便利といえばそうなのだけれども、いいのかなあ、そんなことで。少し不安になる。
仕事で久しぶりに顕微鏡を覗いた。
「このミステリーがすごい」を買った。
下馬評どおり東野圭吾「容疑者Xの献身」が1位。私も読んで、すごくいいなあ、と思ったのだけれど、まさかトリプルスコアだとは……。東野さんは著書が多くて全部は読んでいないけれど、半分くらい読んだのかな。末永くご活躍されることを期待しています。
あと「私の隠し玉」に真保裕一さんが登場されておらず、少し心配に。来年は新刊が出ないのかなあ。でも好きな作家さんが5人を越えたあたりから全然、読書が追いつかなくなっています。嬉しい悲鳴。
宝くじは買わないのだけれど、もし将来買って、そして1億円くらい当たったら、仕事はやめてしまうような気がします。ちょっともったいないけど、毎日本だけ読んで暮らしたいという気持ちも強いです。
蟹を食べた。
さすが労組の強い会社は違う。年末恒例の社内厚生費(=会社から支給される忘年会費)を利用した高級料理を食べよう会ですが、一昨年の馬刺し、昨年の河豚に続いて今年は蟹。
別に忘年会は旅行でもいいのだけれど、1万5千円で旅行は厳しい。旅行に行くなら毎月数千円を積み立てる必要がある。ちなみに入社1年目は東京ぶらり旅で、都内を回る日帰り旅行だったので、食事つきで1万5千円に収まったらしい。らしい、というのは不参加だったから。本当は参加したかったんだけど、まあ、諸般の都合で……。
なお、強制参加ではないので、休むのは自由。2000〜3000円くらいのお土産がもらえます。たいてい、お菓子とか、そういうの。
3年続けて料理だったので、来年は旅行にしようという話が。うーん、泊まりの旅行だったら参加を辞退しようかな。修学旅行をはじめとして、団体旅行は必ず体調を崩すのです。迷惑をかけたくないな。
生まれて初めてタラバガニを食べた。あんなに大きいとは知らなかった……。
一昨年の馬刺しも、昨年の河豚刺しや河豚の白子も初めてだった(どちらもたいへん美味しかった)けど、今年のもすごかった。20代で食べちゃっていいのかな。
社内厚生費に長幼の序はない。これ以上の贅沢は今後もないわけで、それも良し悪しかなあ、と思わないでもない。
同僚がひどい風邪をひいてダウン。お大事に。冬の風はなかなか治らないからたいへんだ。他人事じゃないぞ。
ネット時代に対応した著作権法を云々という意見がネット住人には多いが、消費者視点で「安けりゃ安いほどよい→無料なのが一番だよね」という発想に適当な理屈をくっつけているに過ぎないことが多い、と思っている。
アディ・ソング・コードは9445曲を取り揃えているが、ちゃんとカタログを作って、これだけの曲目を用意して、ということが可能なのは、多少のお金を集めているからだ。自分の好きな曲さえ無料で手に入れば他のことは知ったことじゃない、というような近視眼が、消費者には多いと思う。無料でブログに歌詞などを掲載できる(当然、著作権者には1円も入らない)ことと、こうした商品カタログを維持すること、どちらが文化の発展に資するのか。
こちらは総じて低質だが無料の Wikipedia を情報消費者が支持した結果、百科事典産業が潰えてしまったことへの批判。
お代をいただかねば成立しない、という制約条件は、しばしばボリュームゾーンの消費者が必要とする以上の品質を実現することとなる。その結果、少数の高品質な情報を必要とする人々を幸せにする。逆に、当然のことながら、お金を払ってまで百科事典なんか必要としない人々を情報から遠ざけることにもなる。
じつはオンライン辞書も同じようなところがある。国語辞典にせよ英和・和英辞典にせよ、オンラインのは情報量に乏しい。でも大半の人はあれで満足なのだそうで、辞書の売上は落ちているのだそうな。とすると、まともな辞書の値段が上がるのは時間の問題かもしれない。大衆辞書の非大衆化。
寒い。
昔、父が着ていたスーツ、私がお古をもらってから8年になる。そろそろ寿命らしい。内側の布地が擦り切れていて、手足を通すたびに、穴に指が引っかかる。仕立て直すほどの高級品じゃないらしいので、新しいのを買うことになると思う。
いつの間にか、喫煙者が減っている。
雲ひとつない青空。
もちろん「空想」と「想像」は別の言葉で、意味するところも違う。
だが、「想像上の動物」というフレーズは、多くの場合、「空想の動物」というフレーズで置き換え可能だ。
イコールでない言葉が置き換え可能となるケースが多いのは何故か?
それは、複数の言葉に共通するイメージだけが必要とされており、その言葉によって表現されうる全てが文章に必要なわけじゃない(ことが多い)からだ。
そうでなければ、文章を添削するなんて、恐れ多くてできやしない。細かいことをいったら、単なる誤字・脱字の修正を除けば、どのフレーズだって他のフレーズで置き換えられないはずだ。
言葉には、他の言葉で置き換えても問題のない範囲、というものが文脈に沿って予約されている。
批判されている人を説得という意味でしょうか? それでしたらそのような目的をもっているなどとはどこにも書いていません。
ということであれば、彼らに共感する読者も説得できませんよね。
「異論」に理解がない
と抽象的に書いただけでは誹謗扱いされるようなので(思い当たる節がないらしいことに私は少し驚きましたけど)今回は一例を挙げます。「経済論戦の読み方」P30〜の榊原英資批判、なるほど田中さんの主張は分かりますが、相手方が現在の考えに至っている理由は書かれていない。田中さんの批判だけが書かれているので、榊原さんが不勉強なだけと読めます。
「デフレ生活革命」は未読ですが「構造デフレの世紀」には「円安は政治的に不可能」とみなすといった榊原世界観が書かれていました。榊原さんはクルーグマンを読んでます。不勉強でリフレ派の主張を知らないわけじゃない。コトの軽重を定める価値観の差異ゆえに、リフレ政策は実現の可能性がないとして退け、構造デフレという結論に至っているのです。
人は価値観の奴隷です。他人の価値観は、よくよく注意しなければ見えず、バカがヘンなことをいっている、と解釈してしまう。お互いにそうです。だから、一方的な物言いでは理解され難い。
批判はいいのですが、相手が納得しない理由に配慮せずに、どう説得できるのか、と思う。
失業率は低下し、賃金は伸び悩む、という枠組みは外していないと思いますが……。私はリフレ政策が成功すれば、正規労働者の賃金は据え置かれたまま、失業率が低下する中で労働需要が逼迫して非正規労働者の賃金が上昇する、それは本田さんの望む状況だろう、と書いたんです。むしろ賃金を上げて雇用を増やさないことをネガティブに書いているつもりなのですが。
ところでリフレ派に転向組が多いとすれば、それがむしろいけないのだと思う。「勉強すれば賛同するはず」という発想に縛られるので。一概にそれが誤りとは思いませんが、最大の問題は価値観の違いなんです。
例えば「誤解だらけの構造改革」「節約したって不況は終わらない。」の小野善康さんは、庶民の資産が削られることを強く忌避します。だからリフレは代償の大きすぎる手段として後回しにされ、新規産業という打ち出の小槌の出現を夢見てジリ貧の戦いを続ける作戦になるのです。コストとリスクと将来見通しがリフレ派と違うから結論が異なるのであって、リフレ派の世界観・価値観で一刀両断したって説得できない。
原田泰さんが「奇妙な経済学を語る人びと」でお書きになったことと記憶していますが、世間知を批判する野口さんも、じつは経済理論を「常識」に基づいて適用しているのだ、と。そして原田さんは「正しい常識」があるかのような話をされるわけですが、じつは世界にはたくさんの常識があり、それぞれ自分の常識こそ正しい常識だ、と信じている。だから「何で理解できないのか理解できない」ってお互い思
うことになるのです。
他人を説得したい人が最初にやるべきことは、世界には複数の常識があって、あなたはそれを選ぶことができる、という考え方の提示ではないでしょうか。
田中さんへのレスにもなりますが、「私の価値観を前提として**経済理論を適用すれば、Aさんの主張は次の通り粉砕されます」という枠組で批判するのは全然問題ない。前提条件としての価値観が可換である、ということが相手に伝われば、お互いに現有の価値観を相対化でき、話をしやすくなるはずなのです。
以上が、当初、コメント欄に書くつもりで下書きしていた文章。以下はトラバすることに決めて、文章の長さを気にしなくてよくなったので、つらつら書き足した内容です。
2,3冊読むのに,忙しくて仮に半年かかったとして,なにか問題があるのでしょうか。互いに1,2日のうちに返答を書かなければ「議論にならない」わけでもないでしょう。1週間後になんらかの結論を出さなくてはいけない,という議論をしているわけではないのですから。
コメント欄に半年も粘着するんですか?
私は件のコメント欄沸騰は、よくある事実誤認の指摘の拡大版と解釈しています。実際、本田さんの記事にきちんと対置する記事はトラックバックの形で寄せられました。コメント欄は「目に余る誤解」をサッと取り除く、そのような動機で動いていたように見えますね。議論・討論の場ではなくて、あくまでも簡単な誤解の指摘、感想の寄稿だった、と。
議論するならそれなりの場の作り方があります。半年も経ってから再開するような、息の長い議論をするなら、特定の日付の記事のコメント欄などを舞台に選ぶものではない。
「読め、読めば分かる」は説得の方法として無効であることが多い。学者さんらを例外とすれば、気に入らない意見の持ち主が勧める本なんか読みたいと思わないので、どうせ読まれない。自分を説得したいのは相手なのに、何で自分が時間とお金を費やさねばならないのか、ということ。
あるいは仮に無料だったとしても、宗教団体の教祖様の本みたいなもので、気持ち悪いから手を出さない。読むだけ時間の無駄だと思う。説得されちゃったらヤバいと思って遠ざける、といったことになりがち。
なので、素人相手に本を薦めるなら、説得に(ある程度)成功してからじゃないと、ほとんど意味がない。「読めば分かる」ではなくて、「分かったって? じゃあ、この本を読んでもっと理解を深めてくれると嬉しいな。きっと気に入ってもらえると思うよ」というような形で勧めるのが正しい。
この点では bewaad さんが素晴らしくて、基本的には話の最後におまけとして示す。参考書を読まねば通じない説得や反論は極力避け、どうしてもという場合にも引用部分だけで話の理解に足りるような使い方を心がけていらっしゃる。
さて、そもそも私は何をいいたかったのか。
ブログの記事には、不特定多数に向けて書いている建前があります。また読者と直接に意見交換しているわけではなく、相手の反応が見えません。そこで、意見の最後に「内容に同意があったと仮定」して、参考書を示すことに問題はない。一部の、筆者の意図通りに説得された読者にとって、それは有益な案内となるでしょうから。
他方、コメント欄は、特定の人物との対話という建前があります。ならば相手が納得したとわかるまで、参考書の紹介などすべきでない。相手にプレッシャーを与え、不愉快にさえさせることがあるからです。「だって W3C 勧告が……」などと頻繁に書いていると W3C 信者とかいわれて、「自分の言葉で説明しろよ」などと毛嫌いされるのと同じ。
というわけで、参考書を示すなら本田さんが大筋で納得してからにすればいいのに、と私は思ったのです。本田さんは研究者なので、余計な心配だったのだそうですが。
世の中に様々の価値観がある以上、同じ本を読んだからといって、同じ結論に達するとは限らない。だから「読めばわかる」とは、参考書を読み解く際に前提とする価値観が推薦者と同じでなければ通用しない考え方なのです。そのことに気付いていない推薦者が多い。これも問題だと思う。
どんどん日が落ちるのが早くなる。
この記事への反応について、いくつか補足として拾う。
そんなの当たり前じゃないか・・・と私が思えるのは、小さいときから父に「言ってもらえるうちが華なんだよ」と何度か言われてながら育ってきたからでしょうか。恥ずかしいほど間違った事を言う大人は多いですが、多いからこそ一々指摘していたらこちらの身がもちません。下手に指摘したら相手に恥をかかせたり逆恨みされるかもしれないのです。「もう〜、違うって言ってくれたらよかったのにぃ」と言える若い女性は、そんなこと言える時点で周りに甘えていると同時に「自分は大人じゃない」とアピールしているともいえるかもしれないですね。(だからこそオバサンが同じ台詞を口にすることは寒々しい)
だからこそ、こちらが敢えて間違いを指摘したり「それは違うんじゃないの」とやんわり正してくれる人がいたら有難いと感謝の念を抱かずにはいられません。
どこをどうとったら子どもに憧れ、なんて出てくるんだろう。
そこまでわかっていて、なぜ私のいいたいことがわからないのか、そのことの方が理解し難い。
気軽に「間違い」を指摘されるようになる、とは、子ども扱いされるようになることと同義である。謙虚を目指すのは自己矛盾といってもよい。自分ひとりがそうなるならいいのかもしれないが、みんながそうなってしまえば、ますます大人社会からは不確実な指摘は消えていくことになる。確実な指摘だけでは、誤りのほとんどは見過ごされる。
satoshi さんがワイン通に意見できなかったのは、十分な根拠がなかったからだ。にもかかわらず、「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」と書いた。子どもなら気軽に指摘されたろう、そして間違いに気付いたろう、というわけだ。しかしちょっと待ってほしい。根拠不十分にもかかわらず、「あなたの意見は間違っているのでは?」と指摘されるのは、望ましいことなのか。
日本の大人が、現在のような大人社会を作っているのは、お互いを「間違いの非常に少ない存在」として尊重しあうことを大切にしているからだ。「各々が自分の意見に強い自信を持ち、自分と異なる他者の主張にいちいち異議申立てするような文化」を、嫌っているからだ。
間違いには、基本的に自分自身で気付くことができる、それが大人だ、と自負している。そういうものだ、と規定している。
Kachila さんが「もう〜、違うって言ってくれたらよかったのにぃ」と言える若い女性は、そんなこと言える時点で周りに甘えていると同時に「自分は大人じゃない」とアピールしているともいえるかもしれないですね。(だからこそオバサンが同じ台詞を口にすることは寒々しい)
と書いているのは、つまりそういった文化の表れだ。
子どもは子どもで、つらい。彼らが、間違いの指摘にいちいち感謝しているか。そんなことはない。うんざりしている。ろくな根拠もなく、指摘しまくる大人を嫌っている。ウソや間違いさえ吹き込む大人たちを、恨み、憎んでさえいる。そういうことを、知らずに、見ずに、都合のいいときだけ指摘を求めても、それは無い物ねだりというものだ。
言ってもらえるうちが華
というが、その華には毒が大量に含まれている。なのに、子どもの頃の記憶をなくしているのか、毒の存在を忘れてしまっている大人が多い。子どもの頃は、とにかくやたらめったら指摘されたが、それは多くの忍耐を要する体験だった。だから私たちは大人になって、指摘の少ない社会に与していくことになったのだ。
指摘がほしいなんてのは、指摘が少ない世界に生きている人間の贅沢な悩みだと思う。
コメント欄より転載。
徳保隆夫
『少し反論しますと、satoshi さんは「大人になると」間違いを指摘されなくなる、と書きました。ということは、「子どもの頃は」は間違いを指摘されたわけですよ。くどい表現を避けて、省略されているだけ。私は書かれていないことを勝手に推測しているのではない。当然の読解を行っているのです。
そうして私は、子どもの頃に間違いを気軽に指摘されたのは「尊敬されない」ことと引き換えだったとして、子どもの頃を安直に古きよき時代として思い起こすことを否定したのでした。』 (2005/12/08 01:00)
問題は、satoshi さんこと snakajima さんのコメント。
snakajima 『 life is beautiful のSatoshiです。私も「間違いを指摘しないのは聞いてる側の選択の結果」で、「自称ワイン通」氏の責任ではないと思います。
つまり、大人になると特に負のオーラを出していなくても、間違いは指摘してもらえないんですね。しかし、それでは悲しいので、何とかして「間違いを指摘しやすい」人になりたい、なる方法はないかな、という宣言であり問いかけなんです。』
umeten さんのところでは、以下の通り。
snakajima 『 私のエントリーに関して、こんなに深く分析していただき、ありがとうございます。このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言であるとともに、私の知り合いやブログの読者に対しての「もし、私が間違っていることを言っていたら、教えてください」というお願いでもあります。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っているだけでは何も得るところはありませんからね。』 (2005/12/08 01:55)
k3jaco さんが結論に困ってしまったのは当然で、Satoshi さんの主張は袋小路への道である。ワイン通に問題がないとすれば、Satoshi さんにできることは何もない。闇雲に「改善」を目指しても、空虚な宣言にしかならない。
しかも驚くべきことに、Satoshi さんは間違いを指摘する側に問題の原因を見出している。だったら、そもそも Satoshi さんの記事は転倒しているわけだ。「大人に対して大人は間違いを指摘できない」というところから、話を展開するのが本来の筋だったはずだ。
おそらく、子どもに対してであれば、仮に少々態度が生意気でも、Satoshi さんは「きみの説明は、間違っているんじゃないかな?」といえたろう。そうであればこそ、「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」という言葉が出てくる。
もし Satoshi さんが正しく記事を書き始めていたのなら、必ずこの問題に行き当たったはずだ。そして、なぜ子ども相手なら根拠不十分でも間違いを指摘できてしまうのか、考えたはずだ。
私は「間違いを指摘されるようになること」について、ひとつの回答を暗示した。ここは補足記事だから、はっきり書こう。
だから、大人であり続けることを前提とすれば、有効な解を発見できない。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っている
のでは、残酷な結論に気付かない。
大人たちは、大人になりたいから、大人になった。子どものままでいたければ、そうすることもできた。
大人たちの、子どもに対する「間違い」の指摘は、なるほど親切心から出たものかもしれない。だが、親切心はどのような場面で発現するか。そして大人たちは、本当に親切にされたいのか。なぜ、大人たちは、子どもであることをやめたんだ?
子どもは、いくつかの特権と引き換えに、非常に多くの忍耐を強いられる。親切な指摘を無数に受ける特権は、本来、ノスタルジーを感じ、羨むようなものではない。大人たちに精神的にも物理的にも支配されている、血涙の滲むような服従の記憶とともにある。何をいっても簡単には信じてもらえない、正しい主張も簡単には通らない、それが子どもの支払っている犠牲である。
ある種の間違いだけを、プライドの傷つかないような形でピンポイントで指摘される、そんなつまみ食いは、不可能だ。
根拠不十分でも気軽に指摘されるようになれば、間違っていないことまで指摘されるようになる。気軽に指摘されるような状態では、異論・反論が気軽に提出され、自分の意見がなかなか通らない。そのつらさ、悲しさに、耐える覚悟はありますか。
おじさん的思考
という言葉の定義をしてほしいと思う。あと、私がマジなのは、umeten さんの仰る通り。
文体を変えます。
謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではない。何をどうとったらそういう帰結になるのか?
まず「謙虚」という言葉の定義が必要。
常識的に考えて十分な根拠が提示されている場合に、間違いの指摘を受け入れる人は、少なくともその点において「謙虚」である、と私は表現します。
自信過剰な人は、例えばメルローの件についていえば、「百科事典のミスかもしれないじゃないか!」「ワイン専門店の店員にだって間違いはあるぞ!」と強情を張るでしょう。
さて、このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言
だといったのは Satoshi さんです。度量があって懐が深い、とは即ち、間違いを認める謙虚さを持つ、ということでしょう。そして Satoshi さんは、それが「間違いを指摘される大人」になるための道だと考えていらっしゃる。
私は、Satoshi さんの主張には一定の理を認めます。しかし、あまり本質的ではないと思う。そしておそらく、無意識的には Satoshi さんもそのことに気付いているはずだと思いました。その根拠が、Satoshi さんが「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」と書いたことです。
これは、前段の主張と矛盾した主張なんです。子どもに対する幻想を捨てて、子どもの実際の姿を見れば、それは明らかとなります。
第1項が、逆なら、話は合う。でも、現実はこうなんです。だから、間違いを認める謙虚さを持つことは、あまり重要ではないことに気付いていい。
そして多くの場合、謙虚さは特定の局面のみで発揮されるものではない。したがって、他者の指摘に対して謙虚に対応する人は、自分が他者に対して指摘することにも慎重になります。tomozo3 さんは kanose さんを例示されましたが、デンマンさんと比較してくださいよ。kanose さんは謙虚です。傲慢なデンマンさんとは態度が全然違う。
ここで Satoshi さんの最初の事例に戻れば、パーティ会場において、不確実な根拠でしかワイン通の事実誤認を指摘できる人しかいなかったとしたならば、みなが謙虚である限り、誰も何もいえなかったのは当然なのです。したがって、Satoshi さんがいろいろ考えるきっかけとなった事例は、謙虚さでは解決されないことになります。
そしてまたデンマンさんが各所で批判されていることから、あれほど傲慢であっても「間違い」の指摘は行われることがわかります。
以上の推論から、私は「度量のある人間を目指す」という Satoshi さんの結論は、的外れだと考えました。
よろしいですか、私は謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではない
と考えているのです。同義だと思っているのは Satoshi さんであって、私はその主張を批判する立場なのです。
tomozo3 さんの追記部分について。
過ちを認めるのは、謙虚ではなく、素直。
謙虚と素直を全く別の概念とみなすべき場面と、そうでない場面があると私は思います。
ご批判のかなりの部分は、言葉の定義の問題に過ぎません。tomozo3 さんは、ミクロの差異を決定的な差異とみなして、私の主張を過剰に否定されているのです。
私の記事では、謙虚と素直を同類の概念として扱っています。謙虚な人は素直なことが多い。謙虚な人、度量の大きい人、素直な人、これらは似たような人物像を想像させますよ。私は「それらの言葉で形容されるタイプの人」という大きな括りで話をしているんです。私が謙虚と書いた部分を、エディタで全部「素直」に書き換えたって、私の主張は変わりません。その語義の違いが影響しない領域で、それらの言葉を用いているからです。
デンマンさんに過ちを指摘する人が少なく、加野瀬さんに意見や異論を述べる人が多くいるのは、加野瀬さんが指摘に対して、詭弁で返したり、何も言わずにこっそり変更修正したりはしないから。
これは意図が逆。私はデンマンさんを「強情な性格でも異論・反論をもらうことに成功した事例」として示したのです。デンマンさんに間違いの指摘をしたのは kiya2014 さんだったと記憶しています。
中島氏が言わんとすることは、間違いの指摘にも異論にも意見にも率直に耳を傾ける姿勢を見せることにより、早期に間違いを修正することが、大事、と言うこと。
2.に書きましたが、Satoshi さん自身、今回の事例は、指摘される側ではなく指摘する側の問題だと、k3jaco さんのところのコメント欄で認めているんです。
であれば「ああ、どうしてあの時、私は間違いを指摘できなかったのか。指摘を躊躇してしまう自分を改善したい」と、考えるのが自然でしょう。指摘する側(が指摘を躊躇したこと)に問題がある、だけど私は指摘される側の立場で自省するぞ、というのは話が転倒していますよね。
「やっぱり躊躇するのは仕方ないな」とか、「これからは躊躇せずにどんどん行こう」とか、そうやって最大の問題に結論を出してから、瑣末な問題である、指摘される側のあり方について考えるべきなんですよ。
デンマンさんでさえ、間違いを指摘されるのです。大人社会に間違いの指摘が少ない決定的な理由は、指摘する側にある。そして、指摘する側が、指摘を躊躇する理由は何か。Satoshi さんが気付いている通り、大切なのは、そこなんです。
加野瀬さんの間違いを指摘する一般人は、常連読者さんです。ある程度気安い印象が醸成されていて、それで指摘しているのです。加野瀬さんとこは数千人が見ているからいいですが、ふつうはこのタイプの指摘だけでは大半のミスが見過ごされます。
これに対して、初めて見たサイトの間違いをいきなり指摘する人がいる。これはモヒカン族に近い立場で、otsune さんが書いている通り、気遣いせずに間違いを指摘する
文化を持っているから、そんなことができるのです。
気遣い無しのコミュニケーションは、日本の大人社会では珍しい。しかし少なからぬ人は、子どもの頃、モヒカン族的だった。「王様は裸だ」といえたんです。で、人々は何故、気遣いを重視するようになったのですか? 大人は、物語としては「裸の王様」のラストに登場する子どもに憧れますが、本気でそうなりたいとは思っていない。
ところが、大人は子どもに対しては気遣いよりも教育指導を優先します。だから大人は子どもの「間違い」を指摘する際にはモヒカン族的な行動を取る。つまり、大人は子ども相手にはモヒカン族、大人相手にはムラ社会の住人を演じています。
こうした背景を踏まえて、私は、大人が大人に対して気軽に指摘できるメンタリティとはどのようなものか、想像するべきだし、想像できるはずだと主張しているのです。
服を汚してしまって困った。
なぜか今頃になってはてなブックマークで人気爆発。
私も似たようなことをすることはあるけどね。相手が喜んでくれそうなケースなら、別にいいんだろう。その1点じゃないかな、抜けている内容があるとすれば。
たいていのブログは、コメントもトラックバックもつかない。みんな寂しい。ある程度、まともなトラックバックなら、意外と喜ばれることは少なくない。
ありゃりゃ。こうなりましたか。そして yoshiyama さんのまとめ記事。
ま、いつものことでしょう。
特定の価値観を信じて、異文化を排撃したがるのもひとつの文化。「無邪気を攻撃してよい!」という正義感が現に存在することは、私たち(?)も受け入れざるを得ない。
眠い。
気に入らないならアクセス禁止にするとか、技術的な対処を云々。
コメント欄を開放していれば、ヘンなコメントがつく可能性も想定できるはずなので云々。
ま、お客様は神様ですから、偉そうでもいいんじゃないでしょーか。
今日は月曜日。(我ながら、他に何か書くことないの?)
日曜日か……。明日は、歯医者に行かないといけない。虫歯はないんだけど。
そういえば、1日に年末一時金が支給されたのだった。
振込通知書を見ると40万円くらいもあって、すごいなー、と思った。大学時代に、一番貯金残高が多かった3年次末でも、大差ない金額だったと思う。就職活動でバイトを辞めたら、就職活動の交通費と、年金と、大学での教科書代と食費でどんどん減っていって、夏にはすっからかんに近くなった。
今日は仕事かな……。さっさと寝ないとつらいよなー。
とりあえず、パソコンの電源は切ろう、そうしよう。
そもそも、なんで眠れないとかいって23時過ぎにパソコンの電源を入れたんだ。それが間違っているだろう、と。
こんなことばっかり書くなら、プライベートモードに戻すかなあ。そうすれば多分、何も書かなくなる。
忙しい、ったって、そりゃー息つく暇もなく働いているというわけじゃあない。
何を優先するか、という話なんでありまして。
私はあまりマンガを読まない。
入社1年目は、社員寮の廃品回収コーナがリサイクルコーナ兼用という文化があったので、長年マンガとほとんど無縁だったこともあって貪るように読んだ。しかしどういうわけかだんだん、マンガを廃品回収に出す同僚が寮からどんどん減っていってしまった。それでいつの間にか、あまりマンガを読まない人間に逆戻り。
買って読めばいいんだけどね、値段が高いんだよなー。もともとそれが理由で、子ども時代にマンガと無縁だったわけだ。文字の本は図書館で無料貸出しているので、小学校を卒業するまでに1000冊以上、読んだのだけれど。
古書店ならマンガも安い。いくら短時間で1冊読み終わってしまうとはいっても、1冊200円以下なら、価格時間比でも文字本の新刊と対抗できると思う。ところが、大学を卒業して、古書を買うくらいのお金には不自由しなくなっても、あまりマンガは買わなかった。文字本の古書の方がもっと安かったからだ。
でもまあ、入社1年目にいろいろマンガを読んでみて、まあ雑誌ばかりだったから、途中からはじまり、途中で終ってしまったケースが多かったわけだけれども、なかなかマンガも面白いな、と。逆に、なるほどこれではバカにされるわけだ、という面もないではなかったけれども、それをいうのも安直な批判かな、と考え直すくらいには長くマンガに触れることができたのはよい経験だった。
そんんわけで、「GOGOモンスター」「ピンポン」「自虐の詩」「少年アシベ」などを新刊で買って読んでみた。いずれも、それだけの価値ある作品だったと思う。ただ、やっぱりこう、なんていうんですか、もっと気軽に読みたいぞ、と。
いや、漫画家が貧乏だという話は分かっちゃいますがね、私の給料は、ちょっと読んでみたいというマンガを無軌道に新刊で買うには少し足りないのではないか……。文字本なら、読む時間という都合があるから、限界があるのだけれど、マンガを月給分新刊で買っても、読むことができてしまうでしょう、それがいけないんだなあ。
というわけで、申し訳ないけど、ふつうに新刊で買うことができて、まだご本人が存命の作家の作品も、気にせずどんどん古書で買うことにしました。
ちょっと更新を休もうかな……。
いきなり空の色まで冬になってて朝から驚いた。
BerkeleyDBは色々と問題が有るので、今時のツールだったらもう採用しないほうが良いと思う
DBとかよくわからない私は MT を BerkeleyDB で動かしてます。
FTP ツールでフォルダをダウンロードするだけでバックアップできるし、利用者側は、お勉強ゼロで使えるので、個人的には嬉しい。DB には興味ないので、お勉強したくない。なので、BerkeleyDB 以外の DB を使うブログツールは使わないことにしてます。
自分がそういう客だから、DB は使いたいけど、DB の勉強はしたくない、という客層を狙うなら BerkeleyDB に対応するべきだと思う。WordPress や Nucleus より MT の方が敷居が低いのは、BerkeleyDB に対応しているという点も大きいのではないかな。
重いとか軽いとか気にしないでいい状況にいる限り、「結局、作れるブログに違いはないんでしょ」というあたりが勉強する気が起きない理由だと思う。
……SQLite なら 使い勝手は変わらないし、バックアップファイルもひとつで足りることがわかったので、なんとなく移行してみました。当たり前のことだけど、データベースを移行したからといって、何ひとつ変化なし。
「来る」の定義にもよるんだけど、DBの形式を自由にカスタマイズできるCMSのようなツールがブログ以上のブームになることは多分ない。たいていの人は今のブログで満足だし、今後に渡ってもなんぼか高機能化したブログ(DBのカスタマイズまではしたくない)で満足だと思うので。
しかし、「データベース→サイト(HTML)化」はともかく「データベース→XML化」に興味のある人はたくさんいるはずなので、数年後にはそういうツールがブログの数%ぐらいの規模でブレイクすると思う。もちろんExcelやAccessのファイルも読める(マイクロソフトが死んでいなければ)。同時にXMLパーサやらスタイルシートをなんとかする系のツールも進化する。
その時にはセミオーダー開発のような形(こういう意向を持つユーザーは注文が細かいので、一定額なら金を払ってでもニーズにぴったり合ったものが欲しい、と考える層はいるはず)になるか、そのまんまGoogle Baseか、またはもうちょっとユーザーフレンドリーな皮を被ったASPか。
データベースから記事を出力してサイトを構築するビジネスは、20世紀から、デザイナーだけでなく情報技術者をきちんと抱えてきた中規模以上のウェブ製作会社が、当たり前のようにこなしてきた仕事。にもかかわらず、昨今、ブログがどうしたこうしたといっているのは、「チープ革命」に他ならない。
安価な標準品をカスタマイズすれば、従来50〜1000万円請求されたオリジナル CMS を5〜100万円で実現できてしまう。請求書のゼロがひとつ減る。しかも RSS やトラックバックといった機能を標準装備。管理側のユーザインターフェースも洒落ている。その代わり、一定の制約はありますよ、と。
松永さんのいうデーサイとは、つまりカスタマイズ性に富んだ CMS のことです。XOOPS のような汎用ツールだけを CMS と呼ぶのも新しい誤解か……。
ブログツールのカスタマイズ性を上げ、データベースに格納する項目を自由に増減できれば、一般にも普及するものとなるのではないか……ということなんだけれども、やはりインターフェースが最大の難所。簡単に考えると、データベースの型が決まらないと、データ入力フォームの形式は定まりません。逆にフォームを標準化すると、データベースの型も標準化されてしまう。汎用 CMS のカスタマイズ性に限界があるのは、そのためです。
コメント欄で私も書いていることですが、基本的には、20世紀の内に実現されている技術です。ウェブ製作会社は昔から、カスタマイズされた CMS を納品してきました。個人レベルでも、Access からサイトを構築したりしている方がいます。しかしそれらは、オリジナルの仕様をまず確定して、それからインターフェースを設計します。だから話は簡単だったわけで、カスタマイズ製が高く一般人にもわかりやすい汎用 CMS となると、やはりどう考えても、これは難しい。
rNote がオンラインでの記事書き込み機能の実装に苦労されているのも、インターフェースの問題なのだろうと私は予想しています。
ブログの記事投稿画面にフォームを増やす程度のことでは、「サイトの管理」というレベルには程遠い。でも、まずはそこから、なのか。Flash を利用した、楽天広場のテンプレートカスタマイズシステム(マウスカーソルでサイドバーなどの項目を掴んで、好みの位置に移動する)などは、従来の使いにくいファイルマネージャを革新する可能性を秘めた GUI のアイデアを提供していると思う。記事入力フォームの自由拡張機能とファイル管理機能の進化、まずはこの2点か。
楽天広場のテンプレート管理ツール(Flash 利用)の何がいいかといえば、画面の再読み込み無しで項目の移動ができる、しかも直感的に操作できるということ。
次世代汎用 CMS のファイル管理に応用するならば、フォルダの階層構造が表示され、マウス操作で記事のコピーや移動を行うことができ、そして操作の結果に基づいて自動で各フォルダの目次ファイルが生成される、といったイメージになるだろうか。
記事の出力は、日付順整理と、カテゴリ別整理の2系統となる。ひとつの記事が複数の Permlink を持ち、整理方法毎に表示結果が異なる。
日付順ページでは、「次の記事」「前の記事」は当然に日付順で指定される。
カテゴリ別ページでは、同じカテゴリ内の記事を、指定のソート基準により「次の記事」「前の記事」として出力する。解説記事の類なら、記事入力フォームの「解説順序」欄に記入した数字の大小でソートしたりできる。記事の執筆順序に縛られず、記事をソートできるわけだ。
複数カテゴリの設定は、もちろん可能。
お仕着せでない CMS なのだから、まず記事入力フォームのテンプレートを作る。どんな入力項目が必要なのか、よく考える。
次に、日付順整理の個別記事、カテゴリ別整理の個別記事、各種目次などのテンプレートを作る。単に日記帳にするだけなら、現在のブログツールと同等で足りる。
テンプレートの管理が課題か。カテゴリ毎にテンプレートファイルを置くのは煩雑。カテゴリ毎に異なるテンプレートならいいけれど、4つのカテゴリは目次にも個別記事にも同じテンプレートが使える、というなら、1つのテンプレートを複数カテゴリに適用することができないと面倒だなあ。
なお、入力フォームを自作するわけだから、<$MTEntryTitle$> のような変数は、自分で設定した独自変数、ということになる。当たり前だが、入力していないデータは出力できない。どんな出力を得たいのか、という観点から、入力フォームの再設計が行われることが多くなると思う。
カテゴリ毎に記事を少し書き換えたいとか、逆に日付順ページの記事本文を修正したら、カテゴリ別の記事も同時に修正されなければ使い勝手が悪いといった要望は、当然、出てくると思う。これを同時には実現できないが、次のような解決策が考えられる。
まず最初に記事を入力すると、日付順で整理される。カテゴリを指定すれば、各カテゴリのフォルダにも同じ内容の記事が出現する。複数カテゴリを指定すれば、複数のフォルダに記事が出現する。ただし、これらの記事群は、データを共有している。
そこで、特定カテゴリの記事だけを書きなおしたい場合には、データリンクの切断操作を行えばよい。Excel のシート共有システムのようなイメージだ。共有シートを個人的にカスタマイズして用いたい場合には、リンクを切断して操作すればよい、というわけ。
カテゴリ毎にフォルダを作る、ということになると、少なくともその点で、URI のカスタマイズ自由度が制限される。また記事をカテゴリ移動すると、日付順ページの URI は変化しないが、カテゴリ別ページの URI は変化してしまう。これも制約といってよい。
そして、各記事の URI をどう設定するかという問題がある。名前が被ってしまっては困るわけだ。デフォルトでは秒単位で時刻をファイル名にするのがデフォルト設定になるのかな……。
こんなツールがほしいぞ! という願望です。(100万円以下なら、世のため人のためということでカンパしてもいい、とか思っていたりする。後に運良く儲かったら少し分けてもらおうという魂胆ですが)
Access とか勉強したくないです。直感的に使えるものがほしい。今、備忘録を書き溜めるのは楽しくても、それをウェブサイトとして再構築するのがなかなか面倒なんですよね。オンラインで記事管理できて、どこからでもログイン→修正ができて、しかもわかりやすくて、ということができたらなあ、と。
最初からウェブサイトを作るぞ、というツールも、個人的には、なんか違う感じなんです。とりあえずブログ形式でどんどん書いていって、後から、いろいろ整理したりしたいんですね。そのあたりが、現状の不満点。とはいえ、様々なツールを全部試したわけでもないし、いいのが既にあるのかもしれない。折を見て、いろいろ試用してみようかな。
このタイトルはおかしいと思う。少なくとも、私はそう思う。でも、こう読まれているから、柊さんのあの記事が出てきたわけですね。いまひとつ、ピンときてなかったんだけど、やっとわかった。
mala さんは、「情報権力者が保身のために有用な知見を隠蔽しているから、大衆は愚昧なままなんだ!」と陰謀論を展開したんです。私は、どうも過去ログを読んだ限りでは昔から、「いくら説いても分かってもらえない」という現実に自覚的だったようなんです。
つまり、mala さんが考える RSS が普及しない理由と、私が考える CSS が普及しない理由は、全然違っているのです。
私は「言うは易く、行なうは難し」にそうして私たちは、「世界を歪める巨悪の幻影」を、虚空に見出す
と書きました。これは「自分が信じる正しさが世間で通用しないときに、陰謀論を持ち出すのは虚しい」という意味です。まして、潔白な人に妄想をぶつけ悪党に仕立て上げるようなことはすべきでない。
mala さんは、大衆は自分の味方だと思ってる。その錯誤を認めない限り、仮にカトゆーさんの潔白を認めたって、いつまでも実在しない悪徳権力者を妄想の世界に作り出し続けます。そういうのはよくない、と私は思ったから、批判記事を書きました。
一方、私自身を振り返って、どうか。私も、ときに陰謀論に流れることを否定できない。だから、mala さんの問題は、自分自身の問題でもある。
ただ、過去ログを見る限りですね、基本的に私は、自分が少数派であることには自覚的でした。「大衆がバカ」というのは「こちら側」の見方で、「向こう側」の人にいわせれば「あんた方がヘン」なのだろう、それはわかる、と。
「どうせ分かってもらえない」という主張に対して、「それはきみの傲慢でしょ、庶民をバカにしてるんでしょ」という反論が、しばしば見られます。一面においては正しいと思う。けれども、私は賛同しないな。
だって、私はあくまでも、「私の価値観においては」という留保つきで考えているから。つまり、私が「賢い」と評価する主張も、他の人は「くだらない」と思っておかしくない。世界の評価軸はたくさんあるわけで、私の考える価値軸が唯一絶対のものだとは思えない。
私の価値観には共感しつつ、それでもなお頭が悪くて理解できない、というなら、なるほど「バカ」ですよね。そういうケースも、少しはあるでしょう。でも、滅多にある話じゃないと思いますよ。
てくてく。
一気読み。なんだか、すごくもったいないことをした気がする。
予報が変わって、冬の到来は明日に持ち越し。
今日は南風。今日限り、小春日和の暖かさとは、暫しのお別れとなる。
こういうことは可能だろうな、とは以前から思っていたわけだが……。
業務妨害で訴える、というのはどうか。
まあ、訴えるコストよりも、いたちごっこであれ問題ユーザを自力で排除していくコストの方が小さいのだろうけれども、業界全体としては一罰百戒でいきたいところだと思う。
何でも脆弱性だといえばそうなのかもしれないが、泥棒除けに全家庭が強化ガラスを採用するなど無茶な話だ。防御側のさらなる対処が「不可能でない」からといって、愉快犯で迷惑な行動をとる人に対しては、犯罪者呼ばわりしてもかまわないと私は思う。
これを脆弱性の指摘とかいって免罪するのはおかしい。
「論破」ってなんだろう。
辞書を引いてみたけど、高橋(管理人)さんの規定により論破!
は理解できなかった。
ホワイドバンド問題の余波。
寄付で貧困は解消できる、と思っている人がやっぱり多くて、寄付なら OK で、政治活動なら NG という単純なレベルで問題を捉えている方が大多数。それって、「何となく」ホワイトバンドを買う人と全然、レベルが変わらないのだけれど、当人たちはそのことに気付かない。
他人の不勉強を責める人は、しばしば自分は勉強していない。過去の蓄積からくる優位性に寄りかかっているに過ぎない。だから、自分の前提条件を疑わない。
いつものことだけれど、そういったことを指摘すると、今度は「いや、わかりにくいのがいけない」とか何とか言い出す。さっきまで知的怠惰を責めていたはずなのに、今度はバカを前提として、無知蒙昧な大衆の誤解を食い物にする悪辣なやり方とやらを攻撃し始める。のまネコ問題と同じで、主張が崩れても崩れても新しい何かを見つけ出す。
まあ、そういうことはある。ようするに、最初、自分が攻撃していたことは、怒りの真の原因ではなかったわけだ。だから、論破されても怒りは消えない。いやいや、やっぱり許せないぞ! となる。ところが、ようやくたどりついたはずの真の怒りの原因も、やっぱりウソで、それが論破されてもまだ怒りが消えない。
ここでちょっと、私たちは立ち止まらなければいけない。思いつきの怒りの言葉を口にするのではなくて、怒りがわいてくる本当の理由は何なのか、そこを考えなければいけない。
そうして、見当違いの怒りの言葉は、取り下げていくべきだと思う。ホワイトバンドの収益が基本的に発展途上国を直接に支援するお金にはならないということ、それ自体は問題ではないということを、認めていくべきだと思う。
実際には議論によって初期の主張が論破され……というステップにさえ到達しない方が多いわけで、私のいっていることなんて、夢のまた夢でしかないわけですが。
いかにも、という感じの記事。
不思議と理性的なレビューが集まっている。もう少し感情的なレビューが多いかと思ったのだけれど。
個人的には、全体の論調にあまり賛同しない。ノスタルジーの罠にはまっているように思う。昔から理不尽で馬鹿馬鹿しい展開となった祭はあった。
備忘録で取り上げようかと思ったけど……。
明日から寒くなるそうだ。今年の秋は、今日までか。
yosiyama さんが紹介してた記事だけど、飄々とした書きようがいい感じ。こういう文体、私もうまく使えたらいいな、と思う。伝文体を道具として埋め込む手法には、いろいろ可能性がありそう。
geek の気持ちしかわからないのもつらいよね(2005-11-26)について、柊さんから以下のご意見をいただきました。簡単に返答・補足などしていきたいと思います。
過去に正しいHTML正しいHTMLと呪文のように唱え続け、勉強して正しいHTMLを書くのは簡単なこと、とまで吹いた徳保さんの言葉とはとうてい思われない。
むしろこうした「技術を知っていてそれを使える層の視野が狭い物言い」に一定の理解を示すポジションにある人じゃなかったのか。
この記事で彼が否定しているのはいくらか前のご自身であると気が付いているのか、どうか。
思い当たる節はあったので、「ご批判は甘受します」ということで学級会の吊し上げのような(2005-05-26)を関連リンクとして付しました。
ところが、実際に自分が何を書いてきたか、過去ログを探ってみると、柊さんの批判に対応するような文書が見当たらない。
タグ屋というのは大抵、ろくでもないのだけれども、1日1000ヒット以上の大手の中でチョコレイトゥはとくにひどい。のっけから、h1〜h6の見出し要素を
文字サイズ2としてフォント要素と並列に紹介しているという飛ばしぶり。後は推して知るべし。こんな内容でも、とにかく人気があるからどうしようもない。次第に、この状況をどうにかしたい、などと私もバカなことを考えるわけで。
いずれにせよ、理屈としてはともかく、大多数の方々の実感としては、自由な制約の HTML は W3C 勧告の HTML より 平易であるという意見は正鵠を突いています。そしてたしかに、まさにそれ故に、W3Cの勧告するHTMLはいつまでたっても多くの人々に十分に理解されずにいるのです。
ひとつのHTML文書であらゆる環境に対応しようというそもそもの発想に問題があるのでしょう。それは夢のような話であり、現実には人々の欲求をうまく吸収できなかったわけです。目が見え、パソコンを使いこなせる人のほとんどは、結果としての見た目ばかりに注目します。だから、StrictなHTMLにこだわれば、基本的に角丸テーブルは再現できませんよといわれたら、じゃあテーブルレイアウトでいいや、と思います。
私はテーブルレイアウトから転向した人間です。方向性の間違いは間違いなりに、素養となる知識が十分に蓄えられた状態で「正しいHTML」の思想に触れたわけです。私はその経験から、「最初から正しい説明をしても、たいてい失敗するだろうな」と思うようになりました。なぜ「正しいHTML」に利があるのかは、ある程度の経験なしには理解できないことです。そうである以上、誤った先入観に助けられてスイスイ理解できる「DTP風HTML」の解説と比べて「正しいHTML」の解説は、初心者にとっては小難しいばかりで、なかなか頭に入ってこないものなのです。
人間は見出しが6種類しかないのでは満足できませんでした。だから、HTMLは本来の使い方をされませんでした。HTMLの個々の要素が持つ本来の意味は無視して、ブラウザの表示結果に意味を持たせたのです。無数のパターンを持つ表示結果に、自分の思いを込めたのです。
人間がこの表現欲を抑制しない限り、結局はCSSなど使っても、HTMLによるデザインの抱える問題を根本的に解決することなどできません。強調表現が2種類では足りないのだといえば、どんどんclassが増えていきます。ちっとも作業は楽になんかなりません。
ようするに、私は備忘録を書き始めた当初から、HTML を正しく用いない多数派の存在理由について自覚的でした。
たかがツール、たかが形式、どうでもいい機能、それが馬鹿にならない。たかが img 要素が HTML を普及させてしまった故事を思い出すまでもない。「ブログの本当の意味」にこだわる方々は、HTML にこだわる人々の苦しみを、これから嫌というほど思い知らされていくだろう。いつまでたっても、本来の意味なんて普及していかないのである。だから諦めろ、といいたいのではない。それは、私が HTML について何度も説明していることからお分かりいただけると思う。
我ながら、いいこと書いてますね。
私は、他者の中のナイーブな部分に、イラつきがちなのでしょうね。geek が「啓蒙さえすれば多数派は目覚めるはずだ」と暢気に語るような、幸せな世界認識が気に入らないのだと思います。そんな戦略で勝てるわけがないだろう、と。苦難の道を進むであろう少数派の人々には、もっとマジメに、本気で、困難な状況と戦う方法を考えてほしいのです。
とはいえ、たしかに今回のような geek 叩きの内ゲバになってしまうと本末転倒ですね。mala さんのカトゆーさんに対する無根拠な(事実に全く反する)中傷は許容できませんが、全体の論調はもう少し建設的なものであってもよかったと思います。
おめでとうございます!
11月3日か……。奇しくも Folio の最終巻公開日。何か事情があって1回で終ってしまったのだけれども、以前、乾さんには Folio の連載をお願いしたことがあったのでした。
スパゲティがおいしかった。
罵倒芸だからいいんだ、という言い訳はしないことにしてる。かといって、キツい言葉を使わない、ということではない。
罪に自覚的ならいいのか、という批判は甘受するが、食べることの残酷さと同様、私にとって、避けられない攻撃というものがある。
食べなければ死んでしまう、しかし、他人を傷つけるような言葉を口にしなくたって、あなたは死なないだろう、同列に論じるのはおかしい。……それはそうだ。けれども、私はやはり、こう思う。
生物学的に生きているというだけでは、私はどうしても満足できない。
エゴ? その批判も甘受する。ただ、誰一人傷つけずに、人が人らしく生きていくなんてことができるだろうか。できないと思う。衣食住に困っていない日本人の生活を本で知るだけで、嫉妬に狂う人々もいるのだという。
どの程度まで、人が傷つけあうことを許容するべきなのか。
私は、許容範囲を広く取る。優しい人々は、狭く取る。その違いなのだと思う。
あたたかい?
このタイトル、日本語がおかしい。
これでいいのでは。私なら、「議論してもしなくても同じこと」とします。
「議論しようがしまいが変わらない」へ変更になった由。
年賀切手を買った。
約15万4千円の給与振込通知をもらった。
もう長らくお金には困っていないので、今月も不意打ち感覚(え!? 今日、給料日ですか! みたいな)。
そんな私でも、やっぱり嬉しい。もうすぐ冬のボーナスが出る。引越し費用にするつもり。
引越先の件で、悩んでる。社員寮は4年間で出なければいけないから、3月10日までに引っ越さねばならない。
お金は余っているので、23区内でもいいと思うのだけれど、月給の3分の1というルールを破るのが怖い。ルール内だと、23区内は無理。うるさいことをいわなければ選択肢はあるのだが、あんまりひどい条件のところは嫌だな、と思うので。
両親は、少し援助するからいい公団住宅に暮らしたらどうか、という。勘弁してほしい。自立したくて家を出たのだ。分相応の生活をしたい。両親が大金持ちならともかく、実際には一度も平均年収に達したことがないわけで。
弟が平気で親にたかる性格なので、お金をほしがらない私に対して不公平のないように、という配慮なのだろう。もともと私が小遣いをもらうようになったのも、弟が小遣いをほしがったので、弟だけに小遣いをやるわけにはいかないという理由からだった。弟が大学院に進学を決めたので、まだ2年も金食い虫を続ける。最悪5年だ。それで私にも、少し援助したいらしい。
親に甘えないのも、ある種の親不孝だろう、とは思う。
まあ、私は昔から冷たい性格なので、今回も両親の提案を突っぱねていく。既に何度もお断りをしているのだが、実際に私が引越先を決めるまでは、何度でも再提案があるだろう。
早起きしたら、昼に眠くなって困った。
こういう飲み会って楽しかったら楽しかった分、翌日なんだか脱力するというか。みんなの輝きっぷりをみて、凹むというか。ああ、やっぱりネガティブだなあ、俺って。でもまた適当に飲みたいなあ、次回は今回来れなかったセレブ、R30さんとか徳力さんとか終風さんとか徳保さんとかnaoyaとかJkondoとか呼んで。
来れなかった
んじゃなくて、行かなかったんです。
私は本名と電話番号のわからない方が幹事を務める集まりには、基本的に参加いたしません。ご了承ください。
メールにこう書いたのに、結局、幹事の本名も電話番号も伝えられなかったので、不参加となったわけです。もちろん、先に私の本名・住所・電話番号を開示した上での提案だったわけで、決して一方的な情報公開を求めたわけではない。
catfrog さんとしては、参加希望者には電話番号などを伝えます、ということだったのでしょうが、それなら私の不参加は予約済ということになります。
私は集まりに参加するかどうかの判断材料として幹事の情報を用います。本名と電話番号から、幹事が怪しい団体の人間だとわかれば、私は集まりには参加しません。参加を決めてから情報が開示されたって遅いのです。
以上、ご理解ください。
catfrog さんが公開されていたので、補足資料としてご紹介。
正直に書けば、スケジュール的に、あまり気乗りしなかったのです。私にしては珍しく、金曜日の夜と日曜日の全日に外出の予定があり、土曜日まで出かけるとなると週末にゆっくり休めません。*1
catfrog さんに勘違いがあることはメールの文面から分かっていたし、その点を指摘したら、すぐにご連絡があったのかもしれない。けれども私としては、こうした勘違いが生じたのもひとつの天運だと思いました。もし catfrog さんが勘違いに思い至り、そして再度、ご連絡があったなら「縁があった」のだろうし、そうでなければ「今回は縁がなかった」のではなかろうか……。
そんなわけで、不参加の原因の過半は、あえて誤解を放置した私にあるのかもしれません。
私は他人に会うことを非情に億劫に思う性格であり、一定のハードルを設けたいのです。本名も電話番号も教えない、オークションの取引相手程度の信用も寄せてくれないような相手に、私は会いたくない。とはいえ、飲み会の参加者全員にそれを要求するのも無茶な話なので、せめて幹事には個人情報を要求することにしています。
*1:日曜日は数ヶ月前から確定、金曜夜は直前まで不確定(仕事の状況次第)ではあったが予定としてはかなり早い段階でスケジュールに入っていた
なんだ、今日は祭日だったのか。
ホームに人がいないので状況に気がつき、駅で新聞を買って、帰宅した。
昔から、自己紹介は面倒くさいと思ってきた。
最近は「一言でいって、面倒くさがりなんです」ということにしている。
(小説のあらすじ)
メールをもらってもたいてい返事を書かないが、理由はひとつしかない。面倒だからだ。
電話が嫌いなのも、同じこと。勝手にかけてきたんなら、一方的に話したいことを話せばいいだろうに、こちらがわざわざ相槌を打ったりしなきゃ嫌だというのだから、電話は困るんだ。だからいつも留守電にしている。
他人様に「つきあう」のは、面倒くさ過ぎる。
私は毎日のように「寂しい」とかいってる人とはアタマの作りが違う。
「あなたさえいれば何とかかんとか」という歌詞は多いが、その「あなた」を必要としていないのが私なのだ。自分がしたいことと、相手がしたいことは違う。相手がどんな人か、全然理解していないのに、その人とつきあおうとするのは、不幸の元だと思う。
私は何も求めないのに、相手は面倒なことばかり要求する。私は、それなりに説明しているつもりなんだ。自分は面倒くさがりで、何もしたくないんだ、と。なのに、わかってくれないんだなあ。
「嫌いなら、そういえばいいのに!」
価値観の奴隷には、「嫌い」という解釈しかできないのか。
メールも電話も部屋に上がりこまれるのも、全部、うざったい。他人と関わるのは、面倒くさい。
電話の相手がほしければ、電話の相手をするのが好きな人に電話すればいい。メールに返事がほしいなら、返事を書いてくれる人にメールを出せばいい。休みの日に会いたいなら、会ってくれる人に声をかければいい。傍にいてほしいなら、いてくれる人を探せよ。
私に全部、自分の願望をぶつけてくれるな。
好きだった人が、そうしてあっという間に嫌いな人へ変わっていくのは悲しい。
もともと、眺めているだけで幸せだったなら、どうしてそのままでいてくれないのか。以前のあなたとなら、お互い幸せにやっていけたのに。
休みの日は寝ていたい。
だから寝ます。
見出しを考えるの面倒くさい。投稿時刻は公開したくない。どうするかな。
Folio 関連で20日の文学フリマへ行った。「最初から最後まで会場にいるよ」と予告していたのだけれど、実際には家を出たのが11時過ぎ。到着は12時頃。例によって例のごとく。
ごく一部のサークルだけがよく売れていて、ほとんどのサークルは10〜30冊売れるか売れないかというあたりで苦しんでいる様子だった。供給過剰、需要過少のデフレ経済は、みんなから活気を奪っているように思う。
フリーペーパーは別として、有料の冊子も1冊5円から。300〜500円の冊子が多いかな。雑誌よりは高価格、単行本よりは低価格、といった感じ。文庫本とは大差ない。たまに1500円の冊子などもあるけれど、さすがにページ数も多くて立派な内容。みな赤字覚悟の直販なので、基本的に自主制作本としては低価格で買えるのが文学フリマのいいところ。
参加者がみな、1万円分くらい買ったなら、売り切れサークルが続出して活気が出るだろうに。そこで私は「ちょっと面白そうだな」と思った本はどんどん買った。手に持ちきれなくなったのでビニール袋をもらったのだけれど、何だか取っ手が千切れそうだったので、コンビニで紙袋を買った。そうして1万円分くらい買ったら、とてもとても重くなった。
重い紙袋を提げて Folio の打ち上げで喫茶店と居酒屋へ行った。少しつらかった。
翌日、左手が筋肉痛になってたので驚いた。
本当は店番をやるつもりだったのだけれど、ブースに椅子が2つしかなく、ぱそ子さんと村上妙さんがたいてい陣取っていたので、私は用無しだった。
ずっと左手に紙袋を提げたまま、歩き回るしかなかった。立ち読みコーナに椅子があったので少し休んだけれど、歩き回るとまた本を買ってしまう。ブースにカバンを置かせてもらおうと思ったのだけれど、なぜか Folio のブースにはカバンがあふれていて、お客さんの側にまではみ出していたのであきらめた。ともかくそんなわけで、月曜日は左手が痛かった。
しかしそうではあっても、大量の売れ残りが入った段ボール箱を郵便受付コーナへ運ぶ人の列を見るに、やっぱりみんなどんどん本を買うべきだと思った。朝と夕とで箱の中身がすっかり入れ替わるような、そんなフリマの方が楽しいはずだ。
フリマで買うのは、とりあえず、きれいな本がよい。装丁が適当だからといって中身も同程度であるとは限らない。でも、基本的には、きれいな本を買う方がよい。
というか、一部の例外を除けば、作家名では判断できない会場なのだから、造本の好き嫌いでふるいにかける他ない。立ち読みコーナはあるけれど、全部読めるわけがない。
本のサイズは何でもいいのだけれど、しいていえば、文庫本がいいように思った。文庫サイズでもA5版でも値段が一緒なので、文庫本は損だと思うかもしれないけれど、読みやすさが一番大切なのだ。
よく考えてみてほしい。なぜフリマで本を買わないの? 値段もそりゃ大切なのかもしれないけれど、「買ってもどうせ読まないし〜」という気持ちが最大の障害だと思う。通勤・通学のお供に持ち歩けるサイズの本なら、物理的に読書可能な範囲が広がる。
きれいな本がいいというのもまさにここが重要で、「何、読んでるの?」と不意に訊ねられたときに、安心して見せられるような本がいい。
本を買う前には、必ず立ち読みするべきだと思う。あっという間に完売するような人気サークルでは「後ろのお客様の邪魔になりますので」と断られるだろうけど、午後1時過ぎに立ち読みを拒否するサークルは見当たらなかった。
いくらきれいな本でも、文字組みが読みにくいとダメだと思う。買っただけで満足しちゃって、読む気がしない。また後で、になってしまう。
とりあえず、行間隔が十分にあいていることと、文字サイズが小さすぎないこと、この2点を注意すればよいと思う。
ところで、立ち読みするとサークルの人が期待の視線を向けてくる。予算に限りがある人、買う本は厳選したい人、それでいて気が弱い人は、本の外見だけである程度、絞り込まなければいけない。
ちょっと立ち読みしただけで、面白いかどうかわかるはずもない。
ただし、あまりに下手な文章はすぐわかる。足切りはできるけど、それ以上は無理と思って、あまり期待せずに買うのが吉。
なお、サークルの配置が概ね内容別になっているので、好きなジャンルのサークルが並ぶ一帯で売られている本は、前述の基準をクリアしたものについてはみんな買ってしまってもいいと思う。書店の同人誌コーナの半額以下で買えるわけだから。
これは文学フリマに限った話ではないのだけれど、出展者以外が買う価値のある本は、決して多くないと思う。
つまり、イベントを楽しく盛り上げて、また業界を明るくしていくために、お互いに同人誌を読みあうというのはあっていい。というか、それがないと、やりきれない。しかし、一般の読書好きに積極的に文学フリマ来訪をお勧めできるかといったら……。
書店に本が並んでいる作家・評論家・ライターが余禄で出展する冊子だけが早々に売り切れ、同人サークルの冊子が全然売れないのは、ある意味で正しい。
でも、それって、お互いに首を絞めているようなものじゃないか、と思う。
フリマなんてのは出展者+その周辺人物が客の中心なのだから、互助的に冊子を買って、読まないでどうするのか。馴れ合いでは進歩が云々というのかもしれないが、進歩する人は進歩するし、進歩しない人はしないのが現実なのだから、杞憂だろう。
大多数は、お互いに「あんたの本なんか買わないよ」と傷つけあって何ら益するところがない。むなしい。
Folio の打ち上げで私が払った金額は喫茶店と居酒屋で4000円くらいだったと思う。みんな300円の冊子を10冊買うくらいのお金は持っているのだ。あとは、読む時間。10時間くらい、工面できないのか。
東京勿忘草子は花唄の千村はつひさんが出展していた本。500冊も作ったのに100部くらいしか捌けていないらしい。
造本もよかったし、内容もよかった。文章力向上委員会の冊子2冊とあわせて1000円だったので、価格も安かった。一番いい買い物だったと思うので、メモっとく。
あと、もう消えたと思い込んでいた文京オールドファッションドが今でも更新されていたので驚いた。全盛時の更新ペースを保っていたら、500部は無理でも350部くらいはさっさと売れたろうに……と思った。
昔、本を読むたびに感想を書きとめていたことがあったが、次第に「感想を書くのが面倒だから本を読まない」という本末転倒なことになったので、読んだ本の感想は基本的に書かないことにしている。
ぐったり。
コメント欄は開放しない。トラックバックは受け付けない。キーワードリンクしない。カテゴリは設定しない。ときどき記事をバッサリ消す。ときどきプライベートモードへ移行する。
ノリのいい人には近づかないに限る。