この記事は、2001年1月に、当時の BBC News の記事 Alarm over Nato uranium deaths をベースに書かれたものです。
NATOは、アメリカに主導され、本来、必要ないのにユーゴスラビアでの紛争に軍事介入して問題をますますこじらせたが、米軍の戦闘機がばらまいた劣化ウラン(DU)弾による健康被害の不安は、深刻な置きみやげとなった。
劣化ウランは大気の流れにのってポーランドとフィンランド、そしてハンガリー、ギリシャ、イタリアにまで降下し、発ガンなどの被害をもたらすと予測されている(1999年4月19日、英タイムズ紙)。
フィンランド、スペイン、ポルトガル、フランスは、すでに懸念を表明していたが、最近、イタリアもNATOへの詳しい調査を要求した。バルカン帰りのイタリア兵があいついでガン(ないし白血病)になりすでに6人、死亡したことをうけたもの。
イタリア共和国のジュリアーノ・アマート首相は、「バルカン症候群」をめぐりイタリア国内にもある不安は、「当然すぎるもの」だと語った。バルカン症候群とは、NATO軍のユーゴ空爆後にコソボでふえたなぞの症状で、「からだから力が抜ける」「せきが止まらない」といったもの。もし原因がウラン汚染なら、現在はまだ「潜伏期」で、本格的な症状が広がるのは2、3年後だという。
「NATOは、劣化ウランの性質について、完全な調査を行い報告すべきだ」アマート首相は、訴えた。「我々が繰り返し聞かされていたのは、劣化ウラン弾が健康に影響するのは、ごく例外的な場合――例えば、肌に直接つけて、その肌に傷口がある場合――だけで、それ以外の、ふつうの場合には、少しも危険性がないという話だった。しかし事実は、それほど単純でないと考えざるを得ない状況になっている」
NATO軍は、コソボ以前のバルカン紛争においても、ボスニアで劣化ウラン弾を使ったとされる。
誤解されやすいが、劣化ウラン弾というのは、決して核兵器を意図したものでは、ない。ウランと聞くだけでおびえるかたも多いと思うが、天然のウランの99.3%は放射能のない「ただの金属」(ウラン238)で、核燃料となる放射性のウラン235は0.7%ほどにすぎない。「劣化ウラン」というのは変な訳語だが、depleted uranium の deplete というのは鉱山などから鉱石を掘りつくして、そこは、もう廃坑にするしかというような意味で、文字通りで言えば、放射性のウランをとりつくしてしまった残りかす(核燃料としては使えないただの金属)ということになる。
このほか、天然のウランのなかには、極微量(0.005%)の「ウラン234」が含まれる。含有量は少ないが放射能は強いらしい。
鉛中毒、水銀中毒などと同様に、ウラン238にも(放射能はないが)化学毒性がある。また、核燃料になるウラン235を100%完璧に分離して取り出せるわけでないので、実際の劣化ウランには、わずかながら、「堀り残した」放射性のウランも含まれている。
劣化ウランで作った金属部品がそのへんに置いてあっても、それ自体は、ただちに危険では、ない。実際、民間のジャンボジェット機の部品として、用いられたりもした。鉛以上の重金属(高密度)なので、小さなスペースに効率よく重いおもりをつけるには、つごう良く、材料も核燃料のしぼりかすなので安く手に入る。
兵器の砲弾の場合も、密度が高いほうが威力が大きい。雪合戦で、同じ重さの雪の玉を投げる場合でも、ちいさくぎゅっとにぎった雪玉のほうが、当たると痛い。そんなわけで、次々と死の兵器を開発して大儲けするれいのあの国が、「劣化ウランを砲弾に使ったら安上がりで強烈なのができまっせ。微量の放射能汚染? いや今まで一度もそんな報告はないですよ、廃物利用のリサイクルで環境にも優しい兵器です」などと考えたのか(この説明は、もちろん半分冗談です)、ハイテク兵器見本市「湾岸戦争」で1991年に使ったのが初めとされる。イラクに対する新型の対戦車砲弾として、米軍が使用したのだ。枯れ葉剤にせよトマホークにせよ、まったくもって、あれやこれやと変なもんを思いつくものだ。
たしかに、砲弾として、メッキもはげずに原形をとどめている限り、とくに危険なものでは、ないと思われる。この点、アメリカの主張も基本的に正しいのだ。ただ、実際には、目標に命中した劣化ウラン弾は、装甲を貫くときに激しい摩擦熱でウランを気化拡散させるので、「からだに入らなければだいじょうぶ」といっても、空気に混ざってしまえばもう問題外だ。
ウランの毒性については、アメリカの環境有害物質・特定疾病対策庁(ATSDR)が一般向けのFAQ「ATSDR - Public Health Statement: Uranium (1990)」を公開している。こう書いてある:「天然ウランの毒性については、よく分かっていませんが、ウラン鉱山の労働者は肝臓障害を起こしやすく、実験動物でも肝障害が確認できます。食物、水、空気、または皮膚のどの経路からの摂取でも、同じ結果になります。また、放射能の影響による発ガン性も考えられます。ウランを実際に摂取してから長期ののちに発症する可能性もあります。動物実験では、生殖障害や催奇性(胎児への悪影響)も示されています。」
鉛というと重さの代名詞だが(「腕が鉛のように重い」とか)、劣化ウランは、その鉛よりさらに2倍近く密度が高く 19g/cm3 だという。コップ一杯の水というのは200gくらいの重さだが、もしコップのなかに同じ容積の金属ウランが入っていると、それは約4kgという計算で、持とうとすると「なんでこれこんなに重いの?」とぎょっとするに違いない。コップ1杯のつもりで片手でひょいと持とうとしたら、ざっとお米の5kgの袋くらいの重さがあるんだから……。また、そういう性質があるからこそ、飛行機のおもり部品や、戦車の装甲(そうこう)を破るための砲弾に使われた。たしかに、その驚異的な貫通力は高く評価されている。
タングステンも同じ密度だが、タングステン弾より威力があるという。コスト的にも高価なタングステンと違って、じゃまなゴミである劣化ウランを兵器に転用するのは、たしかに効率的なリサイクルだ。
劣化ウランが拡散した場合の毒性の強さは、もちろんそういうデータはこれまでないからハッキリしないのだけれど、東京消防庁のマニュアルによれば、許容濃度は空気1立方メートルあたり0.25ミリグラムだという。「ミリグラム単位あっても大丈夫」というとそんなに猛毒でもない、という感じもするが、密度が上記のごとくだから、0.25ミリグラム、すなわち1グラムの4000分の1といえば、おおざっぱに「0.1ミリメートル未満の目に見えないくらいの粒が1立方メートルにつきたった1個浮遊しているだけで、もうアウト」なのであって、弾丸が飛び交い空爆があり物がすぐ粉々になる戦場において、弾丸の成分にそんな物質を使うのは非常識きわまる――敵国に被害を与えたいという意図はともかくとして、これでは軍事行動を行う味方だって危ない。枯れ葉剤の二の舞だ。ましてや今度は化学毒性だけでなく、放射能もあるのだから。それを空から3万1千発も撃ちまくったという(1発でもかなり巨大な砲弾=写真。いったい合計で何トンのウランをまいたことになるのだろう)。――さらに、劣化ウランは、湿った空気に触れると毒性の強いフッ化物を生成するともいう。おまけに、沸点3000℃台だから激しい炎に包まれる戦場では、あっけなく気化してほうぼうに散らばってしまう。
実際、湾岸戦争に従軍した兵士の多くは、「湾岸症候群」として知られるさまざまな健康障害の原因は、この劣化ウラン(DU)弾だと考えている。
劣化ウラン弾は、ただ置いてあるだけでは、さして放射能もない。けれど、戦車の装甲などを貫通する際、劣化ウランそのものが高温で燃焼し、微細な粒子(蒸気)となって空中に拡散する。アメリカ国防省も、この粉じんが危険であることを認めており、DU弾で破壊した戦車のなかに入るときは注意するように言っている。しかし、アメリカ国防省は、「粉じんが危険なのは短時間だけで、着弾地点から遠くに広がる可能性は低い」と言い張っている。中立の立場からの実験によると、その主張は正しくなく、粉じんは何十キロも先まで飛んでゆくことがあることが分かっている。
アメリカとイギリスの軍事担当は、「DUの危険は、重金属としての毒性のみで、放射能のほうは無視できる」などと言を左右にしている。仮にそうだとしても、例えば「水銀には放射能がないので、川に流しても平気です」というのだろうか。
米軍の元大佐で今は医学の教授である Dr Asaf Durakovic は、昨年、湾岸戦争に参加した17人の兵士の検査を行った。3分の2の兵士からは、相当量のDUが検出された。「体内にあった粒子の一部は、呼吸によって吸い込まれたものです。もし仮に吸収できないほど大きい粒子であれば、そのまま肺にとどまって、肺ガンの原因になる可能性があります」という。
米軍・環境政策研究所の報告書でも「体内に入ったDUの危険性には、化学毒性と放射能の二面がある」とされている。「DU弾の砲撃を受けた戦車等の内部または付近にいた人間は、相当量のDUの体内被曝を受ける可能性がある」
湾岸戦争に参加した兵士のなかには、そのご先天的障害を持つ子が生まれ、自分がDUを浴びたからだと考えている者も複数いる。敵国とされたイラクでも、1991年にDU兵器が使用された地域では、一般住民(文民)の発ガン率が高まっているとの報告がある。
不安を持つのは知らないうちにDUにさらされたかもしれない現地および周辺の住民も同じだ。支援活動のため現地にいたスタッフやジャーナリストにも不安が広がる。
ヨーロッパのいくつかの国の政府は、自国の兵士に対して、現地のものを食べないように指示し、飲料水も外部から飛行機で補給していたと言われる。しかし、そこにいた人間のほとんど――つまり現地の住民たち――は、そのような安全な水を分けてもらえたわけでは、ない。
東西冷戦の終結にともなうNATO不要論の流れのなかで、NATOの「新たな存在意義」をアピールすることが主目的の理不尽な軍事介入ショーだったのだから、せめてもう少しきれいに戦うべきでは、なかったか。いくらアメリカ合衆国内で劣化ウランが余って保管に困っているからといって、「在庫処分の良い機会」とばかりに(というわけでもあるまいが)、湾岸戦争でその非人道性が分かっている兵器を大量に投入した点、第二の枯れ葉剤として、のちのちまで批判にさらされるだろう。いや、枯れ葉剤のときは、まだダイオキシンの危険が知られていなかった。今回は、知っていてやったのだ。
米軍の一般兵士に罪はない。自分たち自身も、この武器がどんなに危険か知らされず、知らないうちに同じ被害にあっていた(枯れ葉剤のときもそうだった)。自分が使っている兵器が本人にとっても危険であり、しかもそのことを上層部は知っていながら教えてくれないなんて、敵の非人道的兵器でやられるよりさらに非人道的だ。
2001年1月 初版。
2003年4月 中国新聞(広島)の特集記事「劣化ウラン弾 被曝深刻」へのリンクを追加。
たまには日記ふうに書いてみよう。これは1月1日23時すぎからの行動の記録なのだ。……JapanTimes がアフガニスタンについて何か書いている、というので行ってみた。ら、その年、ソ連がアフガニスタンに攻め込んだ、という一文のなかの一語がヒットしただけ、よくあるパターンだった(New opportunities for Japan-U.S. ties)。前夜には毎日新聞の社説「さよなら20世紀 戦争、革命、核の時代だった」でも「局地的にはいかに多くの戦争、内戦、紛争が起きたことか。朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、中東、アンゴラ、コンゴ、ルワンダ、ボスニア、コソボ、チェチェン…」なんてのを読まされて、アフガニスタンといえばソ連侵攻&内戦…じゃなくて、東西が出会った多様な文化の歴史をもつ、ほこり高い諸民族の国なのだよ、と思ったりもした。
その日も前線からの激しい戦闘を思わせるニュースが入ってくるのに「さよなら20世紀、戦争の時代だった」とは、のんきな過去形だ、と思ったのだろうか、自分でもよく分からないが、とつぜんグレート・ゲームを皮肉った「シムアフガン」というふざけた画像を作り始めた。没頭していると、知らないうちに世紀が明けていた。
「アフガニスタンは国なのです」というのは、アメリカ合衆国のクリントン大統領がベトナムについて演説したやつのパロディーだが(ベトナムのページ)、こっちは、もちろん、皮肉ではなく、まじめにそう思った。
で、JapanTimesを読んで、前からちょっと思ってたことを思い出した。話が飛ぶようだが――「広島といえば原爆の代名詞」で終わらせるのは、よろしくない。広島には、もっとほかにも、おもしろい文化とかがあるはずだ……それを調べていつか記事にしよう。というプランがあった。で、「広島といえば……世界に知ってほしい三つの顔」とか題して、内容は「まず広島風お好み焼き」「そして、いつくしま神社」ってな感じで、原爆には、わざと触れないで通すというのは、どうだろう? 最後に「前世紀には、ほかにもいろいろあったけれど、それは千年代の話だ」としめるのは、どうだろう? なんて考えてみた。しらじらしくて軽薄に見えるかもしれないが、広島についての紹介文を長々と書いて、そのことにひとことも触れない、というのは、それはそれで強烈な意志であり、表現だ。
けれど、なんとなく、今回は、こんなふうにメタ物語ふうにタイプしてみた。
ふたつあるが、まずは備後(びんご)方言王国、オーディオ・クリップがあって耳で聞けるのと、「ムーミン」の備後語訳が楽しい。
それも、個人的に思い入れの深い「彗星」だ。
ムーミントロールが叫びました。「やっちもなあようなもなあ、ありゃあせなあ。牛乳のかゆでもすすりょうりゃあ...」
「子供は黙っとりんさい。ジャコウネズミさんはのう、何でも知っとってん偉あ人なんで。何でやっちもなあかも知っとってんで。うちらあ言うたけども、また洪水にならにゃあええが思うとるんじゃが。」とムーミンママは言いました。
これは英語版の訳だ。ムーミンの愛読者ならご存知かもしれないが、「彗星」は日本語版と英語版が異なる。英語版は原書のバージョン1の訳だが、日本語版はバージョン3かなんか(いちばん書き換えたやつ)の訳で、ヤンソン自身は、もちろん最新改訂版を訳してほしいのだろうけれど、じつは初期バージョンのほうが魅力的だ……とくにニプスが「わたしたち、ちいさい生き物の神様。お願い、みかたして」と祈る印象的な場面が修正版ではカットされてしまった。そう、これは空から不可抗力の彗星が落ちてきて、ちいさい生き物は、どうしょもないという話。平和なほかのムーミンシリーズと違って、不安感が非常に強い。もちろん当時のフィン・ソ戦争などが背景にある。ヤンソンは、この暗さをあとから嫌ったとみえて、ほぼ全面的に書き換えてしまった。講談社文庫のやつは、書き換えた後の姿なのだ……。ちなみに、フィンランド語版もバージョン1の訳のままだった(ヤンソンはフィンランド人なのでムーミンをフィンランド語だと思っている人もいるようですが、原書はフィンランドのもうひとつの国語であるスウェーデン語です)
れいによって、また話がそれてしまったが、もうひとつは、国際人のための広島弁講座。
宮島町(みやじまちょう)のホームページにある厳島神社のページは flash なんかを使った、うれしがりのページ。神社が観光資源になりはてるのは、べつに珍しくない(日光とか)。
上のウェブサイトの「奇想天外な海中の敷地」の写真つき解説によると、なぜ海中にあるのか定説はないらしく、「祭神が海神であるため現世に竜宮城を再現しようとしたため」という説と「来世を船で渡って極楽浄土にまいる藤原時代の浄土信仰の一つのあらわれ」という説が書いてある。あの世とこの世のあいだに水がある、というのは、世界中のいくつもの文化が共有しているなぞのイメージのひとつで、ウラルもそうであることは、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」を思い出せばすぐ分かると思う(白鳥がいるってのは川や湖のたぐいがあるわけです)。厳島神社の風景写真を見ながら、トゥオネラの白鳥を思い浮かべると、……なんかマッチするなぁ。
ちなみに、世界が水から始まる話もよくあって(カレワラもそうです)、これは羊水のイメージかもしれない。日本語では奥ゆかしく「おしるしがあった」というが、英語では即物的に「My waters broke」だそうで、この「破水」のイメージを神話の「宇宙卵」と重ねるとおもしろい。ここで「じゃあ宇宙樹は?」と言い出すとだんだんつまらない話に乱入するので、この手の話は、この手の話が好きな人々にゆだねる――。が、まあ、厳島神社が日本三景に数えられるのは、「オンディーヌの世界」に足を半分つっこんで立っている人間界の建物の、半妖精的・原型的インパクトと関係あるのかもしれない……。
さて、広島イコール原爆じゃない、ほかにもいろいろあるのだよ……と言ってみても、とりあえずイツクシマ神社の話をすると、あと思いつくのは、軍艦で有名な呉(くれ)市で、呉市、軍艦、といえばなんといっても大和(やまと)で、話が元に戻ってきてしまう。
呉市ホームページにおじゃまして、市長からのメッセージを見ると、「「戦艦大和」を建造した東洋一の軍港として栄え」と誇らしげに語っている。――わたしのような者が気軽に言及するのもなんだが、日本人のアンビバレンス「やまと」、やまと魂のやまと。日本人の強力な集合無意識は沈没した戦艦ヤマトを死の国からよみがえらせ、「全人類を放射能汚染から救う」という重い使命をおびさせ、もういちどよみの国ほどの遠方へ旅立たせなければならなかった……軍歌調のマーチに乗って。乗組員は、もちろん日本民族だけである。ここにミスター・スポックが乗り組んだりするのは、集合無意識的にゆるされないであろう。ましてやジェインウェイ艦長(女性)が指揮をとったりしては、この神話は成り立たない。あまりにあからさまな「神話」で、分析の必要などない――が、このような分析の必要がないほど明らかな事柄を明示的に分析すると、しばしばなぞの敵意を向けられる、というのは、人間学において、しばしば経験されるところである。「言わずもがな」というわけだ。例えば「アンビバレンス」で充分で「恥(汚辱)と誇りの戦艦大和」などと言う人もいるかもしれないが、それは好ましくないかもしれない。ふむふむ(って何?
いかに伝説を美化しようと、実際に生き残った乗組員の証言は、なまなましい。
負傷した者も,皆入れとるわけなんです。砲機員が,そこへ,[負傷者は]邪魔になるから,もっていっとるわけなんです。だから,そこは,血の海です。そして戦死した者や,負傷した者が腕は飛ぶ,あれ[手足の一部]はここ[に落ちているという具合]弾が通っとる,鼻を通っとる者が,『水くれえ,水くれえ』と言うんです。ということは,大きいケガをするとノドが乾くと聞いていたから,ヤカンを用意していた。ところが,何人かに水を渡したんだが,次飛行機が来るといかんから,すぐ戦闘配置に駆け上がったんです。今でも,戦友が『水くれえ,水くれえ』といって追っかけてくる夢しょっちゅう見て,私,うなるんです。
戦争というのは,そういうもんです。こりゃ,実際,もう,親兄弟の前で,そういう話できません。いかに戦争というものは残酷なか。あなた達は,ほんまに,平和,平和でぬくぬくと育っておられます。ところが,それは,多くの犠牲者の上に立っての話ですからね。軍人はもちろん,あるいは一般の人でも,何百人,200万か300万人の人が犠牲になっているでしょう。その上に立って,今日の平和がおとずれるわけなんですから。我々の幸せという者を,一瞬にして奪ってしまうんです。
戦争体験聞き取りより(呉市立横路中学校ホームページ):「あんた達は」とは中学生への呼びかけと思われる
呉市は広島市のすぐとなりです(地図)。広島市の人口は百万人なのに対して、呉市は20万、県内の市町村では人口第三位になってます。
では、第二位は?というと、これは県内のぜんぜんべつの場所、東の端にある福山市で、広島県東部の中心地と言えるでしょう(同じ地図で見れます)。
福山市が「ばらのまち」になったきっかけは、こんな悲しい理由からでした。ひさんな状況にあるときには、おうおう弱者や小動物に当たり散らすこともありますが、また他方、深い悲しみのなかでは、何気ない野の花がひどくうつくしく見えたりもします。自分が弱っているとき、自分が水をあげている植物がすくすく伸びるとね……。
「花は美しい、それを愛し育む人の心は なお美しい」という福山のモットーは、めめしい感傷ではなく、ちからと自信をとりもどそうと、けんめいにとなえる、ヒーリング・スペルであったことでしょう。
かなしみの夜の とある街角をほのかに染めて
花屋には花がいっぱい 賑やかな言葉のように
いいことだ 憂いつつ花をもとめるものは
その花を頬えみつつ人にあたえるのはなおいい
けれどもそれにもまして あたうべき花を探さず
多くの心を捨てて花を見ているのは最もよい
花屋では私の言葉もとりどりだ 賑やかな花のように
夜の街角を曲るとふたたび私の心はひとつだ
かなしみのなかで何でも見える心だけが。
安西 均「花の店」
ばら公園の石碑「ここに善意の花開く」の写真は、ここにあります。今では知る人も少なくなってしまったというようなことが書いてあります。むしろもとの意味なんか忘れ去られて、ばらが生まれたときからただある空気のようになってしまったほうが、良いのかもしれませんね。また、ばら公園については、テレビ新広島の番組をストリーミングで視聴することもできます。次のリンクをクリックしてみてください。
http://www.bingo.ne.jp/ikiiki/real2/00050428.ram
ほかにも紹介しようと思ったことがいくつかありますが、もうだいぶ長くなったので、今回は、ここまでにします。この記事では、「含み、共感」を示唆する助詞の「ね」を多用してみました。
このウェブサイトの内容からも分かるかもしれないが、筆者は現実的というかクールな性格で、もっといえばクールというより冷徹というか冷淡、冷酷、冷笑的――といったところがある。さらに的確にいうなら、人間的な意味での冷たささえもない無関心で非常識で無温度な、「世界と交わらない存在」というふしがある。
だれにでも、多かれ少なかれ、そういう妖精的な部分は、あるだろう――このサイトに繰り返し来訪するかたというのは、「ヘンなヤツ」を見て楽しんでいるという面もあるにせよ、多かれ少なかれ、やはり、ある種の同意めいたもの――百パーセント同感できないにせよ、部分的には「なるほどそういう視点もありうるな」というような立場なのだろう。「ありうるな、同感同感」というのは、このサイトを読む前から、その人自身が自分のなかでそういう考え方をもっていて、「おや、わたしと同じ考えが書いてあるな」と思って読むのだろう。(少なくとも自分は、そうなので。)
まぁその点は今回はどうでもいいとして、今回のテーマは「そういうクールで冷めたヤツ」が、どうして「星占い☆」なんていうロマンティックでかわゆい世界にかかわっているのか? という点。とりあえず「アストロロギアとは何だったのか」を説明することで、表面的な答には、なると思う。
宇宙のような巨大な現象を、地上の尺度でとらえるとき、例えば1°の数万分の一というわずかな角度が、実際には数億キロメートルの天界の距離を見こんでいる。
天文学的な巨大なスケールを、小さな我々が扱うということは、対象としては巨大への探求であり、方法論としては微小への探求だ。宇宙全体という巨大なものを地上に写像すれば、どうしたって、そういう結果になる。
星占いというのは星(天体など)の位置をもとにしてあれこれするものだから、星の位置を正しく把握していなければ、始まらない。ある時刻に月や惑星が何座の何度の方角にあるか? というのは、占いを信じる・信じないなどとは関係ない位置天文学の話になる。
昔の星占いソフトというのは――少なくとも個人が使えるようなパソコン用のプログラムは――当然、今と比べて機能に制約が多かった。もちろん占い=人生相談のような複雑なことを20世紀の単純なアルゴリズムにくめるわけもないのだけれど、それ以前の問題として、星占いの星占いたるゆえんであるホロスコープの描画、つまり天体位置計算が、はなはだおそまつだった。いや、おそまつ以前、計算をしていなかった、というべきだろう。つまり、大型コンピュータか何かで前もって惑星の軌道計算をして作ったデータベース(大きな天体位置表)をそのままデータファイルとして記憶していて、何年何月何日の惑星の位置は? というデータが必要なると、そのどでかい表のなかから、その日付の位置を調べていた。星占いの実務経験がある人なら「エフェメリスを調べてホロスコープをかく」といえば、何のことだがすぐ分かるだろう。在来の星占いソフトもそれをやっていた。世の中それが当たり前だと思っていたらしい。
「マイコン」でBASIC……といった解析計算だと計算時間がかかりすぎる時代には、選択の余地があまりなかったが、パソコンの性能が向上しても、なかなか新しいアルゴリズムは試されないでいたようだ。
この方法は、窮極的には正しい。例えば千年間の星の位置が時間の1秒ごとに、いちいち表に出ていて、位置の精度が1マイクロ秒角――というような窮極のエフェメリスをデータベースとして使えるなら、それはそれでいいし、近未来的には、実際、ネットワークプログラミングで、そういう形になると思う(高速常時接続が当然になれば、データをローカルに置いておく必要もない)。けれど、20世紀のパソコンに、そんな巨大なデータベースを入れるスペースはなくて、当時の占いソフトは、比較的短期間の天体位置データを概略位置で持っていたにすぎない(それでもデータファイルは数メガバイトから数十メガバイトになる)。
アストロロギアが提案した新しいやり方(当時としては新しかった。今では、それほど新しいわけでもないし、位置天文学の世界では、もともと古典的なものだったが)、それを簡単にいうなら「そんなでかい表を記憶させてディスクを無駄遣いしなくても、その表の作り方を実装しとけばいいじゃん」ということ、プログラマのかたになら「動的にできることは動的にやったほうがいいでしょう」と言えば通じるでしょう。実際、当時の星占いソフトの精度(角度の分単位)でいいなら、せいぜい百行かそこらの解析的アルゴリズムで置き換えられる。ちなみに、それは三角関数の一次結合がだらだら続く形をしていて、三角関数の引数(ひきすう)は時間の一次式、三角関数の(微小な)係数はその項が示す振幅の大きさ……くだいていうなら、まずは円運動で近似しておいて(いわゆる平均位置。0度~360度の角度のなかでは単純な等速運動、つまり時間に比例して角度が増える一次式)、それに対する他天体からの摂動(せつどう)をちょっとずつ補正していく形になる。この計算については、いろんな式が公開されているから、それを使えば良い。今では世界中にたくさんある星占い系のインタラクティブなサイトで、手軽に JavaScript などでやってる、そんな程度の計算なのに、わざわざ計算結果をでかい表にして実装し、そのソフトを数千円だか数万円だかで売りつける、というのが、まかり通っていた。
そんなわけで、単純な解析的アルゴリズムを実装するだけで、当時としては意味があったと思う。が、アストロロギアは、解析的にやる、ということと同時に、一気に精度を二桁あげる、ということをやったので、かえって話がややこしくなった面がある。今からみるとちょっとおかしいけれど、当時はアストロロギアの精度が「過剰」である、という見方があった。「そんな高精度の計算をしても、占いの精度が上がるわけではない」といった筋違いの議論がおきてしまった。――作者自身は、アストロロギアの精度が「過剰」どころか不充分であることを感じていた。2001年の開発者ならわりとすぐ同意すると思うが、留(りゅう)の正確な時刻とか、遠い惑星の正確なイングレス・タイムを知りたいというとき、角度の1秒では不満足で、0.01秒がほしく、ミリ秒角だと現時点では理想という感じだろう。
ともあれ、当時の世の中は角度の分の世界で、角度の1秒の世界というのが、当時としては、わたしの夢だった。計算者以外は実感できないだろうが、誤差±6秒くらいまではわりと簡単に行ける。これは天測航海で実際に必要な精度でもあるようで、海上保安庁が作った計算式もある。けれどその先がつらい道で、ふつうは±3秒程度で行き詰まる。±1秒以内、というのは、ひとすじなわでは行かない世界だ。係数行列をぜんぶダウンロードしてコピペできる今どきの学生であってさえ、まずコピペだけでもけっこう大変な量があるし、また、太陽中心座標の幾何学位置から地球中心座標の視位置までもってくるのは、光の速さの有限性がからんだりする魑魅魍魎(ちみもうりょう)の計算過程だが、ましてや当時の自分にはネットワーク環境がなく、数値は全部、手で入力したばかりか、関数電卓を叩いて筆算で計算もした……。まぁ、そうやってまじめに熱心に作ったものではあるが、今から見ると、まだ精度が物足りない。参考までにいうと、高精度の摂動計算では、上述のような三角関数の一次結合だけでなく二次や三次……の項も考慮したりする(三角関数の係数が定数でなく、そこに時間がかけ算される)。
日常生活では角度の1°なんていうのは細かい値で、1°の3600分の1にあたる1秒角なんかは問題にならないが、なにせ天体の軌道というのはスケールが違う。地球の公転周期は1年、ということは、だいたい1日24時間で1°しか動かないわけで、何時何分のホロスコープ、というときは、その1°の24分の1のそのまた60分の1とかの話になる。位置が1°ずれている、ということは、計算が24時間もずれていることで、そんなんじゃ、何座生まれかさえ、あやしくなってくる。何十年もかかって太陽のまわりを一周する遠い惑星では、角度のわずかな差がとんでもない時間差にあたる。
20世紀後半の占星術では、角度の分(60分の1°)単位の計算がふつうで、ハーモニクス計算以外は、それでだいたいだいじょうぶだった。ただ、実務を重ねればだれでも経験することと思うが、たまに星座の境界近くにあってどっちの星座に入るのかよくわからん天体、というのがあって、もう少しエフェメリスの精度が高ければこんなとき助かるんだがなぁ……と思ったりする。これが「古い問題」だ。
アストロロギアの精度もまだ不充分だ、と書いた。単に摂動計算の部分についていうなら、理論を完全に実装すればもっと精度が上がるわけで、それは馬力のある若い開発者がやると思う。が、問題は、もっと複雑だ。詳しくは別の機会に書くが、チャートの精度が0.1秒角より先のオーダに入ると、もはや摂動計算の精度だけでは、すまされなくなってくる。いろんなことがあやしくなってきて、物事を不確実にする。例えばアセンダントを決めるのにも、まず地球楕円体をどうとるか?が問題になるし(そもそも地球を楕円体と仮定することの是非もある)、測地経緯度なのか天文経緯度なのか、また、大気による光の屈折は補正しないけれど重力による相対論的効果の曲がりのほうは考慮するのか?といった問題、さらには太陽系力学時、地球力学時、UT系の関係、座標系はFK5でいいのかという問題、天文定数系もあやしいし、章動理論も必ずしも完成されているとは言えないし、だいいち、いまだにある種の天体は、観測される位置と理論値が1秒角ずれてたりする。だから純粋理論的に0.0何秒角の摂動計算をしても、ある意味ナンセンスだ。なお、このオーダになると解析解より数値的解法のほうが適切だろう。
このあたりが新しい問題で、「この略算式では精度が不足だ」といった単純な話でなく、最新の科学的知見と最高の計算技術をもってしても理論と観測が一致しない、将来の観測値を保証するいかなる公式もまだ存在しない、という体系化途上の不可知に直面することになる。
計算者にとって、絶対的不可知論は哲学上の思弁ではなく、経験にもとづく実感だ。
アストロロギアでは、アセンダント計算に天文学だけでなく測地学を導入した。具体的には、日本で手に入る地図(日本測地系)の経緯度に含まれるある種の系統誤差を補正している。この誤差は角度の10秒を越えるので、アセンダントを1秒角で考えるにあたっては、ぜったいに無視できない。実務上、ある人が生まれた場所(建物の部屋など)の経緯度を秒まで厳密に出すことは、あまりないけれど、その気になれば、国土地理院の地図などから調べることも可能だろう。それにしても、日本測地系自体が真の地球の形とかなりずれているので、そこを補正しないと天体の見え方が正しく求まらない。……この一点だけからしても、1秒角というのが、どんなに難しい世界であるか分かると思う。天界高くの星の運行を精密に読みとるには、まず足もとである地面の位置をハッキリさせる必要がある。まぁ相対の世の宿命のようなもの。計算式の多数のパラメータのどれもが、点検してみると、こんなぐあいに問題をはらんでいる。
天文学や地球回転の知見にも現状、限界があるが、占星術のほうでも、こうした基礎論(経緯度は、ほんの一例で、たくさんの細かい問題がある)が充分に議論しつくされているとは、言えない。「そんな細かいこと、どうでもいいじゃないか」と思う人もいるだろうが、「しっかりと足もとを固めなければ、最高のジャンプはできない」という原則は、ここでも当てはまる。たしかにホロスコープは、カウンセリングにおける象徴的な媒体にすぎないから、多少誤差があっても良いようなものだが、しかしまた他方において、「突き詰めることを回避する。突き詰めようとしない」姿勢は、結局のところ、人生相談における人間の探求にも跳ね返ってくる可能性がある。「小数第7位とかの計算の違いが、人生相談にどう影響するのか」という気持ちも、もちろん分かるけれど、そういうカウンセラーは、「AかBか?」で深刻に悩んでいるクライアントさんに対して「なんでそんな事で悩むのか?AでもBでも生きてくうえには、なんの影響もないでしょう?世界中には食べ物もない人がいっぱいいるのに、そんなことで悩むなんて間違っています」といった意見をみだりに押しつけるかもしれない。
事柄によっては、追究せずに放っておくのがかえって最善だったりするが、けっこう気になるなら、あまり見なかったふりをするべきでもないだろう。
学校の理科や数学では、あれこれ問題のパターンと解き方、公式を覚えると思う……それも必要な訓練で、がむしゃらな丸暗記がきく10代のうちにある程度つめこんでおくのも悪くない(とくに外国語の単語とか)。けれど、公式や解き方を覚えることが勉強だ、と誤解しては、いけない。学校のテストでは、いちおう正解が決まっていて、それに的中させようとするわけだけれど、現実には、どんな分野でも、「よく分からない、だれもまだ解明していない問題」「うまい解法が見つかっていない問題」があって、まだだれも考えたことがないようなアプローチを使って物事を整理しなおしたり、なぞにいどんでゆく創造のスリルとおもしろさがあるからだ。
まだ存在しないものは、どうしてもほしければ自分で作るしかない。少なくとも、ラフスケッチくらいは、ね……。だれも問題にしていないとしたら、まずは問題があることを指摘することから地道にやるしかないかもしれない。何事も「初めて実行したヤツ」がいる。そして君の人生は、初めから終わりまで君のもの――やりたいことは露骨にやろう。これは、人との競争の勝ち負けでは、ないのだから。
アストロロギアは、荒削りの、そしてもはや時代遅れのソフトだが、これを越えてゆくものは、いずれぞくぞく出るに決まっている。いつまで参照されるのも気まずいので、新しいソフトが早くたくさん出てほしい。
あまり先走っても理解されずに無意味かもしれないが、当時としては、初めての Windowsソフト開発ということもあって、プログラミング自体が楽しくて仕方なかったのを覚えている。オンラインソフトとして公開するなんて夢にも思わなかった(というよりオンラインソフトという概念を知らなかった)。自分の好きでやったことが、人の役にも立てば言うことないが、世の中、分からないものだ。