5 : 16 「愛國戰隊」は有害か?

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「愛國戰隊」は有害か?

2002年 4月22日
記事ID d20422

メディア規制法案を具体例で考える

愛国戦隊大日本」が気にくわないという人がいる。そのような人が存在するであろうことは予想できるし、存在すること自体は、もちろんかまわない。

問題は、この作品が気にくわないとして、じゃあどうしたいのか、という点だ。

日の丸の鉢巻きを付けた若者の画像 赤いシャツのフランスの若者の画像
神風と書いてあるヘルメット姿に変身した画像 フランス版も赤い仮面姿に変身する

「愛國戦隊大日本」(左)と「フランスファイブ」より引用

論点を明確にしよう:

「愛国戦隊大日本」は青少年に有害な影響を与える作品であるから、このような表現は禁止されなければならないし、子どもたちからは、このような情報へのアクセスを遮断しゃだんしなければならない――のだろうか?

ということだ。あなたは、どう思いますか。

それを具体的にくだくと、
――この作品は、いたずらにロシアや社会主義への偏見をまねくから有害である(いわゆる強力効果)
とみるのか
――いやいやむしろ、この作品を通じて、ふだん無意識にある偏見のばかばかしさが浮き彫りにされ、相対化される(いわゆる受容文脈によってプラスに働く)
とみるか。熱狂的なロシア愛好者が反感をいだくであろう、といった限定的なネガティブ性は、どんな表現にももちろんあるでしょう。もちろん見たくない人にまで無理やり見せるとは言っていません。必要なときに情報にアクセス可能か?それともチビクロサンボやジャングルクロベエのように抹殺まっさつするか?ということです。

次のような心理効果についても指摘できます:

傍観
あーまたロシア叩きか、と慣れてしまう=マイナス
強化
そーだロスケをたたけ、ともともとある偏見を強化=マイナス
被害
ひどいわたしはロシアが好きなのにと萎える=マイナス
加害
そーかロシアは叩くべき敵なのだと学習する=そんなヤツはいないかもしれないがいたらマイナス

こーした副作用の危険についてはじゅうじゅう承知のうえです。

このような類型化の弊害は、むしろ一般に認められている「ふつう」の多くの作品(例「エロイカより愛をこめて」)にこそ大きいのであって、愛国戦隊のように、ほとんど誰が見ても故意に誇張しているのが明らかな場合には、かえって問題提起の効果があると思います。アメリカのホームドラマなんかで悪役はアラブなまりやロシアなまりのrが巻き舌な変な英語を話したり、中国系っぽい名前だったりしますが、そっちのほうが、はるかにイケナイんじゃないすか。

あるものが良く、あるものがダメとすると、どこでだれが線を引くのか?という問題が生じる点にも注意します。

問い

このような議論で、つねづねうざいと思うことがあります。それは、わたしが「愛国戦隊大日本」を支持する議論を展開するとして、個人的に自分がロシアに偏見がないだとかむしろロシアは好きなのだ、と宣言しないと、「わたし」がロシアに対する反感ゆえにこの作品を推挙しているのだ、と誤解する人々があらわれるであろうということです。

例えば、アメリカの無差別攻撃でくるしんでいるアフガニスタンの立場にたったことを書く前に、多くの人々は(たぶんあなたも)「わたしは、攻撃者であるアメリカに反感があるわけでないし、アメリカには同情するけれど、しかし」という前置きをするようです。要するに、「わたしは反米的な人間ではない。アメリカが嫌いだからこう言っているのではないですよ」と予防線を張るわけです。

このような論じ方(ないし、それを事実上、強制する意識)は、大きな問題をはらんでいます。論者がどのような思想を持つどのような人間か、とうことは、情報とはまるで無関係だからです。はっきり言いましょう。あなたがたは、「この人は右翼である。右翼の言うことだから、あてにならない」などという考え方をするのです。だから、はじめに「わたしは右翼ではありません」とかくだらない前置きをしなければならなくなります。「右翼でない」ことを断ることが良いとか悪いとかいう以前に、あなたがたが、書き手が○○だからその情報は××だ、という見方をする、それが間違っているのです。

すなわち、それは「ロシアだから、共産主義だから、いけない」という無批判な決めつけと同じです。「愛国戦隊大日本」で風刺されているのは、まさにそのような現象でしょう。

ですが、マチュアな議論に慣れてないかたのために、うざったい「個人情報」を提示いたしましょう。この子は旧ソ連がべつに嫌いだったわけじゃありません。むしろけっこう興味を持ってました。第二外国語でロシア語をとってましたし、旧ソ連を自分の目で見て、とても美しい国だと実感しました。というのも、けばけばしい広告がまったくないので、町が落ち着いていてきれいなのです。(今は、どうなったか知りませんが、旧ソ連の時代の話。)といっても、ロシア自体が好きで旅行したのじゃなく、単にフィンランドと日本のあいだの通り道として、ソ連を通ったことがあるというだけです。ですので時間をかけてじっくりいろいろ現地を見たわけじゃないのですが、当時のソ連の人たちとある程度、直接おしゃべりもしています。そして、なんというか、イナカモノかもしれないけれど、おおらかで、素朴で、心優しい人たちが多いと感じました。不正直な人々も見ました。闇ドル両替でラクをして儲けようとたくらんでいるロシア人もいました。また、思想統制も感じました。持ち込む書物を一冊ずつチェックされたり、封筒のなかにあった写真を一枚一枚チェックされたりしました。けれど、すごく厳しいというわけでもなく、わたしがロシア語を話すと、検査の人は「どこでロシア語を勉強したの?」とか、とつぜんなごんで、あとの荷物は調べないでおしゃべりだけになってしまいました(いいかげん)。じつのところ、フィンランドから日本に来たとき、ちょっとした手違いで自分は有効なビザ(ソ連の通過査証)を持ってなかったのですが、それでもロシアを通り抜けてきたので、じつは、チェックが甘いと思いました。まー不愉快な思い出も多いですが、どこの国でもいろんな面があるってことは分かってます。地上には理想郷などないし、大きな汚点がひとつふたつあったからとて、それで全否定するほどアレでもなかったですし。

ロシアという国家の中央アジア地域における外交姿勢についてはムカツクが、べつにひとりひとりのロシア人に特別な好悪の念があるわけじゃありません。

以上のクズ情報は、「わたしは反共的な偏見をいだいて、愛国戦隊を支持してるのではない。むしろ旧ソ連やロシアは好きなのだ。だから以下の議論は公平なのですよ」という前置きが必要なマチュアでない読者のためのもので、本当は意味がありません。そういうふうにウソをつくことも同じく容易だし、そもそも「公平」とか「かたよっている」というのは、あなたの偏りとこちらの偏りとの相対的な差分の問題で、あなたとわたしが同じ偏り方をしていれば、互いに「ニュートラル」と思うだけです。ですので、結局、書き手がどういう考えで書いているかとか妄想するのはやめて、書いてあること自体をそれ自体の閉じたロジックのなかでのみ判断するのが適切でしょう。もちろん、こういうレベルの議論であれば、社会のゆがみのせいでふだんいろいろなコンプレックスとかで苦しんでいるかたが、欲求不満のはけ口を見つけるのも簡単でしょうけれど、このレベルの議論(書き手の思想)は言っていることが事実かどうか本人にしか(ときには本人にすら)分からないので、意味がないと思います。異論もあるでしょうがね。

そういう「議論」が好きな人は、人と言葉を通じて心を通わせること(敵対的に、あるいは共感的に)、すなわち人間の関係性を求めて、「議論」をし、「説得」をし、「演説」をするのでしょう。それが悪いとは思いませんが、このサイト(妖精現実)では、他人の意見に対して反論するというより、単に自分が思いついたことを自己完結的、一方的にだらだら書いているわけで、そういうスタンスもあるってことです。賛成できない意見であれば、単に無視するからです。反論のためであれ、コピー(引用)してコメントするなら、そのときは、その情報にそれだけの触発のパワーがあったことになります。言い換えれば、外部の情報に対するコメントの形をとりつつ、実際には自己の内部の問題をほりおこしていることになるでしょう。

本当にまれですが、深く共感できるときというのは、まるで自分が書いたような文章が書いてあるのを読んで「そう、その気分。そういうふうに言い表したかったんだ」というときで(そういう情報と出会える幸運というのも、ときにはあるでしょう)、ですので、それも要するに自分の内部の問題を(だれか第三者が)言い表しているときです。

情報中心と人間中心

言い換えれば、書き手が何を考えてこれを書いたのか?ということは、どーでも良いのです。どーでも良いという以前に、原理的に不可知ふかちです(第三者の内面なので)。語り得ないことのまえでは沈黙を守るしかありますまい。ソリッドな実存は、ここにある文字列であり、そこに含まれるロジックです。それは、おそらく、だれかの「こころ」や「たましい」のようなものが浮遊している形態なのかもしれませんが、物理的な人間存在から離れて、それ自体として浮遊しているので、それ自体として見るのが適切なのです。

「愛国戦隊」の制作者は、いーかげんな気持ちで、ギャグでこれを作っているだけで、深いフィロソフィーがあるわけじゃない、とかの批判もあるかもしれませんが、制作者が異常性格だったり犯罪者だったり不道徳だったり司法研修生と不適切な関係にあったりしても、それはそれ、作品の世界とは無関係です。べつにまじめに考えてない人でも、偶然だかなんだかで、意図せずして、すごく示唆にとむ発言をすることは、あります。また、ものすごく知識が豊富な思索的な哲学者みたいのが、賛成しかねる発言をすることもあります。

「恥ずかしい」と「有害」の決定的な違い

ネットの世界で起きていることは、あまりに複雑でいろいろな側面がありますけれど、ひとつ言えることとして、これまでおとなが「隠す」ことによって子どもたちの前で保っていた威厳について、事実がつつぬけになってしまって、おとなの威厳が保てなくなった、という、この点は、多くのかたが感じておられるのでは、ないでしょうか。

この場合、そもそもの威厳が虚像というか、ウソのうえに成り立つものだったわけなので、そのような威厳は、むしろいったん崩壊して、いちから出直したほうが、お互いのためでしょう。ウソをつき通すのは、つき通す側(この場合、きれいごとを言っていたおとな)の側にとっても、無意識的にであれ、やましさの原因になって、こころの負担になります。ウソをつきとおすってのは、それはそれで、けっこう大変なことです。

物理世界の生物には、自然な内発的要求として、いろいろな本能があるわけですから、それを無いことにしようとしたり、あまつさえ、そのような自然を「有害」と称するのは、大きな間違いです。気持ちは分からないでもないのですが(そういうしつけをされてきたので恥ずかしいと感じることについて)、存在するものは存在するのであって、事実がすべての出発点でしょう。

「恥ずかしい=隠したい=ないことにしたい」情報こそ、熟考すべき深い真実をはらんでいるのであって、「ないことにしたい」ものこそ、往々にして、勇気をもって直視しなければいけないもんです。

旧ソ連に対する無根拠な反感も、もとをただせば、東西冷戦時代に、論理によらない感情的なばかげた宣伝合戦をしあい、当時、洗脳を受けた世代が無意識に持っている反感がベースになっているのでしょう。旧・被差別階級や、旧植民地に対する無意識的な侮蔑がもしあるとすれば、似たようなものでしょう。旧植民地に対するコンプレックスのなかには、やましさ(悪いことをしてしまって、それを直視できないでいる)のために、「相手は多少いたぶってもいいような、いやしいヤツなのだ」と思いこむことで自分の罪の意識を軽減しようとする合理化の働きもあるのかもしれません。ソ連や朝鮮や中国やアラブに対するネガティブな意識を持っているかたの大半は、なぜネガティブな感情を持っているのか尋ねられても、理路整然と説明することはできずに、困惑するでしょう。実際にどこどこに滞在したときすごーくいやな目にあった、という人が、その国を嫌うのは、まだ分かりますが、実際に滞在経験があると、逆に、よほどいやな思いをしていても「そうは言っても、あの国の人たちもいろいろあるし」と共感しないまでも理解できることがふつうでしょう。ほとんどの場合は「2年1組は悪いクラスだ、と言い張りながら、2年1組の生徒をひとりとして見たこともしゃべったこともない」のだから、ちょっと考えれば、いかにばかばかしいかわかりそうなもんです。で悪いクラスだという根拠が「昼食にカタツムリを食べたらしい」とかの、だから何?的な風聞ふうぶんだったり。――いずれにせよ、このような無根拠の反感、無意識の偏見は、まずいったんそのような不合理な差別意識が自分のなかにもあることを直視し、確認し、意識することが、互いに対する利益になるでしょう。不合理な差別、攻撃、いじめというのは、理由がないのを無理にやっているので、攻撃者のほうも本質的には心がつらいのです。ほかの不満に対する憂さ晴らしといえども、理由のないイジメをしまくって、それが本当に素直に楽しいということは、めったにありえません。それこそ傲慢で自分勝手というレッテルを貼られがちなアメリカ人ですら、アラブに対して無意識にせよ非常に大きい罪業観念ざいごうかんねんをもって苦しんでいることは、ご承知の通りです。

「いいや罪の意識などない。あんな虫けらどもは、いじめて良いのだ」などとひらきなおろうにも、そう言いつつ内心やっぱりちょっとこころが痛むのは人間的なことでしょう。いくら自分は正義と思っていても、じゃあシリアや中央アジアにアメリカ人が行ったら「正義の味方の英雄」として大歓迎を受けるのか? むしろおびえる日々が待っていることは、自分がいちばんよく実感しているはずです。

「みだりな食欲や性欲は汚い悪いもので、健全なおとなには、そのようなものはないのだ」という主張も、まさに、そのような強がりです。そのようなウソを通すために、自称「有害」情報(つまり「事実」)を遮蔽しゃへいしてみたところで、ますますやましさがつのるばかり。まず自分自身が、食事や性は、べつに汚いことでもなんでもない当たり前の自然だ、と納得する必要があるでしょう。「そんなこと、初めから納得してるよ」と考える人もいると思います。実際に、クールに現実を直視しているかたも多いと思いますし、そうでなく、やはり複雑にせめぎあう感情(コンプレックス)をおさえつつのかたも少なくないと思います。

なにがキレイでなにがキタナイか?とかは、個人の価値観の問題ですけれど、その価値観にもとづいて、少女のふれるべき情報をフィルターするというお節介を働くからには、まず、自分自身が曇りないクリアな視点を持っているべきです。まあ「べき」といっても、なかなか難しいかもしれませんが、とりあえず「それはわたしのコンプレックスとのかねあいで直視したくない部分なので、子どもにも見せない」というのは、良くないロジックっしょ。

あとね、こういうことは良いとか悪いとか自然だとか不自然だとか正常だとか異常だとか、いろいろ情報が混乱しているなかで、いちばん悩んでいる当事者は、10代の少女や20代のヤングアダルトであって、この当事者は、ほかのいろんな人が本当はどうなのか、という赤裸々せきららな事実を知って、そこから自分の問題を考えたいわけです。この赤裸々ということは、かなり人それぞれで、ぐしゃまらなのですが、そのぐしゃまらのなかで、自分の価値観を確立させてゆくのが重要なのであって、「こう考えるのが健全ですよ」と天下り的に統一見解をおしつけるべきじゃないでしょう。できる限りは……。だって、今のおとなの世代というのは、まだ男性性、女性性があった時代の世代で、ジェンダーどころか物理層の同性愛にさえ偏見を持っている人がいるわけで、そういう人々の価値観を押しつけられたら、正しい判断ができなくなってしまう。性の問題を仮に被差別部落の問題にたとえるなら、今のおとなのなかには差別意識があるか、あるいは、せいぜい意識的に修正している同和意識がある程度で、透明に見ることが難しい。その解決法があるとすれば、やはり、まず自分は透明に見ることができない、という現実を見つめ、なぜ透明に見ることができないのだろうか(例えば、なぜ同性愛者に偏見を持ってしまうのだろうか)と自問するしかないでしょう。透明に見ることができない対象を、面倒なので考えないことにしてしまうのは、正しくないし、なにより考えないことにされてしまった対象が困ります。透明に見るにいたって、意識にのぼらなくなるのなら、おおいに良いことでしょうけど、今のおとなの多くは「男性が女性的でもいいでしょう」というのがせいぜいで、まだ男性的/女性的という区別が存在すると信じていた世代なわけです(主張が崩れそうになると脳解剖学にすがりついてまで)――たとえ話として。性的な事柄や関心は悪いこと、いけないことだ、という間違った抑圧を受けて育ってきたある意味ゆがんだ世代が判断する「有害」など、あまりあてにならないでしょう。正確な情報の徹底した解放が、むしろ尊重と新しい内面の平和を生み出したスウェーデンにおいても、当初は、ものすごい混乱と摩擦があったようです。

「同和」とか「差別するな」と叫ぶのは、すでに差別が前提になってるわけです。で、「よく知りもせずにロシアとか社会主義とかに反発を持つのは、正しくない」という主張も良いのですが、「だからこういう作品は、よろしくない」というのは違うと思う。愛国戦隊のようなマッド・パロディーは、むしろ、ロシアに共感する人々が批判するであろう大衆の意識の問題点を、拡大してわかりやすく見せてくれるものだからです。ていうか、愛国戦隊における「ロシア」は“変数x”であって、そこにいろいろ当てはめたらいい(オタクとかオカマとかヤオイ女とかSFとかなんか一方的に差別されてそうっぽいものを)。作者がロシアに対する賛否いずれにも興味ないというのは、その意味で正しい。これはロシアをたたえる作品でもけなす作品でもなく、ロシアとは無関係な話だからです。良い作品というのは、いろんなものに適用できる普遍的、抽象的な力動を持っていて、だからこそしばしば摩擦の原因になるのでしょう――そのようなことをあぶり出されることにコンプレックスをいだく両陣営とのあいだにおいて。一方においては、無根拠にロシアを叩く人々がいて、根拠のないことを押し通すために、自分のこころを抑えています。他方においては、無批判にロシアを賛美する人々がいて、賛美に都合の悪い事実から目をそむけたり、あるいは「現実のロシアは間違っていたけれど、これこれこうで自分の思想は正しいのだ」といろいろ言い張るために、こころをくだいてます。愛国戦隊が、このような両陣営のいずれをもあざ笑うものである、ということは、ある意味、正しいでしょう。「自分は人生をかけて共産主義ないし反共産主義のために戦ってきたのだから、笑いモノにしないでほしい」と願うかたもおられるかもしれませんが、いわゆる自意識過剰ってヤツでしょう。愛国戦隊を見て大笑いしているマニアのほとんどは、現実の共産主義者なり反共活動家のことなど気にかけてもいないでしょう。これはこれで、ひとつのポエジーなのだが、けれど関係者は自分がバカにされてると思って腹を立ててしまうのでしょう。

なぜそう考えるのか自問することも必要でしょう。

何を訴えたいのか分かりません。

要するに、作者が何を言いたいのかよく分からない、ということがミソであるような提示の仕方もあるってことです。で、その思わせぶりな口調のせいで、自意識過剰=被害妄想ぎみな人々(まあ妄想じゃなくて現実に攻撃されてきた人もいるでしょうが)が「オレのことをバカにしてるのだな」と逆上するわけです。実際には、そのような人々(たぶんあなた)のことなど、存在すら認識してないこともあるでしょう。で、存在を認識してほしい人々は、そこでさらにキレるのでしょう。

以下は蛇足というか、個人的なことですが、愛国戦隊大日本で、自分的にいちばんおもしろいのはロシアネタじゃなく、巨大ロボであり「合体!」が何度見てもおかしいっす。ミンキーモモにも巨大ロボをネタにしてるギャグがありますが……。ですが、これらのネタは、あまりにマニアックだし、特殊なギャグなので、生理的にどうしてもうけつけない、ちっともおもしろくない、どこが良いのか分からない、評価できない、というかたがおられるのは、仕方ないと思います。あくまで論点は、情報として、「気にくわないからつぶすか、気にくわないけれど存在して良しか」という点です。マニアックな点については、てめえが特殊なヲタなんだろ、ってな感じで了解ってことで。

愛国戦隊&フランスファイブの記事は、自分がおもしろいと思うものを発見したからそれを紹介したのであって、「こんなものは、くだらない。悪い作品だ」と感じる人々を説得して良さを分かってもらおうみたいな意図は、ぜんぜんないです。善し悪しの議論をしたいのじゃありません。「じゃあなんなんだ」「いったい何が言いたいのだ」「ハッキリせい」と思うかもしれませんが、もちろん、もっと理路整然と明晰に書くこともできるけれど、わざと、ぐちゃぐちゃに書いて、おちょくってるだけですので、ご心配なく。てか、愛国戦隊が本当に感動的とか魂を深くゆさぶるとかの意味で、良いと言ってるんじゃないっすよ。これはMAD(パロディー)というひとつの表現様式であり、ヘビメタや俳句やキュビズムと同様、その表現方法がそもそも好きでない人は、いくらでもいるでしょう。

もうひとつの興味深い論点は、「フランスファイブ」と「愛国戦隊」との差。フランスファイブは、敵をぶなんな異星人とすることで「ひよった」と見る人もいるだろうし、逆に、本質的には、わざわざ「ロシア」のような固有名詞を出す必要のないテーマなので、フランスファイブのほうが洗練されている、と見るかたもいるでしょう。フランスファイブのほうが安心して、一般にすすめられるのは確かだが、大日本のこてこての毒にも、べつの種類の魅力があります。

作者批判の愚かさは、「黒のもんもん組」と「小さなお茶会」が同じ作者の作品であることを考えれば、ただちに実感されることでしょう。

愛国戦隊は、有害とまで決めつけるのは行き過ぎとしても、たしかに問題作品です。しかし、その「問題」とは、本質的には、当時の一般国民が無意識にふだん行ってたことを戯画化したものだった、ということに注意するべきでしょう。

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