かすかな引っかかり

以前から気にはなっていたのだけれど、やっぱりRPGの中でも泥棒はしない方がいいと思う。

割とはっきりそのことを認識させられたのが、ゲームボーイアドバンス(GBA)用ソフト「ファイナルファンタジー4アドバンス(FF4A)」のおまけイベントに取り組んだとき。聖戦士パラディンとなったはずの主人公セシルに、試練が襲い掛かる。

困っている人を見捨てないか、失敗をごまかさないか、弱き者の言葉に耳を傾けるか、といった徳目と並んで、善良な市民のお宝を盗まないか、が繰り返し問われるのだ。

私はここにゲーム製作者の苦悩を見た思いがした。心の汚れたユーザーたちの要求に応えて民家やお墓などにお宝を用意してきたわけだけれども、それは元来、物語の本筋に影響しない市井の人々のせりふを作り込むのと同様の意図によるものであって、泥棒を推奨したいわけでは決してないのだ、と。

もちろんプレーヤーたちにも言い分はあると思う。堂々と飾られている鎧や槍や刀などが絶対に入手できないという奇妙な仕様になっている以上、あえて発見・入手できるようになっているアイテムは、救国の英雄のために用意されたものに相違ないではないか、と。

けれども、FF4Aのおまけイベントは、やっぱりそうじゃない、と。素朴に、他人のものを取っちゃダメだよ、といっていると思った。

テイルズは泥棒を戒めるRPG

テイルズオブシリーズでは、ちょくちょく本編中にこうした注意が登場する。

PS版「テイルズ オブ ファンタジア(TOP)」では、砂漠の町にある道具屋の倉庫に侵入して宝箱を開け、何食わぬ顔で外へ出ようとすると、店員に咎められて定価より高い価格で商品の買取を要求される。その段階では他で手に入らないアイテムなのでラッキーイベントの要素もあるのだが、基本的には懲罰の構図がある。

PS版「テイルズ オブ デスティニー(TOD)」でも、とある道具屋の宝箱を勝手に開けると、店主が怒って商品を売ってくれなくなる。子どもの宝箱を開け中身を奪うと、復讐されて有り金全部巻き上げられるというイベントも存在する。

DS版「テイルズ オブ ザ テンペスト(TOT)」には墓荒らしのイベントがあるが、手間暇かかる割には利益がほとんどない。労せずして儲けるのは情報屋だけ。実際に悪事を行う泥棒稼業など割に合わぬと教えてくれる。一方、何の見返りもなくたって人助けのイベントには清々しい達成感がある。

だいたいテイルズオブシリーズのシナリオは人間賛歌である。つらく悲惨な体験に打ちひしがれ、復讐の鬼となって心を暗く燃やしても、最後には人々の善性を信じ、生命を賭してありのままの世界を守ろうとする。そういう展開になっていく。

それなのに、まだ未熟者で心の荒んでいる序盤はともかく、立派に成長したはずの終盤になってまで、民家をごそごそ荒らしまわっているのでは情けない。いい加減、そういうことは卒業すべきなのだ。

プレイスタイル

無論、アイテムコンプリートを目指すとか、そういう遊び方もあるということは否定しない。正直、他人がどうしようと、関係ない。オンラインゲーム嫌いの私が取り組むのは、いつだって究極的には孤独なRPGであり、その世界にプレーヤーは自分一人しかいないのだ。

私は私自身の問題として、ついつい、戦闘を少しでも楽にしたいとか、たかだかその程度の動機で悪事を為すことに耐えられなくなった。ようするにそれだけの話だ。

モンスター図鑑を見るとコンプリートしたくなる、という人は多いだろう。おそらくはそれと同じように、泥棒を戒めるテイルズのミニイベントを見て、「もう泥棒はすまい」と私は心に決めたのだ。そこの植木鉢の中にあるアップルグミは、こどもが後で食べるのを楽しみにして隠しているものかもしれないではないか!

そういう風に考えた方が楽しい、と私は思うようになった。

発想を転換しよう

つまり、こういうことだ。

ある街へ行くと、強い武器を売っている。これを、ゲームデザイン的に、ここらで強い武器を入手できるようにしてあるんだよ、と解釈するのではなくて、この街ではこうした武器に需要があるので、武器屋は行商人からせっせと仕入れをしているのだ、と考える。プレーヤーの快感のために世界があるわけではない。

物語の後半で初めて到達する街に強い武器や防具が売られていないと呪詛の言葉を吐くプレーヤーがいるが、それはその街が比較的平和であることの証明なのだ。「強力なモンスターに襲われなくてよかったね」と思えばいいのではないか。

繰り返すが、他の人がどういう視点からプレーしていようと、とやかくいうつもりはない。ただ私は、もっと素直にゲームの世界に没入し、そこで生きている人々の気持ちに寄り添ってプレイしていく方が楽しいと思うようになったし、そういう楽しみ方があるんじゃない? と多くの人に提案したくなった。

別ルート

泥棒やめた宣言には、もうひとつ切っ掛けがある。長大なことで知られるPS版「ドラゴンクエスト7(DQ7)」をプレイしたとき、かなりの疲労感があった。たしかに物語も長かったが、じつのところ、しょうもないことに使った時間が多すぎた。

自分のプレイを振り返ってみると、新しい街へたどり着くたび全ての家の全てのフロアーに侵入して「とうぞくのはな」を使う、カジノがあれば入り浸る、という具合だった。人間の屑だと思った。

そうして他人の迷惑を顧みず享楽的に時を過ごし、ときには戦闘を繰り返すも、それだって大魔王を倒すためのキャラ育成というのは口実で、実際は「モンスターの心」がほしいだけだったりした。

本当に俺はそんなことがやりたかったのか? と疑問に思った。いや、もちろん、それらはゲーム的な魅惑に満ちたものであり、そこにハマるのは本末転倒でもなんでもない。しかし人生は有限であり、やることには優先順位をつけなければならない。

他ならぬ自分が人生の一部を浪費するのに、ただ状況に流されていっていいはずがない。

Yahoo!ブログ - ドラクエ7 モンスターの心入手奮闘記とか、同じゲームをやった人間として涙なしには読めない。感動するし尊敬もする。驚異的な根性、それを支えているのは、自らの選択への確信、信念だ。

俺にはこれがない。だから迷い、後悔している。恥ずかしい、と思った。

自分は、自分の納得のいくプレイをしたい。

信念プレイの金字塔。きっと何年かかっても、その足元にも及ばないけど、目指すくらい、いいよね。

そうして、自分なりのプレイスタイルを模索する旅が始まったわけ。

ていうか

ちまちました話をよくもまあこう大げさに……。

読み返してみて、照れ笑い。何じゃこりゃ。

泥棒しないといっても、私の場合、モンスターが出現する場所の宝箱はむしろ積極的に取りに行くことにしている。ようは、DS版「ドラゴンクエスト4(DQ4)」で小さなメダルを集めない、PS版「テイルズ オブ エターニア(TOE)」でレンズを集めない、冒険の序盤で回復アイテムに少し苦労する、という程度の話。

すると、私の場合は明らかに、プレイ時間が短くなった。

例えばPS2版「ドラゴンクエスト5(DQ5)」は20時間程度でクリアでき、驚いてしまった。街の人のほぼ全員と話して、このクリアタイム。特定のモンスターを仲間にしようと執着せず、カジノへ行っても人と話すだけで外へ出て……それでも落ち着いて取り組めば戦闘は安定し、物語が停滞することはない。

背景キャラ愛を満たしつつ映画を見るようなスピーディーさでメインの物語を追う。なるほど、可能なんだなあ、と感心したので、その後、テイルズオブシリーズでも同様のプレイを志向しています。自慢になるようなクリア時間ではないのですが、自分自身が疲労感を覚えずにクリアできたら十分でしょう。