趣味Web 小説 2011-12-15

「自分は別」の「子育て最優先」・他

1.

子どもの健康第一といって社会にあれこれ要求する人がいるのだけれど、同じ人が、「共働きなので子どもに早寝させるのは無理」と、当然のようにいう。子どものためならどれだけコストをかけても……という発想を、自分には適用しないのか。

簡単に書けば、「子育て長屋」みたいな環境があったとして、参加する気があるのか、ないのか。大多数の人は「生活の一部をコミュニティに委ねるなんて嫌だ、ビジネスライクな付き合いをできる保育園ならいいけど……」と思い、「お金がないから無理」「経済の問題」ということにして、子どもに夜更かしさせる側だろう。子どもの健康なんて、所詮その程度のもの。

健康への悪影響が散々実証されてきた夜更かしを「別に、大丈夫だよ」と断言するなら、たいていのことは「気にする必要なんかない」ってことになる。というか、「そんな瑣末なことを気にするより、まず夜更かしを止めろ」というカウンターが成立するわけだ。

父方の伯父夫婦は、子ども(私のいとこ)が小さい間は祖父母と同居していたが、下の子が小学3年生になると、「今までありがとうございました」といって、用済みの祖父母を家から追い出した。清々しいまでの「子育て最優先」だな、と私は思った。ほんの20年ほど前の話だ。

自分はこの程度のことしかできない、する気がない、というなら、他人にも同じくらいしか求めるべきでない。さもなくば、要求に見合ったコストの負担をしろ。私はそう思う。

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2.

医者に「絶対」を求める人とかね。無茶いうなと。「絶対」を求めるのが人情というもの。それはそう。でも、それは克服すべき人の欠陥だよ。「そういうもの」だから「それでいい」なんて、私はいわない。

必死な人に対して、その場で説得を試みるなんてこと、私だってしないよ。

そうじゃなくてさ、日常的に、「絶対」を求めるのは間違っている、と語っていくこと。それは間違いですよ、という建前を形成していくことだ。いざというときに、当事者が我を忘れるのを、咎めるのではなくてね。冷静さを失った人を「仕方ない」と許容することと、それでも「間違っている」と社会が規定することは、両立できる。

感情を積極的に肯定して、確率的にしか成功し得ない医療に絶対を求める風潮を助長しないことだよ。共感はしても、主張に賛成はしない。そういうことが大切だと思う。

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