妖精現実のフォトエッセイ『Afghan Children in Pakistan』(日本語)の写真を撮影された写真家・久保田 弘信(ひろのぶ)さんの写真展が8月27日から、東京、札幌、名古屋、福岡のGALLERY キャノンサロンでひらかれます。入場無料。
現在、Canon サイトの「札幌キャノンサロン」ホームページでは、この久保田さんの写真展の案内がトップを飾ってます。見比べていただければ一目瞭然ですが、このトップの写真は、妖精現実の「テントのなか」のページのと同じもの(ただし左右逆)で、しかも、どちらも18KBに圧縮されてます。妖精現実に届いたオリジナルのJPEGは81KBでした。
さて、久保田さんからのメールによると、日程は、次の通りです。
銀座のキャノンサロンは、上の案内にも略地図がありますが、地下鉄・銀座駅のA5出口を出てすぐ(まっすぐ行って2つ目のかどを右)。もっとくわしい地図が見たいかたは、営団地下鉄サイトの銀座駅出入口案内をひらいて、カ行のところの「キャノン(A5)」をクリック。
このサイトでご紹介した主な写真を含む、久保田さんの最近の作品のオリジナルを見れます。「コンピュータの画面で見る写真と実際生のプリントでは、感じる度合いが違うと思います。ご無理がなければ、是非いらして下さい。」とのメッセージが届いてます。
© KUBOTA Hironobu. FAIREAL.net, 2001.
銀座キャノンサロン(03-3573-7822)の開館時間は午前10時から午後6時、最終日の9月1日、土曜日は午後4時まで。8月の最後の週で、夏休みの宿題で死んでるころかもしれませんが、いっそのこと、自由研究はアフガニスタンにして「研究取材」と称して銀座に遊びにいこう。んでもってレポートなんか、妖精現実の「寂しい地球人」のアフガニスタンのページをちょっと文章変えて、まるうつししとけば、すぐ終わりまっせ。もっとも万一、学校の先生も妖精現実を見てたらバレバレだが……あはは。
Date: Wed, 15 Aug 2001 13:20:22 +0000(日本時間22:20)
From: "久保田 弘信" <chobikun5@hotmail.com>
いまペシャワルです。ナッサルバーは、やはり退去命令が出ていて、数百人がアフガンへ帰ったみたいです。そして9月が、残っている人の(退去の)最終期限みたいです。ジャロザイは、とっても良くなっていました。たくさんのNGOが来ていて、暮らしぶりは、だいぶ良くなっています。しかし、ここからも、強制的に追い出された人がたくさんいるみたいです。今回はパキスタン政府は本気でアフガン難民を追い出したがっているみたいです。大島さんに会ったという人に会いました。とっても感謝していました。
Jalozai や日本の大島さんについては、アフガニスタンのページをごらんください(mion からの2001年3月のメールで「アナン(国連事務総長)に見せられないと視察に来たのを追い返したアウシュビッツ」とか書いてあるのが、当時の Jalozai です。トイレなどもなく雨が降ると汚物の洪水になると伝えられていた)。大島賢三(けんぞう)さんについて、久保田さんは当初「彼にどれほどのことができるのか疑問。評価は結果が出てから」というのが現地の一般的な見方だと伝えてきていたのですが、ご承知のような「皮肉」なできごとの「成果」として、なんと日本政府から910万ドルもの援助をひきだし、現地的には、ある意味「日本は世界でいちばん頼りになる国だ」みたいな受け止められ方すらしているようです。むろん、「おしおき」というか「いじめ」(制裁)ばかりやらかす国連安全保障理事会の5大国とくらべれば、たいがい良い国に見えるでしょうけど……。
なお、念のために繰り返しておくと、れいの石仏の件への「こらしめ」として国連が制裁をしたわけじゃなく、順序は逆です。あのできごとは、大衆マスメディア的には一大事だ~と浮かれ騒いでましたが、アフガニスタンのリアリティのなかでは小さな事で、大きな流れを言うと、国連の名をかたった制裁があって(国連の事務総長は反対してたのですが……)、くわえて、アフガン政府ニューヨーク事務所を無理やり閉鎖させる、旅客機の耐空安全性試験を受けさせない、子ども数百人が凍死した翌週に届くように毛布を送る、などの数え切れない陰湿ないじめが重なり(客観的には「いじめ」じゃない部分もあるのですが、いずれにせよ現地の感じ方としては不条理感、孤立感、見捨てられ不安が高まって)、一方、水もトイレもなく、食べ物も毛布もなく、寒さや空腹で亡くなる人が続出しても国際支援がとどかず、アフガニスタンの人々は孤立感をつのらせ(周囲の大国が、心理的にも実質的にもアフガニスタンを孤立させる政策をとった結果ですが)、現地の人々は精神的に追いつめられている――過去も現在もそしてたぶん当分、未来も――というのが、大筋では一致した見方です。
なにせ大国がゲリラをあやつり、数十年も内戦がつづいてきたため、もともとトラウマをかかえる戦災孤児などが少なくなく、ひさんな体験のPTSDなど、精神医学的なケアが必要な子どもたちがそのまま放置されていま二十代などになっております。ダイエットに苦労している貴族的な国(地球人の十分の一未満の特権階級)にぞくされるみなさんの常識とは、異なる現実があります。たいていの町には、電話も電気も水道もないです。国内や国外で長期にわたる避難生活を送っている人々ものべ何百万人といます。日本地域でも、最近、神戸で大きな震災があって、町は復興しても、いまだに被災者は、こころの傷やストレス・ディスオーダーを残しておられるということですが、こちらは、まだ町が復興してさえいません。復興のめども立っていません。めどどころか、いきなりミサイルを撃ってくる国もあります。今も、おりあるごとに、軍事大国が、どこぞの南の遠洋からトマホーク(巡航ミサイル)のねらいをこっちにつけ、あるいは、またべつの軍事大国が北のほうから戦闘爆撃機の発進準備をばんたんととのえて、「さあ国際社会のルールにのっとり平和的に話しあいましょう……」などと指をぽきぽき鳴らしながら薄ら笑いを浮かべてるわけです。
そうした「恵まれない」状況にありながら、心理的にも不穏な要素が多いはずでありながら、なお、子どもたちは先進国の多くの若者より実質的に豊かに見える……という、現地を訪れた久保田さんの述懐(じゅっかい)を、あなたは、どうごらんになりますか。実質的に豊かなら放っておいてもいいわけだな、へへ、と偽悪ぶるわけにもいきますまい。またぞろアメリカのミサイルは落ちるかもしれないけど、ブラウザでページをひらくと勝手にポップアップするうざい広告に悩む必要もないわけですしね(微苦笑)
このサイトでは「アフガニスタン――縛られた手の祈り」なんていう「ひさんさ」や不条理を訴えるキャッチフレーズを使ってますが(←韓国の詩人キムジハのパクり)、実際に避難生活者の住む場所を何度も訪れ、写真をとってきた久保田さんは、今回の写真展を「アフガニスタンの光華」と題しています。就任後、初仕事でいきなりアフガンなんていうヘビーな場所にいった大島さんは「うめきの海をみた……」とショックを受けてたようですが、久保田さんは「光華」と言う。二度、三度と訪れているうちに、ここの生活には日本にない光、輝きがある――と観じられたのかもしれません。ラピスラズリの、紺碧(こんぺき)の空のしたで。あるいは、またぜんぜん違う含みかもしれません。写真展の写真たちが語ってくれるでしょう。
"Sheer Brightness in Afghans"
© KUBOTA Hironobu. FAIREAL.net, 2001.
生きるべきか死ぬべきか――それは大した問題じゃない。どっちだっていいことだ。
周囲の脳みそつるつるな人間たちは、自殺はいけないに決まってるだの、命は尊いだの、ご両親からもらったなんたらと、くだらんことをぬかすばかりで、話し相手になりゃしない。または、なんだか知識ばっかりの頭でっかちの人間が、いろいろ古来自殺とはうんぬんくんぬん倫理が宗教があーだこーだと、どーでもいいことをほざく。うせろ。
本当にせっぱつまったことのある者、本当のぎりぎりのぎりぎりを体験しつつある者、友だちがすぅっと消えてしまった経験のある者。そんなあなたにむけて語るのだ。
いいかい、本当のことを教えよう。
はっきりいうが、死ぬのは大した問題じゃないんだ。生きるのも大した問題じゃないんだ。もちろん、自殺するとしないとでは、まったくイコールじゃない。それは言うまでもない。でも生きると死ぬのって、どのくらい違うのかしら……。生きると死ぬとの違いは、大島弓子先生の「四月怪談」ふうにいえば、一束のれんげの違いだ。きみのために花をつんで走ってきてくれる「だれか」がいるといないとでは、たしかに大違いかもしれない。そこだ。“生命が尊い”から生きると死ぬが大違いなんじゃない。ひとたばの花なんだ。
わたしたちは知っている。花をつんで渡してあげるかわりに(←ひゆ的な意味だよ)、他人の悪口を言って、いい気分になっている愚かしい人々のことを。知っているどころか、そういう人々は少なくないだろう。きみのまわりにもいっぱいいるだろう。そして、きっと、きみは、傷つくだろう。だが相手は、そういうやつらだ。今ならリスカ、昔なら根性焼きなんてやってみせても、なんにも通じやしない(やっちゃいけないって意味じゃないよ。もちろん大々的におすすめするわけじゃないけど)。その馬鹿者たちは、そのバカさかげんをあなたが代わって「あがなって」いることに気づきすらしないんだ。
だがとにかく、余裕があるうちは、わたしたちは、だれだか知らないそこの相手のために、れんげをつんで渡してあげよう。99%の相手には意味など通じない。それでいいんだ。
自分の身近な人々も、すぅっと消えてゆく。つぎつぎと。このサイトの常連読者さんだった人のなかにも……。どうして「間違っていた」だの「罪」だの言えよう。前にもお話、したね。「フェアリーランド」のK・M(北原ミカ)は、小学時代、となりの席だったK・Mさんだ。
余裕がなく、どうしょうもなくせっぱつまってしまったときは、それが真実だってこともあるだろう。――わたしたちとしては、“人生がつらいから”とか“生きる意味が分からないから”とか“いじめがつらいから”とか“親がイヤだから”といった、小さな理由で、一本の花ほどもの大きなことを選択することは、あまりおすすめできない。でも、大きな理由があれば、それは「理由のあること」だろう。
百円のスミレを買ってきて、どこか適当な場所に植えてみよう。ついて増えるかもしれないし、だめで枯れてしまうかもしれないよ……。毎日、話しかけて、いっしょうけんめい水をあげたりしてごらん。わたしたちの本当の友だちは百円のスミレだけだから。だって、きみも知っての通り、連中は、百円のスミレより役立たないからさ。花に話しかけるんだ。へん、通行人が見て笑っても気にするもんか、大量服薬したり、サンテグジュペリの本をかかえてビルの上から飛んでみたりするわたしたちじゃないか。そこらの人間が笑おうが泣こうが知ったことか。
いっしょうけんめい育てた百円のスミレが枯れてしまうなら……そんな重大で深刻な事態が人生に起きたらなら、きみは命をたつ権利がある(もちろん権利であって義務じゃないけど)。毎日、話しかけていた、たったひとりのお友だちが死んでしまったんだ。こんな悲しいことは、あるかい?
でもね、人間さんからいじめられるなんてのは理由にならない。人生がつらいだの受験がどうとかは理由にならない。学校なんて行かなければいい。つらければなまければいい。そういう意味での努力なんてどーでもいい。「学校なんかやめちゃって、デカダン酔いしれ暮らさないか」さ。親があほうなら、病院に逃げちまえ(ま、そこでまた、相性の悪いドクターにあたったら、さっさと変えることだね)。じんせーなんてどーにでもなる。この世は、おうへいに生きるんだ。陸奥A子先生の「こんべい荘のフランソワ」や「流れ星パラダイス」みたいに、さ。ホントに食えなくなったら、飢え死にすればいいんだ。それ以上でもそれ以下でもない。カンタンなことじゃん。
きみには自殺するけんりがある。だがくだらない人間のために、きみが「あがなう」ことは、ない。それは正しい選択じゃないぞ。きみがわざわざ身をもって「おしえて」あげなくたって、いいんだ。きみのおしえをこう価値なんてない相手だから。ましてや、「おまえがひどいことを言うから死んでやる」なんて、きたならしく跡を濁すな。――わたしたちが清潔にすぅっと消えられる理由(わけ)は、百円のスミレ、悲鳴もなく切り倒されたやなぎ、湖に落ちた人形……。あほうな友だちのために、あるいは政治的抗議のために火だるまになるなんて、おすすめは、しない。でも、一本の花のためなら、いい。
すみれを育ててごらん(←これはひゆ的な意味だよ)。根づかずに枯れてしまうかもしれない。でも、毎日毎日、優しく声をかけていれば、花は、こたえてくれる。たとえ目に見えるスミレは失われても、きっと、その前に、きみはもっと不滅なものと出会うだろう。
生きるなら、一本の花のために生き、死ぬなら、一本の花のために。一本の花からすべてが学べる。「ナイフを持たせるナ」なんて頭のねじが百本も飛んでるような連中のことは放っておこう。ナイフは良くも悪くもない。それをにぎりしめる手の持ち主には「こころ」があるんだ。「こころ」があるんだ。どうして分からないんだろうね。こんなカンタンなことが。そう思わない?
そして、こころに余裕があるひとびとは、あなたが名づけられぬものの友であるのなら、出会った相手に、れんげをつんで渡してあげよう。生きるか死ぬかなんて、ひとたばのれんげだからだ。少なくとも、それと知りつつ、あなたのきたならしい劣等感を、周囲にぶつけるのは、やめるんだ。あなたからきたないものが流れ出るとしたら、それは、あなたがきたないからだ。きれいになるのはカンタンだ。「たんぽぽは、たんぽぽでいい」ってことなんだ。薔薇にも、ガーベラにも、カトレアにも、たんぽぽのまねは、できないでしょ?
だれにも真似のできない、まるで百円で3株も買えるスミレみたいに、それほどまでに、貴重なもの。
ミルクでつくってあるらしいけど アイスクリームは 猫じたには だめだ あちいとさわいだら 人間が 「猫は冷たいのもだめか」 なんていうわけ つめたいのとあちいのって 最初は似ているね
from 大島弓子「ミルクラプソディー」
五感のうちの「触覚」は、狭義の触覚のほか、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などに細分できる。冷たいものが触れると冷覚が、暖かいものが触れると温覚が生じるが、ある程度以上の熱さのものが触れると、温覚と同時に冷覚が生じる。いわゆる矛盾冷覚( paradoxical cold )。「すごく熱い」と認識しているとき、脳処理系には「熱いぞ」という情報と「冷たいぞ」という情報が同時に伝わっている。
経験的にも、寒い冬に冷えたからだで、熱い湯ぶねにつかったとき、暖かいと思いつつ、まるでお湯のなかで寒さを感じているかのように、からだが震えることがある。
人間のマシン的実装という観点。
「ヒュム」には外部の温度を認識するための温度センサー(thermoreceptors)が実装されている。温度センサーには、言語系が「暖かい」と翻訳する刺激に感応する「warm fibers」と「冷たい」と翻訳される刺激に感応する「cold fibers」があって、異常な高温または低温によって、ヒュムの機能に不具合が生じる可能性が起きた場合、自律的に危険を回避するためにも用いられる。
適切な温度であれば、Warm パラメータが大きく、処理系にはシグナル10「情報、暖かいです」が送られる。「情報、冷たいです」なら01だ。この2ビットで「警告、非常に熱い」を伝えるには「11」か「00」しかないが、処理系に緊急の対応を要求する意味でも警報全開の「11」が自然だろう。同様に、「警告、非常に冷たい」も、たぶん11になるのだろう。高温すぎるのか低温すぎるのか区別がつかない可能性があるが、その点は視覚など他のセンサーで判別するしかない。温覚、冷覚のわずか2ビットの帯域を最大限に活用して効率化を図るための実装だ。
"Cold and warm fibers" cited from Touching experience: Receptors, Psychology 369 - Fall 2000, Sensation and Perception (Dr. D. Kline/Dr. E. Slawinski), University of Calgary
ごらんのように、Cold fibers は皮膚温が正常な体温の±10℃のあたりで最大限の警告を発するセンサーであり、実際には「冷覚」のみならず「異常高温」で処理系が熱暴走する可能性が生じると、Warm fibers より、むしろ Cold fibers が警告を発する。心頭滅却しなくても「火は涼しい」どころか「冷たい」というのがヒュムの実装で、「暑い」とは「極度に温暖」でなく、ヒュム実装系においては「暑い」=「冷覚の激しい励起+若干の温覚」だ。
ところで、五感以外の「第六感」などという言い方をすることがあるが、最近の知見によると、実際には人間の感覚は、もともと10種類以上、たぶん20種類程度あるという。耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、目(視覚)、舌(味覚)、肌(触覚)の古くから知られていた5つの感覚器のほかに、身体内部にも、それと並列される「深部感覚器」があって、身体の位置情報、平衡感覚、さまざまな内臓感覚などを処理している。これらの深部感覚は、通常の表層意識ストリーム(知性体自身が自分の意識、すなわち自分と意識している自分)によって直接的に認識されない低水準の動作であり、意識して対応しなくても、処理系が自動的に処理する。意識体の介入が必要なとき――例えば「リソースが不足している」というとき、処理系は、高水準の意識体に対して「不快ビット」を立てた「空腹」Message をポストする。意識体はこのメッセージを受けると、通常、まるで「自分の意思」でそうするかのように食事をとる。実際には、最下層のオペレーティングシステムが、端末であるあなたに「用紙を補給して下さい」などと命令しているにすぎない。
あなたがいなくても(場合によっては、たとえ脳のあなたの意識をつかさどる部分が死んでいてさえも)、あなたのからだの低水準の処理系は、一般には影響を受けない――あなた以外のだれかが必要に応じて「用紙補給」などのメンテをしてくれるなら。
あなたの身体にとって、あなたなど必要ない。原理的にはあなたのからだの保守者は、あなたである必要などない。――ちょうど、あなたにとって、あなたの身体など本質的には必要ないように。