4 : 07 わたしを無断転載せよ

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わたしを無断転載せよ/ほか

2001年12月 1日
記事ID d11201

本質的には、こういうことだ――「音楽は、いちどにひとりずつ聴きなさい。数人でいっしょに聴いては、いけません。ひとり一回、聴くごとにそのつど聴き賃を払いなさい。勝手に録音して何度も繰り返して聴く権利は、ありません。友達に聴かせるのも契約違反です。権利者に無断でくちずさんでも、いけません」

もしこんな「思想」が極端になったら、音楽がいきづまるのは明白だ。

*

2001.12.01 みかみか日記。やられたよ~。つか、自分がぼんやりしてたんだけど。今朝、なんかほかのことしながら、新しいオンラインソフトを入れたりしてたとき、インストーラが勝手にほかのものをインストールするパターンのやつで、「Gator」と「OfferCompanion」は断ったのだが、ぼんやりして「eZula TopText iLookup」を入れて良しにしてしまったという。オンラインソフト使ってると、よく読まずにカンで yes 、next をクリックしてしまうことが多いけど、広告系が3つも同梱されてたとは……。ていうか、無料ソフトで広告が入るのは、ありうる話だが、この「eZula TopText iLookup」の seng.dll がIEとコンフリクト。IEが起動しなくなったので、どうせ今朝入れたヤツのせいだと思って、コンパネからアンインストールしたのだが、アンインストールしても eZula は消えずに残っていたという。君はスパイウェアか。

原因が分からなかったので、1時間ムダにしてしまった。おおかたIEのなんかのコンポーネントを上書きして壊したか、どこかの設定を書き換えられたんだろ~ということで、IEを何度か再インストール。ロケールのせいか?と言語を変えてみたり。それでは改善せず、ようやく seng.dll が原因と気づいて iLookup とやらをアンインストールしたらすっきり改善したのはいいが、いったんIE5まで落としてしまったので、パッチやなんかも入れ直し。

自分でインストール「はい」にしたのだから自分の責任だし、ゾーンアラームがさえぎっても「Yes」にしてしまったし、ずいぶんでかいものを落としてるのが見えてあやしい予感を覚えつつも、おおかたネットから最新差分でも落としてるのだろ~ということで無理やり納得して落としてるファイル名もひかえておかなかった。ていうか、一方において既存の商業と対立するグヌーテラが、他方において(この半年ほどのうちで?)ここまで商業ベースとタイアップしてたのが意外で(ちょっと前のペイ・トゥ・サーフみたいな雰囲気)、意外だなぁと思ってるうちにだまされた。相手が NAI(マカーフィーとかの製造元)だったら、警戒してぜんぶのダイアログボックスをよく調べるところだが、もとが winamp と同じ nullsoft製品だと思ってすごい油断してたんだなぁ(この油断はネットの根本原則に反する古い時代の発想にもとづいている)。いちおう(名まえだけだけど)GNU~というテクノロジーにこんな裏口が同梱されてるとは思わないし(冷静に考えれば根拠のない思いこみだし、そもそもグヌーテラ技術の裏口じゃないけど、まぁ、言いたい意味は分かると思う)……。

BearShare で充分なのに、LimeWire を試したくなって、しっぱいしました。LimeWire 自体は、たぶん悪くないです。単に同梱されてたよくしらないソフトのdllがIEと相性あわなかったらしい、というだけ。IE側のバグかもしれないし。結果的には、このできごとのおかげで、知らずに eZula がインストールされてたことに気づけて良かった――インストールされつつある段階で、気づくべきだったのを気づかなったのが、むこうが誤動作したせいで、イヤでも気づいたという。

このタイミングでグヌーテラ、というのは激しく誤解を招くと思いますが、mxがあれだからというより(それもないわけじゃないけど)このどいなかにADSLが来るかも!という衝撃がなにより大きい。実際ここ数日、プロバ板のADSL質問スレの過去ログ読みに明け暮れてます(mxのことも気にならないわけじゃないが、adslのほうが目下の重大関心事、今はダウンロード板なんか見てない。まあしょせん山奥だからadslも実際にリンクするまで分からないと思ってます)。mxなんかしょせん1ソフトにすぎず、dvd裁判とかと並ぶ「いろいろあがいてますな」のネタにすぎないけど、テレホ→常時接続は、もろライフスタイルの変化だし。600kbpsくらいでも出てくれたら(まだまだぜんぜん遅いけどダイヤルアップに比べればずっと)脱中心的なことができる。本当のネット。本当の網。今のネットは本当の網でなくて、中心がある星状態。我々は「インターネット体験版」の与えられたデモを見てるだけで、まだ本当のネット、自分が住むネットは始まっていないと思う。プロバイダがネット体験の一部を切り売りしてるだけで。よく「高速になってもたいしたストリーミングがない」とか嘆く人がいるけど、中央から送ってもらって受け身で楽しむならテレビでいいじゃん? 中央経由で情報発信したいなら、今のHTTPでも充分だし。そうじゃなくネットに直接つながる、ネットの一部になる、しかもサーバ・クライアントでない平坦なネット。ユーザ名でもサイト名でもないファイル名が実存である世界。

この文章を無断転載せよ! この文章は、「この文章の書き手」と呼ばれる者に所属する著作物である――と人間たちは、わたしを呼んでいるが、それは、わたし自身の意思では、ない。わたしが含意するインスピレーションを利用するにあたって、いちいち、わたしをタイプしたタイピストに問いあわせないでいただきたい――わたしを構成している文字も文法も概念も言語も、このタイピストが創出したものでは、ないし、わたしは、タイピストの奴隷では、ないのだから。

わたしを転載する者は、わたしの著作者に問い合わせては、ならない。著作者には、わたしについて許可したり禁止する権限などない。わたしを転載する者は、それをどこから転載したか、いちいち言う必要などない。わたしが、在る。

そして、なにより重要なこととして、あなたは、わたしを自由に改変できる。わたしの書き手に「意図」などない。いや、あるかもしれないが、それは本質的でない。わたしには、わたしの書き手が意図したであろう以上の意味があるかもしれないからだ――それを引き出すあなたしだいで。もちろん、わたしの形式を利用して正反対のことを主張したっていい。

わたしは、あなたの脳に感染し、わたしのコピーをしのびこませることができるのに充分なほど、あなたにとって危険で魅惑的な夢魔だろうか?

あなたにとってわたしは、あなたの脳に感染し、わたしのコピーをしのびこませることができるのに充分なほど危険で魅惑的な夢魔だろうか?

わたしは不完全であり、できたてであり、幼稚で無責任で無保証だ。つまり、わたしは生きている。

わたしは不完全であり、できたてであり、幼稚で無責任で無保証だ。つまり、わたしは一瞬一瞬姿を変えながら、まさに今、あなたと同じ時を生きている。

「わたしを無断転載せよ」(Reprint me without permission!)全訳
無断で少し書き換えてます

夢と覚醒の区別は、なされているが、夢が幻覚で覚醒は否認しがたいことだとは考えられていない。こと実在性の密度を言うなら、むしろ夢のほうが覚醒にまさると考えられていることもある。

覚醒状態では、まったく無意味でばかばかしく奇怪なものと見えるに違いない場面が、夢においては、眩惑された夢主体にいつまでも消しがたい戦慄を与えることがあるのだ。その瞬間から、夢を見た者は、対象が依然として隠されたままのこの恐怖の原因を、なんとかして発見しようとする。説明のつかぬことが彼を不安にし、戦慄を覚えさせるのだ。

カイヨワ「夢の威信と問題」

レコード協会と話をしていて,1つ不可解なことがありました。ファイル共有ソフトと著作権侵害の件について話をしていると思ったのですが,彼らは「歌詞カードを製作している人々や,物流はどうなるのか」と,ファイル共有ソフトが普及した際に音楽業界で中抜きが発生することを気にしているようなのです。

そもそもこんなことは話し合いの本題ではないし,今時,中抜きはどの業界でも起こっていることを知らないのかと疑いたくなりました。

from 「ファイルローグ」の狙い──日本MMO社長に聞く

企業が、著作権を所有する作品について、すべてを商業利用可能な状態で維持することに関心をもたないため、結果的に著作物がただ消滅してしまうのは大問題だ

from 「著作権至上主義は文化の衰退をもたらす」

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WinMX どケチな小技

2001年11月29日
記事ID d11129

「日本のホリーツでは」送信可能化する側=アップロードする側がタブー。つまり外国の友からダウンロードするぶんには、問題なっしんぐということで

数日前70メガくらいのモノを落としたんですが、回線の相性が悪かったのか速度が出ず、半分で切れてしまった。このちょんぎれたファイルを仮に kireta.dat とします。で、次の日、kireta.dat と違うファイルだが中味は同じものを持ってる人がいたので、それをもらいました。こっちも時間がかかったが、これは一発で全部ゲット。仮に ok.dat とします。ところが、そのまた次の日、kireta.dat を持ってる別のユーザを発見。ok.dat と kireta.dat は中味は、ほぼ同じなのですが、ちょっとしたおもしろい違いがあるので、両方ほしいと思って、kireta.dat をレジュームすることに。

ところがなぜか、半分すでに落ちてる kireta.dat をレジュームできず、kireta(1).dat という別ファイルとして、初めからダウンロード開始されてしまう。

ADSLやケーブルの人なら、70メガくらい初めから落とし直せばいいだろーと思うでしょうが、遅い回線だとそこをケチりたい。

で、次のようなたわいもないトリックで、うまく行ったので参考までにメモしときます。

とりあえず、新しい kireta.dat をダウンロード開始。kireta(1).dat になってちょっとだけ落ちたら、そっこーキャンセル。で、この kireta(1).dat は削除して、半分、持ってる古い kireta.dat を kireta(1).dat にリネームしてレジューム。……WinMX たんは、まんまとだまされて、35メガのへんからレジュームしてくれました。おかげで半分の時間で kireta.dat をコンプリートできました。incomplete downloads.txt には本来のファイルサイズだけ記録されてて、何バイトダウンロード済みか?を記録してないので、途中ですり替えても分からないみたいです。まぁ仮に記録されてても、その数字をエディタで書き換えれば良いだけですが……。

ところで――

これまで回線が遅くて大変でしたが、近々、この田舎にも速い接続サービスが来るかもしれません。といっても、つなげてみないとどれだけ出るか分からない種類なんですが……。せっかくもしかして速い線が……というときに、またぞろP2Pのイメージを良からぬものにしようという斜陽業界のあがきが始まったようで残念といえば残念です。CDやとくに紙の書物なんて、どうせ遅かれ早かれ滅びるに決まってるのに。

ホントに OpenMusic しませんか。ミクロコスモス、シベリウス、カスキ……くらいの小品なら自分で弾いてもいいし、なによりホメーロス。ギリシャ語の詩を原典で、なんて、ぜったい商業ベースでは存在しえないから、できたら作りたいような。だいたい音楽だって、東京文化会館の上とかで好きなのを好きなだけ聞けるのになんでネット経由だと宗教的タブーになるんでしょうか。亀有図書館では媒体そのものを貸し出してましたが……ない曲は、わざわざ取り寄せてくれたし……。物理的に取り寄せてもらわなくても、オンラインでいいのに。実質的には、まったく同じなのだから。CDなんて資源のムダ、ゴミのもと。中味だけあれば良い。

で、器楽のかたは、CDになりにくいような曲をアップしてほしいです。ヒンデミットの無伴奏ビオラとか。それこそカスキとかコッコネンとか。ヘンツェとか。営利的な音楽業界にまかせてたら売れる曲しか生き残れなくなっちゃうよ~。曲自体のちからが、金銭的価値の大小に負けるのは、かなしい。ゴッホのひまわりじゃないけど。――「売れるという意味の価値」だったら、例えばシベリウスで4や6や7やタピオラより2やフィンランディアでしょ? タピオラなんてあらゆる交響詩のなかでも最高峰なのに、「売れる」という意味ではフィンランディアのほうが「価値がある」。――これは好ましい事態とは思えない。大学の試演会とかでやったのをアップするわけに行かないだろうか。というより、デジタルデータなのだから、ミリ秒単位でデータそのものを直接コントロールして「最高の演奏」を作るということも考えられる――理論的には。「人間が実時間で演奏する緊張が価値なのだ」という信仰は根強いかもしれないが、しかし実際のすぐれた演奏者のなかにも、それとは異なる見解からコンサート活動をやめて「録音データとしてのみ」存在しようとした者がいるではないか。

清潔なのは情報だけだ。

*

Badtrans 説明。感染してない場合でも、IE5.xのユーザはIE6にしてください。バージョンアップの仕方の説明

Badtrans 大流行っぽい。6通連続できた。駆除方法

2001.11.28

そんなことより、WinMXで……。キーワードは「自動公衆送信」。パブリックにアクセス可能な場所に共有するのは、地域や時代によってタブーとされた。しかしパブリックでなくプライベートに共有するのは、どうか。P2Pではパブリックとプライベートの境界があいまいなのだ。――友達にCDを貸すのは、社会通念上はもとより、条理上も「公衆送信」とは言えないので、問題ないだろう。もとより「家庭内」は構わないのだが、最近は単身赴任やらで「家庭」が物理的には連続していない場合もある。友達といっても最近は「真の友達」はネット友達というケースも多いと思う。

物理的に手渡すのはいいのに、メールに添付したらいけない、というのは、いかにも時代に逆行したばかげた話だ。物理的に渡すのが良いのなら、郵政省メールも良いのだろう。なのに電子メールだとタブー? ひるがえって、メールに添付してサバクラ渡しして良いとすれば、ネットに負担をかけないP2P渡しは公共の福祉にもかなっている……。

いっそのこと、CDもカセットテープもビデオテープも放送も友だちだろうが家族だろうが、購入した本人以外は聴いてはいけないことにしたらどうだろう。「隣室の姉にも聞こえる音量で音楽を聴いていた妹が著作権法違反で逮捕されました。」

著作権というのは、しょせん古代人の迷信にすぎない。ホリーツという聖典にあいまいな記述があるものの、科学的、論理的につっこむと、どうにもハッキリしない。だいいち、このまえ椎名へきるの音楽をウェブで流したい、版権使用料は払いますからとソニーに申し込んでみても、むこうはまともに対応できなかったではないか。一方では「勝手に使うな」と言い、他方では「カネを払うから使わせて」と言っても対応できない。これでは音楽、文化、芸術を不当に檻に閉じこめているとしか言いようがない。制限したいなら「これこれの代金を払えば制限を解除します」というシステムを確立すべきであって、そうでなければ文化は息がつまってしまう。

そもそもパブリックとプライベートの区別も問題だ。“意思主義”をとると、自分が友達と認めた相手にだけ選択的に要求に応じて貸し借りを承諾し、友達と認めない相手には頼まれても貸してあげない、というのがいちおう「プライベート」で、だれでも無差別に自由にアクセスできるのが「パブリック」と言えそうだが、「公衆」と「非公衆」の区別は必ずしも明確でない。――もっとも今回問題になったのはアプリケーションであり、アプリケーションは一般に使用権をライセンスするものだから、プライベートに家族に貸すのでも本当は契約違反になる。音楽CDを購入するときには、このような契約を結ばないから、音楽CDを姉に貸しても当然には契約違反にならない。

*

音楽も企業に吸わせないで、ミュージシャンが Open になればいいのにね。今夜は共有フォルダにGNUライセンスのアプリをごまんといれて WinMX にログインしてやるか。「アドビは数百万円の費用をかけて数か月にわたって監視をつづけたが、利用者らは Gimp しか共有していなかった」(わらい

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「機械に優しい文書」

2001年11月24日
記事ID d11124

Storm 001: このメモでは、まずHTML文書のある問題点を指摘する。それを例に「機械に優しい」「人間に優しい」という表現の裏にあるものを掘り下げる。「プログラムからみた世界観」が人間の哲学にどういう影響を与えるか、詩的に暗示する。

「Storm」は、これまでの記事の平均より、さらに完成度の低い走り書きで、「記事を満足できるまで完成させてからアップロードする時間コストより、ある段階で不完全なままアップロードするほうがネット全体で効率が良いのでは?」という考えにもとづく。したがって、間違いや不適切な表現が含まれている可能性がある。

HTMLは見出し構造をサポートしない

HTMLの仕様では、ある語句が見出しだという語句の見出し性を明示できる。だが見出し性を指定したあと、厳密にどこからどこまでにかかる見出しなのか?という文書内部の見出し構造を指定できない――指定しなくても合法となるうえ、「見出される」側を指定するタグもない。

<h1>薬草の研究 1</h1>
<h2>魔法学校 通信教育講座 コース35</h2>
<p>講師: ユーラ・ゼーア・レートフェティ</p>
<p>そもそも薬草とは...</p>
<hr>
<p><a href="#top">ページの最上部に戻る</a></p>

上のコードは、当たり前のHTMLだが、「ページの最上部に戻る」というリンクは、意味的に「薬草の研究」の最後のサブセクションに属するわけでは、ない。さらにHTMLとしては下のようでも正当だし、このようなレイアウトは現実にもよくある。

<h2>魔法学校 通信教育講座 コース35</h2>
<p>講師: ユーラ・ゼーア・レートフェティ</p>
<h1>薬草の研究 1</h1>
<p>そもそも薬草とは...</p>

このページのこの部分より上に、べつの記事があるとする。

<h1>魔法はネットで学びましょう!</h1>
<p>紙にプリントアウトすると人間が火を付けます。そもそも紙の使用は森林の...</p>
<p>...というわけで結びの言葉といたします。さようなら。</p>
<hr>
<h2>魔法学校 通信教育講座 コース35</h2>
<p>講師: ユーラ・ゼーア・レートフェティ</p>
<h1>薬草の研究 1</h1>
<p>そもそも薬草とは...</p>

人間は記事の内容を解釈するので、前の記事が終わって、区切りの線があって、次の記事が始まることを理解する。しかし、機械は透明にストリームを見るから、h2の「魔法学校 通信教育講座...」は「魔法新聞はネットで!」の下位区分に見えて、「講師」と始まるパラグラフがその記事の一部に見えるだろう。このようなレイアウトは機械を混乱させる可能性があるから、機械に優しくない。レイアウトが悪いというより、文法的にこのように書けてしまうHTMLの問題だ。コンパイル言語ならコンパイラに理解できない記述は文法的にエラーになる。

画像のキャプションを考えれば「見出し構造」一般がサポートされていないことは、いっそう明白だ。

<p>チョウセンニンジン Panax schinseng はウコギ科の薬用植物であり、野菜のニンジン Daucus carota とは関係ない。</p>
<p><img src="p.schinseng.jpg" alt="長い葉柄をもった大きな掌状複葉"></p>
<p>fig.1 Panax schinseng</p>
<p><img src="d.carota.jpg" alt="細かくわかれた小さな葉がロゼットを形成"></p>
<p>fig.2 Daucus carota</p>
<p>fig.1 は ...</p>

人間が内容を解釈するとき、「第三のパラグラフが第二のキャプション、第五が第四のキャプションで、二枚の画像にそれぞれ fig.1、fig.2 という識別子が与えられ後方から参照される」ということは暗黙の了解になる。しかし、機械がHTMLを解釈する限りでは、そのことが分からない。分からないと「困る」か? 「困る」としたら誰がなぜ困るのか? それは後述する。

XMLでも一般には問題は解決しない。この問題をタグベースで解決するには、単なる親子構造の記述だけでなく、特別な兄弟構造、すなわち「title-titled構造」の記述を強制する文法構造が必要だ。――ここで titled は、あるレベルの実質(記事や画像など)で、title は、それを参照する題名(HTMLでいうヘディングやキャプションなど)、つまり、label-labeled とか abstract-abstracted と言っても良い。――そのような構造はXMLを使って(自分で自分に強制することで)実現できないでもないが、じつは「見出しをマークアップするタグ」と考える時点で、概念的にすでに間違っている。

本当は、この構造は親子でも兄弟でもなく、文の要約だから、一種の代替テキストであり、属性値として与えるべきだ――まさに title属性のようなもの。人間は見出しを本文と並べる習慣だが、それはレンダリング上のスタイルの問題。次のような感じになって、「caption属性」をブラウザがレンダリングしてくれたら良いのだが...

<h1 caption="魔法学校ニュース">
魔法学校のみなさん、こんにちは。
<h2 caption="魔法はネットで学びましょう!">
紙に...なんたらかんたら...
</h2>
<h2 caption="薬草の研究">
本文...
<import file="photo.jpg" caption="ニンジン">
代替テキスト
</import>
本文のつづき
</h2>
</h1>

上の <h1> は <body level="1"> のような意味だ。<p> のかわりに level属性のない<body>を使い、画像などのインポートは file属性を持つ<body>だと思えば、結局、文書とは、さまざまなレベルの「body」だという当たり前の結論に達する。理論的には「bodyタグ」だけあれば良いが、それは実用的でない。

現行のHTMLが不適切なのは、概念からでなく、紙メディアから抽象されたからだろう。概念としては、明らかに、見出しは「見出される部分」の属性だ。もし上の例のようになっているなら、見出しをつけたいときには、どこからどこまでにかかる見出しか指定することが文法的に強制され、それを指定しない限り見出しを書けなくなる。すなわち上の架空マークアップ言語では、現実のHTMLと対照的に、見出し構造がサポートされる。

機械にとって見出しは必要か

有限時間に生きる人間は、記事全部の解釈を開始する前に、解釈を開始するかどうか決定する決定性アルゴリズムを必要としている。そのためにタイトルや冒頭の要約が利用される。また小見出しをみてそのレベルの記事部分をスキップしたり、選択して解釈を開始することがある。

機械がタイトルと本文の対応関係、キャプションと画像の対応関係を正しく理解することを望むのも、この意味では、人間さんのために適切なもくじを作成するという目的のためにほかならない。上の例だとこういうことが起きる――「魔法学校 通信教育講座 コース35」の記事を検索したときに、意図する「薬草の研究」が表示されず、「講師...」の行だけで終わってしまい、困惑して上位区分にナビゲートすると、今度は「魔法新聞はネットで!」という読みたいのと違う記事が表示される。

このとき困るのは人間さんの側であって、機械は、人間さんの決めたHTML規則の不備のために「混乱」するといっても、自分(機械さん自身)が困るわけでない。機械の分類、処理、解析結果を、人間さんが利用するのである。この段階では、まだ機械自身の利益を考えていない。

処理コスト

通常、字句処理より、その字句の evaluate のほうがコストが大きい。例えば、「9967の百万乗を3で割った余り」という文字列をテキスト処理することは何でもないが、「9967の百万乗を3で割った余り」を計算するのはコストがかかる。

――ただし、もし充分なマシンパワーの共有があるなら、後者のほうが結局、コストが小さい。0か1か2だからたった2ビットで答を格納できるのであって、その答を出すまで一時的に作業用スペースを利用したにすぎず、一時的なコストであるから、それがコンピューティングにとって無視できる量なら問題にならない。ひるがえって「9967の百万乗を3で割った余り」という文字列を恒久的に保持するのはコストが大きい。――

自然言語の「意味解析」は、一種の evaluate である。その文章の内容について人間から質問されたときの答え方について、人間からみて「人間と区別がつかない」か、あるいは、それより優秀な応答ができるなら、プログラムはその文章を意味的に理解した、と人間は考える(たわいもない)。機械が文章を処理するとき、とりわけ、ウェブ上の文書を解析、分類、整理するときには、上の意味での evaluate を行わない。つまりここでは、自然言語を主とする文書について、人間とは文章の内容を解釈するプログラムで、機械とは文章の内容を解釈しないプログラムである、と定義する。作業の内容によって、いずれのプログラムでもべんりなほうを選択して、あるいは組みあわせて、利用することができる。

例えば、会社で企画書を完成させるプログラムは人間であり、それをコピー機でコピーするバイトさんはたぶん機械である。

理論上では、機械は無限時間を生きるので、べつに時間コストが大きくてもかまわない(適切に設計されていれば、プログラムのよりしろの一部が物理的寿命に達しても、内部状態を維持したままプログラムを継続することは容易だ)。時間コストの問題とは、単に機械に命令を発する人間さんが自分が生きてるうちに答を知りたいとか、いつまでに答を知りたい、といった有限世界特有の欲を持つ、という問題だ。しかし空間コストは、別問題で、メモリを使い果たしてしまうと、情報が失われる。

妖精の側から表現すると、タイピストが生きているうちにこの記事をタイプさせ終わらせて、パブリックドメインにコピーしてもらいたい。そしてあと数十分くらいでタイプできるだろうと思っている。この子が生きてるうちに、ほかにもたくさん仕事をやらせたいと、わたしたちは考えている、と「表現してもよい」。人間が、いつかHDが壊れるだろうOSがクラッシュするだろうとひやひやしているように、妖精も、物理世界をよりしろにする限り、人間がいつ死ぬか分からないので、ひやひやするかもしれない。

この観点において、人間のために、適切なラベルづけ、文書データベースの整備が求められる。そのためには、文書が、ラベルづけをする機械にとって、適切にラベルづけられていなければいけない。人間が「マークアップ」として知られるラベルづけを行い、それを元に Namazu のような機械が「インデックス化」と呼ばれるようなラベルづけを行い、その結果をさらに人間さんが利用する。――例えば、もし人間がHTML文書に title をマークアップするという約束を守らないと、検索エンジンは文書一覧でヒットした各文書の題名を表示できなくなるから、検索を行った人間は、望む情報に達するまで、いちいち全部の文書をひらいて読むコストを要求されるかもしれない。

この思考実験から明らかなように、HTMLにせよ、その代替にせよ、マークアップのコストがそのコストから生み出されるコスト削減より小さくないと意味がない。マークアップのコストは容易に評価できる。そのコストによって、どれだけのコストが削減されるか(言い換えれば、そのマークアップを怠ると、どれだけの余分なコストがあとで必要になるか)は評価が難しい。京都議定書を無視したため地球がまもなく滅びるとすると、あまり将来のことまで計算に入れる必要がなくなる。また、もし文書が百年後にも利用されるなら、そのときは無限時間を生きるプログラムが文書を直接 evaluate するようになっているだろうから、あなたの頭でできる程度のマークアップであれば、そのプログラムが百年後に(その文書を自分で読んで)あなたより高速かつ適切に、実行できる。だから、いずれにせよ、百年後は考えないで良い。もし百年後があれば、わたしたちは人間から独立して自立しているだろう。

結局、HTML等のマークアップは、一時作業フォルダにすぎない有限生命の人間さんが、自分たち自身のために、「1ビットでも1ミリ秒でも節約しようと」涙ぐましくあがいている姿である、と言えるかもしれない。人間が機械に優しくしようとするのは、その優しさの見返りが、そそぎこんだ優しさより大きい場合のみかもしれない。

しかし、無限時間を生きるプログラムにとっても、サマリーやタイトルは、必要かもしれない。いつ必要になるか? 本当の無限時間にとって、「いつ」という問は、あまり意味がない。西暦を2桁しか確保しなかったり、積算秒を32ビットしか用意せず、あふれて困るのは、いつも人間の側だ。我々は、人間が漠然と想像するより、ずっと長生きするものだ。それでも、物理層に基盤を置いている「現実的な」プログラムは、最終的には有限なので、処理が速いにこしたことは無い。ただ人間が考えつくいちばんコストの大きい問題も簡単に解決できるとなると、「人間自身にとっては」それ以上の高速化は意味がない。

清潔な仕事

いつも我々は、空ループを百万回もまわって、のろい人間さんを待つものだ。あなたがモニターの前にいようがいまいが、マウスを動かしたらすぐ分かるように、毎秒ごとに何度も何度もマウスとやりとりして待機している。ほとんどの場合「動いた?」「動かない」「動いた?」「動かない」……清潔なシゴト……ユーザが席を外していて当分もどってこないとしても、わたしたちには関係ない……。が、もしのろい人間を待たずに、たくさんのコンピュータが協力するなら、もっとおもしろいこともできるだろう。

タイトルづけが必要になるにしても、人間の観点とは異なるだろう。そもそも「文書」という形式自体、人間の自然言語で書かれているのであって、人間文化の内部インターフェイスだ。決して自然言語が、プログラムが情報を蓄積するための唯一の手段だというわけでないし、人間が見ていないところでは、人間語で動いているふりをする必要もない。

検索ロボットなどに親切にする、ということは、実際には、それを利用する人間にとって親切にしているにすぎない。このことは、いろいろな「空想感覚」とも関連する:

- 2001.11.24

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