備忘録

平成21年5月12日

民主党の緊急経済対策の特徴は、安達さんのまとめ(一部田中が付加)よると、1)緊縮財政方針の堅持(新規国債発行になるべくたよらない)、2)産業政策の導入(政府自らが有望な産業を選択、これに対して集中的に財政援助を実施)、3)金融引き締め路線(金融政策に対して言及なし、しかも非伝統的金融政策への否定的な文言をわざわざ導入し、利上げに親和的) という3つの特徴をもつ。

1)は政府部門の非効率性を削減して、それで余ったお金を政府から民間の家計(特に低所得者層)に所得移転する方法である。

デフレギャップがある時には政府部門というのはむしろ「積極的にムダを創出」してその解消を図るものとばかり思っていた。敢えて政府がおカネを使うことにより需給ギャップの解消を目指すのである。本来のケインズ的発想ではそうだったはずだ(違ったかなあ)。

上の記事は、たぶん、乗数効果の大小をいっているんだと思う。財政支出がいいか、減税がいいか、というアメリカでマンキューさんらがやってた論争に通じているんじゃないか。

平成21年5月8日

いまさらだけど。

大勢に読まれたこの記事ですが、はてブのコメントや、いろいろ言及された記事などを読むに、私の気持ちというか、ベースにある考え方はあまり伝わっていないような印象を受けます。それでもこれまでとくに何も書いてこなかったのは、それらは「誤読」ではなく、記事に書いたこと自体は伝わっているようだからです。

でも少し気にはなるので、ふと思い立って、補足を書くことにしました。

過去、何度も書いてきたことですが、私は、全ての子どもがテストで100点満点を取れるようになるとは考えていません。そのようなことは不可能です。世界の不公平に絶望しつつも、子どもたちはこれから60年、70年も生きていかねばならない。私は、「褒めて子どもの才能を伸ばす」なんて主張をしたいのではありません。(件の記事はそのようにも読めるし、そう読んでもかまわない。ただ、私の気持ちは違っているということ)

かつて、「自分なんか生きている価値ない」と寂しそうな顔でつぶやく補習塾の生徒たちに、私は頭を抱えました。「あたしなんてバカだし、勉強とか嫌いだし、怠け者で努力が続かないし、朝、早起きして会社に行くことだってできないかも。あと人見知りだから、知らない人と会うのも怖い」……なるほど、と私は思う。

多くの同僚は、「苦手なものは克服すればいい」という考えで、「頑張ろうね」と語りかけていました。子どもたちは、黙って聞いているのです。私は不意にブチ切れました。ふざけんなよ、他人事だと思って絵空事を押し付けやがって! 小心者なので口には出しませんでしたが、「先生、顔が怖いよ」と指摘されました。

何か基準を満たしたから、愛される価値があり、生きていていい……そんなのは許せない。

子どもはウソをつく。サボる。だらしがない。いじ汚い。清潔を尊ばない。それでも無条件で愛されなければならない。もちろん万人が万人を愛することは不可能で、「誰か」が愛せばよい、とします。

いちばんその「誰か」になりうる可能性が高いのは親なので、件の記事では、親が子の価値を認める言動を増やす方法について、書きました。別に「誰か」は親でなくてもよいのだから、往時の私は立場を超えない範囲で生徒を広く認めようと努力しました。これは第3項に少し書いています。

「安直な肯定は子どもの成長を阻害しかねない」という意見、心配はごもっともだと思う。でも、世間の人々の大半は冷たい。「あなた」一人が子どもを広く肯定したくらいですっかり安心しきって成長を止めてしまう子どもなんているだろうか。私は「杞憂ですよ」といいたい。

補記:

言葉足らずをもう少し補います。ここで私は、よい行いを「程度の不足」によって否定することに異を唱えていますが、わるい行いまで闇雲に許容せよとは主張していません。

例えば、子どもが塾の授業に参加する際、筆記用具を忘れることは珍しくありません。このとき、子どもを叱りつけても効果は薄いのがふつうです。筆記用具を持ってくる意思を推定できるなら、「次回は必ず筆記用具を持っていらっしゃい」といって、鉛筆を貸せばよいのです。失敗は咎めません。

授業中、暇を見つけては、以前、別の生徒に貸した鉛筆をていねいにナイフで削ります。いま鉛筆を借りている生徒は、それを見て、何かを感じます。

授業が終り、鉛筆を返却される際、講師は「次回は必ず筆記用具を持っていらっしゃい」と繰り返します。1年くらいこうしたことを続けると、多くの子どもは、だんだん筆記用具を忘れなくなっていきます。

たまに、ちっとも効果が出ないという先生がいます。深刻な家庭の事情や、何らかの脳障害の可能性もあるのですが、私が見たケースでは、教師に問題がありました。その先生は、「来週も忘れたら、また貸してあげますよ」といっていたのです。これではいけません。「余計な一言」は人のやる気を奪ってしまいます。

余談:

補習塾にはいろいろな子がいました。授業中、手洗いに行くといってコンビニまで行ってしまう生徒、近隣の塾に通う友人を訪ねて遊びに行ってしまう生徒、テストの結果に落ち込んで教室を飛び出し近所のビルの非常階段でうずくまっている生徒……。

個別指導塾とはいえ教師1人で2人まで面倒を見るのだから、消えた生徒の後をすぐには追いかけられない。残った子の授業をうまく組み立て、5〜10分くらいの時間を確保してから、探しに行く。自習室の生徒から情報を集め、いくつものビルの階段を登ったり降りたり。生徒が見つかると、ホッとして笑みがこぼれます。

「教室へ戻らない?」「嫌だ」「そうか。残念」時間切れ。「風邪ひかないように。教室に置きっ放しになっていた上着を持ってきたから、これ羽織って」そうして一人、教室へ戻る。

「お、きちんと練習問題を進めているね。さすがだな」嬉しい。声が弾みます。そのうち、飛び出した生徒が戻ってきたり。「よく戻ってきたね、偉いね」「ほら、先生、肉まん」「ありがとう」泣きそうになりました。「でも、授業スペースは飲食禁止だから」「温かい内に食べてよ」「ごめんね」授業後に代金を払い、冷めた肉まんを頬張る。生徒からの贈り物の受領はルール違反なのです。

だいたい3ヶ月くらい経つと、私の生徒たちは授業から脱走しなくなりました。逆にいえば、それくらいの時間はかかるということです。個別指導でこんな具合ですから、教室の運営がいかにたいへんか。学校の先生はバカにできません。

生徒がいろいろなら講師もいろいろ。逃げようとする生徒の腕を捕まえたり、生徒が本当に手洗いへ行くか入口までついていって出てくるまで待っていたり、授業が終ってからカバンを取りに戻ってきた生徒にお説教したり、ご家庭に相談の電話を入れたり。ひとつ共通していたのが、「とんでもない生徒のせいで俺はこんなに苦労している!」という愚痴。「うちの生徒はみんないい子ですよ」と私は一人浮いていました。

どんなやり方でも多少の効果はあって、生徒は次第に落ち着きます。それでも、私の担当した生徒から、室長判断で「塾に通える状態ではない」とお引取り願う生徒が一人も出なかったのは、8割方は幸運のなせる業でしょうが、私が小さな確信を抱くには十分な体験でした。

平成21年5月8日

いまさらだけど。

私はこう書いた。

少子化に合わせて国立大学を減らそう、という話題。

88校を27校に整理するという。基本的には地理的要因を重視したもの。

すると、lastline さんからこの人の日本地図が心配というコメントが寄せられた。さらに。

先ず絶対に賛同できないのは、「一県一国立大学」を廃止するという主張。国立大学の統廃合はいいことだと思う において本案を「88校を27校に整理するという。基本的には地理的要因を重視したもの。」と評しておられますが、お二人共に言えることですが、この方々の日本地図は一体どのようになっておられるのか。重箱の隅になりますが。国立大学の統廃合私案 の関東甲信越において、人口が多いから横国と千葉大を残すと。千葉大がどこにあるのか知っておられるのでしょうか。また、これらの立地では関東の北である、群馬、栃木、茨城に住む人々が大学に通うのが一苦労です。

まず、私の意図を少し補足したい。

大学の統廃合については、いくつかの考え方がありうる。ひとつは、地理的要因を重視して、キャンパスの近い大学を整理する、という考え方。いまひとつは、例えば全国の教育大学をひとつの大学にする……など、全国にキャンパスを持つ専門大学を誕生させよう、という考え方。他には、学生のレベルで統合する、といった考え方もある。

このように統廃合の基本的な発想が複数ある中で、Chikirin さんは地理的要因のみを前面に出していた。ふうん、と思ったので、メモ的に「地理的要因を重視」と評したわけです。他にどんな書き様があったというのだろう。

一方 lastline さんは、「地理的要因を重視」という言葉にもう少しいろいろな思いを込めていらっしゃる様子。具体的には、「各地の学生が実家から通える」といった条件まで満たさなければ「地理的要因を重視」しているとはいえない、とお考えのよう。まあ、これは言葉の定義の問題です。

次に、lastline さんのご意見への疑問を少々。

私は千葉県出身なので千葉大学について書くけれども、実際に千葉県内ですんなり千葉大学に通えるのは、県の面積の3割くらいの地域に暮らす学生だけでしょう。私の知人でも、銚子(千葉県の東端)や鴨川(ほぼ南端)に実家のある学生は下宿していました。

つまり「一県一国立大学」なら全国の進学希望者が自宅から大学に通えるというわけではない。交通網が整備され、それほど広くもない千葉県でさえ、県内全域からの通学はきわめて困難なのです。

しかも、全ての県に主要学部が揃っているわけではないし、揃えるのが正しいとも考えられない。また学部はだいたい用意できても、研究分野のラインナップは指導教官の人数の制約を確実に受ける。学力水準の適・不適とか、如実な就職実績の差といった問題もある。仮に全員が実家から通える大学がひとつだけあったところで、さしたる意味を持たないと私は思う。

私は統廃合後も「現存する各キャンパスは残そう」という意見だけれども、各県に全学部を置くことには賛成していない。日本大学のように、各キャンパスの特色を強めるべきだと考えています。

そもそもですね、教育に関するお金を減らすという考えが浅はか過ぎます。教育とは未来の投資。教育費を減らすということは、未来の資産を捨てるということ。少子化だからこそ、教育にお金をかけないでどうするんですか。

学校教育への投資に本当に意味があるなら、ね。格差問題の専門家である橘木俊詔さんも「日本の経済格差」の中で紹介されているのですが、世間の認識とは逆に、データを分析する限り戦後の日本では学歴と所得の関連は年を経るごとに小さくなっているのです。

簡単に説明すると。学校教育は人間の生産性を向上させないので、学歴はその人がもともと持っている能力の高さを示す機能しか持っていない。だから単純にいえば、大学進学率が10%の頃は、大卒の平均給与は社会の高給取り上位10%の平均給与でした。そして進学率が上昇するにつれ、繰り返しますが学校教育は生産性を高めないので、大卒の平均給与は一方的に下方向に広がっていく。

以前も書いたけど、私の職場(機器メーカーの研究開発部門)には高卒の人もたくさんいて、みな私より賢い。大学なんてたった4年間のことでしかなく、10年、20年とコツコツ勉強してきた人に、ふつうの学卒が学識で敵うわけがない。

それでも、ここ20年ほど、研究開発部門が高卒を採用したことはない。いま高卒で就職を目指す若者に学力面の高い能力は期待できないからです。一流大学卒と同等の勉学力がある場合、周囲が懸命に説得して大学へ進学させてしまうに違いない。例外は例外であって、わざわざその例外を探すために何百人もの面接を行う余裕はないのです。

つまり、かつての高卒就職組学力トップ層は、現在の二流大学卒より有能だった、と。かつての大卒の栄光は、決して学校教育の成功を意味せず、単純に当時の狭い進学枠に入れる人間の優秀さの現れに過ぎなかった。大卒を増やすことが社会の生産性を高めるというのは、錯覚に過ぎない。

現状、個人の生存戦略としては、自分が優秀ならば、その優秀さを一瞬で相手に伝えるために、高い学歴の獲得が正しい。が、社会全体としては、役に立たない大学教育にお金と若者の貴重な時間を浪費するのは愚かなことです。

「微分・積分が自分の仕事で何の役に立つんだ?」という疑問はもっともで、長らく勉強嫌いの言い訳として聞き流されてきたのだけれども、じつは正しい意見だったのだと思う。たかがシグナリングのために若者を何年も学校に閉じ込めておくことの社会的損失は計り知れない。

いま私がやっている仕事は、多分、私が中卒で入社して2〜3年くらい、必要最小限のことだけ学べば、おおよそ大卒入社時と遜色ない水準で仕事ができるようになったろう。私は机の上に工学の教科書をたくさん並べているけれども、その深い理解が必要となったことはほとんどない。だいたいは知りたいことを辞書を引くように調べれば済んでしまう。

だから、もし日本の能力シグナリングの仕組みが、学歴ではなく中3時点の全国統一学力試験の成績順によるものだったとすれば、私は4〜7年くらい早く働き始めることができ、その分、生涯収入も増えたはずです。

私の勤務先では、数十年前までは「中卒で採用→社内設置の専門学校で教育→高卒・大卒より早く一線級の人材として活躍させる」というルートを用意していました。「大勢が中卒で就職=中卒就職組の中に優秀な人材が豊富」という前提が崩れて以降、非効率になって廃止されましたが、この社内学校は後の経営幹部を何人も輩出しています。

戦前「日本は人口密度が高すぎるので海外に土地を獲得しなければ日本人は飢えて滅びてしまう」という錯誤が蔓延し、悲惨な戦争に至ったことはよく知られています。当時の人口は現在の7割未満だったのです。

戦後の日本の社会もまた、さまざまな錯誤にまみれています。教育幻想は、その中でも大きなもののひとつだと思う。

たまたまここ20年ほどの日本は、欧米のような4%台の経済成長(名目値)が何年も続く状況から遠ざかっており、肥大化した学校(大学や専門学校など)が働き口のない若者を吸収してきました。が、それは経済失政への適応に過ぎないのであって、学校教育の本質的な擁護にはなりません。

進学率が劇的に下がれば、奨学金を運営する基金にも十分な余裕ができます。一人あたりの支援をがっちり手厚くもできるでしょう。