よくわからない。現状でも、年間20日程度、学校を休んだところで何のペナルティーもない。ちゃんと卒業証書をくれる。「有給休暇」みたいなものは、既に「ある」んじゃないの。
うーん、そういうことじゃなくて、例えば、家族旅行のために学校を休んだりする際に、「後ろめたさ」を感じなくていいような学校文化を作ることが必要だ、ということかな。
現状、学習指導要領には出席指導についての記述が全くない(私の見落とし?)。強いていえば、指導計画の策定に関して「欠席を考慮せよ」といった記述が「ない」ことに、逆に意味を見出せなくもないかな、という感じ。
全員皆勤について、はてな方面では大勢が嫌悪感を示している。
私が通った小学校では、私立ということもあったのだろうけれども、病気で学校を休む場合は(特別な事情を認められていない場合)必ず連絡帳に医者のハンコをもらうこと、という決まりがあった。つまらない規則だけれども、こんなことでも児童の欠席は大いに減るのだ、という話を卒業後に聞いた。
案外、医者は「登校してもいいんじゃないですか」という。私は腹痛で何度も午前を休んだが、(私は顔面蒼白になってもう歩けないので、毎度毎度、母が苦労した)けれど、数時間で調子がよくなって、午後から学校へ行くことが度々あった。医者の太鼓判はなかなか大したもので、症状の再発は一度もなかった。
学校に行った方がいいか、行かない方がいいかといったら、ふつうは行った方がいい。だから、学校へ行こう、というモチベーションは高く保った方がよい。**なら行かなくていい、みたいなことばかりいっていると、行けばいいのに行かない、行くための準備・努力をしない、といった状況に陥りやすい。
全員皆勤は異常なので、異常な締め付けを想像する人がたくさんいるのは理解できる。しかし件の記事は高校を舞台としているので、「病欠するなら医者にかかること」程度のルールでも意外と高確率で全員皆勤(ただし半休はノーカウント)を実現しうるのではないだろうか。
少なからぬ人にとって、仕事なんてのは生きていくために仕方なくやることなんだから、できるだけ休んだ方がいい。だから仲間同士で協力し合って、お互い適当に休んでも仕事が回るように組織を作っていく。常に緩やかに人が余っていて、誰が休んでも代わりに他の人が仕事をこなせる状態を目指す。
学校は個々人の成長を目的とする場で、学級単位でテストの合計点を高めることを目的とする場ではない。どこまでも個人の成長を追求し続けるのが学校であり、様々な学級活動も個人の成長に資するからこそ用意されているのだ。いじめっ子の類ですら登校停止処分を軽々に下せないのは、ここに理由がある。
学校なんて時間の無駄、自学自習の方が成長に有利、という人もいる。しかし基本的には、学校は教育に資する。
日本の経済学者は自説を実践しようとせず、他人のやることを批判するだけだから「偉そう」といわれるんだ、という意見が一部で話題になっている。
岩田規久男さんや浜田宏一さんが2000〜2001年に「日本銀行の政策審議委員にならないか」という打診を蹴ったことを知ったとき、私は怒った。今でも、職業選択の自由は誰にでもあるとはいえ、個人的には「許し難い」と思っている。岩田さんの著書には大いに蒙を啓かれた。だからこそ、悲しいのだ。
岩田さんと浜田さんが審議委員になっていたら、10万人くらい自殺せずにすんだんじゃないか。もちろん、実際に審議委員になって、日本の不景気を放置してきた人がいちばん悪いよ。それはそうだ。岩田さんや浜田さんに直接の責任はない。でも、間接的には多少の責任があると思う。次は絶対に引き受けてほしい。
日銀と大蔵省の出身者以外で、日銀の審議委員に「なりたくてなった」という人を知らない。退任後のエッセーなどを読むと、みな一様に打診されて驚き、恐縮して尻込みして、「そこを何とか」と説得されて就任されたようだ。
公職につきたがるのはロクな人物ではない、という社会通念は疑問だ。政治家や官僚が故なく蔑まれたり、審議会の招きに応じた有識者が、その主張に関わらず「御用学者」呼ばわりされたり。雑誌で日銀を批判している学者さんたちが、ストレートに「俺に任せろ」と意思表明できるような、そういった社会を私は望む。
わかりにくいんだよ。一見して明らかなど素人が「ああしろ」「こうしろ」という言葉の一つや二つが「なるほど」と思えたところで、「じゃあこの人に任せよう」とは誰も思うまい。本人も放言のつもりだろうと考える。でも**大学教授とか**証券主席研究員みたいな人の発言ならどうか。
日銀の政策審議委員は、日本の金融政策を決める最高意思決定機関なのに、自称「素人」が何人も混じっている。批判している側の方が、肩書きも過去の発言暦もはるかにそれっぽい。素朴に「おかしい」と思う。
実行力のある立場になると、足を引っ張る人が多すぎて、精神的にキツいんだろうな。能力より人格、あえて火中の栗を拾う胆力が最大の条件になってしまっているんだろう。
弾さんの記事とは裏腹に、何だかんだいって、審議会とか有識者会議の類なら、経済学者も経済評論家も、よく顔を出している。個人の人生のコースを外れず、最終的な責任は負わないレベルまでなら、社会に貢献するため努力されている。それ以上を求めるのは酷だ、とは思う。思うけれども、腹立ちは収まらない。
まあね、自分が勉強して社会に一目置かれるような学者になって社会を救うぞ、という気概のないヤツが何をいっちゃってるわけ? といえば、その通り。岩田さんを批判するなら、自分が岩田さんの代わりになればいいのに、っていう。こういう「口先だけ」な自分の延長上に、今の不景気があるんだろうな。
この意見には首を傾げる。
常用漢字表について、「漢字表記をした場合に表外漢字を含む言葉の使用を自制するべき」という理念はたびたび唱えられるが、実際には「まぜ書き」が多用されてきた。素人目には言い換え可能な表現に見えることも多いのだが、それぞれにこだわりがあるのだと思う。
政府は、「飛翔体」と表記した。漢字辞典の使い方は小学校3・4年で学ぶ。総画索引で「翔」を調べて「しょう」の読みを知り、国語辞典で「ひしょう」をひけば、だいたい言葉のイメージはつかめる。キーワードだからこそ、歴史的経緯を踏まえつつ意図をより正確に伝える言葉を選んだのだろう。
地の文で不用意に表外字を多用し、国民を煙に巻こうというのではない。これくらい目くじらを立てる必要はないと私は思う。
- 前書き
- この表は,法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである。
- この表は,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
- この表は,固有名詞を対象とするものではない。
- この表は,過去の著作や文書における漢字使用を否定するものではない。
- この表の運用に当たつては,個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。
所詮は目安である。なるほど、公用文作成の要領に従うなら「飛翔体」は常用漢字で書き表せる簡単な言葉で言い換えた方がよいが、これも努力目標に過ぎない。
以前にも一度紹介したが、国語審議会の議事録には常用漢字表策定の本音が出ている。常用漢字が2000字程度に限られる究極の理由は、義務教育で扱える漢字数にある。実際の定着度を見れば1500字以下が真の上限だろう。相当数の国民が読めない字があふれる国、それが識字率99%超を誇る日本の現実だ。
やる気がないなら、常用漢字表などやめてしまえ!
そういう問題ではない。
常用漢字表がなくなったところで、何も解決しない。小学校で学ぶ1006字の教育漢字すら、定着率は悲惨だ。日常生活に必要な字ばかりなのに。現状を見る限り、一定の調査に基づき政府が目安として示した漢字を優先的に学ぶ仕組みは必要だ。常用漢字表が消えれば、新教育漢字表が代わりに登場するだけだ。
新聞が交ぜ書きをするのは、より多くの読者を獲得するために必要なことだからだ。政府が自制するのは、「学校で教わってない漢字は読めない」という国民の苦情に一定の理があるからだろう。売れなきゃ食えない新聞の方が作業は徹底している。こうした構造は今後も変わらない。
小形さんは、勝手にルールを厳格に解釈し、それでは窮屈だからルールをなくせ、と主張する。一人相撲ではないか。当の政府が「飛翔体」を堂々と使ってくれているのだから、「なーんだ、そうか、公文書でさえ、とくに説明なく表外字を使えるんだね」と安心していいはずだ。怒る理由がわからない。
義務教育で扱える内容は限られている。だから目安をもとに教育内容を決める必要がある。この目的のため、常用漢字表の規模は制限され、表外字との併用は前提となっている。当用漢字表をルーツとする常用漢字表だが、もはや「やる気」云々で廃止すべきものではない。
目安の必要性は認めたうえで「伝統を断絶した当用漢字表の前まで戻って考え直すべき」という主張なら理解できる。が、当用漢字表の告示から63年経ってしまった。一人が生まれてから死ぬまでの時間が過ぎている。国語政策の連続性を破壊するデメリットは小さくない。現実の政策としては採用できないだろう。
いやいや、国の政策はそうでも、個人の選択は自由じゃないか。それはその通り。趣味のブログに何の制約が? 結局、私は放り投げたんだね。正しい字を勉強して使っても、むしろ敬遠されて読まれない。こちらの主張がどうこうという以前に、まず表記のところでコミュニケーションに躓いてしまう。仮名遣いもそう。
私が文章を読ませたい相手の大半は、現代の日本語表記法に慣れ親しんでいる人。だから後ろめたさを感じつつも、いい加減な表記法と、ヘンな字を使い続けることにした。……んー、全部、不勉強の言い訳かな。単に楽な道を歩こう、という。私は「読める」で満足して「書ける」に至らなかった。
自分の常識をみんなの常識にしたい人は世の中に多い。現在の学習指導要領の内容さえ全く不徹底なのに、これ以上、あれこれ教えるなんてできるものか。「できる」というなら、ボランティアで土日にでも近所の子どもたちを教えてみたらいい。1ヶ月で絶望するよ。
中学校の国語教師なんて、プロの教師のくせに最低で、授業時間中に漢字を扱わない。だったらせめて黙っていればいいものを、漢字テストの結果だけ見てブツブツ文句をいいだす。教育成果に何の責任も感じていないのか。そりゃ全員100点満点は無理だよ。だけど、全部宿題任せにするのは学習指導要領違反じゃないか。
テレビ朝日の刑事ドラマ「相棒」は面白いと思う。ふだんの放送内容は、主人公らの特異なキャラクターを除けば、他のドラマと大差ない感じがするけれども(それはそれで楽しく視聴している)、ときどき放送される特番のストーリーにはとくに興味をひかれることが多い。
特番ではだいたい何らかの主義主張を持った犯人が登場し、その理想を実現するためにやむなく殺人を犯す、といった展開になる。で、主人公は犯人の動機に理解を示すのだけれども、違法行為という手段を否定する。さりとて代替案を示すわけではないのだけれども、「許せない」という立場を明確にする。私は安心する。
ところが、主人公の言葉とは裏腹に、脚本と演出は犯人に共感しているように見えるんだよね。エピローグで犯人に救いを与えたりなんかして。
会社の先輩だった方(プロの俳優になるため退職された)が出演したのがきっかけで視聴するようになりました。その先輩は数年前に所属事務所の俳優一覧から消えてしまい、行方知れず。無事だといいけど……。
一読ずっこけた記事。
当然ながら、満員電車問題については経済学者が過去に何度も研究を行っている。
簡単に結論を書けば、「鉄道の運賃が規制によって抑制されているので、需要過剰、供給過少に陥っている」のだ。例えば通学定期券や通勤定期券。いちばん混雑する時間帯に鉄道を利用する人に割引サービスを行うのだから、これほど馬鹿げた話はない。
運賃が高く鉄道が儲かる事業だったなら、複々線化も地下鉄化もこれほど時間のかかる話ではなかった。埼京線のようなドル箱路線については、私鉄の新規参入によるバイパスルートの開発だってありえたろう。地価が10倍になったのに運賃は3倍というのでは複々線化も新規参入も難しいのは道理だ。
より根本的には、日本では職住隣接が進んでいない、という問題がある。日本の大都市の中心部には2〜3階建ての一戸建て住宅や小さなアパートがひしめいている。土地需要の高まりに合わせて相続税の控除枠が拡大されるなど、「いくら金を積まれても引っ越す気はない」という人々の気持ちを重視し、土地の有効利用を軽視する社会なのだ。
一方、対面コミュニケーションが重要な第3次産業が日本経済に占める割合はますます高まっており、オフィスが都会の中心部に集まるのは必然だ。インターネット関連企業さえ東京に集まるのは、経済的なメリットがあるからに他ならない。
しかし都会の土地の大部分は土地を手放す気のない住人と地主が非効率な利用形態で塩漬けにしている。流動性のある僅かな土地は、過少供給ゆえに価格がつりあがり、生産性の高いオフィスや金持ち向けの高級マンションしか新規に入り込めない。そして交通費が安いので、雇用者は交通費を負担しても被雇用者を郊外に住まわせるのが合理的である。
欧米で通勤ラッシュが日本ほどひどくないとすれば、それはまず都会の中心部に多くの人が暮らしているからであり、さらに混雑する時間帯の運賃を高くするといった合理的な制度が導入されているためである。
この考え方は、応用範囲が広い。都市のゴミ問題、上下水道整備、いずれも「価格が規制されている」ことが問題の「解決」を不可能にしている。道路だってそうだ。渋滞している高速道路こそ、料金を上げなければならない。無論、価格が規制される理由はある。それは結局、人間の身勝手さ、不合理な思いに行き着く。
勝手に上がった地価のせいで相続税が払えなくなり、自分が産まれてからずっと暮らしてきた土地を離れなければならない。その悔しさ、理不尽だと思う気持ちは、私も共感できる。通勤定期券、通学定期券がなくなるなんて許せない、その気持ちもわかる。
ただ、それらのために私たちが支払い続けるコストについても、きちんと承知してほしい。
なぜ、何十年もの間、日本で満員電車の異常な混雑が続いたのか。なぜ、おかしいと声を上げる人がこれほどまでに少なかったのか※2。政治家も、労働組合も、普通の人々も、マスメディアに慣らされて、人気のある情報に気を取られている。身近な問題には関心が向かない。けれども、身近な問題に対して、きちんと声を上げなければ満員電車のような信じられないことが何十年も改善されずに続くのである。
精神論にはうんざりだ。生活に密着した話題だからこそ庶民のエゴと無理解が問題の解決を阻んでいるのだ。ちなみに通勤地獄は徐々に緩和されている(参考:三大都市圏の最混雑区間における平均混雑率・輸送力・輸送人員の推移/国土交通省)。
余談だが、1973年にはストによるダイヤの遅れと大混雑にブチ切れた乗客が暴徒と化し、国鉄の車両と駅を次々と破壊・放火している。物を壊し人を傷付けても何の解決にもなるまいに。庶民様は悪行の記憶をすぐに忘れる。大阪人や韓国人を嗤う関東人は暢気すぎる。無関係のタクシーにまで石を投げ、売店の金品を強奪し、駅員を拉致・虐待したのは誰か。凶暴な血は自らの内にも流れているのだ。
多くの鉄道事業者は「公共」輸送を担当しているので、独占的な事業者として外部の声に耳を貸さず役所と同じようになりがちです。
そもそもどうして鉄道が事実上の独占事業者となってしまうのか、それを考えてみれば視野が開けるものを。ようは新規参入したら儲からない運賃設定になっているのだ。ネックは土地代だ。よって現在の運賃では複々線化も(ほんの少しずつしか)できない。
JRは少なからぬ普通列車にグリーン車を導入している。混雑が嫌ならグリーン料金を払えばいい、というわけだ。グリーン車の利用者が少なく、せいぜい15両中2両という状況がちっとも変わらない様子を見ると、混雑緩和に金を払う利用者なんて少数派なんだろう、という感じもする。
鉄道の運賃を自由化しても、状況は全く変わらない可能性はある。京成のモーニングライナーやイブニングライナー、西武の特急など、かなりの人数が納得して追加料金を払っている事例もあるわけだが……。まあ、現状でも鉄道の運賃は届出制という緩やかな規制に過ぎず、市場はきちんと機能しているのかもしれないな。
東京は面積の割に人口の少ない大都市である。この項、書きたいことを忘れたので放棄。
日本漢字能力検定という、文部科学省が後援している公的資格がある。このところ受験者が増えたため、儲けが出るようになったとかで、問題視されている。検定を実施している団体が公益法人なので、「利益が出たら値下げで還元すべき」なのだそうな。
個人的には、儲かるならそれは結構なことで、運営団体を株式会社にしたらいいと思う。ドンドン儲けて法人税をたくさん納めてもらったらいい。漢検が始まったのは1975年で、文部科学省が認定したのは1992年だ。その後、行政改革の中で文部科学省は資格認定制度を廃止し、後援という立場に退いた。
英検よりTOEICの方が通りがいいように、公的資格が民間資格より尊重される、という時代でもない。漢検ほどの知名度と社会的信用があれば、文部科学省の後援がなくとも事業を継続できそうだ。日本漢字能力検定協会は文部科学省と縁を切って、株式会社に改組したらいいと思う。
逆に文部科学省の方も、どうして、公益法人による運営とか、公的資格としての漢検に固執するのか。私にはよくわからない。
ちなみにTOEICは経済産業省の認可した公益法人が運営している。TOEICほどの規模の試験ですら儲からないのだろうか。不思議だ。
漢検を巡る報道の影響で、今年の漢検は大赤字が見込まれるのだという。まず受験料が下がる。そして受験者が2〜5割減ると予想されるのだという。バカバカしい話だ。公益法人による運営に固執しなければ、受験料を下げる必要もないし、道義的問題もないのに。
大学教育について私が何度も書いてきたことと構図は同じで、何ら具体的な利得のないお題目を崇め奉って、やればいいことをせず、やらなくていいことをする。不合理だ。
故意に負けてはいけない、というスポーツ倫理が、どうしてあるのだろう。人間だもの、負けたい時だって、あるはずだ。負ける自由がないのがスポーツなら、スポーツって不自由なものなんだな。
まあ、それがいけないというわけじゃない。何の意味があるのかよくわからない理想を追いかけるのもまた「人間らしい」感じがする。ただ、自分はあんまり、スポーツには関わりたくないな。
新社会人にいいたいこと? とくにないな。
強いていうならば。学校も会社も変わらない。どこだって社会の一部。これまでがダメなら、この先もダメだ。ダメの程度がほんの少し動くだけだと思って概ね間違いない。
ある朝、目が覚めたら自分が大きく成長していた……なんて、ありえない。自分のサボり癖も陰険さも責任転嫁体質も、ずーっと変わらない。さして頑張ってもいないのに、やたら苦労して疲れたような気になる調子のよさ、自己肯定の抗い難い欲求は、いよいよ歯止めがきかなくなっていくから、むしろ注意すべきだ。
自分は「自分が予想していた最悪な自分より、ほんの少しだけマシな状態」で、ふらふらしながら時を過ごしていく。自分を騙し、世間を欺き、呼吸するように嘘をつく。これまで、そうだったでしょ? これからも、同じです。
ま、せいぜい頑張ってください。
何か一言、といわれて、ギューンと頭の中を駆け巡ったのが上の言葉だけれども、「とくにないな……ま、せいぜい頑張ってください」とだけ話した。「え? それだけ?」「偉そうなことをいっても、ウソになるから」大うそつきが今さら何を、と自分で自分の言葉に驚いたが、誰もツッコミを入れてはくれなかった。
人生には恥ばかりが増えていく。
新入社員って年によってかなり態度が違うのだけれど、多分、空気で動いているからなんだろうな。新入社員の中で影響力の強い人の性格に引きずられる、みたいな。配属されてバラバラになった新人は、集団の持っていた個性が落ちて、これといった特徴がなくなってしまう。
私が連想するのは、スキー板のお化けみたいなものを使うムカデ競争。テレビのバラエティ番組でときどき見かけるこの競技では、どういうわけか先頭の人の技能・性格が大きな意味を持つ。メンバーが同じでも、並び順を変えて先頭を交代するだけで、前進速度が1割くらい変化する。
新入社員のような、右も左もわからない集団は、拠り所となるものを求めている。ムカデ競争の2番手以降が、視界を奪われて前の人に盲従する他ないのと同じだ。足は板で結ばれているのだから、板を動かす速さは誰が決めてもいいはずだが、実際には前方視界が開けている先頭の一人だけがペースを作れる。研修中の新人の場合は、空気を作る能力を持つ者が、先頭の一人にあたる。
今年の新入社員はあまり挨拶をしない。背後から挨拶されても無視するし(ひょっとしたら自分が挨拶されているのかも、だったら返事しなきゃまずいよな、という感覚がない)、スーッと視線を外す内向的な先輩社員や、尊大に構えて返事をしない先輩社員に対して、一方的に挨拶することもない。
先輩社員がみな挨拶に積極的なら話が違うのだろうが、これがバラバラ。傾向としては、挨拶は必要最小限にしよう、という感じの人が多い。だから、「新人は新人らしく」と考えて「研修中くらいは元気よく挨拶していこう」という年と、「先輩の真似をしよう」という年に分かれる。
ふだんは会釈ですませている先輩社員たちも、新人には興味を持って「おはよう」と挨拶してみることがある。期待しているのは、元気な返事。1年分の元気をもらうんだ、と楽しみにしてる人もいるくらい。が、今年の新人は、目線が外れている場合、挨拶を無視してしまう。先輩社員は衝撃を受け、「外れ年」と囁きあう。
自分に対する挨拶じゃないのに返事をしてしまうのは、本人は恥ずかしいかもしれないが、それで怒る人はまずいない。挨拶を無視して相手を怒らせるリスクを重大視すべきである。……が、ロッカールームなどで自分が会釈以上の挨拶をされることが年に1回もないくらいなら、リスクはきわめて小さい。そうなると「恥ずかしさ回避」の優先順位が上になる。
何かと気にされ、声を掛けられることの多い新人と、お互いに見飽きた古株とでは前提条件が違うのであって、背後から挨拶されたときの対応を、先輩社員から学んではいけない。
私も挨拶無視にグワーンとやられて、こういう話をしようかな、と思った。でも、30秒程度の会話で、ニュアンスをうまく伝える自信がない。「無視すんなコノヤロー」と解釈されるのは堪らない。いや、そういう気持ちは強烈に持っているのだが、それは伝えたいことではない。結局、黙っていた。
彼らには1〜2年くらい、「外れ年の人」という先入観がついて回ることになる。まあ、配属先では個人の言動が注目されるので、単純に各個人がそれで不幸になることはないだろう。「意外と……礼儀正しい!?」なんてね、かえって評価されるかも。
それでも、最初にネガティブな印象を持たれるのは、つまらないことだと思う。