4月4〜8日の11:00〜16:00(日本時間)のいずれかの時刻に北朝鮮が人工衛星を打ち上げるのだそうで、連日、ニュースになっている。ロケットは3段式で、既に立派な発射台に設置されており、衛星写真にその姿が捉えられている。
以前から弾道ミサイル発射実験の噂はあり、2月頃から緊迫した空気があった。北朝鮮が国際海事機関(IMO)へ試験通信衛星打ち上げの事前通告を行ったのは3月12日夜のこと。3段ロケットの1段目は日本海、2段目は太平洋に落ちる計画とわかった。
首相官邸は即座に情報連絡室を設置。27日には官邸連絡室に格上げしている。
外務省も3月12日に外務省連絡室を立ち上げた。2月以降の北朝鮮のミサイル問題に関する外務省幹部の記者会見や、各国首脳・外相との会談の内容は、以下にまとめられている。
国土交通省は危機管理対策室を立ち上げ、3月12日23時35分、航行船舶に対する航行警報を発出した(発出先は第一、第二、第九管区)。翌13日、ノータムを発出。
水産庁は3月13日8時に水産庁漁業安全情報を全国に発出、12時20分に緊急事態対策本部を設置、14時には漁業関係団体を集めて情報連絡会議を開催している。
3月27日、首相官邸で安全保障会議が開催された。結果は同日午前に官房長官が発表している。
政府が広く一般国民に周知したい内容は、政府の対応と補足のコメントをまとめたPDF資料の内容だと思う。以下、転載。
- 北朝鮮飛翔体発射事案に関する対応
政府としては、今回の北朝鮮の飛翔体発射事案に関して、北朝鮮に対し打上げの中止を強く求めているところであるが、そのような努力にもかかわらず、北朝鮮が発射を強行した場合には、国民生活の安全・安心を期するとの観点から、以下のとおり対応するものとする。
なお、政府としては、想定される飛翔体の飛翔態様等を考慮すると、我が国領域内に落下するケースは、通常は起こらないと考えており、国民各位におかれては、平常通りの生活を送って頂きたい。
- 1 飛翔体落下への対処について
- @ 防衛大臣は自衛隊法第82条の2第3項の規定に基づき、あらかじめ、自衛隊の部隊に対し、飛翔体が我が国に飛来することが確認される場合にそれを破壊する措置を命ずるものとする。(※)
- A 防衛大臣は、破壊の措置が実施された場合には、その結果について直ちに公表する。
- (※)防衛大臣が命ずる措置の具体的内容については、本日(3/27)中に公表する予定。
- 2 飛翔体に関する情報提供について
- @ 政府は、北朝鮮が飛翔体を発射した場合には、国民各位への周知を図ることを目的として、直ちに地方公共団体及び報道機関に対し、発射したとの事実の情報提供を行うものとする。
- A 政府は、@の国民各位への周知を迅速かつ円滑に行うことを目的として、地方公共団体及び報道機関に対する情報提供の要領を確認する。
- 3 飛翔体が我が国の領域に落下した場合の対応について
- @ 政府は、北朝鮮が発射した飛翔体が我が国の領域に落下したと推測される場合には、直ちに地方公共団体及び報道機関に対して必要な情報提供を行うものとする。
- A @の情報提供の後、速やかに現地の確認を行うとともに、立入り禁止区域の設定など所要の活動等を行うものとする。
- 内閣官房長官コメント(北朝鮮の飛翔体事案への対応について)
北朝鮮の飛翔体の発射については、政府としてはその中止を強く求めているところですが、北朝鮮が飛翔体を打ち上げた場合の我が国への影響について、政府は以下のように評価しております。
まず、飛翔体が不具合なく打ち上げられた場合は、第1段目が日本海上に設定された危険区域に、また、第2段目が太平洋上に設定された危険区域に落下すると考えています。
次に、飛翔体の打ち上げが失敗する場合についてですが、第1段目の切り離し以前に不具合が発生するようなケースでは飛翔体は我が国まで届かず、我が国領域への影響は生じません。また、第2段目のロケットが燃焼開始すれば、通常、飛翔体は、我が国領空の上を越えて飛翔することとなります。ただし、通常は考えにくいものの、第2段目の燃焼開始後間もなく、突如燃焼が中断するようなケースでは、飛翔体の一部が我が国領域内に落下することも全く考えられないわけではありません。
従って、政府が第一に備えるべきは飛翔体が不具合なく打ち上げられる場合についてであると考えており、船舶・航空機の運航者におかれては、発出済みの航空情報(ノータム)及び航行警報に従い、4月4日から8日までの11時から16時までの間、設定された危険区域内に立ち入ることは控え、注意して航行して下さい。
飛翔体が我が国領域内に落下するケースは、通常は起こらないわけですが、政府としては万万が一に備え、弾道ミサイル防衛能力を有する自衛隊の部隊を展開させ、警戒態勢をとらせることとします。さらに念のため、自衛隊・警察・消防・海上保安庁を所管する閣僚に対しても所要の待機態勢をとるよう指示したところです。
各交通機関を含め、国民の皆様におかれては、北朝鮮が飛翔体の打上げに関し事前通報している時間帯においても、平常通りの生活・業務を続けて下さい。
今後とも政府は、各地方自治体に対し、可能な限り情報提供してまいります。また、北朝鮮から飛翔体が発射された場合、速やかに必要な情報をお伝えいたしますので、テレビ・ラジオ等の情報に注意して下さい。
なお、本日、政府は、防衛大臣が自衛隊法第82条の2の第3項にいう緊急対処要領に従った命令を予め発するとの方針を確認いたしました。これは、飛翔体が我が国に向けて飛来するおそれがあるとは言えないものの、万が一、飛翔中に事故が発生した場合等に備える必要があるとの考えによるものであります。
防衛大臣が命ずる措置の具体的内容
は、予定通り27日中に公表された。防衛省は31日、状況認識をまとめた資料「北朝鮮のミサイル関連動向について」を公表。
突発的な事態に政府が機能するまでには、半日くらいかかるようだ。1998年8月31日のミサイル発射実験(日本付近の海域に落下)では事前通告がなく、ミサイルが海に落ちるまでの間にできたことはほとんど何もなかった。今回は、そのときとはいささか様相が異なっている。
まず、船舶や航空機がミサイルの破片などとぶつかる危険は低い。そして時間的余裕と自衛隊法改正が効いて、万一の備え(=北朝鮮のミサイルが予定のコースを外れ、日本の領土・領海に落下することが確認された場合に限って、安全確保のため空中で破壊する措置の準備)も可能となった。
ところで、北朝鮮の人工衛星打ち上げは、多くの国が中止を求めている。その理由は、国際連合の安全保障理事会の決議1695号と1718号に示されている。
ようするに、「危険な行動を繰り返している国がミサイル技術を持つことを認めない」という内容だ。おいおい、ミサイル兵器を好き勝手に大量使用しているアメリカこそヤバい国だろう、ふざけるな、という北朝鮮の心情は理解できる。決定的な対立が生じたら、アメリカのミサイルは日本にも降り注ぐに違いない。
いま日本とアメリカは北朝鮮を脅威と認識しているため、ミサイルへの転用が容易なロケットを発射することも国連決議に反する、と主張する。しかし決議には missile という言葉しかないわけで、判断が割れるのはわかる。北朝鮮のミサイルを重大な脅威と感じていない(らしい)中国とロシアの態度は煮え切らない。
個人的には、とくに1718号の文言は、衛星打ち上げ用ロケットの開発も禁じている、と読むのが自然だと思う。まあ、決議の解釈がどうあれ、北朝鮮を信頼できない日本人としては、打ち上げ中止を望む。それが無理なら、予定通り無事に実験が終了することを期待したい。
私は粛々と仕事をこなす政府を信頼して、ふだん通りの生活を送るつもりだ。
政府の対応への賛成・反対は別にして、私のこの記事を読んだ方は、政府の発表も1回くらいは目を通して、それから判断してほしいと思う。政府の言葉を信じない、という前提を立ててもいい。それでも、内実はどうあれ「実際に発信している情報の内容」は無視できない。
日本政府は好戦的な政策
を採用し、北朝鮮に宣戦布告
したのだろうか。強硬な姿勢を示してカタルシスを演出
しているだろうか。Yes という答えもありうる。だがその場合、実際の言葉との差異を埋める作業が必要になるはずだ。
こっちも同じ。「発射されたら迎撃」というイメージが広まっている。しかも2ちゃんねらーは楽しそうだ。サッカーの試合じゃないんだけど。
そして例によって一番ひどいのがYahoo!ニュースのコメント欄。国民の意識がこうだから、自由主義経済の働きによりマスコミの報道が「迎撃」に焦点を当てた内容になってしまうのだ。
有村悠さんというと、はてなブックマークで乱暴な言葉遣いをしていた人、という印象を持っている。
よくわからないけれども、多分、私と同様によくわかってない人に意見を求めているのだろうと思うので、書く。
とりあえず部屋を出る必要があると仮定して話を進めますと、まず友人を部屋まで呼んでみてはどうだろう。そうして一緒に部屋を出ることにすれば、何かと心強いのではないか。友人がいなくても、有村さんくらい、一部の方面であれ名の通った方なら、ボランティアを募ったら誰か応募してくれるかもしれない。もし誰も応募しないようならご連絡ください。
で、1回、部屋を出るだけでは満足できないならば、友人にルームシェアをお願いしてみてはどうだろう。友人がいなくても(以下同じ)。ただ、ルームシェアは私には荷が重い。最初から逃げを打つなら、何も書かない方がいいのかもしれないけれど……。それでも、のっけから「ない」話ではないので。困ったときはお互い様だと思います。
こういう「反社会的」な手段を推奨する意見には与しない。放火するほうがずっと簡単で現実的だろうし、緊急事態に対応するための行政組織の方が信頼できるのはわかるけど、それでも、放火は思い止まって、見ず知らずの人(私を含む)を頼ってほしい。
ん? と思ったけど、自分なりに納得できた話。
シンプルに読むと、shi3zさんの記事は、森さんの記事に対する意見としてはズレていると思う。森さんはライセンス違反を問題にしていて、アートワークだけを改変したアプリが販売されることを問題視しているわけではないのに、shi3zさんは「ライセンスの設定は慎重に」という話をされているのだから。
でも、はてなブックマークの反応などを見ると、森さんの記事は、ソースコードをそのままコンパイルして、名前とアートワークとクレジットだけを変えて、ほか機能いじらずに売られてしまっているようです。
といった記述に「無念」のニュアンスを感じ取った読者の「コピーで金儲けは許せない」という感情を刺激している様子。
でも続きの記事を読むに、ライセンス違反云々は、コピーで金儲けするムカつく相手を攻撃するための手段ではなくて、ライセンス違反自体が森さんにとって最大の関心事であり、むしろコピーで金儲けするのはご自由にどうぞという感じなんだよね。だから読者は肩透かしを食った感じになっている。
一方、shi3zさんの記事は、「どんなによく練られたライセンスでも、無視されてしまえば意味がない。自分の努力の結晶を利用して金儲けされるのが嫌なら、オープンソースにすること自体が間違いだ」という風に読まれているように見える。
実際のshi3zさんの文章には、ライセンス違反を許容する言葉はない。が、shi3zさんの記事が裏読みされるのは自然なことかもしれない。「ライセンス違反さえなければよかったのに」という記事に対してオープンソースにしたこと自体を問題視するなら、そこに「オープンソースのアプリはライセンス違反を防げない」という前提があると推察することに不思議はないだろう。
では本当のところはどうなのか。まあこれも私の解釈に過ぎないが、森さんの記事へのshi3zさんの応答ははてブのコメントでなされており、ブログ記事は、シンプルにshi3zさんの持論を書いただけ。そこでは、森さんの記事の本題はもともと関心外なのだろう。
もう少し噛み砕いて説明すると、現に森さんの記事は「コピーで金儲けとは許せん!」と読まれている状況がある。森さんの真意とは関係なく、森さんの文章を引用すると、shi3zさんのブログの読者の過半も、そのように読むことが予想できる。で、shi3zさんのブログ記事は森さん宛の私信ではないので、一般人の誤解の方を採用してネタふりに使い、持論を書く切っ掛けにしているのだ、と私は納得した。
抽象的に関連する話題。私と某氏が全く同じ指摘をしても、私に不信感を持っているので私の意見については「意味不明。粘着しないでほしい」といい、某氏の意見には「参考にさせていただきます」と反応している人(名前を出されると迷惑だというから仮にAさんとする)がいて、少し気になっている。
いまBという問題についてガンガン書いている人が、本当にBに関心があるのか、それとも、それはCという別次元の目的を実現するための手段に過ぎないのか、というのは、率直にいってわからない。でも、きっとこうだろう、きっとそうだろう、みたいなことは、みんな考える。人が集まれば、本当にあるのかどうかもわからないCという目的を見出すのが「常識的な読み」として成立してしまったりもする。
Aさんが一目置くDさんが私の指摘を「興味深い」と書いてくれているのだから、私の指摘も素直に字面を追えば意味不明ではないはずだ。が、Aさんは私に不信感を持っているので、何かしら裏読みをする。で、こんなヤツの相手をしても時間の無駄だと思って「意味不明」と切り捨てるのだろう。残念だが、仕方ない。
個人的には、記事そのものと筆者を分離して、文章自体について相手をする文化がもう少し広まったらいいのにな、と思う。
ただ、私にとっていちばん書きやすい、誰かの文章に意見する過程で次第に自説を浮き彫りにしていく私信風のスタイルは、この持論と衝突しやすい。「相手の真意は関係ない、文章自体を相手にしているんだから、相手が後から書き足した内容なんかどうでもいい」などといっても、読者は釈然としないだろう。
えっと、いま私はかなり面倒くさいことを書こうとしているので、注意して読んでください。
shi3zさんの記事のはてブに、森さんの真意はライセンス違反への批判そのものなので、shi3zさんの反応は間違ってる、みたいなコメントが散見される。私もそう思うには思ったけれども、多分、そういう風に読まれていたら、森さんの記事はあんなに人気を集めていないんじゃないか。
森さん宛の私信みたいなスタイルで書いていて、森さんの真意は関係ない、で通用するか……その反論もわかる。でも、実際には私信じゃなくてブログの記事でしょう。不特定多数に向けて自分の意見を書く、という大前提があると思うんだよね。
その後の記事から、shi3zさんが引用した部分に色濃く現れている「ムカつき感」は、じつはライセンス違反への不信感のなせる業で、ライセンス違反さえなければ森さんがいちいち記事にするほど気になることではなかったことがわかる(と私は思う)けれども、やっぱり最初の記事でそう読めたかというと疑問がある。
たしかに形式的にはライセンス違反に関する文章が長い。が、これまでの経験から、濡れ手で粟の金儲けへの嫌悪感がトラブルの真のテーマではないか、という連想が働く。森さんの文章はそういう文章だった。
そこで、この旬な文章を引用して、shi3zさんがこのような記事を書こうとしたことは、私は擁護したい。
私が最後にラーメンを食べてから6年が経った。
その前にラーメンを食べたのって……いつだろう? 研究室の頃かな。とすると、大学を卒業して以降、たった1回しか食べていないことになるんだな。
こういう話をすると、勤務先の最寄り駅が高田馬場だからか、「もったいない」といわれる。でも、駅方面って家と方向が違うし、それに自分は外食しないからなあ。私にとってラーメンは、同行している人が希望しているときだけ食べるイベント食になっていて、「ラーメン」という言葉を聞くと少し心が躍る。
「回転すし」「うなぎ」「牛丼」なんかもそうかな。
えーと。
多分、成田空港がどうとかこうとか書こうと思ってたんだけど、忘れた。(2009-07-16)
「最初はビール」の話題。
最初は全員が一気に注文を出すので、「品目を絞りたい」と。これはわかる。
私が見てきた中だと、「ビール」と「ウーロン茶」に特権的地位を与えるのが世知みたいだね。
私が大学に入ったとき、直前に学生がアルコールで死ぬ事件があり、「お酒を飲みすぎてはいけない」「お酒の強要は絶対に禁止。運よく事故に至らなくとも強要の事実をもって処分する」といった指導があった。
その効果かどうか、研究室の先輩方は、「じゃあまずウーロン茶の人? 残りは、とりあえずビールでいい?」といように、まず下戸の人を確認する習慣を持っていた。
アルバイト先では、「とりあえずビールでいい? えっと、飲めない人は先にいってね。お互いのためなんで、ここで遠慮は禁止です〜。あー、はい、はい、じゃあ4人はとりあえずウーロン茶でいい?」という感じ。
入社後は……。飲み会の場所に最初から全員揃っていることはまずないわけ。で、新メンバー(新入社員、中途入社、異動など)は早目に来ていることが多い。幹事はもちろん最初に来るのだから、自然、幹事と新人はお喋りしつつ時間を潰すことになる。よって、この段階で下戸かどうかの情報交換が行われる。
「了解、了解。うちはね、無理に飲ませるような人はいないから。安心していいよ。ただ、下戸です、ってことはアピールしてね。2〜3回、飲み会を経験すれば、全員に伝わるんで、面倒でもそれはお願いします。あと……そうそう、最初はウーロン茶でいい? そう? よかった。たまにウーロン茶もダメな人いるんだよね」
そうして定刻が近づいたら、店員さんにビールとウーロン茶を適当な数量、注文。
たまに幹事の計算が合わず、ウーロン茶かビールのどちらかが多くなってしまうことがあるが、その場合、グラスをコツンと合わせる動作だけやってもらうことになっている。口つける必要はない。ビールが多い場合、グラスを空けないと次の注文ができないので、誰か適当な人が余ったビールを飲む。
いまどき、本当の本当に「強制」されることって、どれくらいあるだろう?
我が身を振り返るに、日頃さんざんマイノリティの悲哀を嘆いていてさえ、自分が多数派になると、「非常識なやつ、ウザイ」的な感情に捉われがち。多数派根性を批判し続けることも重要でしょうが、同時に、被害感情を育てて花咲かせたりしないことにも意を払うと、心の平穏を保てると思う。
人の杯にお酒を注ぐのが大好きな人は少なくない。それをダメだといわれたら悲しくなる。「酔っている」ことをエクスキューズにしている自分の緩い一面を曝け出すといった趣旨の場で、完全に素面の人がいるのは「ずるい」とか、もっと素朴に「不愉快だ」みたいな感情を持つ人がいるのだって、それはもう仕方ない。
でも、まともな想像力がある人なら、そんな気持ちを満たすために、人をアルコールで殺してしまって罪に問われたら嫌だな、損だな、と考える。断る側は、「何度も同じ説明をさせんなよ。俺は飲めないんだよ。勘弁してくれよ。ていうか、いい加減、こういうオヤジは死ねよ」とか思うんだけど、どちらも気持ちの問題なんでね。断る側の理で勧める側をやり込めたって胸にストンと落ちないんだな。
きちんと向き合って話せば、結論は、「どうしてもダメです。まだ死にたくありません」「残念だ」となる。で、性懲りもなく次の飲み会でもお酒を勧められたりするのだろうが、そこでカッとならずに、相手の気持ちも想像してほしい。相手の人は、自分に酒を勧める未練を断ち切れずにいる。だから「本当にダメ?(いや、ダメなのはわかってるんだけどさ……)」「ダメです」「残念だ」そんな「納得の儀式」をやりたいんだ。
1対1なら大胆に無理をいってくるような人でさえも、集団での飲み会なら、それなりに常識的な最終判断を下す。気分や空気のレベルでは「あーあ、この人が飲める人だったらなあ」という感じでも、まともな集団なら建前が勝つ。「そんなに私を殺したいんですか!」と怒れば、「そんなつもりでは……」となる。
世の中には本当の本当にアルコールを「強制」される集団もあるそうだが、少なくともそれは「ふつう」ではない。他に生きる場所はいくらでもあるので、縁を切って逃げた方がよい。あなたのこれまでの人生では「ふつう」だったかもしれないが、それはあなたが不運だからで、現代の日本はそれほどの地獄ではない。
酒に限らず、そりゃ「強制」の是非を問えば、みな否定する。が、しかし、この記事は「酒を飲めない自分が少しも不愉快にならない飲み会運営をしろ」という話にも読めるわけでね。
上の続きだけど、ここではもう、延々と自分の気持ちばっかり書いてる。
「誤解に基づいた意見は聞き飽きた。俺の反論を世界中の人が読んで、きちんと理解してから口を開いてくれたらいいのに」という記事なんだから、これはこれでいいのだろう。
ただ、実際には今後も何ら状況は変わらないわけであり、生活レベルにおいては、少し発想を変えたらイライラがだいぶ減るんじゃないか、と思うわけ。とりあえず「納得の儀式」という考え方を理解していただければ。
気持ちの問題をいうならば、いちばん苦労しているのは、「体質的にはバリバリ飲めるけど、ムラッ気があって、明確に分かれている飲みたい気分と飲みたくない気分が、当日にならなきゃわからない」みたいな人。本人にとっては(意外と)切実な問題なのに、ほとんど誰にも理解されない。
若い世代では晩酌の習慣が消えつつあり、飲酒の非日常化が進んでいる。今後、ひょっとしたら少しずつ、こういう人も大きな摩擦なしに世間を渡っていけるようになるのだろうか。
最近、職場関係の飲み会でも、「あっ、今日は休肝日なんで、よろしくっ!」「え〜? だったら他の日でもよかったのに」「いやいや、一人の都合で日程を変える必要はないよ」みたいなやりとりを見ることが増えてきた。「え〜?」だけでも許せない、という人もいるだろうけれども、そこはお互い様と思った方がいい。
「お前、なに一貫性の無いことを言ってるんだ」
「あんた、さっき、一貫性にとらわれすぎてはいけないと言ったばかりじゃん」
とらわれすぎてはいけない
だけなので、一貫性を全く無視していいわけではない、という話か。すると問題は線引きの判断に集約される。お互いに相手が一貫していない箇所を指摘・釈明しあう過程で、当初はぼんやりとしていた線引きの判断が、徐々に明確になっていく。
あるいは、別に一貫性そのものを重視しているのではないのかも。AとBについて個別の事情を重視した判断をするのは構わないが、それが無意識に行われているのはマズイ、とか。本人は自分を一貫した人間であると認識していて、他人にばかり無理をいう、みたいなケース。このとき、牽制の意図を持って状況認識の共有を図るため、「あなたの主張だって一貫性を欠く」と指摘するのは有効。
ちなみに私が「一貫していない」というのは、また違った理路によることが多い。私自身はあまり一貫性に重きを置かないが、世間の人々はあまりそうではないようなので、ひとつの道具として「そう仰るなら、行動を一貫させたらどうですか」といった言葉を使う。
著作権関連の話題が典型。私は「みんなで著作権を放棄して自由に使える文章や写真でウェブをいっぱいにしようよ」と主張しているが、聞く耳を持ってくれる人がいない。そこで「どうしてみなさんは無断転載+出典不記載の壁紙画像スレのまとめ記事なんかを歓迎・賞賛しているんですか?」と書く。
自由に他人の著作物を利用したいなら、まず自分が、自分の著作物を解放してほしい。いま画像スレまとめ記事に喜んでいる人が、自分の撮影した写真や自分の描いた絵をパブリックドメインでガンガン放出したら、ある種の画像は著作権侵害の必要がなくなるだろう。自由なウェブはそのようにして作られるべき。
著作権を主張している人の作品を勝手に使う、そこに後ろめたさも何もない、みたいな人はおかしい。泣いて、怒って、そして絶望して諦めている著作者の気持ちを無視する非情さは何なのだろう。……まあ、これは私の価値観に基づく意見であって、賛同されるかどうかは相手次第。
で、さんざんこういう書き方でやってきて、「あまり効率がよくないな」とは思ってる。全然、注目されないよりはマシなんだろうけど。
また出た! 永久機関だ! 新聞が騙されてるぞ! というわけで話題になっている。
蓄電装置を組み込んだシステムの一部を見れば「発電装置」といえなくもない、という程度の話か。太陽光や風力より効率がいいとかいう部分はよく理解できない。「始動用」モーターでアルミ円板を回すなどと書いているから、多分、フライホイールの一種だと思う。「始動用」というのが、実際は「充電用」なんだな。
ちまちま電気を貯めて、ガツンと使う。歯車によるトルク変換や時間をかけたエネルギーの蓄積を介在させると、入力を見て直感的に予想される範囲を遥かに上回る出力がドカンと出るので、けっこうビックリするんだよね。毎日新聞の記事によれば、入出力の電力は1000倍差まで対応するという。デモとしては効果的だ。
これまでの計測結果によると、回転速度によっては、始動用モーターの消費電力の100〜1000倍程度も発電可能。また始動に必要な電力は400ワットモーターなら乾電池(単3)1本でも足りるという。
400ワットモーターを駆動できるサイズのフライホイールの充電に使うモーターは、単3乾電池1本でも回る小サイズのもの、といっているわけだ。もちろん、充電が完了するためには乾電池を大量に消費する必要があるに違いない。都合の悪いことは黙っていれば嘘にはならない、という。しかしそもそもの「発電装置」というのは言葉の綾で済むのかなあ。
スラドに面白発明が紹介されてて大笑い。ま、一般人が科学知識で対抗しようとしても難しいので、自分は儲け話には無縁なのだと、そう堅く思い込むことだね。本当に偉い先生やなんかがお墨付きを与えているような素晴らしい発明なら、銀行とかが資金援助するに決まってる。自分のお金を頼るなんておかしいね、と。
景気対策の財政支出というと公共事業の類ばかり議論になるのが不思議だった。
実際、公共事業が減ったために不景気で沈んでいる地方も多いのだろうけれども、だいたい景気対策が必要になるときというのは、民間の設備投資が落ち込んでいる。直接、それを支援できたら、それが一番いいはずだ。
地価や株価が下がると、金融機関の自己資本が危うくなり、貸出・借換の基準が厳しくなる。すると企業は、新しい設備投資が難しくなる。また既存のプロジェクトも将来の見通しが不透明になると銀行に資金を回収されかねない。結果、企業は設備投資を抑制して、安定した事業だけに集中して手堅く儲けようとする。が、みんなが同様の行動を取れば、経済活動が縮小して、みなますます経営が苦しくなっていく。当然、給料も減ってしまう(と予測される)から、家計の消費も抑制される。よって経済は縮小均衡を目指すことになる。
銀行への資本注入が不況の根治策などといわれるのは、不況の連鎖の出発点である金融機関の防衛行動を止める方策だからだ。が、上記の流れを見れば、最終的な消費が旺盛なら、「あれ? 不安になる必要はないぞ。ちゃんと設備投資して生産を拡大した方が儲かるんじゃないか」という話になって、やっぱり不況は止まるだろう。
景気対策としての公共事業は、もちろん政府による消費を増やす方策だけれども、これは不景気でなくなったら終ってしまう。だから、「お、この分野がこれからは伸びるのか!?」と金融機関が本腰を入れて積極的に貸し出しを増やすような動きにつながるものではない。
この3月に支給が始まった日本の定額給付金2兆円については、様々な批判があった。しかし景気対策としては一定の理があると思う。
問題は、貯金に回る割合。全員給付なので、低所得層はおそらく単純に消費を増やすことになる。問題は中・高所得層。インタビューでは「**に遣う」などと答えても、現実には「**は定額給付金で買ったし、余ったお金は貯金しておこう」となりがち。現金ではなく商品券を配った地域振興券が成果に乏しかった理由も、これだった。
それでも、需要不足への対応では政策を総動員すべきと考えるので、定額給付金には賛成する。
後にスタートしたエコポイント制度により液晶テレビなどの対象商品の売上が一気に回復した。ポイントサービスで消費を促進する施策が早速成果を出した。しかしエコポイントは政府指定のエコ商品の購入のみ補助するので、市場による資源の効率的な分配とは逆方向の発想といえる。
買い物をするたび支払い金額の数%分ずつ使用できる初期チャージ額1万2千円の電子マネーカードみたいなものがあれば……なんて考えたが、現状では無理な案。もっと簡単に導入できる妙案はないか、と考えている。
日銀の毎月の国債買切り額が1.8兆円に増額されたという。2008年11月までは1.2兆円で、同12月から1.4兆円になったばかりだから、私はこれほどの対応を予想していなかった。政府紙幣で怪気炎を上げる与党の脅しが効いたのかもしれない。
月額1.2兆円と比較すれば、年間で7.2兆円の増額。事務経費を含めた定額給付金関連支出の約3倍の規模だ。政府紙幣を発行するより日銀券を増やす方が、無用の混乱を招かず、望ましい。方向性としては歓迎。
ただ、現下の日本経済は供給力が需要を30兆円以上超過しているという。2007年の名目GDPが515兆円で、2008年10〜12月の名目GDPが年率換算で前年比-6.6%(1次速報値)の急落という報道があった。これが1年ずっと続くと、ごく大雑把な計算だけど 515×0.066=34 で34兆円もGDPが減ってしまう。
生産力は毀損していないので、単純には、インフレなしに30兆円分以上も消費を増やす余地がある。国民1人当たり、ざっと25万円。すごい金額だ。
こうしてみると、7.2兆円では不足ではないか。30兆円の政府紙幣を発行してもなお不足というくらいの話だから、月額3〜4兆円くらい国債を買ってくれたらいいと思う。巨額の国債買切りにインフレ対応の懸念があるなら、最低1年は保有するが、その先は売却もありうる、みたいな話でもいいのではないか。
あ、記者会見の要旨が出てる。
今回の長期国債買入れの増額は、年度明け後も金融市場の安定を確保するために、引き続き積極的な資金供給を行っていくことが重要との判断の下、長期の資金供給手段を一層活用し、円滑な金融調節を行っていくことを目的としたものです。
いつも通りの説明で、というか、いつも通り、説明になってない。円滑な金融調節に反対する人はいない。問題は、1.8兆円に増額した具体的根拠は何なのか、ということだ。いろいろ補足説明があるけれども、「不景気で内需が弱まっているので増額した。1.8兆円という数字に具体的な根拠はない」ということのようだ。
1.8兆円が多いといいたいのではない。逆。少ない。が、日銀はやはり慎重だ。
(問) (前略)長期国債の残高については日本銀行券の発行残高を上限にするという、いわゆる銀行券ルールの限界に近いところまできていると思われますが、この辺りの認識をお聞かせ下さい。また、仮に今後さらに買入れ額の増額を求められるようなことになった場合、この銀行券ルールの見直しについて検討する可能性があるのかどうかについてもお聞かせ下さい。
(答) (前略)足許の銀行券と足許の長期国債の関係はもちろん重要ですが、それ以上に重要なことは、この先その両方がどのような形で推移するかという見通しです。将来の銀行券の姿、将来の長期国債の姿を展望しないと、例えば今期、国債買入れを大幅に増額したけれども来期は逆にそれを売ることになりかねません。そうしますと、今度は市場に対して撹乱的な影響を与えてしまうことになります。単純に計算すればすぐにわかりますが、今回増額したペース、すなわち年間21.6 兆円の規模で長期国債の買入れを毎年行っていくと、長期国債の保有残高は数年間のうちに銀行券発行高という上限に近接していく可能性が高いと推定されます。もちろん、こうした見通しは先行きの銀行券の伸びやオペで入ってくる国債の期間構成にも左右されるため不確実性は残りますが、さすがにここまで買入れ金額を増額させると追加的な買入れ余地は自ずとかなり限定されるとみられます。
次に、銀行券ルールを見直す可能性はあるかということについてですが、銀行券ルールを見直すことは全く考えておりません。銀行券ルールの意義としては2つ挙げられます。第1は、円滑な金融市場調節を確保することで、これは先程申し上げたことです。第2は、銀行券ルールは、長期国債の買入れが国債価格の買い支えや財政ファイナンスを目的とするものではないという趣旨を明確にするという役割も果たしています。従って、銀行券ルールを見直すという考えはありません。
素人の感想だが、これまた、何の説明にもなっていない、と思う。
中央銀行があまり膨大な国債を一挙に売買すると、円滑な金融市場調節が難しくなる……それはそうかもしれない。でも、その適切な水準が「銀行券ルール」だという証拠がどこにあるのか。経験則でいい。証拠がほしい。切実にほしい。多分、そんなものはないんだと私は思う。
長期国債の買入れの意義を誤解させない……それも理解はできる。できるが、別にそんなの、「発行銀行券の2倍を上限とする」みたいなルールだっていいわけじゃない。なんで1倍なのか。その根拠の示されない制約のせいで、必要な金融緩和ができずにいるんじゃないのか。
何の根拠も示さず自縄自縛の醜態を晒してデフレも円高も放置してさ、失業者がどんなに増えてもそれでもその「銀行券ルール」を盾にして過少な金融緩和しかしてくれないのか。納得できない。
一般国民にアンケートをとったら利上げ支持の方が多いのかもしれないが、それでも正しいことを実行するための中央銀行の独立性だろう。責任と権限のある者がやるべきをやっていないという疑念を持ったままの状況で、私は職を失いたくない。
彼女らが他人に迷惑をかけることを極端なまでに恐れるのは、「迷惑をかけられる」ことを非常に恐れる、些細なことでブチ切れることの裏返し。無断リンク禁止とか。
こういう話題が出るたび、公開の場でやるな、みたいな意見が出るが、他人事だと思ってよく考えずに提案したって意味がない。
同人趣味の人が身近にたくさんいて満足している腐女子は少数派だろう。世界のどこにいるともわからない同好の士に向けて情報発信したいのだから、公開の場が必要なのだ。あるいは、作品自体は非公開の場(mixiとかいろいろ)に置くとしても、閲覧パスワードは知り合い以外にも教えたいわけ。
とすると、仮にパスワード制にしても、どこの馬の骨ともわからない輩を一方的に信頼してパスワードを教えなければいけないわけだ。また案内ページは、コンテンツの概要を予測させるような形で公開(に準ずる)の場に置いて、何らかの検索方法で同好の士が発見できる状態にせねばならない。
で、公開+検索避け、となる。なぜ検索除けが必要なのかは、以前書いた。
同好の士にはどんどん集まってきてほしい、でも望まないタイプの閲覧者は排除したい。その方法が果たして検索エンジン避けなのか……というと、微妙なところ。でもこれは管理人側ばかりは責められない。侵入者たちの万能の言い訳にされているのもまた事実だからです。場違いなところに入り込んだらすぐに帰ればいいものを、「うわー、キモイ、キモイ」といいつつどんどん読み進んで不愉快になり掲示板で文句をいう、頭オカシイ人が実際にいるのです。
原作者からサイトを隠そうというマナー、これも私は理解できます。二次創作の世界はお目こぼし産業。でもサイト間のリンクの張り合いは緊密だし、公式サイトはたいていつまらないからリンクを張る人が少ない。検索避けがマナーになっていなかったら、漫画やアニメのキャラクターの名前で検索したら、上位にくるのは軒並み同人系サイトになってしまいかねない。
やっぱりそれが著作権ホルダーに許されるとは思えない。隠せばいいってものではないだろう、という意見はわかるけど、実際には隠せばすむことも多い。
ところで、十分に大きなコミュニティがあればいいんじゃないか、という考え方もあると思う。でも誰も責任を取りたがらない世界なので、コミュニティの管理者が存在し得ない、という問題が。
倫理的な主張には利己的な動機が隠れている(ことが少なくない)。
ごく簡単にいうと、これは大学が「結果だけでなく学習態度も加味して評価されるべき場」なのか、それとも「結果だけが評価されるべき場」なのか、という問題。
大学の成績が全てなのか? 評価基準が自分の中にないのか? といった批判は妥当ではない。おそらく本人は「学習態度に優れる自分」を高く評価している。その自負がむしろ、社会的評価は「結果だけでなく学習態度を加味して評価されるべき」という価値観を強化する。
これは学生を観察してみればわかる。要領よくサボりつつテストで高得点を取る学生ほど、「結果だけが評価されるべき」と考えている傾向がある。努力していて成績の悪い学生は「授業がヘタなのが悪い」という。サボっていてなおかつ成績も悪い学生は「土下座しても単位をくれない教授は許せない!」などと考える。
結局みんな、自分を肯定するための材料探しをしているわけだ。
日本では、多くの教師が病院送りになった悲惨な校内暴力の時代を経て、公立高校入試において中学時代の学習態度を重視する制度が確立した。千葉県の例だが、私の弟はほとんどの科目でクラス1位を争う学力水準だったが、成績は5段階評価の3が定位置だった。授業中の居眠りと提出課題の無視が理由である。
中学校の成績評価制度改革は、多くの大人たちの支持によって実現した。テストの結果のみで成績が決まる制度を嫌ったのは、子どもたちだけではない。
大人たちの形成する会社組織においても、成果主義はなかなか成功していない。そこで課題となっているのは成果主義そのものというよりも、適切な成果の評価が困難なことだが、さてその「成果」に、努力(など)を全く加味すべきでない、という立場の人がどれだけいるだろうか。
実際、社会に出てみれば、意外と努力が評価されることに気付く。とくに結果が悲惨な場合、努力の有無は決定的な評価の差となって現れる。たまに「社会は厳しい、成果だけが求められている」などという人がいるが、後で卒業生に「騙された!」といわれないか。
もともと大学の成果主義は、庶民の価値観から「浮いて」いたのではないか。大卒がエリート社員だった時代はそれでもよかったのだろうが、今はむしろ大学流の成果主義に共感するタイプの大卒社員は、就職してから人間関係に苦労するだろう。
いま大学で「学習態度も成績評価に加味すべき」と考える学生が増えているとすれば、それは進学率上昇の当然の帰結かもしれない。さして賢くない一般人は、「頭の良さ」だけで成績を決められては勝ち目がない。自分でも勝負できる「学習態度」を評価基準に入れるべき、と主張することに不思議はない。
無論、それは戦略的発言ではなく、「無意識にそのような価値観に共感してしまう」のだ。こうしたアイデンティティと結合した価値観を覆すのは現実的でなく、またおそらくこの価値観を覆したところで双方とも具体的な利益はない。状況の変化に合わせて大学の方が変化するのが妥当と考える。
昔の大学ではエリートがエリートを教えていたので、エリートの価値観を疑う者がいなかった。現在の大学ではエリートが庶民を教えているので、価値観の衝突がある。そしてコモディティ化した学卒に「エリートっぽさ」は求められていないのだから、変わるべきは指導者の方だろう。
だから逆に、高校卒業試験制度を創設したり、大学入試に大検を必須にするなどして、一定以上の学力がなければ絶対に大学に入学できないようにしてしまう、という改革案を唱えるなら、「大学はエリートの価値観を維持すべき」という意見にも同意できる。あまり現実的な話ではないが……。
もしくは、「いま社会では大量のエリートが求められているはずだ」と主張されるなら、それはそれで話の辻褄は合う。私は首を傾げるが。
出欠を取らない先生の本音って、単に出欠のチェックが面倒くさいということだったりする。が、単に不精なことをいうだけでは格好がつかないので、倫理的な主張に変換してしまうのだ。もちろんこれも無意識の働き。先生ご自身は、心の底からその大学倫理に同調しているわけ。
「出席するたび新しい能力の獲得を実感でき、自学自習より効率が良い、と学生が思える講義」を大学の先生方が行っていれば、そもそもこんな問題は生じない。
ときどき目にする話題。
子どもに「他人」の立場を思いやる心を理解させたいが、手詰まりになってしまったとき、こういう言い方をすることがあります、不愉快に思われる方が多いことはわかっていますが、どうか事情をご理解いただき、許してください、という話。
とくに異存はありません。難しいことを教えるのに、通常の指導の枠内ではどうにもならないときはあります。
ちなみに私の場合はもう、そういう難しいことはしないと決めています。例えば個別指導塾で、隣のブースの生徒などに迷惑をかける子に対して、私はこういっていました。
「**さんが本当に迷惑に思っているかどうかは、たしかに君のいうとおり、私には断言できない。でもね、もし私が**さんなら、迷惑に感じる。集中力が途切れてしまうからね。それでね、いいかい、私はね、自分の生徒がそういう、よその生徒の迷惑になるかもしれないことをするとね、とてもつらいんだよ。さっきもショックで心臓が止まりそうになったんだ。だから、もうそういうことはしてはいけない」
ようするに、生徒の迷惑行為に苦しめられている「自分」の正直な気持ちを理解してもらう。まあ、これが通じないなら、第三者の気持ちなんか理解させようもない。
ふだんから「私の担当してる生徒はみんないい子ですよ!」と素で自慢しているような親バカ的講師だった、という特殊条件はありますが、毎回とくに抵抗なく生徒らは私の願いを聞き届けてくれました。しかしまあ、ひとつ潰せば他のあれこれが気になってくる、という感じではありました。
ホラ見ろ、ちゃんと他人への想像力を育てないと根本解決にはならないんだよ、といわれれば、まあそれはそうかな、と。でも自分にだってできないことを生徒にいってもな……というのが正直なところ。
あまり他人の目を気にしていなかった母は、電車内で私たちが騒いだときも、常に自分の価値観から躾(しつけ)を行った。「周囲の人が迷惑するから」ではなくて、「電車の中では静かにするのが正しいと私は思うから」おとなしくしなさい、というわけ。なので当然、私たちの家族しか乗車していないときだって、車内を走り回ることはきつく禁じられた。大浴場で泳いではいけない、というのも同じ。
しばらく前から話題になってるカルデロン一家の話題。不法入国した両親の間に生まれた中学1年生ののり子さんは、両親と一緒にフィリピンへ行くか、家族と離れて日本に残るかの選択を迫られているという。家族全員で日本に残りたい、と主張して裁判に負けたが、一家は市民団体の支援を受けて戦い続けている。
個人的には……。全寮制の中学校は日本にもたくさんある。家族と離れて暮らせない年齢でもないと思う。あるいは、なんかもう日本に残っても嫌なことばっかり多そうだし、フィリピンへ行った方が、そりゃ最初は悲しいだろうけれども、長い目で見ればメリットが多いのではないか、と思ったりもする。
他人事だから簡単にそんなことをいえるんだ、といわれれば、それはそうだ。とはいえ、外堀は既に埋まっているのだし、周囲がフィリピン行きにネガティブなことばっかりいうのは疑問だ。敗色濃厚の戦いをしているのに、負けた場合のことを一切考えず勝利を「信じる」のは、無責任だと思う。
支援者はいいよ、自分は結局、結果がどうあれ日本に居続けられる。最終的に苦しみを背負う人に対して、「弱気になっちゃダメだ」とかいって、結果が悪い方に転んだ場合の備えをさせないのは、自分の願望を押し付けて現実から目を逸らし、将来の悲劇を小さくする努力を放棄することだ。
自発的か強制か、という違いは決して無視できないが、日本から東南アジアやアフリカへ移住した人は何人もいる。両親の祖国とか、自分の中に流れる血だとか、そうしたことに興味関心を持たせて、フィリピン行きに多少はポジティブな動機付けをしてあげるような、そうした配慮をする人が周囲にいるといい。
残念ではあるけれど、小さな希望を持ってフィリピンへ行きます、という心構えができるような、そういう準備も進めておくのが大人の仕事なのではないか。
フィリピンで生まれ育った両親が、どう考えても娘が暮らすには日本の方がいいという。自分のルーツに誇りを持てないのは、寂しい話だ。この騒動、フィリピンの人はどう思っているのだろう。
この手の素朴な「人口減少で労働力が不足する」論には明確に反対。
この記事を書いた頃には既に、様々な経済指標が日本経済の不況入りを指し示していた。いま思えばのんきな記事だったな。
私が通った高校には、アメリカやオーストラリアからの留学生がいた。ロータリークラブの支援で1年間の長期ホームステイ。
英語圏の人ってすごいな、と思ったのは、事前に日本語を勉強してきた人が一人もいなかったこと。辞書を1冊。ホントそれだけ。授業は100%日本語なのに、どういうつもりなんだろう。彼女らを受け入れるロータリークラブの名士さんたちもすごくって、英語をちっとも話せないで受け入れている人が大半。
留学生には親切な女の子が数人くっつき、1〜3ヶ月くらいで日本語を話せるようになる。ちなみに、親切な女の子の英語の成績が悪いほど、留学生の日本語が上手になるという反比例の関係がある。たまに男子留学生もいて、そうすると壊滅的に英語のできない男子が周囲にくっつくから、彼は日本語が完璧になった。
とすると、ホームステイ先の家庭は重要ではなく、学校での人間関係が重要だということ。たしかに高校生という年齢を考えれば、家ではほとんど何も話さず、同年代の友人とばかり会話することになるだろう。
子どもに自信を与える方法(2009-03-11)の補足です。
日本の子どもは、諸外国と比較して自己を高く評価していない、という。しかし、その何が問題なのでしょう? 実際にアメリカ人などと交流した経験があれば、「自尊心の高さ」と「尊敬できる人格」が単純にはリンクしていないことに気付かれると思う。
子どもに自信を持たせる意味は、子どもの人格形成に資するかどうかという観点からは導出しにくい。
私が子どもの自尊心を守り育てる教育を推すのは、成長過程における幸福感に大きな価値を見出しているからです。
これらを実現するためには、子どもが親によく褒められるような環境が適しているでしょう。
私は「子どもを叱るのは我慢すべき」とか「子どものやることだから大目に見るべき」などといいたいのではありません。子どもが自動的に「宿題をきちんとやる」「家事のお手伝いをする」ような仕組みがあれば、子どもを叱る回数が減り、たくさん褒めることが可能になる、と提案したのです。
ただし私の提案は、ご両親に一定の負担を強います。子どもを叱って「うちの子はどうして……」と愚痴っている方が合理的、という方もいるでしょう。無理をしても続かないので、それは仕方ありません。
この特設サイトをはじめ、私は繰り返し「子どもに命令せず、一緒に取り組みなさい」と説いています。その理由として、私は「子どもを叱る回数が減る」ことを強調してきました。しかし効用は他にもあります。
そう、親が一緒に取り組めば、子どものつらさがわかるのです。作文を書く、絵を描く、漢字の練習をする。子どもと親で競争してみれば、すぐにわかります。学校に提出する作文を書くのがいかにつらいか、絵を描くのがどんなにたいへんか、漢字の練習がどれほどつまらないか。
それを体感していれば、子どもの作文や絵をくさしたり、漢字の覚えが悪いのを怒ったり、しなくなっていくと思うのです。よく頑張ったね、と、心から褒められるはずなんです。あるいは、もっとお勉強を楽しくするにはどうしたらいいだろう、と考えるようになったりもするでしょう。
私のささやかな経験から書くと、「一緒にお勉強する」とき、「勉強を教える」必要はありません。例えば、子どもが漢字ドリルに取り組むなら、大人は漢検の問題集に取り組む。まあこれは「家計簿をつける」でも「新聞の切り抜きをする」でもいいんです。まじめに取り組む様子が伝わればいい。
ヘタに勉強を教えようとすると、かえって子どもが嫌がることも少なくない。親の方も、「なぜ同じ間違いを繰り返すのか!」「どうしてこんな問題も解けないんだ!」などとイライラすることになりがち。ときどき様子を見て、煮詰まっていたら気分転換させるとか、支援はその程度で十分なのではないでしょうか。
ただし一度は、本当にたった一度でいいですから、保護者の方も子どものやっているお勉強を、自分でもやってみてください。いろいろ気付くことがあるはずです。ノートをきちんと作成するのも、工作で紙粘土をこねるのも、記憶とは少しずつ違っていますよ。
もともと「自分に自信がある=優れている」という図式で考えている人は多くないと思う。東京都の施策も、「自分はダメでどうしようもない人間なんだ」と考えている日本の子どもたちは幸せなんだろうか、という素朴な疑問が原点にあるのではないでしょうか。
これは子どもの問題ではなく大人の問題だと思う。
子どもの言動で気に入らないことがあると、とかく「しつけ」で何とかしようとする方が多いでしょう。叱りつけたりせず、自然に子どもを動かすにはどうしたらいいか、もっと知恵を絞ってほしいと思う。
親が居間でテレビを見て笑っているのに、子どもが喜んで学校の宿題などしたがるわけがない。当たり前の話でしょう? 宿題+漢字ドリル+計算ドリルなんて、親子で取り組めば1〜2時間で終るもの。たったそれだけの時間を一緒に過ごすことを厭う親に育てられる子が、自分の価値を信じられるでしょうか。
家事のお手伝いだってそう。子どもだけが家事をやっている時間があると、つらい。母が夕食の準備をしているとき、子どもが風呂を掃除し、父がトイレを掃除する……といった「家族みんなで家事をやる時間」という見立てを導入することで、子どもも自分の役割をきちんと果たすようになります。
曜日で担当を変更するなどして、子が風呂掃除をした日には「お風呂がピカピカで疲れがスーッと取れるね」といい、子がフローリングの空拭き掃除をした日には「廊下がピカピカで新築の頃を思い出すね」といい、子が料理をした日には「これはおいしい! 元気が出るね」という。これを10年くらい続けると、ようやく子は親のありがたさに気付く。
「勉強しなさい」「お手伝いしなさい」そんなことを口でいくらいってもダメなのに、十年一日のごとくずーっと子どもを叱り続ける方が少なくないという。子どもだって「お勉強しよう」「進んでお手伝いできるいい子になりたい」と思っている。思っているのにできないから、「自分はダメだ」と自信を失くす。
子どもを褒めたい親は多いと思う。ならば子どもが自動的に成功する仕組みを作りましょう!
私が3歳の頃、父が仕事で忙しかったので、弟を出産してダウンした母を助けるため、母方の祖父が初めて家へやってきました。祖父と一緒に湯船に浸かっていた私は、急に手洗いへ行きたくなりますが、祖父が楽しそうに話をしているので我慢、我慢、我慢。しかしとうとう限界を超え、ウンチをしてしまう。
しょんぼりしている私を、祖父は「おおっ! 立派なウンチをするようになったな! 偉いぞ!」といって褒めたという。虚弱体質で下痢の多かった私が、しっかり形を保ったままプッカリ湯船に浮かぶ便をしたのが、本当に嬉しかったのだそうです。
家族が私の過去の失敗を蒸し返すことはなく、私はそんなことがあったことをすっかり忘れて成長しました。そんなある日、祖父が急死したとの報せが飛び込みます。祖父の家へ向かう新幹線の車中で、母が教えてくれたのが、このエピソードでした。
祖父は酒飲みで、母や祖母ら家族を心配させ続けました。酔った祖父の後始末で家族が恥ずかしい思いをしたことは、一度や二度ではないと母はいいます。その母が祖父に一番感謝していること、それは、私が一番悲しい思いをしているときに腹の底から褒めてくれたことだ、というのでした。
親がどんなに素晴らしくても、子が立派に育つわけではない。それは自分を見ればわかります。ただ、私は幸せに育ちました。それは十分に意味のあることだったと思うのです。
日本の子どもも、幼稚園児くらいまでは楽しい。笑った、手を振った、喋った、歩いた、何もかもが賞賛の対象となります。その後、どういうわけか、親の要求水準が急上昇していく。
子どもの自信が年齢を重ねるにつれ失われていくのは、親が子を褒めなくなるからだと思う。世間の親御さんらの冷たさを思えば、教師はまだしも生徒を褒めようという努力をしているように見えます。個別指導の補修塾には、親には叱られてばかり、家には帰りたくない、という生徒がたくさんいました。
「連立方程式が解けるようになったよ!」「すごい! お前は賢い子だね!」これが当たり前でしょう? どうしてテストの点数なんかを最初に気にする親が多いのか、私は不思議でなりません。授業のない日も塾の自習室に生徒が集まるのは、当然のことでした。
成績などの相対評価ばかり気にする大人が多い中、個人の成長が素直に評価される場は貴重なのです。
「堆積岩の種類を覚えたよ。えっと、礫岩、砂岩、泥岩、凝灰岩、石灰岩、チャート!」「すごい! よく覚えたね」「3日もかかったけど」「いいんだよ、人生は70年もあるんだからね。よく頑張ったね」数日後にテストすると、2個くらい出てこない。「えらいね! 4個も覚えてるなんて」まず、こういう。
東京都の取り組みはピント外れだと思いますが、保護者教育が非現実的である以上、他に手がないのでしょうね。よい結果が得られることを期待します。
田中秀臣さんの新刊。
個人的には最近のリフレ派の主張で、ココがわからない。(2009-02-04)に書いた疑問への回答があれば嬉しかったのだけれど、残念ながらさっぱりでした。
Amazon のレビューにも書きましたが、この本には、潜在的な賛同者にしか通じない書き方をしているという欠点があります。例えば、私が田中さんと意見を異にする埋蔵金の活用については、こう書かれています。
一時期マスコミ等で騒がれた「埋蔵金」ですが、これを財政政策に活用する手もあります。もともとこれは特別会計の剰余金、つまり国民から徴収した税金のうちの残りを積み立てたものです。外国為替資金特別会計や財政投融資特別会計などの中に、総額二〇〜二五兆円程度が眠っています。人によっては掘りおこせば八〇兆円はあるのではないかと考えている人もいます。
これはつまり、国民から余計に取ったお金です。金利リスクや為替リスクへの対応といった理由付けがされていますが、それらはほとんど公務員の詭弁に過ぎません。ずっと使わずに持っているのであれば、国民に返すべきでしょう。
たとえば、先ごろ話題になった「定額給付金」の総額は二兆円です。それでさえも財務省は文句を言っていました。しかし実際には、二〇兆円程度は利用可能なのです。仮にこの全額を給付金として分配すれば、単純に考えて一〇倍ですから、一人当たり一万二〇〇〇円のところが一二万円になります。ちなみにわが家の場合だと、妻と子供の三人家族だから三六万円になります。
これだけもらえば、ある程度は貯金したとしても、少しは使う気になるでしょう。あるいはほとんど使ってしまおうという人もいるかもしれません。国民が国に余計に払ったものをただ返すだけで、かなり消費が刺激される。そういう形の財政政策は十分にあり得ます。
しかしこの「定額給付金」をバラマキであり、政策とはいえないと無責任に批判する人がいます。経済学的には政府の行う所得移転の典型例です。また、「埋蔵金」を赤字国債の償還に使うべきだという主張の人もいますが、なんで深刻な不況のときに不況対策には全く関係のない借金返済に使用するのでしょうか。理解に苦しみます。
私の疑問を列挙すると以下のようになります。
不況対策には全く関係のない借金返済とまで発言を変えるのは理解しがたい。半年前には有効だった政策が、なぜ今は無効なのか、きちんと解説してほしいです。
私は「雇用大崩壊」の主張の8割くらいには賛成します。だからまずまず面白く読めはしたのです。しかし仲間内で「いやー仰るとおり!」と言い合うだけならこれでいいですが、異論の持ち主(例えば私の父や弟)に啓蒙を期待して勧められる内容ではないと思います。
特別会計の積立金は過大だ、というなら、その論拠を示してほしいわけです。それなのに「公務員の詭弁」という結論しか書かれていない。私は、本当に詭弁なのかどうかを、自分で判断する材料がほしいのですよ。「20〜25兆円」は使えるというその数字も、どういう計算に基づいているのか、知りたいわけですよ。
「特別会計の積立金は、以上の試算の結果から、20兆円ほど過大だと判断できますので、財政政策の財源として活用できます」といった書き方なら、すんなり読めるのです。
何から何まで基礎データから説き起こすのは現実的でない……それは承知しています。田中さんも全く根拠を示していないわけではありません。しかしあまりにも少ない。その数少ない根拠も、数字の出典が書いてなかったりする。私が「書籍」に求めるものと、いささかのズレがありました。
まあ、ブログを加筆再構成した本だと思えば気になりません。じつのところ、こうした書き方をしている経済書は少なくありません。ジュンク堂書店で「経済学」コーナーに置かれてる本がこれでは困りますけれども、「経済評論」コーナーに並んでいるのは、たいていこのような本です。
伊藤元重さんの新刊。田中さんの「雇用大崩壊」と同じ欠点を持つ本。潜在的賛同者以外が読むと、論拠が提示されないから納得のしようがなく、イライラすることになります。
こういう、グラフの類をほとんど含まず、結論だけを延々と書き連ねる本というのが世間ではよく売れるらしい。経済学コーナーと経済評論コーナーでは賑わいが全然違う。結論しか書かれていないのに納得するもしないもないと思うのだけれど、直感的に「そうだそうだ!」となったらそれで満足という人が多いみたい。
……でも、私なんかが思い付きを書いている経済関係の記事にはてブがいくつもついたりするのと同じかな。はてブで、きちんと論拠を示している経済記事が爆発的な人気を博した例は少ない。かくいう私も、本が相手だと「論拠を示せ!」と思うのに、ブログならいちいち気にしない。線引きの問題か。
ともあれ、きちんとデータなどを示したら小難しそうと思われて敬遠されたりするのだとすれば、手抜きをした方が売れるということになり、残念なことですね。
こういった種類の文章なら、「結論しか書かれていない」なんて不満はいわない。たとえ書籍の中の文章であっても。まあ個人的な基準の問題なので、いちゃもんだと思われるならそれでもいいです。
たいていの議論は「前提」の争い。特別会計の積立金(の20〜25兆円分)=取り過ぎた税金、特別会計が死蔵してきたお金で市中の国債を買っても不況対策にはならない、という田中さんの前提を受け入れるなら、その先の主張に異論はない。問題は、その前提が正しいのかどうかだ。
「雇用大崩壊」の内容のかなりの部分は、私がこれまでに目にしてきた数多の資料と整合する。だから概ね支持できる。が、埋蔵金に関する記述は、私の認識している「事実」と噛み合わないので、疑問を書いた。
一般読者の多くは、「雇用大崩壊」の議論の前提(のいくつか)に「本当にそうなのか?」と疑問を持つと思う。この疑問を放置すれば、直感に反する結論は支持されない。リフレ派の主張は世間の常識となっていない。過去のリフレ派の書籍が実証分析を多く含むのは、直感を事実でねじ伏せる意図だと思う。
私が「雇用大崩壊」に不満を感じるのは、事実の提示によって議論の前提を受け入れさせる手間を惜しんでいる点にある。「埋蔵金」は、実際に私が田中さんの議論の前提に同意できなかった例。そして、何が書かれていれば私は納得したか、も示した。
1998年7月刊。「雇用大崩壊」と比較して実証的な分析が行われているお勧めの本。この本を先に読んでいたので、田中本のAmazonのレビューでラスカルさんが要約されているような内容については、(田中本には根拠が十分に示されていないが)納得できたという経緯がある。簡単に「雇用不安」の要旨を紹介すると……。
労働需要が減少すれば雇用の減少は不可避であり、好不況に関わらず失業率が低位安定した日本は不思議な社会だった。そのカラクリは、不況期になると求職意欲を喪失して「失業者」ではなくなる(主に非正規雇用の)女性労働力と、零細業者において仕事量に応じ柔軟に投入量を調整される家族労働力で説明できる。
つまり日本の低失業率は完全雇用の実現を意味せず、求職希望者の全部雇用がその実態であった。したがって、自営業・零細企業の雇用が減少し、女性の勤労意欲が高まり、正規雇用を希望する層が非正規雇用に甘んじる状況となった1997年の不況が、戦後最悪の失業率をもたらしたことに不思議はない。
以上の議論のポイントは「日本の企業経営、企業組織の特殊性が世界的にも稀な低失業率をもたらしたのであり、バブル崩壊後の失業率の上昇は企業の変質に原因がある」といった類の議論を否定する点にある。日本労働研究の常識となっていた内部労働市場論への批判なのだ。
野村正實さんの研究成果はその後、「知的熟練論批判」「日本の労働研究」にまとめられた。いささか高級で素人には十分には理解の及ばない本ではあるが、実証分析の乏しい主張は、一見もっともらしく思われても批判的な検討が欠かせない、という立場には共感する。
素朴な疑問なんだけど。親がパチンコに熱中して駐車場の車の中にいた子どもが死んでしまったりすると「虐待」といわれることが多いと思う。凍らせた蒟蒻畑で窒息死させたのが事故だとして、パチンコの事例が事故とされない理由は何なのだろう。
結局、「常識」を巡る争いなんじゃなかろうか。暑い日に冷房を切った車の中に子どもを置き去りにしたら死ぬのは当たり前、それを知らなかったはずがない、よって虐待。
しばらく前に、消費者行政担当大臣は、もちが喉に詰まりやすい食品であることは常識となっているが、こんにゃくゼリーについてはそのような常識が広まっておらず、それゆえ規制が必要、といった見解を示されたと思う。乳幼児がもちで窒息死したら、保護者は「虐待」したことになるのだろうか。
うーん、そういうことじゃないな、これは。
2歳以下の窒息で一番多いのが飴、次が何と授乳用ミルク。まさか、と思うよね。お粥でも麺類でも窒息している。気管支に入っちゃうのかな。
全体を見ると、東京の人口をざっくり1000万人として、年間1000件強の事故が発生。1万分の1ですか。事故が怖くて食事しないというわけにはいかない。
事故、ということになるんだろうなあ、こういう数字を見ると、やっぱり。一度の気の緩みもなく子どもの食事に細心の注意を払ってる親ばかりじゃないわけでしょう。それで実績がこの数字ですからね。
ついでに調べてみたんだけど、10歳未満の熱中症の少なさに驚く。
車中置き去りで熱中症に、なんてよく聞く事件と思っていたけれど、レアケースだったんだな……。あと運動系の部活で倒れるとかね、もっと多いのかと思ってた。
データを見る限り、本当に対策が必要なのは老人。あと、おじさんたちの労働環境。なんというか、エレベータの事故が話題になったとき、データを見たら階段での事故が桁違いに多かったときのポカーンという感じに近い(はずなんだけど、いま探したら肝心のデータが見つからない……)。
……? 車の中に放置するとネグレクトなの? うーん、私の場合、スーパーで両親が買い物している30分くらいの間、駄々をこねて車中に残っていたりしたことあるんだけど。あるいは私がスヤスヤ寝てるので、起こすのが可哀想なので両親だけで買い物に出かけたり。買い物ならよくて、パチンコだとダメなのかなあ。
だいたい幼稚園へ通う年齢になったら、子ども同士でどこかへ遊びに行っちゃうの、ふつうですよね。木に登ったり薮をくぐったり。いちいち親がついてきて、やれ危ないだのかんだのといわれたら嫌になる。
どうもよくわからない。
ときどき聞くような話。
なんで、シンプルに短時間で埋葬して低額で済むやり方を選択できない世の中になってしまったのだろうか?誰の洗脳だ?何回も言いますが、私には全くもって意味が分かりません。しかも、こんなひねくれた考えをして、葬式などに出ないと、周囲から揶揄されること間違いないだろ。あー意味不明だよこの習慣というか風土というか。
そうやって自分が気に入らない物事に全く理解を示さず一方的に非難することを是とするなら、自分が抑圧されるのも当然の帰結です。自分の意見は正しい、正しいのに抑圧されるのは理不尽だ……そう言い募るだけならば、批判の対象と自分自身に何の差もないことを知るべきだと思う。
どうせ他人の考えは変わらない。だからこれは個人の選択の問題だ。そう割り切った方がよい。
私の親族の場合、かつてはみな**家代々の墓に入っていたのに、この100年ほど、いろいろ豊かになったので夫婦単位、個人単位の墓を作る傾向にあった。日露戦争で亡くなった方の墓は3mの石碑だからすごい。3つ隣にあるフィリピン戦線で亡くなった方の墓が50cmほどの高さしかないのが悲しい。
ところが平成になって、再び代々の墓が復権。母方の祖父母は個人名を刻んだ墓を「不要」とした。自分たち自身が墓参りを億劫に思うようになったので、子孫に墓参りを求めても無理筋だろう、と。既に墓が多すぎて盆暮れの手入れがつらいということで、墓の整理(可能)を検討していたくらいだった。
いま火葬場へ遺体を持って行くと、簡素な葬式みたいなことをしてくれる。線香を1人1本ずつ手向けて冥福を祈る、ほんの数分の儀式。その後、焼きあがるまで1時間くらいかかるので、待合室で故人を偲んで思い出話に花が咲く。そして納骨。私の母は、自分の葬式はもう、これだけでいいんじゃないか、という。
葬式を簡素にしたい、墓は不要、と思っている人は多いから、それが死者の希望なら簡素化に異を唱える人は少ない。逆に、死者の望みを遺族の都合で無視することは批判される。ないがしろにされる死者に自分の末路を重ね合わせ、慄然とする人が少なくないのだろう。
つまり、人が亡くなってから「葬式なんて面倒じゃね?」といっても遅いんだ。病気の家族や親戚がいたら、何度も見舞って話をし、「大切なのは生前の交流だよ。死後のことは簡素でいい。葬式は通夜だけでいいよ。法事はしなくていいよ。墓は要らないよ」と宣言してくれるよう誘導しよう。
私が死んだときは一切そんなことはして欲しくない。直ぐに焼いてくれ!そして直ぐに土にまいてくれるように頼むよ。で、こんな私みたいな考え方する人って結構いるんじゃないだろうか?しかも最近では。ちょっと前までだと嫌々親戚付き合いや、葬式をしていたけど、そろそろみんなで取っ払おうぜ!この文化を!! みんなが徐々に短縮していき、追々はこんな制度辞めていけば、定着するからさ!
とりあえず、父と母が死んだときは、ちゃんと常識的にやってくれと言われているので素直にやりますが、心の中では "はてなマーク" が100個くら充満していて、意味ないのになぁと思いつつ、今回も祖母の葬式に行ってまいります。
まず自分が遺言を書くといいと思う。私は小学生のときに「自分の葬式は要らんなー」と思って、最初の遺言を書いた。
今はまた考えが変わって、死後のことなんか残された人が好きにすればいい、と。だから遺言はなし。で、「個人的には葬式も墓も不要と考えているが、遺族にとって必要ならどうぞご自由に」と日頃から公言している。ちゃんといっておかないと、「本当の望み」とやらを勝手に決め付けられてしまう。
先日、ちょっとビックリした話。
私は基本的に電話には出ないことにしているのだけれど、2月28日から何度も電話をかけてくる人がいて、気になっていた。
その日、またもや目の前で電話が鳴って、私はいつものように無視したんだけど、「用があればメッセージを録音せよ」というのをきちんと聞かずに、自動返答がはじまるとすぐ相手が切っていることが判明。非通知ではなく、発信元は固定電話。とうとう好奇心に負けた。
そうしたら、これがクレディセゾン(クレジットカード会社)。カード番号などが盗まれ、不正利用されているんじゃないか、という。
2月27日(現地時間)にアメリカで apple から100円くらいのものを買い、続いて3月3日(同)にスクウェア・エニックスのアメリカ法人から2000円くらいのものを買ったのは徳保隆夫さんですか? という。
スクエニの方は、何か予約してる商品でもあったっけ? という感じで、即答できなかったけれども、アメリカ法人でドル建て決済だから、「変だと思う」と答えた。apple から買い物をしたことはないので、こっちは明確におかしい。
というわけで不正利用ということになったのだけれど、いやしかし、どうしてそんな少額で「おかしい」と気付くのだろう。同時に日本国内で使用履歴があれば話は別なんだけど、ちょうどこのカード、3月に解約するつもりで2月から使用を止めていたのだ。
新聞とガスのカード変更だけ、オンラインで手続きできないので面倒くさがって先延ばしにしていたが、カードが無効になったので、嫌でも今すぐ変更せざるを得なくなった。
こうも不正使用が「当たり前」になってくるとなると、クレジットカードの発行なんて儲からないだろうな、と思う。
「国策捜査」という言葉は、佐藤優さんがベストセラー「国家の罠」で世に広めたその瞬間から誤解されていて、このたびの小沢一郎さん(野党第一党である民主党の党首)の公設秘書が政治資金規正法違反で逮捕された事件においても、本来の語義に即して使っている人が皆無に近い。
「時の権力者が明に暗に指示して行う(政敵潰しなどを意図した)捜査」という解釈が本義と化している。陰謀論の大好きな人たちが「国策捜査」「国策捜査」といっているのを見ると、ドッと疲れる。
じゃあ今回の件が佐藤優さんがいった意味での「国策捜査」じゃないのか、というと……。
まず、これまでは賄賂性が明らかでないので放置されることの多かった政治団体経由の政治献金、これを形式的に政治資金規正法違反として逮捕までもっていくのが妥当か、という論点がある。収賄罪ではないので、逮捕は過剰対応ではないか、というわけ。
従来この手の違法行為は、わざわざ逮捕して前科をつけて、とはせず、政治資金収支報告書の訂正と、問題のあるお金の返還で決着してきた。しかし最早それではダメだ、2009年の世論はこれを犯罪として裁けといっている、いま時代を変える捜査を断行せねばならぬ……といった話なら、これは「国策捜査」かもしれない。
事実上、判断は国民の手に委ねられた。ホリエモンのときと一緒。世論が怒れば秘書は有罪。さらに盛り上がれば小沢さん本人も危ない。いや、こんなのはおかしい、という意見が少数派なりに無視できない割合で噴出するなら、裁判は長期化する。国民が首を傾げていれば無罪。単純にいえばそうなる。
ただ、佐藤優さんの定義によれば、「国策捜査」はグレーの領域に線を引くことで犯罪者を作り出すけれども(でっち上げによる冤罪とは異なるので注意)、別に線を引くこと自体に大きな意味はない。その人が有罪になることで、何らかの価値観対立(に起因する問題)の潮目が変わることが重要だという。
鈴木宗男さんと佐藤優さんの場合は、北方領土問題の解決方法(と佐藤さんはいうが私は違うと思う。田中眞紀子さんのような官僚イジメの是非が真の争点。国民の判断は「是」)。堀江貴文さんの場合は、構造改革の評価。じゃあ小沢さんは? そこが見えない。なので佐藤さんのいう「国策捜査」の条件を満たさない。
*俗っぽく書けば、意見対立のある話題で、国民の多数派と前線のプレーヤーに大きなズレが生じたとき、負のエネルギーが溜まる。すると司法が動き、粗探しして逮捕。国民が大喜びすれば有罪に。鈴木さんも堀江さんも、逮捕に拍手喝さいした人がたくさんいた。それだけストレスの蓄積があった。小沢さんはどうか。
ホリエモン逮捕以降、「小泉純一郎さんと竹中平蔵さんが推進した構造改革」に否定的な意見が世論で勝つようになった。2006年、日銀はデフレ下の金融引締めを開始、有罪判決の出た2007年には追加利上げで好景気を強制終了。我々が低金利に喘ぐ中、金持ちが投資で儲けるのは許せない、という呪いは成就した。
「構造改革」と景気の関係は淡い。狭義の「改革の後退」は景気の悪化と無関係だろう。ここでいいたいのは、「国民が構造改革と結び付けている小泉政権下で目立っていた経済政策」にブレーキがかかり、一部は逆転していくサイクルに入った、ということだ。
日銀の量的緩和が終り、利上げが始まった。反デフレの意識が後退し、インフレ恐怖(結局は親デフレ)が復権する。株価が下がり株成金が沈んでメシウマ、預貯金につく金利が増えてニンマリ。……その後の日本経済沈没の経過は、皆さんよくご存知の通り。ホリエモン逮捕から3年、これが私たちの選択か。
過去の著書と同様、さっぱりした内容。サラッと読めてしまい物足りない感じもするけれど、装飾に眼を奪われて本旨を見失うといったことがない。次数が少ない分、価格も安い。びっくりするような話はないけれど、興味があるならお勧め。
国会ジョーク。
で。
あはは、面白い。(内容には不同意)
少子化に合わせて国立大学を減らそう、という話題。
88校を27校に整理するという。基本的には地理的要因を重視したもの。
はてブでは批判が多いけど、「廃校」の実態が「統合」「合併」だとすれば、私は正しい方向性を示していると素人なりに思う。現実味は薄いかもしれませんが、総論には賛成したい。
少子化が進み、とくに教育学部などは需要が大幅に減退しています。採用枠と免許保有者数の乖離は進む一方。逆に医療・介護分野は医療の満足水準が予想以上に上昇した(にもかかわらず価格が抑制され民間参入が阻害されている)結果、人手不足となっています。
現在の組織のまま、こうした状況に対応するのは困難でしょう。市町村の合併が必要とされることと、理屈は同じです。教育大学が単独で生き残り策を模索しても非常に難しい。もちろん、一部の大学は上手に個性を発揮して生き残るでしょうが、総需要の回復は望めない以上、淘汰は避けられません。
個別に頑張ると、ハードランディングになりそう。単独の組織として存続可能な「規模」を守ろうとして、多大なエネルギーを投じた挙句、廃校とか。夕張の財政破綻(住民の減少を食い止めるべく交通の不便な夕張で新産業を興そうとして借金の山を築いた)のようなものです。
組織の自己防衛本能は、逆転不可能な環境では、よい結果を生み出しません。だから、大学を合併すべきなのです。大きな組織の一部となれば、緩やかな縮小路線を選択できます。
大企業は、安定成長路線にあるときはカンパニー制で競争を促進しますが、外部環境の変化により選択と集中が必要になるとカンパニー制を廃止します。今般の不況の影響で、私の勤務先でも、部門統合が行われました。みなさんの周囲でも、こうした話をよく聞くと思います。
組織を残したまま整理・縮小を進めるのは、とても難しい。だから、組織をいったん統合して、大きな組織の中でリソースの再配分を進めていく。面倒でもそうした手続きを取るのが、人々の知恵です。
大学の統廃合は、「いよいよもうダメだ」となってからではなくて、先のジリ貧は目に見えているのだから、なるべく早めに行ってほしい。
小中学校の統廃合と異なり、大学の統廃合においては、キャンパスの閉鎖を必要としません。学生一人当たりの関連施設を含めた総敷地面積は、日本では東京大学がトップだったと思う。大学を統合した上で、緩やかに人口密度を落としていくといい。
教員養成の需要が減った教育系の大学では、学校外の分野における教育を研究する先生をあちこちから招聘して単独での生き残りをかけています。教師がいれば学生の定員も減らない。教育学部が単独で学際化による生き残りを図るのは、私は無駄が大きいと思う。
大学の統廃合により総合大学化したら、どのようなことが可能か。「教育」自体は、学校に限らず、どんな分野でも課題となっていることですから、教育学部の研究室は、他の学部に移しやすい。教師が移れば定員も減らせます。
いや、現に総合大学でそんなことは行われていない……そうですね。古い総合大学では、学部毎の独立性が強く、いわばカンパニー制の大企業のような組織となっていることが多い。Chikirin提案のような大規模改変が実際に行われるならば、例えば10年間程度、学部の垣根を下げて、大胆な人材の再配置を行ってほしい。
教育機関としての大学組織の縮小には賛成でも、研究機関としては規模を維持すべき、という意見の方は多いと思う。でも、私の狭い知見からいうと、大学の研究には重複が多く、また外部の知見を十分に得られないため停滞している研究が少なくないように思えます。
小さな大学になればなるほど、当該の先生以外に同分野のことがわかる人がいない。助手と教授の専門分野さえ全く異なり、議論が成り立たない(お互いに素人の質問を出し合うだけになってしまう)。これで組織として研究の効率が上がるのは例外的状況でしょう。
個性、個性といわれる時代だけれども、「小さくてもキラリと光る大学」を目指すのは、やはり組織防衛の理屈であって、不合理です。
まずは経営の統合からはじめ、続いて人材の再配置を行い、そして「**キャンパスは**学部」というようにキャンパスの特色を作っていく。コミュニケーションの促進は、研究の効率を高めます。
「学会」に意味があるなら、日頃からキャンパスが「ミニ学会」となっている方がよい。研究テーマが異なっていても、研究室で学生同士が日頃から意見交換することは、非常に有意義です。これを拡大して、日常的に先生方が交流し、それぞれの問題について真剣に考えるような環境を形成していく。
国立大学の統廃合は、推進していいと思います。
私大は放っておくべき。自由にあれこれするところに民間のよさがある。国立大学が「失敗」したとき、知恵を借りる相手は、好き勝手に生き残り工作を進めてきた私大。そりゃ死屍累々だろうけれども、そうやっていろいろ試すのが私大の存在意義なんじゃないか。
とりあえず画像OFFでの閲覧を推奨しますけれども。
はてブの反応がマジコンの話題と全然違う。鳥山明さんのイラストを1円も払わずに見て喜んでる人たちと、マジコンに怒っている人たちは重なっていないのでしょうが、マジコンに怒った人は、こっちにも怒るのが道理。
結局、何なのかというと、自分も(時々)やってることは、規制されたくないんだな。自分が絶対にやらないことなら、ガンガン規制しろ、っていう。身勝手なんだよ。Googleストリートビューのオプトアウト方式に文句をいっている人は、「事前に著作者の許可を取れ」と、ここでもいうべきなんじゃないの。
鳥山明さんの画集はいま、品切れになっています。新刊で買いたくても買えないのかもしれない。でも、画集が再販されたらアップロードをやめるとは、とても思えない。
ともかく、そりゃもちろん、何でもかんでも言及する暇は誰にもないが、ブクマが100ついたら4人や5人くらいは怒っていいんじゃないのか。現状は、私の感覚では、あまりにもアンバランス。
まあ、イラストとかだと、まだマシなんだけど(稀に怒る人がいる)、風景や女性の写真はホントひどい。数百人もブクマして、誰一人、著作権とかいわないの。一体どこの誰がボランティアで世界中を飛び回って素晴らしい写真を撮影してくれるのでしょうか。(もしボランティアでも著作者名くらい表示すべき)
昨年は Tumblr でリブログする人々への反発を読みながら、同じようなことを考えていました。今般のマジコンの話題を見るに、はてブ民は「仲間」だけでなく、ゲームソフト開発会社の権利にも敏感な様子。
でもカメラマンの著作権や、モデルや芸能人の肖像権には相変らず無頓着なんですね。2chまとめブログなどの画像まとめ記事に多くのブクマが集まっていたりするけれども、隠し撮りっぽい画像に対する「盗撮許せない」の声はあっても、カメラマンの著作権やモデルの肖像権を問題視する意見は全く見かけない。
一体どこの誰がスタジオや衣装を用意して、メイクして、照明を当てて、写真を撮影していると思っているのか。カメラマンもモデルも、無料で勝手にばら撒かれたくて写真を製作したわけがない。
AV女優に人権はないとか嘯いたという犯人たちには怒りの声が上がったのに、金目当てで脱いだ女優の画像なんか無料で流しても心は痛まない、みたいな発言にはロクに反論がなされない。空気読め、みたいなね。程度の差はあれ、後者だって十分ひどいのに。まあ、かくいう私も初めて書いたわけだけど。
単に優先順位の問題なのだと信じたいところですが、しかし優先順位というならね、世間の9割方の人間がダメといってるマジコンより、過半数の人間が著作権を想起すらしない風景写真系の画像まとめスレ(+デスクトップの背景用画像まとめスレ)とかの方が、よっぽど危機的なんじゃないかと私は思う。
「インターネットで無料エロ画像探したことがある」とか、何の後ろめたさも感じさせずに話す連中が世の中には多すぎると思いません? 本当にみんな胸を張ってマジコンユーザーを嘲笑できるのか。ジャンルが違うだけで、実態は同等の犯罪者なんじゃないの。
権利者が削除を要請しないからいけない、権利に胡坐をかく権利者は権利を剥奪されるのだ……あー、はいはい。それはそうかもしれませんが、実際に削除要請をしたら大勢が堂々と反発してみせたというのがニコニコ動画で起きたこと。許せない、とか、もうDVD買わない、みたいな脅迫とか。
権利者は、単にもう絶望してるんだと思う。だったら市場から退出しろ、っていうなら、マジコンユーザーを客と認識していないスクエニは許せない、みたいな意見と何が違うのか。
これが私の「回答」。他人の著作物を自由に扱いたい人は、まず自分がパブリック・ドメインのコンテンツをどんどん制作し、公開していこうよ。そして、同志を増やしていこう。他人が守りたい権利を侵害するから、トラブルになるのです。自由に扱えるコンテンツが満ち溢れる世界を、自分の手で作っていけばいい。
おー! これは理想的な盗用! 私の文章は、どんどん(引用ではなく)盗用しちゃってください!
1ヶ月足らずで滅びたサービス。もし裁判沙汰になれば、カラオケ法理が適用される事例だったと思う。
DSで動く利点は、可搬性・操作感・普及度だと思います。携帯電話やiPhone向けゲームと同様ですね。加速度センサやカメラと連動しない携帯電話用ゲームは、ゲーム単体で考えれば、だいたいPCでも問題なく遊べるように作り直せるはずですが、実際にはどうでしょうか。携帯電話で動くから、iPhoneで動くから、それで初めて遊ぶ意欲がわいてくるゲームアプリが大半でしょう。DSで動く、というのも、同様の意味を持ちます。iPhoneとは保有者数が桁違いですし、小中学生が「自分用」のを持っているのも他にない特色です。現状、マジコンユーザはアマチュア作品に無関心ですが、携帯電話用ゲームの場合、むしろ商用作品よりアマチュア作品の方が人気があります。アプリゲットなどのランキングを見れば明らか。商用ソフトの不正コピーを撲滅できれば、アマチュアへの開発環境の開放が新しい市場を拓く可能性はあります。
個人的に、やっぱり商用ソフトとアマチュアソフトはコンシューマ機では一線を画していてよい、とは思っています。iアプリのようなプラットフォームを用意して、アマチュアはその枠内で自由に遊んでください、みたいな方法がよいのではないか、と妄想しています。
一読、趣旨がつかめませんでしたが、好意的に論旨を補いつつ要約すると、こういうことだと思う。
マジコンは自主制作ソフトウェアをゲーム機で動かすために必要な機械。しかし不正コピーソフトも動作するため、ネット環境の整備で不正アップロードが増大+不正コピー入手が容易化、さらにマジコンの一般販売+低価格化によって、今ではマジコン=不正コピーを遊ぶ機械と化した。
マジコンを販売禁止しても、不正コピーの頒布が止まらず、不正コピーの入手が容易な状態では、カジュアルコピーの駆逐は不可能。マジコンからエミュレータへ移行するだけ。
またアマチュア開発者は、プロ用ツールを使用する資金的余裕がないため、どうしてもマジコンがほしい。アングラ化しても自主制作マジコンの流通は止まらないだろう。
この不正流通マジコンがカジュアルユーザにも容易に入手できるなら、マジコンの販売禁止は有名無実化する。不正コピー蔓延の実態が何ら変わらず、しかもアングラ化して市場が見えなくなるなら、事態はむしろ悪化することになる。
一方、PCゲームでは、DRM技術の発達により、コピー制限とダウンロード販売を実現しつつ、安価な自主制作環境も維持されている。
つまり、Nintendo DS などの家庭用ゲーム機においても、不正コピー対策はDRM技術の進歩が正道であり、マジコンの販売禁止は筋悪ではないか、といいたいのでしょう。
反論はいろいろ考えられます。
それでも、著者の提言は理解できます。
どうして Nintendo DS はiアプリのような文化を生み出せなかったのでしょう? アマチュア制作のシンプルだけど安価なゲームで遊びたい、DS で音楽を聴きたい、画像や映像を持ち出してDSで見たい、そういう需要に任天堂は応えてきませんでした。
緊急避難としてマジコンを販売禁止とすることに、私は賛成します。しかし、不正コピー対策の正道は、DRM技術の進歩、オンラインアクティベーションの必須化(ネット環境がなければ電話でアクティベーションする)、違法コピーのアップロード徹底取締り、といった方策だ、との思いは変わりません。
また自主開発にも門戸が開かれている方がよいと思う。ゲームソフトはインターフェースに依存する部分が大きいですが、マウスとキーボードは必ずしもゲームには向かない。携帯電話ではシンプルすぎるとすれば、みんなが持っているゲーム機向けに、気軽に、自由にソフトを開発したいと思うのは自然です。
困難な道だとは思いますが、DS で無理なら DS2 以降でもいい、「マジコン禁止の先」を考えてほしいと願っています。
PS2やPS3などの場合、エミュレートが難しいので、不正コピーを入手したところで動かしようもなかったりするわけです。DSやPSPがつらいのは、今のパソコンの性能で新作がエミュレート可能だということ。FCやGBとなると、携帯電話ですら、ほぼ完全なエミュレータがあります。
まだ携帯電話で「使える」レベルで動くDSエミュレータはないようですが、これが登場したときが正念場かもしれません。いや、バーチャルコンソールは既に、この危機的状況に直面しているんですよね。
DSがバーチャルコンソール未対応なので、FCやMSXのゲームでも据え置きのWiiでしか遊べない。ところが不正コピー+携帯電話向けエミュレータなら、どこでも遊べてしまう。そして無料。
App Store のようなものが一応の成功を見ても、着メロサイトのように、公式とアングラが同等の人気を博すというような状況になると、非常にまずい。オールドゲームはユーザの年齢層が高いので状況がマシなだけ、DSエミュが携帯に進出したらシャレにならない、かもしれない。(マジコンとは関係ない話ですが)