備忘録

平成21年2月28日

野嵜さんは何をしたいのですか。おかしな意見に、その場で反論する、それ自体が第一の目的なら、私からいうことはありません。

私がおせっかいを申しているのは、もし自分が野嵜さんの立場だったら、「より多くの人の誤解を解く」ことを目標にするからです。コメント欄への集中豪雨的投稿は、この目的に合致しません。

このところ、記事が長いこと自体は、とくに読者を減らす要因とはならないようです。内容さえしっかりしていれば、むしろ書くべきを余さず書くほうが、きちんと読者を集めることができる様子。

しかし、コメント欄では、やはり長文は読まれていないと思います。分量が多い、一人で何回も書いている、それだけで敬遠されてしまう。議論の直接の相手くらいは読んでくれるかもしれませんが、大多数の人が、形式的にフィルターにかけてしまう。

記事にトラックバックなどしても、9割がたの読者には無視されます。それでも、分量が多い場合、コメント欄に書くよりは、よく読んでもらえるでしょう。「闇黒日記」はトラックバックできませんが、コメント欄に反論記事の案内をすれば、だいたい同じ効果が得られます。

コメント欄に登場したtanzenさんは、その態度から察するに、説得可能な相手ではない。tanzenさんの翻意を期待してもむなしく、コメント欄を読んでいる第三者にアピールする以外に、反論のコメントを書く意義はありません。ならばそれなりの書き方がある、と私は思うわけです。

そして、そもそもコメント欄は、あまり読まれません。「備忘録ことのはインフォーマル」のコメント欄は文字も小さいですし、なおさらそうでしょう。

松永さんの誤解を解き、「この部分は事実誤認だった」という記事を書いてもらうのが、「より多くの人の誤解を解く」には一番です。コメント欄で、間違った意見にひとつひとつていねいに反論するのは、正しいやり方でしょうが、目的には適わない。理はあっても利がない。

野嵜さんが利より理を取るのはわかっているけれども、日常生活の全部をそうされているわけでもないはずで、だからおせっかいを申しました。ここは利を取ってもいい場面なのではありませんか、と。

少ししか書かない事、説明しないで根據拔きで結論だけを書く、レッテル貼りをする事だ。さう云ふ不誠實な態度がウェブ、「ブログ」で一般化してゐる。それに對して俺は反對してゐる。俺は、多くの人が、コメント欄で澤山書くやうになる事がいいと信じて、實踐してゐる。例の「福田恆存をやっつける会会長」ですら、Yahoo!ブログのコメント欄で澤山書けないと不滿を漏らしてゐた。コメント欄で澤山書けるやうな風潮を作らなければならない。「長文失禮します」ではなく「短文で大變申し訣ありません」と人々が普通に言ふやうな社會にならなければならない。さうした社會になつてゐないから、間違つた一般の風潮に合せなければならない等とは全く思はない。

優先順位の問題です。私は、より優先順位が高いのは、「正字正かな派」への誤解を解くことだと思いました。

追記

俺は利を優先して理を引込めるなんて眞似はしたくないし、した方がいいと政治的な人間に忠告されても、絶對に出來ない。「政治的に、結果として勝てさへすればいいんだ」と云ふ發想を、俺は受容れられない。

優先順位の問題と言ふならば――日本人が價値觀・發想を根本的に轉換する事が最初で、その結果として當り前のやうに日本人が正字正かなに囘歸すればいい。俺は堅くさう信じてゐる。ただ「正字正かなを使へばそれでいい」と云ふのではないんだ。徳保氏にはそれがわからない。多くの日本人にわからないだらうと思ふ。福田恆存も、斯う云ふわからない日本人を相手に戰ひを挑んだ。だからこそ、俺は福田氏を尊敬するし、信ずる。徳保氏のやうな人物は、尊敬もできなければ、信頼する事すらもできない。松永氏もわからない。「正字正かな派」と云ふ言葉をみた時、「正」と云ふ字に松永氏が疑念を抱いた、その瞬間に、松永氏は最う一般の日本人と同じであり、假名遣の先の問題――本質的な問題を見る事が出來なくなつてゐた。本質を明かにしようと考へる事それ自體を、松永氏は拒否した。それはしかし、多くの日本人が當り前の事と思つてゐる。徳保氏もさう思つてゐる。さう云ふ通念を打破しなければならないと俺は信じてゐる。さう云ふ通念をこそ先づ最初に打破しなければならない。そこでは小手先の技・人心を操縱する術・政治的手段は不要だし、寧ろ有害だとして排斥される。

この件について、私はこれ以上、口出ししません。

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平成21年2月27日

1.

野嵜さんがガンガン書き込んでいますね。

先日、書いた記事にある通り、私は松永さんの記事に疑問があり、松永さんの個人的な信条は別にいいけれど、「正字正かな派」に対する批判には同意できません。つまり、いちゃもんをつけられた野嵜さんに同情的。

だけど、コメント欄での野嵜さんのふるまいには、眉をひそめます。ひとつひとつのコメントは大した分量ではありませんが、コメント数が多過ぎます。私が松永さんなら、コメント禁止にします。いっていることが正しいかどうかは関係ありません。マナー違反が問題なのです。

おかしな意見を放っておく方が問題だ、と野嵜さんは考えるでしょう。そういう考え方もあると思う。でも、私は野嵜さんを擁護できません。

野嵜さんはtanzenさんに対抗しようとするから、あんなにたくさんの言葉が必要になるのです。私なら、野崎さんのようにはしません。tanzenさんの(ひどい)コメントだけがある状態は、許せない。それはわかる。でも、コメント欄を見ている第三者に対して説得力のある反論を提示し、それで良しとすべき。

ブログもいろいろあって、ふだんから、一部の常連さんによってたくさんのコメントがつけられているところもあります。そういうところでなら、野嵜さんがガンガン書き込んでも、私は何とも思わない。でも、松永さんのところは、日頃、そのような状態にはなっていません。

野嵜さんにとっては、そんなのはどうでもいいことかもしれませんが、(今の)私は逆に、そういうことを気にします。松永さんは気にしていないかもしれない。でも、それは結果論でしょう。何もわざわざ、素直に話を聞くかもしれない相手を頑なにさせかねないようなことを、するべきではないと思う。

あるいは、松永さんが仮に野嵜さんが散々「根拠のある決め付け」をしている通りの人物なら、どうせ説得なんかできない。ならば松永さんとこのコメント欄で長々と持論を展開したってしょうがないでしょう。

私のような闇黒日記の読者も大概だけれども、松永さんとこの読者が、野嵜さんの大量の書き込みをきちんと読んで蒙を啓かれる可能性はもっともっと低いはず。エネルギーの使いどころを間違っていると思う。

2.

いっている内容の「正しさ」と無関係に、その分量自体が暴力的と解釈されることがあるわけです。これまでに野嵜さんが書き込んだ分量は、「コメント欄荒らし」といわれても仕方ない水準に突入しています。

私は野嵜さんを「掲示板・コメント欄荒らしではない」と擁護しようとしているのだけれど、野嵜さんが平気であちこちのコメント欄に突撃しているようでは、お手上げですよ。一般人定義では粘着でも、野嵜定義では粘着ではない……そんな難しい話、世間に通用させるのは並大抵のことではない。

まさにこれ。

松永氏の「ブログ」のコメント欄で、tanzenと喜六郎が結託して俺の事を引つ掛けやがつた。しかも正字正かな派の人間は誰一人あのコメント欄で俺の事を擁護しようとしない。喜六郎大喜び。アンチ野嵜大喜び。アンチ大勝利。俺涙目。正字正かな派壊滅だ。アパッチ正かな軍なんて詰らないジョークに反應して喜んでゐた連中は、一人として信用できない。さう云ふ好い氣になる馬鹿がゐるからこそ、松永氏は正字正かな派批判を書いたのだらうし、喜六郎やtanzenのやうな連中が跳梁跋扈するんだ。

野嵜さんは既に十分、いいたいことをいっており、それ以上、コメント欄という場で、野嵜さんに味方して何か言葉を付け加えたいと思わない。

アンチの方が結束力がある、というのは、まあ、その通り。でも野嵜さんがあんなにたくさん書くものだから、「アンチが徒党を組んで野嵜さんをやっつけてる感」が直感的に伝わってこない。ふつうに考えたら、単に野嵜さんを叩くためだけに登場した喜六郎さんとか、ひどいんだけど。でも、という。

だいたい、Aさんを批判したらAさんだけでなく取り巻きも一緒にコメント欄へやってきて抗議した、なんてのは、一般人が見て「気持ち悪い」と思うこと。コメント欄だけ見れば、大勢でワーワーいってる方が元気に見えるかもしれないけど、マジョリティーの支持は別問題。

むしろ野嵜さんは、野嵜さんに加勢した塗炭さんが書いた、松永さんへの嫌がらせをたしなめた方がよい。塗炭さんの論法を応用すれば、何でもかんでも蒸し返されたくない過去と結びつけることができてしまう。「**さんが**した理由はこれですか?」って、本当に訊ねたいならメールにすべきだよ、こんなの。

野嵜さんは塗炭さんに足を引っ張られていると思う。

追記:

松永さんの過去の行動と今回の主張は、少なくとも直接には関係しません。「ちなみに」以下だけで話が通じるのは明らか。

塗炭さんにとっては重要なことだったとしても、繊細な話題なので、まずメールで私的に訊ねるのが妥当です。その返答を読んで、「これは議論を左右する重大事実であり、松永さんが傷ついても公正な議論のためには公に明らかにせねばならない」と確信を持ってから、はじめて公の場で改めて問い直すべき。

まともな議論によらず相手を閉口させて勝とうとする人を野嵜さんは何度も批判してきました。私も批判された一人。松永さんが触れられたくない過去を安直に持ち出した塗炭さんの発言を野嵜さんが黙認される理由はわからない。以上で納得されないなら、もう言葉はありませんので口を噤みます。(修正:2009-03-09)

3.

松永さんは話の通じる人なので、松永さんの態度を硬化させるようなやり方(=コメント欄への集中豪雨的投稿)をせず、例えばメールなどの手段で意見交換すれば、話の落としどころは見えてくると思う。

正しい主張は正しく、間違った主張は間違っているので、中途半端な「落としどころ」などあるわけもないのかもしれないが、やっぱり野嵜さんには何らかの希望があって書き込んでいるのでしょう。その一方で、野嵜さんも、誰も彼も説得できるわけではないことはよくご存知の通り。

野嵜さんはコメント欄で「AはBである」というようなことばかり書いているけれども、「結局、松永さんにどうしてほしいのか」という切り口でシンプルにコンパクトに整理して、メールなどで話を仕切りなおしてはどうか。

先の記事で書いた通り、野嵜さんの希望は、「正字正かな派」の主張に対する誤解を解いてほしい、ということに尽きると思う。誤解がなければ、別に松永さんが「正字正かな派」の主張に賛同しなくても気にならないはず。無論、それはそれで批判の対象とはなるだろうけれど、今のような形ではなくなると思う。

ともかく、私が松永さんなら、野嵜さんをコメント禁止にするし、質問にも答えない。「こういうヘンな人とは、まともに意見交換なんかできるわけがない」と考えます。主張の正誤ではなく行動に問題がある。こういう状態で野嵜さんが松永さんの沈黙を「不誠実だ」といっても、たぶん社会的に勝ち目がない。

何度もたくさん書きたければ自分のブログでどうぞ、というのがコンセンサス。こうした意見に野嵜さんが同意していないことは知っています。知っていますが、私の見る限り、野嵜さんのやり方は不幸な連鎖を生んでいると思う。

反論は「闇黒日記」で書いています、と案内をして、コメント欄への新規書き込みは、どうか止めてほしい。これは野嵜さんを擁護したい私からの(身勝手な)お願いです。

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平成21年2月27日

うっかり吉野家なんて提案すると、即失格判定です。とか何とか。

この手の意見をしばしば耳にするのだけれど、「吉野家に連れて行って怒るような人と付き合いたいのか」というあたり。「そうです」というならいいけど、そうじゃないなら、他の人を探した方がよさそう。

なんかこういう、片方にだけ選択権があると仮定するような話には、どうも違和感を拭えない。自分が吉野家へ行きたいのに、いちいち我慢させられて、それで楽しい気分になれるのだろうか。

ちなみに私の場合は、面倒くさいから食事を抜く。休日は1日1食が基本。朝しか食べない。実家にいた頃は、母親に「夕飯は何がいい?」と訊かれて困ることが多かった。親が心配さえしなければ、何も食べないのが一番よかったのだ。

「そろそろ食事でも」「いや、休日は朝しか食べないんで。だって食べるのとか、面倒でしょ。おなかも空いてないのに、1日3回も食べる必要ないと思うんだよね」「( ゚д゚)ポカーン」……「あの、じゃあ、帰ります。さよならー」

もう、呼吸するのも面倒くさい、と思うことがある。喘息の発作のときとか。

これも同じ。「失格」というのは、私にとっては、かなり強い言葉。飲食店を選ぶセンスを重視し、ここで気に入らない答えを出す人を「失格」と判断するなら、そこで妥協しない方がいいと思う。逆に自分も、相手がそういう人なら、そこで無理をしてもしょうがない。いずれ続かなくなる。

一時的な妥協をしていいのは、「どうでもいいこと」。お互い、少々のことなら我慢できる、という領域であれば、「最初は緊張していろいろ気を遣っていたけど、だんだん地が出てきた」となっても、決定的なトラブルにはつながりにくい。

仕事でも同じ。ここで手を抜くのは許せない、という部分なのか、まあいいか、で済むことなのか。

平成21年2月26日

0.

「自分の頭で考える」を重視する方々が行っている授業・講義について、私はこれまで学生に考えさせる授業(2007-07-03)、レポート課題の設計法(2007-12-06)、講座設計のイロハ(2007-12-12)といった記事で何度も批判してきました。

とくに新しい提案はありませんが、これは大切なことだと思うので、今回は大野左紀子さんの文章に材を採り、あらためて持論を書きたいと思います。

1.

「ジェンダー入門」の講義を担当した大野さんは、学生たちの優等生な答に満足できない。

わざわざ私なんかに言われなくても、「性規範をなくしていくべきだ」ということは、大学生でも頭では理解している。しかしその頭の理解と感情とが乖離しているのは、彼らのレポートから見えた。彼らの「実感」がそこには伴っていなかった。

「実感」とは、「性規範は良くない。では自分はどうしたらいいのか。自分の言動や意識からなくすことができるのか。あまり自信がない。ではどうしたらいいのか」という、なまなましい葛藤である。

私は学生にまずそういう葛藤をしてもらいたいのである。葛藤しながら自分の内面を深くエグってもらいたい。とってつけたような優等生な答などいらん。そんなの、そこらのジェンダーの手引書でも一冊読めば書けることだ。

……と、いうことであれば、教師の仕事は、学生が「葛藤」し、その概要をレポートに書けるよう、授業を組み立てることです。

2.

ジェンダーの手引書を要約して内容を伝達し、授業の最後に「性規範は良くない。では自分はどうしたらいいのか。自分の言動や意識からなくすことができるのか」というテーマでレポートを書きなさい、と指示しても、少なからぬ学生が、通り一遍のことしか書けないでしょう。

なぜなら、葛藤するにも、自分の内面を見つめるにも、さまざまな技術が必要で、それは誰もが大学入学時点で身につけているものではないからです。

「自分の頭で考えなさい」とだけいわれても、呆然としてしまう学生がいるのです。それは必ずしも多数派ではないかもしれませんが、いま能力を欠いている学生こそ、真に教育を必要としているはずです。

3.

短いレポートに書けるような「葛藤」は、かなり単純化されたものです。問題を整理し、情報を取捨選択して図式化する、そうしたことができなければ、言葉にならないもやもやした気持ちを前にして、立ち尽くす他ない。これではレポートを書けません。

そもそも何も思い浮かばない学生もいます。何をどうすることが「ジェンダーについて葛藤すること」なのか、十分にイメージが形成されていない。あるいは、イメージは持っていても、自分の経験や思いを、そのイメージで検索する訓練が不足しているのかもしれません。

あるいは、教師が「学生の葛藤」自体を教育成果と位置づける授業では、「悩んだ末の結論」は評価対象とならないのがふつうですが、学生がそのことに気付いていないケースもあります。教師の「結論は問わない」という説明が信頼されないことも、珍しくありません。経験が教師の言葉を「建前」と認識させるのです。

こうした諸問題に対処するのは教師の手に余る、と思う方もいるでしょう。しかし私は、これは教育可能なことだと考えています。

4.

何らかの葛藤を試みているレポートを100枚ほど集めると、いくつかのパターンがあることが見えてきます。これを、パターンA、パターンB、パターンC、その他、などと分類します。

Ex. A:内面化された性規範に起因する葛藤 B:周囲の人々の持つ性規範に起因する葛藤 C:制度に組み込まれた性規範に起因する葛藤 その他:いろいろ

次に同じ学生のレポートを並べてみると、題材を変えて何度も同じパターンを繰り返している学生が少なくないことに気付くはずです。

こうした事実は結局、葛藤もまたパターン化された思考技術のひとつとみなせることを示しています。つまり、教育可能です。さらに踏み込むなら、教育した方がよい、といえます。なぜなら、葛藤を学生任せにしている限り、葛藤の幅が広がらないことが予想されるからです。

5.

もし私が大野さんの授業を代講するならば……。

まず、教科書的な基礎知識は、それはそれとして理解してもらわねばならないでしょう。最低限、覚えてほしいことを簡潔に提示し、ペーパーテストを実施します。定着度が不十分なら、次の授業でも5〜10分程度の時間を割いて復習し、少し問題を変えて再テスト。平均点が目標に達するまで可能な限り頑張ります。

絶対に覚えてほしいことを初期の授業で扱うのがポイントです。時間は有限なので、後の授業で扱う優先順位の低い内容は、定着不十分でも諦めねばなりません。

続いて、教科書的な考え方を何らかの具体例に適用していく訓練を行います。「考え方」は、実際に何度も使ってみて、誤解があれば正す、というプロセスを経なければ身につきません。(→具体的な訓練方法

以上の準備を経て、「葛藤」に取り組みます。パターンA、パターンB、パターンCそれぞれについて、きちんと例題と演習を繰り返します。

1回の授業で3パターンそれぞれについて例題+演習のセットを実行します。30分×3の構成。例題は100字程度とします(あまり長いと学生が引きずられる)。解説は5分程度。演習は200〜400字程度の小レポートとし、20分以上の時間を確保します。レポートは必ず回収し、採点します。これを3〜5週繰り返します。

一部の学生が演習を白紙提出するようなら、もう少し親切に出題する必要があるでしょう。具体的には、「**について標準的なジェンダー論の見解を簡潔に提示し、さらにパターンAを踏襲し理論と現実の齟齬について個人的な体験を絡めて論じなさい」というように、題材と構成を指定します。

自分の結論を建前論と整合させる必要がないことは、小レポートの採点によって示すのが確実。こんなレポートにも「優」をつけています、とプリントにして配布します。優等生的、結論保留、居直り、など主なものを各1〜2通ずつ。意外に素朴な内容なので、学生は安心するでしょう。これを繰り返します。

数週間経つと学生はだんだん経験談などがネタ切れになってくるので、次の講義までの1週間、自然とジェンダーに関心が向くかもしれません。なお「葛藤」2週目以降の例題は、前回のレポートで学生の踏み込み不足や見落としが目立った事柄に焦点を当てて、ネタ切れに頭を抱える学生にヒントを与える内容とします。

最後に、題材やパターンの指定を外し、分量をA4用紙3〜5枚程度まで増やして、期末レポートとします。過去の小レポートに書いた内容を組み込むのもOKとします。パターンA〜C以外の「葛藤」には10点程度のプラス評価を行う、などとアナウンスしてみてもよいでしょう。

6.

ガイダンス1回、知識3回、定石3回、葛藤3回で最低10回。できれば1,4,5,5の全15回。いずれにせよ半期で扱うにはたいへんな内容です。

個人的にはやはり、入門を謳う半期の講義なら、「優等生の答」を確実に書けるようにするまでを目標としたいです。教科書的な見解を誤解して、意味のない葛藤をしたり、ズレた批判をしたり、そうした無駄って世の中に多いじゃないですか。半年くらい、きちんと時間をかけて取り組む価値があると思うのです。

その他、実践で問題となるのが、レポートの返却。その時間を確保できそうにない。もし可能であれば、学籍番号順に座席を指定し、演習中に机間巡視しつつ返却する、といった手段が考えられます。また学生の人数が多い場合、レポートの採点が不可能となり、上記の授業案は到達目標の後退を避けられません。

7.

二年目以降は、なるべく「こうするべきだ」という結論を出さない、分析に徹した授業をした。答を求めて混乱する学生もいたが、自分の言葉で書く学生は増えたように思う。

大野さんの授業について、私がひとつ疑問に思うこと。それは「大野さんの授業に参加した結果、「自分の頭で考える」ことができるようになった学生が、いったいどれだけいるのか」です。

昨年の講義のテープ起こしを配布し、「これを読んで、感想をレポート用紙3枚にまとめてください」と指示したって、レポートの質は少しも変わらないのでは? 興味深いレポートを書ける人は書ける、書けない人は書けない。そしておそらく、半年後には大半の学生がレジュメの内容をほとんど忘れ去っているでしょう。

大野さんの工夫は、学生のアウトプットを調整するため、インプットするデータに手を加え、能力の有効活用を図るもの。それはそれで有意義だと思う。

でも、能力不足の学生にスキルを与え、慣らし運転をさせ、思考のアリ地獄から引き出し、価値観のアンバランスを解消する、といった、「できない学生」を「できる学生」に育てる発想が、もっとあってもいいのではないでしょうか。

関連

平成21年2月25日

こういう記事が話題になるというのが、よくわからない。実際にやってみればすぐにわかることだ。

記事のポイントは「サブアリューロン層」という、糊粉層とデンプン層の境界部分。無洗米はデンプン層しか残さないから、「うまみ」がないのだという。だから「サブアリューロン層」をギリギリ残すように精米した白米が一番いい、と主張する。

「サブアリューロン層」という言葉は多くの人が使っているのだけれども、米の断面を見ても、そういう「層」があるわけではない。実質的には、薄い糊粉層の中でもデンプン層寄りの部分を指すようだ。

結局のところ、記事を要約すれば、糊粉層を少し残すということだ。少しなら、むしろあったほうが美味しいんだ、という話なのである。

「サブアリューロン層」は精米業者の宣伝文句によく出てくる。ここで注意すべきは、精米の仕組みを実際に見てみればわかるように、とてもではないが、米の一粒一粒について、糊粉層の厚みをきちんと制御できるようなものではないこと。

糊粉層を「薄く」残す、というその実態は、「いくらかの米粒は糊粉層を失い、何割かの米粒は糊粉層が少し残り、一部の米粒は糊粉層がたくさん残っている」。

まあ、無洗米がおいしいかまずいかは、自分で食べて確かめてみればいいと思う。他人の味覚は関係ない。食べるのは自分(と家族)だけなのだ。

精米技術の進歩を活かして「サブアリューロン層」を宣伝文句に掲げる業者は、「サブアリューロン層」こそ米の「うまみ」を司る部分だというのだけれど、図書館へ行って古い本を引っ張り出してみれば、ふつうはデンプン層の味が重要だと書いてある。

繰り返すが、このあたりは、自分の味覚で判断してほしい。

個人的には、精米された米は劣化が進むので、おいしいごはんを食べたいなら、5kg入りのを買わず、1〜2週毎に2kg入りのを買うことを勧めたい。

もっとも、実際に試してみて自分には味の差がわからないことが判明したなら、5kg入りのを買って1ヶ月くらいかけて食べたっていいだろう。

余談1

じつは無洗米が登場した頃、「無洗米はアリューロン層を残しているから美味しい」と宣伝されていた事実がある。「研がなくてよい白米」と「削りすぎていない無洗米」は、区別のつけようがない。

余談2

私が高校生になる頃まで、実家のごはんは胚芽米だった。米を研ぐと胚芽が流れてしまうといって、母は米を「研ぐ」ことを禁じていた。私立の小中学校へ通ったため昼食もお弁当だった私は、ごはんというのはこういうものだと思っていたのだが、給食で白飯を知った弟の長年の抗議によって、胚芽米から白米へ移行した。

それまで、旅館のごはんは、プロが炊くから美味いのだと思っていた(注:旅行以外で外食はしない家庭だった)が、家庭の安物の炊飯器でもこんな美味しいごはんが作れるのか、と私は衝撃を受けた。なるほど、みんな白米ばっかり食べるわけである。

余談3

私はカレーを作る際、具材を「炒める」ステップを省略している。その手間をかけるに足る味の差が、自分にはわからないことを確かめたからだ。なるほどタマネギの食感(だけ)は違うが、炒めた方が美味しいとも思えない。手間と油のことを考えると、省略した方がよいと判断している。

平成21年2月24日

1.

まるで他人事のように書き出すけれども。

松永さんが「正字正かな派」のために何か不幸になっているなら、あるいは、これから不幸になるという理路があるなら、松永さんが「正字正かな派」を批判する意味はあると思う。でも、「正字正かな派」は基本的に、自分自身が歴史的仮名遣いを使っているだけで、それ以上のアクションを起こそうとしていない。

「正字正かな派」が怒るのは、「正字正かな派」が批判されたときくらいだ。「正字正かな派」は、少数派なりの「正しさ」の基準を持ち、自らの生活において実践することでとりあえずは良しとしており、それが脅かされない限りは、静かに仲間を増やしているだけだ。

消極的であれ社会の多様性を許容しているわけであり、松永さんとぶつかる必然性はない。

松永さんの記事は、「自分は「正字正かな派」とは意見が異なる」といっているだけ、とも読める。とくに「正字正かな派」の反省や転向を求めるつもりはないのかもしれない。もしそうであれば、問題は、文章を素直に読むと、「正字正かな派」は**すべし、と要求しているように解釈できることだ。

お節介は重々承知しているが、「私は**という考え方を持っているので、表記だけ歴史的仮名遣いにしようとは思いません」といった書き方ならば、もう少し落ち着いた意見交換ができたのではないか。

2.

とはいえ、「**批判」が文章を書きやすい型なのは事実。**への違和感を書き連ねることで、自ずと持論が浮かび上がってくる。そうか、自分はこんな考えを持っていたのか、と思う。

で、自分の考えがよく伝わりそうな文章が書けた、と思って公開するのだけれども、「**批判」の部分ばかり注目されて無用の反発を招くことが少なくない。

松永さんがどうなのかは、本当のところ、わからないが、私の場合はたいてい、批判の対象に私の文章を読んでほしいとも思っていない。

「**批判」は単なる文章のスタイルに過ぎず、「私の意見は、Aではない。Bでもない。AやBに同意しない理由は**であり、つまり私の考えはCである」という思考過程を素直に文章にすると、「**批判」になる、というだけの話なのだ。「**は**せねばならぬ」なんて書いていても、それは弱い願望に過ぎない。

私は自分が少数派に身を置くことが多いから、意見を「押し付けられる」ことへの恐怖感は人並み以上に持っているつもりだった。だが多数派のみなさんこそ、むしろ「批判慣れ」しておらず、ちょっと異論をぶつけられただけで危機を感じて爆発するものだと、数年間ブログをやってきて、私は思い知らされた。

なので、(大半の記事は激烈な書き方をしてもスルーされるため)まだまだ目先の面倒に負けてしまうことが多いが、少しずつ、推敲をするようになった。批判や説得の色彩を薄め、「私には異論がある」ということを強調するように。

3.あるいは

何だかんだいって昔は、「みんなバカでどうしようもない。俺のいうことを聞け」という気分が強かったように思う。今でも、下書きの段階では、まあ、そんな感じだ。

が、いろいろ反論などをされてみると、結局、同意はできないまでも、「それはそれで理解できる」と納得できることが多かった。そうした経験が積み重なった結果、「意見は異にするが共生はできる」という範囲が拡大し、批判対象の実際の行動の変更を強く希望することが、かなり減った。

自分が同意できない意見にはネガティブな評価をせざるを得ないが、しかし批判対象の撲滅を望んではいない、というニュアンスを、うまく伝えられるような表現を模索し続けている。

関連記事

平成21年2月24日

1.

例によって例のごとくの徳保的おせっかい記事。

松永さんは「正字正かな派」の主張のポイントを踏まえずに議論されているように思う。

2.

「正字正かな派」がどうして歴史的仮名遣いの正当性・正統性を主張し、現代仮名遣いを批判するのか。それは、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いへの変更は、それ以前の字体や仮名遣いの変遷とは一線を画すもので、無用のルール変更を行い伝統を断ち切ったため、と私は理解しています。

「ら抜き言葉」のような、自然発生的な、そして一定のメリットを持つような言葉の変化を集積して歴史的仮名遣いのルールを更新したならば、今あるような批判はなかったでしょう。実際には、小数の「識者」たちの手によって、天下り式に根本的なルール変更がなされたのです。

さらにルール変更の方針が決定的にまずいものでした。直感的な「わかりやすさ」という検証不可能な基準でルールの根底を揺るがし、表音主義を取り込んだため、理解しがたい仮名遣いのルールが多数、生じました。現代仮名遣いのテストでは丸暗記が幅を利かせることになりました。

漢字の簡素化も同様です。「わかりやすさ」を基準としてそれぞれに歴史のある漢字を一緒くたにし、字のルーツを示すパーツを変形・省略してしまったので、現代漢字は歴史から切り離され、字と字のつながりも不明となり、丸暗記の必要な領域が拡大しました。

こうした漢字と仮名遣いの変化と比較して、文法の変化は民主的な文化的手続きに基づいていた(いる)、というのが「正字正かな派」の見方だろうと思います。

例えば「新しい書き言葉」を生み出した言文一致運動では、多くの国民の(無意識にせよ)自発的な選択によって、書き言葉は変化していきました。そして戦後の改革においても、文法が天下り式に大改訂されるようなことはありませんでした。

人々の営みに基礎付けられた変化ならば、たとえそれが大きな変化であっても、伝統が「断絶」するものとはなりません。

日本語が緩やかに変化してきたことを否定する人はいません。問題は、どのような変化なら受け入れられるのか、そして、変化とどう向き合うべきか、です。

言葉は意思疎通の道具です。ほとんどの人は、幼少時に接し、青年時代までに身につけた言葉を、ほとんどそのまま使い続けます。言葉の変化とは、一人が使う言葉が変化していくのではなく、ある社会の中で、古い言葉を使う人々が減り、新しい言葉を使う人々が増えていくこと、なのです。

言葉は自然と変化していきますが、「自然なこと=よいこと」でしょうか。社会が言葉の変化を抑制することは、コミュニケーションを阻害する要因を抑制し、社会の安定と平和を守るために有意義だと思います。

ルールが大多数の国民の実際の言葉遣いと遊離してしまったときには、ルールの方を緩和するのが妥当でしょう。しかし、言葉の変化をむしろ積極的に肯定するような立場には与し難い。

私が「正字正かな派」の主張を正確に代弁できているとは思いませんが、とりあえず私の理解はこう。

3.

……以上を仮に前提としても、松永さんの主張は、とくに否定されません。

わたしは、「表記」と「文法」が切り離して考えられることについては理解している。しかし、その上で、正字正かなが「表記」における批判にとどまり、文法についてはまったく顧慮しないことを中途半端だと考えている。わたしにとって、「失われた仮名遣い」に対する郷愁は、「失われた表現方法」への郷愁の一部である。であるから、わたしにとっては「旧字旧かな」という「字面の表記」だけでなく、「明治大正の擬古文」という文体や、言文一致運動以前の文体、あるいはいわゆる古典文法の文体*3といったものすべてに及ぶ。逆に言えば、「正字正かな派は、字面の表面的なものだけしか扱っていない」という批判である。日本語表現における相対的な視野が完全に欠落している。文字表現は文法や文体を含めた記述システム全体の中で論じられるべきであり、正書法だけを切り離して論じるのは片手落ちである。

松永さんが正書法だけを切り離して論じるのは片手落ちと考えること自体に噛み付く「正字正かな派」は、滅多にいないはず。

では、こうした書き方に「正字正かな派」がどうして不快感を示すのか。「理解されていない」と感じるのか。その結果、本来ならお互いの道をすんなり進めるはずの二者が激突することになるのか。それは「正字正かな派」の狭量も一要因かもしれないけれど、松永さんの配慮不足に第一の原因があるのではないか。

「Aの変化は許容範囲だが、Bの変化はダメ」という主張に対して、「一方の変化ばかり問題視するのは片手落ち」と返すから反発される。「Aの変化とBの変化は同一視できない」と。

松永さんも、そこに違いがあることは理解されるはず。ならば「正字正かな派」に理解を示したした上で、異なる前提に基づく自らの立場を示せばよかったと思う。誤解されがちですが、複数の「正字正かな派」の日記を注意深く読み続ければ、批判されない限り、彼らが異論の持ち主とコトを構えないことがわかります。

4.

続いて松永さんが野嵜さんのスイッチを入れた一節。

わたしはすべてにおいて「正しさ」を振りかざす言説を信用しない。「正確さ」は求めることができるが、絶対的な「正しさ」としてそれを振りかざす者を信用しない。自分の信念を持ち、「自分はこの考え方を選ぶ」というのならわたしは尊敬するが、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言は受け入れられない。それは「正義」を振りかざす者どもも同様である。「正字正かなではなく旧字旧かなや歴史的仮名遣いなら許容できる」というのはそういう意味である。なぜなら、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはあるからだ。

野嵜さんだって、闇黒日記は趣味の領域だし、「言葉言葉言葉」は歴史的仮名遣いに関心のある人に向けたコンテンツだから、歴史的仮名遣いで書いているのです。仕事などで現代仮名遣いネイティブの人に情報を伝える際には、現代仮名遣いを選択しているそう。

人が何事かを主張するとき、自分が考えるなりの「正しさ」が(無意識であれ)仮定されているのは当然というか、そうでなかったら批判も何もないはず。

例えば引用した松永さんの文章は、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはあることにネガティブな立場をも(積極的に)許容するようには読めない。つまり、この点について、松永さんは多様性を許容するのは「正しい」と主張しているに等しい。

おそらく松永さんは、「原理主義」的なものを信じない、という程度のことをいいたいのでしょう。

が、そうであれば、野嵜さんをはじめ「正字正かな派」は「原理主義」的ではない。現代仮名遣いは不合理で「間違っている」とは思っても、「現代仮名遣いを爆破し全国民を再教育しよう」とはしていません。「正しい」のは歴史的仮名遣いだ、と主張し、理解者を増やそうとしているだけです。

「正字正かな派」は、たしかに歴史的仮名遣いを(現代仮名遣いと比較して)「正しい」と主張しているけれども、その強度は、松永さんが他のヴァリアントの存在を受け入れる度量をポジティブに評価するのと大差ないでしょう。

5.

松永さんが「正字正かな派」の「正字正かな」という言葉の選択を批判するのは、いちゃもんの類だと思う。

無論、「正」という字に特別な思い入れを持っていて、事実上、同じことをいっている文章であっても、「正しい」という言葉が使われているかどうかを決定的な違いと考える人もいていい。

今回は「松永さんの側から「正字正かな派」を理解し無用の摩擦を避けるには」という組み立てで書いたけれども、逆のアプローチも当然、可能。まあでも、カチンときた側にものをいっても通じないので、松永さんが一歩譲る方が現実的だと思う。

こちらの記事の末尾に引用している、野嵜さんが「正しい」と云ふ事について簡潔に所感を述べた文章を参照していただければ、松永さんが「正字正かな派」に対して抱いている懸念は(大方)杞憂だとご理解いただけるのではないか。

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平成21年2月17日

0.

忙しい人は1.と補記だけ読んでください。

1.

この1年ほど、池田信夫さんと「リフレ派」の意見のすれ違いというか、お互いにバカにしあってる様子が、どうもよく理解できなかった。

今も何をわかってるというわけでもないけれど、素朴に、「こういうことかな」と思ったことがあるので、メモしておきたい。

おそらく、すれ違いの原因は、「リフレ」という言葉の定義にあると思う。

池田さんのいう「リフレ」
景気回復をもたらす手段としてのインフレ誘導政策。
リフレ派のいう「リフレ」
金融緩和・財政支出・減税などで需給ギャップを縮小する政策。

2.

とりあえず、この辺。

すっかりハシゴをはずされた日本のリフレ派は四分五裂状態で、そのリーダーだった竹森俊平氏は「構造改革派」に転向してしまいました。飯田泰之氏も成長理論に軸足を移し、教祖の岩田規久男氏もリフレをまったくいわなくなりました。田中秀臣氏ひとりが「屋上の狂人」状態で、今度は政府紙幣に「転進」をはかっていますが、メディアも相手にしない。でたらめな話を誇大に宣伝して他人を中傷したことで、彼らの学問的な信用は失われたのです。

ここで名前の挙がっている田中秀臣さんは、竹森さんも岩田さんも飯田さんも、もちろん田中さん自身も、相変わらず金融緩和を訴えていることに変わりなく、また欧米の中央銀行と政府の多くが歴史的な金融緩和に踏み出していることから、リフレ政策が不況対策の常識である事実が再確認された、という認識を示す。

リフレ派ブロガーの状況認識は概ね田中さんと同様のようだ。

たしかに、急激な需要縮小のため供給力過剰となり、失業者が続出する経済状況に対して、「過剰な生産力を削減して身の丈にあった経済規模を目指すべき」という考え方で経済を運営しようとしている国は見当たらない。個別の産業については縮小整理が妥当と判断したりもしているようだけど。

3.

しかしながら、池田さんの主張も、わからないではない。

なぜなら、「デフレこそが不景気の原因であり、緩やかなインフレを実現すれば景気は回復する」といった主張を掲げて経済政策を組み立てている国もまた見当たらないからだ。デフレは不況を加速するから、0%超のインフレ率を死守しよう、というコンセンサスはあっても、「インフレで景気が回復する」とはいわない。

いや、海外でも、資源価格が落ち着くとともに明白となってきたディスインフレ傾向(インフレ率が低下する傾向)を反転させることで景気を回復させられる、と主張する人はいるそうだが、主流派とはなっていない。デフレ回避は景気回復の必要条件だが十分条件ではない。

日銀が量的緩和に踏み切って以降、日本は金融緩和をし過ぎた、それが世界にバブルの種を蒔いた云々という池田さんの主張は、私には同意できない。円安バブルがどうのこうの、というのも同様。

それでも、数年前のリフレ派の先生方の主張は、たしかに私には「緩やかなインフレ率の実現自体が景気回復をもたらす」と読めたわけで、「いま欧米の経済政策を司る人たちがそういうことをいってますか?」と問われたら、「うーん……」と首を傾げてしまう。

政策メニューに差異はないのだけれど、説明はたしかに違うかな、と。

補記:

何らかのショックがあって需要が供給より少なくなると、設備投資が途絶え、失業が増え、消費が減って、不況となる。

そこで、以下の対策を行う。

  1. 名目金利を下げるとともに緩やかなインフレを実現することで長期の実質金利を下げる。すると設備投資の採算ラインが下がり、設備需要が刺激される。需要が増えれば失業が減り、消費も回復するだろう。
  2. デフレが続いた国の場合、緩やかなインフレの実現により、現金や低利率の預貯金を死蔵することが(従来と異なり)不利になるため、消費や住宅投資などが活発になるだろう。(通常、消費は急減も急増もしないが、「長期デフレ→緩やかなインフレ」の転換期には力強い消費の成長が実現するかもしれない)
  3. 上記の金融政策が効果を発揮するまでには時間がかかるので、1年程度は財政政策で需要を創出する。

欧米ではもともと緩やかなインフレが実現されていたので、2番目の効果は(さして)見込めない。だから欧米に目が向けた議論が続く昨今、1番目の効果ばかりが話題の中心にある。……ということなんじゃないか、と私は思う。池田さんの主張するリフレ派転向説は腑に落ちない。

緩やかなインフレの実現自体を目指すかどうかは、不況への対応から景気の調整へと目標を切り替える際に、判断を左右する要因となる。例えば、2006年の日銀の量的緩和解除は正しかったのかどうか。デフレが終ってないのに何故……と私は思ったけど、池田さんは金融緩和をやり過ぎたという。

それでも、当面の政策は金融緩和で一致しているので、リフレ派の転向云々は、しばらくは重要な問題ではないと思う。

平成21年2月17日

アメリカでは大規模な財政政策の実現に向けて、「これは将来的な経済成長の礎となる云々」と説明付けられているそうだけれども、実際のメニューを見る限り、直接的にそんな効果がありそうには見えない。グリーン・ニューディールが目玉だけど、じつは道路や橋の補修に使われる金額が一番多かったりする。

オバマ政権の経済政策を「これからのアメリカの成長戦略が見えない」と市場が評価して株価が下がっている、との報道が続いている。無茶をいわないでほしいところ。成長分野を発見する能力が政府にあるなら、計画経済でOKなのだ。せいぜい成功軌道に乗った分野を補助してアシストする程度だろう(それだって危険)。

海の向こうの人々も、税金を需要の一時的な「つなぎ」に使います、では納得しないのだろうな。それで「安心して研究開発などに投資できるような経済環境を守ることは将来の経済成長のために必要だよな……」と考えて、いろいろ耳あたりのいいことをいうのだろうと思う。

追記:

そして2月22日には2013年度の予算で財政赤字を半減する計画が発表された。予算圧縮と増税のセット。日本の「定額給付金+消費税増税」に私はポカンとしたけれど、財政赤字は通貨の信認を毀損する云々といって、将来の財政健全化を主張すると国民が歓迎するのは洋の東西を問わないらしい。

注1:ふつう景気対策としての減税や財政支出は、消費などの需要を増やすことを目的としている。しかし一時的な減税の先に(恒久的な)増税があるとの認識が広まれば、人々はお金を預貯金として保持し、消費を増やさないだろう。そこで、減税の計画を公表するとき、増税の計画は曖昧にするのが望ましい、とされる。

注2:通常、経済が成長するとき、税収はそれ以上に増える。したがって、減税分は絶対に「増税」で補填する必要がある、というわけではない。減税の計画を公表する際、増税の計画を曖昧にするのは、実際問題、必要な増税幅を予め決定するのは不合理だからでもある。

ところでアメリカの増税の中身だけれども、25万ドル以上の収入がある人への課税を強化するそうだ。累進課税の強化や緩和については、どの入門書にも賛成や反対の理屈が書かれている。ただ残念なことに、私は実証的な研究を見たことがない。オバマ政権の政策変更も、とくに客観的な根拠に基づくものではないらしい。

累進緩和でやる気が出る人もいれば、逆の人もいる。全員が満足する道はない。だから理屈VS理屈では決着はつかない。「日本」とか「アメリカ」といった母集団を設定して、一人一人にはそれぞれ言い分はあるだろうけど、全体として累進強化 or 緩和が経済成長にプラスなのかマイナスなのか、調査する必要がある。

もちろん、時代による変化もあるだろう。だから折々に再調査して、見直していけばいい。

ともかく、これは素人が無理をいっているだけなのかもしれないが、何かうまい調査方法を見出して、客観的な根拠を元に政策を変更してほしいと願う。私は個人的な事情から(当座の立ち位置としては)累進強化に賛成だが、オバマ政権によるアメリカの政策変更(?)を単純には歓迎できない。

注3:アメリカが財政再建の見通しを示したのは、通貨の信認を維持するため、といわれる。FRBが長期国債の大量買入れによる長期金利低下策を最終手段として温存する気配となっており、景気対策の財源として国債の海外販売を推進したい。となると、ドル安はまずいのだという。

平成21年2月10日

はてなブックマークでは、「相続税100%」に賛成する人がけっこういる。自営業の人や、大都市の中心部など地価の高い土地に建つ持ち家に暮らす人が少ない、ということなのだろうか。

最近、世間で相続税が話題になったのは、80年代後半。

後にバブルと呼ばれる地価高騰が進む中、東京の中心部などにおいて、遺産が相続税の控除枠を突破して、焼け野原から復興させた土地を追い出される人々が続出した。土地の有効利用? 経済的合理性? そんなものは滅びろ、と国民は怒りの声を上げ、基礎控除額はバブル前の3倍程度まで引き上げられた。

ただ、政治は税制の変更には慎重。最後の基礎控除増額は、地価下落が深刻な問題を引き起こしていた1994年。皮肉なことに、都市を再開発して新しい事業を興そうとする人が減ってしまったため、基礎控除増額の弊害が少ないということで、さしたる議論もなく決まってしまったようだ。

相続税の基礎控除額の変遷
1958年150万円+30万円×法定相続人の数
1962年200万円+50万円×法定相続人の数
1964年250万円+50万円×法定相続人の数
1966年400万円+80万円×法定相続人の数
1973年600万円+120万円×法定相続人の数
1975年2,000万円+400万円×法定相続人の数
1988年4,000万円+800万円×法定相続人の数
1992年4,800万円+950万円×法定相続人の数
1994年5,000万円+1,000万円×法定相続人の数

そもそも1905(明治38)年に相続税が創設されたとき、基礎控除は存在しなかった。1947年に民法改正で家督相続が廃止されて新相続税法が制定され、さらに1950年、シャウプ勧告に基づき全部改正されたときにも、まだ基礎控除はなかった。

1958年に基礎控除が設けられたのは、国民の生活が安定し、一般庶民も子孫に残したい遺産を持つようになったことによる。当時の岩波新書を読むと、都市近郊の農家と零細な自営業の保護を訴える意見が目立つ。経済縮小を招く生産主体の消滅は何としても防がねばならない、とする。

1975年の大改訂は、列島改造ブームと狂乱物価の帰結。高度成長を経て農家も自営業者も減っていたが、代わりに市街中心部にある住宅の相続などが問題となった。「住みなれた土地を追い出される人々を見捨てる政治は断固許さない」という国民の声が、限られた資源である土地の最適配分という経済原理を叩き潰した。

しかしこうして地主の固定化が進み、しかも多くの土地が低層建築の個人住宅に事実上、用途が限定されてしまった結果、いっそう「市場に出た貴重な土地」の価格が高騰する悪循環となった。地価が安い内に暮らし始めた人が永続的に利益を得、土地の有効利用が進まない、たいへんな不合理が生じてしまった。

家主自身が暮らす住宅は、それ自体が富を生むものではない。土地の取引価格が上昇する中、住宅を保護するとなると、農地や自営業の保護とはレベルの違う基礎控除額の設定が必要となる。1988年以降の改定ではいっそう住宅保護の意味合いが強まり、都市部の地価高騰に引きずられて途轍もない基礎控除額となった。

第一生命経済研究所の調査結果などを見るに、みな大して相続などしていないことがわかる。この程度のものを守るために、現在ほどの基礎控除が妥当なのかどうか、個人的には疑問を感じる。

しかし考えてみると、地価高騰の際に相続税を呪ったのは、まず相続させる側であった。

貧しい時代に生まれ、兄弟も多かった自分は小さな遺産を相続するのが精一杯だったが、自分の子どもたちには遺産を残したい。アンケートにある通り、お金をたくさん残そうとするのは少数派だが、不動産は残したいのだろう。親子で暮らす場合、自分が亡くなった途端、子らが住居をなくすのも堪らなくつらいだろう。

いま「相続税100%」を牽引しているのは持たざる者の怒りだが、多数派の共感は得られまい。「相続税100%」は、家族という相互扶助システムに大きな打撃を与え、個人が資産を保有する動機を喪失させ、多くの人々の生活と人生設計を破壊する施策だ。山手線の内側から貧乏人を一掃する劇薬でもある。

他人事なら気軽に改革を口にするが、自分のこととなると保守的になるのが庶民様。学校の統廃合くらいでガタピシいうのが多数派のコンセンサスなので、とてもじゃないが政治的に通らないだろう。

「リフレ+基礎控除の据え置き」が現実解だと思う。これだって、実際に地価が再び上昇したとき、守り通すのは並大抵のことではない。

補記:

遺産の過半は不動産であり、「とくにまとまった遺産を残すつもりはない」人が多いにもかかわらず、遺産が巨額になるのは、このためだ。「相続税100%」では金融資産に焦点を当てた議論が多いが、もともと7割はさしたる貯蓄がない。(厚生労働省:平成16年国民生活基礎調査の概況

貯蓄が一番多いのは60代で、70代になると、きちんと減っている。10年で200万円くらい。これは平均の話で、1000万円以下の貯蓄しかない人はもちろん、貯蓄を概ね維持している。100歳まで生きちゃったらどうしよう、ボケちゃったらどうしよう、と思うのは当然で、1000万円以下の貯蓄を取り崩せというのは酷だ。

ともあれ金融資産は、一部の人を除けば、大した金額ではない。それでも、これを全額没収すると、「葬式もできない」とか、「残された子はどうなる」といった問題が激増する。だからそれは増えた税収から公的扶助で……のかもしれないが、個人の人生に行政が半強制的に踏み込む領域を増やしたい人は多くないだろう。

さらに不動産の100%没収は、個人名義で不動産を持つリスクを非常に高くする。個人の不動産所有は終る。お金と違い、家屋は分けられない。夫婦名義の家、夫が死んだら、半分が妻、半分が国のものとなる。だが国が半分権利を持っているのだから、ホームレスの支援に半分使わせてもらう、というのは無理だろう。

いろいろ考えていくと、結局「相続税100%」は思考実験以上の意味を持たないように思う。

家族のような個人的な人間関係によるコンパクトな相互扶助は不平等の温床である、というのは、なるほどそうかもしれないが、その冷たさに多くの人は耐えられまい。持たざる者は「自分はそれでも生きてきた」というのだろうが。

地方自治が受益と負担の距離を縮め、柔軟な行政を実現する方法として支持されるように、家族のことは可能な限り家族の中で解決したいと考えるのが多数派の感性だろう。例えば、親を亡くした子がみな平等に一文無しになり公金で生き延びる他ない社会は「平等で素晴らしい」だろうか。No という人が大多数だろう。

平成21年2月10日

0.

正月に実家へ帰ったとき、母がいっていたこと。

1.

景気対策で公共事業、っておかしくない? だって、たしかに小中学校の耐震工事はした方がいいだろうけど、それは景気と関係なくやればいいんじゃない? 素晴らしい製品を作ってるキヤノンの工場が止まってしまう、そういう状況に対して、学校の耐震工事は、あまりにも遠回りな需要刺激策だと思う。

不況下でも元気な日本企業特集とかテレビでやってるけど、なるほど、そうした企業がたいへんな努力をして利益を確保しているのは立派だけれども、それを紹介して「知恵を絞って工夫を重ねれば不況も怖くありませんね」みたいなニュアンスを漂わせるのは、やっぱり違うと思う。

自動車も、デジタル家電も、お金に余裕があれば「ほしい」人が多いのに、不景気で先行きに不安があるから、買えない。それで工場の操業が止まり、失業者が増えているんじゃないかな。

そうした状況だから、総需要を増やす金融政策は、とっても有意義なはず。

時代の変化についていけなくて、魅力のない商品しか作れない企業が淘汰されていくのは仕方ない。けれども、本当はみんながほしいものを作れる企業が痛めつけられているのを放置していていいのかな。

自動車やデジタル家電を製造する技能を持った人たちが、介護などのサービス産業へ移動するのは、失業よりはいいけど、手放しで喜べることではないと思う。それは可能な限り短期間で解消すべき不況という状況に対して、人材の配置を最適化してしまうってことを意味してるから。

もちろん、じつは本当に自動車の需要が落ちているのかもしれないよ。デジカメも落ち目なのかもしれないね。だから、自動車の税金を下げるというような、直接的な産業支援はすべきじゃない。

それでも、今の不況は、みんなのほしいものが作れなくなったので物が売れなくなったという感じではない、つまり供給ではなく需要に原因がある、という認識をきちんと持つことが大切だと思う。

2.

「意図的に緩やかなインフレを実現する」っていうと、なんかすごくワーッて批判が出てくるんだけど、とても基本的なところで誤解されているような気がするよ。

緩やかなインフレは、経済がうまく回っていくための条件なんだよね。専門家じゃないから、ちょっと具体的な数字は出せないけど、2%から3%くらいの物価上昇率だと、いちばん、経済が発展するんだよね。80年代の欧米みたいに7%とかの物価上昇率になると生活が安定しないし、日本みたいに0%やマイナスなのは最悪。

デフレだと経済がうまくいかないのは、銀行も従業員に給料を払ったりしないといけないから、貸出金利が0とかマイナスにはできなくて、でも物価が下がっていくから、実質の金利が高くなってしまう。だから設備投資をしたり、家を買ったり、しにくくなっちゃう。

それに、お金を使わずに持っていると買えるものが増えたり、もっといいものが買えたりするようになるんだから、みんな消費をしなくなっていく。みんなが買い物をしなかったら、みんなの収入が減っていく。ますますお金が貴重になって、買い物を減らしてしまう。

もちろん、そんなの関係なく買い物をする人もいると思う。でも、買い物するのをやめておこう、と思う人が増えてるんだから、全体として経済の発展は低め低めになってしまうよね。

あと、多分それだけじゃなくて、人はやっぱり、昨日よりいい物を作ったなら、昨日より高く買ってほしいものじゃないかと思うのね。昨日より素晴らしいものを、同じ値段とか、あるいはもっと安い値段で売らなきゃ誰も買ってくれないというのは、とっても悲しいことだと思う。

「デフレで物の値段が下がって、1円の価値が上がっているから、昨日と同じ値段で売れたということは、実質的にはプラスの評価ということなんだよ」なんていわれても、実感が持てないんじゃないかな。頭では理屈をわかっても、生きる気力がなくなっていくような気がするな。

そんなわけで、デフレだと、経済が発展しにくいんじゃないかと思う。

経済が発展しないということは、毎日みんな頑張っているのに、少しも生活が楽にならないということだから、だんだんみんなの顔が曇ってしまうよね。デフレはみんなの努力を吸収するブラックホールみたいなものだから、早く終らせないといけない。

インフレは資産課税だとかいわれるけれど、経済が発展すれば資産は増えていくんだから、心配いらないんじゃないかな。3%のインフレといったら、たしかに資産の目減りが気になるだろうけど、いずれ金利が追いついてくることを忘れちゃいけない。とくに運用しなくても、そんなに減る一方じゃないということ。

物価が少しも上がらないことを望むのって、目先のお金を守ろうとして、だんだん追い詰められていくような、そういう袋小路への道という感じがするね。

3.

年金ていうのは、親孝行みたいなものだと思う。家族や子どものいない人も、たくさん社会貢献をしてきたのね。みんなで、子どもが健やかに育つように教育や医療の制度が整った社会を作ってきたんだよね。

身体にガタがきて、もう働けないよ、っていう人を、見捨てるような社会は、冷たい。生活保護があるじゃないか、なんて極論でしょう。財産とか、全部なくすまで生活保護はもらえないじゃない。つらいよね。

ただ、これから老人の割合が増えていくし、若い子たちに重荷を背負わせるわけにもいかないからね。

老人がいまくらいの生活水準で満足して、若い人たちが経済発展していくのがいいと思う。

もし若い人の給料が今の倍くらいになったら、年金も倍になったとしても、今より生活はよくなるでしょ。だから、えーと、物価が変わらない仮定で20年くらいかけて月給が倍になるには……。

*母に代わって私が計算してみると、年率3.5%の給料増で20年後の月給は倍になる。詳細は以下。

2X=X(1+a/100)^20
log2X=logX+20log(1+a/100)
log2X-logX=log(2X/X)=log2≒0.30≒20log(1+a/100)
0.015≒log(1+a/100)
10^0.015≒1.035≒1+a/100
a≒3.5[%]

うん、そうそう、以前見た数字もそれくらいだったっけ。この場合、だんだん、現役のときと引退してからの収入の差が大きい社会になっていくんだけど、それは我慢しなきゃいけない。

でも、子どもが巣立ったのにたくさん部屋のある家に暮らす、みたいな無駄がなくなっていくのかもしれないよ。引退夫婦は徒歩で生活できる都会の狭いアパートへ引っ越すのが常識になったりしてね。都会で結婚生活を始めて、郊外で子育てをして、都会で余生を過ごす、みたいなライフサイクル。悪くないと思うけどね。

持ち家のある人だったら、郊外の家は若い家族に貸すとかね。年金と家賃を合計すれば、それなりの生活ができるんじゃない?

4.

景気対策で所得税の定率減税、累進緩和、法人税減税が行われたけど、定率減税だけ景気が回復したということで、終ったよね。

累進緩和がそのままなのは、多分、お金持ちの人は少ないから、累進強化してもそれほど税収が増えなくて、だったら能力のある人のやる気を邪魔しないようにした方がいいんじゃないか、ということだと思う。定率減税はみんなにかかわりのあることだから、財政への影響が大きかったんじゃないかな。

法人税減税もそのままになっているのは、多分、定率減税をやめても消費は減りそうにないけれども、法人税が上がったら企業はさっさと海外に逃げていきそうだから、ということだと思う。ただ、本当にそうなるのかどうかは、よくわからない。

5.

母は金融緩和派で、前世紀から「日銀は国債買切り額を増やすべき」と話していた。ただ、家族が「ピンとこない」という顔をしているので、基本的には黙っていた。しかしここ数年、私が経済に興味を持ち、明確に反デフレの立場を取るようになったので、ときどきこうした話をするように。

母は「ふつう」ではない。年収300〜500万円の家計をうまく遣り繰りして安定した生活基盤を確保しているため、日常生活にとくに不満を持っていない。私の弟が大学院進学+下宿しても(体感的な)生活水準を少しも変えないという驚異の調整力を有しており、一時の食料品やガソリンの価格高騰にも全く動じなかった。

そんな母にとって、個別の家庭における「生活が苦しい」といった話題は、「経済問題」ではなく「個人の生き方の問題」となる。多くの庶民が「経済」を見る視点は、新聞の「社会面」に近いものだと思うが、母の場合は「経済面」的な捉え方をしているといえそうだ。

端的には、「野菜の値段が上がった!」「給料が激減!」「許せない!」といった個々人の感覚には距離を置き、消費者物価指数や企業物価指数の推移や単位労働コスト、実質GDPの増減などから経済を見ている。父の給料が増えても減っても、それは個人の事情であり、それをもって景気を判断することはしてこなかった。

結婚後、「お金に不自由していない」といって賃金労働とは完全に距離を置いてきた母。近所のお母さん仲間とは価値観や考え方が違いすぎて、持論を話す相手がいなかった。近所では「無口な人」で通っている母。父は、難しい話を聞くと、すぐ眠ってしまう。60年近くに及ぶ母の孤独を思う。

平成21年2月9日

1.

正月に、母から景気に関する入門書のお勧めを問われたので、紹介したのがこの本。いい本だと思うので、とりあえずAmazonのレビューでも星5つをつけた。

でも、読了後、母は首を傾げていた。各章のお話は納得できて、「簡単にまとめるとこういうことでしょ」と自分で説明できるくらい、わかったつもりだが、全体の要約がうまくできないのだという。

2.

そこで、全体の話の流れがハッキリするよう心掛けて、自分なりの各章の簡単な要約を書いてみた。(この要約はAmazonのレビューにも収録しています。レビューの全文はAmazonで読んでください

序章:マクロの景気とは国内総生産の変化である。
第1章:景気変動の最大要因は設備投資である。
第2章:最近の景気・金利・価格・外需の動向などに基づく将来の予想が設備投資を決める。
第3章:海外の経済成長と日本の輸出増(=設備投資増)には相関がある
第4章:海外直接投資の増加により企業の業績と実質賃金は直結しなくなった。
第5章:資産価格の低下は(バブルから正常への復帰でも)設備投資を減らす。
第6章:主な需要不足対策は財政支出:需要補填、減税:消費促進、金融政策:設備環境整備。
第7章:需要超過による過度のインフレは景気を悪化させるため金融政策で需要を抑制する。
付論:著者流の景気動向指数の見方を紹介。

キーワードは、じつは「設備投資」だったんだな、と要約しながら気付く。逆にいえば、私自身、要約してみるまで、そう認識していなかった。全体の要約が難しいのは、全体を貫く論理が見えにくいから。キーワードすらハッキリしないのだから、なるほど初心者にはピンと来ないのも当然です。

とりあえず母は、私が作った要約を片手にもう一度読み直したところ、もやもやが晴れたみたい。その後、母と話したことを少しご紹介します。

3.「景気ってなんだろう」はこう書いてほしかった

まず何が問題なのかというと、1章で「景気変動の最大要因は設備投資」といっているのに、その後「設備投資」が本文から消えていく。3・5章は「結局、**のとき国内の設備投資は増え(減り)、景気がよくなる(悪くなる)」と書いてくれないから、1・2章を思い出して補完しながら読まないといけない。

4章は本書の中で浮いている。結局のところ景気と給料の関係がハッキリしないのも大問題。これは第1章の説明に難があって、景気は設備投資の増減で「変動」し、消費によって「水準」が決まる、と強調していないから、消費の大切さがわかりにくい。

消費の規模が大切なら、その最大要因として賃金に注目するのは当然。すると、直近の景気回復では、海外直接投資の増加により、企業の業績が賃金と連動しなくなり、日本の好景気は力強さを欠いた……と話がつながる。4章は単体では難なく読めるけど、大きな物語の中に位置づけるのは初心者には難しいと思う。

岩田さんの本が消費を無視しているわけでは決してない。でも、サラサラッと読んでいくとき、頭に残るのは強調されていること、繰り返されていることなんですよね。

6・7章は、総需要を問題にして、設備投資の話はその一部という扱い。だからわかりにくい。1章で設備投資の増減が景気を変動させると説明したのだから、素人の読者は、デフレ型の不景気なら設備投資を増やし、インフレ型なら設備投資を減らせばいい、と考えるでしょう。

とくにわかりにくいのが需要不足の解消法を説明する第6章。減ったのは設備投資なのだから、素直に設備投資を増やせばいい。なのになぜ、実際には財政支出による需要創出が検討されるのか。そして増やすのも減らすのも難しい消費を増やそうとするのか。やはり、もう一段階、説明を入れるべきところだと思う。

具体的には、「設備投資の増減は民間の自由な判断の結果であって、そこに直接、政府が介入すると資源配分が非効率になる。したがって設備投資の波の抑制は、金融政策による投資環境の調整にとどめるべきだが、残念ながらこの方法には即効性がない。そこで……」という具合。

7章も、設備投資を抑制する、ということを中心に据えて説明すれば、1章から7章まで背骨が通る。需要過多、生産が追いつかない、だから設備投資する、需要がますます増える。この悪循環を高金利で打ち砕く。だが高金利は高コスト。需要が緩やかに増えていくよう、金融政策で投資環境を調節していくことが大切。

わかっている人が読めば、全体としてはそういうことをいっていると読める。でもそれはやっぱり、経済書を読みなれている人の場合。初心者は全体を見通しにくいだろうな、と。

おそらく、岩田さんがこの本のような書き方をしたのは、それぞれの話題について、標準的な観点から説明したいと考えたからだと思う。明確に設備投資を軸に景気を語ると、個性的な本になってしまう。むしろそれを避けたのでしょう。でも、代わりに犠牲になったのがわかりやすさ。入門書としては手痛い。

編集者さんが、もうひと頑張りしてくれたら……。うーん、星4つにすべきだったかな。

平成21年2月7日

もう料理番組見れば良いよ

どれぐらい入れてるか目に見えてるんだから

なるほど、と思った。なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

あと、「適量の幅または中間値を目安として示してほしい」という意見には頷ける。これは当たり前の要求だと思う。

ここまで書いたところで手許の本を数年ぶりに開いてみたら、「適量」なんて表記はなかった……。意外と、初心者向けの本は細かく書いてるみたい。

そういえば「料理本の読み方」みたいな本があったんだけど……NHKブックスだったかなあ。以前、立ち読みで面白いな、と思ったんだよね。今度、ジュンク堂へ行ったら探してみよう。

噴いた。

「お父さん、この子、馬鹿だわー! 出汁も入れずに味噌汁作ったって。出汁がなんなのかもわかんないっていうのよ」

私は出汁入り味噌しか使ったことがない。小学生の頃はちゃんとニボシとかで出汁を取っていたんだけど。もう出汁の取り方も忘れたな。あれって、どれくらい煮たらいいんだっけ。

平成21年2月7日

しかしいろいろ参照したとしても、最終的には「自分で考えて意見をまとめる」という基本的なことが教育できない、その重要性すら叩き込めないとしたら、単に教育者や教育システムの問題だけなのだろうか?という疑問は湧く。それは、「自分で考えて意見をまとめる」ことが本当に大切なことだとは、世間では思われていないということの現れではないか。

自分で考えることが大切なのではなく、そこはショートカットして自分で考えたかのように振る舞えることが(処世術として)大切、というふうになっているのではないか。それどころか、もしそれが他人の意見だとしても、少なくとも自分よりは頭が良さそうな人の意見に右に倣えで、何が悪いのかと。世の中そんなものではないかと。自分の意見なんかいったいどこで求められるんだ‥‥。

いやいや、堂々と「学生に『考えさせる』なんてくだらない」といっている(下記の記事など)私のような人間は少数派でしょう。

私が学生だったのは10年ほど前ですが、当時の記憶を掘り起こせば、「自分の頭で考えない奴はダメ」という価値観はきちんと刷り込まれていたと思います。いま会社の同僚と話していても、それは全く同じ。

コピペ・レポートを咎められて開き直るにしても「忙しい」「絶対単位はほしいけど、自力じゃ書けなくて……」などなど、何かしら言い訳をする学生ばかり。みんな学生同士の会話なのに言い訳三昧だったので、「コピペは正義」なんて学生はいなかったのだと思います。相当に不真面目な学生でも同様でした。

だから私は、コピペ・レポート問題というのは、本当にただ単に「人間は低きに流れる」という話でしかないと思っています。早寝早起きが健康にいいとわかっていてもできない、みたいな。それがいいことだと思っているのは、ごく少数派ではないか、と。

ただ私は、漠然と「自分で考えさせる」授業には批判的です。学生には、もっと具体的なミッションを与え、天才たちが考えた枠組みを様々な具体的事象に適用するトレーニングを積ませるべきだ、と考えています。それが、コピペ・レポートを打ち破る方法でもあるのです。

大野さんの授業を私が代講するなら、学生に書かせたいレポートから逆算して授業を組み立てます。(注:講座設計のイロハ(2007-12-12)も参照のこと)

社会が「ジェンダーについて学んできました」という学生に期待するのは何でしょうか。それはおそらく、「これってジェンダー論的にはどうなのよ?」という問いに標準的な回答をパッと示せることでしょう。だから、「ジェンダー論ではこう考える」という定石を具体的な事象に自在に適用する訓練をします。

まず例題を示します。続いて、今回の授業で演習してもらう定石を示す。そして実際に定石を適用して例題を解いてみせる。ごく簡単な、口頭でパッと回答できる練習問題を課す。数人、指名して答えさせる。よくできました。これを数回、繰り返す。最後に30分くらい時間を取り、800字程度の課題を提出してもらう。

これだけ準備をした上で、「映画を見て今回授業で扱ったジェンダー論の定石を用いて分析せよ」という課題を出します。当然、授業で教えた定石を使わないレポートは零点にする、と宣言するのです。

授業をサボった学生は苦し紛れにコピペ・レポートへ逃げ墓穴を掘る(だって授業で扱ったジェンダー論の定石をそのまま使った都合のいい映画評など簡単に見つかるわけがない)可能性が高いですが、ちゃんと90分間頑張った学生は、さして苦労することもなくレポートを仕上げられるに違いありません。

90分ではまだ練習不足だと思うなら、2〜3週、授業中に練習問題に取り組ませて、それから課題を出せばよい。そのあたりは学生の飲み込みの速さを見て決めればいいことです。

こうして、半期で3〜10個くらいの定石を教えることができます。

「あー、半期勉強して、タメになったなあ」という実感があり、実際、学生が第三者に対して「自分はジェンダー論をきちんと学んできましたよ! 例えば**はジェンダーの観点からはこんな風に見ることができるんです!」と自信を持って語ることができるようになるのは、おそらく私の授業法だと思う。

大野さんから見れば、ロボットを量産しただけの、大学にはふさわしくない授業かもしれません。

平成21年2月5日

当然だ、みたいな感想が多いな。

多分、自分がやっているカジュアルな誹謗中傷は「問題ない」と思っているんだろう。

「ソニータイマー」とかね。みんなジョークでいっているのかと思っていたら、3人に1人くらいはマジメに信じているから、同じ技術者として泣ける。

いや、もちろん、過剰品質を避けコストを削減するため、シミュレーションなどを駆使してギリギリの設計をしてはいる。だがそれは決して、ちょうど1年で壊れるようにして買換え需要を促す、なんて意図ではない。コストに差がないなら丈夫なやり方を選ぶ設計の常識は、私が見たどのソニー製品でも踏襲されている。

パナウェーブの事件の際にも繰り返し書いたけれども、みんなが「あいつは悪いやつだ。きっとそうに決まっている」と思っている「連中」が相手だとなると、みんないい加減な証言も裏を取らずに信じてしまう。いい加減な証言どころか、単なる噂話や又聞きの又聞きみたいな信頼度 0 の情報でも、あたかもそれが真実であるかのように口伝されていく。それは結局、有形無形の悪影響となって「連中」に襲い掛かるわけだけれども、それをいいことだと信じてやまない人がちょっと多過ぎないか。そういうことを私はいっているのです。

政治家や官僚とかね、ホントみんな何の根拠もなく誹謗中傷しすぎ。

「**としか考えられない!」みたいな堂々たる「俺は想像力の乏しいバカです」宣言に、疑問を持つ人がほとんどいない。「そうだそうだー!」てな感じでコメント欄で盛り上がっていたりする。

他人を貶めることに、心理的抵抗がないのか。別に陰謀論を信じていたっていいよ。信じるのは勝手さ。だけど、ちゃんとした根拠もないのに、ガッツリ断定的に書いてしまっていいのか。せめて、せめてもう少し書き方というものがあるのではないか。

平成21年2月4日

私は親リフレのつもりですが、「リフレ派の主張がわからない」ことはよくあります。

最近の例でいえば、埋蔵金と定額給付金の話題。年度末に予定されている2兆円規模の定額給付金は、財政投融資特別会計の運用益積立金を取り崩して財源としています。ところが、一部のリフレ派は、外国為替資金特別会計(外為特会)の20兆円弱の積立金が給付金の原資と勘違いされているようです。

外為特会の積立金は、為替変動のリスクに対応するためのもの。現下の円高で外為特会は赤字転落しています。したがって外為特会には手を付けられませんでした。

替や金利変動による損失に備えて外為特会には約19兆6000億円(19年度決算後)の積立金がある。ただ、外貨建て資産を1ドル=99円とすると、積立金と同じ規模の為替の含み損が発生。含み損は同1円の円高で8000億〜9000億円程度拡大する見込み。

高橋洋一さんは著書の中で「為替介入は不必要な政策。円安のときに外為特会を手仕舞いし、積立金20兆円を国民のために役立てるべきだった」といったことを書かれています。なるほどその通りだと思う。しかし過ぎた話です。外為特会は整理されないまま、円高になりました。それが現状です。

日銀がきちんと金融緩和すればこんな円高はおさまるはず、という反論が予想できます。しかし一国の金融政策が為替をターゲットとしてはならない、とリフレ派は主張してきたはず。為替の変動は諦め、資本移動と金融政策の自由を確保し、国民の経済厚生を第一に考えるべき、ですよね?

無論、正しい金融政策は、行き過ぎた円の独歩高を止めるでしょう。けれども、金融緩和の結果、外為特会が黒字に復帰するより円高の水準でデフレが終わる可能性もあります。積立金がゼロでも外為特会が黒字になる1ドル120円を遮二無二目指せば、国際リフレ競争の中、望ましくない水準のインフレになりかねません。

ニクソンショック後、日本は強引に円安を保とうと金融緩和を続けた結果、インフレ率が13%に達しました。そこへ第1次オイルショックの直撃を受け、狂乱物価となります。円安は政策目標にできません。黒字で手仕舞いできる保証のない外為特会には、積立金が必要です。

では財政投融資特別会計の運用益積立金には余裕があるのでしょうか。残念ながら、答えは No です

この積立金は総資産の5%を原資である財投債安定償還のための金利変動準備金とし、それを上回る剰余金は国債残高の圧縮に充てるよう法律で定めている。それが根底から崩れたのである。

つまり、2・6兆円の剰余金だけでは足りずに2次補正の段階で準備金10兆円の一部に手をつける。来年度予算分を入れると、準備金は6・5兆円に減少し、法定の準備率を大きく下回る。

Voice の記事にある通り、2008年初秋の高橋洋一さんは「埋蔵金は市中の国債を償還するのに用いよ」と提言されていました。「国債を大量に買う→国債価格上昇=長期(実質)金利低下→実質的に投資減税に等しい効果」という景気浮揚策です。なるほど、と思う。

これに対し減税や財政支出などは、マンデル=フレミング理論により「財政赤字の拡大→国債価格低下=(実質)金利上昇→通貨高」の経路で、いずれマクロ経済効果が相殺される、と整理されていました。十分な金融緩和を前提とした一時的な活用にとどめるべきで、積極的に推進すべき政策ではない。

いちいち納得できる意見だと私は思う。ところが晩秋になると、高橋さんは埋蔵金からの定額支給金(財政支出)を支持する立場を明確にされました。正直、面食らいました。十分な金融緩和という条件が整う兆しはどこにもないのに、どうして?

さらに、以前は高橋さんの国債償還案に賛成されていた田中秀臣さんは2009年1月、きびしい不況下で埋蔵金を利用して国債償却を推し進めるのは単にナンセンス発言されました。「市中の国債を償還する=民間にマネーを供給する」なので、定額給付金とマクロ経済効果は同じでは?

さらにリフレ派ブロガーの Baatarism さんすなふきんさんkmoriさんらは財務省(+マスコミ)陰謀論……。

定額給付金、生活支援という意味では私も賛成できます。全員給付はよい発想だ、とも思う。

しかし「定額給付金は埋蔵金をフル活用し20兆円とすべきだった」「日銀が国債を買うのは賛成、政府が国債を買うのはナンセンス」「市中国債の償還より定額給付金の方が景気浮揚策として優れている」といったリフレ派の主張は、よくわかりません。

平成21年2月4日

経済学の本では「ずーっと借り換えを続けられるなら、その債権はないのと同じ。だから日銀が買い切った国債は、とりあえず心配ない」みたいな話があるんだけど、国民の国債残高恐怖症が消費マインドに悪影響を与えているなら、やっぱり債権放棄が必要だと思う。

だけど日銀がそういう「無責任」なことをするわけがないし、債権放棄は聞こえが悪い。何か案はないかと思っていた折、政府紙幣が話題に。この手があったか。将来のインフレに対しては売りオペではなく金利上げで対応してもらうことにして、日銀の保有する国債は満期がきたら政府紙幣で償還していってはどうか。

日銀の国債買切額が増えない限り短気的な金融緩和効果はないが、借換債の発行額が減って市場にマネーが多く残るので、長期的には金融を緩和する効果も持つのではないか。

平成21年2月3日

最近、政府紙幣の発行が与党内で取沙汰されているそうだ。朝のニュースのコメンテーターは日本のジンバブエ化を心配していた。

このアイデア自体は以前から何人かの評論家や経済学者から提出されていて、金額が25兆円とか50兆円とか100兆円などということになっている。最初に目にした数字から倍々に増えているのが不気味だ。

私の素朴な感想を書くと、日本のGDPは500〜600兆円程度だから、政府が政府紙幣で100兆円もお金を使ったら、やっぱり3%程度では済まないインフレになると思う。資産価格は100兆円くらい減ったようだからこれでいいんだ、みたいな話だけど、政府紙幣で株式投資するとは聞いていない。

お金の使い道としては、まずは現下の生産縮小で失業している人を救おうという発想のようだ。乗数効果が1なら失業者を再雇用して、生産が増えた分を全部政府が買い上げ、貧乏でそれらの製品を買えなかった人にタダで配ったらいいのだろう。このとき生産力を超えた需要が生じないので、インフレにはならない。

つまりそれってGDPの減少分を取り戻そうという話なわけで、せいぜい前年比-4%くらいの話。500兆円の4%が100兆円になるわけがない。資産価格を見て金額を決めるのはヘンじゃないか。

あと、もし乗数効果が1より大きかったら? 最初はともかく、時差的に乗数効果が増してくるかも知れず、その場合、売りオペで資金を回収する方の算段は大丈夫なのか。いま日銀は意外と国債を持っていない。100兆円もの政府紙幣を発行してしまっていいのかなあ?

もう1点。政府紙幣を市中にそのまま流すのは困難。政府と日銀がやりとりして日本銀行券と交換してから使うしかなさそう。政府紙幣自体は首相の一存で発行できるにせよ、日銀が協力しないといったら、やっぱり実際問題としては頓挫してしまうだろう。いまの説明で説得が可能とは思えないが。

平成21年2月3日

なぜ日本人はお金を溜め込むのか。将来に不安があるから……と、多くの調査が示している。不安の具体的内容は多岐に渡るけれども、あまり政府が信頼されていないようだ。それは何故なのか。

これは私の感覚なんだけど、市場は日本国債を信頼している(相変らず低利率で売れていく)ようですが、消費の主体である一般の国民は財政の持続可能性を信じていないんじゃないかな。5年や10年で破綻することはないと高を括っているけれど、自分が死ぬまでには破綻するんじゃないか、と。

小泉内閣で年金が話題になった頃に同世代の人と話していて気付いたことなんだけど、本気で「年金は絶対に破綻するから払い損」と思っている人がすごく多い。その根拠は、まず少子高齢化、次に国債残高。

いずれ国債残高のGDP比がピークアウトするような政策を採れば大丈夫、という説明に私は納得できたので、周囲の説得を試みたのだけれど、10戦9敗という感じ。目先の巨大な数字に圧倒されて、「常識的」に判断する人がとても多い。

まあ人生において、この手の直感は当たることが多い……というか、実際、理屈先行で走ってコケたときの悲惨さは誰も身に沁みているわけで。直感に従って道を誤ったときの方が精神的にはずっとラク。理屈では勝てなくとも、直感に反する意見に対しては「俺は騙されないぞ」となる人が多いのも無理はない。

政府紙幣なんか何に使ったって文句が出るんだろうけど、こういう魔法みたいな手段を使うなら、個人的には、この機会に国債の残高を減らすべきだと思う。

「素人の妄言」と断りを付して私案を示します。

政府は日銀に政府紙幣を預け、日銀に日本銀行券で国債を買ってもらう。景気の様子を見ながら、最初は月に1兆円とか2兆円というあたりから始めて、問題なさそうなら月に5〜10兆円くらいまで、政府の責任でガンガン国債を買い込む。国債の満期がきたら、借り換えをせず、政府紙幣で償還する。

日銀の国債買い上げが物価に影響を及ぼすまでには時間がかかる。償還前に望ましくない水準の高いインフレが生じたら、日銀が保有する償還前の国債は売りオペ(マネー吸収)に使われ、政府紙幣の一部が余る。こうしたインフレの火種を残しておきたくはないので、一定期間後、流通を停止して潰す。

補足:

ようするに、高すぎるインフレにならない限りどこまでも国債残高を減らしていこう、という提案。国債残高の大きさが(将来の増税や年金破綻の懸念により)消費マインドに与えている負の影響を取り除くことが主眼であり、国債買いによるマネー供給がすんなり景気回復に結び付かなくとも実行する価値はある。

だから日銀が国債購入で市場に出たマネーを吸収するよう行動してもいい。物価水準目標を政府と日銀が共有して、その達成手段の一つとして国債購入によるマネー供給が行われれば一番いいけれど、完全でなければダメだという立場を私は取らない。

平成21年2月3日

2007年7月に始まって既に120回を越えているのだから、けっこうハイペースの連載記事。似たようなタイトルの連載はあちこちにありますが、この記事の面白いところは、ちょっとアカデミックな雰囲気があること。書き方もそうだし、テーマとしても、学問の上澄みを日常に活かす、みたいな話がちょくちょく出てくる。

私は読むだけで実践しない「おもいっきりテレビのみのもんた」状態なんだけど、こういうのを読むこと自体が好きなので、別にそれはそれでいいと思う。

平成21年2月3日

私の場合。「高等教育は本人が望まない限り受けさせない」が家庭の方針だった。そこである日、別に進学しなくてもいいと思っている、と自分の意向を伝えた。

父はとくに何の意見もいわなかった。「えっ!? ホント? ふーん」それ以上、とくに言葉が出ない。

母は、賛成しない理由を多々述べ、何より隆夫は虚弱体質なので、進学した方が人生のリスクは明らかに少ない、といった。その上で、「義務教育ではないので、本人が進学したくないなら、それでもいい。ただ、中学を出たら働くことができるはず。家で寝てるだけなら生活の面倒は見ない」と。

純粋に個人的な都合でいえば、別に進学したくはなかったが、就職したい理由もとくになかった。一生遊んで暮らせたらいいのにな、と思っていた。

ここで周囲の都合を考えてみると、私立中学に通い、成績は学年トップクラス、系列高校へ進学すれば学費免除の確約、周囲の期待は大きかった。両親は10分程度説得しただけで、あっさり私に判断を委ねたが、学校の方は、そう簡単ではない。大勢の「ガッカリ」をものともせず進むには、大きなエネルギーが必要だった。

しばらく宙ぶらりんの状態を続けたけれども、結局、私の「面倒くさがり」が勝った。「進学したいので、もうしばらく生活と学費の支援をお願いします」と両親にお願いし、高校へ進学した。結果的にとても楽しい3年間になったので、ただ状況に流されただけとはいえ、よい選択だったように思う。

3年後、さらに大学まで進学した。それなりに面白かったけど、別に進学しなくてもよかったな、というのが正直な感想。入学初日から半分後悔してたし。それで大学院の試験は免除され、先生方には進学を勧められたけれども、就職を選択した。

家庭の方では、20歳になったのを機に、いろいろぶっちゃけることにして地均しを進めていた。入学当初は「工学部なら院まで行くんでしょ?」といっていた母も、就職活動の頃には全くそういった発言をしなくなっていた。

あまり関係ない話

私の父がすごいのは、何もいわないことだと思う。

私の母がすごいのは、今の問題については意見するが、過去の問題は決して蒸し返さないことだと思う。

これまでいろいろなお母さんを見てきたが、子どもに追い詰められるたび過去の悪事を掘り返し、優位に立とうとする人が多過ぎる。日本の子どもが自分に自信を持てないのは当たり前だ。子どもがちょっと自信をつけて言葉を発した途端、親に「お前のような人間の屑に発言権はない」と抑圧されるのだから。

気分のいいときだけ口先で「愛している」なんていったところで、誰が信じるだろう。

平成21年2月3日

これまでいくつかのカレンダーソフトを試してきたが、最近は Clock Launcher 付属のカレンダーに落ち着いていた。しかし何か違和感があった。

何なのだろう、と思っていたのだけれど、ようやく「そうか」と。結局、今日の日付を確認したいとき、私は Windows に最初から用意されているタスクトレイの時刻表示の上へマウスを持っていく習慣を全く変えていなかったのだ。

Windows 標準の「日付と時刻」ツールは、マウスオーバーで日付表示のツールチップを出す。ところがこの動作が不安定で(私が使っている他のソフトウェアと相性が悪い?)、ツールチップが出ないことがしばしばある。そこでしぶしぶウィンドウを最小化してデスクトップに貼り付けたカレンダーを見ていた。

私のカレンダー需要の9割は「今日の日付を確認したい」だけ。日付をタスクトレイに常時表示できれば、目を向けるだけで済むはずだ。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。

……というわけで、長い歴史を持つ名作に、ようやく辿り着いた。

ちなみに Windows 7 では、標準でタスクバーの右端に時刻と日付が二段重ねで表示されるそうだ。また Windows Mobile では以前から時刻と日付を両方ともタスクバーに二段重ねで表示させることができた。

XP や Vista の場合、タスクバーの高さを3行分にすると、時刻・曜日・日付の3行表示になる。どうして横に並べる設定がないのだろう? たかが日付表示のためにタスクバーをそんな馬鹿でかくしてたまるか。もっとも、タスクバーを右や左に置いていれば、標準で3行表示になるから、私の不満はピンとこないと思う。