いつか通った道。
知人同士のたなけんさんとドイルさんが迷走気味に展開してきた HTML をめぐる意見交換に、第三者の真名垣さんが口を挟んだもの。概ねたなけんさんが自由な制約のHTML派、ドイルさんがW3C勧告(あるいはHTMLの理念)重視派の役回りを演じ、真名垣さんはドイルさんの立場をより推し進めた形で議論を展開しています。
これがウェブの面白いところといえばそうなのでしょうが、例えば電車内で知人と意見を戦わせていたとき、他の乗客から口を挟まれたらビックリするだろうな。実際のところは、ウェブでも日常生活と同様、第三者が口を出すことは珍しい。ただ、珍しいもの同士を比較したとき、頻度の差異はあるような気がします。
あと正直いって、たなけんさんのテーブルレイアウトにあまり感心しないのと同様、ドイルさんの div 要素依存にも感心しない。それで困っている閲覧者は一人もいないだろうし、改善を強く勧めるつもりはありませんが。(注:ドイルさんの自作日記CGIが出力するHTML文書の構造は大幅に改善されました 2005-11-01)
ところで、たなけんさんのスーパー昌男とスーパー昌子は懐かしい雰囲気のゲーム。千昌男と森昌子が土管工のファッションで活躍します。ドイルさんのサイトにも JAVA アプレットを使った面白そうなコンテンツがたくさんあります。興味のある方はどうぞ。
今回のご依頼者もお若いですね。中学2年生の Mr.SITH さん。リンクのされ方や検索キーワードから考えても、それほど当サイトの読者に中高生が多いとは思えない。「アドバイスを依頼される層」に一定の偏りがあるのでしょうね。
それはともかく、またもやアドバイスがずるずると遅れていく間にリニューアル決行。そうか、リニューアルを予定していたからアドバイスの依頼をなさったのか……って、感心している場合じゃない! 従来、3ヶ月待ちのところを1ヶ月でアドバイスしているのだからまだマシなのですが、待たされる方はつまらないよね。
ところで、アドバイスのために掲示板などを読んでいて吃驚したというか、非常に感心したことがひとつ。Mr.SITH さん、アメリカ版のハリポタ最新作を頑張って読んでいらっしゃるのです。その奮闘記録が混血のプリンスメモ!です。これはすごい。感動もの。
英語ができるというのもそうですけど、1冊の小説を2ヶ月以上もコツコツと読んでいくという姿勢がね、泣けます。集英社の「ユリシーズ」と河出書房新社の「フィネガンズ・ウェイク」(当然どちらも翻訳版)が私の一番苦労した小説ですけど、読んだそばから忘れるというひどい読み方。読了することだけを目標に頑張ったという有様で、その……。
で、掲示板を見ると、第6巻に挑戦中のお仲間が集まっていらっしゃる。なんだか、感動的。
特殊な単語などが解説されているので、これで原作を読むのが非常に楽になるよ、という魔の書。いや、便利な本なんですけど。毎回、原作が発売されてから数ヶ月で刊行されるので、英語力に不安のある方はいつもこのシリーズが出るのを首を長くして待っているのだそうな。
小説「ハリー・ポッター」シリーズに関する事柄を"誰にでもわかる記事"ということを目標に紹介しています。全体的なレイアウトのバランス、配色は如何でしょうか。後、BBSへの書き込みがほとんどなく、寂しい状態です。この状態を改善するにはどういったことをすればいいのでしょうか。
アドバイス依頼後、2度のリニューアル。また書いている間にリニューアルされる可能性がないとは言い切れませんが、最新のデザインについてアドバイスいたします。
いきなりですが、表紙について改善案を提示します。
改善案が全てにおいて素晴らしいというつもりは毛頭ありません。いくつかの改善点について、大雑把な回答を示したものとお考えください。
原本で最も気になるのは、広告周りの処理でしょうか。ひとつは文法的な観点、もうひとつはデザイン的な観点から、問題点を指摘することができます。
まず文法について。StyleNote を使用されており、スタイルシートによる装飾をほぼ貫徹していることから、HTML について一定以上の理解を持つ方と推察いたします。広告は自動挿入なので、ブラウザでサイトを開いてソースを見てください。ページ下端の広告は、恐るべき位置に挿入されていることに気付きます。即ち、</body> を検知してその直前に挿入するという常識的な手段を採用せず、文書の末尾に強制挿入されているのです。愕然とさせられますが、実際、</body> のない文書を作成される方も多いわけで、苦肉の策と考えることもできます。
無料サーバでありながら大アクセスに強く、また CGI も使えるのですから、中学生にとって infoseek はありがたいサーバです。私は通常、CGI さえ使っていないのであれば、プロバイダが用意している(ことが多い)無料スペースの利用を勧めています。広告無しで無料だからです。家族に秘密にしているのでなければ、基本的にはこれが一番いいのです。しかし Mr.SITH さんは CGI を積極的に活用されていますから、広告が多いこと自体は受け入れていく他ないでしょう(プロバイダが用意しているサーバはふつう CGI が使えない)。
そこでどう考えていくかといいますと、広告の中に iframe 要素がありますので、まず文書型を HTML4.01Transitional にしましょう。このとき、body 要素と html 要素は開始タグも終了タグも文法上省略できることを活用します。</body></html> と文書を終了した後に広告が挿入されるから問題になるのであって、それならば終了タグを書かなければいいのですね。
主な修正点を列挙します。
その他、細かいミスは Another HTML-lint やHTMLクイックチェッカで確認してください。
続いてデザイン面の問題について。
文書の冒頭と末尾に広告が入ってしまうという仕様は、なかなかつらいものがあります。div 要素で囲まれているとはいうものの、class 属性も id 属性も与えられていませんから、スタイル設定に悩みます。文書中の全ての div 要素に同じスタイルが設定されてしまうわけですし、また上の広告と下の広告とに別のスタイルを与えることも(基本的に)できないからです。
通常、この手の広告との付き合い方は2パターンあります。ひとつは、完全に無視するものです。文書の上端と下端は「見ないことにする」と決めてしまう。Mr.SITH さんの回答もまさにこれだったわけですが、残念ながら、あまり成功しているとは思えません。
広告を無視してデザインするならば、閲覧者にとっても広告が目立たない、その存在が気にならないような処理をする必要がありましょう。じつは、その最も簡単な方法は、背景を無地とすることです。逆説的ですが、バナー広告は注目すれば派手な存在ですが、じつは目立つようで目立っていません。それは、あまりにもバナー広告を多く目にしてきたために、たいていの閲覧者が脳内で自然と無視しているためです。したがって、そこにバナー広告があるよ、ということを特別に強調することさえ避ければよいのです。
そんなの簡単? いやいや、それがなかなかどうして。
原本を見ますと、バナーの周囲は白地であり、コンテンツの開始を伝えるタイトル画像の部分から黒背景が登場しております。これはよくありません。本来であれば画面上端にタイトル画像があるべきところ、強引に広告が割り込んでいる事実を強調するデザインだからです。
私はリニューアル前の表紙デザインの方が収まりはよかったと考えています。全面黒背景、ネオンサインのように浮かび上がる画像群。たしかに不便な点も多々あって、リニューアルに取り組まれたこと自体は誤りではなかったと思います。しかし最新のデザインには改善の余地があります。
改善案では、ある程度、原本の意図を汲むよう配慮しました。ですから、タイトル画像の周辺は黒、メインの本文領域の背景は白です。この制約下で、広告とうまく折り合いをつける方法はいくつか考えられますが、改善案では最もシンプルな回答を採用しました。
画面をヘッダー、本文、フッターの3領域に分け、上下を黒背景としたのです。ただし前述の通り、広告は body 要素直下に class 属性や id 属性無しで配置されています。直感的には「上下を黒背景とする」わけですが、その実現手段としては、「メイン領域を白背景とする」ことで目的を達成しています。
html,body
{background:#000;}
h1
{padding:0 0 10px; background:#000 url(header.png) repeat-x left bottom;}
#contents
{padding:10px 30px 30px 260px; background:#fff url(footer.png) repeat-x left bottom;}
#fff と #000 を隣接させるのはあまりお勧めできません。どぎついデザインになってしまいます。そこで今回の改善案では、h1 要素と div#contents の下端にグラデーション画像を配置しています。
今回の作例とは逆に、本文領域を黒背景とし、ヘッダーとフッターを白背景とする手もあります。あまりお勧めはできませんが。
お勧めできない理由は、動画GIFを用いた派手な広告の画像にあります。この手の(いうなれば)下品な画像は、夜の街のモチーフの中に落とし込むのがベターです。装飾過多の電飾も、夜の街ではそれなりにきれいに見えます。そして、微妙に周囲と溶け込んでいきます。実際のところ、これは見る側が過去の体験から「そのように見てしまう」だけなのかもしれませんが、それでも広告周りを白に近づけるか黒に近づけるかで悩む場合、黒に近づけるのが無難です。
ちなみに、title 画像との兼ね合いで背景色を #000 としていますが、「夜」を表現したい場合、じつは #111〜#333 あたりの、濃い灰色を採用するのがベストです。都会の夜はもちろんのこと、通常、自然界においても真っ暗闇は夜の色ではなく、洞窟の中などの閉所や、深海などの色です。ご参考まで。
段組の再現方法には、しばし悩みました。
原本では文字サイズが固定され、幅固定の float 指定で3段組を実現されています。それほどデザイン的に凝ったことをしているわけではないのですから、常識的には%指定でよさそうなところですが、実際にやってみて問題に気づきました。メニューカラムの見出しに用いられている画像の横幅がかなり広いのですね。800×600 程度の画面で段組が崩れないよう配慮しますと、メニューカラムに相当大きな割合を設定する必要があり、1280×1024 ではメニューが目立ち過ぎます。
改善案ではメニューカラムの見出し画像を廃止することも考えましたが、デザイン上、重要なアクセントとなっている部分でもあり、あえて残すことにしました。そしてメニューカラムは position で実現して幅固定、メインカラムとサブカラムを横幅%指定の float で段組しています。その結果、幅広いウィンドウサイズと文字サイズ可変の要求に対応した柔軟なデザインを実現することができました。
いろはの先のCSS第8回で簡潔にまとめた通り、CSS による段組は画像によって破壊されやすい欠点を持っています。これは原理的な欠点なので、抜本的な解決策はありません。width を指定し、overflow:hidden; あるいは overflow:auto; などとすれば、たしかに段組自体は壊さずに済むかもしれませんが、いくつかの悪条件が重なった場合、多くの閲覧者にとって許容しがたい表示結果となってしまいます。
W3C の方々の予想と異なり、多くの閲覧者は横スクロールバーを許容してきました。複数カラムのデザインにおいて、自分の読みたいカラムが表示領域内に収まれば、概ね納得してきたのです。常に全てのカラムを表示領域内に収める必要はないのです。ところが CSS は、そのような要望の存在を半ば無視して仕様が策定されています。そのため、カラムを維持することよりも、横スクロールバーを出さないことを優先してしまうのです。
画像をテーブルレイアウトを組み合わせた場合、表示領域をどんどん狭くしていくと、たとえセルの横幅を%で指定していても、セル中の画像がつっかえ棒の役割を果たしてテーブル全体の横幅が100%を突破し、横スクロールバーを生じます。ところが CSS による段組みの場合、position を用いていれば要素が重なってしまいますし、float を用いていれば段組がキャンセルされる(次の要素が横に回り込まずに下に表示される)ことになります。
よかれと思って策定された仕様ですが、多くの閲覧者、そして多くの製作者も、この仕様には不都合を感じてきました。横スクロールバーが出たっていいから、段組こそ維持してほしいと思っているわけです。しかし W3C が考え方を変える兆候はありません。CSS レイアウトのサイトが px 単位で幅固定する事例が非常に多いのは、ブラウザの表示領域の大きさに依存しない幅指定は、横スクロールバーをなるべく出さないというルールよりも優先度が高く設定されていることによります。
もちろん横幅 200px と指定したカラムに横幅 300px の画像を放り込めば、あっさり壊れます。テーブルと違い、そのようなイレギュラーに対する柔軟性はない。だから中途半端といえばその通りなのですが、とりあえずいくつかの注意点さえ守れば、代表的ないくつかのウィンドウサイズに対して、概ね閲覧者が満足できる表示結果を得られます。
ところが幅固定のデザインの場合、しばしば文字サイズがあまり大きくなると見た目に難が生じてくることが多い。画像と文字サイズのバランスという問題もあります。そこで、想定読者層の大多数が問題なく読めるサイズで文字を固定してしまう、といったこともよく行われます。そんなわけで、Mr.SITH さんが文字サイズ固定・幅固定で段組を実現されたことについて、一定の理解は示したい。
ただ、現在のデザインの場合、工夫次第でカラムの幅も文字サイズも固定しなくて済むだろうと思うのです。私の改善案に納得していただけるかどうかはわかりませんが、参考にはなるのではないでしょうか。
なお、改善案の作成にあたり、title.jpg を newtitle.jpg に作り変えました。ほとんど違いはないのに 131KB から 76KB へ大幅減量に成功しています。JPEG 画像は適切な圧縮率を選択することにより、ほとんど画質の劣化を伴わずにサイズを半減できる場合があります。ぜひ参考になさってください。
せっかくスタイルシートを使っているのに、なぜかサイト内でデザインが統一されていませんね。これでは趣味のウェブサイトでスタイルシートを使ってデザインする意義の過半が失われているといっても過言ではありません。サイト内の全文書に単一のスタイルシートを読み込ませることを考えるべきです。
サイト内の全文書を単一のスタイルシートでデザイン指定するようになると、自然と文書間のデザインのばらつきが解消されます。そして新しく文書を作成することも簡単になります。するとどんどんコンテンツを更新できるようになり、サイトがますます充実していき、作者も閲覧者も嬉しいことになります。閲覧者も増え、掲示板への書き込みも増える可能性があります。
スタイルシートを効果的に用いるためには、まずスタイルシートの書き方から改革していく必要があるでしょう。見出し、段落、箇条書き、引用など、主要かつ基本的な要素だけでシンプルに組み立てた HTML 文書のスタイルをまず設定し、サイトの表紙など複雑なレイアウトを実現するための設定情報はオマケとして末尾に付すのです。せっかくスタイルシートを使っているのに場当たり的な装飾指定をしてしまいがちな方は、文書全体のレイアウト指定から書き始めるケースが多いようです。
仮に私が表紙の改善案をサイト全体に波及させていくならば、ヘッダーとフッターを黒地とする装飾はそのままに、白背景の本文領域を1段組にする方向で検討を進めるでしょうね。
ところで原本では HTML 文書内に class="12" といった記述がたくさん見られますが、じつはこれ、文字サイズなどをあらわしているのですね。こうした HTML 文書の作り方をしている間は、なかなかスタイルシートを使った意味が現れてきません。
div#main p,div#main ul,div#main ol
{font-size:12px;}
これは id 属性値が main である div 要素の中にある p 要素と ul 要素と ol 要素について、文字サイズを 12px に指定する記述です。親子セレクタなどと呼びますけれども、例えばこのような手法を使えば、いちいち class 属性を設定する必要はほとんどなくなるはずです。
前述のように、まず基本のスタイルを一通り書いておくことにより、特定の div 要素の中にある h2 要素だけ枠線をつけるとか、文字の大きさを変えるとか、背景色をつけるといった、特別なオマケ装飾を簡単に設定することができます。表紙の改善案でもメニューカラム、メインカラム、サブカラムで h2 要素の見た目を変えていますが、各 h2 要素に私は class 属性を付していません。各 h2 要素がどんな div 要素の中にあるのか、ということを利用してスタイルを指定しています。
スタイルシートの書き方を改革して、HTML 文書もスッキリ簡単な構造に変えていくと、お勉強の成果が出てきます。
「書き込みが少ない」とお嘆きのようですが、多くの掲示板を見てきた経験から申しますと、決して書き込みは少なくありません。多いところにやたらと集中しているので、単純に平均値を取ったなら平均を大きく下回る可能性はありますが、世の中の8割以上のウェブサイトは、もっともっと閲覧者に冷たくされています。
つまり、ウェブは実際には明示的な人と人との交流をほとんど生み出しません。黙々とコンテンツを作成する作者と、静かな閲覧者を増やすばかりなのです。
1日数千人が訪問するサイトであっても書き込みが1日1件にも満たないケースはしばしばあり、逆に1日30人程度の訪問でも毎日何らかの書き込みがあるサイトもあります。書き込みの多寡は、管理人のキャラ設定や場の雰囲気に左右されます。ここにも当然のごとく才能のある人ない人がいまして、才能のない人に残された手段は多くありません。例えば、自分自身がまずあちこちの掲示板でよく発言する、など。その際、収支が赤字になることは甘受せざるをえません。
まあ、可能なら、多くを望むよりも現状に満足されるべきだと思いますけれども。
以上でアドバイスを終わります。
明日、10月20日は新聞広告の日、というわけで、今年は前日の今日から面白い新聞広告の企画が始まっています。産経新聞だけなのか、他の新聞でもそうなのかどうかはわかりませんが、明治〜昭和初期の新聞広告がズラリ掲載されており、面白いです。
とくにおかしかったのが文芸春秋昭和3年10月号の広告。
前田河六一郎、「圓本」の忌憚なき批判は「匿名批判」に限る
昔から変わらんのね。
消えたら困るデータはあちこちにコピーを置くべきだ、というわけで、はてなダイアリーに備忘録のログを転載。最初はメモ的な更新をはてなに持っていくつもりだったのですが、今ひとつしっくりこないので方針を転換しました。
正直、見出しレベルがどうとかこうとか、つまらないことを気にしなければいいのでしょうがね。私も当サイトと切り離された場所では、デザインルールなんてろくに気にしないのですから、ようするに気分の問題。本名で書いてて一番長続きしたのが楽天広場だった(記事本文のマークアップに非常に難儀する)というのもおかしな話です。
今年は更新しないといいつつ更新してしまうパターンが繰り返されていますが、今月は予告なく休止モードになってしまっています。もう少し、自分の精神をきちんとコントロールできるようになりたい。「ついつい」書いてしまうのも、「いつの間にか」書かなくなってしまうのも、よろしくないと思う。
このところ、蔵書整理と称してネットオークションで蔵書を売っています。じつは引越しの予定は来年の2〜3月ですから、まだかなり先の話なのです。けれども、私にとって、事態はそれほど楽観できません。山と積まれた蔵書を最低30冊減らしたい。読書は決して早い方ではないのに、どんどん新刊を買ってしまうのだから、これはなかなか簡単でない。
そんなわけで、備忘録はともかく Amazon のレビューは、しばらく滞るのではないかと思います。Web デザイン系の本は最近あまり読んでいないのです。
「一人前」という言葉のイメージからは離れますけれども、ある程度以上の人気ブログを運営してみて感じたことを書きます。
私が現サイトを始めたのは、友人と一緒に運営していたサイトでアクセスアップを散々希求して夢かなわず、息抜き感覚で個人運営するサイトを作ろうと考えたことがきっかけでした。だから現サイトが妙に人気を集めたのは皮肉な話です。
1日3?30人くらいが訪問するサイトの場合、訪問客のプロバイダ情報から「この人は毎日訪問しているな」とか「あ、久しぶりに来たお客さんだ」といったことがよくわかります。訪問記録と掲示板の書込み時刻から人物が特定できることもしばしばでした。また知り合いのプロバイダは知っているので、「いつも見てるよ」と口先ばかりの人と、何もいわないけどよく訪問している人とを見分けることもできたりできなかったりしたものです。
1日100人が訪問するようになったら、もうそれは無理。まして現在のように毎日数千人がサイト内のどこかのページにたどり着く状況では、1人1人の無言の訪問者を気にかけることは不可能ですし、また気にもならなくなります。メールが届く、はてなブックマークでコメントがつく、トラックバックを受ける、といったことがない限り、個々の訪問者の顔は想像できなくなります。それは良いことでも悪いことでもなくて、単に私という人間の限界を示しているに過ぎないわけですが……。
「2000人や5000人に読まれたところで、何の影響力もないし、面白いこともないよ」と嘯く権利を得た、それくらいですかね、得たものって。私は読書が好きですが、これもアホな趣味です。何冊読んだって、私は全然成長しない。楽しみのために人生を浪費しているだけ。凡人の趣味は、所詮、趣味に過ぎないのでしょう。
# Dryad 『一連の議論を見ていて、「その主張はおかしいのでは」という指摘が出ると、別の方が「そんなのは関係ない、俺はこの点を批判しているだけだ」と主張する、という場面に数多く出会いました。個々の主張の正否はともかく、「avexの何を批判しているのか」という点について、反対を唱えている方の間でコンセンサスが無いのは事実です。つまり、ペナルティの基準が分からないゲームをやっているようなもので、これでは信頼関係も合意形成も糞も無いように思えます。』
なるほど……。新春鼎談2004も興味深かったです。
ところで、「デフレは終わるのか」(安達誠司 東洋経済新報社)の理解度チェックのつもりで手を出した「虚構の景気回復」(水野和夫 中央公論新社)を読了しました。
いちいち著者の主張に異論・反論(の枠組)を考えながら読むのは非常に疲れます。「近代化経済圏」と「ポスト近代化経済圏」の話が出てきたあたりから頭が痛くなってきて、思考停止に陥りました。付け焼刃ではダメですね。
水野さんは「意外なデータ」を素直に「常識に対する反証」とみなし、すぐに旧来の理論を捨てて新理論を考えてしまう。でも私には、安直の指摘はできても、安直でない考え方は示すことができないのでした。下手の横好きでは「旧来の理論」の知識が足りない。応用力が足りない。あーあ、試験問題はもっと簡単で素朴な(立ち読みした限りではそう思われた)デフレ擁護論(例えば長谷川慶太郎さんの一部著作など)にすべきだったかな……。ぐったり。
いろいろ経済本を読んだ感想などは、また後日。
jo_30 さん、お久しぶりです、と書いてもわからないと思いますが……。id:deztec は某IDのサブアカウントです。
のまネコ問題は価値観対立なので、じつのところ、何が妥当かという判断は、各人の拠って立つ文化に依存します。地球儀の螺旋(2005-09-14,30)のような異論は理解しますが、賛同はしない。
私は法運用の実態と経済的利益を重視します。多様な価値観を認める社会において、価値対立を裁き秩序を実現するためには、立法機関で多数派を構成して法を定め、多数派の常識に沿って運用する他ない。現状では「のまネコ」の商標登録に法的な問題はなく、誰も損をしない。商慣習と庶民感覚のズレが今回図らずも浮き彫りになりましたが、私は高々300万人のコミュニティの感情論よりも社会全体の利益増大を目指すべきだと思う。
法外の判断には原則として反対。法がおかしいなら、法を改正するべきです。声の大きなグループだけが法外の利益を手に入れる不合理は認め難い。とはいえ、双方が少し融通を利かせれば円満に解決できるトラブルは多い。では、のまネコ問題は?
徳保氏の主張は「ではフォークロアであるモナーを、どのように独占的に販売していけばよいのか。」という所から始まっている。しかし、そもそも反発している住民の多くは「フォークロアに対してオリジナルを主張するのが冒涜だ」と主張しているわけで、そもそもそこから話が噛み合っていない。つまり徳保氏は「フォークロアを『若干改変してオリジナル主張』するのは冒涜ではない」という主張から、まず話を始めるべきである。
端的には、その説得は不可能です。考え方の違いという他はない。
ただ、法は avex の行為を認めています。社会には「のまネコ」「米酒」同様、フォークロアをベースとしつつ独占的権利の保有者を持つデザインがあふれています。water bouget の図案を愛するコミュニティが浜崎あゆみのロゴマークに「独占反対!」と声を上げるのが当然の正義なら、デザイン業界は存続できない。デザイナーの少なからずは、小さな差異にオリジナリティを見出す制度に依拠して生きているのです。「この程度の差異でオリジナル?」という感覚は理解しますが、私は現行の法運用を支持します。
手塚治虫の「ジャングル大帝」にそっくりなディズニー映画「ライオン・キング」(1994年)について、「訴えれば勝てた」との声があります。けれども、本当に勝訴確実だったなら訴訟を起こしていたろう。人情話で決着したのは、リスク回避の方弁ではなかったか。そして厳格な著作権管理で有名なディズニーもまた「ジャングル大帝」(1997年)を黙認しました。この事例は示唆的です。
「空耳FLASH(2ch 住人)」「のまネコ(avex)」「のまタコ(西村博之)」三方一両得の話をフイにして、三方一両損で決着したのは残念な話。
jo_30 さんは、フォークロア派生物の独占利用は倫理に反すると断じ、2ch 住人の意向を汲めば商品の売上も増えると主張されました。私は、同意しません。
ネット発ブームの成長過程において、ネットの寄与度は決して大きくない。「恋のマイアヒ」は80万枚以上売れています。80万という数字はブログ全読者数の約5%……のまネコ問題に関心を寄せている人より多いのでは? ウェブは過大評価されがちです。
「みんなのもの」の一部に独占権を付与することで、コミュニティ外の巨大市場で活躍する商品が生まれることがあります。特許制度と同様、文化・社会全体の振興のためには、知的財産の一部独占は認めるべき。そして独占の可否を判断する基準として、現行の商慣習と法運用は妥当だと思います。
凡ミスで消してしまって悔しい思いをした「今年観た映画の一覧」ですが、私は映画館にはたまにしか行かないこともあり、レンタルショップの店員さんの協力でほぼ復活させることができました。今年借りた DVD の一覧を作成してもらったのです。管理システムに記録はあるのだけれど、何らかの理由で印刷はできず、携帯電話で画面を撮影するのも駄目だという。仕方ないので手書きでリストを作っていただきました。100作品以上借りている上客の頼みとはいえ、これはたいへんな作業。
レポート用紙2枚にタイトルがずらり。一人のアルバイト店員さんが約1ヶ月かけて(週1回勤務らしい)暇を見つけて作成してくださったそうで、感謝感激。
ちゃんと返却した作品をいつまでも記録しているお店について、個人情報がどうたらこうたらといって文句をつける人もいるのかもしれない。けれども情報が公開されてしまうわけではないのだし、今回の私のように、おかげで助かることもある。「気持ち悪い」と思うのが、単に気分の問題ならば、その気分の方を改革してもいいはず。顧客情報という形で、個人情報のコピーをあちこちに置いている、というような感覚。Amazon の購入履歴も、私は同様に活用しています。
テキストサイト文化華やかなりし頃、当サイトは「無駄に文章が長い」と批判されることがしばしばありました。その意見には一理あると思ったので、文章を短くする努力を(ときどき思い出したように)するようになったわけです。
けれども、昨今の人気ブロガーの方々が書く記事には、長文が珍しくない。努力の成果が出ていないにもかかわらず、次第に批判が減っていったのは、そういうわけだったのか。
おかしなもので、今度は私がよその長文記事にいらだっている。「もっと短く書けるだろう!」とか、余計なお世話ですよね。
リンク無しトラックバックは怒られる確率大だし、はてなダイアリーには機械的にはねられてしまう。では逆に、リンクさえすればトラックバックを打ちまくってもいいのだろうか。
もちろん法的には問題ないし、実際にやってみて、誰からも(大量にトラックバックを打ったという行為自体については)お叱りを受けなかった体験もあります(参考:情報フロンティア研究会 資料集)。でも日常的にこれをやらかすのは、虎の尾を踏むようなもの。啓蒙活動といえば聞こえはいいが、いつの間にか宣伝厨の魔道に堕ちている危険大。
最近も稀に、話の通じそうな方々を厳選したリンク集を作って記事に添え、「ご批判お待ちしてます」という気持ちでトラックバックを打っています。事後の経過は概ね順調なのですが、やはりこう、ムズムズする感じが消えない。ひとつは「ひょっとして魔道に堕ちた?」という不安、もうひとつは「バカにもトラックバックしたい!」という暗黒闘気。
自信過剰は命取り、つまらないことにエネルギーを使うのはやめなよ、と自分を諭すのも虚しい。自分の言葉で他人を説得できると思うのが、そもそも勘違いなのに。わかっちゃいるけど何とやら。トラックバックは人の弱さにつけいる悪魔の道具……と責任転嫁してみたりして。