今月は、大学3年の某月以来となる濫読月間となりました。経済書を中心に、なんと読了本だけで50冊超。つまんだ本を含めれば3桁に迫る勢い。速読派の人にとっては驚くような数字ではないでしょうが、私にとっては衝撃的。昨年の一時期、レビューのためにウェブデザイン関連書籍を読みまくりました。しかしそのときだって1ヶ月でこれほどは読めませんでした。まさか今になって、これほど経済にハマるとは思わなかった、というのが正直な気持ち。
たくさん読むことができた理由は、大学3年当時の教育関連書籍への傾倒や、昨年、ウェブデザイン関連書籍に没入したケースと同じです。興味のある分野の本を集中的に読んでいくと、知識の吸収が忘却を大幅に上回ります。ふだんの読書は、メモリが不調で、データをいちいちハードディスクに読み書きしているようなもの。濫読モードは、いわば大容量メモリにデータを蓄積して高速で処理しているような感覚なのです。だから、スイスイ読める。だから、楽しい。好循環。
この調子で、あと20冊くらい進む予定。ただ、この勢いがなければ読めないだろうと思って、予定に組み込んだ経済学の教科書がメモリ異常を呼ぶ可能性が高い。要注意ですね。だいたい教科書ってのは、読むのにやたらと時間がかかる。これがいけないんですね。勢いが殺されてしまう。強気で押し通せるかな……。
リフレ派の本にばかり手を出さないよう、意識的に濫読してます。岩波新書が多いのは、近所の古書店で安かったからでもありますが、ふだん読んでいるのが産経新聞だからバランスを取ろうという意図でもあります。
最近は岩波新書を50年代からだんだん現代に向かって読み進めています。1冊ずつバラで読んだらつまらないのかもしれないけれど、通して読んでいくと、これが滅法面白い。私の歴史趣味がうまく効いて、ぐいぐい引き込まれているところです。証券不況で日本の高度成長は終るはずだった、ニクソン・ショックは10年前から予想されていた、学者時代の美濃部亮吉さんは財政赤字を強く戒めていた、etc. だったら、なぜ? みな一所懸命に頭を悩ましていたのに……。
彼らの「未来」を知っているつもりの私たちは、ついつい過去の人々の失敗を笑ってしまいがち。ところが、勉強すればするほど、安直な解釈で先人の業績を過小評価してきたことに気付かされます。
ところで、同じような本をたくさん読むのは無駄だと思う人は多いんじゃないかな。それが間違いだとは思いません。ただ、結局は本なんて、図書館と古書店を駆使すれば、お金より時間ですよね、問題は。1冊、2冊の本で勉強するなら、たしかに最高の本を迷わず選ぶべきです。夏休みの読書として太宰治「人間失格」や夏目漱石「こころ」を選ぶように。しかし濫読モードに入れば、1冊あたりの読了時間が激減して利益水準が下がります。こうなると、世界の見え方が変わります。錯覚か。
「ブログ」にしても何にしてもCMSだとデータベースの形で纏められてデータが管理される、それは便利だが、便利なのは動いてゐる間だけだと、壞れないでゐる間だけだと。データが壞れた時、何うするかと。データベースのデータをバックアップする、それは慥かに可能である、バックアップから復舊出來る――本當に出來る? 確實に出來る? テキストでデータが「ある」なら、ばらばらに、個別の記事ごとに「ある」、それは、サイト全體を管理するには面倒だ、けれども、データの確實な保管と云ふ點では樂だらう。最初からデータが個別にある、一緒に纏められてゐない、ならば、纏められたデータが纏めて逝くよりは、まだ「安全」だらうと。少くとも、何らかの方法で「壞れたデータから意味のあるデータをサルベージして何とか救ひ出す」よりは、意味のあるデータが「ある」方が、そのまゝ使へる訣で「簡單」だらうと。
私の Movable Type の使い方は、まずローカルで HTML 文書を作成し、ローカルに簡単なサイトを構築する。次に、コピーアンドペーストでデータベースに記事を入れる。そして静的生成で記事を書き出す。必ずこの手順です。ローカル、データベース、生成ファイル、3箇所にデータを持つ。そして3者それぞれについて折を見てバックアップを取る。(転載リソース集が生成ファイルのバックアップ)
データベースが壊れたら、前回のバックアップを復旧させ、その後の更新分は生成ファイル(またはローカルファイル)から復元する。ローカルファイルが壊れた場合も同様。生成ファイルが壊れた(サーバ内ファイルの整理をしている際、誤って消してしまうことがしばしばある)なら、データベースから再出力する。
MT を利用している方の大半は、直接、ウェブフォームから記事を入力されていると思う。私がそうしないのは、文書をマークアップするには、HTML 文書作成に特化したエディタと比較して、ウェブフォームは全く非効率だからだ。そういった事情があってのことなので、HTML に興味のない方には、面倒なことだとしか思われないに違いない。
じつは、Wiki やはてなダイアリーなどでは、私も直接、ウェブフォームに記事を書いている。やはり、たかがコピーアンドペーストとはいえ手間には違いないのだ。いずれも動的生成なので、データはデータベースにしかないことになる。そこで、壊れてもいいよ、消えてもいいよ、と思うような内容しか置かないことにしている。とはいえ、実際に不慮の事故で消えたらショックだろう。そこで先手を打って、自分でどんどんデータを消していったりする。もともとどうでもいい内容なので、自分で消せば、悔しくない。
あなたが御自分のサイトを「ブログ」化した時、なぜ「ブログ」ツールを使はなければならなかつたのか、その必然的な理由を教へて下さいませんか。さうして選んだ「ブログ」と云ふ形式、それがあなたのサイトをどんな風に良くしたのですか。あなたは、なぜサイトを公開してゐるのか、その目的の爲に「ブログ化」はどんなメリットがあつたのか、その邊を教へて下さい。
「サイトの生成を自動化したかった。ブログ化してサイトの生成を自動化できた」とか、その程度の抽象論ならば良く聞きます。しかし、「サイトの生成におけるどのやうな作業を自動化・省力化したかつたのか」「さうした自動化・省力化が實際に生成されたサイトにおいてどのやうに有效な結果を擧げてゐるか」、さう云つた具體的な指摘は餘り見ません。
どうも「Googleで檢索して記事がひつかかり易くなりました」程度の事しか「ブログ化」によるメリットは「ない」やうに思はれるのだけれども……今の「闇黒日記」ですら異常なまでにGoogle檢索でいろいろひつかかり易くなつてゐる事を考へると、「わざわざブログ化する必要はあるのか?」と疑問を以てしまふ訣です。
現在に至るも、私がブログツールを利用した決定的な理由はひとつしかないように思う。
トップページと過去ログの同時更新、これです。自動リダイレクトなんてのは、ブラウザの標準的なブックマーク機能を使うことしかできない人にはたいへん不便なのだし、じつは私自身がその一人なので、最近数件の記事はトップページに表示したかった。
個別の記事に URI がくっついてくるというのは、ブログ化のオマケとしてはかなり嬉しいポイントで、以前より指摘されていた「リンクしづらい」という問題をバッチリ解消できた。まあ「段落アンカー」ほど粒度は細かくないのだけれども、むしろこの程度に留めておく方が迷いがなくてよかろう、などと思わないでもない。
くだらない批判でも、度々繰り返されれば気に障る。「リンクしづらい? 月別ログへのリンクで何がいけないんだ? 俺は困ってないよ、そっちで勝手に何とかしろ」という話だったのだが、まあ、「個別記事」に URI を与えてみれば、自分にとってもそれなりに便利だった。手作業では面倒で嫌になるけれど、自動で生成されるなら手間もかからないし、悪くないものと思う。
闇黒日記について、最新版と過去ログの同時更新を求める意見を過去に何度も目にしたことがある。最近では「個別記事」へのリンクをしたいという要望がちょくちょく出ている様子。最新版と過去ログの同時更新を「したい」と思っていた私と、そう思わない野嵜さんの違いが、ブログツール導入如何の分かれ目になっているのだろうけれども、シンプルな活用を心がける限り、ブログ化の手間というのはわざわざ
というほどのことでもないように思う。「ちょっと試しにやってみる」くらいの価値はあるのではないかなあ。
情報商材の専門サイトです。すごい商品が並んでいます。宣伝文句がすごい。で、このサイト自体はアフィリエイトサイト。肝心の商品の値段が書いてない。まあ、情報なんてのは値段があってないようなものなのですが、ネットでふつうに売られているだけのことはあって、1000万円とかそんなのはありません。セミナーに参加するよりは安い、というくらいの価格のものが大半です。具体的には、1万円以上5万円以下。
主に趣味の方向けのウェブデザイン関連情報商材として著名なのが、21WebSpider の「Webノウハウ講座」です。具体的には、アフィリエイト講座です。そしてこの商品自体が、アフィリエイト収入の源泉となります。簡単に説明すると、まず高値で情報商材を買います。するとこの商材を自分のサイトでアフィリエイト販売できるようになり、紹介料収入で元が取れるという仕組み。じゃあマルチ商法なのかというと、そうでもありません。
今のところ、商品価格は3万円くらいなのですが、だんだん値上がっています。需給の均衡点を探っているのではないか、と予想していますが、数が出なくなったのでバクチ的な売り方へ転化しているのだ……とすると、やばいかも、ですね。個人的な予想ですが、個人向けで5万円を超えたら、買った人が売り先をなくして、マルチ商法的な側面においては破綻するのではないかと思っています。
ただし、あくまでもこれは情報商材なんです。商品の内容だけで、価格分の価値があるはずだ、ということになっているのですね。このサイトでさえ、年間で3万円以上の Amazon アソシエイト収入があります(おかげさまでサーバ代を賄えています/感謝)ので、アフィリエイト講座の受講料と考えれば、異常な価格ではないのがミソ。市販本を買って読めば2000円程度ですが、少人数のセミナーなら平気で1万円とか2万円といった値付けになりますので。
HTML 講座とか、Flash 講座もそうなのですが、本を買って自学自習すれば数千円だけれど、セミナーに参加すれば数万円かかる、それでもセミナーに参加する人が常にいる……そういった「情報」が世の中にはあります。では、「本」に10倍の価格をつけるのがアリなのか、ナシなのか。ちなみにビデオ教材の場合、むしろセミナーに参加するより価格が高かったりすることさえ珍しくない、それが社会的に許されている、という事実にも注意すべきでしょう。
そういうわけだから、私は神王リョウさんのやっていることが、法に触れるとは思っていません。情報の非対称性を利用した値付けの商品には違いありませんが、買った人が納得すれば問題ないとはいえます。
値段が高いので、一所懸命に読んで、身によくつく、といったこともありえないではない。私はこの手の情報商材を他人に勧めたいとは思いませんが、こういう世界があるのだということについては、とりあえず知っておくとよいだろうと思います。産業として成立しているわけで、基本的には「詐欺」にはあたらないのです。いわゆる境界線産業なのですが、グレーゾーンは地平線が見えるくらい広い、そんな感じです。
うーん、この手のサイトとしては比較的落ち着いていますが、やっぱり著作権侵害とか、行き過ぎた表現とか、いろいろありますね。私は感心しません。
私は、情報商材の販売を「詐欺」とはいいません。でも、そう思う人も、いておかしくはないと思います。ただ、「詐欺だ!」と言い募って、法治国家日本において、さてどちらが悪者となるのか。庶民感覚だけでは、社会秩序は守れないと思います。派手な表現を使って、大きな効果を性急に求める必要はないでしょう。とりあえず、この記事程度の書き方で、まあ伝わるものは伝わるのではないでしょうか。
40万円もするSTB(セットトップボックス)を売っているユナイテッド・パワーという会社は、マルチ商法だとココログで書いていたら、その会社の関係者が@niftyに苦情を申し立てたらしく、@niftyのユーザーサポートから記事内容の見直しを検討して欲しい旨の連絡があったという話が。
TAKOさんの記事を見てみると、「詐欺」という言葉が頻出していました。TAKOさんのはてなダイアリーの記述を見る限り、ユナイテッド・パワーの信用を貶める意図は明確なようですね。詐欺罪が実際に成立するかどうか、ハッキリしない状況で、そのような意図を持って「詐欺」という言葉を用いて批判記事を書くとなると、TAKOさん側の分が悪いと思いました。
しかし加野瀬さんは、ユナイテッド・パワー側の自滅
を予想されています。これがウェブのおかしいところです。「容疑」者が犯人扱いされる風潮と何かごっちゃにされている方が多いのかもしれませんが、何故かウェブで声の大きい方々は、逮捕どころか疑いの段階で名指しの中傷を「してよい」と考えていることが多い。ただしそれは、相手が企業だったり、権力者だったり、とにかく一般庶民でないケースに限定されます。私は、このような弱者権力による二重基準がまかり通ることについて批判的ですが、加野瀬さんの予想に一定の根拠があることを認めます。
ユナイテッド・パワーが実際にウェブ世論に押し切られるかどうかは軽々に判断しかねますが、少なくともTAKOさんが事態を紛糾させれば(=徹底抗戦すれば)、よほどヘマをしない限りTAKOさんがウェブ世論を味方につけることだけは確実です。そのような展開は、嫌だな、と私は思います。
私は決して、ユナイテッド・パワーを批判すべからずといっているのではありません。しかし企業側が当該記事を問題視して行動を取ってきた以上、軽い気持ちではなくて、きちんと批判するならするべきだと思います。具体的には、中傷的な言葉を削り、根拠不十分な批判を控え、確実な問題点だけを指摘する形に記事を改めてほしい。例えば、値段が高すぎるといいたいのであれば、パッと見ただけの目分量ではなく、きちんと他社製品と比較するべきでしょう。
過去に私が見てきた事例では、三分の理をもって全体をそのまま残そうとする抵抗形態が多かったように思います。TAKOさんの記事にはいくつかの重要な事実が含まれています。しかし、一部が事実だから全体が誹謗中傷でないとはいえません。著作権侵害による絶版騒動のようなもので、ひどい記述が一定量を超えていれば、全体が殺されてしまうものです。私は、それは仕方ない、むしろ当然だと思います。そして少なくとも私は、この点で個人ウェブサイトの記事を例外とすべきだとは考えません。
ようするに、「悪を叩く」ためなら、何でもやっていいのか、ということです。社会秩序を守り育てながら戦っていくことは、できると思います。依怙地にはなってほしくない。戦略的に、問題を社会に知らしめるために一時的に頑固になる、それも、ひとつの方法でしょう。ただ、そのまま突き抜けようとすることは、避けてほしいです。
お時間のある方は、私が昨年書いた上記リンク先の記事群もご一読ください。
mala さんの記事の趣旨は、時代に取り残されている人々を啓蒙していくべきだ、ということでした。その論拠は、自サイトでは RSS の閲覧数が HTML 文書の閲覧数の10倍になっている、コメント欄への書き込みの100倍、はてなブックマークでコメントされている事実です。つまり閲覧者にとって、HTML 文書を見るより RSS を購読する方がよいのであり、コメント欄を使うよりソーシャルブックマークで公開コメントをつける方が気楽なのだ、と mala さんは解釈したのです。
ところが現在もまだ、RSS を提供していない著名な個人ニュースサイトが、国内随一のソーシャルブックマークサービスの20倍以上のアクセス流出力を持っています。この矛盾はなぜ生じるか? mala さんは、個人ニュースサイト管理人が(おそらくはその影響力を保持し続けるために)RSS やソーシャルブックマークの情報を隠蔽しているためだ、と考えました。そして「RSSリーダー」と「ソーシャルブックマーク」という便利な道具を1万は超えるであろう読者に教えずに、秘密にし、騙し続ける事に対して罪悪感はないのか
とカトゆーさんを批判しました。
なるほど、筋の通った推論です。しかし mala さんは、肝心な部分の調査を怠っていました。
2003年10月以降、カトゆー家断絶では毎月のように RSS 関連の話題を紹介し続けていることがわかります。
2005年2月以降、ときどき紹介されていますね。
読者に RSS リーダを紹介しても、ソーシャルブックマークを紹介しても、個人ニュースサイトの人気がガタガタ落ちていくわけではない。むしろカトゆー家断絶の人気は上昇し続けています。Read Me のデータを示せば、2004-11-27 には 29793visit/day でしたが、2005-11-28 には 31758visit/day となっています。
事実を踏まえて考えれば、mala さんの議論にはもとより無理がありました。mala さんのサイトは RSS リーダに飛びつくような geek が集まる、特殊事例でした。自サイトの読者像から一般人の姿を想像してはいけなかったのです。mala さんは、事実ではなく思いこみに基づいて議論を組み立て、誹謗中傷に至りました。
注:インターネット白書2005によれば、2005年4月時点で RSS の認知率は 20.9% にとどまり、RSS リーダの利用(経験)者は 9.5% に過ぎません。カトゆー家断絶の読者は、RSS 認知層です。その外側に、RSS なんて聞いたこともない8割の人々がいることには注意しなければなりません。
さて、私はカトゆーさんではないし、カトゆーさんは怒っている風でもないし、「謝れっ!」とかいいたいわけではない(謝った方がいいとは思うけど)。そもそも mala さん個人に何らかの行動を求めるなら、直接メールを出しています。
では、何をいいたいのか。
人は、自分の信じたい話を信じます。それが本当かどうか、よく考えない。人は、自分が常識だと思う考え方を、常識であると信じて疑わないことが多い。無論、何から何まで、きちんと調査して実情を確かめていくことは不可能です。しかしそれならば、私たちはもう少し、謙虚になっていいはずです。
mala さんは(一般人は)時間軸がずれている
といいました。その意味は、「遅れている」です。ひとつの価値観を信じていればこそ、このような言葉が出てきます。もし、ずれているのが「時間」ではなく「価値観」ならば、一般人は遅れているのではなく、別の方角へ向かっているのです。(10年前のパソコンオタクが2005年の売れ筋はテレビパソコンだと聞いたら驚き呆れるでしょうね)
人は価値観の奴隷です。長年、飼い馴らされて、ご主人様を疑うことを忘れがちです。「現実」に裏切られてさえ、目を覚まさない。そうして私たちは、「世界を歪める巨悪の幻影」を、虚空に見出すのです。
RSSを吐かないサイトは糞サイト。閲覧者の利便を何も考えてないから。
と id:ymer さんはいう。アンテナではご不満ですか。My RSS では用を成しませんか。手慣れた更新手順を守る限り RSS を出し難い事情もあることを理解できませんか。過去ログを読まずに最新の記事ばかり追うスタイルに疑問を感じませんか。そして、少数派の自覚はないのですか。その言葉で、人を説得できますか。
mala さんは、そして id:ymer さんも、ある日ある時の私であり、あなたでもあります。私は多数派への迎合を勧めたいのではありません。それは不可能です。たいていの人は、何らかの場面で少数派となります。そのとき、多数派の実相を直視せず、妄想を膨らませて得することは滅多にない。私が私であり続け、そして社会の中でよりよく生きてゆくためには、世界をきちんと見つめていくことが大切だと思います。
……。
デンマンさんのブログは、他の記事もすごいです。越後屋健太(えっけん)さんによると、すごい文章が好きな方には、今、一押しらしい。
……。
こちらはさすがのえっけんさんも関わるのをやめたがっている感じのブログ。ちょうスゴ。
2001〜2002年頃のテキストサイト管理人数は、非常識に多く見積もっても10万人でした(常識的には Read Me 登録数2万×2=4万人以下)。アクティブなブロガーが100万人に達しようという昨今の状況から考えて、往時の10倍は**な方々が出てきておかしくない。そして実際、すごい事例をたくさん見かけます。
いちいち2chにスレが立っていた頃が懐かしい。徳保スレが10本も立ったのは先行者利益だったんですね。斬鉄剣が現代のウェブサイトだったなら、あんなに叩かれることはなかったでしょう。きっこのブログなどが野放しになっている2005年現在、柊さんが斬鉄剣へのリンクを躊躇した感覚は、「現代人」の理解を超えた領域だと思う。
私は「テキストサイト界隈が妙に倫理的に高潔であること」にかつて長らく違和感を持っていたので、「ようやく常識的な感覚が通用するようになった」と解釈していますが、古参の読者の皆さんは、いかがお考えなのでしょうか……。
テキスタイルポップの INTERVIEW #58 にプラッチック(+裏ッチック)のフロンツさんが登場。著書「さよなら、気まずさたち」の刊行を初告知。フロンツさんの本なら面白いのは間違いないと思う。
秋の特大号では山賊さんの処女作「やさぐれぱんだ」の告知がありました。ネット発本ブームの余波かどうかわかりませんけれども、何度も読みにいったことのあるサイトから、いろいろ本が出るのは個人的には嬉しいです。
Folio でお世話になった歪み冷奴の吉見マサノヴさんも、「恋愛歪言」に続く2冊目の著書(注)を準備中とのこと。先日、文学フリマで本人から聞いた話なので間違いないと思います。
さて、テキスポがスタートしたのは2003年3月のことです。存外、新しい。オールドスタイルでコツコツと2年8ヶ月、数あるメタテキストサイトの内、最もしぶとく生き残っているサイトのひとつとなっています。インタビューも地道に積み上げて50回を超え、100回を目指して順調に進んでいるようです。偉いですね。
ブログブームに飲み込まれて、テキストサイト界隈が見えにくくなっている、論者によっては既に消えてしまったかのような意見さえ口にする昨今ですが、テキスポを情報ハブとしてリンクを辿っていくと、懐かしい世界に存分に浸ることができます。もう「テキストサイト大全」のような本は成立しなくなってしまったかもしれないけれど、当面、テキストサイト界隈は一部の人々の悲観的な予想を裏切って、私たちを末永く楽しませてくれそうな感じです。
とまあそんなわけで、テキスタイルポップと Target capture が継続して運営されていることには感謝してます。
最初にひとつお断りしておく。私に動機ときっかけを与えたのが mala さんの記事だったので、あたかも mala さんに対して意見するような形式で記事を書く。しかし当然のことながら、mala さん個人に意見したければメールを出せばよいのである。こうして公開の備忘録にて自説を書いているのは、別に mala さん自身がこれを読んでも読まなくても、それはどうでもよいからだ。
交通事故のニュースにコメントなどするとき、その記事が当事者に読まれなければ意味がない、と考える者はほとんど皆無だろう。そのようなものである。
前回の記事は、思いっきり分かりやすく書いたつもりだったのだが……。別ルートで同じ結論を導くことにする。
最速インターフェース研究会管理人の mala さんのような geek に目立つ勘違いが、ひとつある。
将来、みんなが geek になっていく、geek がコモディティ化していくはずだ……そう思っているのだ。
今、ウェブの先端ユーザの間に geek を自称・他称する流行が(一部に)あるが、IT用語辞典によれば、そもそも geek とはナードからさらに度が進み、社会への適応性を失った人のこと
をいう。geek が喜ぶものが一般人に普及することこそ、例外だと思った方がよい。
それは会社の同僚の様子を見れば分かる。geek だらけの職場にいる方は、ボランティアで老人たちに教えたり、市民講座のアシスタントをしておじさんおばさんの様子をよく観察してみるといい。すぐには気付かないかもしれないが、だんだんに分かってくる。ソーシャルブックマークサービスを周囲に勧めて大いに感謝されるような環境に暮らしていると、それがあたかも当たり前のことのように錯覚するのだろうが、大いなる勘違いだ。
蝸牛の歩みで進歩する(ときには退歩さえする)のが大多数のユーザである。時間軸のずれた人たちをそのまま放置するような姿勢が許せない
などと書く mala さんこそ世間から浮いている。
まあ、私の多少なりとも造詣の深い分野に即していわせていただくなら、br 要素をふたつ重ねて段落の区切りとするなど、レガシーな HTML 理解のまま2005年を終えようとしている mala さんが、時間軸云々などというのは傍ら痛い。しかし私に HTML への理解不足を指摘されたところで、mala さんは困るだろう。HTML の思想に魅せられた人々は、よかれと思って「正しい理解」の普及に努めたが、手痛い敗北の歴史を重ねてきた。SBM や RSS や Ajax に淫している人々も、同じことだ。
例えば2chのJavaScript質問スレなど、いまだに「ポップアップウィンドウを制御するにはどうしたらいいんですか?」というようなレベルである。今実際行って確かめてみたら本当にそうだから救いようがない。困る。
と mala さんはいう。困るのは geek だけだ。庶民は困っていない。
今後も JavaScript の最も大きな需要は、ポップアップウィンドウを出すとか、右クリックを禁止するとか、前のページに戻るとか、そういったくだらないことだろう。「何で君らはいつまでもそういうレベルなんだね?」と geek は嘆いてみせるが、大きなお世話としかいいようがない。愚民を啓蒙したい使命感は理解できるが、自分だってその手の「賢い人々」にうんざりさせられてきた体験があるだろう。なぜ、そのことを思い出さないのか。
mala さん自身はとくに geek を名乗っていないが、私があえて mala さんを geek と呼んだ意図はここにある。「そうか、geek なら仕方がない」と。
しかしだ。それでもなお、はてブのトップに載るより、カトゆーに載った時のほうがはるかに大量のアクセスが来るのである。正確には覚えてないがとにかくはてなブックマークで1位になるよりカトゆー家断絶に紹介されたほうが断然アクセスが来る、20倍ぐらいは来る。本当に驚くべき実体である。
一体カトゆー家断絶をどんだけの人間が見てるんだよって話だ。いまだにああいうのを毎日チェックとかしてる人がいるのだろうか。
俺が言いたいのは「RSSリーダー」と「ソーシャルブックマーク」という便利な道具を1万は超えるであろう読者に教えずに、秘密にし、騙し続ける事に対して罪悪感はないのか、ということだ。個人ニュースサイトの運営者なんかは当然RSSリーダーとかバリバリ使ってあちこちにアンテナ張ってるんだろうから、知らないわけがないのである。一体いつまでそういうことを続けるつもりなのか。
せめてRSSを吐けと。
あえていうと、mala さんはバカなんじゃないか。頭が悪いというのではなく、geek の気持ちしかわからない人、というような意味で。
カトゆー家断絶の閲覧者がはてなブックマークのトップページの利用者よりも多い理由は、ハッキリしています。ソーシャルブックマークの利用者がなかなか増えない理由も明らかです。2005年4月時点で RSS の認知度が 20.9% にとどまり、RSS リーダの利用者が 9.5% に過ぎないことは、驚くに値しない。主に利用する検索エンジンが Yahoo 58.7% で Google 26.5% の2倍以上なのは当然です。(データ出典「インターネット白書2005」)
……と書かれると、mala さんは驚くのでしょう。RSS リーダの存在を知れば、みな感激して飛びつくに違いない、と考えるナイーブさは、「こんなに素晴らしい商品が売れないはずがない」といって営業に食って掛かる技術者と同じ。消費者に敬意を払わないで、どうやって成功するつもりなのか。(コメンターの方々も要注意)
とりあえず、ろくに調べもせずに便利な道具を1万は超えるであろう読者に教えずに、秘密にし、騙し続ける事に対して罪悪感はないのか
なんて書いた mala さんは、カトゆーさんに謝るべきですね。
ところで、カトゆー家断絶が RSS を出していないのは CMS を利用していないからです。ここで「なぜブログに移行しないの?」とか素で質問するのは禁止。ともかく他人に無茶をいう前になんでもRSSとか My RSS でも試してみるべきでしょう。実際、My RSS でカトゆー家断絶は個人サイトで1番人気となっています。
ところで、この記事を読んだ先進的なウェブユーザから「なんでトラックバックしないの?」という質問が出ると予想。本当にわからないの? まあ、わからないでもいいのですが、私がトラックバックの打ち方を知らないわけじゃない、ということだけは明記しておきます。
最近、私が感心したのは任天堂・岩田聡社長のプレゼンですね。言葉に無駄がない(音読してみてください)。スライドもシンプルでわかりやすい。
きれいなスライドを作る方法を解説した本は多々ある。お勉強するのは、よいことだと思う。ただ、日本の一流企業が社運を賭けたプレゼンの資料が、実際どのようなものか、まずそれを見てから勉強の方向性を考えるべきだろう。
はてなブックマークというサービスがある。登録ユーザはオンラインにブックマークを持つことができる。自分のブックマークを他人に公開し、簡単な個人ニュースサイトとすることも可能だ(現状では公開ユーザが大半)。
はてなブックマークでは、ブックマークされた記事ごとに、ブックマークしている公開ユーザと彼らの付したコメントの一覧ページが自動で作成される。このように、多数のユーザのブックマーク行動を集積し、新たな価値を生み出そうとするタイプのオンラインブックマークサービスを、ソーシャルブックマークサービスという。
ブックマークされた記事ごとの公開ユーザ+コメント一覧ページ(以下「個別ページ」と称す)は、一般に公開されている。多くのユーザがブックマークした記事は、サービスのトップページから、当該記事と個別ページにリンクが張られる。そのためトップページの利用者は次第に増加しており、はてなブックマークで話題になった記事の管理者は、アクセス解析などを行っている場合、容易に公開されているブックマークコメントを参照することができる。
当然ながら、コメントは好意的なものとは限らない。そしてまた、批判的な、あるいは悪意の込められたコメントにショックを受け、サイトやブログの更新を休止、あるいは当該記事やサイト全体を削除する人がいることもまた現実である。
加野瀬さんが指摘した「ブックマークコメントの暴力性」は、多くの反響を呼んだ。トラックバックを辿ると、多くの主張を読むことができる。私は、以下のように考える。
批判的なコメントをしたければするがいい。だが、「一般に情報を公開したならば、批判者が登場する可能性を想像せよ」と言い募り、批判に耐えかねて閉鎖するブログに悪態をつくのは自己矛盾だ。ウェブが免許制でない以上、批判に耐えかねてサイトを閉鎖するような人々の存在は容易に想像できるはずだ。戦略的に「信じられない」と発言することまで私は否定しないが、仮に本気ならば、人間観察の欠落を指摘したい。
はてなブックマークコメント問題について、私の基本的な主張は「無断リンク禁止派と闘う理由を問い直す」と共通する。それが誹謗中傷ではないと多数派に認められ、あるいは排除すべきと判断されない限り、批判するのは自由だ。批判対象がブログを消すのは、批判者には不愉快だろうが、批判を嫌う側にも閉鎖の自由がある。他者を押し潰すことに堪えられないならば、批判を自粛する他ない。
最後の希望は隔絶した価値観の差異を埋める言葉の発見だが、そう簡単には見つかるまい。
ソーシャルブックマークの簡単な説明文のサンプルを書くのが当初の意図。後半はオマケ。
はてなでは、誹謗中傷を禁じている。しかし実際には、はてなブックマークとはてなダイアリーを通じて中国の7色に輝く河川と食品のような扇動的かつ内容の怪しい記事が堂々と広められている。
もちろんこれは、はてなに特異な問題ではない。ゲーム脳という与太話がマスコミで喧伝され、短期間に日本人の常識となってしまったことは記憶に新しい。所詮、ウェブもマスコミ報道も、多数派にウケればたいていのことは許される世界なのだ。むしろ「ゲーム脳の恐怖」が絶版にでもなれば業界の陰謀といわれるのだろうし、はてなが根拠の怪しい中国の悪口を排除しても大騒ぎになるだろう。(実際、はてなが株式会社ウェディングに対する誹謗中傷を削除したら大問題となってしまった→関連記事)
誹謗中傷は禁止だと規約に書かれていても、法律で定められていても、実際にはなかなか機能しない。チェック能力の問題もあるが、何より多数派の意に反した行動をとるのは難しいということなのだ。
怒り爆発している方がたくさんいる。しかし彼らは社会の少数派だろう。そしてまた、彼らの内の何割が「中国の7色に輝く河川と食品」に不信感を覚えるだろうか。人は信じたいものを信じる。「意外」かどうかは問題ではない。報道機関だって商売なのだから、ウケる映像を作るだけの話だ。
信じたくないものは信じない、という日本人の傾向がよく現れている。衆議院や参議院の議事録よりマスコミ報道が好きなのだ。愛・蔵太さんの提言が、一部で話題になっただけで、いつまでたってもメジャーにならないのも無理はない。
必読の日記。最近話題の、姉歯建築士の構造計算書偽造により、震度5強で倒壊の恐れありと判明したマンションの住人が率直に思うところを語っている。なお、注意点がひとつ。著者周辺の住人は理性的なようだが、著者も断っている通り、他の棟や他の地区では様子が違う可能性がある。だいたい、バカはバカ同士で集まる。慎重に読んでほしい。
最近ではそごう問題や議員年金問題、古くは住専処理への過剰反応が招いた金融危機などと同様、近視眼的な衆愚の暴論に屈しない冷静さを保つ戦いを私は応援したい。公的融資を入れて建て替えを行い、長期間で負債を返していく提案が通らず、一括買取を強要する主張が支配的になると、マンションを販売したヒューザーは倒産してしまう。全員が損をする。ところが報道は買取希望者に同情的なのだ。被害者の損は公金で賄えばよいとの考えらしい。(関連記事)
マスコミは事実を報道するのではなく、報道したい事実を探し出して報道する。そのことに疑問を持つ被取材者は多いし、「賢い」視聴者・読者は、昔からおかしいと思ってきた。最近では一部のマジメなブログが、そうしたマスコミの欺瞞を攻撃している。しかし、繰り返しになるが、彼らは少数派だ。ヒューザーの社長の言い分に(僅かな許容範囲を超えて)理解など示したら、苦情が殺到する。理性的ではマスコミは務まらない。報道の姿勢は、消費者のレベルを示しているに過ぎない。
情報の非対称性という問題は無視できないが、マスコミさえ改心すれば世の中よくなる、と考えるのは非現実的だ。日刊ゲンダイに配属された記者は、当人の意思と関係なく反政権路線で記事を書くしかない。政治家と官僚と金持ちは全員ド悪党で愚劣だと言い募る他ない。そういう記事を読みたい読者がいるから、そういう記事が書かれる。仮にゲンダイが路線変更すれば、他の会社がそのジャンルに進出するだけだ。
悲観論は活力を奪うが、理想主義に燃えるばかりでは、マスコミ報道とは別の意味で現実無視の陥穽に落ちる。この戦いには、永久闘争の覚悟が要る。
1950年には池田勇人蔵相(当時)が「貧乏人は麦を食え」と言ったと言われていたわけですが、(中略)本当は何と言っていたのか知りたい人は、1950年12月7日の参院予算委員会を、「国会会議録検索システム」を使って見るといいです
調べた結果は以下の通り。日本社会党の木村禧八郎参院議員の質問に、池田勇人大蔵大臣が答弁している箇所(の後半部)を抜粋しました。
たいへん読みにくいので、まず簡単に状況を説明します。
1945年に戦争が終わり、日銀引受の公債による復興が図られた結果、日本経済は劇的な物価高騰に見舞われます。1948年、GHQ は経済安定9原則を指令、1949年のドッジ=ライン施行によって物価は安定したものの、徴税強化と通貨供給量の減少により安定恐慌に陥ります。そして1950年、朝鮮戦争が勃発。再びインフレが加速しつつある中、景気好転の兆しが現れます。よって政府財政の大幅な改善が見込まれ、減税が計画されます。
一方、インフレの暴風から庶民の最低限の生活を守るため、1950年当時、政府は米価の統制を行っていました。その結果、日本米の価格は諸外国と比較して異常に安価となっていたのです。一方、もとより安価な小麦・大麦の価格は、概ね諸外国と同等でした。こうした価格統制の結果、各自の収入に関係なく国民の米・麦消費比率が一定となっていました。米価統制は農民に大きな負担となっており、また生産者価格のみ引き上げて消費者価格を据え置けば政府の負担が大きい。
そこで、経済が好転してきた機会を捉え、政府は減税の実施とともに米価の段階的引き上げを画策します。これに対し、日本社会党は米価引き上げに異議を唱えていくことになります。
- 木村禧八郎君
- どうも大蔵大臣は朝鮮動乱の影響について、勤労者の生活が楽になるというようなお考え方をしておるようですが、そこが根本的に我我の考えと違うのでして、只今イギリス、西ヨーロッパ等の国における再軍備費の増加ということをお話になりましたが、西ヨーロツパとかイギリスにおいて問題になつておるのは、再軍備と国民生活の調整をどうするか。これが大きな問題になつておるわけです。そこでどうしても再軍備をやらなければならないのなら、国民生活を余り圧迫しては困るから、やるのならアメリカからたくさん金を貸してくれということを交渉しておるわけです。問題は国民生活をどう維持して行くか。この再軍備の段階において、西ヨーロッパなどにおいてはそれが非常な悩みの種になつておる。折角消費水準が上つて来ておる、生産が復興して来る。ところが再軍備が起つて来て国民生活が低下するようになつた。これをどうするか、そのためには、再軍備のために国民生活が低下しない形においてやるのには、アメリカに援助をたくさん頼まなければならない、こういうことになつて来ておると思います。日本におきましても、世界的な再軍備の段階に入つて、日本経済がその一環として利用されるようになつて来ておる段階においては、国民生活をどう防衛するかというのが大きな問題である。大蔵大臣が言われるように国民生活が楽になつて来るという考えでやつて行かれたのでは、考え方が非常に甘いと思う。そこが根本的に考え方が違うのでありまして、大蔵大臣は何か朝鮮動乱が起つて滯貨が一掃された、特需が起つた、輸出が殖えた。それで何か経済が順調に行つておると、こういうような甘い考えだと思うのです。これは国民生活にどういう影響を及ぼしておるか、又今後どういう影響を及ぼして行くかが大きな問題であつて、この観点から、我々はもう戦争をしないのでありますから、例えば生産がどんどん殖えても、その生産力が軍備その他に使われるならば、軍需品生産に使われるならば、又軍需品の消費に使われるならば、幾ら生産が殖えても我々の生活水準は高くならないのです。我々は今後民主化された日本においては、又平和化された日本においては、国民の消費水準をどうして高めるかということが経済政策の一番大きな目標でなければならない。そういう方向にやや向いて来たわけです。それで大蔵大臣のおつしやる通り、動乱が起る前までは確かに消費水準は上つて来ております。ところが動乱が起つて来てから下つて来ているということは重大な問題で、これは單に期間の問題ではないと思う。私はこの問題についてまだ大蔵大臣に具体的にお伺いしたいことがあるのですが、農林大臣がいらつしやいますから、その関連においての質問に移りますが、大蔵大臣にお伺いしたいのは五千五百二十九円という米価、これは国際的な米価に鞘寄せする、そういうところからそういう生産者米価をお考えになつたのかどうか。
- 国務大臣(池田勇人君)
- 木村さん、昨年に比べて今年はよくなつたということはお認めになりましよう。而して朝鮮動乱後ちよつと今物価が上つて、そうして政府の減税その他の施策が来年の一月から行われる、この八、九月から十二月までのピークというものは私は認めます。併し減税をし、給與を上げた場合において一月からどうなるかというのが今の問題である。だから私は来年からは減税もするし、公務員につきましては給與の引上げもやろう、而して民間の生産は徐々に上つて行く。成るほど八、九月のちよつとぐらいのピークは私は認めます。併し全体として昨年よりも今年はよくなつている。だからこの施策をやつて行けばよくなる。このピークの八、九月だけをとつての議論は私は取らない、こう言つておるのであります。然るに五千五百二十九円の生産者米価は国際価格に鞘寄せしたかという、こういう御質問でありますが、私は国際価格に徐々に鞘寄せすると、こう言つておるのであります。国際価格は、朝鮮米は百四十二ドルでございます。日本の港につく価格が石当り百四十二ドルでございますから、七千六百円ばかりになります。而してタイ米とか或いはビルマ米は予算では百四十ドルに見ておりますが、最近は百二十九ドル、或いは百三十二ドルで来ておりますから、大体は七千円程度であるのであります。而して今回の本年産米の分は五千五百二十九円で、国際価格にまだ鞘寄せというところまで行つておりません。我々の計画では、来年は一九五パリテイに或る程度の加算をいたしまして、六千百円余りを見込んでおるのであります。これは一度に国際価格に鞘寄せするということは非常に危險であり、労賃、生計費その他に及ぼす影響……、併し何と申しましても日本の経済は世界の経済に継がつて来つつある。世界の経済市場に乗り出しておるのでありますから、好むと好まざるとにかかわらずこれは国際市場に鞘寄せせらるべき運命を持つておる。これを如何なる程度で、如何なる時期においてやるかということが非常な経済問題、政治問題であるのであります。私は日本の経済の安定は、主食が国際価格に鞘寄せせられ、それに応じて一般の労賃が定められるときを以て終止符を打つべきだと、こう考えておるのでありますが、まだ只今のところ国際価格に米のほうが鞘寄せされておりません。麦のほうはどうなるかと申しますと、麦は今年三千七百五十円であります。大体六十八、九ドルになることになります。今小麦協定は七十一ドルが最低のあれでございますので、麦の価格は大体国際価格に鞘寄せされて来たと申し得られましよう、小麦協定に入つた場合の……。そこで問題は米と麦との比価の問題になつて来る。これは麦は御承知のように配給いたしましても、小麦を田舎へ配給しますと配給辞退が起る。で日本人には小麦よりも大麦のほうが割に買われやすい。而して又麦と米との価格は、米に対して小麦が九十五では日本人には合いません。そこで私は米の値を上げることによつて国際価格に徐々に鞘寄せをして、そうして米と麦との差を多くすることが日本人の食生活に合う。こういう考え方で麦の値は消費者価格を据え置きましてそうして米の値段を上げて行こう、こういうことに考えて進んでおるのであります。この点は農林大臣、安本長官も同意見だと私は思うのであります。
- 木村禧八郎君
- そうしますと、生産者米価を五千五百二十九円に上げたのは、米価を国際価格に鞘寄せしたというわけではないのでありますけれども、そういう意図からせられたということを承わつたのですが、併しこれについては相当問題があるわけでして、公聴会におきましても、日経連の堀越氏から、米価引上げについては反対であるという意見がある。その論拠として日本の米の輸入の量は国全体で生産せられる米の量、或いは消費者の米の量に対して極めて僅かである。そういうふうな点、そうして僅かである輸入食糧の引上げによつてもつと大きな消費量のほうに影響を及ぼさせ、そうして国民生活に大きな影響を與えることには反対だ。堀越氏の意見はそれが賃金の引上げに影響するから……、こういう御意見だと思うのですが、私は生産者価格についてはあえて反対するものではないですけれども、それによる消費者価格の引上げ、これが国民生活に及ぼす影響を大蔵大臣はどう考えるか。これは大蔵大臣がインフレを抑制しようという考えと、矛盾するものだと思う。政府はインベントリー・フアイナンスで一般会計から繰入れた。そういうような形で財政経理面からインフレを抑えることに努力しつつありながら一方米価を引上げた場合、税金を納めていない人は何によつてカバーするですか。米価の引上げの影響、この点どうですか。
- 国務大臣(池田勇人君)
- お考えになつておる点が三つあると思います。米の生産者価格を引上げろ、消費者価格は上げるな。これは米価審議会の答申もそうであつたかと漏れ承わつておりますが、これは無理なことでございます。それだけ政府が税金を取つて補給金を出さなければならん、こういうことになるのであります。その政策は私はとりたくない。これが一点。第二点は、大蔵大臣は米の値を上げて行こう……、そうすれば賃金も上るじやないか、これはインフレ政策ではないか、こう言われる。それは一応インフレ経済を本然の姿に持つて行くことです。ですからそれは一遍にはできません。国際価格に鞘寄せするというので、生産者価格を朝鮮米の七千六百円に持つて行く、そうして賃金をそれに応じて一遍に上げてしまうということはこれはいけませんから、私は徐々にインフレを抑えながら、本然の姿に持つて行こうとしておるのであります。だから国際価格に徐々に鞘寄せして行く、こういうことで御了承願いたいと思います。而して第三の税金を納めない人はどうするかという問題、併し税金を納めない人がどれだけありますか。生活保護法その他で政府の給與を受けておる人はこれは別でございましよう。併し我々の見るところを以てすれば、殆んど全部の勤労階級は税金を納めております。そうでしよう。基礎控除二万五千円では月給取りは殆んど納める。こういう状態になつておるのであります。そこでこれは税金を納めない人は苦しいじやないか、こういう人は例外的にはあると思いますが、全体の施策としては私は税金をまけることだ、而して又間接税その他についてまけることが一番いい国の政策だと考えるのであります。
- 〔委員長退席、理事藤野繁雄君委員長席に着く〕
- 理事(藤野繁雄君)
- 木村さんに御相談しますが、衆議院から大蔵大臣は呼ばれておるそうですから、一つできるだけ簡單に願います。
- 木村禧八郎君
- どうも大蔵大臣の御答弁は非常に部分的な理論を以て一般を律するようなんです。例えば税金を納めない人なんかないじやないか。成るほど消費税は納めます。併しだんだん基礎控除を上げたり何かするのは、やはり低額所得者を擁護しようというのでだんだん失格者が多くなつて来るわけであります。その点の御答弁は余り極端だと思うのであります。そういう点は議論になりますからやめます。インフレを防止しつつ日本経済を再建すると言つておりますが、インフレを防止しつつ日本経済を再建するという根本の対策は、やはり実質賃金を高めるということが根本の対策と思うのでありますが、それにはやはり名目賃金を上げるよりも食糧の値段を安くするということ、或いは衣料の配給を豊冨にし、それを安くする。米の配給の量を多くし、それを安くするということ、こういうことが最も効果的だと思うのであります。米価の引上げが諸物価に影響を及ぼすということは大蔵大臣も御承知の通りでありまして、従つて消費者米価を軽々に上げるということは、これはやはり負担の公平から言つても問題でありまして、私はまあ税金を取つてこれは消費者価格を下げる、而もその税金の取り方は最近特需とか何とかで非常にあぶく的に儲けた方面から取る。あとで御質問いたしたいのでありますが、法人税なんかの取り方は実は少な過ぎるのであります。その見積りなんかも……、その方面で非常にたくさん税金が取れるのであります。そういうところから取つて消費者価格を下げるのです。それこそが本当の公平な経済政策のやり方なんですが、その点は大蔵大臣は、何か米価を国際的水準にまで持つて行くと経済が安定するのだ。そういうような前からのお話ですが、大蔵大臣は何かそういう既成の観念に捉われて、何でも米価を国際的の水準に持つて行けばそれが経済安定したメルクマールになる、こうしたどうも既成的な考え方から無理やりに国際水準に米価を持つて行こうとして、そうして日本経済全体の諸影響を考慮して、又国民生活に及ぼす影響、その他を考えて米価というものを考えていないと思うのであります。少し無理をしておるのである。そうして大蔵大臣の考えでは早く米価を国際水準に持つて行つて統制を外す、デコントロールをやるのだ、そういうことに捉われて、さつき経済を自然本然の姿に持つて行くと言いましたが、今の日本の姿は自然本然の姿で動いておりますか、動き得ると思いますか。今後輸入についても、昨日安本長官は、これは民間だけでは困難であるし、政府もよほど考えなければならないと……、やはり統制というものを加味しなければやつて行けない段階であります。従いましてそういうような自然本然の姿にするために、米価を特にわざわざ国際的水準にまで持つて行くと、こういうのはおかしいと思います。そのほかに理由があるのじやないですか。大蔵大臣としては米の値段を特に上げて行くということについては、米食の習慣その他いろいろ考えて、大蔵大臣は何かそういう国際的水準まで米価を高くして行く。それにはたださつきお話になつたようなことでなくて他にも重要な理由があるのじやないですか。米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。
- 国務大臣(池田勇人君)
- 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。お百姓さんに小麦を食え、而も米の一〇〇に対して九五の小麦を食えと言つてもお百姓さんはなかなか食わぬ。都会の人は別であります。そういうことを考えて日本の経済を本然の姿に持つて行くには、米と麦の差も大きくしなければならないというのでやつているのであります。別に他意はございません。そうして日本の経済はどうしても国際的に成り立つて行かないという考えは誤りであります。どうしても国際的に見て正常な姿に持つて行かなければ長い競争はできない。これは他面から申しますと、農民に対しても非常に低い米価でやるということはよくない。各国の農業政策を御覧になりましても、アメリカは二十数億の農産物の補給金を生産者に対して出している。イギリスなんかも馬鈴薯を非常に高価に政府が買入れている。日本はその逆で農民から非常に安い米価で買つて補給金を出している。世界の農業政策からいつて逆なんです。この面からいつても米の値段を無理やりに抑えて行くのはよくない。麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。
- 木村禧八郎君
- それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか。
- 国務大臣(池田勇人君)
- 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。
この質疑は木村議員の勝ちというべきでしょう。結局のところ池田大臣は、米価上昇は減税で相殺されるという主張を一部において崩し、低所得層にとって米価引き上げが米食抑制と麦食推進の効果を持つこと、政府の狙いの一つがその点にあることを認めたのでした。
「貧乏人は麦を食え」という報道は乱暴でしたが、本筋において全くの誤りとはいえません。本来、米は高価なものであり、まだ戦前の経済規模を回復していなかった1950年当時の日本において、誰もがおなかいっぱい食べられるようなものではないはずであった、しかし庶民はその現実を認めず、政府が何とかするべきだと考えていた、そういった状況が、池田蔵相に対する苛烈な攻撃となって現れたのでした。
同じ課で仕事の種類は一緒なのに、早く帰る人とそうじゃない人といるのはどうしてですか?
という質問に、michy さんはこう答える。
早く現実を知っておくことはいいかな、と思って、あえて説明してみました。
- 自分で調べられることを調べなかったり、自分の部署内で情報共有しとくべきこと先輩に聞かずに、相手になんでもかんでも聞いてると、答えが返ってくるまでは仕事をしなくてもいいし相手も説明に疲れて端折った説明をするので自分もざっくり理解してすませて手間が減るってことを。
- 右から左に仕事を回してると、自分の手間はかからないってことを。
- そんな会社の中の人間としての付加価値を産まない仕事をやってたら、誰も信用してくれなくなって、ますます仕事が減るってことを。
- でもそんなことは絶対にやらないで欲しいってことを。
- また、子供が小さいなどなどいろんな事情がある人もいて、会社もその事情を理解して、早く帰ってる人がいるってことを。
- うまくマネジメントして、自分が抱えられる量だけを抱えてる人もいて、それが一番賢いってことを。
- 体力以上に無理をして体を壊されるのが、なにより一番会社にとって困るってことを。
- いつも丸投げをするのはよくないけど、きちんと担当部署に連絡したり、担当者に確認したりするのは重要だってことを。
- 後輩を育てるときには、同じことに気をつけて欲しいってことを。
そういう説明もあるのだろうけれども、新人君も中学校は卒業しているのだろうから、まず社会科(公民)で習ったことを思い出させることから話をはじめるべきだと私は思う。michy さんの説明には、初歩的な枠組みの解説が抜け落ちている。
定時に帰るのは労働者の権利であり、時間内に終らない仕事を割り振るのは上司が悪い。残業は上司の割り振りミスから生じるもので、労働者は必ず残業代をもらわねばならない。残業代を払わない会社は、法令に違反している。世の中に仕事のできる人間とできない人間がいるのは当たり前で、だから給与格差とか昇進の差が生じる。各自、分相応に仕事をすればよい。
ようするに、定時で帰る労働者こそ正しいのであり、平気な顔して残業してる方がおかしいのだ。
こういう原則をきちんと教えないでいると、「定時で帰る奴はクビにすればいいのに!」といった空気が職場に蔓延する。失業者は税金で生かすのだから、基本的人権を尊重する現代の日本社会においては、できの悪い仲間を会社から追い出して気分爽快になったって、大局的には無意味なことだ。定時に帰る人が「申し訳ない」と引け目を感じたり、無能者のレッテルを貼られたりするような文化が払拭されない限り、過労死は減らない。日本の労働者は幸せになれない。
それなのに michy さんはちょっと、私って熱血チューターっぽくないですか?
なんて自画自賛
している。だから michy さん自身が駄目駄目
と認めるような組織が、生き残っていく。ダメなものをダメなまま維持する文化に加担して胸を張っていてはいけないと思う。
「そうはいってもさ……」というあたりは、わかるつもり。会社なんて、そうそう選べるものじゃなし、今の勤務先で幸せに生きていくには、嫌な世界を支える嫌な価値観に染まっていくしかないのかもしれない。人がみな強く生きていけるわけがない。そうして不幸の再生産が起きてしまう。どうしようもない。悲しい。
なんだこれは(と、驚いておくことにする)。ようするに、過当競争なのだと思う。システム構築業の世界は、昔から同じ問題を解決できずにいるらしい。多分、デフレが解消されても、そして日本全体の景気がよくなっても、この業界はやっぱりうまくいかないに違いない。
以前、話題になったデル社の虚偽採用事件の詳報。許しがたい事例だと思う。
2年半前に書いた私の記事にも通じる一面がある。半角英数さんは茶化しているけれど、実際これはなかなか難しい問題だと思う。応援メールだって1通目は嬉しくても、3通、5通となるとプレッシャーになって気が重くなってくる。自分では大スランプだと思っているときに、「最近いい感じですね!」みたいな意見をもらってガックリきたりする。自分でも、どんな読者が望ましいのかよくわからない。
とりあえず、何かしら褒めてくれる読者を好む人は多いだろうけれど、私がぶちあけた話を書いているような、微妙な問題は、それぞれに思い当たる節があるに違いない。テストでいい点を取って、先生や両親に褒められたのに釈然としない、とかですね。
あ、結論とか新しい視点はありませんので悪しからず。
ところで、はてなリングを用いて登録制の掲示板を作りました。メールもトラックバックも気乗りしないという方は、お気軽にご利用ください。なお、例によって例のごとく、私の運営方針は誰でも参加できますが、とくに理由なくメンバー登録を抹消される可能性があることをご承知おきください
という按配です。
ちなみに投稿された内容を私が読むことは保証しないし、有意義な書き込みであっても断りなく削除することがありえます。レスをつけるかどうかは気分次第。私が管理するとなれば、当然、そういうことになる。このいい加減なルールに不満があるなら、私の管理下ではない、どこか別の場所で存分に書けばいいと思う。
HTML はスッキリしており、見出しレベルの設定なども、よく配慮されたものです。ご心配の CSS の記述は、なるほど迷走気味ではありますが、基本的にはしっかりしたものだと思います。
サイト内の様々な文書に対し、ていねいにスタイルが指定されており、統一感は十分でしょう。和風の配色が英文多読という内容となぜか違和感なく、落ち着いた雰囲気と明るさを兼ね備えたよいデザインとなっていますね。
二年後↓
?B のコメント一覧を見ると、見事に脊髄反射の嵐。タイトルだけで判断する軽薄さ。
もともと堀紘一さんはどこかで聞いた話を裏取り無しで書いてしまう困った方なので、あまり弁護したくはない。しかし「愚者の嘲笑」を看過するのも気持ちが悪い。
1998年の「一番いいのはサラリーマン」は、要領が悪くて損をしている庶民に向けて書かれた本です。コツを押えて仕事をすれば、そこそこの成果を十分に出すことができるはずで、きっとあなたにとってサラリーマンはいい職業だと思うよ、という内容。一方、能力にあふれている(はずの)幹部候補生たち=ビジネスパースンに対しては、高い目標を持って頑張れよ、とハッパをかけています。
2004年の「サラリーマンなんか今すぐやめなさい」は主にエリート層に向けて書かれた本です。ビジネスパースンとして身を立てたいなら、(狭義の)サラリーマンをやってちゃダメだ、という内容。もう自然と年功序列で偉くなっていく時代は終っていますよ、ってわけ。
庶民には要領よく仕事して失業と不健康を回避する方法を、ビジネスパースンには高いレベルを目指すことを説く。現実には、庶民は要領が悪くて社会から脱落寸前であり、ちょっと出来のいい人は慢心して怠けている、それでいいのか……というあたりに著者の問題意識があるというわけです。
つまり、別に何の矛盾もないのですね。想定読者層が違うだけ。
当該記事はジョークとして面白く、明るい笑いの種とすることには問題がないでしょう。しかし ?B のコメント群には誤解に基づく嘲笑の空気が色濃い。私は ?B ユーザを批判対象とした一方、とくに id:RELOAD さんを免罪しませんでした。微妙な判断ですが、手品を超能力に見立てるショーは悪くないが、本当に超能力と誤解する人が多い「場」においては、多少の解説があって然るべきだと私は思うのです。
このところ Amazon でレビューしていないのですが、その理由は、ひどい本が非常に少なくなっているからです。もともと多くの悪書に埋もれた良書をガンガン売ることを目的にはじめただけに、「あの本もいい、この本も悪くない」という状況では、非常にお金と時間のかかるレビューが滞るのは必然というものでありまして……。
……リンク先を見ても私以外にはあまり変化がわからないと思いますが、Amazon のカスタマーレビューの一覧頁が非常に便利になりました。ログインすると、各レビューに「レビューを編集」「レビューを削除」のボタンが表示されるのです。自分が設定した星マークによる評価の表示も久々に復活しており(これは全員に見えているはず)、これなら少なくともレビュアー自身がブックマークしたいと思える内容になったといえそう。
また各商品の個別ページにも大きな改革があり、これレビューについて報告する
というヘンな日本語のリンクを辿ると、このレビューをAmazon.co.jp に掲載しないほうがいいとお考えですか?
という申請フォームが出てきます。あまりにもひどいレビューが横行し、いささか目に余るという状況が、これで少しずつ改善されていくのかな、と思います。
ちなみに、じつは著者や出版社の抗議は以前より簡単に通っていました。
お!・・・みると、とんでもないレビューが!!
ブログスパム, 2005/04/19
レビュアー: kimura 東京都
本の売り上げのためか、アクセスアップのためか
同じ内容のブログを複数立ち上げるのは
マナー違反じゃないんでしょうか?
そのような行為をする方が
ブログの本を書くというのはいかがなものでしょう。
そのような行為をする方にブログを
語って欲しくありません。
中傷レビューは、明らかにアマゾンのレビュー規約に違反しているので、アマゾン管理部に連絡。
件のレビューは、著者から連絡を受けた Amazon によってすぐに削除されました。その後も度々批判的なレビュー(と誹謗中傷系のレビュー)が寄せられましたが、いずれも数日で削除。納得できないレビューにお困りの方は、Amazon に連絡されることを勧めます。
他人事のように書いていますけれども、私も良書が少なく悪書が多かった2004年の春頃には、バッサリ切り捨てるレビューをたくさん書いたので、これからザクザク削られていくのかもしれませんね。Amazon のことだから私には何の連絡もないだろうし、ふと気付いたら総レビュー数が激減していたりして。
百世瑛衣乎さん、その後も順調にブログ伝道師を続けていらっしゃるのですね。こういったバイタリティあふれる生き方というのは、私の生き方の対極にあって、(敬して遠ざける感覚ではあるものの)羨ましい感じがします。
個人を主な対象として、15000円からブログのオリジナルデザイン製作を請け負う aamall.jp の話題。
運営会社アライドアーキテクツの取締役である滝口和宏さんの日記などを読んだ印象ですけれども、aamall はフリーのデザイナーの見本市のような商売ではなくて、若手のウェブデザイナーが貧乏暇無しで頑張ってるウェブデザイン会社のようです。徹夜作業なんて記事を読むと、何年前の話なのかな、コレは……と思ってしまうのだけれど、紛れもない2005年の現実なんですよね。
元々一般的な Web デザインの相場を知らないのですが、高いという感想もあり価格崩壊という感想もありでますます混乱気味な私です。
最低額の15000円を腑分けすると、aamall の取り分が3分の1、画像素材やソフトウェアなど諸経費が5000円、残る5000円が純粋な労賃、といったところでしょうか。つまり、半日で完成させなければならない。まあ、無理ですよね。
いや、完成したものを見れば、「なーんだ、これなら俺、2時間あれば十分だよ」といいたくなる方は、正直いると思いますよ。けれども、求める結果がわかっていれば2時間という話なのであって、何をしたらいいのかわからない状態から2時間で完成できるような人がそうそういるわけがないよ。ただし、お金をもらわないという条件なら少し話は簡単になります。よほど不真面目な方を除けば、仕事として請け負う方がつらくなります。成果物のレベルは大差ないでしょうが、途中の苦悩の度合いは全然違ってきます。
ともかく、15000円では赤字必至。aamall のデザイナーの多くが30000円程度の金額を提示しているのは当然でしょう。会社が1万円、作業経費5000円、労賃15000円で作業時間1.5日で完成させるというわけ。無論、これだって楽な話ではないと思う。
大根1本100円という値段を「ふつう」だと思っている消費者感覚からすると15000円は「高い」でしょうね。たかが趣味のブログのデザインにそんな金額を出せるわけがないだろう、と。需要側の理屈は、わかる。けれども、供給側の理屈をいえば、15000円は価格破壊ですね。
ところで、当サイトのデフォルトスタイルシート CSSthink.css は僅か131行、3.6KBに過ぎませんが、かれこれ3年以上もマイナーチェンジを重ねて付き合い続けています。あれやこれやで何時間投入したのかわからない。コピーも改変も無断リンクもみんな自由、ということにしていますけれども、全ての権利を売り渡してくれといわれたら、10万円以下では嫌だな、と思う。
メール全文を公開することは致しませんが、滝口さんいわく我々のデザイナーに関してですが、非常にお恥ずかしい話で恐縮なのですが、スタイルシートの対しての造詣が浅く、ゼロスクラッチでスタイルシートを制作することが現状ではまだ難しいのです。我々共も今後、スタイルシートの制作に関しての知識を増やしていかなくてはならないと強い認識をもっているのですが
とのこと。プロの CSS デザインを見てみたい! という用途に aamall は向きません。
膨大な情報を提供する本格的な HTML / CSS / SEO 解説サイトです。(注:SEO 関連の記事は現在、執筆中)
著者の上田遼さんは「長屋王」「松永久秀」「島左近」など日本の歴史の中でも謎多き人物(奈良の地域に関する)について研究
されている方なのですが、興味本位で2004年の夏頃に趣味の Webサイトを作ったことがきっかけで、それ以来徐々に Webサイト作成の奥深さの面白さにのめり込むように
なったのだそうです。ということは、まだ管理人暦1年余り。とてもそのようには見えず、吃驚させられます。
上田さんは SEO-Equation のように巨大なサイトをどのようにして効率よく製作・管理されているのか? そのヒントとなりそうなのが、CGIスクリプトのコーナです。XHTML-Note Ver1.1 - 厳格なXHTML1.1のHTMLファイルを吐き出す。構造指定と表示の指定を完全分離。
という XHTML-Note の完成度は高く、上田さんが Perl にも造詣が深いことがわかります。
SEO-Equation は何らかの CMS (ブログツール含む)を利用して個別の記事を作成し、手動作成と思しき目次ページを一部組み合わせて全体を構成されているようですね。数年前まで新聞社サイトのような CMS はとても趣味レベルでは手が届くものではないと思われていたわけですが、短い間にずいぶん状況が変わりました。しかし今でも、CMS をきちんとカスタマイズして導入されている方は決して多くない。私自身もそうですけれども、安直に日記を書くためだけに使っているケースが大半です。上田さんの努力には頭が下がります。
ともかく、よい解説サイトなので、興味のある方はぜひ一度、訪問されるとよいでしょう。
評価はいりませんので、ここをこうした方がいいと思った点を遠慮なく、私がやる気を亡くすような口調でも結構ですのでバシッと言って欲しいです。私は、つい最近まで平気でホームページビルダーで作成しており、HTMLの存在を知ったのも半年前ぐらいで、只今、脱!初心者をめざしております。
私では気付いていない点は腐るほどあると思いますので、グサッと突っ込んでください。よろしくお願いします。
謙虚も度が過ぎれば嫌味になると思う。私は HTML とか CSS とかの解説をいったん書こうとして、結局、挫折した人間です。なぜ挫折したか。それは、他にいくらでもいい解説があって、屋上屋を架す虚しさに耐えられなかったからです。けれども、解説は自サイト内で完結させたいという思いだけはあって、忸怩たる思いを抱えてきたわけです。
上田さんはその点、詳細な HTML と CSS のリファレンスを完成させているわけで、少なくともその点だけでも私を上回る能力をお持ちだといえましょう。所詮、私も趣味でやっている人間に過ぎないわけですが、上田さんに只今、脱!初心者をめざしております。
といわれてしまっては立つ瀬がない。せめて対等の立場として、「何かご意見があればよろしく」ということであれば、いくつか気になったことや思い付きを語ることもできるわけですけれども、グサッと突っ込んでください
となると手に余ります。
ご依頼人はみな、何らかの点で私より優れた方ばかりです。私にはとても書けない小説とか、イラストとか、面白い日記や、ゲームのデータなど、様々な素晴らしいコンテンツを持っていらっしゃる。そのことには自信を持っていただきたい。その上で、よりよいウェブサイト作成に関する私の意見を参考程度に聞いてほしい。そのようなスタンスで、私はアドバイスしたい。その点、ご理解ください。
XML 宣言で encode の指定がなされているのですが、meta 要素でも指定しておくべきではないかと思います。私の環境では、なぜかよくわかりませんが、ブラウザが文字コードの選択を誤ることが少なくありませんでした。meta 要素での指定は XML 宣言内での指定を繰り返すだけですから冗長なのですが、安全確実のために許容できる範囲内でしょう。
おそらく、現状の最大の問題はナビゲーションでしょうね。
企業サイトなどでも、「サイトマップとナビゲーションを対応させない」事例はよく見かけます。情報の階層をそのまま示すのがわかりやすいとは限らないので、「利用頻度を軸にナビゲーションを構築していく」という考え方です。「SEO-Equation」は、まさにそういった考え方にしたがって作られているわけです。そのこと自体は、良くも悪くもなくて、結果的に成功しているのか否かが重要です。
サイトマップによれば、最上位カテゴリは9項目存在します。そのうち、最上位ナビゲーションに採用したのは「ホームページ作成」「SEO/SEM対策」「検索エンジン情報」「HPヘルプ掲示板」の4項目。この選択は、非常に正しいと私は考えます。メインコンテンツをきちんとアピールしていくのは重要なことだと思います。
混乱しているのは、トップページです。メイン領域にお勧めコンテンツを並べるのは構わないのですが、なぜか情報整理に前述の4大コンテンツを採用せず、新たに「Web Authoring」というトップページにしか登場しない新カテゴリを作成し、その直下に「CGI掲示板スクリプト」「HTML解説」「CSS解説」「XHTML解説」「ホームページ作成リンク集」の5項目を並べています。これはちょっと理解し難い。
トップページの左カラムは主要コンテンツ一覧なのですが、ここに14のリンクが並んでいます。14という数字からもわかる通り、やはりサイトマップと対応していない。「HP作成と公開」「ホームペ−ジ作成」「HTML解説」「CSS解説」「XHTML解説」「HP作成リンク集」「SEO/SEM対策」「検索エンジン情報」「HPヘルプ掲示板」「WWW資料・情報」「インターネット考察」「相互リンク」「簡単相互リンク」「HP作成Tips(ランキング)」となっています。どうも選択の基準がよくわからない。
あらためて文書全体を見渡してみましょう。
まずヘッダーにナビゲーションを skip するリンクとサイトマップへのリンクがあります。
次に最上位ナビゲーションバーがあり、4大コンテンツへのリンクとサイト内検索が用意されています。
ナビバーの下に現在地情報(いわゆるパンくずリスト)があります。パンくずリストはサイトマップに準じて作成されています。そして個別記事からサイトのトップページへ戻るリンクは、このパンくずリストの左端にしか用意されていません。
メイン領域は2カラムのレイアウトで、左カラムがナビゲーションリンク柱、右カラムが本文領域です。リンク柱の内容は文書毎に異なります。よかれと思ってそれぞれに工夫を凝らした作者の意図は理解できるものの、統一されたルールがないようです。かなり恣意的にリンク柱の内容が決められているという印象です。
フッターにはページの先頭へのリンクと、「ホームページ作成リンク集」「Web標準仕様」「SEO-Equationについて」「広告掲載について」「連絡先」へのリンクが並びます。
私は現在のナビゲーションに致命的な欠陥があるとは思いません。行き止まりもリンク切れもなく(例外:「Webページの最適化」から「次項」へのリンク)、便利なナビゲーションがたくさん用意され、親切だと思います。ただ、何だかおかしい。
どう、おかしいか。
まず、ヘッダーにサイト名のロゴがありますが、常識的にはそこにトップページへのリンクを入れます。しかしそのロゴは CSS によって読み込まれた背景画像ですから、別の手を考える必要がありますね。
そこで私なら、ナビゲーションバーにトップページへのリンクを含めます。それは当然、パンくずリストと重複します。しかし気にしないでよいのです。asahi.com も OMIURI ONLINE もそうなっています。Yahoo!オークションも同様です。だから安心してください。大勢の閲覧者が怒って文句をいうようなナビゲーションではないことだけは確実です。
そして現在地情報。ある意味、現在のナビゲーションの中で、最も理に適っているのが、この部分です。サイトマップと完全対応し、膨大なコンテンツ群の中で、現在閲覧中の情報がどのように位置づけられているか、一目瞭然です。便利ですね。この明快なナビゲーション設計のルールを、他の部分にも拡張していくべきです。
間を飛ばしてフッターを見ましょう。一見しておかしいのが「ホームページ作成リンク集」と「Web標準仕様」です。これらはふつう、フッターの中に配置されるコンテンツではありません。よってこれを追い出します。どこへ? 常識的には、サイドバーです。
横にリンクを並べる方式は、絶対的なスペースの不足に悩まされます。よって、横並べ方式のナビゲーションバーは、厳選リンク集とするか、非常に短い言葉を用いてズラリ並べるか、多段タブを採用するか、といった工夫を必要とします。横スクロールバーはなるべく出したくない。だからたいへんです。
縦にリンクを並べるサイドバー方式なら、たくさんのリンクを放り込むことができます。縦スクロールバーはあまり嫌われないからです。ただし一覧性と可読性には少し劣るかもしれない。
4大メインコンテンツの代わりに最上位カテゴリ9項目を全て並べるのは難しいので、サイドバーの拡張を考える方がよいでしょうね。
状況を整理しますと、ナビバーにトップページへのリンクを追加し、フッターから2項目をサイドバーへ移動しよう、ということでした。
ではサイドバーの設計はどのように行うべきか?
基本方針として、サイドバーの内容は固定し、サイトマップに対応させるべきです。もちろん、「ホームページ作成」の目次では、下位階層を展開してよいでしょう。ただし、あくまでも下位階層だとわかるように展開しましょう。そうすれば個別記事へ遷移したとき現在地情報がスッキリ理解され、混乱を避けることができます。
トップページにおいても同様で、とくに展開しておきたい下位階層のコンテンツは、展開表示してもよいのです。ただしそこでも、前述の通り、それが下位階層のコンテンツであることがわかるようなナビゲーションとしなければなりません。
下位階層の展開とは、具体的には「ホームページ作成」などのサイドバーで「HTML解説」の下位項目として「ページ設定」などを並べている様子を援用されればよいでしょう。ただし実際には「HTML解説」自体が「ホームページ作成」の下位項目なので、私の提案を実現するためには、少なくとも3階層を表現できるスタイルを考案する必要があるでしょう。
サイドバーの設計について、別解を示します。
階層表示はわかりやすい反面、見た目が煩雑になるきらいがあります。またサイドバーの内容を固定するということは、項目の並び替えができないということであり、登場順序の遅い項目の下位コンテンツを展開すると、画面をスクロールしなければそれらをクリックできないという問題も生じます。
そこで、サイドバーの中に、2つのリストを入れる手があります。
上に表示するのが、ローカルルールにより登場するナビゲーションリスト。下に登場するのが、内容固定のグローバルなナビゲーションリスト。
このようにすれば、項目内リンクはスクロール無しでクリックできます。また現在の工夫を概ね残すことができましょう。
ただし、ローカルナビゲーションの部分がきちんと階層表示されない以上、リンク先がサイト内のどのような位置にある文書なのかは、直感的には理解しづらいことを承知しておいてください。グローバルナビゲーションの方で、現在地に関する何らかの情報を提示する(例えば現在地の上位階層にはマークを付けるなど)ことも検討されるとよいでしょう。
グローバルナビゲーションとしてのサイドバーは、常識的には個別記事にも表示すべきです。企業サイトなら、確実にそうするでしょう。しかし、趣味の個人サイトが用意するナビゲーションとしては、全ページにリッチなナビゲーションが入るのは、いささかうるさいような気もします。
また、リンク集など、サイドバーを入れ難いデザインのコンテンツもあるわけで、現在のように各カテゴリーの目次のみサイドバーを入れる方針でよいのではないでしょうか。
ナビバーとの競合は、じつは考えなくてよいのです。意外に思われるかもしれませんが、トップページへのリンクについて「ナビバーとパンくずリストの競合は問題ない」と述べたように、サイドバーとナビバーの競合もまた、大多数の閲覧者にとって何ら不都合となりません。どちらか好きな方を使うだけの話です。ダブっているからといって、とくに困ることはないわけです。
「WWW資料・情報」のコーナだけデザインが異なるのは、やはり少し気になります。暇を見つけて他とデザインを合わせてみてはいかがでしょう?
アドバイスは以上です。
ちなみに、当サイトのナビゲーションは、手抜きに手抜きを重ね、最小限の案内で済ませようとしたものですから、上田さんの目指す方向性とは真逆です。参考にはなりません。
……ということだから、日本政府が円安につながるリフレ政策を推進するのは簡単じゃない。アメリカと喧嘩する覚悟が必要なのだ。日本が好景気になればアメリカだって得をするだろうに(アメリカの景気回復が日本の景気を牽引しているように)、特定産業の目先の苦境がクローズアップされ、アメリカ国民は日本の本格的な景気回復を警戒する。
つまらん。
ちなみに最近では第2日本テレビがあまりにも酷くて、はてなブックマークでも話題になってますが。
で、思ったんですが、これって「HTMLでサイトを構成するメリット」を全く理解してないのが一因だと思いました。HTMLを使ってサイトを構成するメリットの一つに「検索エンジンで参照ができる」と言うことがあると思うんです。例えば、自動車会社ならHTMLでデータやスペックを記述することにより、購入しようとする車や、必要スペックの確認を一般的な検索エンジン経由でできるのに、画像やflashで作成しJavascriptでリンク貼ってて、あれで検索エンジンが捕捉できるのか疑問です。
それは発想の違いですね。第2日本テレビはレンタルビデオ屋になるつもりはないし、自動車メーカーは他社と共同でカタログを作ろうとは思っていない。「囲い込んだ消費者に対してお勧めの商品を紹介する」スタイルを採用しているのだと思います。
「比較できる」ことで、消費者は少しだけ得をするかもしれません。けれども、デジカメがそうだったように、安直に消費者が知っているスペックだけを競う虚しい戦いに陥る危険がますます高くなるので注意が必要です。画素数なんて、あえていってしまえば、どうだっていいんですよ。でも、そんなこと、皆さんご存じないわけです。画素数と値段と大きさだけを見比べて、「消費者が自分で選択する」のがどれだけいいことなのかどうか。
もちろん、「比較しづらい」よりは「比較しやすい」方が、賢い消費者にとってはいいのでしょう。ただ、企業活動は費用対効果で決まる面が大きいわけで、戦略的にどうなのか。昨今話題の Web2.0 みたいな方向性って、必ずしも……という感じはしますね、私は。第2日本テレビは会員制コンテンツですし、自動車も(事実上)会員販売のような売り方をする商品です。だから、現在のようなサイトの作り方をするのでしょう。
私の意見は hibiscus(2004-04-22)にあります。1年半経った今も、とくに付け足したい内容はない。それにしても、我ながらタイトルがひどいな。何でカラムの話で「hibiscus」なんだ。
いちゃもんつけるつもりはなくて、ふと思ったこと。
実際の日常会話には、いい間違い、どもり、ろれつの回らない喋りが高頻度で登場しているのに、それらが排除された世界に違和感を感じないのは何故なんだろ。むしろ安い映画や、生真面目な人が作ったドキュメンタリー(撮りなおし無し)を観ると、つっかえつっかえの拙い喋りや、言葉遣いのミスなどが妙に耳につく。
フェリアーさんが自分の名前をフェアリーといい間違ってしまう可能性は否定できず、日常生活においてはそんなもの、いちいち気にしないだろう。ところが映画の世界では他の部分では全部フェリアーって言ってるのに、一箇所だけフェアリーって言い間違えてるんだから。映画が台無しですよ。
とまで評されてしまう。
バラエティ番組で、ちょっとしたいい間違いに周囲のタレントが突っ込み、会場大爆笑という展開がしばしば見られるけれども、いかにもテレビ的だなあ、と思う。日々の生活がこんな調子だったら、何も喋りたくなくなる。画面の向こうは、やっぱり異世界なんだな、と今更ながらに思う。
要するに、経済理論はでき合いの答えを与えるものではない。どのような理論でも、盲目的に信用したりすれば、われわれは横道に迷い込んでしまうだろう。経済理論を有効に役立てるためには、われわれはその中にあるプロパガンダ的な部分と科学的な部分との関連をよりわけ、その上で科学的な部分がどの程度納得のゆくものであるかを経験にてらして確かめ、最後にその結果をわれわれ自身の政治的見解と結び合わせるようにすべきである。経済学を学ぶ目的は、経済問題について一連のでき合いの答えを得るためではなく、いかに経済学者にだまされないようにするかを習得するためである。
これはジョーン・ロビンソン(1903-1983)というイギリスの女性経済学者が「マルクス,マーシャル,ケインズ」の中で用いたフレーズで、1956年刊「マルクス主義経済学の検討」(都留重人・伊藤光晴 訳,紀伊国屋書店)に収められている。
ロビンソンが1933年に上梓した「不完全競争の経済学」は、同年刊行のE.H.チェンバリン「独占的競争の理論」と並ぶ「不完全競争」理論の名著と評価されているそうだ。後年、ノーベル経済学賞の候補として度々名前が挙がったのは、こうした正統派経済学者としての輝かしい業績による。だがロビンソンはケインズ革命に身を投じた後、中国の文化大革命を支持するなどイデオロギッシュな主張を繰り返す異端派経済学者となっていく。(根井雅弘「経済学のことば」)
……こうしてみると、経済学格言集の筆頭に紹介された言葉が帯びる陰翳に気付かされる。
ネットマナー系論考サイト。
実行可能なことは、当然、実行される可能性があると考えねばならない。されて困ることは、なるべくされないよう対策を練るべきだ、とはいえる。もっとも、費用対効果の問題はある。
リンクは自由にできてしまう、だからウェブに無制限で情報を公開するとき、リンクされる可能性を考慮すべきだ、という主張は理解できる。が、できることは全てやってよい、となると、おかしい。人が人を殺すことは可能だが、殺人を許さない人々が(少なくとも現代の日本においては)社会の多数派なので、殺人者は制裁される。
現状、リンクを制限する法がないので、法的にはリンクの自由が保障されている。無論、保障されているのは「リンク」そのものであって、「リンクと表現のパッケージ」が無条件に保護されているわけではない。たいていリンクは表現に従属しているので、例えばH17.10. 6 知財高裁 平成17(ネ)10049 著作権 民事訴訟事件という判決により有限会社デジタルアライアンスが提供していたサービスは潰され、同サービスから新聞社へのリンクもまた消えてしまった。
将来的には「リンクの自由」だって一定の法規制を受ける可能性はある。リンクとセットになった表現ではなく、リンクそのものが場合によっては問題視されるかもしれないのだ。
「リンクの自由」を謳いつつ、「一定の配慮」を行う人々が多い理由のひとつとして、「配慮を欠く無断リンクをゴリ押しすると法規制へつながる可能性」も視野に入っているのではないか。常識がどうのこうのといいつつ、やはり不安があるのだと思う。
原則として殺人はダメだといいつつ、様々な例外を受け入れるのが多数派の考え方であった。リンクも同様に、原則として自由を謳いつつ、様々な例外規定を設けて規制していくのが多数派の感覚であるように思う。今のところ、それほど大きな被害事例がないので、法整備+法運用のコストに見合わないために放置されているだけなのではなかろうか。
「リンクの自由派」が戦略的に勇ましい発言を繰り返すことは理解できるが、危ない橋を渡っている可能性はあると思う。所詮、究極的に法に依拠して自由を訴えるような言説は、多数派によって法律を改正されたら窮地に追い込まれる他ない。
「無断リンク論争」を啓蒙活動と捉えている人々は、ときに暢気に過ぎる。寝た子を起こしてどうする、とハラハラさせられることもしばしばだ。「無断リンク論争」は価値観闘争の面が強い。事実を争うだけなら、「俺はリンクする。止められるものなら止めてみろ」これでオシマイなのだ。
僕は「リンクはしないで欲しい」という全ての意見を非難するわけではない。前述したように「言うのは勝手」だからです。その理由に同調できれば、リンクしない場合もあります。ただ、全ての人間に、自分の意見が支持されるわけではない、これはブログに限らず社会生活の基本だと思いますよ。「守られる前提で無断リンク禁止を叫ぶ人」というのは、一言で言えば「単なる世間知らず」です。
「無断リンク論争」が価値観闘争だと気付かず、単に事実として可能か不可能かを争点にしていていいのか。
「リンクの自由派」の泰斗、後藤斉先生の著名な解説だが、主要な結論が「べき論」から導かれている。したがって、後藤先生の価値観に共鳴しない人々が多数派になれば、リンクの自由の先行きは暗い。
でもね、この「自由」というものすら、徐々に失われていくような気がする。「学校」という組織が「子供」を洗脳しにかかっているから。
義務と権利云々は的外れだと思うので省略するが、「お友達とは仲良くしましょうね」といった洗脳、「授業中にメシを食うな」といった自由の抑圧は、既に大量に行われている。圧倒的な多数派が賛同するなら、洗脳も抑圧も有無をいわさず実行される。「自由を守るための制約」とは欺瞞に満ちた言葉であって、例えば平和な日常生活における「殺人の禁止」とは「殺人の自由」と「生きる自由」を比較して前者を軽視する価値観から導かれた制約に過ぎない。「殺人の自由」の方が大切だ、という価値観はありうるのだが、賛同者が少ないので多数派に抑圧されるわけである。
無断リンク問題は価値観闘争だ。事実を争う戦いではない以上、「客観的に正しい」答えはない。たまたま現在、法は無断リンクを許している。だがルールは「場」を支配する多数派が作るものだ。日本の法律は日本人が決める。日本の多数派が「無断リンクする奴は死刑!」というなら、そうなってしまうということだ。
「無断リンク禁止」という主張をことさらに批判し、あるいは嘲笑するような記事は世の中に少なくないのだが、私が少し奇妙に感じるのは、「リンクは自由にしてよい」と主張する側が、あまりにも「当然にこの主張は正しく、法的にも理がある」と自信満々であることだ。いや、彼らの主張自体が全くの誤りであるとは、私も思わない。なるほど、リンクする権利は広く認められ、法的にも保障されているのであろう。しかしそれならば、粛々とリンクすればよいのではないだろうか。
たまたま現在、法律で認められている行為について、「禁止すべきだ」と発言し、その意図を実現するべく行動を起こすことは、自由主義国である日本において、基本的には認められる。よって「リンク禁止」を掲げることは自由だし、「無断リンク」を糾弾することもまた自由である。
もちろん、当人がどういおうと、何を考えていようと、法は無断でのリンクを認めるのだから、リンクしたい側には何ら制限は存在しない。好きなように好きなだけリンクすればよい。「無断リンク禁止」に対する批判は、多くの場合、禁止したい側の主張が感情に根ざしたものであることを難詰する。「リンクできてしまう」世界で「リンクされて怒る」のはナンセンスである、などという。何だか、おかしい。どうおかしいか。それは、その批判が無意味だからだ。そもそも議論の余地などないのだから、ひたすらリンクしまくればよい。
議論などするから、議論の余地があるかのような話になり、紛糾してしまう。無用に人を傷つけることにもなろう。言葉でやり込めるのではなく、単に事実としてのリンクによって、現実を知らしめればよい。恥をかかされなければ、時間は少しかかるかもしれないが、静かに世界を受け入れていく人が多いのではないか。
リンクの自由を掲げる人々が、しなくていい議論を起こし、無断リンク禁止派を攻撃し、追い詰めようとする動機は何か? それは多くの場合、私の見るところ、無断リンク禁止派と変わらぬ感情的なものでしかないように思われる。すなわち、無断リンク禁止派が無断リンクを嫌がることが、彼らにとって不満なのである。無断リンクを禁止したいと思う人々の価値観、心のありようを、彼らは許せないと思い、「消えてなくなればいいのに」などと思っているのだ。
当然認められるべきリンクの権利が何者かによって抑圧されているならば、彼らの戦いを私は支持する。私も、リンクは自由にできて然るべきだと考えるからだ。しかし現在、リンクの自由は認められている。ただ、リンクを嫌がる人がいるだけだ。これ以上、どのような勝利を求めるのか。
「リンクの自由」とは、リンクについてのみ考えれば自由、という仮想的なものだ。現実には、リンクが単独で存在するわけもない。リンクの周辺事情が問題なのに、「無断リンク」に反応した相手の勘違いを利用する狡猾な戦略が目立つ。絶対に勝てる「リンクの自由」を楯に価値観闘争の勝利を狙うわけだ。
もし純粋に「リンクの自由」を啓蒙したいなら、最大の成功例・検索エンジンを見習えばよい。検索エンジンは当たり前のように無断リンクし、許される。そしてリンクを拒否したい一部の人々に、お勉強を強いる。議論は要らない。人々は淡々と検索エンジンのある世界を受け入れている。
私が思い出したのは、BI@K:writings:書評(2003年)に収められた「経済論戦/いまここにある危機の虚像と実像」(野口旭著)の書評でした。bewaad さんは、こう書いていらっしゃる。
野口旭は、リフレ派の中でも活発な活動をしている学者の一人であり、その著作も多い。しかし、本書には、微妙な方向転換が感じられる。といっても内容が、ではない。デフレの害への警鐘に始まり、構造改革論や中国・アメリカなど外国に罪をなすりつける議論を排し、オーソドックスな経済学に立脚しつつ金融緩和を説き続けていることは、野口の以前の著作と同様である。異なるのは、野口の姿勢だ。
例えば、本書と似通った狙い・内容である「経済学を知らないエコノミストたち」においては、経済学の知見を広めることが現在の日本の窮状を救うとの信念が全体を覆っていた。しかし、本書における野口はそうではない。
本書は、筆者がこの四年ほどの間に行ってきた、ドンキホーテ的な闘争の記録である。筆者がそれをドンキホーテ的と形容するのは、その闘争に勝利といったものはないことを、筆者自身が最もよく知っているからである。
筆者が挑んできた相手を抽象的に言えば、それは、経済の「世間知」である。すなわち、経済問題についての、世間一般の人々によって幅広く受け入れられ、信じられている、一見もっともらしい把握の様式である。
しかし、その「世間知」のもっともらしさは、単なる見せかけにすぎない。多少の経済学的考察を行ったり、歴史的な事実と照らし合わせたりすれば、それらが論理的でも現実的でもないことは、すぐに明白になる。ところが、すでに「世間知」に染まっている人々−それは要するに世間の大多数の人々ということになる−に対して、そのことを十分に納得させるのは、至難の業である。というよりも、ほぼ不可能に近い。その意味で、筆者のこの「闘い」は、最初から敗北を運命付けられているわけである。
これが、本書のまえがきの冒頭部分だ。まだサイトを開いて半年のwebmasterがこれまで長期間言論活動を続けてきた野口に言うのも僭越なのだろうが、後世に対する身の証を考えるには早すぎるのではないか。まだ致命的なクラッシュが訪れたわけではない。それはリフレ派にとって救いのはずであり、このまま恐慌に至って「やっぱりリフレ政策を採った方がよかった」と認められることが救いであってはならない。
私は野口先生に共感します。
いろいろ読み、リフレ派の主張に概ね納得した一方で、なるほどこれは一般受けしないはずだ、とも思う。まず「世間知」との乖離が大きい。そして「実際の景気回復につながる経路が不明瞭」という批判は、単に学問的な批判として手強いだけでなく、多数派の心をつかむ政策としては決定的な欠点です。
しかもリフレ政策は、その利点の説明さえ耳に優しくない。例えば、なぜリフレ政策で失業率が下がるのか。竹森先生の「月刊現代」の連載を読んで、ようやくスッキリ納得したのですが、その答えを聞いて驚くなかれ、「賃金の上昇は物価高と雇用増に遅れるから」だという。「大幅な物価安+小幅な給与低下→失業増大」だから「大幅な物価高+小幅な給与上昇→雇用回復」が処方箋なのです。「俺の給料は安過ぎる」と思っている一般国民が支持できる内容でないことは明白です。→景気回復のジレンマ(原田泰さん)
よってリフレ派は政策当局者の説得に全力を挙げる他ない。しかし私の非常に狭い知見からいうと、政治家には庶民感覚の持ち主が多い。安達誠司さんではなく佐藤ゆかりさんが政界にスカウトされたのは象徴的だと思う。
「平成大停滞と昭和恐慌」によれば、高橋是清大蔵大臣が1931年の金輸出再禁止に続く措置として国債の日銀引受を決断し、大胆なリフレ政策を断行したのは、昭和恐慌がついに五・一五事件を招き、犬養毅内閣総理大臣が殺害されるに至ったためだという。そこまで追い詰められなければ、リフレ政策は実行できませんでした。
日銀が長期国債をインフレが発生するまでどこまでも買い進む、それでダメなら為替相場で円が十分に下がるまで大規模な円売介入を行う、これらはメリットが大きくデメリットは十分に小さい政策だと私は説得されましたが、その政治的困難さは少し想像するだけでも頭が痛くなるほどです。榊原英資さんが「円安はありえない」と考え、日本のデフレ脱却を否定されているのは、故なきことではない。「日本の景気が回復すればみんなハッピーなはずだ」というリフレ派の主張は、正しいと思う。けれども、実際に日本の円安を貿易相手の国々が喜ぶかというと……。
リフレ派の主張が通って、その主張通り見事に景気回復したところで、円安もインフレも何もかもが非難の大合唱に直面することは目に見えています。それでも数年間、じっと耐え続けなければ灰燼に帰す危険があるという(=出口政策に失敗すればデフレに逆戻りする)のだから、これは並大抵の話ではない。
軍事板の反応は、正直いって経済論戦以前のところで対話が不成立となっているわけですが、その先もまた道は険しく遠い。ともかくも、お疲れ様でした。
つ、続くのか。
当サイトは下馬評通り「そのほかのブログカテゴリー」最下位。40点満点(編集部25点/審査員15点)の25点、よほどのことがなければ3点以上をつける3人の審査員の方々に2点をつけられたら寂しかったところ、無事に3点ずついただいてホッとしました。事前のメールには諸事情により、誌面掲載を見送らざるを得なくなったり、欄外紹介などのように貴サイトの扱いが小さくなってしまうことがございます。
とあり、もともと補欠要員だったのだろうし、順当な結果だと思う。
ところで、私が一番注目していたのは絵文録ことのはと知識の泉 Haru's トリビアの因縁対決。松永さんのことのはが勝ったからいいようなものの、金賞と銀賞ですからね。点差は3点と開きましたが、いやー、よかった。
ちなみにカテゴリー最高点は ARTIFACT ですが、上位カテゴリーの「ブログ/テキストサイト部門」でもトップとなり、大賞を獲得。2003年は「ネット・一般ニュースカテゴリー」ノミネート、2004年は「PC/ネット情報/一般ニュースサイトカテゴリー」の銀賞、そして2005年は大賞獲得。ちょっと待った、むしろどんどん更新頻度が低下してるじゃん……たしかにその通り。今年はARTIFACT@ハテナ系も加味して採点されたため、グンと点数を上げたようです。おめでとうございます。
ところで、特定の部門を除きノミネートサイトの大半をご存じない方が多いようですが、ネットの広さを知るという意味で興味深い企画だと思います。ネトランは非常に偏った雑誌なのに、その中でもこれほど知らない「有名サイト」があるわけです。ちなみにネトランの偏り具合を知りたい方は、年末に発売される Yahoo! Internet Guide の2月号をご覧ください(2005年2月号の Web of the Year 2004 でもかまいません)。
結果の概要(サイト名/評点/備考)は以下の通り。詳細は雑誌を購入してご確認ください。
この1年ネットを盛り上げてくれたサイトの中から、最強最高に面白いサイトを決定するぞ! みんなの役に立つ超便利サイトから抱腹絶倒の爆笑サイトまで、2005年のベストサイトに輝くサイトはどこだ!
cat@log | 27 | |
everything is gone | 33 | 銅賞 |
I'm bored | 30 | |
TBN | 32 | |
Tempじゃ〜なる | 26 | |
TricksteR | 29 | |
Weekly Teinou 蜂 Woman | 36 | 金賞 |
ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS | 29 | |
ナリナリドットコム | 30 | |
俺暇 | 29 | |
小ネタBlog〜純情派 | 31 | |
神爆笑.com | 37 | 部門大賞 |
人類の進歩と調和とせつなさと心強さと | 34 | 銀賞 |
酔拳の王 だんげの方 | 30 | |
駄文にゅうす | 30 | |
桃戯右士.com | 29 | |
名前のない部屋 | 28 | |
面白いサイトを見つけたよ。 | 29 | |
面白ニュース | 26 |
BRAINSTORM | 28 | |
DependSpace | 31 | |
HK-DMZ PLUS.COM | 29 | |
-idolinglife- | 29 | |
MOON PHASE | 31 | |
Piece Of Key Heart | 30 | |
RinRin王国 | 33 | 銅賞 |
Tentative Name. | 34 | 銀賞 |
エルミタージュ秋葉原 | 32 | |
おふらいんver2 | 29 | |
カトゆー家断絶 | 35 | 金賞 |
ゴルゴ31 | 32 | |
シャア専用ブログ | 31 | |
プリキュア様崇拝日記 | 29 | |
君のぞにゅーす | 29 | |
最後通牒 | 29 | |
秋葉倶楽部 | 29 | |
駿河電力/スク水.jp | 30 | |
放蕩オペラハウス | 32 |
(・∀・)イイ・アクセス | 32 | |
FlashBox | 26 | |
GilCrowsのFLA板観測所 | 33 | 銅賞 |
Kain@はてな | 31 | |
REVIER | 32 | |
Sukima Windows Plus | 32 | |
あくじき | 25 | |
エルエル | 32 | |
かーずSP | 35 | 金賞 |
ザイーガ | 34 | 銀賞 |
スピードネーター | 31 | |
ちゅるるん | 27 | |
デマ☆ぶろ | 29 | |
ホタテプロダクツ | 30 | |
みずほN | 28 | |
俺様イズム | 30 | |
小太郎ぶろぐ | 32 | |
赤いコンドル | 26 | |
誰が為に鈴は鳴る | 27 | |
動ナビブログ | 31 |
(裏)芸能局 | 27 | |
@JOJO | 30 | |
★てれびまにあ。 | 30 | |
ABC振興会 | 35 | 銀賞 |
Amrit不老不死研究所 | 28 | |
AZOZ | 31 | |
Intermezzo | 34 | 銅賞 |
moewe | 25 | |
Nintendo iNSIDE | 32 | |
OnlineSoft VersionUp.info | 27 | |
SUZUQ.NET | 30 | |
Tokyo Fuku-blog | 29 | |
X51.ORG | 36 | 金賞 |
ゲーム屋店員の戯言 | 30 | |
セキュリティmemo | 32 | |
なんでも評点 | 30 | |
ニュースの切れ味 | 27 | |
まとめ.com | 28 | |
ミュージックマシーン | 29 | |
海外ボツ!News | 30 |
BLACK徒然草 | 29 | |
DAIさん帝国 | 32 | |
e-flick.net | 29 | |
takaxoの食い物屋レポート | 32 | |
うぱーのお茶会 | 31 | |
えたーなるすのー | 28 | |
さざなみ壊変 | 30 | |
せなか:オタロードBlog | 31 | |
ぬるヲタが斬る | 30 | |
ねこあれぶろぐ | 28 | |
まこなこ | 29 | |
マンガがあればいーのだ。 | 33 | |
メイドさん的Blog | 29 | |
ヤマカム | 30 | |
斜壊塵 | 29 | |
朝目新聞 | 36 | 金賞 |
日本橋Blog | 31 | |
変人窟 | 35 | 銀賞 |
萌えよ!アキバ人ブログ | 34 | 銅賞 |
裏ドラゴンボールマニア | 32 |
【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´) | 38 | 総合大賞 |
2ちゃんねるネット | 27 | |
2ちゃんねるベストヒット | 27 | |
2ちゃんねる観測衛星 | 27 | |
2ろぐ | 26 | |
RPG板ウォ(゚∀゚)チィ! | 27 | |
VIPPER.orz | 31 | |
あんりみてっど | 34 | 金賞 |
ウォッチ!声優板 | 33 | 銀賞 |
オタク女的BIPブログ(´・ω・`) | 30 | |
コビーのコーヒーブレイク | 27 | |
ニャー速ViPブログ | 32 | 銅賞 |
ねがすぱ | 27 | |
ワラタ2ッキ | 30 | |
ワロスニッキ | 26 | |
閑。 | 27 | |
泣ける2ちゃんねる | 29 | |
週刊少年Blog!! | 30 | |
大佐blog in ニュー速 | 30 | |
不覚にもワロタ | 28 |
E?DIARY | 32 | 銅賞 |
Milano::Monolog | 27 | |
Modern Syntax | 28 | |
Numeri | 28 | |
TRiCK FiSH blog. | 29 | |
おれはおまえのパパじゃない | 27 | |
だらだら毎日 | 28 | |
ダンシング★カンパニヰ | 34 | 金賞 |
テクトイックス・タブロイド | 28 | |
バーチャルネットほら吹き娘 燕17歳 | 28 | |
ほほえ味屋 | 30 | |
モテゼミ | 28 | |
虚構新聞社 | 31 | |
見下げはてな | 25 | |
昨日の風はどんなのだっけ? | 29 | |
小鳥ピヨピヨ | 26 | |
日日ノ日キ | 27 | |
腐女子とアニヲタの間を取り持つブログ | 27 | |
僕の見た秩序。 | 33 | 銀賞 |
裏ニガシオ | 24 |
「俺」のターン | 29 | |
★厳選!韓国情報★ | 27 | |
ARTIFACT ―人工事実― | 37 | 部門大賞 |
Irregular Expression | 28 | |
mumurブログ | 28 | |
R30::マーケティング社会時評 | 29 | |
Simple | 26 | |
アジアの真実 | 28 | |
さて次の企画は | 30 | |
むだづかいにっき♂ | 27 | |
愛・蔵太の気ままな日記 | 28 | |
霞が関官僚日記 | 26 | |
絵文録ことのは | 36 | 金賞 |
極東ブログ | 32 | 銅賞 |
語源blog | 30 | |
高木浩光@自宅の日記 | 28 | |
趣味のWebデザイン | 25 | |
切込隊長BLOG | 30 | |
知識の泉 Haru's トリビア | 33 | 銀賞 |
☆VIP画像宝庫☆ | 29 | |
BSI:巨乳アイドル特捜部 | 29 | |
CG定点観測 | 34 | 銀賞 |
pya! | 35 | 金賞 |
WIBOサーチランキング「爆笑画像掲示板」 | 29 | |
ザ・ペットファイル | 29 | |
だから東京が好き! | 28 | |
ねこのあくび | 27 | |
ねたミシュラン | 33 | 銅賞 |
ファイルマン | 31 | |
ブーツブログ | 28 | |
ペットリンクス | 27 | |
もにゅ?(っ・ω・)っ | 22 | |
外道スタイル | 29 | |
芸能裏モノNEWS | 28 | |
日刊ぴえろの時代 | 26 | |
秒刊画像ファイルナビゲーター | 36 | 部門大賞 |
侮ログ | 27 | |
萌えミシュラン | 28 | |
裏モノ笑死 | 28 |
2chブラウザ大杉くん | 25 | |
Amagle | 28 | |
blogmap | 28 | |
Bulkfeeds | 29 | |
Bulknews | 26 | |
CEEK.JP | 29 | |
ErogameScape | 31 | |
G-Tools | 30 | |
NEWSLinks | 27 | |
ReadMe! JAPAN | 27 | |
Whatever「スナップショット」 | 33 | 銅賞 |
あんてな | 27 | |
オークション統計ページ(仮) | 32 | |
スラッシュドット ジャパン | 32 | |
スレッドタイトル検索 | 27 | |
ふたば☆ちゃんねる | 35 | 金賞 |
みなぎね5.1 | 27 | |
自動ニュース作成F | 34 | 銀賞 |
読兎 | 27 | |
非公式モバイルmixi | 31 |
基本的な考え方において、私は石田さんに賛成します。
2004年にバカな閲覧者は勝手に不幸になればいいという記事を書きましたが、制作者と閲覧者の文字サイズ設定の関係(みりばーる,2005)やフォントサイズを取り戻せ!(hal*,2005)にもある通り、文字サイズひとつとっても万人向けの結論は出ません。おそらく最大多数が「許す」標準のフォントサイズは「無指定」あるいは「medium」なのでしょうが、やはり全員が満足するわけではない。
だからそれぞれの人に合わせてデザインが自動的に変わるようなのが良い
のでしょう。本来なら、それはユーザスタイルシートの領分なのですが、ユーザは製作者より怠惰なのでこの道はない。致し方なく製作者は様々に工夫をこらすのですが、費用対効果の問題がありますから、できることは非常に限られています。
また、音声系ブラウザを試用してみると、「チラッと見て詳細を知りたい情報を探す」ことが難しい現実に行き当たります。周辺情報過多なデザインは音声系ブラウザに優しくない。これは視覚と聴覚の違いに基づく本質的な問題です。また携帯電話の画面の小ささも原理的な制約のひとつでしょう。
HTML 文書は、文書単独でのワンソースマルチユースを志向して仕様が定められてきましたが、やはり現実的には少々厳しい面がありました。近年、主に携帯電話対応のため「ひとつのデータベース+複数の情報発行形態」という方法が広まりつつあるのは、自然なことだと思います。とりあえず、ここまではきた、ということなのでしょうね。
MSN Space は、私が最も勧めたくないレンタルブログサービスのひとつです。Microsoft のウェブサービス設計者はなぜか JavaScript が大好きで、また各文書の URI を汚くすることに無頓着。そのうえ無意味なテーブルレイアウトてんこもり。MSN Space はそれらの悪い特徴が全て詰め込まれているので、よくないと思う。
古川さんはマイクロソフト日本法人の元社長。超大物なのにフットワークが軽く、また腰が低いので驚かされます。さて、そんな古川さんがこのところ MSN Space のヘンな仕様と IE の妙な仕様に振り回されてお困りの様子。その中で、以下の発言が飛び出します。
マイクロソフトにはせっかく、文字のスペル修正だけではなく、文法的な過ちや修辞上の作法を正しく修正してくれる機能すら完備しているのですから..HTMLの記述を正しく生成する、間違いがあった時に自動的に修正候補を提案もしくは置き換えるくらいのことはできそうですよね!!!
単なる文法チェッカーなら今すぐにでも技術的には実現可能でしょうが、本質的な解決は近未来に至ってもなお実現困難です。そのことに多くの人が思い至らないのは、HTML が誤解され続けているからです。HTML ひとつとってみても、技術の本質が正しく理解されるのは難しいものだと思う。
ところで、本ブログ記述で文字サイズにFONT-SIZE: mediumを指定しているのに、IEをブラウザとして使用すると大きすぎる文字にマップされるのは、IEの不具合
と古川さんが説明されている件、マイクロソフト社が2001年8月にリリースした IE6 が「標準モード」を導入したことにより解決されています。
MSN Space がマークアップ原語に XHTML もどき(注:異様なソースとなっています)を採用しているのがいけないのであって、IEの不具合
といってしまうのはいかがなものかと。HTML4.01 Transitional をシステム識別子付の文書型宣言を行った上で用いれば、他の主なブラウザと標準の文字サイズが揃います。IE と MSN Space のいずれを改変するのが簡単かといえば、後者でしょう。MSN Space の不具合として要望を再提出するべきだと考えます。
……って、コメント欄でとっくに既出でしたか。古川さんの鶴の一声で MSN Space の劇的改善となりますかどうか。
最近、「みんなのプロフィール」って騙りがたくさんいるんじゃないかという妄想にとりつかれています。2ch を荒らす山崎渉のようなものと頭ではわかっていても、こうしょっちゅう私の閲覧する文書に先回りされると、何か話をでっちあげてみたくなる。
ところでみんなのプロフィールSPを見てみると、3万人も会員がいるのだそうな。SPAM した者勝ちというのは、ホント、いかがなものかと思う。
何となく最近、空気が変わってきたかな、と思っている話題。
かつてNetscapeがIEより安全とか、無邪気かつ勝手に言われていた時代もあったので、セキュリティ情報が公開され、修正され続けている恩恵は十分受けていると思う。しかし、セキュリティ問題がどんどん難解で、ユーザー側の注視と手数を必要とするものになってくると、やはり公開するという方針の是非を考えざるを得ない。こうした情報により鈍感なのは常にユーザー側だからだ。セキュリティ対策の急速な進展が、セキュリティ・ディバイドとでも呼ぶべきものを引き起こしているとも言えるのではないか。これを、セキュリティ情報の公開が原因と捉えるかどうかが立場を分けるのだろう。そういう意味で、記事は参考になるが、論旨を単純には肯定できない。
これは読者コメントのひとつですが、モヒカン族絶滅の予兆として興味深いと思いました。
「啓蒙による事態の打開」という理想論が通用しにくくなっている状況、といいましょうか。バグのないソフトウェアはありえない、という「常識」さえ多数派に浸透しない。その道に少し関心のある方にとっては常識、というレベルにとどまっているわけですよね。欠陥製品を売ったメーカーを訴える法律を作ったらヘルメット産業が消滅してしまった(補足:安全性を向上させた新製品を発表するたびに「旧製品には欠陥があった!」として訴訟が起きた)かつてのアメリカのような展開になっては困るわけですが、さりとて「公開しない者勝ち」という発想も受け入れ難いとはいうものの……。
「これだから童貞ってやだよね?」くらいの発言は、それこそ大勢の人が平気で口にしていることだと思いますから、一回書いたくらいで祭りにはならない状況は正しいだろうとは思います。ただ、いったん「祭り」になると、こういうのがいちいち発掘されて叩かれることになるわけで、世の中面倒くさいですね。少年少女が殺人事件を起こすたびに卒業文集なんかが引っ張り出されたりしますが、マスコミも2chも同じというか、どちらも日本人が楽しんでいるのだから当たり前なのか。
懇談会のあるべき形へのご意見に応えます。
一度、一番上に近い人にまで行ってみて、そこで「やります」と言ってもらえることの虚しさを知ってこそ、ああ政治ってそんな簡単なものじゃないんだなと実感することが出来る。人はその程度には愚かなものなのだと、私は思います。
でも誰もがそんな偉い人にまで言えるわけじゃない。確かに議員さんはそこまで暇ではありません。しかし、マスメディアでは駄目なのです。マスメディアを通してでは、この虚しさは伝わらない。けれどもブログでならば伝わります。それはブログが双方向ツールであるからです。一方通行のマスメディアとはまた違う視点で、読者はブログというものを読みます。
おそらくそのような意図をもって参加された方は多くないでしょうが、ご意見を受け入れた上でもなお疑問がひとつ。
Aa さんの主張は、有名人ブログで解決できるはずです。つまり切込隊長が前原さんにインタビューし、いったん商業誌に記事を掲載した後で、録音テープやインタビュー動画を全て公開する、さらにブログで雑多な、生の感想を書く。それでよいわけでしょう。したがって、「有名人になってから会えばいい」という私の主張と整合を取ることは可能なのです。
私が実際あの場に行ってみて思ったことは、前原代表はまったくネットをご存じないということでした。上がこれではいかに一人の議員さんが、いや徳保さんのお言葉では議員秘書さんクラスが意見を受け付けても、多分それは通らないでしょう。通るにしても何千何万単位での言葉なり電話なりでの働きかけが必要かと思います。
これも同じです。会える立場の人が会って、話せばよい。宮台真司さん、東浩紀さん、鈴木謙介さんといった学者、佐々木俊尚さんらジャーナリスト、あるいは山形浩生さん、松永英明さんら作家・翻訳家など、各方面にウェブに強い特長を活かして仕事をされている方がいらっしゃる。これらのメンバーで「有識者会議」を構成すれば、代表に直接意見をいう形が整います。
素人が雑談しに行くような形だからおかしいといっているのであって、例えば今回「ブロガー」として参加された松永さんが、ブログの専門家としてブログの活用指南だけをするなら大賛成なのです。総論はミニ講義形式、各論は個別指導で記事の書き方までフォロー、とかですね。つまり私は、泉さんの企画を批判しているのです。素人ブロガーが野党第1党の党首に政治問題について提言できてしまうのはおかしい、それはブームに悪乗りした分不相応な行動ではないのか、と。
私の観点においては民主党懇談会において別に誰もはしゃいでいなかったというのは、余計なことながら一言つけ加えておきたいです。
「ブロガー側の面々のはしゃぎっぷり」というフレーズはR30さんの記事からの引用ですよ。ご不満なら、まずR30さんにいってください。
TBいただいた方は「門外漢が政治について語るべきじゃない」とおしゃっていますが、これは明らかな暴言です、言葉をかえて言えば、門外漢が政党の代表と直接話しができる類稀な機会をもしいただいたなら、門外漢として政治について大いに語るべきなのです、それができなければ、こういう会に参加する意味はありません(中略)わからない、違うとおっしゃるのならこれ以上議論はできません。
……ということなのでマルセルさんとは議論しませんが、当サイトの読者向けに補足説明を少々。
例えば政府の審議会メンバーは交通費以外お金をもらえないことが多いそうですが、自分の専門分野について何らかの提言をできることに意義を見出して参加しています。彼らは分をわきまえ、専門外の分野については語りません。だから自民党政権下でも社民党や共産党の支持者が審議会のメンバーとなれるのです。消費税反対論者が首相に会ったら、ぜひその話をしたいに違いないけれども、グッとこらえて自分の専門領域についてだけ提言するのです。これが従来の社会のルールです。
うーん、なるほど、たしかに私の主張も極端には違いない。バブルへの悪乗り、と断言してしまうのも乱暴なのでしょう。BigBang さんくらいの立ち位置が常識的な落としどころなのかな……。
大島保彦先生は1998年の千葉大学の講義「倫理学A」で、「人は人を殺していい」と説明されました。ただし、殺されたくない人々には、殺されないよう努力する自由がある、とも。
私はこの説明が最も簡明かつ確実なものと考えていまして、以降、ずっと援用させていただいてます。
自由主義国では常に「殺人の自由」と「殺人を阻止する自由」が激突しているのですが、基本的に後者の支持者が圧倒的な多数派なので、法律で殺人が禁じられ、殺人者には大きなリスクが科せられ、学校では殺人は悪だと教えられます。ただし殺人=悪と一義的に考える人々は多くないので、死刑執行人は罪人にならないし、正当防衛も認められる。過失致死と殺人は区別される。立てこもり事件の犯人を狙撃した警察官は無罪。北朝鮮の工作船を撃沈し船員を全滅させた海上保安庁職員も無罪。
これらの社会的な枠組に倫理的な矛盾があっても、全て各事例に対する多数派の判断として統一的に説明できます。結論の選択肢より理由付けのバリエーションの方が圧倒的に豊富なので、ケースAの殺人を許容する側も拒絶する側も統一見解を持ちません。よってケースAの多数派とケースBの多数派は一致していません。Aを許容するならBも許容すべきだ、といった主張に普遍性がないのです。
この手の問題について、個々人に「なぜ」と問うていっても結論は出ません。マクロで状況分析し、結果を受け入れる他ないのだと思います。
生まれましたよ佐藤さん!元気な娘さんです!でもちょっと泣き方が癪に障るので床に叩き付けて殺しますね。はい死亡。ははは。
明らかに無抵抗な人間にも『殺されないよう努力する自由』があるのであれば、抵抗しない事は自由を放棄した事に置き換えられるので、別に殺しても悪とは考えられない。日本も遂にヨハネスブルグ級の殺人事件発生率に到達出来そうです。
自分を殺されたくない人は、他人が殺されることをも座視しない。私個人の無力さを許容する人は、他人の無力さを否定しない。自分が危機に陥ったときに他人の助けを必要とする人は、自分もまた他人を助ける必要があることを理解しています。殺人を阻止する自由は、原点においては個人に従属しますが、個人の集まりは社会となり、多数派の願いは社会制度に結実します。
多数派は価値観を異にする少数派を弾圧することができます。なぜなら、それを止める力を誰も持たないからです。他人がどうなろうと知ったことじゃない、という価値観の持ち主が多数派にならない限り、多数派の意に沿わない行動をとる者を攻撃し抑圧する社会制度は維持され続けるでしょう。
本質的に人間は自由です。しかし当然、自由と自由は衝突します。「ある自由を抑圧する自由」があるためです。基本的人権を尊重する人々が多数派を構成する民主主義社会において、この問題は多数派による「数の暴力」が解決します。ではそのような社会において、なぜ少数派への攻撃・抑圧が現状程度にとどまっているのか。それは、少数派にいくらかの共感・同情を寄せ、また自分が常に多数派の価値観に共鳴できるとは限らないと考える人が多いためでしょう。
勉強になりました。
側室を廃止し、庶子相続も禁止。養子も不可。女子が結婚したら皇籍離脱。いったん臣籍降下した元皇族の皇籍復帰を認めない。男系男子のみが即位する。これだけ多くの制約を課した上に、11宮家50余人の皇族を一挙に臣籍降下したのだから、遅かれ早かれ問題が生じることはわかりきっていたのだと思う。
今、話し合われているのは、天皇家を存続させることを前提として、いずれの規則を緩めるのが妥当かということ。
男系相続を守るならば、女性天皇を認めたところで1代の延命にしかならない。よって、論外の主張を廃すれば、男系にどこまでこだわるかが最大の争点となります。男系を守る方法としては、皇籍復帰を認めるか、旧皇族を養子にとればよい。現在、旧宮家の末裔に独身の男性が8人ほどいらっしゃるのだそうです。一方、ウルトラCの解決策として、女帝の夫に旧皇族の末裔を迎えることができれば、男系が守られるのと同じことになる、といった主張もありました。
ただ、養子や旧皇族との結婚という形で皇統を守るとなると、子宝にたくさん恵まれない限りは、また近い将来、皇統断絶の危機を迎えます。したがって、「三笠宮や高円宮の女王殿下らが結婚される前に女性皇族の皇籍離脱を選択性へ変更し、また女系相続も認める他ない」という主張と、「大規模な皇籍復帰を行うべし」との主張が対立しています。前者にはやはり旧皇族末裔との婚姻による事実上の男系維持を求める声がありますが、伴侶の選択は当人たちの意思なので、難しいようです。
男系相続の伝統なんかどうでもいい、という主張はないようです。女系容認論者の主張は「致し方ない」なのです。ただしやはり、女帝の夫殿下や、宮家の女王殿下の夫殿下をどう選ぶかという難題が、解決困難な課題として残さるようです。
あと本題からは外れますが、有識者会議の議事録を読むと、専門家等のお話を伺う際、園部逸夫委員(元最高裁判所判事)だけがまじめに質問などしていて、司会も務める吉川座長は多少の発言録があるものの、他の委員は寝てるんじゃないかという感じ。「まったく近頃の学生は……」みたいな意見をよく聞きますけれども、手本となるべき方々がこんな調子ではね困りますね。
成田高校が関東ベスト4となり、久々の甲子園出場当確。おめでとう! 1990年夏大会以来だから16年ぶり。春に限れば初めての甲子園です。(千葉・全成績)
楽天広場やFC2ブログを見ると、何人か成田高校を応援してる方々を発見することができて、これも嬉しかったです。
なんと成田は関東大会優勝! もちろん初めて。→12日の明治神宮大会(秋の全国大会)1回戦で近畿優勝の履正社に敗北。秋の戦いは関東優勝にて終了となりました。
先日書いた記事、2ヶ月に1回、1〜2時間でも多すぎる?の続編です。
「なんじゃコレ、大事な内政の話しを1ケもしてねぇじゃん、最初に話題に出した国民投票法案なんて5番目くらいの話しじゃないの」っていうのが素直な感想です、今回参加したブロガーさんって皆さんおカネに困っていない人みたいですね、庶民の生活の現場は相当に厳しいですよ、こういう機会をもっと大事にして欲しいです、政治家に相手にされなくなるんじゃないですか、危機感を持ってください、宜しくお願いします。
こういうことを仰る方って、地元選出議員や地元選挙区候補者の集会に出たことがないのでしょうね。政治家に庶民の生活の苦しさを訴えたければ、そういう場所で好きなだけ訴えればいいんですよ。繰り返しますけれども、一有権者として物をいうだけなら、苦労は要らないの。「地元の有権者なんですけども」って事務所に電話して問い合わせたらいい。政治家が庶民に対して壁を作っているなんて、嘘ですよ。庶民が勝手にそう思い込んで、敬して遠ざけているだけなんです。
だから、代表をはじめ何人もの議員を集めたブロガー懇談会は、「ネットの有識者にネットのお話を伺う」内容でなければおかしい。こんな贅沢な場で、門外漢が政治について語るべきじゃない。大政党の代表が庶民の面会要求に全て応えられるわけがない。だからマスコミが代表質問を行い、庶民は地元の集会で意見をぶつける、という仕組みになっているのです。ブロガーがマスコミ並みの影響力を持っているなら、マスコミの真似事をしたっていいですよ。でも実際にはそうではない。
ブロガーは、ネットでの情報発信について詳しいだろうから、それに関した話をする限りは一定の特別待遇をされていい。しかしミーハーに政治家をつきあわせるべきではありません。
先般の民主党の懇談会でブロガーを集めた意味があったのは、ほぼここに記載されているやり取りの部分に限られると思う。とりあえずこのやり取りがあったことをもって、開催してよかったということはできなくもない。ただ、私はやはり、支払ったコストに見合っていないと思うのですね。代表をはじめ、あれほど多くの議員を集めて、あえて露悪的に書けば「たったこれだけ」でしょう。損得でいえば、損だったと思う。
議員さん側が、全員、本人でなく秘書だったなら、まだ理解できます。「では、今日お伺いした話を、まとめて先生方にお伝えします」とかですね。だって、それでいいはずなんですよね。議員さんの声が大切なら、議員当人の出席が必要かもしれない。けれども、ブロガーの側が、自分の得意分野について語ることがメインなら、その発言をまとめた資料を後で議員さんが読めば十分なのです。
あと、ネットの速報性だの途中経過も含めて全部公開するだの、といったことをいうのであれば、懇談会をビデオカメラで撮影して、終了直後にネットで全部公開すればいいのに、と思う。サーバ代金がネックならば P2P で流したっていい。今回、動画はないようだけれども、録音記録はあるそうです。ならば、そのまま公開すればいい。次回は顔出しOKのブロガーだけを集めて、ぜひ動画を完全公開してほしいと思いました。
電話をかければ、全力ですか? 電話だと説得力が増すわけでもなく言論に全力も何も無いでしょう。
ブログに記事を書いてトラックバックしても、それが読まれるとは限らない。だから、意見を伝えるなら電話の方が確実だろうと思います。したがって、言葉足らずは認めますが、本気で主張をぶつけたいならば、電話を(も)用いるべきでしょう。……という程度のことを、いいたかった。
あと、泉さんの足を引っ張る方法はいろいろあります。泉さんを批判する記事をウェブで公開しておけば、検索エンジン経由などで泉さんの目に留まる可能性があります。そのとき、ガッカリしてやる気をなくしていただければよい。民主党へ密告するべき
とのご意見はごもっとも。ただ、泉さんがくじけるか、民主党が泉さんを拒絶するか、いずれでもよいわけです。私は、前者を目指しました。もちろん両方を目指してもいいし、民主党だけに働きかけてもいいのですが。
徳保さんにとって意味のあるものが社会にとって意味があり、徳保さんに無意味なものは社会にも無意味と思いたいだけなのではないかと思いました。
それは否定しません。
民主党の幹部に時間を割いて欲しくない他に時間を使えとでも言う事でしょうか。それであれば、「地元で議員を捕まえろ」と仰った事は矛盾だと思いました。地元だろうが、党本部だろうが、無駄な時間だというなら同じ事でしょう?
違います。選挙区選出議員は、次回の選挙で当選するために、地元に支持者の輪を広げたい。だから、支持者の集会に参加すれば、一票への期待と引き換えに会ってくれます。ただし個人で会いに行っても、議員にとって非効率なので、おいそれとは時間を割いてくれないでしょう。
ブログが社会的な影響を及ぼさないという発言が個人は社会的な影響を及ぼさないと等しいと思ったわけです。
私は、ブロガーが「ブロガー」として政党幹部と会っていながら、一有権者としての発言をしていたから批判したのです。一有権者として会うなら、それなりの会い方というものがある。政党の幹部に対して、ブロガーが政治を語りたいなら、政治評論家としてマスコミで発言できる立場になってからやればいいのです。
今、何となくブログがブームみたいなことになっていまして、暫定的に過大評価がまかり通っているわけです。だから泉さんが前原さんに会いたいといったら会えてしまう。それは許可を出した民主党側の問題でもあるのですが、泉さんの悪乗りともいえます。「ブロガーの価値」を売る泉さんからすればチャンスなのでしょうが、実態に見合わない値段で買わされた側は差し引きで損失を出しているわけで、売り手にも反省が必要だと思うのです。
政治家に甘く、泉さんにばかり厳しいアンバランスな立ち位置ですが、現状ではバブルに乗っている人が多いので、当面私はこのスタンスで書いていきたい。
今回は議員さんのところにもトラックバックしておきます。
ちなみにブドウ狩りの場合は、洗面器のようなものを持っていかれることを勧めます。
ブドウというと秋のイメージがあるかもしれませんが、ブドウ狩りに実際に行かれた方ならご存知の通り、真夏〜残暑厳しい初秋がシーズンです。暑い中、とれたてのブドウもまた気温と同じにあったまっているわけでありまして、とにかくもう甘ったるくて仕方がない。最初の少しだけならそれでよいのでしょうが、ひと房食べたらおなかいっぱいということになりかねない。
そこで、洗面器と水を用意します。手洗い用として会場に水道がひかれていると思いますから、ふつうは家から持っていく必要ありません。そして洗面器に水を入れ、とったブドウを放り込みます。すると水温で冷やされるだけでなく、気化熱を奪われることもって、簡単にブドウの温度が下がります。これで美味しくたくさんいただくことができるというわけです。
私の父方の実家はブドウ農家ですが、ここは良心的なところなので、お客さんにブドウを水で冷やすことを勧めております。よそでは必ずしもアドバイスをしていないそうなので、ここで情報公開。
職場でこっそり mixi をやる方法として最近話題になっている2つの方法をご紹介。
officemixi.css はユーザスタイルシートの啓蒙として非常に優れていると思った。もうひとつの方法は、こりゃちょっと大げさですね。
ま、現実的にはほぼテキストブラウザ(作者の解説)がベストの解決策ではないでしょうか。大げさを突き詰めてしまうわけです。"こっそり"エディター(紹介記事)もセットでご利用ください。あ、もちろん「ご家庭で」ですよ。
「敗北条件を与える」ことも、考えようによっては勝つための条件の一つである。しかし、評価においては「勝ち」も「負け」もない。ゆえに、相手の非を見つけても自分の優位性は全くないのである。
例えば自分の書いた記事に反対意見をいただいた場合、「別の考えを持つ人がいる」ことのおもしろさを味わい、お互いの立場や前提条件をふまえてどうしてそうなったのかを考え、これからの自分に取り入れればよい。過去の失敗は今正し、今の失敗は未来で正せばよいではないか。
それは「勝ち」ではない、「負け」でもない、と言葉を定義することによって、あるいは価値観の変更によって、批判されたときに心の安定を図るという処世術の勧めならば、とくに異論はありません。けれども、どうやらそういった話ではないらしい。
少なからぬ人は、欠点を指摘されると恐縮します。批判する側は、精神的に優位に立つことが多い。ただし、たしかにこの状態を「負け」「勝ち」と表現すると、反発があります。その怒りの源泉となっているのは、「勝ち」「負け」といった言葉への過剰な思い入れだと思う。もっとドライに言葉を扱えばよいだろうに。
差別感情を過剰に織り込むことによる言葉狩りについては、その圧力の強さもあって、しばしば問題視されてきましたが、例えばこの「勝ち」「負け」といった言葉など、もっと広範に、日常的に用いられている言葉の中にも、さまざまな場面から排除されつつある言葉が見受けられます。「差別語」の言葉狩りでは全面的に使用が停止されてしまう一方、これらの言葉狩りでは、狭められた意味においては使用が継続されるために、問題が見えにくくなっています。
しかし、これもまた過剰な意味付け、思い入れによって言葉を排斥していくという本質においては「差別語」に対する言葉狩りと同じなのです。今ここで「勝ち」「負け」という言葉を避けたとしても、事実は覆りません。
相手の非を指摘しても自分は成長しない。良いと思ったものだけを評価し、吸収しよう。
この提言の基礎にあるのは、自分の成長に寄与することだけをするべきだ、という考え方でしょう。しかしそもそもまなめさんの記事自体が、勘違い
している人々への批判なのです。彼らの「よいところ」を積極的に評価する発言が見当たらない。そしてまた「勘違いしている人々」と「勘違いしていない筆者」が対置されたとき、自然と後者の優位が浮かび上がってくることはいうまでもない。標語としては美しいけれども、どだい無理なのではないかと思う。
私の記事「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……」のいい加減な(ダメな)ところをきちんとフォローしてくださっている好記事。順にいくつか、応答します。全ての論点を拾うことは避けます。逆に、いわゆる議論のやり方としてはよくないのでしょうが、応答文を書きながら、ついでにちょっとメモしておきたくなったことについて、蛇足を承知で付加します。
まず、徳保さんが引用されたある編集者の気になるノート - 批判的なトラックバックは、「非常識」なのか?の解釈については私はまったく逆の方向性で理解している。
その読みは妥当なものと思いますが、私は正直に書けば「え、そうだったの?」と思ってしまった。
この一文に着目したのです。正直に書けば
といっている以上、当初の感想として素直な本音はそこにあったのだろう、と。一息ついた上であれこれ考えて、「やっぱりおかしいよね」と思い至った上で記事をお書きになったのではないか。そして私は、件の記事における皮肉めいた表現を改めれば「そもそも驚くに値しないだろう」と自分の感想を書きとめたのでした。
そして、なぜある編集者さんが驚いたのかといえば、「批判的な記事からのトラックバックを非常識と断じる」ような人がいることを想像していなかったからでしょう。私は、そのことを批判してよい、むしろ批判すべきだと思うので、批判しました。
ここはよくわからなかったのだが、徳保さんは「批判的なトラックバックをするのが多数派だ」と理解されたのだろうか。
そうではなくて、ある編集者さんのこちらとしても、あえてブログ界の「常識」から外れる気はないので、それが「常識」ならば今後は従っていこうと思う。
という一文を批判しているのですね。私はこの文章を「仮にそれが多数派の主張なら、その是非を問わず従う」という考え方だと理解し、私はそのような考え方はよくないと思うので、批判しました。
興味のないことについての感想を書くことで自己紹介になるというロジックが今ひとつ解せない。
ここは私自身、非常にわかりにくい文章の構成になっていることを自覚していました。
下書き段階では、その結果、当サイトの更新コストが上昇することは折込済。
で記事は終わり、以降は次の記事だったのです。しかし思うに任せて筆を走らせた結果、書きあがった「次の記事」の内容は、「なぜ高い更新コストをかけてまで情報発信するのか」を説明するものでした。私の中では精神的に連続して書かれた文章なので、私的な備忘録としてはひとつの記事にまとめてしまった方が後で読み返したときにわかりやすいだろうと思いました。
その結果、折込済
でいったん文章が切れて、以降の内容が全てだから、わざわざ何かを主張したいと思ったとき、多少の高コストは厭わないのかもしれない。
のだから
を説明する内容に過ぎない、という変な構成になってしまいました。これがわかりにくい文章であることは明らかですが、勢いで押し切ってしまえばよかろう、と考えてそのまま公開したものです。
以上を踏まえて問題箇所の内容をいくらか表現を補いつつ書き直せば、「私は日頃、深く考えることをしていない。そしてまた世界への無関心を強く意識してもいる。ただ、世界の多様性は、いくらか想像できるつもりである。したがって少数派による珍しい主張に(演技でなく)驚くことは少ない。そんな私が、なぜか「たかが趣味」の問題について、熱く語りたくなることがある。その理由は説明できないが、(日頃の世界への無関心ゆえにむしろ)この情動を大切にしたいと思っている。だから、私は自説を発信する際に、あえて世間の多数派の言説と衝突し、摩擦を起こすコストを支払うことを厭わない。生の気持ちを、できるだけそのまま表現したいと思っている」といった感じになる。
ちなみに続く現実との折り合いのつけ方で書いていることは、「理想は前述の通りながら、現実には支払えるコストは有限なので、ある程度の妥協を余儀なくされている」という内容。妥協に自覚的ならば、余裕ができた分だけどんどん理想へ近づくことができる点が迎合主義との違い……というと、さすがに自己評価が甘すぎるかもしれません。
かといって誰をいくら傷つけてもかまわないということではありえない、このことは改めて確認したい。1か0かではないんですよ。でないと、半ば自暴自棄に「ルールなんぞくそくらえ」とばかりにわざと悪いことをして回り、そのことによって愛されようとする、天の邪鬼的偽善に陥る危険がある。(今の徳保さんがそうだと思っているわけではないです。ていうかどうなのか知りません。あくまで〈一連の言説には、そのような危険が抽象的に存在する〉というだけです。)
もう長い間、この批判は何度も受けてきました。実際、私が安直に流れることは決して少なくなく、既にどうしようもなく魔道に堕ちている、救いようがない、という意見の持ち主は少なくないようです。そういった状況認識はあります。
徳保さんからトラックバックがあったのは同日22:55:49で、トラックバックの方が3時間ちょっと遅い。私はトラックバックをいただくまで徳保さんの当該記事を読んでいなかったのだが、徳保さんのおっしゃる問題意識と私のコメントに現れているそれとは違うということだろうか。
トラックバックしたのは記事を書いてからいくらか時間がたってからのことなので、コメントと比較してどちらが早かったかはわかりません。そもそもオマケのような形で記事に付していますが、もともとは一番最初に書いた部分でもあります。話が膨らまなかったので、そのまま公開する気にもなれず、ある編集者さんへの批判と、その末尾のフレーズの説明部分までをセットにして、ひとつの記事として公開したのです。
ただ、いずれにしましても、私はそちらのコメント欄は読みませんでしたし、読む気もなかった。したがって、早い遅いは関係なかったろうと思います。
そして結局のところ、違うということだろうか
と問われれば、「どうやら同じことをいっているようです」が回答になりそうです。また、そのような主張をどなたかなさったのだろうか。少なくとも私はしていない。
と仰るのはごもっとも。それは私の意思表明です。私は catfrog さんと summercontrail さんの記事と近い位置にある(ように思われた)別の主張も、同時に批判しておきたいと考えたのでした。
……以上で、提出された疑問点について概ね回答を示すことができたかと思います。
今回の対話を関心をもって追いかけていらっしゃる方は、ぜひ上記の summercontrail さんの応答をご覧ください。私は記事の内容に異論なく、以上をもって一幕の終了とさせていただきます。
清潔志向って、社会全体に広がってきているんだな、と思いました。私はもう少しダーティというか、いい加減な世界に暮らしたいです。高山正之先生もときどきポンと地方記者時代の思い出話を書かれて、これがまた滅法いい。ある意味、無茶苦茶な時代だったのでしょうが、お話として読む分には面白いのですね。
ともかく、こんな記事がひょいと出てくるから花岡信昭さんのブログ(私はメルマガの方を購読しているのですが)は面白い。
ところで、記事中で少し気になったのは、あのころは殺人事件となると、社会面にでかでかと扱った。最近は、子供がからんでいる、込み入った現代的事情がある、ガイシャ(被害者)が美人女子大生!、といったようなものでない限り、単なる(といっては申し訳ないが)殺しでは、大きな記事にはならない。
というくだり。
日本の殺人事件は、1950年代には年間3000件起きており、100万人あたり40件前後でした。ここしばらくは1200〜1500件ほどで100万人あたり10数人となっています。つまり殺人事件は減っているのに、個々の扱いが小さくなっているのでしょうか?
40歳以上の、企業の人事関係の方及び採用担当経験者、企業の経営者への質問。
文系の大卒・短大卒なら初級システムアドミニストレータ試験が期待大。
学歴不問なら情報処理技能検定試験(表計算)3・4級、Microsoft Office Specialist Expert(Word・Excel)、初級システムアドミニストレータ試験、パソコン検定試験4級(以上、評価者の多い順)などが期待されるのだそうな。私が持っている資格は英検3級だけ。会社をクビになったら、派遣の事務社員になるのも難しそう。
質問です。AとBというフォルダが2つあります。Aには画像が3000枚、Bには画像が4000枚入っています。Bの4000枚のうち3000枚はAの3000枚と同じものです。画像の名称もおなじです。違う点はBの方の画像は圧縮かかっていない状態でAの方は最高圧縮がかかっている点です。ここでBのAにはない画像(残りの1000枚)を削除したいのですがなにか便利な方法はないでしょうか?
私は9番目の回答と同じ方法を思いつきました。ただ、私自身は xplorer2 のユーザですから、「ペイン間比較」機能で一撃。ファイルサイズは無視してファイル名しか比較しない簡易比較機能なのが逆にありがたい。……スクリプトだのコマンドラインだのといった手段を端から除外しているあたりで、まあ私のスキルは予想がつくわけで。
いきなり無関係な話をしますが、小学校のバス旅行で牧場へ行き「牛さんかわいい〜」とかいいつつ平気で肉を食らう連中がほとんどなのだから、たいていの子どもは大人に教えられなければ目の前にあるふたつの現実を結びつけることができないらしい。トンでも系の主張が混じっていることを承知の上で以下のサイトは必見。
私はベジタリアンではないけれど、このサイトはグロい?におけるこのサイトはグロだ!と思う方へ。そのグロいものを食べているほうがよっぽどグロくありませんか?
という主張は正しいと思う。牛の死に方を知って牛肉を食べる気をなくしたなら、その人は牛肉を食べないのが正しい。知らずに食べている方がよほど残酷だろう。
植物も生物だと気付いて何も食べられなくなり、ついに死んでしまう人がいてもよいと私は思う。
それでは鈍感な人間の勝利じゃないか! と、お怒りの声もあるかもしれない。しかし、繊細な人間が、単に「知らない」ということに依拠して生きてどうなるというのか。
その人は、知らない間に(当人にとっての)罪をどんどん重ねていく。罪を重ねて生きた人が、(仮に死後の世界を認めるとして)死後に自らの罪を自覚したときの絶望について、考えることはないのか。当人がどれほど人生を後悔しても、周囲の人間さえ満足ならそれでいいのか? 人生とは誰のためのものなのだ? (ちょっとエスカレートしてみました)
かつお節は生きていると言われ、お好み焼きで実践された。「ほら、苦しい苦しいって言ってるぞ。」の言葉に血の気の引いた私はかつお節をつまんでは投げ、つまんでは投げ「なんでこんな事するの!?なんで!?」とわめきちらした。今思うとかなりの馬鹿だった。
自分の命が多くの犠牲の上に成り立っていることを、筆者はこの時点まで自覚していなかったのですね。生きていたのは鰹節だけじゃない。お好み焼きを構成する多くのもの、例えば小麦だって、かつては生きていた。あるいは、細胞単位で考えれば、焼かれるまで生きていたものも多い(キャベツとか)。
例えば、イチゴ狩りを機会に、親は子に何を教えるべきか。
「イチゴがどうして実をつけるか、知っていますか? 種を残し、来年へ命をつなぐためです。人が食べるイチゴは、まだ種が十分に育っていない。だから、今、摘んだイチゴの実を土に埋めても、何も生えてはこない。人はね、それでも、おいしいから、イチゴの実を摘んでしまうのです。パクッと食べて、イチゴのためには何も残さない。一生懸命、葉っぱを広げて太陽の光を浴びて、根っこを伸ばして水と養分を吸い上げて、立派な実をつけたのに、イチゴは人に食べられてしまうのですよ」
「じゃあイチゴいらない」と子が答えると、親は畳み掛ける。「イチゴじゃなければいいのかな。米粒ひとつだって、本当は、芽吹いて、育って、多くの子孫を残すことができたのです。でも人は、みんなまとめて刈り取って、おいしい、おいしいといって食べてしまう。イチゴはおいしい。みんな笑顔で食べます。それは悪いことではないと思う。ただ、お父さんは(お母さんは)、イチゴの実を摘むときに、イチゴも生きていることをお前にわかっていてほしい」
優しい子は、泣くのかもしれない。しかし、こういうことを、幼い頃から根気強く教えていくのは、大切なことだと私は思う。ご飯粒を茶碗に残す行儀の悪さや、食べ物の好き嫌いに悩む前に、すべきことがある。アフリカの子どもたちは……とか何とか、人間様の話をする前に、語るべきことがあるのではないか。
やっぱりそれでも子どもは蟻を虐殺し、蝶の羽をむしり、蜻蛉の頭を千切るのでしょう。そして野良猫を蹴飛ばし、犬に石を投げつける。極端な奴は、とうとう人まで殺してしまう。「教育の充実で犯罪撲滅」なんて過大な期待をしても仕方ない。教育の意義は、そういう次元で語るべき話ではないと私は思う。
そもそも「議論」に勝ち負けなんてあるのか?
私は「ある」という立場を取りますが、「ない」と主張する側の意見が提出されていないので、まずひとつ典型的な「議論に勝敗はない論」を示します。
私の知る主なパターンは、上記3種類です。いずれも「幸福なケース」だけに当てはまる理屈だと、私は認識しています。
仕事上の議論ならば、少なくとも金儲けという最終目標自体は共有されていることが多い。しかも「結論」を必要とします。したがって、まだしも議論は整理され、主張の統合もしやすい。ところが日常生活におけるたいていの議論は、そもそも「結論」に到達する必要がない。よって双方とも現実的な着地点を希求する動機を持たず、一歩も譲らないことになりがち。結果、お互いに相手が主張の前提として示した事実・価値観のいずれか、あるいは両方に同意しないことが多い。
そんなわけで、1対1の議論に勝敗はつきにくい。これが3人、4人と参加者が増え、ギャラリーも大勢になってくると、しばしば「勝ち負け」がハッキリ見えてきます。多数派の支持を得た側が、事実上の勝者として振舞うことになるのです。事実上の敗者がどれほど言葉を重ねても、負け惜しみと解釈する空気が作られます。
私が勝った例を挙げると嫌味になるから、負けた例を挙げますと、2003年の痴漢論議がまさにそうです。大きく前半、後半に分かれており、前半戦については私自身、主張の誤りを認めています。ナツさんが提示した事実によって、当方の論拠が瓦解したのでした。問題は後半戦。
「痴漢(レイプもそうだが)されるにはされるだけの落ち度があるはずだ」という意識が問題だと思っている。それを「従うべき常識」と言いきって話を終わらせてしまうことにはものすごい危機感を感じる。
いじめもストーカーも満員電車での痴漢被害も運・不運にすぎない。どんなに気をつけていようとも、運が悪ければ被害者になってしまうだけのことだ。
私は今でも、この主張には首肯しない。
犯罪者が全部悪いには決まっているのだから、家に鍵をかけていなくたって、間抜けで騙されやすくたって、本来なら問題になんかならないはずです。でも、やっぱりそうしたことを放置すると、警察がどんどん犯人を捕まえてもなかなか犯罪が減らないわけです。仕方なく被害者にならないですむように気をつけましょうという話も必要になります。そして、無用心な被害者が責められることにつながっていく。対策不十分でも同情されてしまう地震災害について、ちゃんと対策している人がいかに少ないか。対策不十分でひどい震災にあった場合には援助しませんという空気があれば、みんなもっと真剣に対策しますよ。被害者に優しい社会は、必然的に被害者の防犯意識を低下させます。
この私の主張は、やっぱり正しいと思っています。ただ、これは価値観闘争なのだから、一方が他方の価値観に共感しない限り、結論は出ない。「理解」すれば十分だ、という話じゃないことに注意。ナツさんは私が「被害者の落ち度は諭していい、私はそうする」と主張したことにムカついていたわけで、私がなぜそう主張するのかを理解したって満足できるわけがない。
よく考えてみれば、法律上は私に表現の自由があるので、ナツさんは私の行動を止められない。だから私は、歩み寄りの余地がないことを理解した段階で議論を放り出せばよかった。けれども、思うように行動するのは難しい。イケイケで議論を続けた挙句、物言うギャラリーの大半が論敵という状態に陥り、つまりナツさんにコテンパンに負けて掲示板と備忘録を休止するに至ります。
ポイントをズバリ述べますと、幸福な議論には3つの条件が必要なのです。
世界に価値観がひとつしかないのならば、前提条件を入力すれば方程式のように回答が出ます。しかし現実には多様な価値観が存在し、歩み寄りの余地がない部分が原因で、議論の参加者が共通の解を持ち得ない問題も存在します。
仮に双方が(概ね)満足できる解があるとしても、そもそも結論を必要としていない場合、双方が個別に最適化を目指した解を主張しあうこととなり、議論は膠着状態となります。
そして結論が存在し、結論を出す必要性があっても、そこへ辿りつく道筋がない場合には、どうしても結論には到達できません。……議論に勝ち負けが生じる最大の理由は、この第3の条件が崩れ、収束しないはずの議論が強制的な手法で決着してしまうことにあります。
ウェブ上の議論において最も普遍的なのが、物言うギャラリーの多数派の支持を獲得した側が事実上の勝者となるケースです。ここで注意しなければならないのは、あくまでも議論が展開された「場」における多数派を味方にできれば勝てる、ということです。ブロガーの常識は世間の非常識かもしれませんが、ブロガーたちの世界で議論が完結している限り、ブロガーたちの間で多数派を形成することに成功すれば勝負は決まります。
仕事の議論では、しばしば時間切れが宣告され、権限を持つ人が一撃で結論を下すことがありますね。反対者の不満は押し潰されてしまう。
納得による結論導出プロセスが、何らかの理由で閉ざされている場合、それでも結論が出るケースがままあり、そのとき不幸な議論は勝者と敗者を生み出すのです。
今後、「安直に“こどものしあわせ”を人質に取ってディベートに勝とうとするの禁止」ルールの導入を要求する!
勇ましく宣言できるのは自分のブログの記事だからであって。いや、そのためのブログなのだろうし、そのこと自体について、どうこういいたいわけではない。ただ、勝ちたい人はどんな手だって使うのだし、そもそも大抵の議論は前提とする事実と、その事実を解釈する価値観を武器に争うものなのだから、「こどもがかわいそう」という価値観が説得の材料に持ち出されるのは当然なんだよね。
ちなみに、純粋に論理だけで正誤が決まるのは前提が共有されている場合に限られます。一方が他方を「論理的に間違っている!」と難詰する事例は数限りなくありますが、そのほとんどは一方的な前提条件の押付に基づくもの。「だってAはBに決まっていて、だからCという主張とDという主張は矛盾しているじゃないですか!」いや、AはBと決まっているとは思いませんけど……みたいな感じ。
今、現実問題として「こどもがかわいそう」を持ち出すと「まあ、たしかに可哀想といえば可哀想かもね」と思う人がたくさんいるような展開があるとして、相手がそれを持ち出すことを推し留めようとするのはおかしい。飛車角落ちを要求するようなもので、その時点で負けなんです。
余興ならハンデ戦でもいいけれど、面倒くさがりの人々がわざわざ起こす議論というのは、傍目にはくだらないことをやっているように見えても、当人たちはそれなりに真剣なことが多い。人間存在を賭けちゃってる面があったりする。そこでハンデ戦を申し入れるのって、試合放棄と変わらないんだなあ。
……と書いてみたけれども、まあ釈迦に説法でしょうな。
それにしても、「こどもがかわいそう」という大義名分のもとに繰り出される攻撃的な物言いは、えてして言った側は絶対的な「正義」にひかり輝き、言われた側は即座に「邪悪」の淵にたたき込まれる(ヘタに反撃しようものならさらに立場悪化)だけに、その破壊力はまさに戦慄もの。
このあたりの状況認識はお見事。「かわいそうじゃないっ!」と少数派がいったって、多数派には勝てないのであります。「親失格」とか「非情」とか「人間として大切な何かが欠けている」とか、そういうことになってしまうのがオチ。
結論として、少数派は大手小町のような不特定多数が集まる掲示板で価値観対立に基づくディベートを仕掛けるべきではない。価値観が共有されているなら、事実を出した者が勝つ。最初は100対1の劣勢だとしても。でも事実が共有されていて、価値観が対立している場合、最初からやるだけ無駄、というケースが多いと思う。なので、私が大手小町に書くなら、「こういう少数意見もありますよ」という事実の提示に留めます。「ある」のは事実なので、それだけを争点とすれば勝てる。
しかしながら、みんな勝つことに必死になっているように見えて、じつはそうじゃない。意外と、正義とかそういったものを信じて戦ってる。だから負け戦を回避できない。それも人生、って大げさですか?
なんといいましょうかね。リアルであれネットであれ、自分の立場に置き換えたときに、何かを自分が言って「それって俺には興味がないから」などと返されると、かなりウザく感じるかムカつくだろうなと思います。反対意見ならまだ会話になるだろうし言いたくなる気持ちはわかるし意味もある。わざわざ名指しで登場した極東ブログさんには同情します。
昨日の記事へのご意見。finalvent さんなら「個別の記事についてはとくに関心がなくとも、平均打率に期待して毎日読みにきている読者」の存在について自覚的だろうから、私の記事にショックを受けない可能性が高いと予想して、極東ブログの記事を題材にしました。
1日4桁の読者を恒常的に得るようになってからというもの、「人気サイトの管理人なんだから、こんなことでいちいち怒るもんじゃないよ」風の物言いをしばしばされることがあります。ムカっと頭にくるわけですが、逆に考えると、そういった存在も世の中には必要なのかな、と。とりあえず何かの引き合いに出す、というような。ふつうのブログが相手だと「いじめ」と受け取られかねないあれこれを、引き受ける存在がない社会というのも、なるほど息苦しいな、と思うわけです。
といって、私が勝手に finalvent さんを「安全パイ」認定してしまうのは失礼な話なのですが、エイヤで線引きせざるを得ない部分かな、と思ってます。もちろん私は finalvent さんが不愉快に思われる可能性は否定しないし、仮に不快感を表明されても、それがいけないことだとは全然思いません。ただし逆にその場合、人気サイトだから云々といった意見も(いくらか)出てくるだろうな、という予想は立ちます。
私は決して、俺は覚悟したんだからお前も覚悟しろ、といいたいのではなくて、「本人がどう思っていようと、既にそうなってしまっている」ということはあるだろう、と。抵抗する自由は当然あるのだけれども、暴力などに訴えない限りは、それを潰そうとする側にも表現の自由があります。多数派の説得に成功した方が勝ちであるとするならば、負け戦にしかなりようがないという状況はありえます。
私の状況認識は危うい。相手が新聞記事なら、まず間違いなく「勝てる」けれども、極東ブログ相手では私の方が「悪い」とされかねない。まあそこは、賭けに出たのですね。
従来、私は企業と個人を区別する考え方に違和感を覚えており、その一方で大手サイト管理人がしばしば企業サイト管理人と同等の扱い(ときにそれは「仕打ち」と呼ぶのがふさわしい)を受ける事例もまま目にしてきました。企業と個人を区別する意見は常に情緒的といって悪ければ倫理的で、合理的な損得勘定には基づいていない。大手サイト管理人なんだから云々といった主張も同様で、なぜ弱小サイト管理人なら甘やかされていいのかわからない。
私の予想は「庶民様ってのは自分大事だから、自分に近い存在に甘くなり、自分から遠く離れた存在に対しては平気でその感情や利益を踏みにじったり、無視したりするのだろう」というものです。
ただまあ、そういったことに対して怒ってばかりいても仕方ない。世知としてそのような多数派の存在は知っているわけだから、とりあえず私は件の事例に極東ブログを選んだのです。1日数人しか読んでいないブログは選ばなかった。高い確率で問題視され、コストが高くつくことが予想できたからです。それでも絶対に安全確実な新聞記事を選ばなかったことには、私の多少の意図がありました。
「世の中、ちょっと面倒くさすぎません?」と問題提起しつつ、とりあえず運営コストにも一定の配慮をしていく戦略。学校の校則を変える運動をしつつ、当面、校則をギリギリの線で守っていくような感じでしょうか。
相手が泣こうが叫ぼうが、リンクしたければする、例に挙げたければ挙げる、それが許される世界が、個人的には望ましい。企業相手に許される(名誉毀損罪や誣告罪が事実上成立しないレベルの)誹謗中傷が、どんな個人を相手にしても許される、公平かつ平等な世界を夢見ている。しかし多数派がそんな世界を望むはずもなく、夢は夢でしかない。つまらんな、と思っている。
いまだにこんな非常識がまかり通っているのか! という方向で盛り上がっている話題。
私の感想は、現在盛り上がっている主な方向とは少々異なる。
結局のところ、ひとつの価値観で世界を覆いつくそうとする試みは必ず軋轢を生む。「常識」はひとつしかないと思い込むところに問題の端緒があり、そもそも世界は多様な価値観で満ち溢れていると考えるべきなのだ。
最近、当ブログのコメントにて、「元の記事に対して批判的な記事でトラックバックをするのは非常識」というような意見をいただいた。
正直に書けば「え、そうだったの?」と思ってしまった。
(中略)
こちらとしても、あえてブログ界の「常識」から外れる気はないので、それが「常識」ならば今後は従っていこうと思う。
この方が何年生きてきたのか知らないが、「世の中にはそういう人も当然いるだろうな」と想像する力があってもいいのではないかと思う。
「みんながそうなら従う」というのは、ときに危険な考えだ。みんながどうあれ、抗議してきた人が憤っていた事実は変わらない。こちらに何の悪気もなくても、「常識的」な行動を心がけていても、傷つき涙する人は出てくる。変人がどんなに傷ついたって気にしないが、常識人が傷ついているなら対処する、それで本当にいいのか。……と、こんな形で問いを立ててみると、「常識」は揺れてしまう。誰も傷つけない生き方はできない。その自覚はあっていい。
とりあえず、その「場」を支配する多数派に属するという戦略は、ひとつの考え方として理解するし、ケチをつける気はない。そもそも批判的な記事でトラックバックすることは、私もよくやる。ただ、自分が「常識」側にいるのだから、少数派の反対者の気持ちなんか考えない、ということになると、自分にもしっぺ返しがあるだろうな、と思う。
多数派に属していようと少数派に属していようと、異論の持ち主には遭遇します。その一方で、圧倒的多数の無関心が世界を塗り込めています。私は、例えそれがつまらないこだわりに過ぎないものであっても、あえてブログ界の「常識」から外れる
ことを厭わない、との基本方針を選択しました。それ故に当サイトの更新は高コストとなっているわけですけれども、そのあたりは折込済ということで。
自己紹介のつもりで、この記事の感想を書く。あんな事件ひとつでいちいちこんなことまで考えるのか、と思った。母親を殺したい少女ってのは、そりゃあ高校生に限ったって何百万人もいるのだから、たくさんいるに違いない。本当に殺してしまう少女は多くないかもしれないけれど、別にそれってとくにどうのこうのというようなことなのかな、という感じ。
個人的には、実際に殺害計画を実行するような人が増えては困るので、さりとて他人の価値観なんぞにいちいち手を突っ込みたいとも思わないので、さっさと死刑にでもしてしまえばいいのに、と思わないでもない。しかしそうもいかないので(私ほど乱暴な考えを持っている人は多数派でないことが予想される)、そしてよく考えてみれば、心配するまでもなく母殺しを遂行する少女なんて極めて少数派なので、考えるだけ無駄だよな、と思って放っておく。
興味のないことについての感想というのは、せいぜいこんなものですね。私は事件が起きるたびに一喜一憂するということが少ない。「どうでもいいや」という無関心を、むしろ強く意識していると思う。
殺人事件に関心を持たない人間が、なんで「たかが趣味」のあれこれに関心を抱くのか、自分ではうまく説明できない。ただ、この自分が、何かに関心を持っているという無意識の情動を、大切にしたい。だから、わざわざ何かを主張したいと思ったとき、多少の高コストは厭わないのかもしれない。
いずれも異論あり。一言でいえば、「ポジティブな発言は誰も傷つけないと思う浅薄さ」が見過ごされている。ネガティブなことを書くには覚悟が要るが、ポジティブなことを書くなら気楽だ、という主張を基本的に私は受け入れない。ウサギを食べれば「かわいそう(T_T)」牛を食べれば「美味しい(^_^)」といった話と同種のおかしさが、そこにはあると思う。大根だって人参だって、食べられるために生まれてきたんじゃないだろう。
民主党のブロガー懇話会に出席された R30 さんの感想。
速記録などを見ても、やっぱり趣味のブログなんて、社会的には無意味だなと思った。個人のレベルでは有意義なのだろうけれども。
国会議員に国民の声が届いていない、というイメージは現実に即していない。比例代表単独の議員はどうか知りませんが、選挙区選出の議員はしばしば集会を開催しており、その少なからずは、支持者でなくとも参加できます。ブロガーさんたちが質問された内容の大半は、何も党首や幹部に直接ぶつける必要のないものだったと思う。忙しい人の時間を割くだけの意味があったかというと、いささか疑問があるということです。
ブロガー側の面々のはしゃぎっぷり
はよくわかる。政治の話題に興味関心を持っている人が、目の前に野党第1党の党首と国会議員数人を連れてこられて、「何でもいいたいことをいっていいよ」と水を向けられて、気分が高揚しない方がおかしいといえばおかしい。議員さんらが懇話会を開催されたことは、とりあえずその場に参加された方々にとってはよいことだったと思うのだけれど、でも、それ以上、何の意味があったかというと、ほとんど何もなかったろう。
だいたい、政治に関心のある人が4000万人くらいいるとして、野党党首がその全員と懇話会を持てるわけがない。単に政治家に物申したいだけなら、そこらの地方議員なり、地元選出議員なりを捕まえて話をすればいい。地元選出議員の集会という場で、たまたま現在、党首を務めている前原誠司さんと話をする機会を得る、といった形でもいい。今回のような形で「ブロガー」に特権を与る意義は薄い。
R30 さんの前原代表ほか民主党側の面々はと言えば、正直「ブロガーとはどのような人種なのか」というのを、興味津々で見に来ていた、というのが正確なところではないか。
という読みには同意します。で、結局、ブロガーたちは政治に一家言を持つ庶民でしかなかった。ウェブで多少の人気があるといっても、全員まとめたって NHK 教育にも劣る影響力しかない。ようするに、どうでもいい。
泉あいさんは民主党は予想以上にブログやネットを重んじていないのだな
と感想を述べ、ネットユーザーの声に耳を傾けることは大きな意味があると思います
という。自分がやることには意味があると思いたい、それだけではないのか。こうして政治家の時間を無駄にしていながら、そのことへの反省はないらしい。
泉さんご自身はともかく、他の参加者が何かいい提言をしたので、有意義だったといいたいのか。
私ひとりの知恵では限界がありますが、ここはネット。みなさんにご協力いただければ、たくさんの知恵を集めることができます。
ネットの方がたくさんの知恵が集まる、というのが既に幻想。テレビ的というか、ようするに新聞脳、マスコミ脳なんだろうけれども、興味関心が中央政界の幹部たちの方にばかり向いているところに、上滑りがあると思う。地方議員の集会に顔を出してみれば、ネットをツールとする以上は、双方向性にこだわりたいです
という発言は、もう少し陰影を帯びてくると思う。
ふつうのサラリーマンや、商店街のおじさんおばさんらが、議員さんとざっくばらんに対話してきた長年の伝統が崩れてきたので、「双方向性」なんてものを大げさにもインターネットで再生産しようとする。ところがウェブでは距離が短縮されてしまうので、全国に点在する人々の声を拾うことに。すると共通の話題としてミーハーな方向性を提示するしかなくなってしまう。
ほとんどのブログは、例えば森喜朗さんがなぜ地元で人気があるのか、どういう人々にどのような理由で支持されているのか、うまく伝えることができずにいるでしょう? 草の根民主主義みたいなものを目指しているのかいないのかよくわからないけれども、気分的には草の根なのに、じつはふわふわと浮ついてどこにも根を下ろしていない。
それがいけないとはいわない。ただ、仮に私の指摘が正しいならば、1日100万人未満しか読んでいないブログの作者なんぞを政党の幹部が応対するのは無駄が多すぎると思う。私も含めて、ブロガーなんてのは影響力のないマスコミ、市井の評論家、推敲の甘い似非ライター、それ以上のものではない。だったら、マスコミと名の通った評論家と仕事として取材しているライターだけを相手にしていく方がよい。
ブログってすごいじゃん
この感想にはとくに異論ない。既に言い尽くされている通り、一部ブロガーの考察・意見記事における出塁率、ホームランの本数は、新聞社の編集委員やテレビ局の解説委員、評論家らと全く遜色がない。が、彼らの無力もまた現実であり、そうである以上、「ブロガー」としての彼らに野党の幹部らが顔を合わせる意味はない。彼らがマスコミや商業出版の分野へ進出してから話をしたって遅くはない。
いわゆる有名人ブログというのがあるけれども、例えば R30 とか極東ブログより多くの読者を集めているケースは少ない。それが「有名人」の(ある面における)実力なのだろうが、だからといって R30 さんや finalvent さんが「無名」であることには何ら変わりがない。
佐々木さんとひろゆきさんの冷静さが面白い。R30 さんの冷め方に近い印象。毎日新聞社のデスクが一番、ネットに信頼と期待を寄せている風なのが面白い。ウェブ利用暦が長い層、ウェブの利用時間の長い層ほど、ウェブ情報の正確さを重視せず、アナーキーな性質を肯定する傾向にあるという話とも通底しているように思う。
あと関係ないけど、現在、産経新聞社の社長をされている住田良能さんとは就職活動の際にご馳走になったことがありますが、ふつうのおじさんだったと記憶しています。
もうすぐ Folio Vol.10 が出ます(出ました!)。私の連載記事「"いろは"の先のCSS」も今回で最終回となりますので、興味のある方はお楽しみに。例によって、大したことは書いていませんが……。
あと11月20日の第4回文学フリマに Folio のウェブ製作を約1年担当した縁で参加します。最初から最後までずっと会場にいる予定。秋葉原駅から徒歩2分なので、東京近辺にお住まいで暇な方、主に Folio の文学作品を好きで読まれていた方は、ぜひ足をお運びください。Folio コーナもあって、そこで何か配布するか売るかするようです。
文学フリマの他の参加者は、東浩紀さん、浅暮三文さん、松岡宮さんなど。