ごめんなさい。突然のことで参加者の方には申し訳ありませんが、掲示板は廃止しました。
重箱の隅だけど、ちぐはぐなコーディネートの服装に対する不快感は「本能的」なんだろうか。服装による不快感は文化が規定するものだと思ったけど。
id:fromdusktildawn さんがどういうひとなのか、ということはともかくとして、多数派体質の人にありがちな発言。後天的に手に入れた感覚を何でもかんでも DNA レベルで規定されたものと勘違いしてしまう。だからすぐに「信じられない」といったり、やたらと驚いてみたり、自分が理解できない行動・考え方に出会うと「あなたには人間として欠けているものがあると思うよ」とか平気で口にしがち。世の中にはいろいろな価値観というものが云々とか反論してもピンとこないらしい。
とはいえ、常にあらゆる事象に対して多数派体質全開で対応する人は滅多にいない。たいていの人は、ときには「少数派である自分」を意識します。だったらどうして多数派としてふるまうときにも、頭の片隅に少数派の存在をおいておかないのか……。「常識」とか「当たり前」といった言葉を使いたくなったら、要注意。あえて蛮勇を奮うなら、自覚的に。
「最低限の衣食住と義務教育」というものが、各人にとっての「最低限の衣食住と社会ステイタス」を意味していないというのが問題。これは客観的な事実だ。
価値観を所与のものとして操作不可能と規定しているわけですよね。私は各人の価値観は、主観的に設定されているものだから、「最低限の生活」の定義は各人が自分の意志で変更できるだろう、といっている。本当にそう? と問われれば、「いや、理想論ですよ」と答える他ない。「死なない程度」まで「自分が許せる最低限」の水準を下げられる人は多くない。残念ながら。
けれども、そうだとすると、先行き暗いですね。どこかで目を覚まさないと、破綻以外の結末はないです。今、目覚めることができれば軟着陸への道が開けるのに、それは不可能らしい。
数値上普及したようにみえても、それでもって生活水準が上がっているとはいえないのが電化製品の引き起こすマジックだろう。20年前に携帯電話をもとうと思えば数十万の資金が必要だった。今は初期投資は0円だ。つまりコストが違う。いまの携帯も数十万かかるというのなら、普及率の向上=生活水準の向上だろうが、そうではないから等式があてはまらない。
これもまた評価軸の設定の問題。
ようするに Bar さんは、多くの人は「絶対評価」ではなく「相対評価」でしか世の中を見ず、しかも海外には目を向けない……という現状を、変えようのない現実と定義しているわけです。私は、それは主観的に変革しうるものだと考えていて、だから「絶対評価」で向上した現在の生活水準に「満足」することは可能だと主張しているのです。
「過去は貧乏、いまは豊か」ではない実態がそこにはある。過去なら農村共同体や家族というものが子育ての労力を分散し、特定の人に負担がかかることを低減していた。しかし、今は違う。子どもをとりまく家族の核家族化が進んだ第一ステージをさらに過ぎ、母親すら働きに出なくてはならない「ゼロ家族化」の状況にある。これが子どもを育てることをさらに難しくしている。ある意味、都会で子どもを育てるのは砂漠で育てるのに似ている。昔なら周りにオアシスがあったのである。
ゼロ家族化を不可避の現実と捉える bar さんと、価値観の転換で脱出可能と見る私の違いがここにも!
「なぜ人々はゼロ家族化を求めるのか?」と私は問うているのです。生きていくだけなら、お金には困っていないはずなのです。私の手取月給は15万円ちょいですが、東京暮らししていて別に何の不自由もない。毎月の財政は黒字、ボーナスは全額貯金、それで年額120万円の貯金という生活。ようは、そんな生活では不満だと思うから、あるいは子育てよりも仕事の方が楽しいから、ゼロ家族化するだけの話。私の母は清貧ライフに満足でき、仕事が嫌いで子育てが好きだったので、父の薄給(現在の私よりは少し多い)に文句をつけたことは一度もなく、幸せにケチケチ専業主婦ライフを送ってきたわけです。もちろん、現代人がみなそれを真似できるとも、真似すべきだとも、私はいいません。
あるいは、田舎的共同体を「うざい」と思う価値観を後生大事にしているから、生活の孤立化が進むのであって、そんな価値観を捨ててしまえばすぐにでも共同体を復活させることはできるわけですよ。これも非現実的な話ですけどね。やっぱりみな、昔に戻りたくなんてないのでしょう?
そういうわけで、私の記事と bar さんの記事は根本的なところにすれ違いがあるだけで、別に私の主張は bar さんの主張と相反するわけではない。「私の理想は**です」「でも現実はこうですよね?」「そうですね」それだけ。
ガラマニさんは私の記事をヘドが出る机上論と評したけれど、もし「机上論だから不満」なのであれば反論したい。また社会全体の話でなく、特定個人の生き方としてであれば実践可能な話でもあるのですし。それはガラマニさんが興味を持つ
という私のサイト構成技術論
と同様です。
私が高校生の頃、千葉県富里町(当時)のローソンはふつうに深夜は閉めてましたけど、いつのまに全店24時間営業になったんでしょうね? 現在でも深夜は閉まっているコンビニは田舎では珍しくないと思います。
セブンイレブンだって私が小学生の頃はその名の通り午前7時開店、午後11時閉店でした(千葉県成田市)。次第に人気店から24時間化していったと記憶しています。田舎では微妙にコンビニが遠く、行ってみて閉まっていると、別の店舗まで20分も歩かなければいけなかったりするわけです。家を出て道を右に行くか、左に行くか、と考えねばならない。そのような状況を前提に、当時は24時間化が他店に対する差別化として機能しており、「深夜は赤字なんだけど、いつでも開いているお店という安心感が、他店が営業中の時間帯にも集客力を上げる効果がある」という説明がなされていました。
つまり、微妙な時間帯において、いつも「家を出て右へ行く」という習慣づけが行われると、いつしかコンビニへ行こうというときに、「家を出て左へ行く」発想が消えるだろう、と。
朝日新聞の記者も不思議に思わなかったのか思っていて書かなかったのか、深夜の客がペイしなければ深夜営業は閉じるというだけの話でもあり、そうした経営が店舗経営として成立しなければ消えるということだ。
そんな単純な話なら、最初から24時間化していない。みんなが24時間化して、しかも全国津々浦々過当競争となっており、「24時間化による差別化」という戦略の見直しが求められつつある、ということではないかなあ。家を出て右へ行っても左へ行っても2〜3件のコンビニがあるということになると、とりあえず行ってみて、開いている店舗に入るようになるわけで、24時間営業による来店の習慣づけという戦略の有効性は失われる、と。
私は閲覧者のために文書を公開しているわけではありません。「文章を書きたいという欲求がありながら、自分しか読まない文書は書けない」のが私の悩みで、それゆえに読者を必要としているのです。必要な読者数は既に確保したので、これ以上、読者を増やす必要はない。だから、現状以上の「サービス」はしません。
私の妥協ラインとしての JS 経由の CSS 提供は、他の方には勧めません。優先スタイルシート(link 要素)→代替スタイルシート(link 要素)→JS 経由(script 要素)という経緯を振り返るに、閲覧者の増加に対応して、だんだんサービスを後退させていったことが見て取れます。しかしたいていの方にとって閲覧者は増えて困るものではなく、あえて増加をセーブする必要はないでしょう。
Opera を差別する意図はありません。Opera では JS 有効でも製作者スタイル不提供となりますが、それは現状の Opera のエンジンに不備があるため。Opera6 で表示が崩れるという問題が Opera7 で解消されたように、Opera9 では JS が機能するかもしれない。それまではユーザジャバスクリプトで対応してほしい。
JS 無効なら全ブラウザ共通で製作者スタイル不提供なのだから、切り捨てられたOpera
という批判はズレています。私は当サイトを「啓蒙可能な相手は啓蒙する」「啓蒙できない相手は、将来に期待してつなぎとめる」という2正面戦略で運営しており、新スタイル追加のお知らせは後者に向けたもの。後者に属す Opera ユーザにはユーザジャバスクリプトの案内を出しています。また、前者に属する方はぜひ2正面戦略をご理解いただき、後者向けのお知らせをスルーしてください。
ちゃんかずさんや「ユーザジャバスクリプトの利用を拒否し、ブラウザのデフォルトスタイルよりも私が作る製作者スタイルの方が閲覧に便利だと思う Opera ユーザ」の野嵜さんは、たしかに私に「切り捨てられた」閲覧者だから、不満があることは理解できます。ただ、これほどの怒りのエネルギーをお持ちなら、私が紹介したユーザジャバスクリプトを使ってみてほしい。もう二度と徳保の記事なんか読まない、というならともかく、先々のことを考えたら、ひと手間かけてもよいのでは?
doil さんの掲示板に投稿した内容を再整理して転載。
自己満足云々は甘受しますが、ユーザスタイル云々については少し意図が伝わっていない部分があるように思うので、補足します。
根本的に「デフォルトスタイルが自分好みでないブラウザをなぜ選ぶの?」という疑問があるのです。けれども、現に IE だの Firefox だのを使っている人々の大半は、デフォルトスタイルが好みでないのに、それらのブラウザを使うのをやめる気がなく、ユーザスタイルシートの機能も使う気がないらしい。そのため、文書構造だけをマークアップした HTML 文書を製作者スタイル抜きで提供すると、「読みにくいから」と読者が減ってしまう。それは嫌なので、仕方なく製作者スタイルを提供しているのです。新しいスタイルを追加しましたよ、というのも、ご機嫌取りの情報でしかありません。
かくいう私も、デフォルトスタイルが自分好みのブラウザは発見できませんでした。次善の策として、ユーザモードが充実している Opera を使っています。ユーザスタイルシートを常用していると、製作者スタイルシートなんてのは、邪魔っけなものです。ない方がいい。class や id が指定された要素の製作者スタイルは、ユーザスタイルで上書きしない限り存続します。固定あるいは優先スタイルシートについて、これは W3C の勧告書に記載されている通りの動作で、IE のユーザ補助機能でユーザスタイルシートを適用しても、製作者スタイルは無視されないのはそのためでしょう。なお Opera には全ての製作者スタイルを無視してユーザスタイルのみ適用する独自機能があります。
JS 経由で CSS を提供するのは、二重の意味で安全です。JS がきちんと動作すれば JS の機能として製作者スタイルを無効化できますし、JS が動作しなければ製作者スタイル不適用となります。製作者スタイルを確実に無効化できる環境を整えた上で、現時点ではやむなく製作者スタイルを提供せざるを得ない相手には提供する、その方法としての JS 経由なのです。なお現状の Opera で私の提供する JS が動作しないのは、Opera のスクリプトエンジンが document.styleSheets をサポートしていないためです。
(増補改訂:2006-01-05)
ソーシャルブックマークはソーシャルを意識するべきなんだよ、という主張であると読みました。で、はてなブックマークのユーザはそうでない、という批判をなさっているのかな。
このエントリーをブクマしているotsuneという人のコメントがいい例ですね。コメントをするためにブックマークをしている。いわゆる中身のないブックマーク。しかもすごい態度で。私としてはこういった無意味なブックマークの目立つ人のコメントは見れなくできるように個別に設定できればいいのになあと感じます。
本当に無意味なブックマーク
なら、なんで167人もの人がお気に入りに登録しているのか。要は1行コメントニュースサイト的なブックマークなんでしょう。くだらないものも見方次第では面白いのであって、その「面白い見方」を解説する手段としてのコメント利用。
つまり、参加することで役に立つという視点だけでなく、閲覧者として面白いという視点も大切にしているのがはてなブックマークで、ある種のユーザは後者の立場をとくに意識しているのでしょう。
私はほとんどブックマークに参加していません。たまにポイント送信に使うだけで、すぐにブックマークから削除。全ブックマーク件数が7件以内になるよう心がけ、フロー型のオンラインメモ帳として使っています。お気に入りのブックマーカーもいないので、お気に入り機能も使わない。残念ながらトップページの検索窓が URL を受付けないので、自分の記事へのコメントを読む目的で、自分が運営する複数のサイトの記事をひとつずつブックマークし、deztec.jp 内のはてなブックマーク一覧などのリンクを辿って新着コメントを探しています。
……とまあこのようなユーザである私にとって、del.icio.us は面白くない。ニュースサイトとしてもセンスに合わないし……(外国語が苦手なだけ)。
ところではてブってブクマするときrecommended tagsとかpopular tagsのようなものって表示されたりしないんですか?? そういう機能があればあんなに無意味にタグの種類が増えないと思うんですが…
他の大勢のユーザがつけた人気タグを表示する機能はデフォルト有効だったと思う。ただ、サービス全体としての一貫性と、個人のブックマークの中での一貫性という問題があり、パーソナルなブックマークとしての一貫性を重視する人が少なくないので、様々なタグが乱立するのでしょう。「ソフトウェア」「software」「soft」「ツール」「tool」「tools」とか何とか。自分がこれまで「tools」で通してきた人は、いくら「software」が人気でも、それは選択したくないだろうと思う。
ただ、これはこれでいいところがあります。人気のある記事の場合、その記事に関連する思いつく限りの様々なタグで検索可能となる冗長性が生じるわけです。表記揺れを殺してしまったら、絶対入れておきたいオンラインソフト(フリー限定) が200人以上のユーザにブックマークされていても「アプリ」で検索できなくなりかねません(たった1人しか「アプリ」タグを付していない)。逆に少人数しかブックマークしていない記事についてタグ検索は有効でないのですが、人気記事を検索し損ねないことの方が大切ではないか、と私は思います。
「ソーシャルブックマークたるもの、こうでなければならぬ」というものではなく、サービス毎に異なるユーザ層が集えばそれでよいのでは。del.icio.us のようなセマンティックウェブ志向情報収集システムとしての便利さを追求したサービスばかりでなくてもいいでしょう。もっと属人的な、ブックマーカーの個性とか、コメント一覧とかの面白さを追求するのも楽しい。
この両方を兼ね備えたソーシャルブックマークサービスとして、私ははてなブックマークが大好きです。
「自分」からみて「つまらない」ものが人気上位に登場すると、即座に「このランキングはおかしい」と断定する人が出てくる。そして「ランキングをおかしくしているのは**だ!」みたいな犯人探しが始まる。ReadMe! でも何でもそうなんですけど。
はてなブックマークのユーザに偏りがある以上、最も普遍的な人気記事が上位に登場するわけがない……というようなレベルの反論にとどまらず、そもそも根本的に日本音楽史上最も売れた宇多田ヒカルのアルバムだって、日本人の9割超はお金を出す価値を見出さなかった。パチンコのような巨大産業でさえ、日本人の多数派からは忌み嫌われている。所詮、とある集団が作成したランキングの中で何がトップにこようとも、その外側にいる多数派には理解し難いものでしかありません。
こうした「限界」に留意せずに、五十歩百歩の立ち位置からランキングを批判することについて、私はあまり感心しない。筆者の価値観の近い人にはウケるのでしょうから、それなりに有意義なのは認めますけれども。
じつはこの感覚は理解できます。「他サービスと比較すれば」はてなブックマークは素晴らしいけれども、まだまだ不満があるのは事実ですから。例えば Google Analysis のように、「サイトを登録」して管理人が新着コメントや新着の言及を漏らさず拾う仕組みがあればなあ、と思う。
最速インターフェース研究会の管理人が mala さんで、caramel*vanillaの管理人は lomo さん。
「主観的に不幸な人々」の少子化問題では個別具体的な指摘にはお応えしていなかったので……。
最初にお断りしておきますが、私は少子化対策に反対なのではなく、その費用対効果に懐疑的なのです。やればやるほど人々の不満が解消されるだろう、という意味では基本的には賛成なのです。ただ、「少子化対策」としてどうなのか、そして乏しい予算をやりくりする中で、他の何を削って大きな予算をつけるべきか、そのあたりが対立点なのではないでしょうか。
フィンランドは、90年代のはじめに不況に見舞われ、それ以降、これといった、子育て支援対策がなかったことが、出生率が増えない原因と思われます。
フィンランドと書いたのは、スウェーデンの間違いでした(→訂正済)。元の統計を見ても、フィンランドのデータはありません。
さてスウェーデンの育児休業制度は現在も世界トップクラスです。不景気のため他の支援策が後退したのかもしれませんが、残った制度もあるようですね。スウェーデンの事例は、出産促進策が一時的に奏功したかに見えたものの、実際には特定の世代が出産時期を前倒ししたに過ぎず、長期的には出生力が回復していないのではないか? という観点から注意を喚起されることが多いようです。つまり、大規模な支援策が志向された直後数年間の出生力上昇を「成功」と即断すべきでない、と。逆にいえば、90年代末に80年代よりも状況が悪化したこともまた一時的成功の一時的反動に過ぎないとも予想されるわけで、2010年頃までの推移には要注目でしょうね。
(イタリアは知らないですが)、ドイツは、90年代の中ごろから、男女同権法の施行、優生保護法の改正、税制や育児手当て、休暇制度の改正と、いくつかの政策が行なわれています。これらが、出生率の上昇につながったのでしょう。
ご指摘の政策メニューは政権与党が中道右派でも中道左派でも関係なく政治日程に乗る「規定路線」だったので、福祉政策に大きな変化はありません
と書きました。実際、メルケル首相もそれらの政策をひっくり返すことは考えていない様子。失業対策などは見直されるようですが……。ともあれ歴代政権の努力が実ったのであれば、それはよいことだと思います。
20年前(80年代)は、日本はなおさらですが、北欧でも、少子化のための対策は、まだほとんどありませんでした。それで状況が似ていた、というだけだと思います。
私は20年前の日本と現在の北欧の合計特殊出生率がほぼ同じだと指摘したのです。20年前の北欧については何もいっていません。
アメリカや北欧の状況が、結婚や出産が、いまだに女性への圧力になり、子どもを持つと、仕事をあきらめざるを得ない状況がある、日本の高学歴晩婚化の、反証になるというのは、まったくの見当違いだと思います。
私は高学歴化による価値変容説
は誤りだと書いたのです。高学歴の女性が子どもをほしがらないわけじゃないよ、ということ。したがって、日本女性の高学歴化は出生力低下と関係しないといいたいのであって、意見対立は存在しません。
結局、このかたは、少子化対策は、どうするのがいいと、言うのでしょうか?
予算の都合がつき、企業が存続できる範囲内で、「いわゆる少子化対策」をやればいいのではないですか。しかしそれを巨大な社会的コストを支払って大規模に展開するだけの価値があるかというと、「さてどうでしょうね」と。
未婚や晩婚が原因だというのですが、それに「国家権力介入」とは、どういうことなのでしょうか? (ムッソリーニ・ファシストの、家族政策のようなものを、考えているのでしょうか? これだけでは、なんとも言えないですが。)
実現可能性のないジョーク、として具体的な提案をすれば「30歳までに恋愛結婚できなかったら強制的にお見合いを設定される。最大30人の中から必ず1人を選ばねばならない」「結婚後5年以内に子どもを産むか養子をとるかしないと税金が重くなる」など。念のために書けば、私は冗談が現実のものとなることを望みません。あまり効果がないとしても、「いわゆる少子化対策」の枠から出ない方がよいと思います。未婚・晩婚を解消できても、不幸になっては意味がないですから。
昨日の記事は、運営日誌からのリファラで言及のあったことを知り、書いたものです。
肝心のメイン記事からのリファラはゼロで、運営日誌だけ読んで記事そのものは読んでいない人が少なくないことが伺えます。これは私もしばしば経験したことで、個人ニュースサイトなどに取り上げてもらわない限りは、ブログ外に書いた記事はなかなか読まれない。大勢に伝えたいことは何でも「ブログ」にも書いてしまった方がいいのではないか、と思う。検索エンジンでも本題の記事より更新報告の方が上位に登場したりして、ずっこけることがあります。
私の根本的な疑問は、「なぜ昔の日本人(アメリカ人でも欧州人でもよい)はたくさんの子どもを生み育てていたのに、経済・社会が発展するにつれて出生力が低下したのか?」というものです。いつの時代も子育ては負担だったし、そして私の見てきたデータの中に、理想子ども数を達成できたケースはありません。人口増に悩む発展途上国の親さえも、より多くの子をほしがっており、コンドームの無償配布は期待された成果を上げていない(参考:エコノミスト 南の貧困と闘う)。
貧乏で子どもが飢える時代は過ぎ去り、現代の日本では数人の子どもに飢えない程度の食事を与え、義務教育を受けさせることは不可能でない。大家族を取材したテレビのドキュメンタリー番組を見ての通り、子ども1人につき月1〜3万円の追加出費で足ります。しかしたいていの人は、自分も真似して大家族を作ろうとは思わない。多額の教育費を計上し、お金が足りないと悩む。
いわゆる少子化対策に疑問を抱くのは、子育て環境の水準上昇圧力に対して無策なことです。私が生まれた1980年頃の日本の合計特殊出生率は、成功例とされる現在のフランスや北欧諸国と同等ですが、当時の子育て環境が充実していたわけではない。要求のエスカレートを放置すれば、少子化対策は全て気休めにしかならない。
私は第2の人口転換は不可避の事象と考えています。先進諸国が少子化には介入せず児童・家族政策に注力するのも同様の発想によるものでしょう。人口減自体は問題視しない。しかし高齢化の進展は重大な問題です。悲観論が根強いのですが、原田泰さんの「奇妙な経済学を語る人びと」は楽観的ながら説得力がありました。
私なりの理解を加味してまとめると、まず現在の状況を延長すると先に待つのは破綻です。年金支給額の抑制と支給開始年齢の引き上げは必要不可決。ただし大半の高齢者が自活労働者となれば、問題は劇的に縮小されます。そのためには景気回復+賃金抑制+雇用大幅増が必要です。65歳以上は年金生活者という常識を変え、元気な間は死ぬまで働くのが当たり前、との意識をみなが持たねばなりません。
とはいうものの、そもそも少子化の理由が豊かさの追求によるもので、その点を改善し得ないのだとすれば、高齢化問題の解決だって不可能です。景気が回復して仕事が増えたとき、残業で吸収したり、高給で有能な人材を確保する高賃金+低雇用路線では、老人は失業し続ける他ない。老人を職場から追い出し、忙しく仕事して高給を得ても、結局、税金と年金と保険が高くなるだけなのですが……。
1990年頃、子ども部屋にクーラーのある家は珍しく、携帯電話やパソコン、全自動洗濯機が普及したのもバブル後でした。それなのに、主観的な生活水準は低下し続けているらしい。生活水準は緩やかに向上しているのに、欲求を抑制できずに募る不満。
足るを知らない「主観的に不幸な人々」の高望みが、少子化の進展と高齢化による社会保障の破綻を招く。時間差による猶予の中で、私たちは生きています。多少の出生力回復では逃げ切れない。時間稼ぎも必要ですが、もっと大切なことがあるのではないでしょうか。
日本の少子化は未婚化と晩婚・晩産化が直接原因です。フランスの出生力回復が婚外子の激増とセットだったことには注目していい。多分、女性が子どもを産みやすい環境を作り、結婚と出産・育児を切り離す社会文化が育つと、出生力が(いくらか)回復するのだと思う。
仮に出産・育児の価値を無視すると、女性の生涯賃金減少分+育児費用を全額補填しなければ少子化問題の金銭的解決は不可能で、その金額は現在の通貨価値で1人あたり数千万円。現状の児童手当は月0.5〜1万円……。原田さんの本はきちんとそこから話を始めており hankakueisuu さんにもお勧め、かも(図書館をご利用ください)。
中世ヨーロッパでは出生力が低下し、人口は安定していました。社会が発展しない以上、人口が増えても飢えるだけです。一人一人が社会全体のことを考えているわけではありません。しかし全体として、社会状況は時代の空気に反映されていくのではないか、と思います。そして産業革命が起き、社会の発展に伴い労働需要が増大して、欧州諸国の出生力は伸びます。当初イギリスでは、囲い込みによる農業の効率化(農業革命)が多くの小作農を都市へ追いやったことが、第2次産業の労働力確保に有利に働きました。しかしその後は緩やかな労働力移動と人口増が第2次産業に労働力を供給していくことになります。
一方、中国や日本では農耕技術の発展により中世・近代を通じて人口が増え続けました。そして両国とも、産業革命を経て爆発的に人口が増加します。
注:人口増が農耕技術の発達をもたらしたのだとすれば、ヨーロッパにおいて19世紀までジャン=フランソワ・ミレー「種まく人」(岩波書店のマーク)にあるような直播農業が続いた理由は説明できません。逆に日本や中国で農業革命も産業革命も起きなかったのはなぜでしょう? 技術の進歩に需要は不可欠でも、「需要があれば必ず技術が進歩する」とはいえません。したがって私は「技術進歩→社会変革→出生力の変化」という流れで世界を捉えたい。
先進諸国では少なくとも最近数十年、人口増をはるかに上回るペースで経済が発展し、生活が改善されてきました。そして日本では労働人口が既に減少に転じているにもかかわらず、若年層の失業率が高い。それでいて経済規模も維持されています。デフレ不況が終わり、好景気となっても、そう簡単に労働需要は逼迫しそうにない。先進諸国で軒並み出生力が落ちたのは、先進諸国の社会状況が高い出生力を望んでいないからではないか、と予想します。
単純化した進歩主義史観を書くと、技術の発展により登場した産業革命は労働集約による個々人の生活向上を実現したが、その先に待っていたのは、集めた人を再び減らしていく技術進歩であった、と。それでみんな不幸になったなら由々しき事態ですが、今のところ生活水準は向上し続けています。
では、将来は? スイスやルクセンブルクを見ての通り、人口規模自体は生活水準に直結しない。問題は人口減よりも過渡的な高齢化でしょう。「奇妙な経済学を語る人びと」の解説は明快でした。今後も技術革新は続いて経済は発展するので、現役世代1人あたりの経済力は上昇します。隠居老人の収入を現役世代の収入に合わせて上げていくと高齢化の進展により年金は破綻しますが、次第に切り下げていけば持続可能です。原田さんの試算では財源不足で生きていけないような金額にまでは下がらない様子。
「窓の杜大賞」はソフトウェア紹介サイト窓の杜が優秀なフリーソフトウェアを顕彰するため1996年より毎年発表しているものです。投票式になった1998年以降のトップ4(大賞、金賞、銀賞、銅賞)を簡単なリンク集にまとめました。リンク切れチェックはしてませんので悪しからず。
各人のいうことは理解できるが、私の胸に迫るような提言は見当たらなかった。見落とし、かな。いや、やはり話題の種類に関わらず、切実な関心を欠く層は発言しないというだけの話かもしれない。
以前も書いたけれど、私はモテとか非モテとかの話題は「読み物として面白い」とは感じるものの、「自分の問題」とは思わない。芸能人のゴシップ記事と同列なんだね。多くの人にとって、芸能人は遠い存在で、だから他人事として彼らの私生活の話題を楽しんでいるのだと思う。私にとって、例えば id:caprin さんが次のように書く感覚は、遠い。
「他人に高望みはしない、だけども人から望まれもしない。」というある一種の無関心は自分がするにはいいが、他人に自分がやられると実はかなりつらいんだよなあ。ぶっちゃけ結婚しない(できない)ことによって自分は世界から必要にされていないような錯覚を感じてしまう。人は一人では生きていけないというけど、自分で家族を生み出せないような人間はどうやったって孤独になりがちで、交友関係が少なくなるから新しい友達もできない、もちろん彼女もできない、当然結婚なんてできはしないという負のスパイラルは日本人の若い一部には完全にシステムとして完成しつつあるような気がする。これぞ「希望格差社会」であり、「下流がさらに下流を生み出し、階級が固定される」という負のシステムです。誰か希望を下さい…。
どこへ行っても友達を「作らなきゃいけない」という圧力に息苦しさを感じていた私は、社会人になって、実家を出たことで「気兼ねなく孤独になれる自由」を得たのだと思う。友達がいなければ、両親も学校の先生も兄弟も親戚も心配する。別に嫌々友達を作ったわけではない。素直に相手を気に入って友人関係を築いてきた私ではあるのだけれど、クラス替えや進学などのたびに、どんどん人間関係は更新されていく。いつ友達がいなくなってもおかしくはない、という不安はいつも抱えていた。極端な話、両親が交通事故で死んでしまったら、祖父母の家に引き取られる。千葉から愛知へ移れば、ほとんどイチからやり直しだ。
社会人になってからというもの、どんどん年賀状を出す枚数が減っている。出せば返事が来る、という相手には、出すのをやめた。嫌々、出していたわけじゃないのだけれど、物事には費用と利益の関係というものがある。私自身は、孤独を好む人間で、一日誰とも話をしなくても、気にならない。友人と話をするのは楽しいが、しかし例えば、休日に話をするためだけに電車に乗って友人のいる街まで出かけるほどかというと、それはない。学校で毎日、嫌でも顔をあわせるという状況があったからこそ、私は彼らと話をしたのであって、友人と話をするために学校へ通っていたわけじゃない。「友人がいないと周囲が心配する、それは嫌だな」という圧力が薄れるにつれ、疎遠になりつつある友人関係を維持する利益が、年賀状を出すコストを下回るようになったのだ。
職場にはウマのあう同僚がいる。幅広い年齢層を抱え、全体で20人程度しかいない職場なのに、かなり話の弾む同僚と、そこそこ気の合う同僚が数人いる。険悪な関係の同僚はいない。非常に幸運だと思う。ただ、少し注意書きが必要だろう。私は休日、基本的に会社の同僚とは没交渉である。少なくとも旅行へいくようなことは全くない。出勤したって、絶対に必ず世間話をするような相手はいない。別に同僚とお喋りがしたくて出勤しているわけじゃないのだ。何となく、お互いに手持ち無沙汰になって、何かよい話題をどちらかが持っていた場合にだけ、話をすることになる。
それって寂しくない? という疑問は当然、あろうかと思う。ただ、理解されるかどうかはわからないが、私にとって、学校の休み時間に一人でいることが苦痛だったのは、「寂しかった」からじゃない。「改善」されるべき状況としての「孤独」がつらかったのだ。だから、家で留守番しているのは楽しかった。のびのびと晴れやかな気分だった。
小学生の頃、休日はよく図書館へ行った。他人と接するのが嫌いなくせに、なぜ、わざわざ人の大勢いるところへ行ったのか? 家にいるよりマシだったからだ。両親は優しかったが、やはり子どもにはいろいろと期待をする。食事療法でお弁当持ちだったので、給食制の公立校ではイジメが心配だといって、両親は私を私立の小学校へ通わせた。幼稚園では知能面でも情緒面でも未発達が顕著な生徒だったのだが、たまたま私の受験した年は最初で最後の定員割れを起こし、通ってしまったのだった。ともかく私立なので、地元公立校の学区内(=地元の小学生が保護者の付き添い無しで行動してよいと校則で定められている範囲内)に同級生は2人しかおらず、そのどちらもあまり私と親しくなかった。必然的に、休日、友人と遊ぶということがない。両親は、そのことを少しだけ心配していた。その期待が、私にはプレッシャーだった。
地元の同級生が嫌いだったわけじゃない。遊びに行ってしまえば、それなりに楽しいのだ。でも、アンチ・コミュニケーション志向の私にとって、遊びに行くのは気が重かった。だから、図書館へ入り浸った。子どもがよく本を読むのは、親にとって鼻が高いことらしい。私は親を困らせたくないから苦しかったのであって、家を出てどこかへ行くなら、自分と両親の双方に利益のある場所が最適だった。本を読むのは好きだった。
私は誰からも必要とされたくない。必要とされたら、嫌なことでも断れなくなってしまう。「断ればいい」って? その通り。期待を裏切られた相手の「圧力」に耐えるコストと、嫌なことをするコスト、前者の方が軽いケースなら、そうする。しかし前者は、やってみなけりゃわからない。一方、「嫌なこと」はたいてい経験済だから予測が立つ。だから、「多分」「おそらく」では断る道を選べない。期待なんかしないでほしい。0点をベースに、加点法で評価してほしい、と思う。無論、実際にはそう単純じゃないことはわかる。期待ゼロでは、やりたいことがあるときに、誰も支援してくれない。だからこれは願望として、自分が目指したいのは期待ゼロなんだと、そういうこと。
「電波男」は「愛」がほしい非モテが苦悩する話で、別に「愛」とやらを求めないなら悩みはない。漢字テストでは「愛」の反対は「憎」だったような気がするけれど、このところよく見かける最近の定義では「無関心」なのだそうな。で、「お前は一人で生きていけるのか!?」みたいな脅しがよく使われる。それは少し、話がぶっ飛んでいると思う。たしかに私は一人では生きられない。けれども、いわゆる恋人が必要ですか? 休日を一緒に過ごす人が必要ですか? それは「必要」じゃないわけだ。携帯電話は押入れの中、いつも留守電にしている。メモリーには会社の番号しか入っていない。「体調が悪いので今日、休みます」という連絡用。それで何か不都合ある? 全然ない。
私は社会の歯車になって、生かしてもらえばそれでいい。費用対効果が納得のいくものなら、応分の負担はする。税金も年金も保険もきちんと払う。職場の飲み会は皆勤賞、あれほど嫌だった運動会も、修学旅行も参加してきた(旅行は毎回、体調を崩して周囲を心配させたけど)。研究室のイベントもそう。
「もっと楽しんでよ」……そういう無茶が、本当になくなったのは社会人になってからのこと。学校を卒業して、いい会社を選んで、本当によかったと思う。楽しそうな顔をしなきゃみんなが気分を悪くするだろうから、ニコニコしようと努める。でも、多少は気を抜いたって共同体から追い出されないことは、私にもわかってる。そうして不意に飛んでくる言葉。「徳保くん、つまんない?」プレッシャー。「ま、そうかもねー。馬鹿馬鹿しいとか思っているんでしょ?」プレッシャー。いや、理解者のプレッシャーはまだいい。純朴に「あれっ、体調悪いの?」とやられると、死にたくなる。その言葉が皮肉だったなら、どれだけよいか。本当に心配してくれているから、つらい。そうして、実際に神経性の腹痛になってしまう。
今の職場には、忘年会とか新人の歓迎会といった仕事後の半ば公式の飲み会に一切、参加しない同僚が2人いる。全体が約20人だから、1割弱。内1人はふだんから全然、他人と世間話をしない人で、私はこれまで彼と言葉を交わしたことがない。けれども、私にとっては、一番話のウマが合う同僚よりもっと、彼の存在は重要だ。友人と気が合わなくなったら悲しいけれど、有能で、きちんと上司に仕事の報告ができ、指示を正確にこなす彼が、アンチ・コミュニケーション志向ゆえに組織から追い出されるようなことになったら、私の会社生活は暗闇に閉ざされてしまう。あるいは、彼が職場の半公式飲み会に強制参加させられるようになったら、そして「楽しむ」ことを強要されるようになったら、私は心底ガッカリするだろう。
……えーと、もともと何を書こうと思っていたんだっけか。
思い出したので、言い訳程度に書く。
冒頭に紹介したリンク集は、「理想の旦那サマ」像が現実離れしていることから始まる女性批判→高望みは男女お互い様でしょ→*** というような見飽きた展開となっている。基本的に、恋人がほしい、結婚したい、というような気持ちをみんなが持っていることを前提としているように見えるところに私の違和感がある。
いや、そういう気持ちが全然かけらもない人というのは珍しいけれど、孔子は「敬して遠ざける」道もあるよ、と説いた。恋愛を鬼神扱いするなんて理解できない、という向きもあるかもしれないけれど、案外、そういう人は多いのではないかなあ。いや、割合としては少なくても、ね。多数派に口先だけ話を合わせて生きていく術を身につけている少数派は多いので、「恋をしなよ!」といくらいってもその気配のない人ってのは、「勇気」とかそういう問題じゃなくて、そもそも別の世界に生きているという可能性がある。「愛がほしいと切望しているのに努力を怠っている人」とは限らない、とお節介な人には知ってほしい。
あるいは、別に遠ざけるつもりはないけれど、当人にとって人付き合いの精神的コストが非常に高く、多少のベネフィットでは見合わない、というケースもある。ふつうの人は、猛勉強してまで医者や弁護士になろうとは思わない。多少の才能があっても、サボる人の方が多い。ヒーローものの映画が、主人公を一般人が共感できる人物に設定した場合、主人公が頑張る動機として相当に過酷な状況を設定することがある。動機付けのエスカレートは、「理想の結婚相手」の高望みと同じようなものかもしれない。
要するに何がいいたいのかというと、本当は「恋愛」や「結婚」に憧れているのに、「高望み」が障害になっている……という構図の中には、「恋愛」や「結婚」は費用対効果が赤字だと判断して「降りて」いるのだけれど、この立場を説明しても理解されないので「高望み」を隠れ蓑にしている人々がいるだろう、と。彼らは「恋愛」や「結婚」を遠ざけることが目的なので、「高望み」を批判しても通用しない。そういう可能性はあるんじゃないかな。
長文のついでに、ひとつ書き添える。私は社会人になって多くの圧力から逃れ、ずいぶん幸せになったと思う。けれども、やはり次第に幸せにも慣れてくる。これまで気にもならなかった圧力が気になってくる。例えば「結婚しないの?」というゆる〜い圧力とか。放っておいて全然問題ないのだけれど、もし私と同じような人がいたら、「会わない」「話さない」「財政自立」の3条件を弁護士を間に立てて確約した上で、婚姻届だけ出してしまいたい……なんて思わないでもない。
脱オタファッション指南本はやはり地雷らしい。Kammy+さんとこのコメント欄に著者が登場して大変なことに。概ね、落ち着いた展開となってはいるものの、やはり著者は読者カードだけ見ている方がいいと思う。ネットの書評を見るなら編集者に勧められたものだけにして。
無意味なコメントの応酬にはなっていないのだけれども、効率が悪いのは確実。
その後、ちょっといい展開に。
マイクロソフト社謹製のウィンドウズカスタマイズツールの日本語版。けっこう便利だった。
たしかに「パターン化されているよな」とは思っていたんだけど。最初は苦笑したものの、いじってみたら感激。これは凄い。
以下、余談。
ウェブアプリケーションはフッと消えてしまうことがあるので、ふつうのレンタルサーバにも設置できる CGI なら、配布を希望したいところ。そういえば、Web2.0 とかの人は、あんまりそういう方向性の展開がないな、と思う。CGI 配布サイトのような形式をとらない。何でだろ。いや、印象でいっているだけなので、私が不勉強なだけだったら謝ります。ただ、はてブの上位に出てくるのは基本的にブログの記事とウェブサービス、CGI とかローカルで使えるツールの配布は少ないな、と。
ウェブサービスであることに意味が……というのはともかく、みんながあちこちのサーバに設置すれば冗長性があっていいのにな、と思うわけです。
休止サイトのバックアップを3つ取ったのだけれど、2つが復活。更新を追いかけながらバックアップを取るのはちょいと難しい話で、バックアップサイトの放棄も検討中。複雑な気分。嬉しいんですけどね。
第三者がブログのバックアップを取るのは面倒くさい。けっこう手間がかかったので……。
2003年1月頃がひとつの転機だった。3年弱の経過を踏まえて現在の私の立場を簡潔に提示したい。
現状の大半の視覚系ウェブブラウザはデフォルトスタイルの出来が非常に悪く、文書構造をマークアップした文書をそのまま表示するだけでは、大半の閲覧者にとって満足しかねる表示結果となる。そうだから、ユーザスタイルシート、製作者スタイルシート、物理マークアップなどで装飾を行うことに大きな需要がある。(注:きちんと文書をマークアップした上で table で段組したり、font 要素などで装飾を追加することについては、私は一概に否定しない)
私が推奨したい解決策は、ユーザスタイルシートの利用だ。あらゆる文書を自分好みのデザインで閲覧できるようになるからだ。そしてユーザスタイルシートの利用が普及すれば、文書のデザインを製作者が提供するのはお節介となる。製作者スタイルシートも物理マークアップも、ユーザスタイルと競合して問題を起こすことが多い。だから私は、趣味で運営しているこのサイトでは、製作者スタイルシートを提供したくない。物理マークアップはしない。
しかしながら、多くの閲覧者はユーザスタイルシートを利用していない。デザインを提供する製作者が多すぎてユーザスタイルとの競合が激しく、とても使い物にならないから……という説明もあるが、実際のところ、仮に製作者スタイルシートと物理マークアップが全廃されても、大半のユーザは何もしないと思う。
文字サイズにせよ配色にせよ、多くのユーザは許容範囲がかなり広い。絶対にこうでなければいけない、などと考えていない。だから10万人以上が閲覧するサイトでも平気で文字サイズを固定する。特定の文字サイズを押し付けたら、それが嫌な人は困るはずだが、期待閲覧者層の9割超が容認する文字サイズなら、実務上の問題はないわけだ。そして閲覧者は怠惰を好み、また多様性を好む。そのような傾向がある。製作者のお節介が歓迎される所以だ。
私はそのような状況を知りつつも、ささやかな抵抗を行う。CSS は普及しても正しいマークアップはなかなか広まらない。SEO という起爆剤はあったが、全体を変革する力はなかったようだ。そのため、せっかくの CSS も単なる物理マークアップの置き換えになっている。見た目だけが重要という根本に変化がない。結局それでは、9割超が納得すればそれでいい、というレベルでおしまいだ。少数派が救われない。多数派への最適化ではなく、全員がそこそこ幸せになれる社会を私は望む。
製作者スタイルをいかなる形でも提供しないのでは、圧倒的多数派の IE や Firefox のユーザが離れる。読まれもしないのでは説得もできない。さりとて製作者スタイルの提供も避けたい。JavaScript 経由で CSS を呼び出すのは妥協案だが、IE で製作者スタイルを簡単に無効化できる利点もある。Opera や safari ではその JavaScript が動作しないが、私自身 Opera ユーザであり、差別ではない。CSS を提供しないという本来の意図がストレートに現れているに過ぎない。
私の意図は上記の通りだが、これを自己満足と評する主張に反論はない。そのような評価もあるだろう。
ブラウザがたくさんのスタイルを持ち、ユーザが好みのスタイルを選択できるなら、ユーザがスタイルシートを書く必要はない。HTML 文書ではなくブラウザが多くのスタイルを持つ方向で WWW 周辺のビジュアル技術は進化していくべきだったと私は思う。そうすればみな HTML の本質をよく理解して弱者の苦難も起きなかったろう。またサイトやブックマークのフォルダごとに異なるスタイルを適用する機能(私は便利だと思う)なども登場したのではないか。
RSS の普及と、記事を読みやすい RSS リーダの選択という流れは、うまくすれば私の期待を実現してくれそう。RSS で記事全文を配信するのが当たり前になると RSS リーダでブラウザを代替でき、いろいろ期待が持てる。
XOOPS も Xaraya も実際にインストールして触ってみた印象ではたいへん素晴らしい CMS なのですが、ふつうのウェブサイトを作るには筋違いの高機能さ。やりたいことを素直に実現できず、簡単な Wiki の方が便利に思えました(だから私は Wiki でサブサイトを作っているのです)。その点、ドリコム CMS はいいですよ。デモムービーも公開されています。
「Dreamweaver の劣化版をウェブツールにしてどうするの? せっかくサーバに設置するなら、CGI でなければできないことをやらなきゃ!」みたいな勘違いがない。新しい概念をやたら覚えさせられることなく、自然な手順と操作感でサイトを構築していけます。ローカルに環境を持たず、オンライン更新だけで完結する仕組みは、ただそれだけでも十分に便利だと思う。
MovableType はもちろんそれなりにいいのだけれど、カスタマイズにかなりのお金がかかるし、やっぱりいわゆる企業サイトを構築するとなると管理画面にせよ何にせよ、どうしても不自然なところが多い。ホスティングだって、さくらインターネットやロリポップは選びにくい面があるでしょう。中小企業が経費削減と更新頻度向上を狙ってサイトをリニューアルするなら、ドリコム CMS +デザインパートナーという方法を考えてもしれませんね。
無論、ほんとに小企業で、趣味でウェブ技術に入れ込んでいる担当者なら、自分で何でもやれます。さくらのサーバに XOOPS や MT を入れて、頑張っていじればいいのです。他のド素人に仕事を引き継ぐこともないのだろうし。ただ、企業サイトって、そういう条件がなかなか揃わないんですよね。だからいろいろ商売の種がある、というわけです。ドリコム CMS だって個人ユースは不可能な価格。その道では価格破壊の値段でも、趣味視点では理解しがたい高価格、という商品のひとつ。
2002年の5月のデザインや10月のデザインを見ると、昔はいろいろ試していたんだな、と懐かしく思う。現在の HTML 文書の構造ではレイアウトを再現できないのが残念。特定の class 属性値などを与えられた div 要素に依存するスタイルシートは、寿命が短い。2003年の春あたりに、ほぼ現在の文書構造となったようで、以降のスタイルシートは次の文書から確認できます。
一応アーカイブにはほぼ全てのスタイルを集めておくつもりなのですが、小さな変更は区別していません。とはいえ小さな変更も積み重なれば大きな違いとなります。数十回もマイナーチェンジした「think」は初期バージョンと最新版では全く別物……なんて思っているのは私だけかも、という気がしました、今。
ところで、当サイトのスタイルはいずれも転載・流用OKです。画像への直リンクも可。自作と偽ってもいいし、JUGEM や fc2blog でユーザテンプレートに応用してもかまいません(けっこう苦労すると思う)。ただし野嵜さんのスタイルシートについては、流用する際にコメントアウトされている著作者名を消すとトラブルの種になるかもしれないので注意してください。
最近、CSS レイアウトの「テンプレート」を配布するサイトが増えつつあるそうですが、たいていは全体のレイアウトと、見出し・段落くらい。本文をマークアップする各種要素を詳細に装飾指定したスタイルシートが増えることを期待しています。かくいう私も、自分が使わない要素のスタイルは未指定なのですが……。
今は亡き千田さんの記事。適当に無料で使える CSS がたくさんあるといいと思う。はてなダイアリーの公式テーマは GPL なので、全部パクり放題なんだけど、単純に当サイトに適用してみると、微妙にスタイル指定の不足が出てくることが多い。そのあたりが少し気にならないでもないような。うーん、でも自分でない知恵を絞って CSS をイチから書くのはいい加減だるいので、はてなのお世話にでもなろうかなあ、と思うことがある。でも、どうしても踏ん切りがつかない。何故だろう。
修行中の専門学校生の方などに5000円くらい払って、学校の実習で作ったデザインを流用したスタイルを作ってもらえたらありがたいのだけどなあ、なんて思う。つまり、確実にトラブルに巻き込まれない保証のあるデザイン、っていうんですか? もちろん、自分で作りましたとかいうのが大嘘でとばっちりを食う可能性はあるので、ちっとも「確実」ではないのだろうけれど、事実上、安全というか。GPL のはてなダイアリー公式テーマの方がよほど確実なのは頭では理解できるが……。
スタイルを久々に追加。単純に「plant」と命名。しばらく、デフォルトにしておきます。IE で JavaScript 有効の場合、画面右上のセレクトボックスから選択できますので、興味のある方はどうぞ。
画像が重いとか、幅固定だとか、配色が見づらいとかで不満のある方も多いことが予想されるスタイルですが、私自身は気に入っています。後日、従来のスタイル「think」をデフォルトに復帰させる予定ですが、「plant」も代替スタイルとして残します。
ところで、「plant」の CSS は私の作ですが、画像などは aamall のデザイナーさんに製作していただいたものです。詳細は伏せますが、何だかんだで1ヶ月以上かかりました。私は努めて協力的な対応を貫いたつもりですし、aamall の方も誠実に仕事に取り組んでくださったのですが、まあ、いろいろありまして……。これほど手間暇かけて**円では大赤字だったろうと思います。当方の希望で、PSD ファイルにて納品していただきました。
最初の内はサイトも未完成だった aamall ですが、最近は体制が整ってきたようです。デザイナーとやり取りを行う掲示板も読みやすく改善されましたし、作品一覧もにぎやかになってきました。予定通りの納期でどんどんデザインが仕上がってくるようになったのでしょう。今後も「一般人には超高価、プロの仕事としては価格破壊」という状況自体は変化しないのかもしれませんが、ニッチ市場を押えて事業が軌道に乗ることを期待してます。
ご指摘の件への回答は、閲覧環境に関する注意書きで代用します。私は IE ユーザでも簡単に製作者スタイルを無効化できるように、JavaSript を通して CSS を提供しているのです。ちなみに私も Opera ユーザです。意識の高い人が多いであろう Opera ユーザに「製作者が推奨スタイルを提示するようなお節介」は無用だと判断しています。
みな簡単に「マスコミ」というけれど、本当に全国どこでも同じ番組が放映されているのは衛星放送だけ。NHK 総合と NHK 教育も、一部に地域番組がある。ほぼ全国で読める新聞はあるが、全国で大きなシェアを取っている新聞はない。雑誌も流通の問題でリーチできない地域がかなりある。
上岡龍太郎の看板番組として、その名前は知っていた。見たことはない。上岡さんが引退して消えたものと勝手に思っていた。それにしてもまさか上岡さんの後任が西田敏行さんだとは……。
sri-net.com の webmaster5 さんからのバグ報告が却下された件に関する中野さんの日記に対し、三宅さんが異論を書き、中野さんが反論した件について。
おそらく三宅さんがひっかかったのは Bugzilla-jp におけるえむけいさんの発言(「修正」されるわけないでしょう。DoS攻撃でもしたいのですか?
)なのでしょう。えむけいさんはさらに RFC2616 より A client SHOULD detect infinite redirection loops, since such loops generate network traffic for each redirection.
の一文を引き、URLは毎回変わってるからループじゃない、なんて屁理屈は無用なのでよろしく
という。
営利企業のサイトを管理する人物が(少なくともその身分を明かして) DoS 攻撃のためにリダイレクト制限の撤廃を求めるとは考えにくく、商売上の都合で制限を撤廃してほしい事情があることを推察できるはずだ、という三宅さんの考え方に、私は賛同します。ただ、リダイレクト制限は安全装置として機能するので、制限はバグではなく仕様なのであり、Bug 4837 はバグ報告ではなく要望と判断する……といった考え方も、よく理解できます。そして要望への対処はバグへの対処より優先順位が低いので、簡単な報告だけでなく、要望の理由を詳細に述べるべき、との考え方は少なくとも私からみて説得的です。
私は三宅さんと異なり、技術と道徳をスッパリ切り離すことには賛成しません。究極的には仰る通りだと思いますが、現実的には、「悪い」使われ方が支配的になるであろう技術は、制限をかけるべきでしょう。敷居を高くするだけで、実質的に解決されてしまう問題は少なくないのです。
一方、えむけいさんや中野さんの対応にも感心しません。えむけいさんの発言には、一方的な決め付けに基づく侮蔑のニュアンスが色濃いし、中野さんの日記も当該の報告を非常識な要望として簡単に切り捨てています。結論として要望を却下するのは納得しますが、その過程には多少の疑問があります。
なお sri-net.com の webmaster5 さんがこのbugはたくさん報告されてます
と書いているのは、本家 Bugzilla の検索結果を見てのことだと思います。実際に読んでみると、ほとんど cookie 周りの問題らしい。そのあたりで、また認識のずれが生じているのではないでしょうか。
一私企業のやることなので、法律に違反していない以上、サービスの良し悪しはユーザが自然と判断するはずだ。現時点で問題を感じていないユーザに対し、内部のシステムを利用したテロ的な言説で問題意識の普及に努めるテロ活動は必要ない。逆にいうと、私が何かを書く意味もないのだが、ウェブに COOKPAD 擁護論がもう少しあってもよいと思うので、微妙な擁護論を書いてみる。
以下、読み飛ばし推奨。大したことは書いてません。
まとめサイトを一読して mixi の void さん退会事件を思い出した。void さんが排除されたとき、明確な規約違反のないことが問題視された。その主張に私は共感したが、void さんを排除したかった側の気持ちは痛いほどわかった。void さんの発言録を見る限り、いくら正当な疑問や批判であれ、「これでは、うんざりするのも当たり前だ」と私も思ったものだった。
void さんを排除した判断は、それはそれとして理解できる。2ch 運営陣に「荒らし」と認定された人は、2ch だけでなくプロバイダからも追い出されてしまう(参考)が、私企業の裁量として社会に許容されている。国が保障する最小限の人権の他は、社会との付き合いの中で獲得できるオプションに過ぎないようだ。
その頃(引用者注:2003年秋)のCOOKPAD内には小さな問題が多数存在していました。他のサイト・料理本のレシピのパクリや、ランキングに載りたいが為のむちゃくちゃなカテゴリ分け。主菜で検索を掛けてもドリンクで検索を掛けてもケーキがひっかかるような状態でした。それに疑問を感じ「この本を参考にしました、等の記述が抜けているみたいですよ」「カテゴリ分けの作業の時に間違って登録したのでは?」等々レシピ主に問い掛けていたのが、この頃登録したてのPさんとYさんです。
Pさんは、無駄のない言葉使いこそそっけなく感じさせるものの、パン作りに詳しく、カフェでパンの質問があれば親切丁寧に答えてくれる方で、周りのメンバーからだんだんと信頼を得ていきました。
Yさんはその言葉の端々に物腰の柔らかさが感じられ、理知的で、配慮に満ちた人柄にも惹かれる人がどんどん増えていきました。
この二人の行動は、前述した数々の問題に嫌な気分を感じていながらも、相手に直接言うことが許されるのか? どう伝えれば解ってもらえるのか? 逆に周囲に疎ましがられたりはしないだろうか? と、実際に行動に移すことのできなかったメンバーからどんどん支持されていきました。そして、二人の行動に感銘を受け、勇気を出して行動し始めるメンバーも現れたのです。COOKPADは段々と問題が解決されて、良くなっていくだろうと希望が見え始めてきたのです。
この記述には、著者の価値観がわかりやすい形で提示されている。現状には問題があって、問題を解決していくことが、よりよい未来への道なのだ、というわけだ。
ここで重要なことは、「果たしてそれは問題なのか?」という視点だろう。たしかに、問題視している人にとっては問題なのだろうね。ただ、例えば原子力発電所の廃止を求める活動にせよ、無防備都市宣言を目指す市民運動にせよ、当事者と話をしてみれば、彼らはその主張を常識的なもの、当然の発想とみなしている。たいていの事案は、圧倒的多数の無関心と、少数派の問題意識、という構図を持っている。もちろん、アンケートなどをとれば何らかの結果は出るのだろうが、その際、誰がどのようなレクチャーをするのかが重要だ。
office さんの「不正アクセス」事件も、のまネコ問題も、ネットで雄弁な人々が社会でどのように位置づけられるかということについて考えさせられた事例だった。ブログの炎上騒動も同様で、いくら批判者に一定の理があるとはいえ、コメント欄に粘着して休止・閉鎖まで追い込むことに賛成する人々が本当に社会の多数派なのか、疑問が残る事例も少なくない。
話を戻すと、P さんも Y さんも、見方によっては問題ユーザなんだ。世の中の不正を糺すといえばカッコいいが、当面は放置する方が社会的コストが低い「問題」も世の中には多い。性急な改善を求めて波風を立てること自体は否定しないが、もっと穏当な手段も検討されてよい。解釈改憲で自衛隊を設立して50余年、ようやく本来あるべき憲法改正が政治日程に乗る、これが日本国民の多数派が選択した漸進的社会変革の方法だった。
COOKPAD ユーザの大多数は、現状を問題視する人々の熱い思いを共有していないだろう。夏頃にライブドアブログで騒がしい自主退会者が大勢出て、「ライブドアも終ったな」といった意見をよく見かけたが、実際には相変わらず最大手である。100人、1000人が他サービスへ移れば、なるほど大変なことなのだが、分母が50万人超となれば、じつは自然な増減の中で吸収されてしまう数字でしかない。
無論、声の大きな人々は、最終的に大きな力を持つようになることがある。だから広告を出している企業も、事態を注視せざるを得ない。とはいえ、広告出稿企業に「こんな問題のあるサイトに広告料を払うのはいかがなものか」というメッセージを伝える活動は、やり過ぎだと思う。
また、一度登録したレシピは登録者の許可なくCOOKPAD側が利用できるという規約がある為、強制退会処分後に無断使用されるのを防ぐ意味もあり、レシピを滅茶苦茶に改竄する事で抗議の意思を示しているメンバーもいます。現状のままでは何も知らない利用者がそのレシピで料理を作ってしまう恐れがありますが、誰にもそのメンバーを責める事はできません。彼女達を納得させ、不安を取り除くことができるのは、他でもない運営側だけなのですから。
まるでテロリストの論理だ。やはりさすがにこうまで断言されると、過激だと思う人が過半ではなかろうか。そして、締めの言葉は以下の通り。
そしてそんな中、何も知らずに入会してくる人も、存在しています。
私はとっくに退会済みの身であり被害者ではありませんが、初めからこの問題を見てきました。そして、決して見過ごしてはならない問題だと確信しています。これは、料理が好きだとかそんなこととは関係なく、ネット社会に生きる皆さんに知って頂かなければならないと思います。現代の日本で、現実に、このような恐怖政治を行っているサイトが企業によって運営されていることを。メンバーの提供するレシピによって利益を得ているのにも関わらず、そのメンバーをここまで蔑に扱うサイトが存在することを。
そしてこの問題を放置することで、恐らく次なる被害者を生むのだろうことは、想像に難くありません。
著者が書く「事実」をそのまま認めたとしても、COOKPAD に入会していいだろうと私は思う。批判されていることについて、見過ごしてはならない問題
との意見には疑問符をつけたい。mixi の事件の際にも思ったことだが、学校にせよ会社にせよ、「正しい」主張がコミュニティに資するとは限らない。無論、何をコミュニティの利益と考えるか、が問題なのだけれども、例えば高校生がクラスメートの喫煙を発見したとして、それを黙認することの是非、といった事例を考えてみるのもよいかもしれない。
COOKPAD という私企業のサービスにおいて、当事者間で解決を見た問題をネタに延々と批判記事を書き続けるユーザを退会処分とすることは、絶対に認められないというものでもない。まるで独裁国家の様相を呈した完全な言論統制、弾圧が始まったのです。
というが、批判する場は他にいくらでもある。朝日新聞の批判を朝日の紙面でやりたい人は大勢いるだろうが、それが認められなくても言論弾圧ではない。「正しい」主張は、無条件で最高の発表場所が与えられるべきだと考えるのはナイーブだろう。
批判者の登録抹消は由々しき事態だといってはみても、3万人以上の登録者がいて、大騒ぎしているのは1000人に満たず、まとめサイトが作られた時点の強制退会者は数人だった。200万人に1人の特異な存在だった void さんと同様、登録を抹消された人々もまた、「ふつう」じゃなかったように見える。(注:void さんと異なり COOKPAD 強制退会者とその支援者は抗議活動で仲間を増やし、新たな強制退会者を生んでいるようだ)
冒頭に述べた通り、コミュニティを破壊する活動には感心しない。3万ユーザの大半は問題意識を共有していないのだろうが、それで何か不幸になっているのか。楽しくレシピを投稿して喜んでいる人が多いはずだ。仮にまとめサイトの活動が奏功して COOKPAD が崩壊して、誰が幸せになるのか。トップページの最上段にでかでかと反省の辞を掲載させて、どんな利益があるのか。平和な社会と人々の幸福を破壊してまで、自らの信じる正義の執行を優先するなら、全て政府が邪悪なのがいけないと嘯くテロリストと何ら変わりがない。
昔のたろたま騒動で私が一番ガックリきたのは、最終的に私のまとめサイトの閲覧者数はたろたまの読者数に遠く及ばなかったにもかかわらず、その少数派の攻撃がたろたまの更新を停滞せしめ、過去ログを消すこととなり、多数の人々の幸福を減じたことであった。私が何も書かなくたって騒動は起きていたのだし、私一人で何か責任を負おうと考えるのも傲慢なことだが、相応の反省はしていい。必ずしも最大多数の最大幸福とやらを目指すのが一番いいとも思わないが、その視点のない議論は歪ではないか。
私が長年読み続けている数少ないサイト、九十九式が先月、5周年と300万ヒットを達成した。とても嬉しい。
さて先月、5周年&300万ヒットを達成した九十九式なわけですが、ネット上を見渡してみるとこのくらいの数字は普通なんですよね。
最古の日記ランキング、『津田日記リンクス』なんて10年前からあるわけだし、1ヶ月で300万ヒットを達成するサイトもないわけじゃない。
かと言って、別に九十九式の足跡を否定するわけでも卑下するわけでもなくて、これはこれで誰にでも作れるサイトではなかっただろうと思うのですが、まぁ、人生を考えざるを得ない。
ふと思い立って、懐かしいサイトを巡ってみることにした。
10月5日を最後に更新が途絶えている(ちょうど12月8日に久々の更新が!)。掲示板を見ると、宣伝業者にいいようにしてやられていたので、「10月5日って、2004年か?」と思った。しかし、はてなアンテナに登録してみたら、最終更新は今年の10月5日で間違いないらしい。昔はカウンターを表示していたような気がするが、いまは見当たらない。読者数は往時の半分、って、これだけ休んでも半減しかしないのか。
更新が滞っているという風の噂があったけれど、ふつうに更新が続いていた。ピーク時には Read Me 計測値で1万人/dayを超える時期もあったと思うが、最近は5000人を下回っているらしい。カウンターの数字は17494125だった。
勝手に閉鎖したと思い込んでいた裏MIZUHA、最終更新は2005年11月27日だった。うわ、カウンターの数字が1000万を超えてる! 最終更新がその報告なので、10日で+27万ということは、少なくとも表紙は2700PV/dayということに。過去ログが消えているわけだから、表紙だけで稼ぐしかない。しかしすごい数字。
毎日、更新され続けてる……。最後のキリ番報告が6021000で、現在は16573863って、1000万ヒット超もの期間、誰もキリ番報告をしていないのか! どこかで読者側の文化が変わったとしか思えない。
月4〜8回程度という更新ペースが長らく続いている。1670948というカウンターの数字に違和感。Read Me の計測値を見る限り、一流ホームページの10分の1以下ではおかしいと思う。
更新頻度が月1〜3回ペースとなりつつあるものの、カウンターの数字は1日3000くらい増え続け、合計で5498614と500万の大台を突破。最近は Read Me 計測値が2000を下回っている様子。
うわ、こりゃバケモンだ。Read Me 計測値を見て衝撃を受けた。ピーク時は恒常的に1万人/dayを余裕で超えていたのは知っていたけれど、これだけ休んでも半減すらしていない。RSS どころか「アンテナって何?」というあたりの客層をガッチリ掴んでいるサイトの人気は、さすがに粘り強い。
2005年9月24日に復活。閉鎖中にも年数回程度、更新されてはいたが……。カウンターは消えてしまったので今では何ともいえないものの、斬鉄剣が「発掘」したサイトの中で、最も早く斬鉄剣のカウンターの数字を越えたのがたろたまだった。半休止状態が長かったとはいえ、累計1000万PVとなったのも発掘サイトでは最速だと思う。
たろたまに続くのが、宇佐教授ことうーさーさん。カウンターの数字が100万になったところでいったん幕となったはずが、その後、気楽な更新へ遷移しても人気が落ちず、先日とうとう1000万到達。ようするに、成り上がるのは難しいけれど、成功者が好位置をキープするのに戦略は要らぬ、という残酷な現実を体現してくれてしまったという。宇佐教授の成り上がり講座は非常に面白かったが、誰も実践できなかった。世の中そんなものですよねー。
ずっと更新が止まっているわけだけれど、POPOI の数字を見た後なので、逆の意味で Read Me 計測値に衝撃を受けた。300前後って、なんでそうなるの。カウンターの数字は7434332だが、もう長いこと700万台で止まっている。別に掲示板があるわけじゃなくても、更新が止まっても人気が半減すらしないサイトと、20分の1まで減るサイトがある。この差は何なんだ。そりゃ、so-net の都合で半休止中に URI が変わってしまう不幸はあったが……。絶対数として300人は決して少なくないが(参考)、今、ここではそのような観点から話をしていない。
1億到達していたような気がしていたが、カウンターを見ると、まだ88123214だった。すっげ、もうすぐ9000万じゃないか。それにしても、レイアウトがずいぶん変わったな……。コンテンツも驚くほど増えている。株取引の話題専用のブログまで始まっている。
あ、10630423……1000万PV超えてる! 「日々にぎりこぷし」の続編、そろそろ出ないのかな。そういえば「バカ日本地図」は続編「バカ世界地図」が11月末に刊行された。まさか続編は出ないだろうと思っていたのだが、値段もページ数も据え置きで刊行されたので、ちゃんと売れていたらしい。
あれ、終ってたの……? でもこれは私の早とちりで、山賊WONDERGROUNDが始まっていた。いや、鼻血が出るほど更新が遅い
ので、ついつい。山賊さんの処女作「やさぐれぱんだ」は面白いのでお勧めしたいけど、値段が気になる人には勧めない。
40025504……つまり4000万PV超か。「奥さまはマリナーゼ」はフルカラー159ページで924円。サイトが大人気だと本の価格も下がるのだなあ、と感心したが、「ゆかいな誤変換。」は単色刷新書サイズで1029円、ふつうの小説などよりずっと値段が高かったことを思い出した。
それにしてもフルカラー本が増えている昨今の感覚からいうと、鳥山明「COWA」が第1話以外のカラーページを単色刷にしているのは、ちょっと信じられない。定価800円でもいいから、カラー原稿は全てカラー印刷にしてほしかった。DB後の鳥山作品としては「サンドランド」が一押し。絵にこだわる漫画家が、十分な準備期間を用意してアシスタント無しで仕上げた作品。全編、妥協なし! そうした絵の魅力に加えて、物語の構成、キャラクター造形も素晴らしい逸品。
更新頻度低下がサイトの人気に全然影響していないというか、むしろ一番更新していた時期より間違いなく人気が上昇しているケース。すっげ。……と書いてから、過去ログを読んでいくと、あれれ、10日に1回くらいのペースで更新されてる。ずっと半休止中のままなのかと思ってた。しっかし、それにしてもね。カウンターの数字はもうすぐ2000万に達しようかという19615451だった。
カウンターは10698099……つまり1000万突破! すごい。
えーと、この記事にまとめとかオチとかはありません。
リフレ政策への広範な懐疑論は単なる前ふりで、結局は id:yukihonda さん(東大助教授)の専門分野であるらしい労働問題でワイワイガヤガヤ。
ちょっと嫌だなあ、と思ったのが、説得しようとする側がすぐに本を読めと言い出すこと。あれやこれやで10冊を超えている。興味ない本を読むには1冊につき3〜10日かかるのだから、それでは議論にならん。そのくせ、当人は相手の提示した文献を読む気ゼロなんだ。一知半解でポジションを見定めて批判の道具にしてしまう。今回はリフレ派が攻め手、id:yukihonda さんが受け手だったけれども、時と場所が変われば、どちらにもそういうことはあるだろうと思う。
実際、本を読めば納得してしまうことも多い。ただ、説得しようとする側が、「読め、読めばわかる」といったって、そりゃ無理筋だろう。私がようやくリフレ派の本を読んだのは、かなりの程度、説得されてからの話。bewaad さんは韓流好きなリフレさんこと田中秀臣さん(上武大学助教授)のハンドルネームによる発言と比較して、まだしも皮肉な物言いを抑制される傾向にあるが、やはり一方的な物言いが気にかかる。で、じっくり本を読みながらお勉強するか……というわけで、やたらめったら読み始めることになった。
追記:田中さんや bewaad さんによると、今回の事例は学者同士の意見交換なので「読め」でいいらしい。
田中さんは著作でもはっちゃけ気味なので不安を感じたが、安達誠司さん(「デフレは終わるのか」)の一歩引いたスタンスから提示される推論の数々には感銘を受けることとなった。不確実なことは不確実であると書かれていた方が、私は安心できる。
「インフレになれば金利がその分上昇する。デフレは実質金利を押し上げるのでよくないが、インフレ率が0を超えても実質金利は変化しない」というフィッシャー効果によるインフレ無効論については、「フィッシャー効果は予想インフレ率に対応するものだから、現実のインフレ率を反映しない」とした上で、「大恐慌からの回復過程では予想インフレ率が長らく実際のインフレ率を下回ったために金利が抑制された」と安達さんは説く。当然ながら、21世紀の日本が同じ道程を歩む保証はない。
なお、インフレ率が安定すれば長期的には予想インフレ率と実際のインフレ率は一致し、リフレ政策による景気回復効果は失われる。ただし、物価指数は統計作成上の問題から、実際の物価よりも1%程度高く出る傾向がある。また金利は0%を下回らない下方硬直性があるため、政策マージンを少なくとも1%は確保しておくべきである。……というわけで、フィッシャー効果が現れリフレ政策の効果が消えたら、2%程度のインフレ率を目指すことになる。
リフレ政策で失業率が低下するのも同じような話。賃金は下方硬直性があるので、簡単には下がらない。デフレで9割の国民は生活が改善するのは、このためだ。1割の負け組だけが悲惨な失業や賃金切下げへと追い込まれる。逆にインフレ傾向が明らかとなっても失業率が下がるまで当面は買い手市場が続き、賃金は伸びないことが予想される。
一方、非正規労働者は現状でも求人倍率は高く、労働需要が逼迫すれば待遇の改善が進む(逆に現在、正規労働者との格差が大きいのは、デフレ不況で正規労働者の賃金が高止まりしているため)。完全雇用が実現される頃には、正規労働者と非正規労働者の格差が縮小し、id:yukihonda さんが期待する両者の壁を越えるシステムの構築も現実的となる。とはいえ、インフレ率に即応してサービス残業の正規残業への転換といった形で賃金が上昇すると、雇用の回復は小さく、正規・非正規格差は広がる可能性さえある。
リフレ政策が失敗する理論上の可能性は2つあり、ひとつはインフレ率に金利と賃金がタイムラグ無しで追従する場合、もうひとつは高いインフレ率から2%のインフレ率へ着地する際に金利と賃金上昇率が高い値を維持する場合。両方がセットで生じると最悪で、何もいいことが起きず、ひどい不況が先に待つだけとなる。(bewaad さんの解説)
リフレ政策が政治的に失敗する可能性は、いくらでもある。ITバブル崩壊を軟着陸で乗り切ったのに、アメリカ国民の6割は政府の経済運営に不満なのだそうな(産経記事)。木村剛さんも榊原英資さんも円安は不可能だといい、それゆえにリフレ提案を絵に描いた餅として冷笑したが、故なきこととはいえない。経済学関連の本をたくさん読んだが、結局、経済学は心の学問だと思った。政治的に実行不可能、という主張を一笑に付すのは無理がある。都合の悪いときばかり人の心を無視してはいけない。
いくら景気がよくたって、物価高を庶民は許さない。円安になればなったで文句が出る。対米外交で突っ張り続けるのも至難の業だ。国債残高だって、一般国民が「もうダメだ」と思ったら学者の説明も虚しく破綻する。郵政民営化に命を賭けた小泉首相のように、何が何でもリフレ政策を貫く、という政治家が現れ、経済運営以外の面で安定的な人気を確保しないことには、リフレ派の思うような政策は実行されないのだろう。
……最初から敗北を運命付けられている闘い(2005-11-08)と同じ内容の記事にしかならなかった。1ヶ月の間にずいぶんたくさん読んだのに、お勉強は進んでいないのか?
リフレ派が啓蒙活動を行うと、しばしば「そんなに素晴らしい政策なら、なぜ採用されないの?」と疑問を投げかけられる。私がリフレ政策について bewaad さんの記事で初めて知ったときも、不思議に思ったものだった。bewaad さんの解説は明快で、説得的だったが、あまりにも完全勝利であり過ぎた。それは、現実の状況とずれている。
お勉強を進めてみると、ようやくいろいろ見えてくるものがあった。リフレで景気回復するかどうかは、確実ではない。私は成功を信じるが、不安要素を高く見積もる人も多いのだった。そして、政治的な困難がある。正しい政策のためには万難を排して進むのが政治家の役目、といえば正論だが、経済学が人間心理から賃金の下方硬直性を導き、「デフレなら賃金を切り下げればよい」という主張を退けたように、政治も心の世界である。正しくても、実行困難なことは多い。エコノミストが政治的困難からリフレ政策を退けることを「経済学をわかっていない」と非難するのは、少し違うと思っている。
とはいえ、消費税の導入など、薄く広く負担を求める(非常に不人気な)政策が実現された事例は少なからず存在する。リフレ政策も絶対に実現不可能なのではない。デフレがなかった場合の物価水準をターゲットにする政策は非常に厳しいが、日銀が0%ではなく2〜3%のインフレ率を目指すようになる可能性には期待できる。
という訳で、直接言われた訳ではない外野の声的なものは、ああ、こう思っている人もいるのだなぐらいで気にしないが吉。
以前は私もそう思っていたが、最近は、より理性的になれる(という自覚のある)者が自重する他ないのではないか、と考えるようになった。
無神経なコメントをつける人はいなくならない。その意味で、加野瀬さんのアドバイスは有効だ。
逆に、きついコメントに大ショックを受ける人も、決していなくならない。その意味で、きついコメントを公開の場に出さない配慮も、した方がよい。
一方、確信犯は、最後まで責任を持て。といって、何ができるというものでもないのだが。きついコメントがつく可能性を知っていた人が、みっともなくギャーギャー被害感情を発信するのは考え物だ。逆に相手が潰れる可能性をわかっていたくせに「こんなことで閉鎖するなんて信じられない。バカじゃないの」とか白々しいことをいうものではない。
あと、基本的に、好んで文化摩擦を引き起こしたい人以外は、棲み分けを意識した方がよい、と思う。システム的な分離がなくたって、ほとんどの人は、文化摩擦を滅多に経験しない。それが社会の知恵なのだ。
つまり、インスパイヤを批判する人はこのVIP STARも批判しなければいけないし(無償だからいいという言い訳は成り立たない)、VIP STARをおもしろがっててこういうのがもっと広まればいいなあという人はのまネコぐらいのことは片目つぶってあげなければならない。でないと、「オレはいいけどあいつはダメ」になっちゃうからね。
というわけで、コメント欄が見飽きた展開となっているわけですが……。
のまネコ問題に対する 2ch 住人側の主張は、崩されても崩されても何かしら難癖つけて、という展開となったわけだけれども、なぜそのようなグダグダが許されたのか。多数派の支持を失わなかったのか。それは、理由が先にあって結論が導かれたのではなく、結論が先にあって、理屈は後付だったからです。そういうことは別に珍しくも何ともない。そして、結論さえ多数派に支持されれば、多数決が有効な世界では、多数派が勝つ。
松永さんの批判は、2ch 住人(の一部)が法的に云々ということを旗印にしていたことを皮肉ったものですが、そんなところを突いたって、2ch 住人には通用しなかろう。それは、「連中はバカで論理的な思考ができないから」ではない。ようするに、2ch 住人の信じる正義と法文とが合致していない、ということに過ぎない。であれば法なんか持ち出すなよ、といいたいのかもしれないが、使える道具はみんな使う、多数派の正義を守るためなら、その無節操が許される、という話でしかない。
法律は常に不完全に執行されます。死刑囚がちっとも死刑執行されないのだって、本当は法律違反だけど、「絶対に法律を守れ」という人は多くない。ではそのような人は、法律の曖昧な運用について批判する資格を持たないのか。そうではないだろう、と。なぜ、そうではないのか? これは難しい問いだが、ようするに、多数派がそれでいいといっているんだ、と答えれば話はスッキリする。
「価値観の違い」としかいいようがないのですね。松永さんが、ある程度の著作権侵害は認めつつ、ときには著作権を持ち出して他者を難詰することがある事実を「一貫していない」というのと同じようなものだろう。2ch 住人が都合のいいときだけ著作権侵害とか言い出すのと、本質的には変わらないのでは、と思う。2ch 住人だって、「法律は大切」だけど「野暮はいわないで」と思っているに違いない。
何が野暮で、何が野暮でないか、それが問題なのです。
最近のお役所は、サービスがよくなっている。
書類に間違いがあると、「申し訳ございません、たいへんお手数ではありますが、この部分に誤りがありますので、書き直していただけますでしょうか」……と、こうだ。偉いもんだ。
みんながそうではない、わけだが、私の出会う職員(大半は図書館員)はほとんどがサービス業に徹しており、立派だと思う。私が図書返却を延滞しても、「たいへん申し訳ございませんが、返却をお忘れになっている書籍があるようなのです。お心当たりはございませんでしょうか?」……と、こうだ。申し訳ないのはこちらなのだが、言葉の端々を拾うに、「貸し出し期間が短くてすみません」ということらしい。
口先の言葉だけでなく、真に市民の心情を慮って対応する姿は、尊敬に値すると思う。こういうことを、「当たり前だ」と考える市民様も稀にいるのだが、嫌だねえ、すぐ居丈高になる連中は。なあにが「融通を利かせろ」だ。馬鹿馬鹿しい。
これは、そういう話じゃないだろう、と思う。
妻 「赤ワインだと、私はメルロー(Merlot)が好きなんです。苦味が少なくて。」
自称ワイン通 「メルローはブレンドワインですよ。」
妻 「え、メルローって、ブドウの種類だとばかり思っていました。」
自称ワイン通 「違います。メルローはフランス語では『ブレンドしたワイン』という意味なんですよ。」この会話がどうも腑に落ちなかった私としては、そのパーティの後、近所のワイン専門店に行って真偽のほどを確かめずにはいられなかった。すると、やはりメルローはブドウの種類で、実際にフランス産のメルローワインも何本も置いてある。店の人によると、フランスではメルローは他のブドウから作ったワインとブレンドされることが多いらしいが、「メルローはブドウの種類」という私達の理解は正しいらしい(参照)。
その次の回のホームパーティの時、たまたま我が家がホストだったので、そのワイン専門店で買った「フランス産のメルロー」を含めた何本かのワインを出して皆で飲み比べをした。すると、「やはりメルローは苦味が少ない」、「僕はカベルネ・ソービニヨンの方が好きだな」などと、皆当然のように「メルローはブドウの種類」を前提として会話をしているではないか。と言う事は、その前のパーティにおける「自称ワイン通」氏の発言が誤りだと言う事は皆が気が付いていたのに、誰も指摘しなかったのである。
情報の正しさは、多くの場合、簡単にはわからない。もちろん、相手の肩書きから、その言葉を信用することはある(そうしないと、面倒くさすぎて生きづらい)。今回のケースでは、妙な主張をしたのが「自称」ワイン通だったから、誰も信じなかった。だが反論するだけの根拠をその場で提出できる人も、いなかった。
「信じるかどうか」と「反論するかどうか」のラインは、一致していない。信じないが、反論もしない、という領域がある。その領域の広さは、信じることと反論することとのリスクとコストによって決まる。今回の文脈においては、「信じる=同意する」「反論する=疑問を提起する」と読み替えてもよい。
子どもは不躾な指摘をガンガンするし、逆に「たぶん」程度の根拠で「間違い」を指摘されることも多い。これは大人の世界と異なっている。satoshi さんが提起された問題は、指摘される側の人格ではなく、指摘する側の文化をキーとして構造を考えると、見通しが開ける。
「間違いを指摘してもらえる大人」にならなければいけないとつくづく思う。
と satoshi さんはいう。「謙虚な大人になりたい」ということだろうか。
なるほど、自称ワイン通が、「私はワインについては初心者なんですけど、以前、メルローってのはフランス語でブレンドという意味だと聞いたんですよ。本当なんですかね〜」と話していたら、「いや、それは間違いだと思いますよ」と指摘しやすかった可能性はある。かといって、本当は割と自信を持っていることについてまで、そのように腰の低い態度で主張していくのは、骨の折れることだ。現実的には限界がある。
逆に、自信満々で語っている人に対して、間違いを指摘する勇気を持つことも、単純には奨励できない。かつて「先生にも間違いがある。疑問・反論は大歓迎」と、多くの先生が語ってきた。真に受けた私は、本当に納得するまで一歩も引かずに戦うことを繰り返してきた。8割以上、私の負けである。おかげで先生方には可愛がられたが、他の生徒からは「授業妨害は放課後にやれよ」と冷笑されることが多かった。
目下の者、自分が御せる相手の生意気は、可愛い。対等の相手の生意気は、ムカつく。本来は目下の相手が制御不能の生意気ぶりを発揮すると、ぶっ殺したくなる。
自分の正しさが確実で、説得の材料も十分なら、よい。しかし確実な根拠を持たなかった satoshi さんが、疑問を口に出さなかったのは、少なくとも日本に生きる大人として当然の知恵だった。「たぶん違うと思う」程度の理由で、いちいち疑問を提出するような人は、嫌われる。謙虚さを欠くからだ。自称であれ、ワイン通はワイン通である。当人に、その自負がある。生意気なことは、控えた方が安全だ。
……そして、大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる
と satoshi さんは書いた。子どもの頃は、そうではなかったわけだ。それは何故か? と考えねばならない。
子どもの頃、私は大人が嫌いだった。ただ大人であるというだけで、よく勉強している私の主張を一笑に付すのだ。私はいちいち根拠を示して、大人をやっつけることを楽しみとした。先生方は、さすがに専門分野については、私より強かった。私の示す根拠は、どんどん粉砕された。そうして、私は先生方を尊敬するようにもなった。もちろん、その場の結論に反して先生方が間違っていたこともあり、私が周囲の大人たちに納得させた内容が大間違いだったこともある。真実の発見は難しい。
子どもは尊敬されない。だから、ただ歩くだけで拍手される。子どもは尊敬されない。だから、九九をいえるようになっただけでみんなが誉める。子どもは尊敬されない。だから、その発言は簡単には信用されない。これらは全て、つながっている。子どもが、大人からも子どもからも気軽に「間違い」を指摘されるのは、誰からも尊敬されていないからだ。
大人は大人同士を尊敬しあっている。だから、ある種の場面においては、「たぶん」では反論しないし、反論されない。この文化が消えたら、多くの人々は尊厳を傷つけられ、悲しい思いをすることになる。一昔前のお役所仕事を思い出したらよい。役人は市民をガキ扱いした。提出書類には当然、誤りがあるに違いない、という態度で接した。それで市民は感謝したか。
再会したワイン通が、また誤りを述べたなら、satoshi さんはその誤認識を指摘するだろう。だが、ワイン通の機先を制して「先日のあなたの説明は誤りでしたよ」などと話しかけることはない。それはトラブル回避策ではない。数日の間に相手が誤りに気付いた可能性の尊重であり、相手の知性に敬意を表することなのだ。
安心して「間違い」を指摘してもらえるよう、謙虚な人柄を志向すれば、自身はますます他人に指摘しづらくなる。塾や学校で子どもに接すれば、彼らの強情と生意気に驚くはずだ。彼らは素直さを摩滅させていくのではない。人格の成熟が彼らを謙虚にし、お互いを尊重する心を育てていくのだ。
「知ってたなら教えてよ」と思う場面は、たしかにある。だが、教師が生徒の誤字をいちいち指摘する熱心さがどこから生まれるか、想像するべきだ。大人は忘れているのかもしれないが、「間違い」の指摘ひとつひとつが幼心を傷つける。「間違えることは恥ではありません」その言葉は、無意味ではないが、無力に等しい。ましてや、教師の指摘の方が誤っていたら、どうなるか。それをよくわかっていながら、教師は生徒に蛮勇を奮う。どんどん「間違い」を指摘する。相手が子どもだから、許されている。
物事のよい面ばかりをつまみ食いしようとしても、うまくはいかないものである。都合のいい場面でばかり、間違いを指摘されることは難しい。(2005-12-08 改訂)
その他、補足記事がありますので、興味のある方はどうぞ。