備忘録

平成18年1月31日

0.前口上

私は「芸術」のわからない人間です。小学校6年間、絵画教室に通い、中高では美術部に在籍しました。高校では文藝部にもハマりました。芸術に、人一倍、興味はあったのです。しかしついに一度も芸術の狂気に触れることもなく、名作・傑作と名高い作品に接しても、俗なレベルで薄っぺらな「感動」をするばかりで、電撃に打たれるような感覚はついぞ味わったことがない。つまらない、小市民に過ぎません。

いま世界の片隅に、「少女単体」という芸術ユニットがあります。中心人物である苅谷文の強烈な個性に依拠したプロジェクトで、現代日本の前衛芸術のひとつの形として、某方面で話題沸騰中だといいます。本日、私は少女単体の第4公演「ロミオとジュリエット」を鑑賞しました。Folio 編集長サイキカツミのもとへ届いた招待状に誘われ、Folio スタッフとして招待客を演じることとなったのです。

この度、「少女単体」は、第4回公演を行うことにまりました。つきましては、Folioスタッフ・ライターの皆様を、ぜひご招待させて頂きたく、ご案内申し上げます。Folioのスタッフ様であれば、どなたでもご招待させて頂きますので、皆様によろしくお伝え頂ければ嬉しく思います。

本来であれば、様々な芸術に造詣の深いサイキあるいはもっと有能なスタッフが参加して、きちんとした劇評を行うべきなのでしょうが、たいへん申し訳ないことに、今回はとうとうサイキが多忙のため不参加となり、恐れ多くも私ひとりが参加することとなってしまいました。以下は、ちっぽけな価値観にとらわれた人間が、少女単体の仕掛けに困惑し、サッパリわからないが故に神聖視してきた「芸術」について、短い時間ながらじっと対峙した体験の記録です。荒れ気味の内容なので、Folio の公式レポートとすることは(少なくともとりあえずは)控えることとし、私ひとりの責任で、ここに公開します。

注:諸事情により○ミ○さんの名を伏せました(2006-02-03)

1.序

「ロミオとジュリエット」とはどのような作品か?

端的にいえば、ドキュメンタリーを演技の集積として捉え、ウソ=創作として再構成するというものです。主な登場人物はジュリエット(苅谷文・少女単体)とロミオ(○ミ○)、ジュリエットの先輩、友人、そして観客。主役二人の出会いから公演当日までの1年間余りの生活をカメラで追い続け、日々の生活を劇場の舞台とする試みであり、必然的に作品の大部分は映像で構成されます。

会場は、小田急小田原線下北沢駅前の北沢タウンホールでした。こじんまりとした場所を想像していただけに、外見からしてたいへん立派なホールに驚かされました。霧雨が降り、肌寒い午後7時に開演。私が見渡したところ、約40人が集まったようでした。男女比は3:1といったところでしょうか。スタッフは男女半々なのに客は男性中心。これは、何となく予想していた通り。

会場はスッキリと片付けられ、中心に何かが置かれていました。その周囲が空き地になっており、空き地の外郭にはテープが張られて、内部には道路のように縦横にテープが走っているのが見えました。椅子は後方に積み上げられており、大半の客は空き地の周囲の床に腰を下ろしていました。私は板張りの床に座る趣味を持っていないので、椅子をひとつとり、後方からスクリーンを眺めることにしました。

会場内の配置

そして静かに、開幕。

2.第1幕

じつは今回も私は例によって道に迷って10分ほど遅刻したので、以下の数行は聞いた話です。

冒頭、スクリーンに浮かび上がったのは粒子の粗い映像。携帯電話のテレビ電話機能で中継されている。場所はすっかり日も落ちて暗くなった住宅街、苅谷文がどこかのアパートの扉の前に立っている。中の男性と苅谷が押し問答をしているが、よく聞こえない。そして、よくわからないまま、途切れる。

用意された映像に切り替わる。第1幕、開幕。

(おそらくこのあたりで私が入場/ただし録音などはしていないので、以下は全て私のあやふやな記憶に基づきます)

2005年春、街頭でジュリエットと口論するロミオの顔アップ(おそらくジュリエット目線の映像で、それゆえジュリエットの姿は画面に映らない)。「もうダメだ、続けられない」とロミオはいう。ジュリエットはロミオをじっと見つめ、マシンガンのように言葉を繰り出す。弱音を吐き続けるロミオ、逃がすまいと食い下がるジュリエット。

場面変わって舞台は2004年12月……苅谷が○ミ○に作品の構想を語る(隠しカメラの映像?)。つらい作業になることを強調する苅谷、いや大丈夫だ、と楽観的な○ミ○。「じゃあ引き受けてくれるんですか?」不安げに訊ねる苅谷に、○ミ○は気安く請け負う。「やった! 絶対無理だと思ったのに!」カメラの前ではしゃぎ、画面外のスタッフ(?)に満面の笑顔を振りまく苅谷。彼女はこうしてジュリエットとなり、○ミ○はロミオとなった。

喫茶店(?)で語り合う二人。ロミオが「おれ所帯持ちなんだ」という。「えっ! 見えな〜い」とジュリエット。「もうすぐ子どもが生まれるんだ」「おめでとう〜」

再び街頭で口論するロミオとジュリエット。じつはこの第1幕の映像はことこさんが詳細なレポートを公開している2005年5月17日のシークレット・ライブで公開されたものと途中まではほぼ同内容だったと思われますので、以下、引用します。

場面は、どこかの地下鉄の駅。T田くんが、なにやら言っています。いわく、もう辞めたい。それに対して、カメラを回しているらしき苅谷の声で「なんで?逃げるの?」云々。画面切り替わりまして、二人の出会い。また切り替わって、辞める云々でもめる二人。もう帰るからついてくんな!byT田くん 追う苅谷。「逃げるのかー!ばかー!もう知らない!!」また画面切り替わって、二人が初めて共演しようと決めたらしき時の画像。そこでなんとT田くんえらいことを言ってました。

「自分は絶対に逃げない」「(稽古は稽古というよりも9割喧嘩になると思うと言われて)望むところです」「自分も逃げられたことがあるんで、そういうことだけはしません」

なんか、こう、鬼の首をとられちゃいましたーっていう感じたっぷりの編集です。で、また画面切り替わって、やめたい云々の押し問答。

「絶対に逃げないって言ったじゃん!うそつき!」「それは、結婚する時に「末永く幸せにします」って言ってても離婚しちゃうようなもんだろ?」「全然ちがうよ」だらだらだらだら。

そこからまた切り替わって、うまくやっていた頃の二人。幸せそうに寄り添っちゃったりなんかしています。「私のこと、好き?」「そりゃ、好き?って聞かれたらそう答えざるをえないでしょう」ひゃ、ひゃーーー!なにその会話ーーーー!私いま、何みせられてるのーーーーー!!

暗転。口論の場面。そして決裂する交渉、ロミオがジュリエットを捨てたことが語られる。優柔不断で強引さに欠けるロミオは、ジュリエットを拒否しつつも暴力的な行為には訴えることができない。「会わない」という消極的な拒絶の態度と、メールによる意思表明が続く。

3.第2幕

諦めきれないジュリエット、何とか喫茶店にロミオを呼び出すことに成功する。

場面変わってビル地下のライブホールのような空間。机を並べ、折鶴をつくる怪しい人々。2005年5月17日……そう、ことこさんが参加したシークレットライブ会場。ライブの目的は、ジュリエットの前で硬い表情を見せ続けるロミオを笑顔にすること、二人の関係を修復し、再び作品の製作を再開すること。しかし喫茶店での議論は、街頭での口論と同じ展開になり、事態は膠着。「行こうか」と立ち上がるジュリエット。

喫茶店の入り口、出てくる二人。カメラに気付くロミオ、顔が引きつる。ジュリエットとスタッフがロミオの腕をがっしりとつかみ、地下へ通じる階段へ引きずり込んでいく。

観客の前へ引き立てられ、コの字型に並んだ机の真ん中に用意された席へ座らされるロミオ。ジュリエットが寄り添う。そして VTR スタート。喫茶店でのやり取りが全て中継されていたことを、ロミオは知る。観客はみなジュリエットの味方らしく、みな口々にロミオを批判する。再びことこさんのレポートを引用。

映像の内容は若干違っているかもしれませんが、まあ大体こんな感じでした。

「辞めたいと主張するこわばった顔のT田くん」⇔「始めた当初や、うまくいってた頃の明るい顔のT田くん」というコントラストは見事でした。ひでー。すごい見世物みせられてしまった。

つまりは、T田くんは、苅谷に個人的な感情を持ってしまったんでしょうね。そして何かがあって、どこまでが作品なんだか、どこまでがリアルなんだか、全部が虚構だったんだか、信用できなくなった、と。で、それに対して苅谷は言い放つわけですよ。

「カメラがまわっている時の私は常にオンの状態だ」と。「個人的感情なんてどうだっていいんだよ。作品が走り出した以上は、走りきれって言ってるの」

で、もう、完全な平行線。個人的感情だろうがなんだろうが、とにかく辞めたい、もうやってらんない、という意志を曲げないT田くんと、何がなんでも辞めさせないという苅谷と。

で、来ている客にむかって、今までをふまえて、ドタキャンに対してどう思うか、とか一人づつ言わせ始めたりなんだりかんだり。(ドタキャンはいけないと思いマースという意見が数人から出て、どひゃーってひっくり返りそうになりました)

心情的に、T田くんの気持ちはよくわかります。当たり前だーにゃ。

ほいでもって、苅谷の主張は「わかっててやってきてるんだよ」に尽きる。何せ映像の途中に「もー私つらい」「何もかも懺悔したい」とかなんとか、携帯にむかって喋っている映像がある。すっごい下手クソな演技だ。それ絶対に、携帯の話し相手いないだろ?この映像に入れるために一人芝居して自分撮りしたんだろ?という。

苅谷が撮りたかったのは、本当に恋をして敗れる男であり、そのための擬似恋であり、なにもかも最初から計算でしたよーと、そう思わせるためのカット。でも、カメラがまわっていないところでの私は本物よ、とか言ってみたり全部虚構と匂わせてみたり。

なにもかもが仕込みでした。それを受け入れて、乗り越えて、その先にある芝居をしよう!というのが、表向きの主張。そしてそのために、「ここでT田が降りたらこの作品が終われない」という主張を繰り返す。カメラの前で。

観客の批判に抵抗する気力も萎えているロミオ。そしてスタッフがとどめをさす。「少女単体はさ、参加すると決めた時点で、現実と作品の境目がなくなるんだよね。だから参加すると決めた瞬間から、舞台の幕は上がっている。今、あなたがいっているのは、既に開演している舞台の上で、降板したいってごねるのと同じ。大人なら、やることに責任を持つべきでしょう」

シークレットライブは、ついにロミオを笑わせることなく終了した……。

だがカメラは、観客が捌けていく中、ジュリエットに気弱な笑顔を見せたロミオの姿を捉えていた。

暗転。ロミオはシークレットライブの打ち上げに参加、ジュリエットはカメラを止め、ロミオにお酒をおごる。しかし翌日、ロミオはあらためてプロジェクト降板の意思が固いことをメールで伝えてくる。ジュリエットはロミオに何度も電話をかけるが、電源を切られる。カメラに向かって延々と愚痴るジュリエット。ロミオの悪口がポンポン飛び出す。

そして、なんとカメラが喋るのだ。そうそう、ロミオなんて、くだらない男さ、ジュリエットだけでイチから作品を撮り直す方が面白いに決まっている、と。セルフ撮影のように見えて、じつはカメラのファインダーを覗いている人物がいたのだ(少なくともこの場面では)。

ジュリエットを避け続けるロミオ。「あなたが作品を作るのは勝手だけど、自分は協力しない」とメールで突き放す。もはや二人のドラマは、別れがこじれたところから壊れたレコードと化している。「先輩」に相談するジュリエット。優しい先輩はロミオを非難し、ジュリエットを擁護する。

こうして、スタッフや周囲の人々に持ち上げられたジュリエットは、ロミオの排除を決断する。

4.第3幕

2005年10月某日、ヤフーオークションの某ページを開くジュリエット。あれから約半年、ひとりになったジュリエットは全く企画を進展させることができず、あっさりロミオの撮影を再開する。しかし致命的な仲違いをした以上、もはや彼を呼び出すことは不可能だ。そこで目をつけたのが、ロミオが様々なものを出品しているヤフオクだったのである。

ロミオと面識のない「先輩」に協力を頼み、ロミオの出品しているものを全て落札させるジュリエット。その内容は……。

会場の明かりの中心にジュリエットが登場する。

ジュリエットが目をつけたのは、冷蔵庫とベビー服だった。

冷蔵庫は、「引き取り」が可能となっていた。車でロミオの家へ向かう「先輩」。ジュリエットは「先輩」の車に隠れ、カメラを回す。「先輩」と二人で冷蔵庫を運んでくるロミオ。半年ぶりに目の前に姿を現したロミオは、しかし、ジュリエットの気配に気付かないのだった。帰りの車中で、隠れている間、心臓がバクンバクンいっていたと興奮気味に語るジュリエット。

場面変わってジュリエットの部屋の中。冷蔵庫とベビー服にご満悦のジュリエット、ロミオの生活臭とともに暮らせることが嬉しくてたまらない、という演技。

そして、ベビー服に込められたジュリエットの悪意とは……。

5.謎解き

会場が明るくなり、少女単体の苅谷文が語り始める。

「ロミオとジュリエット」は失敗しました、という。本当は、会場にロミオ=○ミ○を連れてきたかったのだという。だが、説得はうまくいかなかった。ついに時間切れで決裂した最後の交渉、それが冒頭のテレビ電話中継だったのだ。

会場の空き地に描かれた幾何学模様は一体、何を意味していたのか? 「これはロミオの家の間取り図です」どよめく会場。

失敗した公演、いやしかし、まだ最後の望みがある。そのためには、会場の皆さんのご協力が必要だ、と訴える苅谷。

○ミ○の家は会場から徒歩15〜20分。みんなで家の前まで押しかけて、扉から○ミ○が顔を出し、ジュリエットとロミオが久方ぶりの対面を果たしたところで幕としたい、という。また、冷蔵庫とベビー服を○ミ○の家まで運び、私たちのメッセージを伝えたい、ともいう。

そうして、約40人の大移動が始まったのだった。

6.世田谷区某所

20時10分頃に苅谷が会場を出、観客はその後ろにぞろぞろとついていく。約15分かけて笹塚駅方面へ移動し、冒頭の中継で見た閑静な住宅街の一角に到着する。時刻は20時30分。

住宅街の狭い道沿いながら、駅から近いこともあり、人は1〜2人/分、車(タクシーばかり)は0.2台/分くらいのペースで通る。街灯が並び、道は明るいが、あくまでも住宅街の明るさだ。商店街とは比較にならない。スタッフと観客は道の両側に列を作った。警察を呼ばれるようなことは避けよう、ということで、大騒ぎだけはしないことにする。異様な人だかりに、通行人の多くが「一体なんだろう?」と不思議そうにする。第二部の舞台は、そんな場所だった。

玄関先に観客がタウンホールから運んだ冷蔵庫とベビー服を積み上げ、苅谷が呼び鈴を鳴らす。以下は id:texas_aki さんのレポートより引用(一部略)。

チャイムを押すと、細くドアが開き、○ミ○君の奥さんが応対。声しか聞こえなかったがとても普通の、落ち着いた感じの女の人だった。がすぐに扉は閉められる。(二度と開くことはなかった。)

苅谷さんは、○ミ○君宅の詳細な間取りを描いてドアの郵便受けに投函。駄目押しで、コンビニからファックス送信。

ベビー服や冷蔵庫に観客たちが寄せ書きをして玄関前に置く。

最後に平井ケンの「瞳を閉じて」を全員で合唱。ダッシュで撤収。

全員がダッシュで撤収したのは、21時10分だった。約40分間、スタッフと観客は寒空の下で肩を寄せ合っていたことになる。

7.intermission

以下、余談です。でもこっちが「備忘録」としては本題。私が思ったこと、考えたことを中心に。今日はもう遅いので、続きは明日、書きます。(→結局2月2日に公開。悪文の典型というべき無駄に長い駄文)

概要だけ先に書いておきますと、私は当初、全部ネタだと確信していたのです。映像だって、よく考えてみると、ずっと撮影していたという割には、限られた場面しか登場しない。素材が少なすぎるのですね。それをぶつ切りにして、パッチワークのように仕立てているからシーンが水増しされてる。そうか、演技の下手さを逆手にとって、「リアル」な演出をしているのだ、と解釈していたのです。

だから、***という告白もじつは虚構で、会場を屋外に移してもやっぱり苅谷さんが本当に全て責任を取れる範囲内で設計された舞台なのだと安心しきっていたのです。

けれども、レンズが入ればその向こうには観客がいることは自明であって、私たちは否応なく演技するのだ、という苅谷理論を素直に受け取ると、一般人が「現実」と呼んでいるものを、苅谷語で「虚構」と呼んでいるだけのようにも思えてきます。そして今回の公演においても、スタッフは観客を撮影し続けているのでした。ほとんどの観客はレンズの存在が気にならないようでしたが、私は○ミ○さんの家への道すがら、レンズが気になり出しました。

ラスト、苅谷さんと観客たちは、みな現場から逃げ去ります。私は、苅谷さんと逆方向に逃げ、そして現場に戻るのです。そこで私が目にしたものは何か。聞いたものは何か。

しばらく悩んだ挙句、私は苅谷さんの「芸術」に介入しました。ネタにマジレスしたんです。許せないものは許せないと、態度で示した。テレビドラマの中で殺人事件が起きても、私は作者を非難しない。虚構の世界の話だと、割り切っているからです。どうせ、自分には何も手を出せない、向こう側の世界の話だからです。そうして作品と自分自身の実生活とを切断して、アハハ、と楽しんでいるのです。けれど今回、私はそうすることができなかった。

単なるバカ、かもしれないと思います。全然わかっていない客、だったのかもしれない。自分の無才を知りつつ、芸術家の作品を壊して帰ったのは、少なくともその点において罪だと認めます。○ミ○さんの家の前でごそごそやっているときに、パトロールの警官がやってきたときの気分は、忘れられない思い出になりそう。

あんなに斜に構えていたのに、すっかり作品の世界に取り込まれてしまったんだなー、と、帰りの電車の中でぼんやりと考えました。疲れました。

8.道に迷う

時刻を遡って、会場に到着するまでの話から。

私は方向音痴、どこへ行っても道に迷う。下北沢は2度目ですが、前回に続いて今回も散々迷いました。いったんルートに乗ってしまえば、道に迷う方がおかしい、とさえ思えてきます。けれども、迷っているそのときは、自分が何を勘違いしているのか、どうしても理解できないのです。

開演時間の19時、小田急小田原線下北沢駅から「タウンホールはこちら」と書かれている出口から街へ繰り出したはずなのに、私は代沢5丁目でさまよっていました。タウンホールまでは徒歩10分、しかし私は、もう20分も歩いているのでした。いったん駅へ戻り、電信柱の番地案内をひとつずつチェックしていく。「北沢2-19」「北沢2-17」「北沢2-15」これを地図と照らし合わせ、ようやく、自分の現在地を把握しました。木の枝のような四叉路から東通りに入り、直進。無事に京王井の頭線の下を通過。よし、自分の歩いている道を間違いなく把握できているぞ。そのまま小田急線の踏切まで進む。本当は手前で狭い道に入る方が近いのだけれど、大通りを選ばなければ、きっと再び現在地を見失って、もっともっと到着が遅れるに決まっているのです。そして、見えた! 踏み切りです。後はもう簡単で、ホールまではすぐでした。

地図でもひときわ大きな面積を占有している立派な建物、目の前にすると、その威容に驚く。少女単体って、100人も入らないんでしょ? なのに、こんな立派な会場でどうするんだろう? 東口から入る。公演はどこでやっているのだろう? わからない。予定表や掲示板には、少女単体のフライヤーなどはない。あ、フロアマップを発見。えーと、ホールは2階か。階段は……見回すと、あった、ありました。電気、点いてる。ガラスの壁の向こうに、椅子に座っている人の背中が見える。あそこが受付なんだろうな。

階段の壁に、ようやく見つけた少女単体のフライヤー。ホッとしました。ここまできて、「中止です」ではたまらないと思っていました。あるいは「苅谷文はもう帰りました」とかですね。過去の公演の評判から、少女単体は小学生の冗談を具現化するといった類の「前衛」を志向しているのだと認識しています。それも倫理的に実行が抑制されるタイプの妄想に手を出す。それでも観客に何らかのパフォーマンスを見せるという方向性は堅持しているので、単なる中止はないと思いましたけれども、中止のネタ昇華(それもジョークのような方向性の)はありえるかな、などと心配していたのですね。

9.受付

受付スタッフは一人。「チケットはございますか?」「Folio として招待されていまして……」スタッフの方がたくさん並べられた封筒からひとつを選び、中からチケットを取り出す。チケットは何枚も入っていて、Folio の編集者全員分くらいありました。

入場前にご署名を、と促される。何があっても自己責任ですよ、という念書なのだそうな。大学ノートと中性ボールペンのセット。汚い字がずらずら並んでいる。フルネームで書けというのだけれど、どう見ても苗字しか書いてない人いるぞ、これ。まあいいや、と本名を書く。後で徳保隆夫と書いておいた方がよかったのかなあ、と後悔する。だって、Folio を見ても私の本名はどこにもないわけで。招待客を装った偽者みたいじゃないですか。

10.会場内の様子

受付スタッフが扉を開けてくれる。中は、暗い。スピーカー音声。「席は自由です。お好きな場所に座ってください」でも、椅子なんてどこにもないじゃないか。ほとんどみんな、床に直で座っているのでした。背後で扉が閉まる音がする。

ぐるりと中を見回すと、ホールの正面方向に大スクリーン。映っているのは苅谷文に問い詰められる優男風の男性。あっ!

そうか、ことこさんが参加したシークレットライブの完結編なのか、と理解する。そっかー、Tさんって、こんな顔してたんだ……。

しばらくはことこレポートの復習だったので、話はすんなり頭に入ってきました。それだけに、ところどころに埋め込まれた、レポートにない情報が印象に残りました。

11.不思議な観客たち

私は後方に陣取ったので、お客さんの様子も観察することができました。少女単体の客にはひねくれ者が多いと予想していたのですが、むしろ逆でした。大多数がきちんとスクリーンの方を向いていて、居眠りもせず、お喋りに興じることもなく、飲食しながら鑑賞している人もいない。ものすごくマジメなのか、それとも貧乏性で2500円の元を取ろうと必死なのか。

素直な解釈をすれば、彼らは少女単体のファン、あるいは少なくとも少女単体のパフォーマンスに無関心ではいられないファン予備軍とはいえそう。やっぱり、波長の会わない人にとってあの映像は不出来なテレビ番組でしかなく、飽きて眠くなってしまうはず。

映像編が終了し、「いまから○ミ○の家に行こう。行って、もうめちゃくちゃにしちゃおうぜ。責任はオレが取る」と苅谷が宣言した場面へ場面へ時計の針を進めます。

失敗公演を救う窮余の策に、ムッとした顔の観客も少々。この寒い中、何が悲しくて○ミ○さんの家の前まで押しかけねばならないのか、どう考えても面白くなりようがないじゃないか、そう思うのはむしろ当然でしょう。実際、ここで帰ってしまった方もいるそうです。

一方、私は「待ってました!」という気分でした。ヤフオクで落札した商品を会場に並べて見せたのは面白かったけれど、これでおしまいではシークレットライブからほとんど何も事態が進展していないのと同じで、少し物足りなく感じていたのでした。もうちょっと、何かやって見せてほしい、なんて考えていたわけです。

少女単体の公演は適当なことを繰り返しているように見えますが、一見バラバラな中にも一貫している部分があります。それが虚構と現実の曖昧化と、観客の「参加」なんですね。これは演劇の特徴としてよく紹介される、客席と舞台が同じ空気を共有する(=客席の現実と舞台上の虚構が地続きになっている)特徴を活かした手法で、発想としては太古の昔からあるものです。例えば野球場のウェーブとか、ミュージシャンが求める手拍子は、みなさんにも馴染み深いものだと思います。

5月17日のシークレットライブでも観客が舞台の進行上、重要な役割を与えられましたが、大胆な観客の巻き込みは少女単体のパフォーマンスでは規定路線、映画を流してオシマイのわけがない、と期待していたのでした。初参加だけに、あんまりひどいものでなければいいけれど……と、少しだけ不安になってはいたのですが、苅谷が○ミ○を家から引きずり出すための圧力団体として観客を利用する、という提案は存外に穏当で、助かりました。

おかしかったのは、○ミ○さんの家まで冷蔵庫を運ぶ作業がスタッフではなく観客の仕事として割り振られたことでした。本当に立候補する人がいるのか疑問だったのですが、結果的には苅谷さんと目が合ってしまった不幸な数人が、一種の超能力にしてやられたようでした。「何でオレがこんな目に」ってすごくいい笑顔なんだもの、「騙されてますよ」という気も失せるというもの。私はこの不思議な観客たちに関心を持ち、冷蔵庫運搬組に帯同して歩くことにしました。

入り口でスタッフが「いってらっしゃいませー」と声をかけるのがまたおかしい。これもまた少女単体の名物なのだそうですが、今回はスタッフも全員が○ミ○亭前まで行くのだという。彼らが冷蔵庫運搬組をサッサと追い抜いていったことには、苦笑する他ありませんでした。

12.製作日誌の謎

苅谷さんはみなを先導してはるか先へ消えてしまい、長く伸びた列の尻尾を追いかけていく体制。あー、寒い寒い、なんて考えながら、最近の多忙の中ですっかり度忘れしていた重大事実を思い出し、私は愕然としました。

2005年10月28日の「ロミオとジュリエット製作日誌」

「ロミオとジュリエット」をやることになった。少女単体初のカバー(って言わないか?)となる。いつもは自分で台本を書いて上演しているのだが、今回は勝手が違う。人様のものを拝借するのだ。

本来、舞台の裏側は見せない主義なのだが、今回に限っては、奮闘ぶりを晒した方が面白そうなので、公開する。ロミオとジュリエットなら誰もが知っている戯曲だろうし、ストーリー的な部分でのネタバレには繋がらないであろう。それよりも、オイラがどんな風にロミジュリを少女単体バージョンにするのか、というところが、きっと客の知りたい点だと思うのだ。そんなわけで、勝手に要望に応えているつもりでいる。まあ、いつものように勝手に書くので、勝手に読んでね。そして、公演を観に来てね。読んでから来ると、2倍楽しめるよ。

2005年10月29日の製作日誌

なぜ「ロミオとジュリエット」をやることになったのか。いや、別にシェイクスピアに対して、特別な思い入れもリスペクトも何もないんだけど、なんか、名作をやりたい気分になったのだ。

いつもは自分で脚本を書いてるんだけど、これが結構追い詰められてキツい作業なのだ。そして、時間がかかる。その煮詰まり具合が、今まではいい感じに転がってきてたんだけど、今回はもうちょっと、ラフに、舞台自体を楽しんでやりたいという気分だったのだ。少し自分の精神的負担を解消して、その分、楽しみの度数を上げたかった。単純に、舞台を楽しみたい。しばらく舞台から離れていたせいか、そんな気持ちになったのだ。やっぱり、オイラは少女単体が好きだし、ああゆう場にいられることが楽しいのだ。離れてみて、それがつくづくよくわかった。

ロミオとジュリエットは、前々からやりたかった。長い歴史の中で、腐るほどの人間が手を変え、品を変え、その度に新たな方法論を生み出してきた戯曲であるかどうかはよく知らないが、色んな人間にヤリまくられて、使い古しの戯曲であることは確かだ。愛されている戯曲。みんながヤリたがってる。ガバガバでボロボロなのに、まだ頑張る。元気だねぇ。そんな元気な戯曲を、引きこもりのオイラがやる、と。

そうそう、公演日だけど、なんで平日になっちゃったかっていうとね、いや、その日しか劇場が空いてなかったっていうのもあるんだけど、他にも色々と事情があったのですよ。オイラがもっと早く予定組まないのが一番の原因なんだけど、今年はね、結構、色々あって・・・・。少女単体のホームページを見てくれていた方ならわかると思うけど、予定してた公演がつぶれちゃったんだ。「来年の2月にやるよ、制作に1年掛けるよ」って謳ってたアレね。なくなってしまった。ごめん。オイラが一番悔しい思いをしているよ。スゴイものになる予感がしまくっていたから。今でもそう信じている。打ち切りたくなかった。どうにかならないかと、どうにかしようとした。でも、ダメだった。もう、どうしようもなかった。誰も悪くない。原因はすべて私にある。

とにかく、その舞台を来年の一発目にもってくるつもりで今年は動いていたから、急に足止めを食らってしまったわけなのです。それが、予定が組めなくなった一番の原因。

当初の予定がつぶれたからといって、すぐにそれに匹敵するようなものが生まれるわけではないし、どうしようと思ってウロウロしているうちに、少女単体とは別のところで仕事が忙しかったり、1ヶ月間東京から離れたりと、舞台の制作に時間がかけられなくなってしまったのだ。

んなわけで、一旦、少女単体の予定は白紙になった。

だけど、やっぱりここまでブランクが空くと、禁断症状出てきて、「やっぱやりたい!」という気持ちが高まってきて、すぐにでもステージをやりたくなったのだ。時期は、もう秋になっていた。今年中にやるのは無理であろう。なるべく早くやりたかった。もう、熟成させたものは違う気がしたし、これだけ純粋にやりたいという気持ちになっているので、その勢いを大事にしたかった。そして、その勢いに任せた方が断然面白いことは解かっていた。

というわけで、次回公演を来年の1月とムリヤリ決定させる。聖地・WENZが消えてしまったので、劇場を探すのは一苦労だった。今からでは土日はすべて埋まっているとのことで、妥協して、平日に決める。どうしても、1月中にやりたかった。ちょうど1年ぶりの公演になる。お客さんには優しくない日程だが、今のグルーヴが消えてしまう方が、よくない。ノレるうちにノる。波はそうそう来ないものだ。というわけで、みんなもノっかりに来て欲しい。

また少女単体に戻れて、本当に嬉しい。

第1部の映像編を鑑賞しながら、もともと苅谷と○ミ○の間には本当に稽古を必要とする作品があったわけではなく、パーソナルムービー風の日常生活の記録的な映像群を積み重ねていくこと自体が「ロミオとジュリエット」の企画を支える根本のアイデアだったのかな……なんて思っていたわけですけれども、この日記を思い出したら、そんな思いつきはみんな吹っ飛んでしまう。

二人にはたしかに舞台の計画があり、稽古もしようということになっていた。ところが、状況が変化した。実際にそうだったのだと思われてくる。それとも全部、日誌も含めて苅谷のウソなんですかね? いや、疑っても仕方ない。全部、信じます。

よくわからないのは、苅谷さんが10月末の時点で構想していた「ロミオとジュリエット」は、今日の公演「○ミ○と苅谷」だったのか、ということ。製作日誌の熱い言葉と実際の公演の落差は激しい。どうして10月の名作をやりたい気分が5月のシークレットライブの完結編に先祖返りしてつながってしまうのでしょうか。10月ということは、ヤフオクで冷蔵庫とベビー服を落札した時期と合致しますが……。(注:無論、映像中のナレーションを信用すればの話)

そしてもう1点、5月のシークレットライブの時点で、苅谷と○ミ○が作ろうとしていた作品の公演時期は1月だと明言されていたこと。これをどう解釈するか。

2月の公演とは別のもの、と解釈することはもちろん可能。でも、1年以上前から準備するような作品を、1月、2月に連続公演する? しませんよね。では、1月と2月の齟齬は、いずれかがフェイクなのか、あるいは何らかの勘違い。

では5月の時点で、いや、もっといえば2004年12月の時点で2006年1月の公演が予定されていたとしたら? その場合、土日に会場を押えることは可能だったはず。平日の公演になってしまったのは10月に準備を始めたからでしょう。これを簡単に「段取りの悪さ」と説明してよいのでしょうか。あるいは、平日と休日では会場のレンタル料が違っていて、客入りの予想から平日を選択したという可能性もありますね。

製作日誌には、その後も不思議な記述がどんどん出てくるのでした。

2005年12月22日の製作日誌

日記が遅れてしまいましたが、出演者は決定しました。で、今週から稽古開始。いつも一人で色々考えてやってるので、今回は勝手が違う。ちょっとやり辛い。

どうも、役者さん側ってのは、自分がオイラの意図だとか方針だとかを、すべて理解した上で演技しないと気がすまないようなのだが、別にわからなくていいのだ。それを何回言っても、わからないらしい。

2005年12月24日の製作日誌

今日の帰り際、出演者のY君からボソっと言われたひとこと。

「あの、ブログ、読みました。ちょっと傷つきました。」

2005年12月27日の製作日誌

夏以降、オイラは急に少女単体を放り出して、他の仕事に走った。その仕事が面白かったという理由もあるけど、元々、予定していた次回公演がつぶれたということもあって、そのことで深く悩んで、まあ、オイラとしては、そのショックが結構デカかったのだ。オイラ、もう何かを創造できる立場じゃないんじゃないかと。そのことで、すごく悩んで、苦しかった。自分ひとりでやっているので、こんな時に相談する相手もいないし、励まし合いもできんしね、オレのやる気がなくなれば、少女単体はジ・エンドなのだ。

そんな時に、ちょうどタイミングよく(?)別の仕事が入ってきてくれて、そっちに力を入れないといけなくなった。そんな訳で、ちょっとここいらで少女単体を離れてみるのもよかろうと思ったのだ。離れてみて、それでもまたやりたいと思ったら、やればいい。とりあえず今は忘れよう。そう決めてからは、少女単体のことは、本当に何もしなかった。

んでまあ、みなさんご存知の通り、北海道ロケに出させてもらったりだとか、あとは、まだここでは公表できないけど、他にも色々仕事を頂いたりして、そっちを一生懸命やってみた。んで、その仕事が一段落した時、オイラの気持ちは再び少女単体に向いていた。とても自然なことだった。これでいい、と思った。

まあ、そうゆうことも含めて、色々と内容が変更したことなどをスタッフにはまだ何も報告していないのだ。今日まとめて話すことになって、みんなには迷惑をかけてしまう。申し訳ない・・・予定していた公演の打ち切りを決めた事と、また一から新しいものを創るつもりなのだということを、今日話そうと思っている。まあ、みんなのリアクションは「あ、そうですか。で、何やるんすか?」しかないだろーけど、オイラとしては、ここ半年で散々悩んだ末の答えなのだ。

2005年12月28日の製作日誌

全然、忘年会なんてもんじゃなかった。ふつーに打ち合わせをした。オレは珍しく真剣に話をし、みんな真面目にそれを聞いてくれた。なんかちょっと感激して、「オレ、しっかりしなきゃ」って気持ちになった。

2005年12月29日の製作日誌

出演者のみんなに、田舎に帰省したいかどうかと訪ねたところ、全員、「別に」という反応。まあ、この時期に稽古するってんだから、そうゆうもんだと思ってみんな参加してんだろうけど。そんじゃ、コレがなかったら、通常は田舎に帰ってんのかと訊くと、それは五分五分。あーそう。

2005年12月31日の製作日誌

2005年も今日で終わり。今年はたくさんの方々にお世話になり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

と、書いたものの、オイラ、「ロミジュリ」が終わるまではオイラは年を越せないのだ。

年末年始はスタジオが休館なので、この間の稽古は、出演者の自宅で行うことになる。部屋で出来ることは限られてくるので、地味なことしかできないんだけど。それでも面白そうだ。ちなみに、オレんちは使わないよ。オレんちは、自宅兼事務所になっているので、稽古向きじゃないのだ。今回は割と生活感のある内容になるので、普通の部屋で稽古した方がムーディーだと思う。色々面白いネタを用意していこう。

……もちろん、「ロミオとジュリエット」製作日誌と銘打たれているからといって、今日の公演の準備だとは限らないのですが、ふつうに読めばそう読めるわけです。そして連日、ものすごいエネルギーを投入して何かを準備していたことがわかる。本当は裏でものすごく頑張っているのに、表向きはそう見せないのが少女単体の流儀なのかもしれませんが、少なからぬ観客は、こうした日記と実際の公演とを見比べて疑問を感じるのではないかと思います。

また、10月末になるべく早くやりたかった。もう、熟成させたものは違う気がしたし、これだけ純粋にやりたいという気持ちになっているので、その勢いを大事にしたかった。と書いているのでアイデアが本流のように湧き出てきたのかと思ったら、実際に話がまともに動き出すのは12月下旬。このブランクは何?

ともかく結果的に、「ロミオとジュリエット」はシークレットライブの完結編という形で公開され、他の話は何一つ語られない。これはこれで話は一貫しているのですが、周辺情報を突き合わせると、また別のものが、ぼんやりと向こう側に見えてくるような気がするわけです。シークレットライブは全て仕込みネタだったのか、それとも現実を虚構に引きずり込んだものなのか? 幻の2月公演と○ミ○は関係ある? ない? 全然、別の話とも読めるし、ずぶずぶに関係しているようにも読める。

こうした疑問はすべて、果たして今日の公演、ひいては5月のシークレットライブは、いったいどこまで作られた世界だったのか、という私の素朴な疑問に直結しています。いろいろ考えたら、頭の中が少女単体の情報でぐるぐるになって、ぼんやりしてしまいました。

13.観客たちの余裕

他の観客はどう考えているのかと思って数人に意見を訊ねたところ、「すみません、日誌までは読んでないんです」……劇場に来て2500円払うのは面倒じゃないのに製作日誌を読むのは面倒らしい。そりゃそうかもしれないけど、と食い下がると、「それが少女単体のいいところでしょう」だって。さらに「入り口で自己責任って名前も書いたしね」ともいう。いや、あんなものひとつで何でも免罪しちゃっていいわけではないと思うのだけれど、そっか、気にしていないんだ、と納得。

しかし観客はそれでいいとしても、苅谷さんやスタッフにとってはこの状況、逆に不自由かもしれない。今回の公演では、苅谷さんの制約は警察と会場の明け渡し期限という、娯楽活動のテーマにしづらいものだけ。「そんなこと、やっちゃっていいの?」という線を狙っていくパフォーマンスなのに、観客側が「何でもいいよ」「ボクは文ちゃんのすることならオールオッケー」という構えでは、駆け引きが成り立ちません。

さりとて「駆け引きなんて面倒くさいじゃない、用意された舞台で、脱法行為めいたことをみんなでやる(=演技する)楽しみがあれば、それでいいんですよ」というほど割り切っているようにも見えず、何だか釈然としませんでした。

どうもね、ほとんどの観客は、少女単体がどれほど頑張って現実と虚構の境界を曖昧にしようとしても、「所詮、全部ネタでしょ」と高を括っているように思えたんです。だから、目の前で本当にひどいことが行われようとしていても、通常の倫理観をいとも簡単に切断して、「あははー」と楽しんでしまう。

本当に準備に苦労したの? と疑問に思えるような公演でも2500円が高くないとすれば、それはおそらく、このような形で場が設けられなければ一般人が一生、実際には体験できないであろうことに参加できる、そのチケット代だと思えばいいのかな。

これが「ロミオとジュリエット」第2部・街頭編のエンターテインメントの基本構造。いわゆる「愚劣なテレビ番組」の発想ですよね。ただし少女単体は、これを心の離れた元パートナーに対するリアルないたずら、「ネタじゃなくてマジですよ」という装いのもとで実行するわけです。(注:こうした手法自体は新しくないものの、私がその現場に立つのは初めてのことで、それが以下の展開に影響します)

14.レンズ

少女単体の公演では、毎回のように観客席をカメラが捉えています。入り口の念書の本当の狙いはこれなのだろうと思う。ふざけたことに、目線もモザイクもなしに観客を映したシーン満載の DVD が堂々と販売されてしまっているのでした。今回のような、何だかんだいっても演者と観客の関係が比較的明瞭な作品ならともかく、大胆な巻き込み型作品の場合、まさに観客の即興が記録映像の華となっていくわけで、常識的には「冗談じゃない」と怒るところなのでしょう。

私が話をした10数人の過半はリピーターでしたが、4人くらいは初めての参加とのこと。その内のひとりは「勝手にカメラを回すなんて、ありえないですよね」と嬉しそうでした。あー、やっぱり世間のルールを破ってみたいという欲求、脱法的人間の存在自体が救いになるタイプっているんだなー、と感心してしまいました。だって、彼は被害者なんですよ。きっとあんな顔やこんな顔を、後で DVD にしてばら撒かれてしまうのです。なのに嬉しそうなんだもの、おめでたい話ですよね。

そんなことを思っていると、冷蔵庫運搬班を撮影しにスタッフがやってきました。冷蔵庫組ははじりじりと遅れ、どんどん先を行く人々の背中が小さくなっていく。

カメラスタッフの人に「行き先はご存知なんですよね? はぐれたらついていこうと思っているんですけど」と話しかけてみると、「いえ、私も行き先は知らないんですよ」と答えたので「ええ〜っ!」と大声を出してしまいました。そんな私を、じっとみつめているレンズ。

今、私はこのレンズに向かって演技をしていたのだろうか……。ふと、心にそんな疑問が浮かびます。途端に歩き方がぎこちなくなる。どうせ DVD に収録されたとしても50人だか100人しか見ないのだし、大勢いる観客のひとりに過ぎない。誰も気にしちゃいない。コンビニの監視カメラと変わらないじゃないか。自分に言い聞かせるための言葉が頭の中をマシンガンの銃弾のように飛び交う。

結局、30秒かそこらで慣れて気抜けしてしまったのですが、レンズの向こうには観客がいる、カメラがあるときの私はいつもオン状態という苅谷さんの発言が、思い出されます。

そして今、私たちは好奇の視線を浴びながら世田谷区の住宅街を歩いています。不躾にこちらを指差してひそひそ話をする人もいます。「いったい何なのかしら?」「お葬式にしちゃ服装が変ね」こちらに聞こえるように話しているのか、地声が大きいだけなのか。もし前者だとすれば、私たちを一種のパレードとみなすことができるように、おばさんたちもまた路上パフォーマーとみなすことができそうです。この「みなすこともできる」という考え方は、重要かもしれない。

私たちは常に無意識に何かを演じていて、レンズは観客を意識させる小道具。レンズがなくても、私たちは演じている……?

ドキュメンタリー作品としての「ロミオとジュリエット」は、素を撮りながら、演技・演出・ウソ(=創作)を見出していくものではなかったか。だがしかし、観客は少女単体の企みを見抜いて「どうせ俺らは安全圏ですから。マジを装ったネタでしょ。そうとしか思えないじゃない」と高を括っているわけです。けれども、私は逆に、それは単なる考え過ぎといわれるかもしれないけれど、次第に不安になっていったのです。

苅谷文の言葉は、全部、本当なのではないか。そして、見たまんまの解釈もまた、正解なのではないか。さっきも日記の内容を思い出して、決めたじゃないか、疑っても仕方ない、ならば信じよう、って。しかしそれは堂々巡りへの入り口に過ぎませんでした。

私の眼力は人並み外れて低級なので当てにはならないけれど、苅谷さんの演技は全部、演技になっていないように見えました。だから、「カメラの前の言葉は全部ウソ」とは、苅谷さんの定義する言葉としての「ウソ」なのであって、一般的には「本当」のことなのかもしれません。

視界の隅に入ったレンズに無意識で反応して大声を上げたこと、明確に意識して足がもつれたこと、これらはほとんど動物レベルの話だから、役者の精神世界を推察する根拠としては低俗すぎるのかもしれないけれど、レンズが世界に干渉して作り上げた映像だという意味で、ドキュメンタリーは「ウソ」なのかもしれない。仮にそうだとすれば、ウソだといいつつウソに見えない映像、ネタを示唆しつつマジの装いを崩さない世田谷の行進は、いずれも……?

15.冷蔵庫を運ぶ理由

わざわざ冷蔵庫を運んで、私たちは何をしようとしているのだろう?

はっきりいってしまえば、○ミ○さんに嫌がらせをしようとしているのです。何故、私たちはそんなことを手伝いたいの? ○ミ○さんの家をめちゃくちゃにしたくなんてないよ、少なくとも私は。苅谷さんが責任を取るからいいんだとか、そういった問題じゃなくて。

ロミオとジュリエットが決別した経緯を描く映像は見ました。もし○ミ○さんがとんでもない悪党で、絶対に許しておけないような人間だったなら、これくらいはやっても……いやいや、それはおかしいな。冷蔵庫を運んで何になるのか。それに気に入らない人間を私刑に処すことの是非は?

苅谷さんの周囲の人間は、なぜか苅谷信者ばっかりみたいだったけれど、ていうか、何で映像の中で苅谷を慰めて○ミ○の悪口をいう登場人物は男ばっかりだったんだ? スタッフは男女半々じゃないか。くそ、まじめにドキュメンタリーの手法で作った映像ならすごく嫌だし、苅谷さんの創作なら、それも嫌だと思った。醜いよ、あれは。その話はまあいいや、今は嫌がらせのこと。

多分、こういうばかげた話に大勢の観客が付き合っているのは、マジなようでネタだと決め付けているから。その決め付けに、どんな根拠があるというのだろう。最初から「真実」を決め打ちして、都合のいい説明を言い訳代わりに考案しているだけでしょう。

私は冷蔵庫班と話をしているだけで冷蔵庫を持っていない(空の段ボール箱は持たされてたけど)のでまだいいですが、初めての参加で2500円ちゃんと払って冷蔵庫を持たされてた人は、顔が泣き笑いになっていました。教祖・苅谷文様の掌の上でもがく、か弱き信者たち。スタッフが前方からやってきて、「苅谷さんから激励の言葉をいただいてきましたよ」なんて報告する。あ、お前、そんなんで喜ぶなよ! あーあ。

伝令はさっさと帰ってしまい、素材を撮り終えたカメラスタッフはとっくの昔に前方彼方へ消えている。後に残されたのは、黙々と冷蔵庫を運ぶ観客数名だけ。道案内くらいいてもいいだろうに、と恨めしく思うが、スタッフ自身が行き先を知らないのだから仕方ない。スタッフも苅谷の姿を見失うわけにはいかないのです。

しばらく1本道が続きましたが、とうとう道が5方向へ分かれる交差点に到達。しんと静まり返っている。寒い。コンビニの明かりだけが暖かい。みんな、どこへ行ったの? 私たちは、途方に暮れました。

こんなに頑張って冷蔵庫を運んで、しかもそれが誰のためにもならない、単なる嫌がらせの道具でしかない。悲しいよ。そしていじめっ子たちの女王様は足の遅い奴隷のことなんかもう忘れているんだ。ひどい公演だ。こんな役を演じたくて、みんな集まったのか。ところが、黒い棺のような冷蔵庫を運んだ内の一人は、以前も別の公演でこの手の無償労働に従事されたのだそう。その体験を語る楽しげな様子には参りました。

けれども、こんな状況に参っているのは私だけで、みんな「道案内も立てない少女単体」の悪口を楽しんでいて、悲壮感がない。やっぱりここでも、本質的に「俺たちは客。こんな見知らぬ街で冷蔵庫と一緒に捨てられたりはしない」と、言葉には出さなくても、そう信じているらしい。前衛芸術がこんなにナメられていていいのか。というか、もし彼らの思っている通りだとすると、冷蔵庫運搬も「楽しいイベント」のひとつに過ぎず、客は「参加ごっこ」を面白がっているだけで、その内実はあくまでも「お客さん」でしかない。

少女単体がいくつかの公演を通じて展開してきた観客参加は、エンターテインメントのためのサービスでしかないのでしょうか。

のんきな観客たちに「お前ら、そうやって余裕かましてるといつか寝首を掻かれるぞ」と憎まれ口を叩きたかったのだけれど、当然のように正しかったのは余裕かましてる観客の方。ノーマークだった路地からスタッフがやってきて「すみませーん、こっちでーす、ほら、あそこが目的地です」と案内してくれ、冷蔵庫組も無事に○ミ○さんの家の前へたどりついたのでした。

16. アパートの前で

アパートの前に到着したのがだいたい20時30分頃。結局、アパートの前で過ごしたのは約40分間なのですが、正直いって、何もしていない時間が大半でした。私を含め社交性の低い人間が多く、友人と連れ立ってきた観客以外は、ただただ寒さに震え続けるばかりでした。

ともかく、まとまらない考えをぐるぐるするには十分な時間があったわけです。

なるほど、他のほぼ全ての観客が確信している通り、これは仕込みなのでしょう、常識的には。5月にシークレットライブがあり、10月に北沢タウンホールを押さえ、ホールから徒歩15分(冷蔵庫は約20分)の位置に○ミ○さんが暮らしている。偶然にしては、でき過ぎています。

5月の決裂からしばらく少女単体が休眠していたのは、他の仕事をしていたからだそうです。これも都合がいい話。他の仕事をする間、ドキュメンタリー風の作品「ロミオとジュリエット」を中断する口実が必要だった、だから仲違いを演じた……。二人の関係が「終ってる」様子をライブ仕立てで演出し、面白い素材を手に入て、参加者の記憶にも都合のよい事実を刻み込んだのでした。無論、観客も阿吽の呼吸で空気を読み、「そういうことにしておく」と聞き置いたのです。

よくよく考えてみれば、2004年の12月から撮影を始めているという割に、素材が少なすぎます。長回しの素材を細かく刻んで並べているから、一見、多くのシーンから構成されているかのようです。しかしそれは見せかけに過ぎない。本当に数ヶ月もの間、まじめに映像を撮り貯めていたはずがない。

……というのが、まあ、常識的な見方なのでしょう。苅谷さんが、面白げなことをやってみよう、お見せしようという、利他的なエンターテナーなのであれば、この線で正解なのでしょう。

けれども、私は、苅谷文さんは「芸術家」なのかもしれないじゃないか、と、そう思う。照れ隠しやカッコつけでなしに、本当に自分のために、あるいは自分の信じる何かのために、活動している人なのだとすれば、この状況の見え方はまるで変わってくると思う。

苅谷さんが少女単体でやりたいことは、自分なりのやり方で大勢の人を喜ばせることではなく、少女単体が客を集めるのは、客なしでは成立しない「芸術」を実現するため。そうだとすれば、苅谷さんは、観客を騙すことを躊躇しないはずです。

これが実話なら間違いなく刈谷は罪に問われるので(○ミ○の実名は無論携帯番号もスクリーンに映し出した)、多分フィクションなんだろね(が、何せ途中で帰ったモンですから分かりやセン)。

これは Jorge さんの感想なのですが、現場をそのまま見せた結果、逆に多分フィクションと錯覚する、という可能性もありますよね。何をやっても「ま、ネタですから」でのほほ〜んとしている観客は、もともと「これは虚構の世界」という強い固定観念を持っているので、まじめに作った映像にもどんどん不備を見出し、ますます「やっぱり虚構だね」と精神を弛緩させていく。「現実」って、そんなにリアリティたっぷりのものでしたっけ?

少女単体の公演なんだから、これもありなんだよと無理やり自分を納得させて冷蔵庫を運んだ観客はもちろんのこと、自転車の空気を抜くような小学生レベルの嫌がらせをするために住宅街の一角に集まる大人約40人、しかもみんなお金を払ってそんなことをやっているという、そんな話のどこにリアリティがあるの?

補記

Jorge さんの抗議を全文引用します。

少女単体をレポートしたあるサイトで私のブログ内の発言の一部分が誤解を誘発するような形で恣意的に引用され誠に遺憾である。私は少女単体の今回の出し物中これは「本当」ではないかとずっと思っていた。だからこそ刈谷を先頭に観客が某氏のアパートへと押しかけるためにタウンホールから外に出たときに帰ったのだ。上演されたビデオの内容自体には怒りさえ感じた。ただし、これがフィクションである可能性も否定できずどうすることも出来ないので、私は「行かない」という行動によって自らの立場性を選択したのである。現実であろうとフィクションであろうと、今回の出し物は他人のプライベートを覗き見る悪趣味なものであるばかりでなく、自分とは関係のない他者の人生の破綻(の可能性)を見世物として提示する極めて悪質なものであり、それを見物しようと刈谷の後を嬉々として追っていく行く客たちを見ていると、他者の不幸を窃視することによって快感を得るのかと思い吐き気がしたくらいである。現実であろうとフィクションであろうとに関わらず、そうしたことへの加担を拒否し抵抗する手段として「行かない」という行動を取ったのだ。上記サイトはある雑誌の取材だったらしく最後まで見物したらしいのだが、それは、たとえその場でいくら良心の呵責を感じようが、すでに悪質な出し物に最後まで付き合うという「行為」を選択したことによってすでに他者の人生の破綻を見世物にするという現代の歪みを象徴するイベントに加担したことになるのであり、まさにその「行為」によって罪に問われることにもなるだろう。例えば、日ごろいくらフェミニズム的リベラルな発言をしていても、行動がそれとは異なっていたら、すでにその時点で男性優位主義的イデオロギーに加担していることになるのと同じことである。読者をミスリーディングするような浅薄かつ恣意的な引用は止めて頂きたい。刈谷文を「芸術家」かもしれないと言ったり、「自分の信じる何かのために、活動している人」だと仮定するのだから、手に負えない(招待券をもらっていることを差し引いてもである)。演劇はここまでどうでもいいものとして扱われているのかと思うと、演劇ブログ管理人として落胆せざるを得ない。

以下のような通常とは異なる書き言葉を用いたのは、ブログという小さなメディアに於いてさえも倫理的観点から少女単体の悪質な見世物に真面目に応答すべきではないと考えたからである。紹介記事を書いたのはその酷さを告発するためである。

私は多分フィクションなんだろね。というワンフレーズがほしくて引用したのですが、Jorge さんによれば、これはフェイクで、じつは私は少女単体の今回の出し物中これは「本当」ではないかとずっと思っていたのだという。またこれは私の引用していない部分ですが、まあ、実話にしろ虚構にしろ、どっちでもいーんで途中で帰ったわけだけど。というのも、上演されたビデオの内容自体には怒りさえ感じた。ただし、これがフィクションである可能性も否定できずどうすることも出来ないので、私は「行かない」という行動によって自らの立場性を選択したのが実際のところなのだそうです。

「説明しなきゃわからないのか」と呆れられるかもしれませんが、「フィクションの確信」を持っていた観客が大多数でしたので、素直に字句通り受け取ってしまった次第です。失礼いたしました。抗議文の全文引用により、誤解の危険性は解消されるものと考えます。

なお誤読の指摘以上の部分については同意しかねる部分が多いことを付記します。

17.肉まん

苅谷さんが呼び鈴を鳴らし、「いい加減にしてください」と○ミ○さんの奥さんにいわれて事態は膠着。大騒ぎはしたくない、という苅谷さんの意向もあって、さて困った、と。せっかく運んできた冷蔵庫の話も、まだしていない。○ミ○がちょっとでも顔を出したら、冷蔵庫を見せてお終いにします、みたいなことをいっていたのは、どうなったのだろう。

苅谷さんが、スタッフなのか観客の一人なのかよくわからない女性に、修正ペンと油性マジックを買ってきてくださいと頼みました。そういえば、すぐそばにコンビニがあるのでした。

寒いし、お腹すいたし、話が進まなくなっているし、こうなったらまず食事だな、と思う。

買出しに行った人の後を追うような形で、コンビニへ行きました。肉まんと飲み物を買う。さすがに他の観客が震えてる中、一人あったかいものを食べるのも気がひけたので、肉まんはコンビニの周囲の空き地ですぐに食べてしまう。飲み物だけ持って、戻りました。食欲の問題が片付き、寒さも気にならなくなったので、少し、頭がクリアーになったような気がします。

18.講釈

苅谷さんはもう○ミ○さんを外に出すことは諦めたようで、あとは嫌がらせの工作に励むつもりらしい。冷蔵庫に修正ペンで、ベビー服に油性マジックで寄せ書きをすることを観客に指示。何だかんだで10数人が何かしら書いたように思う。つるつるの冷蔵庫の表面に修正ペンで字を書くのはかなり面倒くさく、毛足の長いふわふわのベビー服に油性マジックで字を書くのも、かなり苦労が必要なようでした。

大半の観客はひたすら手持ち無沙汰で、ぼんやり状況を眺めていました。

やっぱり住宅街の一角に、通行の邪魔にならないよう道の両側に寄って立っているとはいえ、40人くらいの人が集まってアパートの玄関の方を見ている情景は通行人の関心を呼ぶようで、通行人の8割以上は「何だろう?」と不思議そうにしていました。でもやっぱり、何となく怖いのでしょうね。足を止めてジロジロ眺め回してさえ、湧き上がる疑問を解決しないまま、みな立ち去っていきます。

そんな状況を初めて打破したのが、紳士然とした中年のおじさん。

若い女性と寄り添って駅方面から歩いてきたのですが、二人ともこの異様な状況に興味津々。「これ何?」と女性に訊ねられて「わからない」と答えるおじさん。ほとんど止まるくらいに歩みを緩め、名残惜しそうにしながらも、いったんは現場を離脱していきます。そして少しはなれたところで立ち止まり、ちらちらとこちらを見ながら話している。

面倒くさがりの私もさすがに親切心を起こして、私なりの謎解きをしようと思いました。と、おじさんがこちらへ歩いてきたのです。期待してその背中を見ている女性。いやー、やっぱりカッコつけるのも悪いことじゃないね。おじさん、勇気を出したんだ。私もおじさんに歩み寄ります。顔を向けて、目を合わせて軽く笑顔を作る。少し右手を上げる。(思い起こしてみると何だかヘンなのですが、私なりに声を掛けやすい人物を演じたつもり)

「あのー」「どもー、アレが何か? ってことですよね?」「ええ、そうです。何なんですか?」「じつはですね、路上劇、街頭劇のようなものなんです」「ははぁ」「第1部を北沢タウンホールでやりまして」「下北沢の?」「そうです。それで、第2部はここに舞台を移して行うということで、私たち、歩いて移動してきたんですよ」「それはたいへんですね」「ええ。今、そこのアパートの中に役者がいまして、玄関先で公演をやるということになっているのですが、役者が準備ができていないようで、まだ出てこないのです。仕方ないから、観客もこうして寒い中、待っているわけですね」「ところで、路上劇って何ですか?」「う〜ん、よくわかりませんが、演劇の舞台を日常生活の中に移すという、前衛的な演出だと思いますね」「あなたは関係者の方ですか?」「いえ、私は招待客です。ただ、集まっている方の大半は、ふつうのお客さんのようです」「ありがとうございました」「いえいえ」

おじさん、後ろを振り返って「……だって」という。いつの間にか、女性が後ろで聞いていたんですね。私はおじさんと同じ方向、つまりアパートの玄関の方を向いて話していたので、全然気付きませんでした。

得心した様子で話をしながら歩み去っていくふたりを眺めながら、少しだけいいことをしたような気分になりました。あと、やっぱりこの演出は、地域住民に要らぬ不安を撒き散らしている点で反社会的だな、とあらためて実感しました。

それにしても、少女単体の「芸術」を勝手に「路上劇、街頭劇」などとカテゴライズし、第3者に講釈してしまってよかったのかなあ。

ともあれ、私は嫌がらせにこれ以上加担するのはお断りだなと思いました。

19.探索

状況の再チェックをすることにしました。

まず、現在地。アパートの壁に古ぼけたプレートが貼られており、世田谷区**1丁目**番地とわかる。地図で確認し、ホールからここまでのルートを確認すると、なるほど間違いない。ここは間違いなく**番地です。

次にアパートの様子をチェック。2階建て、個人住宅がびっしり立ち並ぶ東京らしい狭苦しい住宅街の中に建てられた、2階建ての小さなアパート。○ミ○さんの家は道路側の窓の雨戸が閉じています。上の階の住人は既に帰宅しており、カーテンと磨りガラスの向こうに、時々人影が見られました。下の階の玄関先へ大勢が集まっているので、不思議に思われたことでしょう。

○ミ○さんの家の扉を見ると、「*** works ○ミ○」の表札がつけられていました。その汚れ方は扉の様子と一致しており、昨日今日、取り付けられたものとは思われません。それほど厚い扉ではないだろうに、中からは物音ひとつしませんでした。

アパートの裏もまたアパートで、○ミ○さんの部屋の付近は駐車場となっています。そちらへ回って、裏からアパートの様子を確認することにしました。まず、煌々と明かりが点いていることを確認。ただしこちらも磨りガラスなので、中の様子はわかりませんでした。そして、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。部屋は○ミ○さんのところで間違いありません。○ミ○さんの家に赤ちゃんがいるのは、本当のことなんですね。

再び人が集まっている玄関側へ戻り、今度はスタッフに質問。

「動きが止まってしまったようですけど、段取りでは、どうなっているんですか?」「そうですね、少女単体の公演では苅谷が状況を見ながら臨機応変にやっておりますので、私にはわからないんです、すみません」「スタッフの方は、会場まで車でいらしているのですか? それとも電車?」「徒歩です」「えっ、ということは終電関係ないんですか……」「いえ、片付けと施錠をしないで出てきてしまったホールの明け渡し期限が午後10時までなので、それまでには戻ることになると思います」「なるほど、戻るのに15分かかりますから、遅くとも9時半には終ると」「ええ、ただ、もう少し早くなるかと。だから、そろそろだと思います」「ありがとうございました」

時計を見ると、21時を回っていました。

玄関先の様子を見て、私は言葉を失いました。扉には「家内安全」と書きなぐった紙がテープで貼られています。その前にはたくさんのいたずら書きがされた黒い小さな冷蔵庫が置かれ、その上にミカン箱が置かれ、一番上には、たくさんの書き込みで薄汚れた赤いベビー服が掛けられています。今まで、あまり気にしていなかったベビー服、その赤い生地は黒いペンのインクで汚され、ひどく禍々しいものに見えました。

私が連想したのは、赤ちゃんの**でした。いったんイメージが頭に焼き付いてしまえば、段ボール箱も冷蔵庫も、中に**が入っているように見えてきます。ひどい、これはひどいと思う。

全部ネタです、外で何が行われているか、中の○ミ○さんはご存知です。○ミ○さんの奥さんなんて、いません。そういう役の女優がいただけです。赤ちゃんの声はテープレコーダーです。そうかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれないじゃないか。そういうこと、気にならないの?

○ミ○さんには奥さんがいて、2004年12月か2005年1月に赤ちゃんが生まれて、今、その子は家の中で泣いている。もうハイハイするようになっているから、人型寝袋のような乳児向けのベビー服は不要になったのでヤフオクに出した。売れた先のことは考えていなかったろうけれど、漠然と、どこかで生まれた可愛い赤ちゃんのために使われているのだろうと、そう思って安心していたんじゃないか。それなのに、可愛い子どもが着ていたベビー服は気持ち悪い女の手に渡り、汚されて玄関先に放置される。

気付くのが明日の朝なら、夜露にぬれて、もっとひどいことになる。しかも冷蔵庫は扉に寄せて置かれている。だから扉は開かない。軽い冷蔵庫だから、力を入れて押せば動くでしょう。ただし玄関先は僅かに斜面となっています。冷蔵庫は倒れるかもしれない。そうなればダンボールは転げ、ベビー服もぼろきれのように放り出されます。(私がそこから連想するものについては、あらためて書きません)

苅谷さんのお話の通りなら、○ミ○さんには一時の過ちがあったのかもしれない。しかし奥さんと赤ちゃんには何の罪もない。それに○ミ○さんに罪があったとして、もう少し良心的な嫌がらせの手段があったとしたって、私たちに何の権利があって、それに加担していいといえるのだろう?

○ミ○さんは、概ね話を承知されていたとする。役者の妻って、こんなことまで耐えなきゃいけないのか。役者の子って、こんな扱いに甘んじなければいけないのか。

けれど、40人くらいの観客は、それでもやっぱり苅谷さんのパフォーマンスに、まだ愛想を尽かしていないし、ここまでの進行に異論もないようです。私がもう少しだけ、我慢すればいい。彼らは私のスタンドプレーを見に来てるわけじゃない。

それに、私は苅谷さんの「芸術」に手を触れてしまうことを、恐れていました。虚構と現実の境界を曖昧にするのが狙いの作品なのに、私が現実説に一方的に加担して、引っ掻き回し、作品を破壊してしまうことを恐れました。

20.破壊

苅谷さんが、「平井堅の『瞳を閉じて』をワンコーラスだけ大声で歌って、ダッシュで逃げます!」という。これで解散なのだそうだ。せーの、で歌い出す。「ひーとみーをとーじてー♪(以下略)」

「逃げろー!!」ダダダダダッ(下北沢方面へ観客ともども走り去る)

……。

私は、みなとは逆の笹塚駅方面へ、トコトコ駆け出す。苅谷さん、スタッフのみなさん、お疲れ様、という気持ちを込めて、いちおう、走るには走りました。

コンビニがあるのは笹塚駅方面です。とりあえずコーヒーを飲み、ゆっくり現場へ戻りました。

誰一人、残っていない。道の彼方まで、見事に誰もいない。さっきまで断続的に現れていた通行人もみんな仕込だったんじゃないかと疑いたくなるくらいに。ついさっきまで、ここに40人くらいの人が集まっていたなんて、誰も思わないでしょう。

○ミ○さんの家の玄関先に置かれた異様なオブジェだけが、少女単体第4回公演の会場がここだったことを、主張していました。閑静な住宅街。静かな夜。どこにでもある、静かな夜。街頭の薄明かりの中、それは静かにうずくまっていました。

何も入っていない冷蔵庫、空の段ボール箱、主が成長して抜け殻になったベビー服。黒、茶、赤の取り合わせ。大の字に広げられ、文字で表面を埋め尽くされた赤い服は、呪文に絡み取られ、祭壇に捧げられた生贄のように見えました。これが、苅谷文の作品なのか。「芸術」なのか。

一歩、二歩、近付きます。すると、かすかに、かすかに聞こえてくる……ああ、赤ちゃんが泣いている。

私は、何をしているのだ?

今、問題は、先ほどまでここで行われていたことが、ネタだったのか、マジだったのか。判断がつかないことでした。

とりあえず、待とう。ネタなら、スタッフがオブジェの回収にくるでしょう。あるいは、○ミ○さんがゴミの片付けをしに現れるのだと思う。21時30分まで、待つことにしよう、と思いました。

けれども、もしこれがマジで、21時30分になる前に奥さんが様子見に顔を出したら、どうなるだろう?

私は私の倫理観において、汚されたベビー服だけは見せたくない、と思いました。そこで私はベビー服を**することにしました。後で戻せるように、まず現在の様子をしっかり頭に叩き込む。よし、大丈夫。

そうして○ミ○さんの家の玄関先でごそごそやっていたとき、とある音が気になって道路に顔をひょいと出すと、自転車でパトロール中の警官が! うわ。慌てて顔を引っ込めたのだけれど、何でそんなことをしたのかわからない。かえって怪しいじゃないか。目の前を通り過ぎていくお巡りさんに、軽く会釈。何だよ、何なんだよ、と心の中に愚痴がどんどん出てくる。

作業を終えて、手持ち無沙汰になりました。スタッフがこのまま現れなかったなら、段ボール箱を**しようと思うので、**を探すことに。左右を見回しながら道をてくてく歩いていくと、それはすぐに見つかりました。近くてよかった、と思う。○ミ○さんの家の玄関近くまで戻って、ぼんやり考えながら時間を潰すことにしました。

ダッシュで解散のようなことを苅谷さんはいっていたけれど、ひょっとしたら、会場までみなで戻って「全部ネタでしたー」とかやっているんじゃあるまいか? ふいに疑心暗鬼に襲われます。いや、もう自分は自分の行動を決めた、いまさら悩んでも仕方ないさ。それに、苅谷さんは過去の公演で、その手の公演の印象を確定するようなことを避けてきていたはず。あのままついていっても、何も解決しなかったろう。

下北沢方面から、観客の一人が歩いてきました。どこまで走ったのか知らないけれど、地図で確認したら、案外ここからホールまでの距離は近い。けっこう時間が経っているので、ホールまで戻って解散したのか……。

彼女は、○ミ○さんの家の玄関前へ歩み寄り、携帯電話を取り出しました。パシャッ!

そして、笹塚駅方面へと歩み去る……。

21時30分になりました。

もうベビー服を元に戻すことはありません。ベビー服は**のままです。私はダンボール箱を**しました。続いて、冷蔵庫を**しました。本当はダンボールのようにしたかったのですが、これは勝手に**できないので仕方ありません。せめてこうしておけば、扉を開けるには支障ないだろう、と。最後に「家内安全」の張り紙を**しました。

こうして、苅谷文さんのオブジェは**された冷蔵庫を残して消え去りました。少女単体の公演が後に残した異様な空間、苅谷文さんの芸術心の発露は、無粋な観客の手によって破壊されてしまったというわけです。所詮、私はつまらない人間さ。ちっぽけな倫理観の方が、芸術より大切なんだ。取り越し苦労の可能性を考えても、こうしないわけにはいかなかったんだ。

テレビドラマの中で殺人事件が起きても、私は作者を非難しない。虚構の世界の話だと、割り切っているからです。どうせ、自分には何も手を出せない、向こう側の世界の話だからです。そうして作品と自分自身の実生活とを切断して、アハハ、と楽しんでいるのです。けれど今回、私はそうすることができなかった。

少女単体が何を目指しているのかは知らない。「これはネタ」という観客側の暗黙の諒解に苅谷さんも乗っかっていて、お互いに明言はしないけれど、ネタをリアルに演じていく、そういう作品なのかもしれない。苅谷文は「苅谷文」を演じ、観客は「観客」を演じる。みんな、わかっていて、私だけが本当に迷ってしまったのかもしれない。

単なるバカ、全然わかっていない客、そういわれても反論はできません。そんな自分の無才を知りつつ、芸術家の作品を壊したのは、少なくともその点において罪だと認めます。

オブジェを解体している間、赤ちゃんは断続的に泣いていて、胸が締め付けられる思いがしました。

帰りの電車はガラガラ。新宿までのたった一駅を、椅子に深く腰掛けて過ごしながら、「すっかり作品の世界に取り込まれてしまったんだなー」と、ぼんやり考えました。どっと疲れが出てきました。

他の方のレポートなど

ネットユーザは約8000万人、mixi 会員は300万人足らず。それなのに、たった約40人の客の中に mixi 会員で日記をちゃんと書いている人が何人も? 少女単体というプロジェクトの偏りが透けて見える感じがします。mixi の会員も、高々300万人で「一般化」とかいってる場合じゃないよね。

本当に芝居じゃなくて嫌がらせをしたんだ、ストーカーの手伝いをさせられたのだと思っている客もいそうとしろうさんはいう。その通りです。私はその可能性を完全に排除することがどうしてもできなかったので、自分にできる範囲で後始末しました。苅谷さんが逃げろといったから逃げちゃった人なんて、みんな「これはネタ」という予想に運命を賭けたのと同じだと思う。

苅谷文さんご自身の感想。

逆リンク!

平成18年1月30日


<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、

<object>
<blockquote>
<p>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</p>
</blockquote>
</object>

だそうである。</p>

あるブロックレベル要素を一つのobject要素として看做すのは可能だと私は考えているので、上記の様な例を用いるのも良いと思う(実際に私も用いている)。最初の一行目を<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、</p>として終らせてしまうのも気持ちが悪いし、かと言って明確な意味付けが出来ないdiv要素を用いるのも気持ちが悪い。よって、先ずはっきりと段落として意味付けられる<p>タグでマークアップして、引用文は<blockquote>タグ、更にそれを<object>タグでマークアップするのが妥当だと思う。

object要素がブロックレベル要素を含み得る事と、必須の属性が存在しない事があまり知られていないが為に、使用している人を滅多にみない方法だが、私は良く使っている。

真名垣さんの主張を「間違い」と断言するには根拠薄弱ながら、私が「感心しない」理由なら挙げられます。

そもそも object 要素の内容は、オブジェクトを埋め込むことができなかった場合の代替テキストに過ぎない、と私は理解しています。

img 要素もそうなのですが、じつは W3C の勧告している HTML の仕様は、「まずテキストがあって、それをマークアップしていく」という原則に忠実ではありません。その証拠に、HTML4.01 の勧告書には以下に引用する事例が示されています

<P><OBJECT classid="http://www.miamachina.it/analogclock.py">
<PARAM name="height" value="40" valuetype="data">
<PARAM name="width" value="40" valuetype="data">
This user agent cannot render Python applications.
</OBJECT>

引用者が強調した部分の大意は「Python アプリケーションを表示できません」というもの。最初にテキストありきではないからこそ、こうした言葉が出てくるのです。object 要素は、テキストをオブジェクトで置き換えるという性質の要素ではなくて、あくまでも埋め込みありきの要素なのです。

そのことに不満を持つのは自由ですが、DTD に違反しなければいいんだみたいな「なんちゃって Valid さん(例えば、いわゆる div 厨)」に対して「いかがなものか」という立場をとるならば、最初から何も埋め込む気がないのに object 要素を使うのはおかしいのではないか。

object 要素に必須属性がないのは、実用上の問題でしょう。オブジェクトの埋め込みに関するワーキングドラフトに示された様々な事例を見れば、いかなる属性も必須にはできない理由が伺えます。汎用性を追求するため、いかなる属性を必須にすることもできかねたのです。「任意属性しかないので、ひとつも属性を指定せず、何も埋め込まないでいいのだ」という推論は、誤りだと思う。

したがって、仮に object 要素を使う場合、私ならこう書きますね。

<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、<object data="http://deztec.jp/x/06/01/img/object01.html" style="display:block; width:100%; height:2em;"><q>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</q></object>だそうである。</p>

遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサックだそうである。

代替テキストをインライン要素の q 要素でマークアップしているのは、HTML4.01 の勧告書の中に代替テキストの一部を em 要素としてマークアップしている事例があるため。

ちなみにワーキングドラフトには代替テキストを p 要素としてマークアップしている事例が登場しますが、それも <P>You're missing a really cool poem viewer ... という内容。オブジェクト(ここでは“詩”)の埋め込みに失敗したことを伝えるメッセージに過ぎません。

ともあれ object 要素の代替テキストをブロックレベル要素でマークアップすること自体に私は異論を持ちません。IE がブロックレベルの代替テキスト表示に対応していない状況あえて無視することも、「仕様に準拠しておけばブラウザの機能は後で追いつくのだから、理想的なマークアップに躊躇する必要はない」といった考え方において、納得できないものではない。

しかしながら、真名垣さんの object 要素活用法は、W3C 勧告の意図に反している疑いが濃厚だと思う。DTD には違反しないとはいえ、何も埋め込まずに代替要素のみ示す事例は、勧告書にもワーキングドラフトにも見つかりません。だから、私は感心しないのです。

2年余り前の文書です。内容もないのに長大なのですが、じつは話を単純化するために避けているテーマがあります。それは、br 要素と pre 要素の解釈です。

上記リンク先の文書において、私は「マークアップ前のテキストにおける改行=ブロックレベル要素の境界」と主張しているのですが、そうなると br 要素と pre 要素って何? ということになります。

HTML の仕様は各種言語の文法に依存しないよう作られていて、だから日本語における「段落」の概念を p 要素に仮託するのは「思い込み」のようなものに過ぎない……という本旨は、やはり間違っていないと思いますが、だからといって単純明快に「改行=ブロックレベル要素境界」と割り切れるのか。それはつらくないだろうか、という疑問は拭えません。

様々な状況が想定される中で、br 要素と pre 要素は「仕様の遊び(=余裕)」として存在意義が与えられているのではないか、と私は思うのです。こう考えると、どのようなテキストの集合体をブロックレベル要素として扱うべきかを一言も書かず、ブロックレベル要素の中にはブロックレベル要素を配置できるという循環論法と、ブロックレベル要素は行を改めて描画されるという転倒した説明だけが用意された W3C 勧告の奇妙さも腑に落ちます。W3C は、ブロックレベル要素の定義を、あえて曖昧にしたのではないか。

したがって、

遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、
お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック
だそうである。

というテキストのマークアップには、様々な正解がありえると思う。

<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、
<q>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</q>
だそうである。</p>

<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、<br>
<q>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</q><br>
だそうである。</p>

<p>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、</p>
<blockquote><p>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</p></blockquote>
<p>だそうである。</p>

3例挙げましたが、どれでもいいのではないかな。そして子要素の制限に注意しつつ pre 要素を用いてマークアップすれば以下の通り。これこそ、ほとんど誰もやらないマークアップだと思うけれど、ありかなしかといえば、ありなんじゃないかと。

<pre>遠足の必需品は、達人、遠足太郎氏によれば、
<q>お弁当、おやつ、遠足のしおり、リュックサック</q>
だそうである。</pre>

真名垣さんの object 要素活用法がこれらと異なるのは、いわば仕様の抜け穴を突いた方法に過ぎず、object 要素の利用自体に疑問符がつく点です。

元のテキストの改行に、マークアップするだけの価値を見出さないのは自由だし、逆に br 要素としてマークアップするのも OK でしょう。改行をブロック要素の境界とみなしたり、元テキストの改行を神聖視して整形済みテキストと考えるのも悪くない。

しかし、オブジェクトを埋め込む予定がないのに object 要素を持ち込み、最初から存在する文章を、埋め込みに失敗した場合の代替テキストとしてマークアップするのはおかしいでしょう。少なくとも、私は違和感を覚えます。object 要素が、テキストをオブジェクトで置き換える要素ならいいのですが、W3C の勧告書にそのような記述はない。

平成18年1月30日

これも最近、よかったなー、と思った話。

関係ない話。

伝染病の噂はイジメの原因になります。噂はどうしても出るのだけれど、本人が疑いだすとよくないことになるので、毅然と「うつらない」といっておいた方がいいだろう、とは思う。私のとき(小1)は、私が寝ながらシクシク泣いていたので母が心配して話を聞きだし、担任の先生と保険の先生が「アトピーはうつりません」と教室で断言することで問題は解決されました。

アトピーつながりの備忘録。案外、少ないね。

平成18年1月30日

れもんてい

のりのり

28日に4歳になった id:KATIE さんの、1月29日の日記に驚愕(とりあえず1月分の日記を順に読んでください)。こ、これは、ひょっとしてひょっとする? 1月に入ってから少しずつ、きちんと意図して入力されたように見える言葉が出てきていたので、期待していたのです。このところ写真も上達してきているし……。次回の更新に大注目。

いや、それにしてもですね、おそらく25日の日記の冒頭の一単語が、はじめて明瞭に意図して入力された言葉だと思うのですが、これがまさかという言葉。

にんげん

生涯、語り草になりそう。こういうことって、あるんですね。

いつの間にか妹さんも立って歩いてるみたい。すごいなあ。

平成18年1月30日

私は幼少時より一貫してたいへん臆病で、例えば「伝い歩き」は大好きだったけど、2本の足だけで歩くまでには相当の時間を要しました。両親が両手をつなげばトコトコ歩くのに、手をパッと離すと、足がすくんで歩けなくなってしまう。困惑して泣き出したり、しゃがみこんでしまったり。そして私は両手を床につき、ハイハイして壁まで進むのでした。

私は、「ジャンプする」ことが3歳になってもできませんでした。両足を宙に浮かせることを非常に怖がったのです。最近はバリアフリー思想の展開によって駆逐されたようですが、一昔前の公団住宅では、ドア枠が床から1センチくらい高くなっていました。両輪はそこに私を立たせ、「ピョンと跳んで降りなさい」といったのだけれど、必ず片足ずつ降りるのでした。親が何度、手本を見せても、頑として真似しようとしませんでした。食卓の子ども椅子に座るときも、必ず梯子のように登り、梯子のように降りていたといいます。狭い座面で身体の前後を入れ替えるのはたいへんだと思うのですが、何せジャンプができないのだから仕方がない。

とまあそんなわけで、2歳にして居間のテーブルからカーペットの上に飛び降りる shuu さんはすごいなあ、と。

ちなみに、私の弟は怖いもの知らずで健康で運動神経がいいので、ハイハイを始めたと思ったらすぐに立ち上がり、立ったらすぐに歩き、歩いたらすぐにジャンプしました。そして2歳ごろには shuu さんのように椅子やテーブルからピョンピョン跳び、公園へ遊びにいったら階段からも跳んだので母は卒倒しかけたという。親が立たせようとしなければ、いつまでもハイハイで満足していたろうといわれる私とは大違い。

私と弟は3歳違いなのですが、自転車の補助輪が取れたのは、ほぼ同時。私は転んだり怪我したりするのが嫌で嫌で、そしてまた運動神経が鈍いのでなかなか上達しない。「ぼく、ずっと補助輪つきでいい」といって泣いていたらしい。弟は逆で、私が補助輪なしで走りだしたらもう悔しくて仕方がない。「お前にはまだ早い」といわれても補助輪なしで走りたがり、転んで怪我をしてもすぐケロリ。

弟はお勉強も私よりずっとできて、一浪はしたけれど一流大学に入学、先日も無事に院試に合格したという。まだまだ親のすねかじりを続けるぞ、ということなのだけれども、授業料自体は返済型の奨学金で賄うのだそうな。土日はパチスロで稼ぎ(月に15万円くらい勝つらしい)、平日は卒研に打ち込む。父の運動能力と母の聡明さをともに受け継いだ子、なんだろうな。負けず嫌いで向上心も名誉欲も強い。ぼんくらの兄貴は、切磋琢磨に興味がない。これまでと同様、これからも、弟には何でも負けようと思う。

先日、生まれて初めて印鑑登録をして、印鑑証明を取ったのだけれども、これは弟の奨学金の保証人になるのに必要だったから。「いくらなの?」「450万円(注:大学の授業料も奨学金で払っていた)」「それくらいなら、貯金を全部崩せば足りそうだなー。ま、いいよ」「はい、書類」という簡単なやり取りで保証人に。どうでもいいけど、郵送した印鑑証明、お礼は別に要らないけど、届いたかどうかくらい教えてくれてもいいんじゃないかな、と思っている。

関連

きれいですね〜!

平成18年1月29日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

創作中心に二次創作(ゲーム)のイラスト展示を主としたサイトです。という自己紹介でしたが、じつはオリジナル作品もたくさん用意されていて、楽しく拝見しました。

管理人のひおう未空さんは、ゲームと漫画と小説と音楽が好きで、多岐にわたる興味・関心を、ウェブサイトのコンテンツとして表現されています。そのため総花的な内容となっているわけですけれども、私はこれを欠点だとは思いません。

仮にコンテンツを「サガ」シリーズの二次創作だけに絞り込んだところで、現在の3倍も4倍も作品を増やせるはずもなく、お客さんが増えるわけでもない。むしろ、窮屈な制約にやる気をなくしたり、更新頻度の低下を嫌ってお客さんが減ったりする可能性の方が高いのです。今後もいろいろなコンテンツを思うままに作っていかれればよいと思います。

誰もがその道で一流のサイトを作らねばならないわけではありません。楽しく更新できて、そこそこ人気があるなら、それ以上を望む必要はないと思います。一流の才能が無駄になっているなら、あえて苦言を呈する意味もないとはいえませんが、素人目にその判断はつきかねる、というのが正直なところです。

ご相談の内容

自分の創作の世界観を広げる、というか、来てくれた方にその世界に入っていただけたら良いなと思い、個性を出したつもりなのですが、それが独りよがりになっているような気がするのです。でもこれを個人的に変えたくないと思っているのです。掲示板に書き込みもありません。後、日記で自分の病気の事を伏せてはいるのですが吐き出しているのでその辺りで引かれてしまうのかな,と思います。

HP作成は「ホームページビルダーー8」を使用し、自分なりに見やすいと思って作っております。相互リンクや共通の趣味のお知り合いなどが出来るサイトに出来ればよいと思っております。どうぞアドバイスを宜しくお願いいたします。

アドバイスいろいろ
0.

ここ数日、立て続けに同人系サイトへのアドバイスを書きました。私がひおうさんにアドバイスしたいことの少なからずは、その中に書かれています。手抜きで申し訳ないのですが、まずは以下のアドバイスに、ざっと目を通していただけますか?

……というわけで、私のアドバイスはもうお分かりだろうと思います。

デザインや日記は現状維持でかまわないけど、掲示板に書き込みをもらうのはラクじゃない、ということです。

以下、補足説明です。

1.

ぶっちゃけた話をするなら、素人が趣味で作っているウェブサイトがむやみに「個性」を追求しても、さしてよい結果には恵まれません。なぜかといえば、デザインの世界も他の世界と同様、素人が思いつくあらゆるデザインは既に、プロが通過した跡に過ぎないのです。だから、よいデザインのサイトを作ろうと思ったら、よいデザインのサイトをたくさん見て、それらを真似ていく方がいい。

そのままパクったら犯罪ですよね。だから無料で配布されているテンプレートを使いましょう……といいたいのでもなくて、デザインの定石、基本的なルールとパターンについてお勉強されることを勧めたいのです。いや、テンプレートを使ってもぜんぜんかまわないですよ、部分的な改造から修行をスタートさせるのは、よい考えです。ただ、テンプレートを使ってあなたは何も考えないのが一番いい、とかそういった提案をしたいのではない。

そんなわけで、ひおうさんのサイトのデザインには、いろいろ改善の余地はあります。

例えば、メニューフレームの幅を統一するだけでも、サイトのイメージにまとまりが出てくるのです。強いこだわりがないのであれば、フレームの幅くらい統一してもいいのではないか。

あるいはフォントサイズ。IE で文字サイズ「中」にしたときに 10px 程度になるサイズということで <FONT size="-2"> なのでしょう。これがかなりきつくって、文字サイズ「小」ならギリギリ読めるけれど、「最小」では読めません。一方、掲示板では font-size:12px; が多用されていますよね。対象読者層を考えるなら、サイトの方も 12px 固定がいいのではないか。もしくは、<FONT size="-1"> なら、ほとんどの閲覧者にとって問題ないはずなのです。

右下に配置する背景画像、四角い画像では絶対にダメだというものではないのですが、基本的には周囲になじむ画像を使った方がきれいに見えることが多いのです。以下の参考図は輪郭の処理が手抜きなので、あまりピンとこないかもしれませんが……。

参考図

……3点挙げてみましたけれども、今ここでデザインの定石について網羅的に解説することはできません。お勉強すると、こういった様々なチェックポイントについて、自分で気付き、改善していけるようになる、という事実を押えていただければ、ここでは十分だと思います。

ただですね、正直なところ、こうしたことを頑張って改善する意味があるのかというと、あまりないような気がしています。デザインを多少、見栄えのよいものにしたって、掲示板への書き込みは増えないし、閲覧者も増えません。残念ながら、サイトの見た目なんて、よほど素晴らしいか滅茶苦茶ひどいかでなければ、閲覧者にとって、さしたる意味を持たないのです。

過去に多くのアドバイスの中で書いてきたことですが、おそらくサイトのデザインを改善する最大の意義は、製作者自身が、自分のサイトを好きになれることです。自分のサイトは見難い、きれいじゃないと気に病む製作者は、自分のサイトを嫌いになってしまい、更新する意欲が途切れてしまいがちなのです。それは製作者にとっても閲覧者にとっても不幸なことです。だから、現在のデザインに不満があるなら、改善した方がよいだろう、とは思うのです。

逆にいえば、製作者が満足しているなら、(致命的な問題がない限り)デザインはそのままでいい。

ひおうさんのサイトは、とりあえず文字サイズ「中」で閲覧する分には、申し分のない見やすさを備えたデザインだといえます。文字サイズ「最小」にしている人は、ひおうさんのサイトを閲覧するときだけ文字サイズの設定を「小」か「中」に変えればいいのだろうと思います。メニューとコンテンツという縦2分割のフレームを利用したレイアウトも、フレーム対応のブラウザでアクセスするであろうほぼ全ての閲覧者にとって、見慣れた、分かりやすいデザインでしょう。

そういうわけですから、デザインの改善が「必要だ」とはいえません。ひおうさんが現在のデザインを変えたくないのであれば、現状維持でよいと思います。

2.

掲示板への書き込みが少ない、または全くないのは、とくに驚くようなことではありません。Advice351 森の中の丸太小屋に詳述したので、概要だけ述べますが、ひおうさんのようなケースは珍しくありません。当サイトの場合、カウンターの数字が10万増えると1通メールが届くというくらいのペースです。ひおうさんのサイトに当てはめると、あと1〜2年は誰からも感想がもらえないということになりますよね。

私は基本的に、よそのサイトで面白い文章を読んでも、何も感想を書かないし、作者に感想を伝えようともしません。ひおうさんは、いかがでしょう? おそらく、それほど感想を作者に伝えていないと思うのです。それは作者が嫌いだからですか? 違うと思います。単に面倒なのはないですか? Web拍手をポチッとクリックするだけのことが、なぜか面倒……ですよね? 作者の立場になると、ついつい「それくらいやってくれてもいいじゃないか」と思ってしまう。でも、それが難しいのです。

世の中には、自然と周りに人が集まってくるという得な性分の人もいます。生まれつきなのか、育ちなのかは分かりませんが、たいていの場合、真似しようとしても真似できないことだけはたしかです。だから、羨ましがっても、あまり意味がないのですね。

せっかく素晴らしい作品を公開しているのに、どうしても感想や意見をもらえないとき、唯一確実な対策は、お互いに感想を言い合う仲間を作ることなのです。この長年培われてきた人類の叡智を無視する手はないでしょう。

結局、赤の他人のために、優しくしてくれる人はそうはいない。でも自分だって、ウェブで出会った人全員にサービス(=作品の感想を書く)していたら、ブラウザを開くのも嫌になるに決まっているのです。だから、人数を限定して、仲良くなって、感想を言い合うことにする。これなら何とか、続きます。ただし、当たり前のことですが、自分がサボれば、相手も感想をいってくれなくなります。これはわかりますね?

文字通りの意味での「同人活動」あるいはそれに似たものをやっていくだけのエネルギーがない場合には、ではどうしようもないのか?

そうでもありません。

ちょっと気に入った作品に出会ったら、「面倒くさい」という気持ちを頑張って打ち倒し、何かしら感想を書くのです。自分のサイトのアドレスを相手に(なるべく自然に)伝えるためには、掲示板か、サイトのアドレスの記入欄があるメールフォームがよいでしょう。ウェブ拍手は名前欄もアドレス欄もなく、文字数制限が厳しいので、自分のサイトのアドレスを伝えることは諦める他ない。ただ、掲示板に1回顔を出しておけば、その後はウェブ拍手でもよいわけですね。

仲間を作るのは、最初に大きなコストがかかる代わり、うまく回りだせば費用対効果はかなりよくなります。自分が感想を書き続ければ、相手も感想を書き続けてくれます。仲間を作るエネルギーがない場合には、いつまで経っても効率が悪い。前述のように掲示板などに感想をドンドン書いていっても、相手の方が自分のサイトの感想を教えてくれる確率は高くありません。10サイトの掲示板に感想を書いても、ひとつも見返りのないことだってあります。

なので、私は仲間を作ることを勧めたいですね。

3.

相互リンクは、いきなりお願いしても断られることが少なくありません。

では、どうしたらよいのか?

一方的にどんどんリンクしていって、リンク報告を欠かさないことです。リンク報告はメールが一番よいです。そして、単にリンクしましたよというだけでなくて、気に入った作品の感想などをきちんと書き添えましょう。自分のサイトの宣伝は、やめておいた方がよいでしょうね。相手を褒め称える言葉だけを選ぶのがベターです。苦言を呈するのは、もっと仲良くなってからいくらでもできます。これから仲良くなろうという段階で、することではないでしょう。

ところで、好きでもないサイトにリンクしてはいけないし、リンク報告もしてはいけません。下心はあってもいいのです。でも、半分は真心でなければダメですよ。全部ウソでは、相手にも失礼ですけれども、何より自分の心が持ちません。疲れて、疲れ果てて、病気になってしまいます。だから注意してください。

4.

感想をもらえるかどうか、趣味の仲間や知り合いを作れるかどうかは、じつのところ、サイトの出来そのものとはあまり関係ないのです。ただ、結果的に、関係があるように見えることは、ないではない。

ここでいきなり「こっちの話」をするので、ひおうさんは面食らうかもしれませんが、少し我慢して読んでください。

私のサイトは、歴史的経緯から、テキストサイトとかブログとして扱われることが多く、私自身の巡回先(=よく見ているサイト)もテキストサイト界隈とかブログ界隈とみなされるサイトがほとんどです。テキストサイトとは何か、ブログとは何か、という問いはとりあえずキャンセルしてください。そう呼ばれる世界があると思っていただきたい。

さて、今ここに第三回東京ブロガーカンファレンス開催のお知らせというのがありまして、これはようするに、ウェブでしか関係のなかった人と、会って話してみようという企画なのです。不思議なことに、参加者名簿を見ると、(とある狭い世界では)お互いに名前が知られている人が約半数なのですね。

なぜ不思議か? 主催者のサイトを閲覧している人は、どう少なく見積もっても3桁いるのです。その大半は、無名の人なんですね。なのに、企画に参加する人は、ごく少数のはずの、そこそこ人気のあるサイトの管理人が半分を占めるのです。おかしいでしょう、ふつうに考えると。

これは東京ブロガーカンファレンスだけが特殊なのではなくて、他のどの企画でも一定の傾向として、「そこそこ人気のあるサイトの管理人は企画にも積極的に参加することが多い」という習性が確認されるのです。

参加者名簿が公開されないケースが多いので抽象論になってしまうのですが、人気サイトが読者を集めて開催するオフ会というのがあるわけです。ここでもなぜか、参加者には人気サイトの管理人が多いのです。1日1000人が閲覧しているサイトがオフ会を開いて10人集まったとすると、2〜8人くらいが、そこそこ(オフ会を開催したサイトの周辺では)名の通ったサイトの管理人。そもそもサイトやブログを持っているウェブユーザは2割弱なのだから、読者オフに参加する人の8割は「見る方専門」でもおかしくない。ところが実際のオフ会では、そんな人は1〜3割しかいない。

おそらく、ウェブ発の活動に対する積極性と、ウェブサイトに多くの閲覧者を集める才能には緩やかな相関があるのだと思います。どちらが鶏で、どちらが卵なのかはわかりません。あるいは、両社には直接の関係は全くないのかもしれない。ただ、結果的に、多少の関連があるようには見えるわけです。

さて、そもそものお話は、意見や感想をもらうにはどうしたらよいのか、ということでした。私の回答は、仲間を作ろう、というものだったわけです。サイトの改善で知り合いや感想を増やすのは、難しいのではないですか、と。けれども、サイトの内容と知り合いの多さには関連があるように見えることもあります。それは認めますが、注意して先の文章を読み返していただきたいのです。

サイトを持っていない人や、無名サイトの管理人だって、オフ会に顔を出しているのですね。顔を出してしまえば、同じことなんですよ。人気サイトの管理人は高慢で、無名サイトの管理人に話しかけられても返事もしないなんて、そんなことはありえない。「オフ会に参加します」ってメールを出せば、他のどんな参加者とも、ほぼ同じ土俵に立って、知り合いを増やせるのです。

オフ会は極端な事例かもしれませんけれども、とにかくですね、ただ待っていても、知り合いは増えません。だから自分から声をかけたり、企画に参加したりして、知り合いを増やすしかない。その際、サイトの出来はほとんど関係ありません。要は、やるべきことを、やるかやらないか。だったら、やればいいのです。ひおうさんなら、できますよ。頑張ってください。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月29日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

夏風まゆさんと月城みゆさんが共同で運営するマガジン連載中の『SAMURAI DEEPER KYO』『ツバサ』を中心としたよろずサイトです。アドバイスのご依頼人は夏風さんなので、以下、2人称は夏風さんとします。

「KYO」はテレビアニメになったので、やっぱり人気あるのかな。Wikipedia の説明を読んだら、なんだか凄い内容の漫画だった……。山田風太郎を一瞬、連想したけれど、違いますね。「四聖天」「真田十勇士」「十二神将」「紅十字の四守護士」「太四老」「五曜星」とくると、「北斗の拳」や「聖闘士星矢」あるいは「キン肉マン」に近いセンスを感じます。というかまあ、少年漫画のひとつの王道なんでしょうね、こういうキャラクター展開って。

「ツバサ」の作者は CLAMP さん。CLAMP さんって週刊少年マガジンに連載を持つような作風だったっけ? と不思議な感じがしました(参考:マガジンの路線変更?)。まあ、偉そうなことをいうほど読んでいないので、単なる印象論なのですが。けっこう連載期間が長い割に単行本が少ないのですが、週刊少年Blog!! の調査データを見ると、やたらと休載が多い。やっぱりそうなんだ……と、これまたイメージだけの話なんですが、納得。ともあれ、単行本はよく売れているらしい。

夏風さんと月城さんは同級生(いつの?)。先日も共同運営のサイトからのアドバイス依頼がありましたけれども、意外とあるものなんですかね……個人サイトで共同運営って。

ご相談の内容

マガジン連載中の『SAMURAI DEEPER KYO』『ツバサ』を中心としたよろずサイトです。イラストやSSで二次創作をやっております。かなりBL風味が強いと思われます。

作品数が増えたので、前の改装でフレーム形式に変えました。出来る限り、閲覧者様がストレスを感じないように・・・と思っているのですが、そうなっているか不安です。とあるテンプレートサイトさまのテンプレートを使って作成しているのですが、結構変更してしまっていて・・・。

基本的にホームページビルダーを使用していたので、タグに不慣な為、ちゃんと出来ているかどうか判りません。(今でもちょっとした変更や、リンク貼りはビルダーです。)一応、自分のパソコンでは表示されているし、友人に頼んでも表示されている・・・と、言われるのですが、前に別サイトを作った際数人に『フレームが表示されてない』と指摘されたことがあって、不安が消せません。

デザインは一応統一されていると思います。前のデザインではSSに背景をつけていたのですが、重くなるかもしれないと考えてやめてしまいました。そのせいで、そっけない(もしくは単調な?)イメージになってしまった気もします。

イラストページも、一応自分のPCでは、画像の荒れが目立たない程度にして、出来る限り50〜80KB程度で収めたいと思っているのですが、『ちょっと荒れて見える』と指摘されたことがあります。自分のネット環境があまり良くないこともあって、出来る限り軽いサイトにしようと思っているのですが難しいです。

上記の不安な部分へのアドバイスと、サイト全体で目に付く部分があったらお願い致します。サイト閲覧の際に、『この動作が面倒くさい』と感じる部分があれば、簡単なことでもいいので教えていただきたいです。それから、現在よろず・・・となってますが、コンテンツのばらつき・量が気になるかどうか、という点も教えて下さい。出来るだけ、『もう一度来たい』と思えるサイトにしたいと思っております。御多忙だとは思いますが、どうぞアドバイスお願い致します。

アドバイスいろいろ
1.

ていねいに作られたサイトだと思いますね。面白いアイデアが盛り込まれていて、興味深く拝見しました。

さて、フレームの件ですけれども、サイトのジャンルやリンク先の様子などから考えても、フレームの使用自体が問題となることはないでしょうね。フレームを利用したリッチなナビゲーションを歓迎する閲覧者が大半だろうと思います。その点は、まず安心してよいでしょう。

ナビゲーションの設計には感心しました。これだけ複雑な構成ながら、フレーム内に表示される個別記事から目次(top.html)まできちんとリンクを辿ることができるのは立派ですね。それほど可能性が高いとは思いませんけれども、検索エンジン避けをしていないので、個別記事にいきなり到達することは想定しておくべきでしょうし、そうでなくとも、きちんと整備されたナビゲーションはメニューフレームの表示如何に関わらず便利なものです。

フレームの難点としては画面の一定面積が常に占拠されるという問題もよく挙げられますが、夏風さんのサイトは 800×600 のモニタでもほぼ全てのページで不都合なく表示されますね。よく考えられていると思います。

さて、気になることは、ふたつ。

ひとつは、高さ100%のテーブルの下に約1行分の隙間ができること。だから外側のスクロールバーを上下させると、テーブルがずれてしまう。なぜ隙間ができてしまうのかというと、ソースの末尾に以下のようなゴミがくっついているからです。

</html><!-- text below generated by server. PLEASE REMOVE --></object></layer></div></span></style></noscript></table></script></applet><script language="JavaScript" src="http://www.geocities.jp/js_source/geov2.js"></script><script language="javascript">geovisit();</script><noscript><img src="http://visit.geocities.jp/visit.gif?jp1138449115" alt="setstats" border="0" width="1" height="1"></noscript>
<IMG SRC="http://geocities.yahoo.co.jp/serv?s=382116061&t=1138449115" ALT=1 WIDTH=1 HEIGHT=1>

何なんでしょうね、これ。私が確認した限りでは全てのページにくっついているのですが……。本来なら、</html> で終了しているはずなのです。なのに、変なオマケがある。これさえなければ、テーブルの下の隙間は消えます。何とかならないかと思ったのですが、geocities のサーバでは勝手についてしまうようなので、困ってしまいますね。

気になること、ふたつ目。メニューフレームのスクロールバーが全面真っ黒に塗りつぶされているわけですが、あれではスクロールできることに気付かない可能性がありますよね。三角マークだけでもいいので、見えるようにしておくと、クリックミスもしにくくなって、閲覧に便利なんじゃないでしょうか。

2.

私の見て回った限りでは、フレームが作者の意図に反して表示されていないケースは発見できませんでした。

ホームページビルダーのエラー訂正機能はそこそこ有効なので、ときどきビルダーで編集されているなら、それほどひどいミスが放置されているということはないだろうと思います。NetscapeNavigater4.X ではインラインフレーム自体に非対応なのですが、ご友人が NN4 を利用されている可能性は低いでしょうし……。

きちんと保証することはできないのですが、まず大丈夫だと思いますよ。

3.

配色、レイアウトなどデザインのまとまりは文句ないですね。強いていえば、これはおそらくなるべくスクロールなしでイラストが見えるようにという配慮との兼ね合いなのだろうとは思うのですけれども、個別記事の初期表示状態において黒の十字型の帯がつながるようにした方が、きれいなのではないか、という感じはします。つまり、top.html のような見た目が初期状態で、スクロールさせると動いて流れていくという。帯が太すぎるなら、上端だけでも揃えると画面が整います。

参考図

シンプルなレイアウトを追求した結果としてのそっけない印象が気になるとのことですが、私は悪くないと思います。黒十字のデザインは十分に強いインパクトを与えますからね。それに、小説の本文のデザインは静かなものでいいはずだと思っています。書籍でも、たいてい白地に黒文字でしょう。それ以上、派手なデザインにする必要はないのではないでしょうか。

もし、もう少しだけ、華やかにしたいということであれば、まずグレーを使ってみることを勧めます。真っ黒と真っ白の取り合わせはパリッとしすぎているようにも見えます。例えば白と黒の境目にグレーの border を 1px 幅で引くと、上品で高級な印象になります。小説の背景画像も、非常に薄いグレーの線を利用したものを、例えば右端の方だけに用意してみるのはいかがでしょう? これなら重さも気にならないと思います。

body
{background:#fff url(bg.png) repeat-y top right;}

完成図

その他、思い切って色を使うという手もあるわけですが、計画・準備段階で考えることが飛躍的に増えるのが難点ですね。

4.

イラストの圧縮レベルですが、最近はブロードバンドの普及にともない、圧縮レベルを低く設定するイラストサイトが増えていますので、相対的に「粗い」という印象が強まってきているのかな、という感じはします。昔は、もっとずっと汚くなってしまうところまで圧縮しているサイトが珍しくなかったのですが……。

JPEG 画像の圧縮もソフトウェア次第でかなりきれいに小さくできる場合があるようなので、フリーソフトをいろいろ試してみるのもよいかもしれません。ただ、申し訳ありませんが、これが素晴らしい! といったソフトは私には発見できませんでした。高級なソフトの場合、いろいろな設定ができるようなので、もしそういったものをお使いでしたら、ヘルプから中・上級者向けの活用法を探してみるのもよいでしょう。

ともあれ、とりあえず今後は、圧縮前の画像を保存しておくことを勧めます。将来、夏風さんがブロードバンド環境へ移行したら、100〜300KB あたりをめどに圧縮率を下げた画像に差し替えるとよいのではないかと思います。最近は、300KB 程度の画像ならふつう、文句は出ません。私も AirH" の利用者ですし、軽い方がありがたいのですが、時代の趨勢が移りつつあるようなんですよね。300KB くらいまでなら重さより画質、という閲覧者が多数派になりつつあるのかな、と。

とはいえ、夏風さんご自身が「こんなに表示が重いのはうんざり」と思われるなら、圧縮していいのです。自分のサイトを見る気をなくすと、更新が滞ります。それは閲覧者にとって、画像の荒れよりもっと大きな不利益でしょう。だから、夏風さんのインターネット接続環境に画像サイズも合わせておくのは正しい選択なのです。

5.

コンテンツの分量やバランスについてですが、あまり気にされる必要はないと思います。特定のコンテンツに多くのエネルギーが注がれているといった状況があるとしても、それだから閲覧者が減ってしまうといったことは、まずありません。書きたいものを書く、描きたいものを描く、それでよいのではないでしょうか。

出来るだけ、『もう一度来たい』と思えるサイトにしたいと思っております。とのことでしたが、これは難しいですよね。内容が気に入れば再訪されるのではないか、といったことしかいえません。強いていえば、雑誌のように、定期的に一定水準以上のコンテンツを予告通りに発表していくことが非常に有効なのですけれども、個人運営の趣味系サイトでは実践不可能なことだと思います。

夏風さんのサイトは、既に膨大なコンテンツの蓄積があり、たいへん素晴らしい。今後とも、興味関心の赴くままに、活動を継続されることを期待しています。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月28日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

彩炎さんが運営するWJ中心の夢小説サイトですWJとは週刊少年ジャンプのことで、WJ中心とは週刊少年ジャンプに掲載されている作品の二次創作を主としていることを意味しています。現在は「NARUTO」「BLEACH」「SAMURAI DEEPER KYO」の夢小説を公開中。「SAMURAI DEEPER KYO」は原作とアニメ版で物語が異なるのですが、私はどちらも知らないので、彩炎さんの小説がどちらを基にしているのかは分かりませんでした。

ところで彩炎さんは黒豆茶がお好きなのだとか。麦茶や黒豆茶は低エネルギー飲料なので、たくさん飲んでも太りません(豆をたくさん食べれば太る)。夏場はたくさん水分を補給して、どんどん循環させていった方が健康にいいそうなので、安心して水分補給されることを勧めます。水分の取りすぎでむくむことと、太ることとは別問題です。ま、年を取ると(?)水分補給をする気力もなくなります。たくさんお茶を飲めるのも今の内なので、好きなだけ飲むといいと思う。

ご相談の内容

所々にMIDIを使っているので、人によっては気分を害してしまうかも、と思っています。サイト全体で直すべきポイントがありましたら教えて頂きたいです。

アドバイスいろいろ
0.

3ヶ月以上もお待たせして申し訳ありません。

新年を迎えてサイトのリニューアルをされましたが、おそらくその作業の前にアドバイスがほしかったのだろうと思います。ごめんなさい。

1.

MIDI の件について。

ご心配の通り、音楽を勝手に鳴らさないでほしいと思う方は、結構いらっしゃるようです。けれども、特定のサイトでは音が鳴ってもよく、他ではダメだということは滅多にないでしょう。したがって、例えば Windows 版 IE をご利用になっている方であれば、「ツール→インターネットオプション→詳細設定→Web ページのサウンドを再生する(のチェックを外す)」という手順で自己防衛に努めるのが筋ではないかと私は考えています。

とはいえ、そのような設定をきちんとやっている人は非常に少なく、自分の不勉強を棚に上げて、「勝手に音楽を鳴らす」サイトの管理人を逆恨みするわけです。彼らには反省する気がありませんから、管理人の側が頭を使うしかないのが現実です。

2.

よくウェブデザイン指南の本やサイトに書かれているのは、「プレイヤーを表示させて閲覧者が再生ボタンをクリックした場合だけ音楽を流すようにしましょう」みたいなアドバイスです。なぜだかよく分かりませんが、アドバイザーの人たちは一様に自動再生がお嫌いの様子。自動再生を不愉快に思う方が当然で、音楽を流したい人なんて僅かでしかないと決めてかかっているのですね。だから bgsound 要素なんか使ってはいけない、という。

私は、bgsound 要素を使っていいと思っています。たしかに、それを嫌がる人はいるのでしょう。でも、別にそんなことは気にしないでいいのです。勝手に音楽が流れても、1日1万人以上が訪問するウェブサイトはあります。

断言してもいいけれど、音楽を流すのをやめたって、閲覧者数は増えません。1〜3割程度は、まあ、増えないとも限らない。けれども、BLEACH の夢小説を発表しているサイトで人気のあるところは、1日1000人以上が訪問しているわけですよね。1日200人弱から3割増えたって、追いつかないわけです。人気サイトが音楽を流してアクセスが半分に落ちたって(そんなに落ちるわけないと思いますが、仮に)、彩炎さんのサイトの数倍のお客さんが訪問し続けていることに変わりはない。

映画のプロモーションサイトなどでは、FLASH で映像と音楽(あるいは効果音)を勝手に流す事例が少なくありません。職場などからのアクセスが主と予想されるようなビジネス系のサイトならともかく、自宅からのアクセスがメインと予想されるサイトなら、音楽くらい、流したければ流せばいい。そんなことで「こんなサイトにはもう二度と来ないからな!」なんて怒っている人とは、どうせ仲良くなんてできないのです。お引取り願って正解なんです。

3.

bgsound 要素の特徴は、自動再生だということです。これは悪いばかりではなくて、よいことでもあるのです。

例えば私は、クリックしなければ再生されない音楽を再生することは滅多にありません。面倒くさいからです。けれども、音楽が流れること自体は、決して嫌いではない。テレビドラマも音楽がなければ興が削がれます。ニュース番組でさえ、(番組の演出としては)静かな NHK より BGM のある民放の方が私は好きです。内容は NHK の方が好みなんですけれども。

わざわざ再生ボタンを押したいとは思わないけれど、音楽が流れることが嫌いなわけじゃない、むしろ歓迎する……そういう人は、世の中に結構いると思う。個人が趣味でやっているウェブサイトくらい、多数派じゃなくて自分に似た少数の人々に向けて作ったっていいんじゃないかな。少数といったって、全国には数百万人、あるいは数千万人くらいいるのかもしれないのだし。単に過半数でないというだけで、彼らにとって一番望ましい形態のサイトが世界から排除されるのはおかしいよ。

小説に音楽をつけられるのは、ウェブの「いいところ」なんじゃないかな。たいていのブラウザには音楽再生の可否を決める設定が用意されています。製作者の意図にしたがって、「デフォルトで音楽を流す」演出をすることを、一方的に禁じ手と決め付けるのは間違いではないでしょうか。

現在、彩炎さんのサイトで音楽が流れるのは夢小説の作品別の目次ページだけですよね。だったら、夢小説の大目次に、こんな注意書きをされてはいかがでしょうか?

リンク先のページでは音楽が自動で再生されます。音楽が流れては困る方は、ブラウザのオプション設定で音楽の再生を止めてください。IE6 では「ツール→インターネットオプション→詳細設定→Web ページのサウンドを再生する(のチェックを外す)」という手順になります。

検索エンジン除けをしていること、表紙以外へのリンクを遠慮していることから、ほとんどの閲覧者はこの注意書きを目にしてから先へ進むはず。目に入ることと読むこととは別なのだけれど、とりあえず、言い訳程度に注意書きをしておくと、万が一トラブルになっても少しだけ強気に出られるのではないかな。

4.

bgsound 要素の利用については、次のような批判もあります。

bgsound 要素は HTML の事実上の仕様となっている W3C の勧告書に登場しない要素で、そのためかどうか Firefox というブラウザでは(少なくとも私の環境では)音楽が再生されないのですけれども、「それって問題?」という感じはします。ちなみに Opera8.5 ではふつうに再生されました。W3C の勧告書から排除されているので、ひょっとすると将来、IE も bgsound 要素のサポートを終了するかもしれません。

けれども、ようするに、上記のような問題を知った上で使う分には問題ないような気がします。だって、音楽が流れなくても、多分、読者は困らないのです。作者がさみしい気持ちになるだけ。bgsound 要素にできることは全部、object 要素でも実現可能なのかもしれない。けれども、これは単に私が不勉強なだけ……ではあるのですが、W3C の勧告書の object 要素の説明を読んでも、具体的にどうやったら bgsound 要素の挙動を再現できるのか分かりませんでした。

<bgsound balance="0" src="seisei.mid" volume="-600" loop="infinite">

バランス、音量、ループの設定を簡単に指定できる bgsound 要素は、なるほど音楽専用で汎用性がなくて、閲覧者が随意に再生を止めたりできない欠点を持っているのでしょうけれども、シンプルで使い勝手のいい要素なんじゃないかと私は思います。object 要素は、汎用的にいろいろ使えるようですけれども、音量やループの設定はどうやればいいのやら……。

IE6 と Opera8.5 以外のブラウザで音楽が再生されるかどうか、私には確認する術がありません。ただ、bgsound 要素では音楽が再生されないこともあると作者が認識していれば、それでいいように思います。トーキー映画で音が出なかったら致命的ですけれども、映画だって無声映画の時代がありました。ましてや彩炎さんのサイトのコンテンツは小説です。基本的には文字だけで勝負できると思う。

5.

現在、MIDI が流れるのは目次だけなんですよね。これが、ちょっと私にはよく分からないところです。

各小説へのリンクをクリックすると、同じフレームの中に開かれるので、音楽は終ってしまうわけです。「target="_blank" を使わない」という思想的立場(参考記事「target 属性と信念の選択」「リンクの target 指定」「バカな閲覧者は勝手に不幸になればいい」)なのかと思ったら、夢小説の大目次から「その他」をクリックすると新しいウィンドウが開くので、target="_blank" 自体を嫌っているわけでもなさそうなので、分からなくなりました。

ふつう、目次で時間を使わないと思うのですね。ぱっぱとリンクを選択して、クリック。曲を聴く暇なんてないような気がします。

曲を聴きながら小説を読みたい方は右クリックから「新しいウィンドウで開く」を選択してくださいね、ということであれば、そういった案内があるといいのかなあ、と思いました。それくらい勝手に気付けよ、バカ、みたいな感じなのかもしれませんが。

もうひとつの方向性としては、目次から個別の小説へのリンクには全部、target 属性をつけるという手があります。まあ、これは(これも)賛否両論あるでしょうね。音楽の自動再生と同様、新しいウィンドウを開くことにも根強い批判がありますので(先に紹介した参考記事などをご覧ください)。

6.

そのほかに気になったこと、というわけでひとつだけ。

メニューフレームの top.html のデザインには少々難があるかな、と。

どう問題があるかといいますと、行の高さが 20pt と大きいのに行数が多く、しかもスクロールバーが消されているのですね。

<frame src="http://saien.nobody.jp/top.html" name="menu" scrolling="no">

画面の大きなパソコンを使っていればよいのでしょうが、まだ約半数のウェブユーザは 1024×768 以下のモニタを使っています。するとどうなるかというと、始まりの地は消えない。が見えるか見えないか、という表示結果となります。

文字サイズを小さくするか、スクロールバーを表示して、スタイルシートで三角印だけ見せるか、あるいは他の方法でもいいのですが、とにかく気になりました。(注:スクロールバーの表示をスタイルシートで制御できるのは基本的には IE だけですが、彩炎さんは IE ユーザでしょうし、IE のシェアは約9割なので、まあ、そのこと自体は大した問題ではないでしょう)

もちろん、大きなモニタを使っていない人(主にノートパソコンのユーザ)のことなんて知ったことではないと判断されるなら、それはそれでかまいません。

7.

MIDI の件も target 属性の問題もそうなのですが、ようは彩炎さんが、何をどこまで気にするかという話に過ぎません。

何も知らずに、無邪気に他者に犠牲を強いるのは残酷なことだとは思いますが、それだって、何でもかんでも十全に想像力を発揮し、問題の地平を見通すなんてことはできるものではない。せいぜい、「私の理解の及ばないところで問題が起きている可能性」に留意する程度が関の山でしょう。そしてまた、認識している問題について、誰もが満足する解決策が存在するとは限らないのです。

音楽の自動再生は閲覧者の自由を奪うのでよくない、みたいな主張はあるわけですけれども、例えばスタイルシートを使っているページがあるとしてですね、いちいち「製作者のスタイルシートを適用しますか? Yes/No」なんて選択させられたらたまらないわけでしょう。あるいは文字サイズとかの装飾でもいいです。そういったものをですね、ほとんどの人が「よいもの」と認識しているであろうという判断があって、ブラウザは自動でそれらを適用するわけです。

じつは Windows 版 IE には製作者による文字サイズや文字色の指定を無効化するオプションがあります。「ツール→インターネットオプション→ユーザ補助」の手順で設定できるわけですが、まあ、無効化したいと思う人が少ないという予想があって、こういう面倒なことになっているのだと私は理解しています。

音楽の自動再生の場合は、それを嫌う人が無視できない人数いるので、問題視されているだけの話で、ようするに人数が多いか少ないかが重要なんですね。文字サイズや文字の色だって、ときどき滅茶苦茶な指定をする人がいるわけですよ。それで全然、文章が読めなかったりして、こりゃあひどいなあ、と思うこともある。もし世の中にそういう人がやたらと多かったら、ブラウザにはいちいち「製作者の用意した文字装飾を利用しますか?」ってダイアログボックスが出ていたかもしれない。

彩炎さんのサイトを問題なく表示できるサイズのモニタを使っている人は、ウェブユーザの3〜4割です。じつはそれほど少なくない。target="_blank" を嫌がる人の割合よりは多い。

無論、単純に人数とか割合だけで決められるものでもなくて、「これは重要だ」と思ったら、8割、9割の方がそこそこ納得できるラインで決着させるべきでしょうし、瑣末なことなら狭いところを狙ってもよいでしょう。例えばサイトのテーマ色などですね。どの色が好きな人も過半数にならないのですが、「青いサイトは絶対に許せません!」なんて人は滅多にいないので、サイトのテーマ色は赤でも青でも白でも何でもいいのです。

さて、私は MIDI は OK で target="_blank" もあまり気にしないけれど、1024×768 のモニタに収まらない(しかもスクロールバーを消している)デザインは気になる、と書きました。どれもおそらく、「それはちょっと嫌だなあ」と思う人の割合は大差ないと思う。だから矛盾といえば矛盾なんですよね。ようは私の価値判断において、各項目の重要度に差があるということなんですけれども……。

以上、ひとつの議論を紹介しましたが、結論を出さずに閉じようと思います。本音を書けば、「いろいろな意見があることを知った上での結論であれば、何でもいい」と思います。

8.

スタイルシートを多くのページで利用されているわけですが、各文書に記述するのは面倒だと思うのですよ。だから、外部スタイルシートファイルを利用される方がよいのではないでしょうか。

外部スタイルシートファイルって何? という場合には、以下のリンク先の解説を読んでみてください。まず基礎知識編は必読で、時間とやる気に余裕があればぜひ制作実習編LV1までは目を通していただきたいです。

お勉強したらすぐに修正するべし、なんてことはいいません。次回、リニューアルされるときに、外部スタイルシートファイルの利用を検討していただければ結構です。じゃあ、お勉強もそのときでいい? そうは思いませんね。お勉強は、するなら今すぐにでも、なさった方がいい。

完璧な理解は無用なので、「少しわかった」くらいの読み込みで、まずは一読されると世界が開けると思います。HTML についても、いろいろ考え方が変わってくるのではないか、と期待しています。いわゆる「手打ち」でサイトを作成されているようなので、HTML や CSS のお勉強することは、先々、作品を書くことに集中できる環境(更新が楽な環境)を作っていくのに必ず役立つものと私は確信します。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月27日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

少女漫画『風光る』を中心とした夢小説サイトとのこと。

風光る」は「はじめちゃんが一番!」で小学館漫画賞を受賞しているベテランの少女マンガ家、渡辺多恵子さんが新撰組の盛衰を描くヒット作。「別冊少女コミック」1997年4月号〜2002年4月号に連載された後、2002年6月号より「月刊フラワーズ」へ掲載誌を移動しました。単行本は2006年1月26日に第19巻発売。別冊と月刊誌で描き継がれているため、連載期間の割に単行本は少な目。ただし週刊誌のない少女マンガの世界では、標準的なペースです。

男女問わず新撰組は人気のある題材。それだけにうるさ型の読者も多いわけで、基本的に史実に沿いつつ、少女マンガらしいアレンジを加えながら物語は展開中とのこと。簡単にあらすじを紹介しますと、1863年、討幕派に父と兄を殺された富永セイ(15歳女子)が神谷清三郎を名乗って壬生浪士組に入隊するところからスタートします。セイは沖田総司を尊敬し、武士の生き方とその厳しさを学びながら成長していく。人気があるためか、このところ時間の進み方がゆっくりになっていまして、沖田の死が最終回だとしても、当面は完結しそうにない!?

ちなみに夢小説は名前変換小説とも呼ばれ、JavaScript などを利用して一部(または全部)の登場人物の名前を任意に変更できるような仕掛けを施した小説のことで、凝った作品になるとあだ名と本名(しかも苗字と名前を別々に)をそれぞれ入力させられたりしてたいへんです。ちょっと気の利いたスクリプトを利用されている場合には、とりあえず何も入力しなくても、デフォルト設定の名前が入るので、面倒くさがりの人も楽なのですが……。

ところで goo 国語辞典は「ドリー夢小説」を見出し語としており、これが最も一般的な呼び名なのでしょうか。私は夢小説という表記を最もよく見かけます。

アドバイスの依頼をされるサイトになぜか二次創作系サイトが多いため、夢小説もずいぶんたくさん読みました。高校時代は文藝部にいたわけですが、先輩には同人系の人が多かったので、何だか懐かしいですね。同輩は大半が幽霊部員、私は読む方専門、後輩は筒井康隆や村上春樹のファンだったんだよな〜。

さて、anotherdays 管理人のコウさんは千枚漬と柚大根が好きな東海地方在住の方。もう何年くらいサイトを運営されているのかよく分かりませんが、とにかく公開されている小説の分量はすごいです。高校時代を思い出すと、3Kと呼ばれた超人的な3人の後輩を例外とすれば、これほど書いてた人は記憶にない。私がいた頃の文藝部では毎月のように冊子を出していましたけれども、当然、毎月作品を提出する人なんていないわけで、年間で8作品も書けば凄い方だったわけです。

まあ、ウェブは全国区ですからね……といってみても、やっぱりたくさん書くのは偉い、と思います。

ご相談の内容

トップページなどは結構な頻度で模様替えを行っていますが、わりあいイメージを統一できているのではないかと思っています。また、広告が二つも三つも出て見づらいのは嫌なのでフレームはできる限り遣わないように心がけています。

テキストページ、主にそのメインである「風光る」のページのレイアウトが(長ったらしいせいでしょうか)、どうしても見辛いと感じてしまいます。また、サイト全体で目に付く事がありましたら教えていただきたいです。

アドバイスの前にどうでもいい話をダラダラ書いてきたのは、あんまりアドバイスすることがないからです……。

アドバイスいろいろ
0.お詫び

ご依頼があったのは昨年の10月15日……3ヶ月以内には何とか、と思っていたのですが、いやー、遅れてしまってごめんなさい。

1.タイトル

いろいろ閲覧していまして、一番気になるのは、文書のタイトルが未設定のページが多いことです。ホームページビルダーをご利用になっているようですが、ツールバーから「編集→ページの属性→ページ情報→ページタイトル」の手順でタイトルを入力できますので、少なくとも index.htm と top1.htm にはタイトルを入れた方がいいと思いますよ。ブックマークする際にも都合がいいですし。

2.広告

無料で広告なしというと fc2 ブログなどのレンタルブログあるわけですけれども、カスタマイズするのに苦労するでしょうね……。過去ログを移動するのもたいへんですし。

最近はレンタルサーバも安くなりました。さくらインターネットは月額125円(初期費用1000円が別途請求されるので要注意)。ただし安いサーバはしばしば転送量の制限がきついので注意しなければなりません。あとやっぱり、長く続いているサイトの場合、金額よりもアドレスが変わってしまうのがつらいかもしれませんね。Webサイト移転時、移転先への“直リンク”つき移転告知に全ページを書き換えなんて便利なツールもありますが。

データ量が数MB以内+プロバイダを当面変えるつもりがない+家族にウェブサイトを作りたいと思っている人がいない(または親バレ上等) といった条件が揃っている場合には、プロバイダの無料スペースを利用することも可能です。そういうオマケサービスのないプロバイダなら仕方ありませんが。

まあ、広告と共存していけるようデザイン上の工夫を重ねてきているわけで、現状維持でも不都合はないと思います。広告なんて、ちょっと目障りなだけといえばその通りなんですね。けれども、そうはいっても、それがまあ、気になる人にはきになる。問題解決の利益とコストを見比べて、判断なさってください。

3.イメージの統一

例えば当サイトのように「サイト内のほぼ全文書で共通のスタイルシートを適用し、概ね同形式の HTML 文書を使い回す」というやり方を採用してしまえば、楽なのだろう……とは思います。とはいえ、なかなか踏ん切りがつかないのが実際のところでしょうね。

私は一時期、統一感にやたらと固執して、それでいて100以上もある文書群の一斉リニューアルを何度も企ててヘトヘトに疲れる、ということを経験しました。その体験が、スタイルシートの勉強をしたり、サイト内の全文書の形式を統一していくエネルギーの源となったわけです。しかしこれは、私が「デザインを統一する」と決めたら本当に統一できるまで気が済まなかったからそういうことになったのであって、「ま、こんなものでしょ」と思えば、そんなに苦労はいらなかったと思う。

コウさんのウェブサイト、よく注意して見て回りますと、ずいぶんいろいろなデザインの文書が収められているわけです。左寄せと中寄せの文字配置が混在していますし、小説の背景色だって、白、グレー、薄青などなど。左側に余白を作るために blockquote 要素を使っているページ、使っていないページがある。テキスト色も黒、濃紺、濃灰、茶とバリエーション豊富。日記とサイト本体のデザインも、黒背景だけが共通点。掲示板は全く独自の配色+デザインとなっている。

だからダメだってんじゃなくて、たしかにこれでも不思議とわりあいイメージを統一できているといってよい。私も昔のアドバイスでは「こういうのはダメ」といっていたのですが、最近は「これでいいんじゃないの」と意見が変わりました。たいていの読者は、コウさんのサイトくらいのゆるやかな統一感で満足なさるようだし、じつのところ私も、他人のサイトについてそんなにこだわりを持って閲覧していないのです。

それでも、もしコウさんが「タグ手打ち」派なら、少し強くデザインの本格的な統一を勧めているところなのですけれども、ビルダー使いなので、腰砕けに。私もビルダーは長らく使っていましたけれども、テンプレート機能などをマスターしないで利用するとデザインの統一は難題なんですよね。これから先、新しく作る文書群のデザインをきちんと統一していくことはそれほど難しくないのですが、既存文書の修正は厳しい。

私がビルダーからエディタによるソースの直接編集へシフトした理由のひとつが、デザインの統一問題でした。WYSIWYG では、結局のところ、微妙なところをきちんと統一できない。何となく見た目が似ていれば、すぐに騙されてしまう。微妙な違いをきちんと認識するためには、ソースを見る他ない。

HTML 文書のソースを複数のテキストファイル内の文字列を一括で置換できるツール(例えば Speeeeed)を駆使して大半の文書を整理したのが大きな一歩でした。そして HTML エディタで個別の文書の修正すべき部分をソースレベルで直接ドンドン書き換えていく、その過程で HTML って何だ? というあたりにも関心を持つようになっていきます。

まあ、現状維持でとくに問題はないので、「ご参考まで」というところ。

4.フレーム

フレーム自体は、使いたければ使えばいいと思いますが、フレームなしでもどうにかなるようなナビゲーションを用意しておくことを心がけると、多くの閲覧者にとってはありがたいでしょうね。フレームは、しばしばナビゲーションを手抜きするための手段に堕していて、それがフレームの悪評を招いていたりします。もったいないことだと思います。

フレームを使うと特定のページをブックマークできないといった主張がありますが、じつのところ同人系サイトで特定のページがブックマークされることは滅多にない。どうしてもブックマークしたければ、前のページに戻ってリンクを新しいウィンドウに開けば足りることが多い。フレームを便利だと思う閲覧者が、とくに同人系の界隈に多いことは承知しておりまして、ある種のフレーム忌避の主張は実効性を持たないケースが多いものと理解しています。

いずれにせよ、広告という問題がどうにもならない限りは、「お題」のコーナ以外にフレームが使われることはないのでしょうから、この項は無意味かも。

5.「風光る」小説目次について

縦長でかっこ悪いということですが、ブログのカスタマイズ用として、サイドバーの折りたたみとか、「追記」の展開とかに使われているスクリプトを使えばよろしいのでは?

「見出し+リスト」のような構成にして、見出し部分をクリックするとリストが出てくる、といったギミックが考えられます。

夢小説では設定した名前の代入にスクリプトを利用していることは周知の事実なので、まさか夢小説の目次を見るのにスクリプトを無効化している人はいないと思いますけれども、上記リンク先のスクリプトは、スクリプト無効の環境でも問題を起こしません(スクリプト無効なら全て表示)。ところで、もしこのスクリプトを利用したくて、でも使い方がよく分からないという場合には質問してください。

6.背景画像

黒背景のページで使われている背景画像、それ自体は色調も雰囲気も図柄も素晴らしいのですが、文字を重ねると読みにくい。「陰陽師」コーナや更新履歴など、「もうちょっと何とかならないか?」と思いました。とりあえず真ん中の明るい部分と文字が重なるとひどいので、文字は左寄せに、1行字数は少なめにして、暗い部分とだけ文字を重ねるとよいでしょう。

ついでに書くと、表紙だけ背景画像が上寄せになっていますが、他のページと同じく真ん中でいいのではないかと思いました。

7.ナビゲーション

たくさんある小説にいちいち目次へ戻るリンクを用意するのは面倒くさい……かもしれません。それはまあ、認めるとしましょう。

けれども、目次のページで行き止まりがあるのは疑問ですね。掌編小説の目次には、大目次へ戻るリンクがありませんでしたが、これはミスといってよいと思います。1STEP ならブラウザの「戻る」でもいいけれど、2つも3つもブラウザの機能でリンクを戻らせるようなナビゲーションは、少し不親切ですよね。

2004年以前の更新履歴、リンクはあるけどファイルがない?

リンクが地の文と全く区別がつかないのですが、それは狙い通りなのでしょうか。これもちょっと不便かな、と思いました。あまり主張しすぎない形で、上品にリンクの存在を表現できるスタイルを追求するべきではないでしょうか。薄い色の点線を引くなど(スタイル設定で実現可能)。

8.新作「PEACE」について

原作をよく知らず、戦いの歴史を共有していないので、作者の意図を十分に汲むことができているとはとても思えませんが、男装の麗人もののハッピー・エンドとして素直に読めました。よかったです。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月26日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

夜のひんやりした空気とスミレの花が印象的なウェブサイト。妖精さん(?)も可愛いですね。

管理人は初めてのHPで無我夢中で作成しましたという撫子さんです。HP作成の為のリンク集とアフェリエイトがあります。とのこと。アドバイスのご依頼があったのが10月4日、最終更新が10月20日……。でも、掲示板を見ると活動中ではあるらしい。ああ、よかった。通販とTVゲームにハマってる専業主婦の方だそうですが、最近は忙しくて更新が滞っているのだという。

ご相談の内容

ソースを見るたびに これで良いのか?と不安です。また、メインを役たつリンク集と思ってますが、アフェリエイトも捨てきれません。その為にまとまりがありません。現在、役たつリンク集を もっと細かくカテゴリーを増やし紹介するサイトを多くする為に作成中です。よろしくお願いします。

アドバイスいろいろ
0.

まさか4ヶ月近くも待たされるとは思っていらっしゃらなかったでしょう。申し訳ありません。

1.

ソースを見るたびに これで良いのか?と不安になる件について。

ちょっと難しい話をしますので、注意して読んでください。

問題は、どのような基準で「良い」「悪い」を判断するのか、ということです。撫子さんが HTML についてどのような理解をもち、今後、どのように付き合っていこうと考えていらっしゃるのかが重要なのです。

もし、HTML は「結果としての見た目」を実現するための手段に過ぎないと割り切り、また閲覧環境を限定していくことを是とするならば、ソースを見て不安を感じる必要はありません。自分のイメージどおりの表示結果が、自分の環境において実現できたなら、それで満足していい。既に良い結果が得られているのに、過程について思い悩むことには、さしたる意義がありません。なぜなら、「結果こそが重要」という立場を貫く限り、過程を見直したところで満足度は上昇しないからです。

そうではなくて、「HTML についてもっと知りたい」といった希望があるならば、お勉強するしかありませんね。やっぱり、知りたいと思っているだけで何もしないなら、いつまで経っても、ただ不安なままです。時々思い出したようにソースを眺めているだけでは、HTML を理解することはできません。

2.

撫子さんは現在、ウェブサイトを paperboy&co. のウェブアプリケーション woopa! で作成されているのですね。(注:woopa! はロリポップ!レンタルサーバーの契約者以外は利用できませんので nadesiko さん以外の読者の方はあしからず。いちおう体験版は操作可能です)

woopa! はホームページビルダーの「どこでも配置モード」と同種のツールで、

  1. 作業画面内に画像やテキストなどの様々なパーツを放り込む
  2. 各パーツにはそれぞれ長方形の領域が与えられる
  3. 各パーツの表示位置、縦横の長さなどを指定する

……という手順でウェブページを作成します。長方形の領域は当然のように div 要素で表現されます。表示位置や縦横の長さはインラインスタイルシートとして記述されます。

このツールの美点は、何はともあれ、製作者が HTML の制約をほとんど気にしなくてよいことにあります。あまり理解されていないことですが、じつはテーブルレイアウト(表組みを用いたレイアウト方式)だって、非常に多くの制約を抱えていて、作者の希望するデザインを簡単に実現できるものではない。福笑いと同等の簡便さでデザインできてしまう woopa! は、ホームページビルダー付属のウェブアートデザイナーによる画像作成と同等の自由度を持っているといえましょう。

ウェブデザインを画像作成と同等の手法で行うのは間違いだ! という主張は理解できます(後述)。あるいは、画像作成のような手法で作るなら、最終的な完成形も1枚の画像にしてしまったらどうか? という極論も、ひとつの論理として筋が通っているとは思う。

ただ、現実問題として、全部画像にしてしまったら、テキスト情報の更新が面倒くさくなり過ぎます。たいてい更新されるのはテキスト情報ですよね。だから、変えたい部分だけ簡単に変えられるほうが便利だったりするわけです。また全面的な画像化ではファイルサイズが激増し、読み込みも大変になってしまう。リンクを全てイメージマップで実現するのも、たいへんな手間です。woopa! でテキストリンクのパーツを作って、マウスで適当に位置を動かす簡便さを再現し難い。折衷案として、woopa! やどこでも配置モードの需要が出てくるのは不思議なことではないと思います。

3.

woopa! は HTML の制約を考えずに結果としての見た目だけを重視してスタイルシートを駆使すれば、ウェブデザインはこんなに自由度が上がるのだ、という事実をよくあらわすツールです。そのために支払った代償について「気にしない」という価値判断をなさるなら、今後も便利に使い続けてかまわないはずです。

逆にいえば、woopa! を楽しく使い続けるなら、HTML がどうのこうのといった話はむしろ忘れてしまった方がよい。ソースは見ないことを勧めます。

正直いって、woopa! で現在実現されているデザインを、他の手法で再現することは簡単でない。

  • テーブルレイアウトを使いつつ、文字と画像を少し重ねるような表現を実現するためには、かなりの高等テクニック(たいていの人はそこまで勉強を進められない)を要します。
  • そこそこ「まとも」な HTML 文書と外部スタイルシートの組合せで現在のレイアウトを再現しようとすると、多彩な画像を駆使した装飾表現の再現が、非常に悩ましい。そもそも HTML 文書の作成段階で、情報の登場順序をどうするかが大問題となります。

少し話を整理しましょう。

いま、FLASH のことはとりあえず忘れることにしますと、HTML や CSS(スタイルシート)を主とするウェブサイトの製作手法として、3つの方法があります。

  • woopa! 方式(=HPBのどこでも配置モード)
  • テーブルレイアウト
  • HTML や CSS を「まとも」に使う

それぞれの特徴は、以下の通りです。

woopa! 方式

ページを構成するパーツを、表示結果だけを基準として、自由に配置する

テーブルレイアウト

まず表組みを駆使したレイアウトシートを作成し、表の桝目にパーツを入れていく

HTML や CSS を「まとも」に使う

情報を整理した HTML 文書を作成し、CSS で装飾する

テーブルレイアウトでは表組みによるレイアウトシートを用いますから、ごく簡単にいえば、レイアウト用の枠線を「またぐ」ことができません。微妙に「ずらす」表現などは非常に実現に苦労することになります。

HTML 文書を「まとも」に作成する場合の制約は、もっと根本的に厳しいものです。

HTML 文書のソースを見ますと、ようはその中身はテキストファイルです。1行目から順番にあれこれ書かれている。ブラウザの表示結果では、段組とか、いろいろできますけれども、ソースに段組はありません。情報の流れはひとつしかない。

撫子さんは home.html で、カレンダー、スミレの画像、便利なリンク集を横に並べていますね。多分、どれから見てもらっても問題ないのだろうと思います。しかし HTML 文書をきちんと作ろうとするならば、ソース上の登場順序を、しっかり決めないといけません。繰り返しますが、HTML 文書には、ひとつの流れしか存在しません。ふたつ以上の情報を、同時に流すことはできない。

ウェブサイトを作るとき、現状のパソコンのインターフェースが2次元なので、私たちはついつい2次元配置をベースに物事を考えてしまいます。しかし HTML 文書の仕様は、それを許していない。HTML 文書はテキストファイルで、だから情報を1次元に配置することしかできないのです。

もちろん、HTML の制約にはきちんと理由があります。しかし、woopa! で HTML の制約を気にせず気ままにウェブサイトを作ってみて、これまで何か困ったことが起きたでしょうか? おそらく、何一つ困っていないだろうと思います。

多くの閲覧者は視力に問題がなく、Windows 版の IE6 を利用してウェブを散策しており、ブラウザの表示領域を横幅 800px 以上に広げています。文字サイズの設定は「中」または「小」の人が多い。画像やスクリプトの利用を許可する初期設定を変更していない。

だから、「問題」は表に出てきません。最近は ADSL や光ケーブルなどのブロードバンド環境の利用者が大半だから、たくさんの画像を利用していることにも不都合ない。そんなわけで、撫子さんのウェブサイトにおいて、きちんと HTML をお勉強する「必要」はないかもしれない。

おそらく、というかほぼ確実に、woopa! を使い続ける限り、「まとも」な HTML 文書は作成できません。だから HTML を気にするということは、woopa! の使用をやめることを意味します。その代償は小さくないことに、注意してください。

以下、woopa! 方式を否定する意見を書きますが、ここまでに私が書いてきたことをお忘れなく。撫子さんご自身にとっての損得を考えて、結論を出していただきたいと思います。

4.

撫子さんのウェブサイトで、どんどん文字サイズを大きくしていくと、画面内にたくさんのスクロールバーが出てきます。それは何故か?

woopa! 方式では、各パーツを包含する div 要素に位置情報と縦横の長さを入力しています。文字サイズを大きくしていけば、どこかで規定の縦横の長さを突破してしまう。だからスクロールバーが出ます。

内容にあわせて大きさが伸縮すればいいのに……たしかにその通り。でも、無理難題というべきですね。woopa! 方式では全てのパーツの配置を作者が決めているわけですから、ひとつのパーツの大きさが変化したときに、他のパーツの配置をどう調整したらいいのか、ブラウザには判断しかねます。パーツの配置にルールがないから、しょうがないのです。

ここ、注意してください。ルールがなければ、コンピュータは無力なのです。「ここにこのパーツを配置しなさい」と命令されれば、その通りにしますよ。でも、文字が大きくなって、作者の指定した配置ではレイアウトに不都合が生じたとしても、コンピュータは気にしてくれません。

一方、woopa! は、「ルールを考えなくていい」ツールです。だからこそ、深く考えずに、好きな位置に好きなパーツを置けるのですね。作者がどのような意図でそのパーツをそこに置いているのか、いちいちコンピュータに教えないでいいから、楽ちんなのです。

5.

テーブルレイアウトは、表組みによるレイアウトシートを作成し、桝目の中にパーツを置いていく仕組みであると説明しました。

このレイアウトシートが、即ちコンピュータに作者の考えているレイアウトのルールを教える役割を果たしています。内容次第で桝目の大きさは伸縮自在、幅だけを指定するといったことも可能です。

ではテーブルレイアウトは万能なのか? もちろん、そんなことはありません。

人間は複雑な思考過程を経て、レイアウトを決定します。けれども、人間はそのデザインルールをきちんと表現することができない。だから、表組みによるレイアウトシートなどという、単純な仕組みを使わざるを得ないわけです。いやしかし、それにしても、テーブルレイアウトは単純すぎます。

説明図A,B

上図 A は見出しと本文の左側のラインが揃っている様子を示しています。テーブルレイアウトだけで本文を少し見出しよりも奥まった位置にレイアウトしたいと思ったら、ただそれだけのために図 B のように表の桝目をひとつ増やさねばなりません。マウスでパーツを適当に動かす woopa! と比較して、この面倒くささは異様に思われるでしょう。

そして、実際にテーブルレイアウトに必要な知識を頑張ってお勉強して、「さあサイトを作るぞ!」と意気込んでみても、表組みは所詮、表組み。まったくもって融通が利かないことに気付かれるはずです。

それでどうなるのかといいますと、シンプルなデザインを目指すことになるでしょう。パーツを大幅に減らし、単純なレイアウトの文書を作成するわけです。(その後、お勉強の進捗にしたがって再び凝ったレイアウトを実現できるようになったりならなかったりする)

6.

HTML とスタイルシートを「まとも」に使うとどうなるか。

テーブルレイアウトと同様、これはこれで極めていけば、woopa! で実現できる程度のデザインの多くは再現できるといいますか、そもそも woopa! だって使っている道具は同じスタイルシートなのだから当たり前といえば当たり前の話。

ただし、そういうレベルにはなかなか到達しないものですし、そもそも、現在、撫子さんが woopa! を使って作っているサイトのデザインが「HTML 文書の装飾」として素晴らしいものかどうかは疑問の余地があります。

ここはちょっと補足が必要だと思うので寄り道しますけれども、じつはウェブデザインには3つの方向性があり、それはここまで説明してきた3つの製作手法に概ね対応しています。

woopa! 方式

「ウェブデザイン」であること自体、とくに意識しない。ポスターのデザインと同じような感覚でレイアウトする。

テーブルレイアウト

事実上の標準となっている「ウェブサイトのデザイン」の型を再現する。ヘッダー、フッター、段組とか何とか、そういうことに目がいく。

HTML や CSS を「まとも」に使う

HTML によってマークアップされた文書の構造を、わかりやすく表現するためにデザインする。

HTML とはどのような技術か。簡単にいえば、用意したテキストのあちこちに「タグ」をつけてですね、これが文書のタイトルです、ここが見出しです、ここからここまでがひとつの段落です、といった文書を構成する要素を明らかにする(=マークアップする)ものなのです。

CSS に代表されるスタイルシートとはどのような技術か。簡単にいえば、見出しの見た目はこういう風にしましょう、段落の前後は1行分開けましょう、といった指定をするものなのです。

プロになるとまた違うのでしょうが、素人がチラシを作るときにですね、段落とか、見出しとか、考えていないと思いますね。何をどこに、どんな大きさで配置するか、そんなことばっかり考えてる。別にそれはそれでいいのですけれども、見出しも段落もない文書を、HTML 化する意味があるのかどうかは微妙なところ。だって、マークアップのしようがないでしょう。

でも、見出しも段落もない文書だって、HTML 文書にすることはできてしまう。div 要素という、とくに意味を与えられていない要素を使い、それをスタイルシートで装飾していけばいいわけです。見出しだから、見出しらしく表現しよう、というのではなしに、この div 要素はここに配置しよう、といった塩梅。この div 要素、あの div 要素……みんな同じ div 要素なのに、全部バラバラに配置などをするわけだから、行き当たりばったりのデザインになっていく。

「まとも」な HTML 文書では、そんなことはありえないわけですよね。タイトル、見出し、本文、小見出し、本文……。そして「見出しのデザインはこうです」とスタイルシートで指定すれば、全部の見出しが同じデザインになる。非常に統一感が出る。読者も一目で、文書の構造が概ね理解できるようになる。「これが見出しだね、そしてこれがひとつの段落、次が小見出し、云々」

そういうわけなので、「まとも」に HTML や CSS を使うと、ウェブページの見た目は、ある意味でつまらないものになります。HTML には僅かな種類の要素しかないし、ソースを見ての通り、情報の流れはひとつしかない。HTML 文書をスタイルシートで素直に装飾すれば、段組もありえないということになります。

7.

HTML を「まとも」に使って、どんないいことがあるのか。

残念ながら、撫子さんがすぐに実感できるような「いいこと」は、ほとんど何もないのではないかと思います。

それなのに、HTML を「まとも」に使うためには、少なくとも1日はマジメにお勉強しなければならないし、また1日頑張るだけで実現できるレイアウトや装飾は、非常にシンプルなものでしかありません。そして何よりつらいだろうと思うのは、マジメに勉強していくと、現在、撫子さんが思い描いているであろうウェブサイトの完成図が崩れてしまうことです。

前項で説明したように、現在の撫子さんのウェブデザイン観は、少なくとも HTML の思想とは相容れないものです。woopa! では、HTML が持っている「本来はこう使うべき」という制約を見事に隠蔽しているから、単なる道具として「使えりゃいいでしょ」という方向性で押し切ることができるわけで、ソースを見て「これでいいの?」と考え始めたら、撫子さんの目指してきた到達地点までもが否定されてしまうわけです。

8.

現在の撫子さんのサイトの作りを「よくない」といえる根拠は、たくさんあります。

  • 例えば、主に視覚障害者が利用する音声系ブラウザは、ソースに書かれている順番どおりにテキスト情報を読み上げます。woopa! では、後から追加したパーツがソースの後ろにどんどん付け足されていきます。そのため、いろんなパーツを足したり引いたりしながら作られたウェブサイトは、ソース上のパーツの順番と、視覚系ブラウザ(IE などの、いわゆるふつうのブラウザ)における表示結果から想像されるパーツの順序が対応しないことになります。これを読み上げると、ワケがわからないことになってしまう。
  • あるいは、読者がウェブページの内容を気に入って、ひとつながりの文章をコピーする場合を考えましょう。画面上では段落A→段落Bの順番に見えるのに、じつは段落Aが後から全面的に差し替えになっていた場合、コピーアンドペーストすると段落の順番がひっくり返ってしまいます。そもそも文章をマウスでドラッグする段階で「アレレ?」なことになるわけですが……。
  • そして製作者自身にとっても、あまり嬉しくない点があります。ウェブサイトをどんどん更新していこうとすると、似たようなレイアウトのページをいくつも作りたくなったりするわけです。違うのは文章だけなのに、毎回毎回、装飾用の画像をたくさん配置するのって、面倒くさいですよね?
  • 日記を毎日更新しようと思います。最新の日記はページの上の方に表示したいな、と思ったのだけれど、そのためには毎日、過去ログを下の方へマウスで移動させて、空間を作らなきゃいけない。超めんどくさい。
  • 現在のデザインが気に入らなくなったので、リニューアルしたいと思います……って、ええっ!? 面倒くさすぎる! 今から、全ページを作り直すの? ということが、将来、生じないとも限らない。

こうしていろいろ問題があるからといって、じゃあ、HTML を勉強したら、今すぐ、何かいいことがあるだろうか。いや、それはない、と。

むしろ、短期的には、お勉強したって、あまりいいことはないのです。頑張って勉強したのに、今よりずっと寂しい見た目のウェブサイトになってしまう。それに、当面は慣れないことをやるわけだから、woopa! を使い続ける方がだいぶ楽だと思うでしょう。

けれども、将来、ずっとウェブサイトを更新し続けるなら、どんどんサイト内の文書を増やしていくおつもりなら、お勉強なさった方がよいでしょうね。それも、できることなら、テーブルレイアウトじゃなくて「まとも」な HTML や CSS の使い方を勉強された方がよいと思います。

  • 段落をひとつ作るたびに、パーツの大きさと配置をいちいち決める面倒くささとはもうおさらば! 毎日の更新では、レイアウトのことなんか気にせず、どんどん文章を書いていけるようになる。
  • 音声系ブラウザでもオッケーです、とかいえると、ちょっとだけカッコいいかもしれない。
  • 文章の追加、削除、いずれも気ままにできちゃう。コピーも自然な仕上がり。
  • たったひとつの外部スタイルシートファイルを書き換えるだけでリニューアル完了!

    注:もし当サイトを表示したとき、画面右上の隅にセレクトボックスが出ていたら、スタイルシートの切替によるリニューアルを体験できます。HTML 文書に手を加えなくても、スタイルシートを交換するだけで見た目を大幅に変えられることを確かめてください

まあ、1日や2日でそういうことを実感できるものではないし、ひょっとすると、お勉強してよかったと思う前にウェブに飽き飽きしてしまう可能性だってあるのです。中学校で何となく柔道部に入って、それがきっかけで柔道を嫌いになってしまう人って、けっこういるんですよね。別に柔道だけがどうというのではなくて、習い事というのは、そういう危険みたいなものを持ってる。

多分、最初の一歩を踏み出す前に相談されたなら、HTML を勉強することを勧めたろうと思うわけですが、既に woopa! で楽しくいろいろやっているわけで、この段階で方向転換をするべきだと断言するだけの自信はありません。

9.

今後の更新、サイトの方向性について。

初めてのHPだそうですし、無我夢中で作成されたとのことなので、いろいろ迷うのは当然かと思います。

アドバイスは簡単で、「まとまりは気にしなくてよいので、やりたいことは全部やってください」これに尽きます。

このアドバイスは強力です。仕事なら潰れるかもしれませんが、これは趣味の話なので、「撫子さんが、じつはそれほど興味を持っていないこと」は絶対に続きません。自分の気持ちの話なのだから、やってみなくてもわかりそうなものですが、意外なことに(?)これはやってみなきゃわからないのです。

ま、そうはいっても、だいたいやる前から結果の見えている物事というのはないではない。とりあえず、リンク集はですね、自分のために作成するに留めるのがよろしいかと思います。他人のためにリンク集を作ろうとしても、これはなかなか続きません。

また1ページで収まっている間はいいけれど、どんどん掲載数を増やしていくならBookまーくというサービスの「公開Bookまーく」などをご利用になると、便利でよろしいのでは? ウェブサイトから自分の公開Bookまーくへリンクすればいいのですね。

Bookまーくで不満であれば、Yomi-Search のようなリンク集作成 CGI を利用されてはいかがでしょう?

そしてアフィリエイトですけれども、単に商品紹介ページを作るだけでどんどん売れて小遣い稼ぎになる……わけもなく、金儲け目当てではうまくいかないことが予想されます。だいたい、自分がよその素人の商品紹介ページからモノを買うことなんて滅多にないでしょう。他人も同じなんですね。というわけで、別のことで人を集めて、ついでに「お勧め商品」も少し紹介していく、そんな方向性を目指すのが常道です。

ロリポップのレンタルサーバをご利用になっているので、ロリポブログで日記のようなものを書き始めるのが、多分、一番いいのではないでしょうか。で、サイドバーにお勧め商品を並べる、と。

例えば、まあ、こんな感じですかね。上記リンク先のブログでは、紹介している本が年1000冊以上、売れているそうです。その100分の1、年に10冊売れたらいいかな、くらいの目標からスタートされるとよいでしょう。いや、そんなものですって、はじめは。

ブログに何も書くことがない? よそのブログを見てみますと、単なる日記を皆さん書いていらっしゃいます。それでいいと思います。とりあえず、はじめてみると面白いかもしれない。3割くらいの人は、意外と何かしら書くことが見つかって、そこそこ続くようです。逆にいうと7割は……なのですが、あまり気にしなくていいと思います。お金が余計にかかるわけじゃないので。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月25日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

燈絽さんと実琴さんが共同で運営する2次創作小説中心のウェブサイト。(ちなみに今回、ご依頼をくださったのは燈絽さんですので、以下、2人称は「燈絽さん」とします。

更新履歴が残っているのは昨年6月以降なのですが、とにかく大量の小説が公開されており、ビックリしました。これほどたくさん書いてきて、カウンターの数字が5000未満となると、「ううむ」と考え込んでしまいます。たしかにいろいろ改善案を挙げられないわけでもないのですが、もっとまずい構成・デザインのサイトでカウンターの数字がひとつ大きい事例もいくつも見てきたわけで、「いったいどうしてなんだろう」というのが正直なところです。

昨年、この手の事例で最大の衝撃だったのが Banded Agate ですが……って、サイト名も変わってアドレスも変更!? で、春から関東に出てくるらしい。激動だなあ。

ともあれ、焼け石に水ではあるけれど、やらないよりはやった方がいいかもしれない、その割には手間暇はやたらとかかる、というしょうもないアドバイスしか提示できないのが実情なので、あまり期待せずに読んでください。

ご相談の内容

全体のレイアウトも気になりますが、小説のページの文字の大きさや背景がどうなのかアドバイスをお願いしたいと思っています。後、意見や感想が欲しいと思っているのですが、全くといっていいほど反応がありません。よければそれについてもアドバイスを頂きたいです。

色々と勝手を言ってすみません。目についたことでも何でもいいので、アドバイスをよろしくお願いします。

アドバイスいろいろ
0.

お待たせしました。いくらなんでも待たせすぎで、申し訳ないです。

1.

おそらく、いろいろ不安があってアドバイスの依頼をされたのだろうと思います。

私の回答は、「問題ありません」です。

デザインに華がないことは認めざるをえませんが、少なくともそのことが何かに害を及ぼしているとは思われません。だいたい派手な見た目を目指すとひどいことになりがちなのであって、むしろそうした「失敗しているデザイン」と比較して、優等生といってよいでしょう。

淡い配色も字が読めないほどの極端さを慎重に避け、上品に、美しくまとめていますよね。メニューフレームの装飾はあまり見かけないもので、ていねいに作られている印象です。

ナビゲーションも概ねきちんと整備されているように思いました。行き止まりのページもありますが、ブラウザの「戻る」機能で十分に対応可能な範囲内。例えば「徒然」コーナ内の各文書に目次へ戻るリンクを用意した方がよいでしょうが、面倒なら現状維持でも問題なさそうです。

2.

燈絽さんのサイトデザインに、致命的な問題は見当たりません。したがって、「ここさえ改善すれば絶対にお客さんは増えるはず!」という景気のいいアドバイスはできそうにない。

もちろん「もっとこうされた方がよいのでは?」という話はできます。ただ、そうしたアドバイスには即効性がないだけでなく、効果の確実性も高くないことにご注意ください。いろいろ手間暇かけてサイトを製作していると、「こんなによく考えて頑張ったのだから、さぞかし効果があるに違いない」と錯覚しがちです。現実はそう甘くはない。結局のところ、内容が多くの閲覧者の心を捉えれば人気が出るだけのことです。

「なんであのサイトがあんなに人気あるんだ!?」と驚いても意味はない。今ここに1日1万人が閲覧するサイトがあるとしても、所詮、ネットユーザの8000人に1人が閲覧しているに過ぎないわけです。燈絽さんにとってつまらないサイトがその程度の人気を持っていても全くおかしくはない。燈絽さんはそのサイトに関心を持たない「8000人中7999人」の側にいるだけのことです。

ウェブで一定の人気を得るとは、即ちこのようなことなのですから、多数派の意向にあまり左右されても仕方ないわけです。

私のアドバイスがさして意味を持たないのは、このためです。より多くの人に喜ばれるように……などと考えても、たった1000人、10000人の心さえつかまえられない。そうした限界をよく認識された上で、以下を参考程度に読んでいただければと思います。

3.

のっけからよそのサイトの紹介になってしまうのですが、一般的な話についてはこちらを参考にされるとよいと思います。

少なくともデザインに関して、現状、これといって欠点はないように思うのですが、解説記事を読み込んでいくと「あ、これ、うちでもやってみようかな」と気に入るテクニックを、いくつか発見できるかもしれません。

既に述べたとおり、現状に致命的な欠陥がない以上、いろいろなテクニックを駆使して、より洗練されたデザインを実現したところで劇的な効果があるとは考えられません。

けれども、自分が納得できる、自画自賛できるデザインを手にすることができたなら、その自信はサイトへの愛着へと変化し、より楽しくサイト運営を続けられることになるでしょう。そしてしばしば、そういった管理人の明るい気持ちは閲覧者にも伝わり、よいコミュニケーションの基礎となるのです。

そんなわけで、参考サイトに目を通されることは無駄ではないのではないかな、と思います。

4.

二次創作というジャンルでは、燈絽さんのサイトほどシンプルなデザインで人気のあるサイトは珍しいのが実情です。だからといって派手なデザインにすれば人気が出るのかといえば、もちろんそういった話でもない。おそらく、二次創作で人気を得る才能と、画像のあるサイトを作りたいと思い、実際に作るセンスに(少なくとも形式的な)相関があるのでしょう。因果関係があるのかどうか、あるいは直接的な相関があるのかどうかはわかりません。

本文を読み始めてしまえば画像はどうでもいいわけで、いわゆるライトノベルでも本文を収録する紙面の大半は、白い紙に文字が並んでいるだけです。イラストは数十ページに1枚というペースでしか用意されていない。にもかかわらず、カバーには派手なイラストが使われ、目を引いていたりする。イラストを気に入ったところで、どうせ本文は文字なのだから、あまり意味がないような気が私などはするわけですけれども、ライトノベルの世界ではイラストは売上に貢献する重要な要素ではあるらしい。

まあ、二次創作の場合、著作権がどうとかこうとかいった問題もありますし、絵師さんと仲良しにでもならなければ、内容にあわせたイラストは調達できません。

では打つ手はないのかといいますと、じつはキャラものの画像でなくてもいいわけですね。文字と重ねて使うのではない、1点モノの画像素材はたくさんあります。ふつうの小説などの場合、キャラクターのイラストは使っていないけれど、やっぱり美しいカバーを用意していることが多い。こっちの路線なら、十分に対応可能だと思う。

……といっても具体的に改善案を作ってみようとすると、けっこう迷いますよね。まずは簡単なところから、やってみてはいかがでしょうか?

変更案の方が絶対に素晴らしい、とは思わないのですが、画像ひとつでもけっこう印象は変化するということを確認していただければ幸いです。

5.

ナビゲーションは、とりあえず問題はないのですけれども、私なら少しデザインを変えますね。

具体的には、なるべく少ないクリック数で個別の作品へ到達できるように目次の構成を変更します。

たしかに、1ページにたくさんの作品へのリンクを用意すると、その分量に閲覧者が「引く」可能性はあります。けれども、多少のことならクリック数を増やさない方がいいのではないか、と私は思う。

下の方の作品が目立たなくなってしまう……という心配はたしかに当たっていますが、とりあえず新作はページの上の方に特設リンクを作って紹介するとか、サイトのトップページに新着作品をリンクするコーナを作るといった対応もできますよね。

まあ、好みの問題なので、「あ、これもいいかも」と思ったら参考にしてください。「いや、やっぱりよくないよ」と思ったら、忘れてください。

6.

意見や感想がほしい、という件について。

本を買いますと、読者カードが入っていることがよくあります。せいぜい数行しか感想を書く欄がなく、その気になれば3〜10分で書けるわけですよね。でも、ほとんど誰も感想を書かないのが実情です。

あるいは、燈絽さんご自身、よそのサイトの小説を読んだ際、どれだけ感想を書いていますか。「うわー、すっごく面白かった!」と感動してさえ、何も書かないことの方が多いのではありませんか? 私の場合は、そうです。結局のところ、たいていの読者は、タダで読めるものはタダで読みます。

「感想を書いてくれなきゃもう更新なんてしない」と作者がすねても、やはり大多数の読者は何もしようとしない。「この人が作品を書くのをやめてしまうのは残念だけど、でも、だからといって何か感想を書こうとも思わないな。作者が気を変えてくれればいいのにな」と徹底的に自分は何もしない。どの作家も他の作家と同じではないのだけれど、多少の違いは読者にとってそれほど問題ではない。

あるいは、極端な話をすれば、仮に最後の一人の小説家が筆を折ってさえ、少なからぬ読者にとっては「読書」自体が数ある娯楽のひとつに過ぎず、自分が何らかの行動を起こしてまで守らねばならないものではない。

アマチュアが「同人」を結成するのはなぜかといえば、お互いに感想を言い合うというシステムを作らねば、ほとんど誰も感想を話してくれないからです。そして自分自身も、他人の作品について感想をいうことができない、書くことができないからです。相互に利益のある体制を構築してはじめて、「面倒くさい」という高い高い壁を乗り越えて感想を言い合い、参考にしあうことができるようになるのですよ。

ウェブでは素人でも何とかかんとかすれば、のべ100人くらいの方に作品を一部でも読んでもらうことは不可能でない。すると、確率1%でも1人くらいは何か感想をくれるだろう、とまあ、そういった期待が持てるわけですね。

でも、現実は厳しい。「ご意見・ご感想はとくに歓迎していません」といっている私のサイトはいささか特殊かもしれませんが、1日数千人が閲覧しているにもかかわらず、メールなどいただくのは月に2回程度です。カウンターの数字が10万くらい増えると、ようやくメール1通。はい、お分かりですね、通常のサイトなら当サイトの100倍くらい、いろいろ意見をもらえるはずだ、と仮定しても、1000ページビューにつきメール1通にしかなりません。

「世の中、そういうものなんだ」ということを、まず認識していただきたい。

燈絽さんのサイトの掲示板には、当サイトのメール受領頻度よりはよほど高い確率で投稿があり、ウェブ拍手からのメッセージも年に数回はもらえるわけですよね。カウンターの数字が5000に満たないサイトだということを考えると、とくにひどい実績ではありません。それどころか、平均値を超えているのではないですか。

そ、そんな……とガッカリされるかもしれませんね。でも、ないものねだりをしても、誰も何も恵んではくれません。

結局、ウェブに何か幻想を抱いてもダメなのでありまして、同人活動のようなものを、地道にやっていくことを勧めます。本当に知り合い同士で同人をやってもいいでしょうし、あるいはウェブ上に仲良しの作家さんをドンドン増やして、お互いの作品について感想や意見を言い合う体制を作っていかれるとよいでしょう。ただまあ、とくに後者の場合、基本的には「持ち出し」になることを覚悟してください。自分が5作品の感想を書いたら、相手が1作品の感想をくれる、それで満足しましょう。

7.

閲覧者数の割に、たくさんの感想をもらえる人もいます。いますけれども、それはようするに、学校でやたらと友達の多い人、みたいなものでしてね、真似しようったってできないのです。「何であの人ばっかり人気あるの?」と思っても仕方ない。いちおう、そんなことでも理屈はいくつかつけられたりするのですが、虚しいですよ、自分にはどうせ実践できないのだから。

文字だけのコミュニケーションにも、それなりに人格が現れます。それはお喋りから出てくる人格とはかなり違っている場合があります。だから、日常生活では人気がなくても、ウェブでだけは人気のある人とかもいたりします。ただ、いずれにしても、日常生活で人気のない人が行動を見直して人気者に大変身することが非常に困難であるように、ウェブで人気のない人が文章の書き方などを見直したって、やっぱりたいていの場合、人は寄ってきません。

ファッションセンスのない人が、みんなに褒められるようなコーディネートをしようとしたって無理で、せいぜい周囲を不愉快にさせない程度の服装しかできないようなもの、といってもかまいません。頑張って頑張って、それでもその程度なのであって、気を抜くとすぐに周囲に不快感を撒き散らしてしまう。悲しいですね。

既に述べたとおり、燈絽さんのサイトの人気、読者からのリアクションの量は、ふつうです。とくに多くも少なくもない。どちらかといえば多いかもね、という微妙なところ。この現実を、基本的には受け入れていくしかありません。だから、同人活動のようなスタイルを目指す他ない。友達同士や仲間の中で感想をお互いに言い合う仕組み……これは人類の知恵です。古臭いと思われるかもしれませんが、やっぱりこれが一番、強力だし、確実なんですね。

8.

二次創作系のサイトは、検索エンジン避けをするのが常識となっているようですね。著作権問題で目をつけられたくない、とか、必ずトップページの説明を読んでから閲覧してほしい、といった文化があるためだとか。

そのため、二次創作系のサイトのアクセスアップ手法は非常に限定されています。

燈絽さんには釈迦に説法でしょうが、念のために確認しますと、まず第一に重要なのは、いわゆる同人系サーチエンジンへの積極的な登録です。ひとつふたつのエンジンに登録しておしまいではなくて、常に人気のあるところを探して、どんどん登録を増やしていく。続いて、仲良くしてくれそうなサイトの掲示板に出没して、いろいろ作品の感想などを丁寧に書いていく。もちろん投稿者情報として自分のサイトのアドレスの入力は忘れないこと。そして相互リンクの申し出は基本的に全部、受け付ける。ただし相手がリンクを外したらこちらもリンクを外す。巡回先を増やす。参加型の企画があれば必ず立候補する。

肝心の作品さえそこそこいいものならば、基本的に、こうしたことを繰り返していくだけです。それで人気は出ます。というか、他に何もすることがない。

なーんだ、簡単じゃないか、と思ってしまう方が世の中には多いのですが、だいたい続かないんですよね。なるほど、やるべきことは分かりきっていて、簡単なのですが、続けるのが面倒だし、たいへんなのです。同人系サーチエンジンも、せいぜい10箇所くらいに登録したら飽きてしまう。一番の難所が、よそのサイトの作品をどんどん読んで感想を書くというステップで、あまりの不毛さに音を上げてしまう。ほとんど無反応ですからね。でも、地道にやっていくしかない。

そういうことに努力し続けると、作品の内容の割にアクセスがあり、そして感想もいくらか貰いやすいサイトになります。

どれかひとつだけ、ということであれば、大手サイトの企画モノに乗っかることですね。ま、何もしないでも人柄だけで人気を集める人がいるわけだから、その隣でこうして頑張るというのは、いろいろ精神的につらいものがある。ほとんどの人が続かないのも、当然なんですね。

いろいろ書きましたけれども、話しは最初に戻って、気の合う人と同人を組んでいくのが一番、お勧めです。できれば、会って話せる相手がいいです。文章を書くのは面倒くさいので。会って話せないなら、せめてメッセンジャーで連絡の取れる相手がいいですね。メールよりメッセンジャーのようなチャット型の方が、気楽にコミュニケーションを取れることが多いです。メールの3行、メッセの30行、っていいます。同じ精神的コストで、たくさん、言葉のやり取りができるのです。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月22日

記事にし損ねた話題。

平成18年1月22日

ご依頼人と Web サイトのご紹介

英文多読を実践中のおーたむさんが運営するウェブサイト。最近は少しペースが落ちているようですが、以前は10万語前後/月というペースで読んでいらしたのだという。

私はおーたむさんにアドバイスの依頼を受けるまで、英語多読の世界について全く知りませんでした。多読に挑戦している人々のことをタドキストというのだそうで、リンクを辿っていくと、様々なコミュニティへ導かれます。SSS英語学習法を見ると、多読は英語学習法のひとつであるらしい。けれども、コミュニティの雰囲気は、趣味の集い。なんだか楽しそう。

そして需要あるところ、供給あり。これまで近寄ることもなかった洋書コーナですが、顔を出してみるとタドキスト向けの本が何冊も並んでいる。なるほどね……内容的には日本語文献で用は足りそうな本が(いいお値段で)たくさん売られているのは、こういうわけだったのですか。世界が開けた気分。

ご相談の内容

以前Firefoxで見たときにはだいぶ文字等が重なっていました。IEでしかまともにみれないと思います。どこまできちんと見れるようにするのかは悩み中です。

HTML、CSSについてナビやマークアップやサイトの構成など。私見でかまわないので、見やすさ、バランスなども見ていただきたいです。

何をどうアドバイスしたものか、と悩んでいる内に1月になってしまいました。参ったな。

アドバイスいろいろ
0.

たいへん長期間お待たせして申し訳ありません。とうとう業を煮やして(?)リニューアルを敢行され、しかもそれさえ数週間前であるという……。

だから、というわけではありませんが、サイトの全面リニューアルにつながるようなアドバイスはありません。

1.

HTML はスッキリしており、見出しレベルの設定なども、よく配慮されたものです。ご心配の CSS の記述は、なるほど迷走気味ではありますが、基本的にはしっかりしたものだと思います。

サイト内の様々な文書に対し、ていねいにスタイルが指定されており、統一感は十分でしょう。和風の配色が英文多読という内容となぜか違和感なく、落ち着いた雰囲気と明るさを兼ね備えたよいデザインとなっていますね。

2.

Firefox で文字が重なる件ですが、基本的な理屈は簡単です。文字サイズの変化にボックスの縦方向の位置や高さが追従するように設計すれば、問題を回避できます。

具体的な対策は簡単で、いずれも無指定でかまわないのです。そうすれば、原則としてボックスの縦方向の位置は直前の要素の直後となって他と重なりませんし、ボックスの高さは内容にぴったりとなります。……無論、複雑なレイアウトを組む場合にはそう簡単にはいかないこともあるわけですが、その場合には em という文字サイズ追従の単位系でレイアウトを組んでいけば、文字サイズの変更によって文章が読めなくなることは減ります。

とはいえ、どれほどあれこれ工夫をしてみても、極端な文字サイズ指定には対応しきれないことがふつうです。Firefox では文字サイズを通常の5倍以上にもできるわけですが、それでも崩れないレイアウトなどというものを追求することには、一般的なレベルでは努力する必要性が乏しいというべきでしょう。

#navi h2{
clear:both;
font-size:small;
color:#fefbcc; /* クリーム */
background-color:#669966; /* 緑 */

border-top:4px solid #336633; /* 濃い緑 */
border-right:4px solid #336633; /* 濃い緑 */
border-left:4px solid #336633; /* 濃い緑 */

padding:1px 5px;

width: 662px;
height: 20px;
}

#navi ul{
clear:all;
list-style:none;
line-height:1.4em;
font-size: small;

padding:1px 5px;
width: 662px;
height: 20px;

border-right:4px solid #336633; /* 濃い緑 */
border-left:4px solid #336633; /* 濃い緑 */
border-bottom:4px solid #336633; /* 濃い緑 */
text-align:center;
}

#navi li{ display :inline;} /* リストにしない */

これはナビゲーション部のスタイル設定ですが、私なら以下のように書きます。

div#navi
{clear:both; border:4px solid #363;}
#navi h2,#navi ul
{margin:0; padding:3px 5px; font-size:small;}
#navi h2
{color:#fefbcc; background:#696;}
#navi ul
{list-style:none; text-align:center;}
#navi li
{display:inline;}

完成図

これはひとつの解に過ぎませんが、何かしらのルールにしたがってスタイルシートを書いていくことには意味があるだろうと思いますので、私の思考経路を簡単にご紹介しておきます。参考になさってください。

私はまず、border を div#navi に渡すことを考えました。該当部分の HTML の記述は以下の通りです。

<div id="navi">
<h2>Contens</h2>
<ul>
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/index.html">Home</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/first.html">始めに</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/blog/diary/">日記</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/bookshelf/bookshelf.html">本棚</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/tadoku/index.html">多読</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/bbs.html">掲示板</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/new.html">更新履歴</a></li>*
*<li><a href="http://autumn.pepper.jp/link.html">Link</a></li>*
*<li>mail</li>*
</ul>
</div>

ul 要素直下に「 * 」といったテキストを配置するのは文法違反ですから、「 * 」は li 要素の中に入れるべきですが、それはともかくとして、ナビゲーション用の h2 要素と ul 要素をグループ化する要素として div#navi が存在することに気付きます。

そもそも何のための 4px 幅の枠線なのか? それは、「Contents」という見出しと、ナビゲーションリンクのリストが同じ情報グループに所属していることを示すためでしょう。そのことは HTML のレベルで既にきちんと表現されているわけですから、それを素直に装飾すればよいのではないでしょうか。div#navi を無視して、h2 要素と ul 要素の装飾として上半分と下半分の枠線を指定するのは不自然です。

CSS は「素直」に使う限り、それほど難しいものではないし、面倒な記述も、かなりの部分を避けられるよう仕様が策定されています。(注:例えば「段組」は直線的な構造を持つ HTML 文書の装飾としては不自然なものなので、必然的に苦労させられることになります。多くの方は、HTML が本来は表現できないことを無理にでも表現しようとするから HTML にも CSS にも四苦八苦させられるのであって、「素直」な表現を心がければ多くの悩みから解放されます)

div#navi を「素直」に活用して枠線を担当させることで、CSS の記述は簡単になります。

また今回は、幅や高さの指定も無用ですね。ブロックレベル要素は、とくに指定しなければ幅いっぱいに広がりますし、内容に合わせて高さが伸縮します。仕様上、そのようなデフォルトスタイルが期待されているので、おまかせしておけば期待通りの枠線が実現されます。

div#navi 内の h2 要素と ul 要素には共通するスタイル設定がいくつかありますので、続いてそれらを指定します。この手順は面倒くさいように思われるかもしれませんが、一定以上の分量の記述を何度も繰り返し書くよりは、お勧めです。

あとはそれぞれの要素について細かい指定をすれば完成。

スタイルシートの記述は、「全体から部分へ」という流れを意識すると見通しがよくなります。「div#navi のスタイル設定→div#navi 内の h2 要素と ul 要素に共通の設定→各要素単独の設定」…… HTML 文書の構造を再確認してください。外側から順に、そして上から順に、デザインの指定が進められていることが分かるでしょう。じつはおーたむさんの CSS も同様の流れとなっているのですが、こうしたことを意識的に行っていくと、CSS の混乱が解消されるものと思います。

余談ですが、#aabbcc 型の色指定は #abc で代替可能です。私は短い表記の方が好きで、よく使っています。RGB がそれぞれひとつの数字に対応するので、数字を見ただけで結果を予測しやすいのですね。

3.

私が CSS を書く際、もうひとつ、注意していることがあります。

「一般から特殊へ」という流れです。

@charset "Shift_JIS";

/*-- position, width, height, float, display, margin, padding, color, background, font, border, etc. --*/

/*-- common --*/

*
{margin:0; padding:0; color:#140; background:transparent; font:normal normal normal 100%/1.4 Times,"Times New Roman","MS Pゴシック",Osaka; font-weight:inherit; border:none; text-align:left; text-decoration:none; vertical-align:baseline; list-style:none outside;}
html
{background:#fff url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-body.jpg) no-repeat top center; font-size:95%;}
body
{width:596px; margin:auto; padding:180px 70px 2em;}
h1,h2,h3,h4,h5,h6,strong,caption,th
{color:#251; font-weight:bold;}
h1
{margin:20px 0 50px; font-size:160%; text-align:right;}
h2,h3,h4,h5,h6
{margin:0 -70px; padding:20px 72px 10px;}
h2
{padding-bottom:17px; background:transparent url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-h2.png) no-repeat left bottom; font-size:140%; border-bottom:1px solid #fff;}
h3
{background:#fff url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-h3.png) no-repeat left bottom; font-size:120%;}
h4
{background:#fff url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-h4.png) no-repeat left bottom; font-size:115%;}
h5
{background:#fff url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-h5.png) no-repeat left bottom; font-size:105%;}
h6
{background:#fff url(http://deztec.jp/x/etc/img/x-p-h6.png) no-repeat left bottom;}
address,#address
{margin:2em -70px; padding:0.25em 70px; background:#f1ffee; text-align:right; border:1px solid #cddecb; border-width:1px 0;}
p,ul,ol,pre,blockquote,table
{margin:0.5em 0 0.5em 0.5em;}
p
{text-indent:0.8em;}
pre,.source,.longsource
{text-indent:0; padding:0.5em; font-family:"MS ゴシック",monospace; border:1px solid #665600;}
ul li
{list-style:disc outside;}
ul ul li,ol ul li
{list-style:circle outside;}
ol li,ul ol li
{list-style:decimal outside;}
dl,dd blockquote dl,dd dl.lv3
{margin:0.5em 0;}
dd dl
{margin-left:-0.5em;}
li,dt,dd,li ul,li ol
{margin:0.2em 0;}
li
{margin-left:2em;}
dt
{padding-left:0.5em;}
dt
{background:#e2ffde; border-top:1px solid #9ecd97;}
dd
{margin-left:2em;}
blockquote
{padding:0 0.5em; border:thin dashed #959162;}
q,em,strong
{padding:0 0.3em;}
q
{color:#663; border-bottom:1px dashed #959162;}
em,strong
{background:#eef;}
table
{border:1px solid #9ecd97; border-collapse:collapse;}
td,th
{padding:0 0.4em; border:1px solid #9ecd97;}
th
{background:#f0ffea; text-align:left; vertical-align:top;}
table.fig td
{text-align:right;}
textarea,input,#ln,.sss
{border:1px solid #464;}
a
{padding:1px 1px 0; border-bottom:1px solid #caf;}
a:link
{color:#885d01;}
a:visited
{color:#2f281e;}
a:visited,a:active,a.note:hover
{background:transparent;}
a:hover
{padding:0 0 0; background:#f1ffee; border:1px solid #9ecd97;}
img,#address address,a.note,a.note:hover
{border:none;}
img
{vertical-align:text-bottom;}
del,hr,.hidden,#ln
{display:none;}
ins
{background:#eee;}

/*-- class,id --*/

.lv1,.lv3
{float:left;}
.lv1
{width:50%;}
.lv2 h2,.lv2 h3
{margin:0; padding:20px 0 10px 72px;}
.lv2 h2
{padding-bottom:17px;}
.lv3
{width:50%;}
.break,.end,#address
{clear:both;}
#gn,#ln,.sss
{background:#fff;}
#gn
{position:absolute; right:0; top:0em; margin:0; padding:0.2em 1em 0.1em 0.5em; z-index:1; border-width:0 0 1px 1px; border-style:solid; border-color:#bbb #777 #777 #bbb;}
#gn li,.memo li,#address li,#address address
{display:inline; margin:0; padding:0 0.2em;}
#ln
{width:17em; float:right; margin:0 -30px 1em 1em; padding:1em 1em 0.5em 0.5em; border-width:0 0 1px 1px;}
#ln ul li
{margin-left:1em;}
.sss
{position:absolute; right:1em; top:2.5em; margin:0; padding:0.5em 0.5em 0.2em; z-index:1;}
.longsource
{height:200px; overflow:auto;}
a.note,a.note:visited,a.note:hover
{padding:0; color:#779; font-size:10px;}

上記は CSSplant.css という、私が書いたスタイルシートです。このスタイル自体の良し悪しは別としまして、書き方には参考になる部分も少しあるかと思います。

まず最初に全称セレクタ「 * 」でベースを整え、次に html 要素、body 要素などの大物を処理し、続いてブロックレベル要素、インライン要素についてスタイルを設定、最後に class 属性や id 属性が付された特殊な要素についてスタイル設定して、デザインを決めています。

いうなれば、料理のようなものだと思うのですね。最後の盛り付けにばかり目が行ってしまうと、しっちゃかめっちゃかになってしまうのです。まずはベースの味を調え、続いてそれぞれの材料(=要素)について、きっちり下ごしらえをする。盛り付けについて考えるのは、最後でいいのです。

……先に完成図が決まってしまっているプロのコーディング担当者には、このような手順は許されないことが多いでしょう。しかし趣味のウェブサイト製作においては、「素直」な手順を採用できるはず。場当たり的でなく、全体の作業進捗状況を見渡しながらコツコツとスタイル設定していくことができるようになると、CSS 記述時の先の見えなさ、不安感を、かなりの部分、解消できるようになるかと思います。

以前の tadokustyle.css と比較してリニューアル後のスタイルは洗練されてきているのですが、さらに改善の余地はあるように思いました。

4.

「本棚」のコーナが Firefox では崩れています。原因となっている記述は以下の通り。

.EntryBody ul{
padding:1px;
list-style:none;
font-size: small;
height: 20px;
}

どこが問題か? 正解は height:20px; です。IE はこの記述を勝手に無視してボックスサイズを広げてしまいますが、Firefox はボックスサイズを維持したまま、テキストだけは全部表示します。なので、はみ出した文字列が続きの部分と重なってしまうのですね。

じつはこの動作の違いこそが、文字サイズを大きくしたときに、ナビゲーションについて IE では問題なく表示されるのに Firefox では崩れる原因でもあるのです。単に高さを指定しなければいいものを、20px などと決め打ちするところから問題が生じます。まあ、よほどのことがない限り、高さは指定しない方がよいですね。そして高さを指定する場合には、

div {overflow:auto;}

のような指定を行って、内容物があふれる場合にはスクロールバーを出すよう記述しておきましょう。W3C の勧告書によれば初期値は overflow:visible; なのですが、何だか不便な気もしますね。

ところで、MacIE は overflow プロパティの処理に厳しい制限を設けています。その詳細を勉強して MacIE 対策をしても悪くないのですが、個人的には、overflow プロパティを用いるなら MacIE のことは忘れた方がよいと思います。あるいは、overflow は使わないと決めてはいかがでしょうか。

結論ですが、今回のケースでは、そもそも本棚ページにおいて div.EntryBody の存在意義が不明ですし、height:20px; も意図不明。いずれか、あるいは両方を削除してかまわないでしょう。

5.

HTML について、簡単に印象を述べておきます。

おそらく、とくにリニューアル後は MT の管理画面から「改行を変換する」設定で記事を作成されているものと推察します。

記事をざっと拝見した限りでは、CSS を当てるためのマークアップになっているのかな、という印象がありますね。文書全体のレイアウトのためにはいろいろ div 要素を配置したり、細かく class 属性を設定したりなどする一方で、あまりマークアップにこだわりのないらしい本文については、ほとんど br 要素と p 要素だけで片付けてしまう。

それでいいのか悪いのかが問題なのですが、まあ、いいんじゃないかと私は思いました。連続改行で p 要素挿入という仕様なので、ソースを見ると br 要素と p 要素が入り乱れて奇異な感じがしないでもないのですが、(ユーザスタイルを常用していない)大半の閲覧者はソースなんか気にしませんからね。それに少数の気にする人にとっても、文章を読んでいて違和感が生じるようなマークアップにはなっていないと私は思いました。br 要素無効化とか、p 要素の前後の行空きを3行にする、といった極端なユーザスタイルを当ててみましたけれども、問題ない様子。

本文部分について、ひとつだけ気になったのは、段落のはじめに全角空白を入れている文章。改行が多い文体だけに、段落の頭だけ字下げがあると、ちょっと気持ちの悪い見た目になります。改行のたびに全角空白を入れるか、あるいは段落の最初にも空白を入れない、そのいずれかを勧めます。おーたむさんが全然気にならないとおっしゃるなら、今のままでもいいけど……というくらいの些細な話ですが。

あと、今後、テンプレートを新規作成する際には、class 属性値のバリエーションを最小限度に収めていく方がいいのではないかと思います。ブログツールはずいぶんいろいろと情報過多な文書を吐き出せるので、テンプレートには大量の div 要素が登場しがちです。それらを全部活用するんだ、という気構えならばよいのでしょうが、よく分からないまま振り回されることになりがちです。

私には tadokustyle.css は複雑すぎて理解困難でした。一部を理解すると、他がもう分からなくなる。おーたむさんの実力はわかりませんが、私と大差ないとすると、これはたいへんだろうなあ、と思ったものです。「本棚」コーナのあまり意味のなさそうな div.EntryBody は、そのあたりの困惑・混乱の産物ではないかとも思われました。

なるべくシンプルなところから出発して、たしかに必要だと思う分だけマークアップを足していく、そうした手順でテンプレートを作成することができれば、

他の方のアドバイスに「HTMLとCSSというのは、本当はもっと便利な道具なのです。100個の文章の見た目を変えるのに、たった一つのファイルに手を入れればいい。そう、掛け算の世界なんですよ。」とありました。このサイトを知ってから、そのようになHTML、CSSを書きたいと思ってるのですが、どんどんかけ離れていってしまうように思います。

この悩みも自然と解消されていくのではないでしょうか。

あるいは、じつのところ文章は表現の形を意識して書かれるのがふつうだ……と考えるなら、ひとつスタイルシートを決めてしまって、そのスタイルシートで装飾されるのに都合のよい HTML 文書を作成する、という作業手順もありえます。HTML を主、CSS を従、とすると、どんどん class 属性値が増えてしまって収拾がつかなくなる、という問題で困っている場合には、発想を逆転させることも有効なのですね。

6.

バランスの話。ひとつだけ、書きます。

原則として、極端はよくないのです。だから、少しだけ、遊びを入れておく。すると、まとまりがよくなります。

具体的には、例えば h3 要素の装飾。左に border があって、文字も左寄せ。border と文字がピッタリくっついている。こうしたデザインがよい効果を上げるケースはありますが、ふつうは、避けた方がよいですね。おーたむさんのサイトでも、成功しているとはいいがたいと思います。では、どうすればよいのか。

border と文字の間に、少しだけ隙間を入れるのです。padding:2px 5px; とかですね。border の幅が px 指定なので、隙間も px 指定としてみましたが、文字サイズに合わせて em 単位で隙間を設定するのも悪くありません。

全体的には、どこかのサイトで紹介されていたというテンプレートがよくできているので、とてもよい感じだと思います。これを少しずつマイナーチェンジしていくのであれば、既に述べたスタイルシートの書き方であるとか、本項で述べたちょっとした padding の設定であるとか、そのあたりについて見直していかれてはいかがでしょうか。

7.

サイト全体の(ほぼ)MT化、お疲れ様でした。私は面倒くさくなって、何度も挫折しました。やれば便利だろうなと、Lecture の記事を修正などするたびに思うのですが。

……というわけで、少しだけやってみました。テンプレートは1枚しか書かない(目次は手動で作成する)という手抜きのやり方です。カテゴリ周りのお勉強には、すぐに飽きてしまったのです。頭を使うより手を動かす方がいいや、と。おーたむさんは正攻法で取り組み、問題を解決するのに最適なプラグインをどんどん探索・導入などされていて、偉いなあと思いました。

アドバイスは以上です。

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平成18年1月18日

「ニート」って言うな!

平成18年1月18日

今朝の産経抄(産経新聞1面の匿名コラム)は珍しく興味を引きました。産経新聞はこれまで、堀江貴文さんを時代の寵児とみなし、このような人物がもてはやされるのは世の中がおかしくなっているからだ、と警告を発してきました。しかし今朝の産経抄は、堀江さんは60年前に彗星のごとく実業界に登場し、あっという間に散っていった人物に似ている、といいます。ようは、堀江さんもまた、道徳の欠如した青年実業家の一典型に過ぎないというわけです。

堀江さんが好きだった人の掌返しも気になるところですけれども、「一貫した堀江批判の姿勢」の中にも矛盾は潜んでいるものなんですよね。まあ、何人も記者がいるのだから、こういうことが起きてもおかしくはないのですが。

堀江貴文社長を論じるとき、しばしば比較されるのが、戦後の混乱期に「光クラブ事件」を引き起こした山崎晃嗣(あきつぐ)という人物だ。昭和二十三年、東大在学中にヤミ金融「光クラブ」を設立。商店主らに高利で金を貸し付け、事業を急拡大させて世間を驚かせた。

反社会的で無責任な若者たちをさす「アプレゲール」そのものの生き方は、三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』のモデルにもなる。

「私は法律は守るが、モラル、正義の実在は否定している。合法と非合法のスレスレの線を辿(たど)ってゆき、合法の極限をきわめたい」。山崎が残したこんな語録は、確かに堀江社長の日ごろの言動とよく似ている。

昨年の「文藝春秋」五月号で、柳田邦男さんはそれぞれの時代背景に注目していた。敗戦と、第二の敗戦といわれたバブル崩壊は、人々の価値観を揺さぶり、社会は慎みを失って、拝金主義を蔓延(まんえん)させた。そんな「大変動の中から生まれた時代の申し子」だという。

結局山崎は、物価統制令違反などの容疑で逮捕され、それがきっかけとなって事業が破綻(はたん)し、青酸カリを飲んで自殺する。経営するライブドアが、証券取引法違反容疑で東京地検特捜部強制捜査を受けた堀江社長は、この危機を乗り越えることができるのか。

保阪正康さんの『真説光クラブ事件』(角川書店)によれば、山崎は新聞や立て看板を使った派手な広告で顧客を集めた。一方の堀江社長は、自らが広告塔となり、にぎやかな話題を振りまいてきた。きのうの東京株式市場でライブドアグループの株は軒並みストップ安となり、時価総額は約千五百億円減少した。これまで堀江社長をもてはやしてきた一部メディアの「風説」は罪に問われないのか。

山崎さんが飛ぶ鳥を落とす勢いだった1948年、彼をモデルに田村泰次郎さんが小説『大学の門』を書き、同年、映画化されています。そのあらすじを読むと、堀江さんが生い立ちを語った“明るいおカネ第一主義”の伝道師 その1その2その3とはずいぶん違う印象を受けます。

そもそも堀江さんは『私は偽悪者』という本を書いた山崎さんとは異なり、名実ともに正しいことをしているつもりなのだし、単純に山崎≒堀江とはできません。しかし「堀江さんは『新しい』のか?」という問いは立てられそうです。そして少なくとも堀江さん自身には「新しい」という感覚はなく、素直によりよい世界を希求してきたように見えます。強制捜査が行われた16日のインタビューでも、俺も悪いことしようと思って、しているわけではないし。みんなが良くなればと思って、やっているだけだからと心境を吐露されていますが……。

ともあれ、たしかに共通点もあります。堀江さんと似た一面を持つ人物は昔からいて、その折々に社会から排除されてきた、それが事実なのだと思います。いつの時代も人々は健忘症の重症患者なので、「こんな人物が大手を振って歩いているのでは世も末だ」といった嘆き節が絶えることはないのでしょう。

青の時代 白昼の死角 真説 光クラブ事件 ―東大生はなぜヤミ金融屋になったのか―

参考

平成18年1月17日

容疑者Xの献身

渡辺淳一さんが長生きし続ける限りありえないとも思われた東野圭吾さんの直木賞受賞がついに成ったので嬉しい。長さもそこそこだし、ミステリ小説が得意でない人も読むのに不都合ない内容でもあると思う。ドンドン売れてほしい。このミスでダントツ1位になったこともあって、多くの書店で平積みになっているから、立ち読みする機会はたくさんあるはず。この機会にぜひどうぞ。

以前、みずらぼ日記で直木賞は獲れませんと予想されていて悲しく思ったものですが、直前の逆転予想の方が当たってよかったです。ミステリの枠を広げてきた東野さんが、ど真ん中で受賞というのがまた奇跡的。もう時間は戻らないわけだし、素直に喜びたい。

あとどうでもいいけど「容疑者Xの献身」はカバーが非常に指紋汚れしやすい本なので、あとで売るつもりの人は買う前に手をよく洗った方がいいと思う。あときれいな本を探して本の山を引っ掻き回したがる人も、絶対に事前に石鹸で手の油をよく落とすこと! 指紋が線1本1本までくっきり、しかもこすっても取れないし、この本に限ってはものすごく迷惑になります。

余談。芥川賞の絲山さん、私は読んだことないけれど、何年もノミネートされ続けた方なので、受賞されてよかったなあと思いました。

直木賞落選の経験が作家に書かせた楽しい小説を2つご紹介。どちらも文学賞の選考を題材にした面白い作品です。「大いなる助走」は映画にもなりました。その他、印象に残っている文学賞テーマの小説といえば「倒錯のロンド」は外せない。

黒笑小説 大いなる助走

平成18年1月17日

で、この記事に引っ掛けられる読者が続出、と。

氏家さんの発言を、もう一度、冷静に読み返してください。メディアが「知の格差」を作り上げたのか、それとも視聴者が自ら思考停止を望んできたのか。多くの視聴者は自ら情報の判断を外注に出す選択をしているのに、なぜか高いプライドを持ち続けて自分の本当の姿に気付かない人も少なくないらしい。鏡を見せられてさえ、マスコミに責任転嫁して精神の安寧にしがみつく。IT Pro の事例が示す「事実」は何か、よく考えてほしい。

そして、この記事のタイトルは本当に事実から導かれる結論なのか、それとも庶民にとって耳あたりのよい空想の物語なのか、検討してほしい。

CK さんの記事こそ「ブログの読者やはてなブックマークの利用者なんて、こうやっておだてておけばイチコロ」という内容なのです。例の B 層問題とか、白燐弾は化学兵器とか、人権擁護法案は平成の治安維持法とか、ネットに生き、常に複数のチャネルからの情報を得て、その価値を自ら判断して、情報のポートフォリオを管理している私たちネット人に自省を促す事例には事欠きません。

夜郎自大、自戒すべし。

オマケ

関岡英之「拒否できない日本」などでも話題の日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書、Wikipedia でさえ実際には日本社会の改造指令書というべきものなんて書いているくらいで、Google で「年次改革要望書」と検索すると、アメリカが日本を滅ぼそうとしているんだという陰謀論がガンガン出てきます。

テレビで話題になったのは9月以降だったと記憶していますが、ウェブでは8月から大いに話題となっていました。それで、「政府の嘘やマスコミが報じない真実が簡単に手に入るのだから、ウェブはやっぱりすごい」みたいなナイーブな意見があちこちで書かれていたことを覚えている方も多いでしょう。

さて、「日米規制改革および競争政策イニシアティブ」とタイトルにある通り、改革に勤しむのは日本とアメリカ、両方なのです。そしてアメリカが日本に要望書を示しているように、じつは日本国政府もアメリカに対して要望書を示しています。

日本はこれほど多くの要望をアメリカに突きつけているのです。長大な4年目の成果報告原本)から明らかなように、日米双方がお互いの要望の多くを受け入れて改革を進めています。

かつてジャパンアズナンバーワンなどといわれた頃には、アメリカが日本の属国になるとかいう陰謀論が向こうで流行り、日本系ロビイストの「暗躍」が問題視されました。道具は進歩しても、人は進歩しません。

逆リンク!

平成18年1月16日

えええーーーっ!そうだったの!?オドロキ。

自己評価が低くてあんだけ自信ありげに生きて行けるのならたいしたもんだ。

逆でしょう。期待値が低いからこそ、「ダメな私でもこんなことできちゃった!」という感じでニコニコしながら生きていける。子どもが、自転車に乗れただけで嬉しくてたまらなくて、大人たちに「ね、ね、自転車にね、乗れたんだよ! 補助輪なしで乗れたんだよ!」と自慢して回るようなもの。

周囲の評価も大切だけれど、自分自身の評価も大切。自分に高い目標を課して、「ああ、全然ダメだ……」と落ち込むのは、損だと私は思う。「**できない私」よりも「**できる私」に自信を持って前進していくいき方、それを上野さんは実践されているのでしょう。

……というか、引用されている中に自己評価が高い人は鬱になるって説明されているじゃないですか。私は上野さんの世界観には共感しませんが、低い自己評価を設定して楽しく生きるという考え方には賛同しますね。足るを知る、分を知る、それは幸せだということ。

平成18年1月16日

この職人さんも、活動暦がけっこう長いよなー。楽天請求祭り標識でまたまたブレイク。

平成18年1月16日

うはは、面白い。

平成18年1月16日

初期の所見「所詮、他人事なのか?」(2006-01-16)

先日、佐藤優「国家の罠」(あらすじ)を読んだので、これも国策捜査なのかな、と思った(国策捜査脳)。とうとうきた、という印象。それにしても、ざっと報道を眺めた限りではグレーの案件に見えます。鈴木宗男さんの事件と同様、一所懸命に捜査してこの程度の埃しか立たない清い会社だったのだな、と(失礼ながら)見直しました。

最近はウェブデザイン系の雑誌を読んでいませんが、4年ほど前までは個人的にウェブ制作会社としてのオン・ザ・エッヂに好感を持っていました。作品がよかったからです。一昨年、球団買収騒動に堀江貴文社長が参戦されたときには、「なぜあの人が?」と意外な感じがしました。この先、堀江さんが逮捕されるかどうかは分からないけれども、今ここに堀江版「国家の罠」を読みたいと思っている自分がいる。ひどい。

ライブドアの経営全般を激烈に断罪する一部報道には「先走り過ぎ」との印象を強く持ちます。特捜部が動くと、捜査段階で既に犯人扱い。国策捜査の主眼は社会的制裁にあるといいますが……。それでもマスコミは東京地検の捜査が入るまでは激しい攻撃を自制してきたわけで、一般人のブログとかよりはマシ。

国策捜査とは? そして私たちの選択する未来(2006-01-17,25)

私は佐藤優さんの著書が示す定義において「国策捜査」といっています。佐藤さんは自分も国家機関の中で見てきたが、首相官邸が『この捜査をやれ』と指示することは絶対にない語っていますが、国策捜査は「時代のけじめ」であり、国民の正義感が検察を動かし、裁判官の判断を規定して実現するものです。国策捜査は冤罪事件ではないし、特定の権力者による政敵の粛清でもありません。

本件の直接の成果は連結の定義の明確化なのでしょう。法文や法の運用には「良識」で埋められた「隙間」があります。良識とは多数派の価値判断に過ぎないので、時節とともに変化します。自衛隊と解釈改憲は典型的ですよね。ただ、今回の事件において、法解釈の明確化は、時代を動かすための梃子に過ぎません。

覚醒剤や票の買収で辞任した議員より、立候補したけど落選した堀江さんの方が問題視され、堀江さんを応援した小泉内閣が強く批判されるのは、これが社会を変える事件だからです。ホリエモン・ライブドアに代表される価値観・ビジネス文化を否定する、その鍵としての証券取引法違反なのです。

ホリエモンを熱烈に支持したのは団塊の世代で、若年層は僅かに支持派が優勢、その他の世代は不支持が勝ち、総じて不支持が多数派でした。だからニッポン放送株の時間外取得問題が起きて以降、特捜部は内偵を続けてきたのです。

23日、堀江社長ら4人が逮捕されました。同日、東証は東証マザーズ上場のライブドアとライブドアマーケティングの株式を監理ポストに移管。24日、堀江社長辞任。

マスコミはルール通り堀江さんに大攻勢をかけています。自民党の支持率は低落し、小泉総理の改革路線に黄信号が点灯、IT企業関連株が暴落。しかし堀江さんが起訴され、裁判の結果が出るのは、まだまだ先の話。下される判決は懲役か執行猶予か、はたまた無罪か。もしホリエモン逮捕が国策捜査ならば、結論を出すのは私たちに他ならない。民主主義国日本の国家権力は大衆の支持なしに正当化されませんから。

国民が望む社会の形とは? ひとつの国民投票が、いま始まったのだと思う。

関連・参考

平成18年1月16日

若年無業者の増加が続き、いよいよ危機的になっているということで、昨年はニートとか縦並び社会といった言葉が流行りました。

本田由紀さんは玄田有史さんに代表される「人間力の向上による若年無業者問題解消」の主張を強い調子で批判されている教育社会学の研究者です。

ところが fhvbwx さんは上記記事において、本田由紀さんとNEET論者との違いはさっぱり分からないと述べています。

私が思うに、ニート「更生」論も本田由紀さんの専門教育(Ex.工業高校,商業高校)活性化提案も、個々人がレベルアップすれば労働需要は増大するという前提に立っている点で世界観を共有しているのではないかな。

たしかに私の勤務先でも、「ものすごく優秀な人が応募してきたら、中途でも何でもすぐに採用するはず」という話を方々で聞きます。「学歴じゃない、仕事ができればいいんだ」ともいう。とはいえ、その基準は超キビしい。一流企業のエース級社員が労働条件の格段に劣る職場へ転職を希望するわけもなく、事実上、ジョークの域を出ていない。

無業者に対する教育支援などが無意味だというつもりはありません。ただ、「優秀な人材が足りない」という声を真に受けて、対人能力を専門教育を通じて獲得する人が増えれば若年無業者問題が解決に向かうとの考え方は疑問。仮に現在、工業高校の卒業生が普通科高校の卒業生より就職率が高いとしても、それは単に彼らが就職活動を勝ち抜く能力が高いだけで、工業高校の存在が雇用の枠を広げているわけではなさそうなので。

やはり人手が足りなければ否応なく雇用を増やさざるを得ず、逆に不景気でどうしようもないなら、有能な人材だって放出する他ない。ニートがどうの、専門教育がどうの、といっても、個々人のサバイバルスキル向上を支援する制度を用意することしかできず、「無業者を減らす」という目標は実現されないでしょう。もし有能な若年無業者が何らかの施策によって社会に出れば、代わりに無能な労働者が失業するのではないか。

結局、本田さんや玄田さんのようなアプローチでは、「より適切な敗者の選別」が可能となるだけのように思います。

……と、書いてきてようやく気付いたのだけれども、教育社会学を専門とする立場で「若年無業者対策はマイルドインフレ+名目賃金微増(実質微減)+景気回復に尽きる!」とかいっても「で、あなたの仕事は?」となってしまうわけで、クリティカルな提案とはなりえなくとも専門教育に着目した提言を行うのは本田さん的に当然なのかもしれない。

補記

団塊の世代の定年退職が労働力不足を招き若年無業者問題を解消するという説を時々新聞などで目にしますが、愚論ですね。なぜなら引退者の激増は社会に危機をもたらすからです。現在は雇用が足りないので60歳定年も仕方ないものの、将来的には景気の力強い拡大により雇用をどんどん増やして老人の再雇用を進めるべきなのです。だから近視眼的に、団塊の世代が引退して若者が就職できてよかったね、ではいけない。

関連記事

「人間力」というような曖昧なもの曖昧なものであることはみんなよくわかっていて、マジックワードとして便利に使っているだけ、だから問題視する必要ないよ、という説。

余談

玄田有史さんのブログ。若者の目線を重視する携帯電話文体の中堅世代……玄田さんはニート論壇の Yoshi さんですね。

平成18年1月16日

トラックバック関連の記事をいくつか読んだ感想などをメモ。

ブログ探すのにGoogle使うなんて信じられない。ブログのエントリー探すならBulkfeeds、Ask.jp、テクノラティとかいろいろあるし。

私の備忘録を勝手に検索対象としてくれているから Google が好き。あと、ブログの記事だけ検索したいと思ったことは、過去に数回しかない。

トラックバック、皆は見ているのでしょうか?blog運営者としてでなく、閲覧者としてです。

基本的には読みません。でも、過去に私の記事に言及された方が寄せているトラックバックを見つけると、読みに行くこともあります。私は巡回先が少ないので、そもそも知っているブログは、過去に言及されたところくらいのもの。全然知らないブログの大半はつまらないという経験則があるので、それらを避けているだけです。他意はありません。

言及リンク文化圏の人々はノイジーマイノリティなので、自分たちが対策する道を探るべきだと思う。あるいは、せめて功利的説得であることを強調しないと、実効性に欠けるのではないか。……まあ、お仲間向けの記事なので、これでいいのでしょうが。

この記事はネタなのですが、「はてなダイアリーならたくさん関連トラックバックを打たなくてもキーワードで簡単につながることができて便利!」という説得を素直に書けばいいものになるのにな、と思う。……まあ、お仲間向けの記事なので(以下略)

余談:豪雪地帯に人が住むのはかまわないが、過疎対策は無用かもしれない、とは思う。(参考記事関連書籍

関連リンク文化圏(©松永英明)の女王である真鍋かをりさんは、たぶん現状を肯定的に捉えています。ライブドアブログのトラックバックにリンクを必須とする仕様変更の際は言及トラックバック文化圏が発言量で勝ったけれども、それは彼らがノイジーマイノリティだから。ライブドアが「正しいトラックバックのやり方」ではなく「スパム対策」を前面に打ち出したのは正解だと思う。

自分の管理権の及ぶ領域では、自分の価値観に従って行動しますね、私は。では他者のフィールドではどうか。トラブルの処理コストと自分のメッセージを伝える価値を天秤にかける、かな。

うまい! これと「ただのにっき」のアレを読んで、言及なしTBが何故いけないか、がわからない人は、かなり頭悪いと思う。

いけないと思う人の考え方が理解できない人はアタマ悪いかもしれないが、賛同するかどうか拠って立つ価値観次第なので、注意が必要だと思う。

→参考記事:Trackback と精神力の問題(2004-02-26)

これは「勝手にトラックバックを送っているくせに削除されて怒るな」という記事であって、?B で批判している人は誤読しているのではないかと思う。

……とくにまとめやオチはありません。

平成18年1月16日

佐藤信正さんの連載記事。何となく好きでアンテナに入れてる。佐藤信正さん、このところ仕事が順調なようで、2005年下半期は3冊も著書が出ました。しかもそのうちの2冊は重量級。

JScriptハンドブック―Java Scriptを越えた最強のツール VBScriptハッカーズ・プログラミング Sleipnir2カスタマイズテクニック―オリジナルスクリプトを作る

2005年は夏にも1冊出ているから計4冊刊行、飛躍の年ですね。

関係ないけど、高木浩光さんはベストセラーの著者になればテレビでの発言力が大幅に増すので、ウェブ日記の人気に安住しないでほしいと思う。プログラミングの入門書にケチをつけていても、多分ほとんど意味がなくて、「高木さんが監修するとバカ売れする」みたいな状況を作っていかないといけない。まあ、私みたいに、物をいうだけで満足するという性格なら、別にいいのですけれども。

Linuxによる情報リテラシー入門

平成18年1月15日

現行の HTML の仕様は、様々な主張を曖昧に許容するものとなっています。br 要素が好きなら、br 要素を使えばいいのだと思います。

私の主張はp要素は最小の節Renewal講座に書いたとおり。かいつまんで書くと、W3C の勧告からは「改行=blocklevel要素の区切り」という解釈が可能で、それ故に br 要素は存在意義を否定されます。blocklevel 要素の定義と br 要素の定義がバッティングしてしまうからです。また HTML は、そもそも制約の多い仕様なので、表現できないことがたくさんあるのは当然。

……とはいえ、HTML の制約に不満を持つ人は少なくない。そして彼らの多くは、MP3 程度の音質で満足した人々のように、br 要素による「表現」で満足できてしまうらしい。だから br 要素には大きな需要があるわけです。ま、とりあえず HTML4.01 では br 要素は非推奨ではないので、私も便利に使っています。

平成18年1月15日

特定の文書構造とセットの CSS ばかり。まあ、「テンプレート」ですからね、私の不満はいちゃもんに過ぎないのでしょう。これからはスタイルシートでデザインする時代だ、なんていってみても、レイアウト用の div 要素などはたくさん書いても、本文のマークアップには無頓着な人がほとんど。だからきちんと HTML の主要な要素について装飾を指定したスタイルシートには需要がない。

個人的には、以下のリストに示すスタイルシート群の方がずっと「参考になる」と思うのだけれど……。

ちなみに私の書くスタイルシートは、自分が使わない要素の装飾についてまともな指定がなされていないので、あまり汎用性がないと思う。

平成18年1月15日

作るのに苦労しただろうな、と思った。

とほほのスタイルシート入門などと比較すると、隔世の感がありますね。内容には大差ないのですが、解説の見せ方、そのビジュアルへの労力のかけ方が全く違う。私には真似できません。

平成18年1月14日

俺「こっちが正論なんだから他人を粛正して良いのだと妙に強気になり、オピニオンリーダーに追随して死に体になった弱者を徒党を組んで平気で踏みつける『理論派の』人々」が大嫌いなわけですけども、何かそういう人たちを表現する印象の悪いニックネームがあれば、それを使って周囲から揶揄されて、本人たちも少しは気付いたり自制したりするんじゃないかな、って思うんです。

(中略)

なんかいいネーミングないですかねぇ。

「場」を支配する多数派、と私は呼んでいます。私は少数派の立場から、彼らに対する恨みつらみを何度も書いていますが、「彼らがいなくなればいいのに」とは思っていません。

あらゆる「場」には何らかの偏りがあるわけですが、すくなくとも特定の「場」において、どの意見が多数派なのかを判断できるのは、悪いことばかりではありません。1対1で議論に勝つ人が「正しい」というものでもない。どれほど雄弁であっても、コメント欄が炎上することで別の観点からその人の主張が相対化される、という道筋はあっていいのではないか。dk さんは勝ち馬の尻に乗る人々にばかり注目されているようですが、逆のケースもありますよ。

ともあれコメント欄でも ?B でも dk さんの主張に賛同する人々がうようよ集まっているわけですが、もしこういったことに気持ち悪さを感じないのであれば、同じ穴の狢といっても過言ではない。数は力を持つので、「場」を支配する多数派に自制を求めることには私も賛成しますが、dk さんのやり方には反対です。

「尻馬くん」「ネット珍走団」「アナル男爵」「アナルホース」「下痢かけ君」「尻馬鹿くん」「チャンコロ」などなど、嫌いな相手に汚いあだ名をつけて罵って何になるの? ハンドルネームを名乗り、サイトを明かせば、好き放題に悪口をいう権利が手に入るのですか。現在、dk さんのやっていることは、dk さんが挙げた「匿名」「多数派」「悪口」の3条件のうち、2項目に該当します。正義を確信した「場」を支配する多数派は、やはり少数の「間違った」人々に悪罵をぶつけるのですね。

批判対象と大差ないことを、自分の主張に賛同する人が多いであろうステージを用意して再現するなんて、虚しいと思う。

ところで、私自身はコメント欄も掲示板も用意していません。炎上はあってもよいが、予防する自由だってあります。ある種の主張がコメント欄の炎上を招くのは当然ですが、それに対しコメント欄閉鎖で対抗するのが卑怯だとは思いません(注:卑怯だと思う人が多いことは承知しています)。

ウェブでの議論は弁論大会やディベートと異なり、ギャラリーの共感を多く得た人が勝ちます(=「場」を制します)。雄弁術の敗者にギャラリーの支持がついて価値観闘争において逆転勝利する場合があるわけです。

平成18年1月14日

「こだわらないこと」に拘る自由なデンパ。無為徒食日記の真名垣さんと趣味のWebデザインの徳保さんにも1度読んでいただきたいデス。

何故に私なんだろう【ピュア】。

バークレーのブログ - アクセスアップCSS(2005-12-01)を読みました。引用部を div 要素としてマークアップしている barclay さんに対し、blockquote 要素が妥当だという意見が寄せられた、という内容。ただし barclay さんの関心はコミュニケーション論へシフトしています。しかしそれも無理からぬところで、相手を馬鹿にしたような書き方では、内容以前のところで衝突するのも当然でしょう。

blockquote 要素より div 要素を使いたいという方に対して、現時点では「正しいやり方」を無理強いすることに意味は薄いと思っています。barclay さんは引用にはblockquoteタグを使用した方が良いでしょう、というのはごもっともです。そのためのタグですからね。と述べていらっしゃる。これ以上、何かを求める気持ちはありません。

Opera のユーザモードを常用していると、引用部が適切にマークアップされていない事例が非常に多いことがよくわかります。しかしたいていの場合、それで何か困ることはない。私は計算機ではなく人間なので、文脈を読むことができます。見た目に差異がなくとも、引用部と地の文を判別できるのです。ともあれ、blockquote 要素を用いない方の大半は blockquote 要素の存在さえ知らないでしょう。優先的に啓蒙するべきなのはこうした人々ではないでしょうか。

barclay さんの場合、“blockquoteタグを使わない”のは、僕のライフスタイルにマッチするんですよ。ただそれだけのために、DIVタグを使ったのです。とのことですから、これは知識の有無ではなく生き方の問題です。こうしたことに異論を差し挟むときは、慎重になっていいと思う。

このところ一部に「barclay さん=馬鹿にしていい」というような空気があり、不愉快です。ていねいに本来の筋を追う限りにおいて、件の記事はまともな展開だと思いました。barclay さんを怒らせるような書き方をして、わざわざ問題を作り出す人々に、私は共感しません。

私も他人を怒らせるような書き方をすることはあるのだけれど、「自分が相手を怒らせた」ことには自覚的だったと思う。もし私が忘れているだけなら、謝りたい。

関連

アクセスアップのためのブログで使えるCSS(スタイルシート)研究 【その1】(2005-11-27)
閲覧不可能となってしまった「バークレーのブログ - アクセスアップCSS」と同内容の記事です。
デンマンのブログ
更新継続中。
レンゲ物語
デンマンさんのブログ記事等のまとめ。

追記

zonia さん向けに解説しますと、barclay さんはどのようなコメントを書いてくれても、僕は必ず反論するという方なので、表面的な言葉ではなく文脈を読み取らねばなりません。このことに注意して読むと、kiya2014 さんへの回答からは、barclay さんが指摘された内容を素直に受け止めていることがわかります。反論のポイントは「論理の不備」であって、指摘自体には納得しているのです。そして中盤以降、barclay さんが怒っている相手はCSSビギナさんであって、kiya2014 さんではありません。

barclay さんの怒りようは尋常でないとはいえ、あえて barclay さんに捨てハンで詰問調のコメントをぶつけたCSSビギナさんに、私は同情しない。

平成18年1月14日

東大助教授である本田由紀さんの名前を初めて見たのは、はてなブックマークの人気上位に登場したインタビュー記事でした。通常であれば、そのまま忘却の彼方へ消えていくところですが、今度は加野瀬さんの記事と bewaad さんの記事に登場。短期間にこう立て続けに視界に入ってくると、さすがに気になる。

本田さんって何者なんだろ? と思って検索してみると、2ch のブログ論壇スレで話題になっていました。あと Amazon で著書が4冊出てくる。内、3冊が今年刊行。なるほど、本業でも今年ブレイクされたんですね。値段が高いので、いずれも業績欄に書けるような学術書なのでしょうね。

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて 女性の就業と親子関係―母親たちの階層戦略 多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで

30代で著書4冊とは偉い先生だなーと思ったら、64年生まれとのこと。あれれ。業績も年齢も吉村作治さんがその昔にテレビ番組で吹聴なさっていた「教授になる条件」をクリアされているのですね。来年あたり、肩書きが教授に変わるのかも。

私の卒研指導教官(助教授)は、教授と年齢が近かったので他大学へ移って教授になりました。私にとって未踏の地である北陸へ行かれたので卒業と同時に疎遠になってしまったのですが、お名前で検索してみると、お元気にされているようで安心しました。

……という記事を昨年12月に書きました。追記したいことがあって、公開を見合わせていたのですが、とうとう一ヶ月経ってしまいました。相変わらず書けない。なので、予定と違う内容を追記して一区切りとします。

その間に頑張って「女性の就業と親子関係―母親たちの階層戦略」「多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで」を読みましたが、問題意識を共有できない私には「データは面白い」としかいいようがなく……。とくに後者の提示するデータは、むしろ「本田さんがいかに小さな問題に拘泥しているか」を明らかにしているようにしか読めず、困惑しました。

あと、これはいっても詮無いことですが、「社会」を切り取るデータとその解釈は豊富なのに、「人」をきちんと追いかけるデータと視点が乏しい。80年代の小学生に取材したデータの解釈で本田さんは「昔はこうだった」という話をし、90年代の高校生に取材したデータを示して「最近はこうなっている」という。80年代の小学生=90年代の高校生なのだから、「社会」の変化だけでなく「人」の変化にも注目していいと思う。とはいえ、ひとつの研究を数十年にわたって引き継いでいく体制はなかなか作れないし、今、必要とされる過去のデータはもう手に入らない。であればせめて、データを分析する視点として、「人」に注目してほしい。

80年生まれの私は、幼少時よりずっと(外では)「お勉強ができる子よりも友達の多い子の方が立派なのよ」という教育を受け続け、いつも悲しく思っていたのでした。けれども、「友達が多い」ことは進学でも就職でもオマケに過ぎず、学力・能力がなければオマケだけ豪華でも希望は通らない。「誰にも誉められなくても、お勉強はしておきなさい」といった母は正しかった。本田さんは大学にいるので、「近代型能力」の存在を前提として、その先に思いが向かうのでしょうが、庶民にとって「ポスト近代型能力」とは「建前」の世界ではないか、というのが私の実感です。現状に不満を持つ者が、成功者を批判し、ガス抜きしたり、より低い境遇の者を攻撃して精神の安定を得るためのジョーカーカード、それが「ポスト近代型能力」なのであって、ハイパー・メリトクラシー化の実態なのではないかな……。

学者さんはいつも「世の中、変わった!」みたいなことをいう。そうだろうか。東野圭吾「白夜行」がテレビドラマになって再び注目されていますが、90年代の空気を捉えて絶賛された物語を牽引する2人の主人公は、1973年に小学生、つまり1960年代に生まれています。80年代に小学生で、90年代に高校生だった私が違和感を持ったのは、ハイパー・メリトクラシー化の「事例」がすべて、幼少時より目にしてきた日本の風景だったからです。「社会の関心」が移動しているだけで、私たちの生活実態はさして変化していないのではないか。言論空間が作り出すバーチャル社会の激しい変貌とは裏腹に、現実の社会を形作る人々の変化は乏しいのではないか。そして、本田さんの提示される様々なデータは、私の皮膚感覚を補強するものと思われたのでした。

先日、「2005年は非正規雇用者が約4%減少し、正規雇用者が約4%増加した」というニュースが流れました。産経新聞の報道では、失業者に対する教育支援制度などが失業対策が功を奏したということになっていましたが、多分、景気が回復し続ける限りは、基本的に雇用環境は改善されていくでしょう。失業者の「ポスト近代型能力」向上と当面の雇用回復にいったん因果関係が証明されたとしても、将来、再び失業率が上がったときに本田説は否定されると私は予想します。

……いや、そのときには「要求水準の上昇に能力が追いつかなくなっている」などと主張されるのかも。で、ウルトラ・ハイパー・メトリクラシー化なんて言葉を作ったりなんかして。現実がどう転んでも否定されない(しかも一定の支持を受け続ける)主張は、世の中に少なくない。空気を読んだ者勝ちなのか。

平成18年1月14日

きれいなまとめ記事、だと思う。私の感想? お話としては面白いと思うけれど、自分の問題としては「割とどうでもいい」という感じかな。

以前、子どもたちの間では「空気が読めないこと」が最も嫌われる、という話があったが、これは、大人の間でも共通しているようである。だから大変だ、ということらしいけれど、「別に嫌われたっていいよ」と思うなら、さして問題ではない。周囲の人には問題なのでしょうが。

田口元さんは、私の買わない本ばかり買っているな、という印象。個人的に目指すものはたくさんありますが、その一つが「気配り大王」です。なんて私には絶対に書けない文章で、美的感覚というか、人生観や世界観の隔絶を感じます。私はリーダーにはなりたくないし、気配りするより人と接しないようにしたいし、きれいな字を書くより他人に字を見せない生き方を目指したい。給料は現状維持でよい。

とはいえ、(個人的には第1版の方が巻末付録の内容が好きだったのですが)「ノンデザイナーズ・デザインブック Second Edition」は傑作。こういう本を紹介しているので、多分、その他も問題意識を共有されている方にはお勧めできる本なのでしょう。

なんじゃこりゃ、というような煩悩本のリストの中に私の好きな本が入っていた……私も仙人には程遠いな、と改めて思い知らされました。

平成18年1月14日

記者クラブが無ければ、警察も記者会見の連絡を誰に対して行ったらいいのか分からない。記者クラブがあれば、その代表者に話すだけでいい。芸能人が最近、ウェブサイトで公式な声明を出すのは、記者クラブがないからだと思う。従来は主要なマスコミだけに FAX を出していました。芸能事務所がクラブなしでやってきたことをなぜ警察ができないか? それは簡単で、警察が「主要なマスコミ」を選別すれば問題になるから。記者クラブのように、マスコミ側で自主運営しないといけない。

国民の「知る権利」を、なるべく公正に担保するために記者クラブは必要だ、というのは現実論として間違いない話。クラブの閉鎖性がしばしば問題視されますが、フルオープンでは、例えば誘拐事件の報道規制を守る倫理観のない連中まで情報に接することができてしまう。現状のバランスが最適かどうかという問題は問題として、「記者クラブを廃止せよ」は乱暴に過ぎるでしょう。フリー・ジャーナリストに対し無制限に門戸を開いて会見場に1000人も押しかけても対応できないわけですし。

……といったわけで、現実問題として記者クラブは社会に欠かせない仕組みなのだよ、といったことを花岡さんはいいたいのだと思う。「取材対象との癒着」などと言い募る向きも多いわけですが、証拠も出さずに誹謗中傷し放題なのはいかがなものか。曖昧な根拠で巨悪を作り上げ、それを口実に記者クラブを廃止したとして、明るい展望をどう描くのか?

無論、クラブのような会員制度が絶対によいというものではない。しかし例えば米国のような記者登録制度が理想といえるだろうか。ようするに「政府がジャーナリストを認定する」仕組みです。マスコミ側に主導権のある日本型の方が、理念的には優れているとはいえないか。いま、より信用できるのは政府かもしれない。だが長期的に見て、マスコミの力を削いでいくことが正しいといえるのか。

(単純な)記者クラブ廃止論は、万能の超人が指導すれば社会主義は成功する、みたいな話だと思う。記者クラブの厚い壁に阻まれて真実に辿りつけないフリー・ジャーナリストが世の中にはたくさんいて、記者クラブさえなくなれば多くの「悪」が暴かれて世の中よくなるんだよ……という伝説がありますが、厚生労働省に対する開示請求を全て認められた木村剛さんが、これといった巨悪を発見できなかった例もあります。

そもそも巨悪は実在するのか? 小学生の頃、先生方は悪いことばかりしている、とか思っていませんでした? 「大人の事情」を裏の裏まで深読みして大人を悪者にしていた中高生の頃を思い出して苦笑した経験、ありません? 世の中に「巨悪」が全然ないとはいわないけれど、陰謀論は自分を無責任にする都合のいい主張なので、なるべく避けたほうがよいと私は思います。

平成18年1月13日

昨年末に書いた記事について、たんぽぽさんからご意見をいただきましたので、「少子化問題を考える(まとめ記事)」に追記しました。以下、余談。

じつは、わたしのサイトは、メインもブログも、1日に10-20アクセスくらいと、希少レベルで、おなじくらいなのね。だから、どちらに書いたから、より読まれやすくなる、というほどでもないのでした...(たまたま、ウェブログを読んだかただけから、アクセスがあった、ということも考えられます。)

たぶん、メインもブログも表紙に一番多くのアクセスがあると思います。なので、もし表紙のアクセス数が同じなら、表紙に最新記事の本文が掲載されるブログの方が、読まれやすいのではないかと。とはいえ「続きを読む」を使い続けるなら差異は小さく、あえてサイト構成の方針を、変えるほどでないですという結論は理解できます。

ただ、ブログにメインと同じ内容の記事を載せた方がいいかもしれない、という私の提案は「も」に含意がありました。まあ、面倒に見合わないという判断は無理からぬところで、私もこれ以上強く勧めるものではありません。(なお私の場合、備忘録に書かず「メイン記事」へのリンクだけ示す場合には、逆に「あまり大勢に読ませるつもりがない」という意図があることも……)

平成18年1月12日

結局のところ、どうしても書きたいことがあれば、寝る暇も惜しんで何か書くわけで、備忘録が更新されない最大の理由は「書きたいことがないから」なのだと思う。ではなぜ書きたいことがないのか。

それはやはり、以前書いた通り主流派には名文書きがたくさんいて、基本的に私の出る幕はない。自分がそれを読み満足して、おしまい。……ということなのですね。ブロガーが激増した結果、視界の中に「少数派としての私」の主張を代弁される方が増え、その記事を読むだけで充足してしまうのです。屋上屋を架す意欲がわかない。

となるともはや「少数派の主張」を声高に訴える道はほとんど閉ざされ、いっそうニッチなテーマについて書く他ない。「価値観対立にどう折り合いをつけていくべきか」は備忘録の開始当初から折に触れ書いてきたテーマですが、他に書くことがなくなってきたので、相対的に目立ってきたように思う。

そうしたら今度は、松永さんがウェブ文化圏シリーズを発表。こういった記事が、いろいろな分野で、もっとたくさん、大勢の人に書かれるようになるといいなあ。大歓迎。労せずして私の主張に近い意見が大勢に伝わっていくわけだから。でもまあ、何というか、もやもやした思いはありますが……。

私が備忘録の更新頻度を上げるためには、1.ごく少数の巡回先以外の記事を読まないこと 2.アクセス解析だけは見るので誰かがネタ振り言及してくれること 3.健康であること などの条件が満たされねばならず、なかなか難しいかな、と思います。Read Only Member の気持ちは、今、よく分かる。ブログなんて面倒なこと、する気にならないですよね。

閉鎖する前に考えてほしいこと

4年間で私のスタンスがどう変化したか、何となく見えてくるように思います。

内容面以外では、文章を短くまとめる意図が前面に出てきているのが最近の傾向。推敲すればするほど短くなる。発表してからやたらと(10回以上)書き直した記事がいくつかありますが、「追記」や「補記」を書き足したものは別として、すべて初稿より文章が短くなっています。もともとは、「徳保の文章は長すぎる」という声が多かったことに影響されたのですが、最近は自分自身が長い文章に違和感を感じるようになりつつあります。

逆にいって、2005年以降に私が書いた長文(原稿用紙20枚超が目安)はたいてい、ろくに推敲されていません。例外はアドバイスで、内容がないのはどうしようもないから、長らく待たせて申し訳ないという気持ちが自然と分量の水増しに向かっているという……。

逆リンク!

平成18年1月10日

転載の条件などを改訂。曖昧だけど使い勝手のいいルールになったかな、と。

不定期に取得・保存しているアーカイブを本日付で整備。約1年ぶり。前回分とだけ比較しても変化は意外と大きく、少し驚く。まあ一般の閲覧者にはピンとこない変化ばかりのような気はしますが。

平成18年1月10日

たいへん楽しかったので、8日に観戦したオフ喜利2の感想を何か書くつもりだったけれども、連休はさっさと終ってしまい日々忙殺といった感じなので、もう書けないな……(注:私はすぐに記憶が曖昧になってしまう)。とりあえず、「大笑いする」という大目的は予想以上のレベルで達成できたし、3つの小目的も実現できたので、満足でした。司会の麻草さん、お疲れ様。

3つの小目的
  1. 岩倉さんを応援する→無事に決勝進出!(やっぱり打率は高いけど打数が少なく予選はハラハラ)
  2. 「三悪宇宙映画」のときに食べ損ねた新宿ロフトプラスワン名物「梅チャーハン」を食べる→とても美味しかったです、お勧め!
  3. 柊さんに挨拶する→挨拶できました

あと予選が面白かったので差し入れさせていただいた館長が優勝したので、審査にも納得。ただ結果発表とか審査委員長講評などについては、もうちょっと事前にきちんと段取りをしておくべきだったんじゃないかなあ。準優勝の三村さんが可哀想でした。

個人的な反省点としては、何故か決勝戦の途中でしゃっくりが止まらなくなり、カクテルとか飲みやすいお酒をどんどん注文して飲み過ぎたこと。結局、柊さんに声をかけられてびっくりするまでしゃっくりは止まらなかったので、バカみたいでした。やっぱりウーロン茶にするべきだったと思いました(帰宅してから気付いた)。いつだったかの九十九式オフでは飲み過ぎて駅の階段で足を滑らせており、私はどうもお酒がらみは苦手みたい。

関係ないけど、終了後に建物の入り口付近で輪になっていた中には見覚えのある顔がいくつかありましたが、目がバッチリ合ってしまった柊さんだけに挨拶して帰りました。やっぱり常識的にはまずいのだろうけれど、プライベートくらい自然な気持ちに従って生きたいので……。お互いに「あ、」とか思っていればそれでいいじゃん、みたいな。それ以上、仲良くなろうとも思わないし、とか。

平成18年1月6日

outsider reflex の Latest topics も「ブログ化」して変わったな、と思う。以前から現在のようなことを Piro さんは書いていらしたのだけれども、「ブログ化」によって書くことの敷居が下がったら、こうも話題が偏るようになったか、と。はてなダイアリーがテキストサイト界に与えた影響とか、はてなブックマークが云々とかもそうなのだけれど、昔、私が想像していたことはナイーブに過ぎました。

システムやサービス、もっと広くは執筆環境次第で、人々の生み出す作品は変わってしまう。夏目漱石がブログを使えたなら、「漱石日記(岩波文庫)」はどんな内容になっていたろう?

ちなみに岩波文庫版の漱石日記は抄録で、全体は漱石全集の第19巻第20巻で読むことができます。2巻で1000ページを超える大著ですが、極東ブログの方が分量は多いようです。このあたりもウェブで麻痺しがちな感覚。

高校時代、私は文藝部に所属しながら何も書かず、高校3年間に400字詰め原稿用紙で1000枚分以上も小説や随筆を書いた仲間をすごく尊敬しました。今でも当時の小説を読み返して、やっぱり面白いので尊敬の念を新たにするのですが、受験とかいろいろ考えてはみても3年で1000〜2000枚というのは、内容さえ問わなければ自分にもできることだったのだな……というあたり、最近ふと気がついて驚いているところです。

少し話は変わりますが、上記リンク先の約2年前に書いた記事、全面的に大間違いでしたね。結果としての見た目をどう調整したところで、はてなダイアリーははてなダイアリー、MovableType は MovableType、Doblog は Doblog、書き手にとって、「同じ」ツールとはなりえない。コミュニティの問題や各サービス特有の機能を云々するまでもなく、基本的な設計の違いはやはり大きい。実際に各サービスを一定期間使ってみた私の実感。

昔は「冗談でしょ」と相手にしていなかったけれども、ココログでなければ面白いことを書けない人、はてなが管理画面を変更したら更新頻度も内容も落ちてしまう人などは、いても不思議ではない。MT とココログだって、けっこう管理画面の見た目は違うし、兄弟のようなサービスとはいえ、どちらを使うかによってブログの質には変化が出てくるに違いない。もちろん、システムに影響される度合いは人それぞれでしょうが。

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平成18年1月6日

まずはお勧め。詳細はリンク先を参照のこと。

平成18年1月5日

このジャンルには世界史講義録という傑作があるわけですが、残念ながらいっこうに完成しそうにない。どんどんペースが落ちているので、このままでは2010年まで待たないと完結しませんね。著書が出たので、これから速くなることを期待したいところですが。

まあそんなわけで、とにもかくにも「完結している」という一点において、(当面は)世界史ノートは世界史講義録より素晴らしい、といえるのではないでしょうか。

その道の人が読むと、いろいろ不満はあるだろうと思います。ただですね、文句いう人が全部通して世界史をウェブに公開してくれているのか、と。あえていうなら、多少いい加減なところがあったって、無味乾燥な知識の羅列になっている箇所が目立ったって、この詳しさで一貫した世界史の講義ノートがウェブに公開されているというのは非常にありがたいことで、その一部だけをブログの記事なんかで批判したって、あまり実りがないと思う。

とはいえ、Wikipedia への不満は簡単に解消できるけれど、このような大作記事を批判するのに全体を代替する講義ノートを作成するのはたいへんな労苦を伴う。あまり批判者ばかりを責めると、それもまたバランスを失することにはなると思う。ただ、物事をくさすにしても、くさしようというものがあるんじゃないか、とは思う。

昔は気に入らない HTML 解説サイトなどを批判してみたこともありますが、やはり文句をいうだけでは……という思いもあって解説を書こうとして挫折。面倒くさすぎて書けなかった。気に入らないものを「気に入らない」というだけなら、一瞬の怒りのエネルギーだけで書けますが、代わりに自分が解説を書こうとするとすぐにガス欠となってしまうのでした。だいたい、他にいくらでもいい解説はあるでしょう、と。

別に、サイトの読者にとっては解説の著者が誰だろうと、内容がよければそれでいい。私はよい解説にリンクしていたのだから、何も困ることはなかったでしょうけれども、内心忸怩たるものがありました。そんなわけで、真名垣さんが Internet Exact Course を書き上げたのは、賞賛に値するなあ、と思ったわけです。

転載も流用も OK なようなので、リソースを拾っておこうと思う。いい解説も、しばしば消えてしまって残念な思いをするので。

平成18年1月5日

……こうしてリンクを並べてはみたけれど、とくにきっこのブログを批判したいというわけではありません。

この2つのブログを単純に並べてしまうのもまたどうかとは思うのだけれど、とりあえず。

2ちゃんねるをはじめとして、20世紀末から21世紀はじめの数年間にかけてウェブ世論は、どちらかというと反マスコミを基調として、一般世論と比較して右ブレする傾向にありました。そして「これが国民の真の声だ」といった上滑りが、よく観察されたわけです。そんな馬鹿な話はない、と私は思っていて、インターネット接続環境が十分に普及していけば、いつしか状況は変化していくに違いないと考えていました。

ネットも「現実」の世界と同じで、右の人は右で固まり、左の人は左で固まりまり、無関心の大会をぷかぷかと浮かんで、日常的にはお互いに接触しない。ときどき大事件(と多くの国民がみなす出来事)が生じると、無関心の海から陸地が生まれます。浮島には足が生えていて、陸地の端から端へと駆け回っては異見を持つ島とチャンバラをやります。にわか浮島もポコポコ出現して、他流試合をしはじめます。しかしやはり、無関心の大陸は広く、そして脆い。陸地は風化して浸食され、海中に没していく。

ブログ界の一般化はかなり進んだとはいえ、「現実」世界と同様、右の人は相変わらず「ウェブには左翼マスコミの報道に惑わされない人々がたくさんいる」と期待を持ち続け、そしてますますその印象を強固にしていくのでしょうし、左の人もまた同様の感想を持つでしょう。

2005年が論壇系ブログ界においてどんな年だったかといえば、保守系の情報ハブ Irregular Expression に対抗できるだけの読者数を誇る革新系の情報ハブきっこのブログが登場し、これでようやく「ウェブ利用者の思想的偏り」が「現実」世界とほぼ同等となった、そういう一年間だったといえそうです。

もちろん、思想を単純に2分することはできないわけだから、保守系だからといって Irregular Expression に賛同するとは限らないし、革新系だからといってきっこのブログを素晴らしいと思うわけでもないでしょう。ただ、新聞界に産経新聞と朝日新聞があるように、ブロゴスフィアにも左右両極の代表的なブログが存在していいはずです。そして産経と朝日のシェア比率程度に、あるいはテレビ報道の「偏り」程度に、サヨク的言説に与する側が多数派となるのが「自然」だと思います。

ところで、きっこのブログは明確にマスコミ陰謀論を唱えますし、Irregular Expression もいわずと知れたマスコミ批判の急先鋒、マスコミ不信だけはウェブ利用者の特徴として最後まで残った……というのもちょっと危うい面があるので要注意。情報フロンティア研究会最終報告書をめぐる騒動を思い起こしていただきたいのですが、基調としてのマスコミ妄信、一次情報ないがしろの知的怠惰の蔓延があり、その反省が八つ当たり的なマスコミ批判として噴き出しているという解釈もできそうなのです。実際にはマスコミが報道していることまで「報道していない」と早合点したり、自分の関心のある話題についてばかり「報道が足りない」と言い募ったり、全体を見ずに都合のいい責任転嫁の対象としてマスコミを引っ張り出す言説は枚挙に暇がない。

Irregular Expression はマスコミに取り上げられなかったがきっこのブログはマスコミに登場、というあたりは、「なるほど」という印象。大手マスコミ批判は中小マスコミ、例えばジャンルトップクラスでも数十万部を売るだけの週刊誌の得意とするところ。ゲンダイなどの夕刊紙だって部数は高が知れていて、しかし反(大手)マスコミ+反権力で商売になるのは基本的には左側。右側は雑誌の種類も部数も一段落ちる(傾向がある)。ともかくも、だんだん、「現実」社会のありようとウェブ論壇の様相はリンクしてきたので、ネットに夢を見てきた人はそろそろ目を覚ますといいと思うけれど、先に述べた通り、そういうことにはなるまいな。

……公職選挙法が改正されるそうですがね、仮に次回の参院選が「ネット選挙」と呼ばれるようなものとなったとして、その結果はネットの有無とは関係ないんじゃないですか、と。韓国の先の大統領選挙だって、たまたま彼を支持した若い世代がネット好きだっただけの話で、ようは若者の投票率が高ければネットと関係なく盧武鉉さんは当選したに違いない、ということ。

平成18年1月5日

な、なるほどー!! と、年初から感動した記事。結論は以下の通りですが、なぜそうなるのかは、ぜひ本文でお確かめください。

 国内対立が厳しい国内対立は緩い
争点は1つ二大政党制・比例代表制二大政党制・小選挙区制
争点は2以上多党制・比例代表制多党制・小選挙区制

ごちゃごちゃと考えていたことがスッキリと説明され、霧が晴れて視界が開けたときの爽快感に数分間浸りました。ただ、紹介されている本「民主主義対民主主義―多数決型とコンセンサス型の36ヶ国比較研究」は面白そうなのですが、値段がちょっと……。ページ数はそこそこだから、立ち読みしてみて読了確実と思えたら買ってみようかな。

正月休みは雑誌の未読記事を片付けるばかりで、結局、本は2冊しか読めず。実家に帰ったので、家族と話をして日を過ごしたというのが一番大きいのではありますが。ともかく最後の切り札をうまく使えなかった以上、未読本の山は引越し先まで持っていく他なさそうです。

ところで、

ちなみにwebmasterの管見では、あと30年ほど、つまり高度経済成長期の社会変動前の世代がほぼ死に絶えるまでの間は「国内対立が厳しい」でしょうから、その間は比例代表が望ましいのではないかと。

この結論には疑問が。なぜ昔から叫ばれ続けてきた「政治改革」が冷戦終結を期に具体化し、そして選挙制度改革という形で決着したのか、私は bewaad さんの記事を読んで、ようやく納得できたように思うのです。つまり、本当に厳しい国内対立が解消されたと国民の集団知が判断したのがあの時期だったのであり、その結果としての選挙制度改革、そして二大政党制を志向した政界再編と革新系政党の淘汰・縮小だったのではないか。

今後、衆議院と参議院から比例代表の議席を削っていくのかどうか、そのさじ加減は、「原因」ではなくむしろ「結果」として捉えるべきなのではないか。私は政治も経済と同様に「神の手」のようなものが働く世界という直観的認識(笑)を持っており、制度への省察からスタートする議論には乗れません。ただしもちろん、現在の制度は通過点であり、究極の結論ではない。したがって、「結果」としての制度の擁護と同時に、制度と現状のズレにも、もちろん注目していくべきだと思います。

首相の年頭挨拶を見るに、構造改革とは不良債権処理であり、それは実行されたことになっている。「その路線はりそな救済で放棄されたんじゃないの?」という声がかき消されてしまうことに、いわゆるリフレ派は不満が残るのではないかと思います。しかし首相のいう「構造改革」とはかくも融通無碍の定義不詳ワードに過ぎなかったわけで、「エコノミスト・ミシュラン」などが煽ったほどの対立は、なかったのではないか。経済問題に限らず、万事この調子という印象があり、概ね多数派に属する人々の間には表面的な言葉の応酬から連想されるほど国内対立は厳しくないようなのです。

現状の日本社会は比例代表志向か、それとも小選挙区志向か。やはり小選挙区比例代表並立制を採用し、そして比例代表の議席を削減して凪に入った状況に変化はないものと思います。仮に多少の変化があるとしても、衆議院の比例代表枠が削減・廃止されるなら参議院の選挙制度は維持され、参議院廃止なら衆議院に一定の比例枠が残る、そんな形で当面はバランスしていくでしょう。完全小選挙区制を採用するほど国内対立がないわけではないが、完全比例代表性に向かう状況にもない、と。

平成18年1月1日

とくに今年の目標もないので、昨年のページビュー推移を振り返ってみます。

2003年12月〜2005年12月の deztec.jp 以下の全リソースのページビューと訪問者数の推移を下図に示します。なお一時期、Wget によるファイルの大量取得が目立った(全ページビューの4割に達した)ので、その分は除外して折れ線グラフを描いています。また訪問者数については、24時間以内の重複 IP を引いた数字を1ヶ月分足し合わせて折れ線グラフを描いています。したがって同一人物が毎日訪問した場合、同月の訪問者数は28〜31加算されるわけです。

ページビューと訪問者数の推移

選挙の時期には郵政民営化関連の記事がよく検索されたようです。それにしても、2005年にもなってこんなにアクセスが増えるとは予想外でした。(2006-01-06)