私は迷走し続けているので、昔の記事を読んで、自分で感銘を受けたりすることがちょくちょくあります。
古い記事には現在と全く異なる主張も少なからず含まれていますが、現在の私が過去の自分をスッキリ論破できるケースは稀で、「何となく、考えがヌルくなっちゃったんだよな……」という程度の説明しかできないことが多い。
歳をとって丸くなったのかといえば、別にそんなこともなくて、最近の記事の方が過激だったりすることもある。過去ログには謎がいっぱいです。
関係ないけど「THE有頂天ホテル」は面白かったので、お勧め。平日の夕方で6割の客入り。誰かと一緒でも、あるいは独りでも安心して観にいける楽しい映画です。撮影の裏話はエッセイで読めますよ〜!
素人の場合、家電は店員に相談して買うのが早いし確実だと思います。最近では洗濯機を買ったビックカメラ池袋西口店家電売り場のKさんは非常に親切で回答が素早く的確。とてもよかったです。
こんな家電がほしい、という目的がしっかりしている場合には、基礎知識なしで出向いていいと思う。事前にチェックしておくべきことがあるとすれば、新聞のチラシを見て大雑把な予算を立てておくことですね。ここで注意すべきことは、値段には理由がある、ということ。「**が実現できるなら、中級の製品を買ってもいいかな」といった考え方をしなければなりません。最高の機能を最低価格帯で実現することは不可能です。
一方、使い方に強いこだわりのない場合には、機能面から検討を進めるべき。そのためには基礎知識をビックカメラ.com などでお勉強する必要があります。ビックカメラ.com では分類項目の説明という形で、最低限必要な知識がきちんと紹介されており、親切です。
例えば洗濯機を買うなら、まず全自動式と二槽式の違いを理解する必要があるでしょう。全自動式には洗濯専用機、洗濯+簡易乾燥、洗濯乾燥機の3種があります。またドラムの形態には縦型、横型横開き、横型上開き、斜め型の4形態があります。乾燥機能にはヒーター式、水冷除湿式、ヒートポンプ式の3種類があります。以上12項目について簡単な理解を得、「これいいなー、でも値段がすごいや」みたいな状況をざっとつかんでおく。
ある程度わかっている人が店員さんと相談すると、話がスイスイ進みます。このときのポイントは、素朴な質問を心がけること。「乾燥時の音が静かなのはどれですか?」「乾燥が速いのはどれですか?」「水の使用量が少ないのはどれですか?」「消費電力が少ないのはどれですか?」etc. 事前にお勉強した基礎知識は、「どれですか?」「なぜ、その機種がお勧めなのですか?」と訊ねるための基礎体力です。店員と身の程知らずの知識比べをしようとしてはいけない。
なお、機能などにこだわりがなければ、サイズの仕様と低価格帯を決め打ちした上でお勧めの品を訊ねればよい。炊飯器なら「3号炊きの安価でシンプルな製品の内、一番のお勧めはどれですか?」と訊ねればOKです。私の炊飯器選びは30秒でした。
諦観をベースにささやかな希望を抱く(2006-02-27)の続き。今回も加野瀬さんのご意見への回答という形式で(以下略)。
そもそもブログなどで人に言葉を伝えようとするのは、他人に影響を与えようとしている行為だ。そういう行為をしている人が、他人に与える影響なんて微々たるものだと最初から卑下していたら、閲覧者はそんな人の言う言葉に影響されるのはイヤだなあと思ってしまうのでは。岡田斗司夫的な「洗脳力」を自ら下げてしまう。
私の発想は、異なります。そもそも私の主張に共感する人は、ある程度、共感する素地のある人に限られます。Amazon のレビュー活動は、単に情報不足のために本来選ぶべき本を選べない人がたくさんいたので成功したのです。価値観は最初から共有されていた。「私のレビューの洗脳力が高かったので成功した」のではありません。
岡田斗司夫さんの発見した自由洗脳競争が資本主義とどう異なるのか? という問いは同書の解説でも提出されています。私はそのシニカルな解説に共感するところが大きく、言葉通りの「洗脳」はたいへん困難だと考えています。それは岡田さん自身がよく認識されているはずで、その後の著作はいずれも「洗脳」を意図しない記述で統一されています。具体的には、「じつはあなたもこう思っていたでしょ? それ、正解なんです。常識の方が間違っているんですよ」全てこのパターン。
つまり、表現活動によって自分の価値観を相手に注入することは(基本的に)しないのです。もともと相手が持っていた、しかし常識に縛られて抑圧されていた価値観を呼び覚まし、力強く肯定する……それが岡田斗司夫さんの著作に共通する形です。だから岡田さんの著書には説教臭いところが少ない。したがって、「いいえ、私はそんな風に考えたことはありませんし、考えられません」と返答する人に、岡田さんの著作は無力ですし、それはわかって書いているものと理解しています。
岡田さんが「洗脳」と書いたのは、じつは引っ掛けだろうと思います。岡田さんの著書が体現しているのは、これからは自由共感獲得競争の時代だ、ということです。「共感」というフレーズは手垢がついているので、パンチ力のある言葉を持ってきた、その結果が「洗脳」だった。ともかく実態は「共感」がキーなので、自由経済における情報の商品戦略として統一的に説明できてしまう。「洗脳」が困難である以上、多くの共感を発掘できる未開拓領域を発見する能力が重要。すなわち「市場のニーズを掘り起こせ!」という聞き飽きた話に通じている。
加野瀬さんへの回答をまとめますと、私の価値観に「洗脳」されて主張を転換する人はほとんどいない。もともと私と価値観の一部を共有していた人だけが、私の文章を契機に「あ、なるほどね」と思ってくれる。私は、読者の膨大な無意識の中に眠っている鉱脈を、当て推量でザクザク掘っているに過ぎません。「洗脳」ならともかく、「共感」を得るのに迫力は要らない。「私のいうことなんて、誰もわかってくれない」とまでいっても、共感は得られるものだと思っています。
無論、価値観を共有している人がいれば、の話ですけど。
加野瀬さんのご意見への回答という形をとりつつ、麻草さんのご意見にも婉曲に反応します。
備忘録を書いて4年、普段どれだけ自分が他人の説得を諦めているかを、逆に実感させられることになりました。様々な意見交換に嘴を挟んでみて、自分の無力を散々思い知らされ、「なるほど、こういうわけだから、日頃たいていのことについて自分の意見を何も主張せずに暮らしているわけか」と。そう思って自分の行動を見つめなおすと、じつはウェブでも気になるテーマのほとんどについて何も語らず、ごく僅かな事例についてのみ意見を書いてきたことに気付かされます。
徳保さんの記事中の「映画」というのは、映像やら書籍やら音楽やら、人間の表現活動に置き換えられると考えられる。そうした表現活動が他人に与える影響はない、人は読みたいようにしか読まないんだという話だと読んだ。
徳保さんは岡田斗司夫氏の『ぼくたちの洗脳社会』を評価してる。だからこそ、自分が良いと思っている書籍のレビューをAmazonに投稿していると以前書いていた。しかし、今回の記事の主旨と、ちょっとした表現活動でも他人に影響を与えられる(書籍の中ではこれを「洗脳」と表現している」と主張している『ぼくたちの洗脳社会』は明らかに対立している。
徳保さんは、たまたま見かけた機会を使って「表現が他人に対して与える影響なんて微々たることを知っており、他人が変わることを期待していない俺は賢い」という優越感ゲームをやっているだけなんじゃ? ジャーゴンでいうと「猫知り顔」っぽい。
単純化すれば矛盾なのでしょうが、私はこう考えています。
私は表現が他者に全く影響を与えないとは主張していないし、逆に目覚しい影響があるとも主張していない。ウェブデザインにしたって、「きれいに見栄えを整えれば訪問者数が2倍、3倍、運がよければ10倍くらいにはなるかもしれない」と何度も解説しています。だから「見た目なんて全く無意味」という主張に出会えば「そんなことはない」というし、「見た目はすごく大事、とっても大事、何より大事」といった意見には「アクセスが10倍になっても大手サイトの足元にも及ばない。本当に大切なのは内容ですよ」と応える。
映画の力と馬鹿な大人(2006-02-26)でコメントアウトした内容と重なりますが、私の主張も所詮はグレーゾーンの中の線引きを問うているに過ぎません。
「映画」に全く他者への影響力がないという主張は確実に誤りですし、逆に例えば「ホテル・ルワンダ」を全世界の人が観賞しただけで争いがなくなるわけでもないことは明白。したがって両極端は否定されるわけですが、では「真ん中が正解ですか?」というと、そうカンタンじゃないよね、とはいえるでしょう。そして私は「映画の力」について、諦観をベースにささやかな希望を抱くのが望ましいスタンスだと主張したいわけです。
「諦観をベースにささやかな希望を抱く」という考え方は、徳保的世界観の基幹です。だから私は、「人間なんて、こんなものですよ。」といいつつよりよい生き方を希求するのですし、「HTML の思想なんて永遠に普及しないさ」といいつつ啓蒙活動をやめない。諦めていればこそ、少々のことでは挫けない。「想定内」といって歯を食いしばっていける。
世の中の主流は、大言壮語して、あるいは馬鹿でかい夢を見て、そこからエネルギーを取り出しささやかな結果を実現していくという生き方だと思います。大勢が、この思想に囚われて「小さな夢しか描けない自分」「夢のない自分」を卑下して、ダメだダメだと悩んで、可能性を見失っていると思う。
「人間なんて、こんなものですよ。」と認識する。それで、人生の全てに絶望できる? できない人が多いと思う。そうしてそこから一歩でも二歩でも前進できたなら、「やった! 一歩、私は前進した! できたんだ!」と希望を持てると思う。諦めることで、初めて見えてくるささやかな幸せがある。全身に湧いてくる力がある。打ち上げ花火は天才の生き方。大輪の花を咲かせれば大勢を幸せにするけれど、実際に打ち上げられる人はごく僅か。私はもっと多くの人々に、線香花火を勧めたい。
注:もちろん二者択一ではない。だからこれもまたバランスの問題。どちらを重視するかという話に過ぎない、とはいえます。
この企画、一番たいへんなのは artist の id:tikeda さんだと思う。サービス全体の完成度は50%未満でも、画像やレイアウトは最初から80%超のレベルで出すのだから、そうとう苦労されているのではなかろうか。
私は映画にせよ何にせよ、それほど期待していないからなあ……。何かの役に立つと思って映画を見せたがる大人のことを「やっぱ人間って、歳をとると馬鹿になるのかね?」と思ってたあの頃(いつ?)の気持ちを思い出そう! 「ホテル・ルワンダ」を観賞して感動するのは、最初からその主張に共感するところのある人だけでしょう。だから、嫌韓の人は、嫌韓の心情に影響しない形で都合よく感動する。それだけのことです。
かつて私は仏教系の小学校に通っており、月に1回、宗教講話会と称してお坊さんのお話を伺う機会がありました。前半30分が説法、後半1時間が映画。たいていは面白い映画なのですが、ときにはいかにもそれっぽい内容のものもあります。例えば「ニーチという名の糞尿運びは街の人に軽蔑されていたが、お坊さんが街にやってきたことにより事件が起き、人々が職業に貴賎のないことを実感、ニーチに感謝するようになる」といった物語。この作品から小学生がどんな影響を受けたか? なんと出席番号21番の生徒を「ニーチ」と呼び、「臭い臭い」といってからかうようになったのです。
「お、お前らの脳みそは腐ってるのか〜!!」といいたくもなりますが、人間なんて、こんなものですよ。
宗教講話会の映画でとくに印象深かったのが「風のように雲のように」です。「銀河ちゃんかわいそう」とやんちゃ坊主が泣き、早熟気取りのいじめっ子は「セックス、セックス」とか愚痴っていて、この落差がまたひどかった。後年読んだ原作の「後宮小説」が傑作で、私の映画自体の印象はほとんど上書きされてしまいました。ちょっと残念。
映画ひとつ見て価値観が変わったなんてウソに決まっていると思っていい。「感動した」という言葉を否定する必要は全くないのだけれど、「そうかー、わかってくれたかー!」と口には出しても頭の中でまでそう思ってちゃダメだって。ま、ダメってこともないか。ようやく実感としてわかってきたことですが、「馬鹿な大人」になると、主観的に幸せになれるんですよね。何らかの価値観を奉じて、信じて、感動して、裏切られて、恨んで、愚痴って、憎んで、抑圧する。ちょう楽しい。
ここで紹介されている「お釈迦さまとニーチおじさん」が文中に登場したニーチをめぐる物語ですね。私の記憶はディテールが実際と異なっていましたが、大筋ではズレていないので、本文は修正していません。
面白い! ただしWin版Firefox1.5とIE6で確認。Opera8.5ではできません。
とのこと。
以前から CSS デザインの興味深い解説記事をいろいろ紹介していたみりばーるさんのブログ:てんぽですが、最近はとくに大ネタといいますか、多くの人にとって参考になる内容が続いているので、興味のある方は一見の価値あり。ようは仕様書をきちんと読みましょうという話なのですが、何百ページもあるものを集中して読み通すことは難しい。ポイントを絞った解説は、ありがたいものです。
17日に映画館で鑑賞しましたが、客の入りが……。goo 映画情報などを見ると、既に撤収体制に入っているので、イスラエルとパレスチナと聞いて「ウゲー」でない人は、お早めにどうぞ。スピルバーグ版「宇宙戦争」は何とか踏みとどまった感じでしたが、ジャクソン版「キング・コング」は早々に撤収が始まり、見たいと思ったときには既に見られなかった人も多かった様子。「ミュンヘン」は最初からこじんまりとやっているのですが、それでもそろそろという空気。
「ロード・オブ・ザ・リング」や「ディープ・ブルー」も素晴らしかったけれど、すごい映画があんまり多いので私は嬉しい悲鳴をあげています。同じようなことは本についても感じていて、現代の小説にせよエッセイにせよ、素晴らしい作品が本当にたくさんあるなあ、どんどん傑作が出てくるなあ、と思って感心しています。読みたい本がたくさんありすぎて困っちゃう。なので、「本が売れなくなったのは、いい本が少ないからだ」といった意見には疑問。音楽界も同様だろうと予想。
ま、私見ですけどね。
ミスも実力の内、なのかもしれないけれど……。やっぱり、天才:サーシャ・コーエンも最強:イリーナ・スルツカヤもノーミスで実力を出し切って、そうして金メダルを取りたかった、という思いはあるかもしれないな、と思いました。最後のスルツカヤが3位の成績となって金メダルが確定した直後、周囲の人はすぐに万歳して満面の笑みを浮かべたけれど、荒川静香選手当人は微妙な表情だった。
出番の直前まで遮音ヘッドギアをつけ、リンクに目もくれずに集中力を高めていた荒川さん。優勝が決まったとき、彼女はむしろスケート界の歴史や散っていった巨星たちに思いを馳せ、あるいはスルツカヤに感情移入していたのかもしれない。そして、世界選手権に優勝した元女王ではあるのだけれど、あくまでも荒川さんは謙虚な気持ちを持ち続けていたのではないか。自分が金メダルを獲得したことに、喜びとともに一抹の哀感を覚えたのではないか。
16歳で1998年の長野五輪へ出場した天才少女は、「次の世代のオリンピックだと思っていた」という2006年のトリノ五輪で最高の栄誉とともに競技生活を終えた。荒川さんは、光の影に消えていった無数の選手の思いのわかる人なんだろうな、と私は勝手に思い込んでます。ちょっと不安そうな笑顔を見ただけで、どれだけ空想しているんだ(笑)
我が子かわいさというのか、コーチらのコメントは1点の曇りもない喜びに満ち溢れていて、老化ってこういうことなのかな、と思う。人生への適応っていうんですか? 負けて死ぬわけじゃなし、敗者に感情移入する必要なんてあります? みたいな。余計な想念なのかもしれないけれど、フィギュアは勝利のために敵のミスを必要としない競技だけに、ライバルの転倒にはやりきれない思いをするのが選手の本音なんじゃなかろうか。
はてなブックマークはココが素晴らしい!(2005-12-28)で希望を表明した機能が、早くも実現。今後、当サイトでははてブのコメントをご意見帳として利用していきます。誤字の指摘などもはてブでよろしくお願いします(もちろん従来どおりメールやお電話でご連絡くださってもかまいません)。
hankakueisuu さんも CK さんも、今回の新機能には満足されるでしょう。
ちなみに、前方一致でリストが作成されるので、フォルダ構成のウェブサイトなら、各コーナ毎の被ブクマ状況を確認できます。
新着リストは RSS を出すので、RSS リーダで新着コメントを確実にチェックできます。(注:私は RSS リーダを利用していませんので、コメントを見落とすことが多いであろうことを予告しておきます。というか私の場合、RSS リーダを利用しても見落とすでしょうけど)
私が1年間もかけてようやく到達したレベルに、たった8日で! すごい!
rinrinwm さんは4月1日までにサイトを構築される予定だそうなので、3月以降は内容の充実に時間を費やされるのかな。
局所的に大ヒット中、らしい。
※さきっちょとはあちゅうの区別がよくついてないのは秘密だ!
マジレスすると、ヒゲのOLがさきっちょ、カエル怪人の中の人がはあちゅう。違いは一目瞭然。あるいは、自称「おばさん」がさきっちょ、自称「小娘」がはあちゅうなんだけど、顔を見ても歳の差はよくわからない。
今時の、というか日本の学生気質について書かれた記事をふたつご紹介。
60〜70年代の学生運動華やかりし頃だって最大派閥はノンポリだったわけで、両親や先生、会社の先輩方の語るところを聞くに、今も昔も大して変わらない……ように(私には)思えるにもかかわらず、主観的には「最近の若い連中はわからない」という人が多い様子。今も昔も同じ、と認識しているのは母くらい。
ま、それはともかくとして、私は「ちょっと頭のいい方に属する人」と周囲に認識されて生きてきました。あと「社会問題とかに詳しそう」みたいなイメージを持たれがち。その内実は、読者の皆さんがよくご存知の通りです。
ま、私自身、自分の程度はよく認識しているつもりでいたのに、じつはまだまだ謙虚ならざる点が多く、反省させられることが多い。とはいえ、素人は素人なりの開き直りをしていいだろう、とは思う。少なくとも現在の私は「バカは黙ってろ」という立場を取らない。微妙なバランスを求めることになりますが、「謙虚な開き直り」を持って思うところを言葉の記録に残していくことは、じつは世の中のためになるのではないか。
選挙で票を投じたり、社会調査の標本として統計処理されたり、そういった無名性の中に生きるだけでなくて、ね。
私はコメントスクラムの類は嫌いで、何度も批判をしてきたけれど、じつは積極的にその意義を評価する一人でもある。少なくともそこに、誰かの怒りがあるということ、悪を叩き潰さんとする正義心の発露みたいなものがあること、その事実を単に隠蔽することには賛成できない。よりよい形へ移行していくことは望みたいが、言葉の封殺は望ましい未来ではないと考えています。
はあちゅうさんは、凡百の若者とは比較にならないほど行動的で、知的で、多くの企業が採用したがる人材だと思う。2月18日の日記の内容を稚拙と感じる方は、人数としては大勢いるのでしょうが、実際問題として、同世代からまんべんなく集められた100人の中にはあちゅうさんを配置すれば、これだけ語ることができるのは相当な才能で、偉いことだと理解されるはず。
頭のいい人たちは頭のいい人たち同士で仲良くなって、その他の大勢を忘れてしまいがち。上ばかり見上げて、下を見ない。二極化を怒るエリート層という不思議。
元総理の中曽根康弘さんは、5回当選してもまだ八畳一間に5人家族で暮らしていた。風呂・便所は共同。庶民がその質素な暮らしに目を疑った「目指しの土光さん」とウマが合ったわけです。現参院議員の中曽根弘文さんは、そんな環境で育ったのです。私の引越し先は六畳一間。これを一人で使うのは贅沢すぎます。
話が錯綜して申し訳ないのだけれど、私ははあちゅうさんの意見に賛成はしません。世界の多様性を己の信じる正義で塗り潰していくことに不安を抱かない感性を、私は残念に思う。
ただ、「わかってる人々」のネタ的な扱い方は面白いのでよいとして、?B のコメント欄や ?D の少なからぬ言及に見られる侮蔑の感情は、結局のところ問題の再生産にしかなっていない。正面から相対することなく、黙殺もせず、軽蔑の心情を無邪気に吐露するのでは、先は見えている。ま、ちょっと叩かれたくらいでどうなるというものではないのだけれど。
fromdusktildawnさんは、まだまだ逆張りの修行が足りませんね!
案外、fromdusktildawnさんもウケ狙いでなく、素直に思っていることを書いているのかもしれませんよ。ひとつの意見を書くと、自分でそれをひっくり返したくなること、あるでしょう。そういう面を少し強調されているだけなのではないかな。だから、自分の古い記事をバリバリ批判している間に次第に話がズレ、結局は両論併記のような形になっていく。
fromdusktildawnさんの日記は長文が多い。思ったことをどんどん書いていったら、あんな感じになるのだと思う。私は面倒くさがりなので、適当に端折ってしまう。そのために文字にならずに消えていく思考の断片は少なくない。少し羨ましい。
私の結論。体育会系ジョークが好きな人とのコミュニケーションに要するコストはあまりに高いので、私は彼らと付き合わないことにしました。学校でも会社でも同じ。
「それじゃ仕事に差し障りあるでしょ?」その通り。でも私にとって、仕事で最高の結果を出すより、クビにならない程度に気持ちよく働く方が大切。彼らも「つまんない奴」を認識したら、あえて私に無理をいわない。事務的な会話はきちんと通じる。就職活動の際に散々苦労して、そういうレベルの人が集まっている会社を選んだ、ということ。世の中に、体育会系の価値観になじめないとひどいイジメにあうような会社のあることは知っています。
ところで、解説としては以下の記事が面白かったです。お堅い文章で淡々と続く説明、この無味無臭感がおかしい。
「正解」はともかく「失敗」はある(ことが多い)という認識のもとで人と応対すると、いろいろ都合がいい場合が多いように思います。ドラマでも小説でも、よくあるじゃないですか、「バッカ、そりゃお前が悪いよ。**ちゃんにそんな言い方するなんて」みたいな。私はこの手の話題を避けて生きているので、実際に耳にしたことはほとんどないのですが、それでも皆無ではない。「何ぼんやりしてるんだよ、追いかけろよ!」これは現実に遭遇したことのないシチュエーション。でも、経験ある人、けっこう多いみたいですね。
たいていの人は、「個性」なんていってみても、じつはふつうの人でしかない。こうしてほしいと思ってる、こうされたら喜ぶ、みたいなパターンがある。あるとわかっているなら、お勉強するに越したことはない。なので、恋愛指南みたいな本がたくさん売られているわけです。ドラマも小説も、妙に説教くさいわけです、ヘンな人から見ると。私なんかいつも「へー、ふつうの人はこう考えるのか」と感心しながら映画を見てます。「あ、こういうこといわれたら泣くんだー」みたいな。で、劇中で批判されてる側によく共感するのですが。「そんなもん知るか! もういい! お前らとはもう二度とつきあわない」とかいいたくなる。
以上は男女共通の話。とくに女性が……といわれると、さてどうでしょう。非常によくいわれるのは、「女性が会話に求めているのは共感」とかいうアレなんだけど、ちょっと今すぐに具体的データは出せないものの、女性の2割はそれほど共感を求めていないという資料を見た記憶が……。だから、それぞれの人に、それぞれの正解はある、といういいかたならまあ、とりあえず頷けるのだけれど、それは男性だって同じ。
たとえば、「女の子がなぐさめるみたいに、私をなぐさめてほしい」といい、男性がそのリクエストにどうにか答えようと、女性の口調でなぐさめようとすると、「そうじゃない、それはオトコの前でなにか話すときの女の子でしょう。女の子が女の子をなぐさめるのはちがう」と怒りだす。わたしはちょっとわらってしまったのだが、彼女がなぜ怒るのかといえば、女性には、自分がいった言葉に対して、このように返事をしてほしいという模範解答があり、同じ女性であれば、当然のごとく正解を見つけだし、期待通りのなぐさめ方で自分を元気づけてくれるのだが、男性にはそれができないということにいらだっているのである。
映画に見飽きたと思うのは、こういうパターン通りのシーンが出てきたときですね。「女の子ならこうするはずだ」という決めつけを、何で女性が自分で語っちゃうのかね。それは逆に自分もそうやって、何らかの枠の中に押し込められていくことなのに。ま、映画の脚本なので、多数派の価値観をあたかも普遍の真理であるかのように描かざるを得ないのだろうけれど。少数派の女性はもう少し声を上げた方がいいよ。
無論、記号の暴力性を一切拒否したら言語でコミュニケーションすること自体できなくなってしまう。だから……という諦めの中で、仕方なく大雑把な話をしているなら、私もムカムカしない。でも、そうじゃないみたいなんだよなあ。
個人的な体験に即していうと、私自身、自分の主張を「みんなの主張」として語ることの便利さ、強力さを実感する機会が多々あり、ヤバイなーと思っているわけです。わざとそういっているうちはまだいいけど、本気で言い出すとね、自分の意見が世界の意見になり、社会の多様性が全て許せなくなってしまう。もちろん「個性は大事」みたいなお題目はあるのだけれど、当然、それも「私が許容する個性」限定なんですね。
まあとにかく、危ないってコトですよ。(思考停止な結論)
男性には、こういったコミュニケーションの発想がない。「私がAといったら、Bと返事してほしい」という考え方をしない。つまり、期待する答えはあらかじめ決まっていて、お互いが手順通りに会話をして、それが両者の予測通りに成立する、というコミュニケーションに対して、どうして満足を覚えるのか、いまひとつよくわからないのである。それは男性にとってはほとんど会話ですらなく、ただの確認というか、「山」といわれて「川」とこたえるような、合い言葉のようなものにしかおもえない。わたしも、会話はむしろ予想のつかない方向に脱線するべきだとおもっているし、期待通りの返答がなくてもべつにいらだったりはしない。これは、女性にとっては鈍感さなのだろうか。わからない。
これもまた極端なんで、朝ガバッと起きて「うわ、寝坊した!」と小さく叫んだとき「死ね、ボケナス」とかいわれたら、げんなりしますよ私は。そんな返事がほしかったんじゃない、ということにはなる。じゃあどんな返事ならいいんだ、といわれても困るのだけど、「それは違う」という回答はあります。ていうか、id:zoot32 さんのいう「女性」だって、その程度のことを思っているのではないか、と推測するわけなのですが。
……なんだかなあ、と思ったり。いや、いずれも知っておく分には有用な知識なのでしょうけど。個人的にはイチニクスさんの逡巡に少し共感。
サーチエンジンの発達により、近い将来ライターなどという職業は死滅すると言われたことがある。だが筆者は全くそうは思わない。オリジナルを考え出せる人間が一人も居なくなったら、一体誰が誰にリンクするのだ?
逆に、オリジナルの発想ができる人間がどんどん死滅していくことで、筆者の付加価値はどんどんあがるんじゃないか。うひひひ、ネット人よもっとバカになれ、これでオレの老後も安心ですなぁ、などと考えているのである。
甘いですかそうですか。
甘いですよね。だって例えばCS局やCATV局などの番組では、オープニングの映像が素材集そのまんまみたいなのが結構ある。元ネタを知らないから、みんな気がつかないだけだ
そうですが、別に視聴者は素材集からセレクトした画像だって気にしていない。高価で下手なオリジナルより、安価でそこそこのクオリティがある映像なら文句ないのが視聴者というもの。MP3 の音質で満足するのが一般人ですよ、何を期待しているのか知りませんが。
これからの報道は次第に「オリジナルの素材はもっともっと少なくていい」という方向に進むのではないですか。僅かな専門企業が取材をし、アルファブロガーみたいな記者が主要な言説のバリエーションを用意し、その他大勢が劣化コピーを作成する、という流れ。これはラジオとレコードが街の居酒屋から生演奏を駆逐したようなものです。これはこれで悪くないのであって、水平分業の強みで言説のバリエーション自体は現在より豊富になり、マス媒体の多様性が増進していく可能性はありますよ。
あと、オリジナルの発想ができる人間がどんどん死滅していく
というのは単なる幻想でしょう。口コミが目に見えるようになっただけといっていい。つまり、これまでもマス媒体の情報の受け売りをしているだけの人が世の中には圧倒的に多かった。でも彼らの存在や言動は目に見えなかったので、何となく神秘性を帯びていた。実態はこの程度でしたよ、という話。
何というか、現在のテレビや新聞の報道体制はくだらない感じがしますね。何人もの人が、同じコトを取材して、同じ結論にたどり着いて、同じような記事を書いている。事実の取材、言説の組立、これらを分業し、共有できたらいいのにね。事件の被害者が、マスコミ各社から何度も何度も同じ質問をされる馬鹿馬鹿しさ。もうそろそろ、何とかした方がいい。
共同通信社頑張れといいたいわけじゃない。取材メモをそのまま全部販売する、録音テープ、インタビューした映像素材をそのまま出す、そういう取材専門で編集をしない企業がほしいわけだ。で、言論専門企業は言論の種を売る。ようは、新聞の特集記事や雑誌記事の製作体制を分業せよ、ということ。共同通信みたいに、完成した記事を売るのでは全然ダメ。そういうのはもう古い。
先日の電気用品安全法 SideAの記事に関して、こんなことを小寺さんがBlogで言っていた、という新しい解釈のBlog記述を発見して、衝撃を受けた。
すなわちパソコンのモニタ経由で見ている以上、それがニュースサイトの記事だったりコラムだったりBlogであったりというツールの使い分けというのは、あくまでも発信側の理屈であって、みる側としては信憑性も含めてなんもかんも一緒くたに見えているということなのである。
ある意味これは発信する側にとって、根幹を揺るがすとてもおそろしいことである。ちなみにこのBlogに関しては、編集部の校正も何も入らないナマの文章であり、ITmedia +D に載るコラムというのは、編集部ならびに編集責任者の目をいったん通して校正されたのち表に出る、ある意味出版と同じプロセスを経由するものなのであるが、それすらも関係ないということなのである。
(中略)
もちろんBlogでもちゃんと裏を取って責任ある発信をしているところもあるだろうが、「メディア」とは単にインフラだけを指すという発想をする人間がすでに現われているということは、肝に銘じておく必要があるなぁと痛感した。
この感覚、わからない人にはわかるまい、と思う。とりあえず、ひとついえることは、「適当なことを書き飛ばすなら本名や通名を出してはいけない」ということなんだろうね。裏取りなしでいい加減なことを書いても、雑誌や新聞に書くのと同様に信用されてしまうのだから。メディアで売った名前で読者を集めつつ、気楽に適当に思ったことを(よく調べずに)ちゃらちゃら書いていくことはできない。いいとこどりは許されない。
逆に、いい加減なことを書くというキャラクターを確立してしまう手もある。内田樹さんのブログはその好例で、連日のようにアップされる放言に「こういう人だったのか」と認識を改めた読者も多かろう。しばしば(様々なレベルの)事実誤認を指摘されているのだが、滅多に記事が修正されることはない。そういう目で新聞などに掲載されているコメントなどを読むと、どうも胡散臭く思えてくる。でも、それで内田さんの本が売れなくなるわけではない。総理大臣をバカと呼ばわりしても咎めだてする人はおらず、名誉毀損にもならないらしい。相手と言葉の程度を選べば、憶測と思いつきで中傷できる。
引用中、(中略)とした部分にはテレビでやってたから信じる、というのは、散々テレビをやってきた筆者から見れば噴飯ものなのであるが、多くの人はテレビでやってから本当だ、と思っている反面、ネットの記事はすべからくBlogと同等という感性が怖い。
という一文が入る。内田樹さんがマス媒体でもブログと同じように放言できるのは、実際にはマス媒体のフィルターがいい加減だからだ。まあ、日刊ゲンダイの報道が正しければ、日本人はみなとっくに不幸のどん底に落ちているはずだ。
ところで、小寺さんのブログに寄せられたトラックバック記事を読むと、「これからは人を信用する時代だ」みたいな主張が出ている。私は、違うと思っている。
ネットの普及で情報の選択肢が増えた、といわれる。じつは昔から、ほとんどあらゆる言説が何らかの有料媒体に登場していたのだけれど、コストと検索の両面から、需要と供給を結ぶ仕組みに難があった。ネットインフラと Google は、両者をダイレクトにつなげた。その結果、情報探索に大きな時間をお金を投入しない人であっても、自分の価値観にマッチする発言者に出会うことが可能となった。それだけのことだろう。
テレビという最大のマス媒体は無責任にもノストラダムスの大予言なんてあほなものを平気で取り上げてきたのだし、出版界ではあらゆる陰謀論が刊行されてきた。それらは限られた人々の趣味だったのだけれど、ウェブはその枠を広げたのだと思う。
「書きたい」けど「書けない」という人がたくさんいて、だから文章読本のような記事に需要があるわけです。それはそれでけっこうなのですが、ウェブデザインのアドバイスなんかをやってみて、私がつくづく実感するのは、「別に書かなくたっていいよ」ということなんですよね。あれこれ悩んだり、愚痴ったり、そういった苦労体験自体が楽しい人以外は、何もわざわざ苦労して書く必要はない。
だから相談者に最初に確認すべきことは、「本当に書きたいの? 誰かに洗脳されているんじゃない? ブログなんか書かなくても幸せに暮らしてる人の方が多いよ?」ということなんじゃないか。私の領域に即していえば、「きれいなデザインをしたいって? そりゃご苦労様ですね。別にデザインが多少よくても悪くても、サイトの人気にはほとんど影響しないことをご存知ですか?」と説明することが一番大切なのだろう、と。
私が見てきた中では、最初から「こうしたい」という強い思いで始めたブログの多くは、大成せずに、自分の理想に届かずに、閉鎖されていきました。最初から完璧を求めたら何もできません。少しずつ、上手になっていけばいいじゃないですか。
ただ一つ、これだけは忘れないでください。
最初に持っていた 向上心 だけは。
私は、まなめさんの意見に賛同しない。最初に持っていた向上心
が内発的なものなのか、それとも何となく周囲に流されて持たされていたものなのか、そのあたりをまず見極めた方がいい。本当はやりたくもないことのために、努力と根性の無間地獄へ突き進む人が少なくない。結局、そんなものは挫折への道でしかないわけで、さっさと降りた方がいい。
たいていの物事は、できないよりはできる方がいい。医者や弁護士になりたい人はたくさんいても、なれる人は少ない。真剣に何年間も努力を続ければ、希望を実現できた人は多いはずだ。だから、頑張れって? さて、どうでしょうね。医者や弁護士にならなくてもそれなりに幸せにやっていけるのだし、若い時期にサボる幸せとどちらが大切なのか。たいていの人は、後者を選んだ。私は、その判断は正しいと思う。
「小さなことからコツコツと」はつらい。最初から完璧を求めたら何もできません。
というけれど、レンタルブログサービスが豊富なテンプレートを用意したのは、「最初から秀麗で個性的なブログを作りたい」という要望への回答だったわけです。コツコツと HTML や CSS やイラスト描画や画像加工の勉強をするなんて、大多数の人間にはつきあいきれない世界なんだよね。
旧来のさるさる日記や enpitsu について、そのデザインに難色を示して手を出さなかった人がたくさんいるわけなんだけど、そうして何年も「じゃあ書かなくていいや」でやってきた人は不幸だったんですかね。別に、書かなきゃ書かないで幸せだったでしょう。今、思うような文章が書けずに悩む人がいる。対策としては、コツコツ書いていくしかないんだって。「じゃあ書かなくていいや」で、いいんじゃないですか、やっぱり。
ブログ論のアクセス数にだけモチベーションを持つのならば、それは危険だとも思う。書きたいことを書き、そこに自分を記し続けていくのは自分の発見につながる。アクセスが欲しい自分だけが見えていくのは少し虚しい。短いスパンでアクセス数が山になることだけを追い求めるのならば、自分にとって大切な「読まれない文章」の方が価値がある。後者は短いスパンで読まれなくても、書く意義があるものならば、検索によっていつか誰かに発見される。たった1人に発見されて、たった1人にその文章の存在意義を見出されること。このことはアクセス数に関わらない価値があるものだと、わたしは思う。わたし個人は、実は、こうした「短期では読まれないが、実は価値のあるもの」が好きだったりもするのだけれど。
アクセスがほしいなら、アクセス稼ぎすればいい。それを非難するたいていの意見は、アクセスが欲しい自分だけが見えていくのは少し虚しい
という価値観を持っている人々の発する「外野のヤジ」でしかない。そのくせ「ね、虚しいよね、そう思うよね」と押しつけがましい。アクセス稼ぎをする人は、アクセス大好きな自分が好きなんだろうから、放っておけばいい。虚しいと思ったなら、他人にいわれないでも自分からやめるよ。だから、非難するなら「私はアクセス稼ぎに興じるあなたが嫌いです」という方が素直だと思う。
以下に引用するのは花岡信昭さんから届いたメール。ほぼ同じものがメルマガにもブログにも掲載されているから、引用しても秘密の暴露にはならないだろう。
お世話になります。
「日本ブログ大賞」というのがありまして、小生のブログもその「ニュース部門」にエントリーしています。現在、1位が「アジアの真実」、2位が「マスメディアが民衆を裏切る12の方法」。小生のブログは3位です。
「アジアの真実」はまさに同じスタンスなのですが、「マスメディアが・・・」はイラクで拘束されたあの「高遠菜穂子支援ブログ」であることが分かりました。
そこで、半ば遊びごころでエントリーしたブログ大賞ですが、この「マスメディアが・・・」だけは追い越したいと思います。
そのためには、あと100数10票必要です。この趣旨にご賛同の方は投票にご協力願えないでしょうか。締め切りは15日午後2時。投票の仕方を以下にご案内させていただきます。周囲の方々にもご協力願えると幸いです。
あははは。テキストサイト界隈の倫理観では許されない内容なのですが、花岡さんの言葉には後ろめたさが感じられない。この手の「選挙活動」は「やって当たり前」なんだね。政治記者として長年、選挙の現場を見てきた方の感覚として、「いいことを書いていれば自然と投票にも勝てる」みたいな発想はナイーブだ、ということなのでしょう。だから1〜2回メールで意見を送っただけの人にもお願いのメールを出す。
そして投票が終った今、メルマガの冒頭でなんと自己紹介しているか。
★「日本ブログ大賞2006・ニュース部門」で3位になりました。
あっはっは。いや、たしかに3位になりましたよね。嘘ではない。「何だよ、結局、売名行為か!」といった声もあるのでしょうが、それこそ虚しいように思う。「名前が売れる→発言がより多くの人に届く→自分が正しいと考える主張が広まる」と考えれば、売名は正義を実現するために欠かせないステップ。「選挙カー、うるさいぞ!」という人々の声に配慮して静かな選挙運動をやった結果、落選。そんな候補者は無能だと考えるのが花岡さんのリアリズム。
ま、そうはいってもさ、といいたいのはわかる。自分の価値観が分裂していることは珍しくない。「食べたい、でも痩せたい」とかね。どっちも本心なんだ。「アクセスを増やしたい、いや、アクセスなんて虚しいぞ!」これはヘンではない。
お勧めの方法をひとつ。まず、一方に与して他方を罪をみなす考え方を却下すること。太ったっていいし、アクセスにこだわってもいい。そう規定した上で、倫理的でなく功利的に判断していく。どんな結論にも満足できないはずなので、ある程度、機械的に決めてしまうのがよい。功利的判断だって評価軸の設定が問題なのだけれど、倫理的判断よりは矛盾の少ないルールを設定しやすいのです。
コメント欄に面白い意見が。
ウクレレのセンセーをしています。生徒さんから「ステージでアガらないためにはどうすればいいでしょうか」としじゅう聞かれるのですが、たいがい「あんまり自分に期待しないほうがいいですよ」と言っているのでした(無慈悲なセンセーもあったものです)。
私なら、「ステージに上がらない、という手もありますよ」という。「アガって失敗するか、何もしないか、好きな方を選べばいいのでは?」「ステージに上がって、しかもアガらないのがいいんですけど……」「だったら、10年前に戻って猛練習して日本トップクラスの実力をつけたらいいよ。そうすれば、この程度のステージはお遊びみたいなもんよ、と余裕で笑えると思うよ」「ええ〜!?」
読めば書ける、のかな。だったら私の文章は相当に読みやすいはず。私はワープロを買ってはじめて、ガンガン書けるようになったのです。……というのは単なる個人的体験に過ぎないのだけれど、塾で中学生に作文を何度か書かせてみるに、やっぱり文章を書く能力と読書体験の多寡は、因果関係というには乏しいように感じました。緩やかな相関。
というかそもそも、人気ブログの文章って「ブログ文章術」を使って書かれていると思う? 私は、そうは思いません。文章のうまい下手は、あんまり関係ないような気がする。あればあっただけ得をするのだろうけれど。
引越しまでに身軽になろう、と思い立ったのは2004年のこと。本格的に蔵書の整理を始めたのは昨年で、以来、きれいな本はオークションで、他は古書店でどんどん売ってきました。あと、雑誌は基本的に廃品回収へ。
昨秋以降、途中まで読んで放り出していた本、まったく積読になっていた本の多くについて、「引越しまでに手放さねばならない。いま読まなければ死ぬまで未読のページに何が書かれていたかわからないままだぞ」と自己暗示をかけてきました。これが意想外に成功しまして、長年、喉に刺さった骨のようになっていた積読本の山が、どんどん発送用の箱の中に消えていく。痛快でしたね。
社会人になって財布の紐が緩んだこと、実家の積読本の大半を持ってきたことが原因で、四畳半の部屋の二畳と押入れの半分を占拠していた大量の本と雑誌。途方に暮れていたのですが、この1年でそれらがどんどん減り、一畳に十分収まる分量となったのは、じつに気持ちいい。いつのまにか蒲団+衣服が書籍を体積で上回るようになりました。重さではまだ負けていそうですけど。ともかく、長い長い闘いではありました。あとは無事に出品中の本が売れてくれるとありがたい。
ちなみに、私の値付けは「バラで転売すれば必ず儲けが出る」ラインを目安としています。オークション相場の3〜8割引の価格に設定しているので、全部バラ売りすれば転売しても利益が出ます。私がバラ売りをしないのは、面倒を避け、短期間で売り抜けるため。利益といっても趣味レベルの話で、仕事だと思ったら手間に見合いません。私としては、読みたい人の手に渡ればそれでいいと思っているだけ。
なぜ送料に少し上乗せした金額にするのかというと、たまに送料を踏み倒す不届き者がいるから。保険を積んでいるのだと思ってください。あと、せっかく私がきれいに扱ってきた本をぞんざいにする客が、やっぱりいるわけでしょう。「あげた本」をひどく扱われるのって、嫌なんですよね。こっちが押し付けたなら仕方ないけど。だから、安いなりに値段をつけて「売る」ことにするわけです。「売った」なら諦めもつくから。
ヤフオクで売った本が270冊。楽天でも60冊ほどを売っているので、300冊以上を売り払ったことに。その他、いくらか痛んだ本は古書店へ持ち込んだり、もっと崩れた本は廃品回収に出したり。雑誌やコミックスを含めると600冊ほどを約1年で手放したことになります。そりゃ部屋も片付くわけですよね。
私は日記のバックアップが取れないと何かと不安を感じる。別にエクスポート機能はなくたっていい。月別ログに記事全文を表示する、みたいな設定にしておけば、「ソースを開く→保存」みたいな手順でバックアップできるから。はてなダイアリーのログはそうやって取った。私ははてな記法を使っていたので、はてな形式のログでは HTML 文書に変換する手間が掛かるからだ。HTML 文書のログは HTML 文書の形で取っておきたいと思う。
mixi 日記はデータをエクスポートできないし、月別ログも概要表示しかできないから嫌なんだ。でも、どうしようかな。他人が全く読まない日記はどうしても書けないことはもうよくよく思い知らされているので、個人的な日記を SNS とかで書こうと思う。Echoo! は毎日のように ID とパスワードを入力させられるのが面倒くさくて、続きそうにない(ていうか続かなかった)。パスワード制のブログは嫌だな。誰にパスワードを教えるのか、自分で選ばなきゃいけない。
じつのところ、零細サイトを新たに開けばいいのだけれど、ライブドアブログをはじめ、たくさんのブログをずっと放置していることからわかるように、1からやり直す気力もわかない。日記人格は徳保隆夫だけでいいよ、もう。楽天広場の日記も、それで閉鎖してしまった。まあ、無理をいっているんだよね。
社員寮には4年間しかいられないので、3月10日までに出なければいけない。家族も友人も中に入れてはいけないという規則を嫌ってか、寮費は月額6000円で光熱費込+平日の朝夕食費が月額9000円という激安環境なのに同期の仲間はどんどん寮を出て行き、今年に入ってもまだ寮に残っていたのは2人だけ。水回りは共同だけど、その分とても広いし、掃除だってしなくていい。部屋は四畳半だけど、それで何の不都合があるのかな? まあ、いいや。
昨年あたりから時々ネットで相場は見ていて、また先に出て行った人の話から、「いつ探しても部屋はすぐ見つかる」ということはわかってた。ようは、無茶をいわなきゃいいんだね。相場通りの物件を狙えばいい。それから、駅前の目立つところにあるような不動産屋なら、最近はそうあくどいことをやってないという状況もつかむ。裏通りの変なところにある不動産屋までは信用できない。
貯金は4年間に約500万円たまっているので、敷金や礼金はどうだってよかった。問題は月額の家賃と管理費。いろいろ考えたけど、まあ、7万円以下ならいいや、と考える。場所は会社に近いところがいいな。部屋は狭くていいや。日当たりは気にしない。新しいことは嫌いなので、豊島区内にしよう。会社が都電荒川線沿いなので、一番いいのは山手線接続の大塚か、有楽町線接続の東池袋。自転車で10分程度。歩いても30分。雨の日は都電で10分くらい。
ネット上で物件を探すなら HOMES が一番いいと思った。で、いい感じのがあったので問い合わせてみると、「先約が……」あはは。やっぱりね、という感じ。このあたりは、既に聞いた通りの対応。店舗へぜひ、というんだね。で、池袋駅前のビルの上にある不動産屋へ11日に出かけた。
12時9分に到着。適当に条件を出すと、さすがプロだね、こっちは古くても壁が薄くてもどうでもいいといっているのに、予算内できれいな部屋を探してくれる。「このアパート、1部屋しか残っていないみたいです、どうします? あ、角部屋じゃないですか。これはいいですよ」……焦らせるような言葉にはご用心。でも目の前で管理会社に電話して、「あ、まだ残ってます? 1部屋?」なんてやっていたので、とりあえず信じる。とりあえず物件を止めて、中を見ることに。
南大塚1丁目、すぐに着く。資料通りのいい部屋だったので、契約することにする。郵便局でお金を下ろして、仮契約。郵便局のそばの公園で変なグループが集会をやっていて、警察官がたくさん集まって警備をしていたので、なんだか不思議な感じがした。おかしかったのは、集会をやっているグループより野次馬の近隣住民の方がずっと多かったこと。コンビニの店長なんかも興味津々といった感じで店の外に立って集会の方を眺めていた。
15日に本契約。両親に保証人になってもらったんだけど、契約の内容について疑問があるから、契約に同席するという。なるほどね、と勉強になった。たかがアパート契約の保証人ではあるけれど、万が一、保険がきかないような事故を起こしたら両親の家財を売って保証する他ない。適当に判子を押してはいけないのだ。
15日は会社の有給休暇をとり、早朝に市役所へ行って住民票を請求。午前10時に大塚駅で母親と待ち合わせ。父は忙しいので、保証人は父なんだけど、母が代理人として契約に同席するという。でまあ、まず物件を見たいというので、案内した。契約前だから、中には入れない。郵便局に寄って大金を下ろす。大金を持ち歩く時間は短くしておきたいので、こういう微妙なタイミングとなった。
午前11時に不動産屋へ行き、契約書類を作った。とりあえず判も押してしまう。
午前11時半に UFJ 銀行へ行き、家賃自動引落しのための口座を作った。同一支店内でないと振込み手数料がかかるので支店まで指定されるのだそうな。初期資金として3か月分の家賃を口座に入れておいた。カードは4営業日以内に書留で発送するという。20日着、か? と思ったが、まだ届いていない。なんでその場で作ってくれないのだろう。通帳はもらった。
午後1時に椎名町にある管理会社に行く。遅刻禁止、だそうな。契約書類に判は押してしまっているのだけれど、ここで話を聞いて、納得できなければ書類を渡さずに帰ってくるわけだ。母はゆっくり歩くので、12時40分に到着。20分では食事もできず、説明に3時間かかるというので不安だけど、食事は我慢することに。
詳細は略す。契約内容には納得したので、契約書類と最初のいろいろなお金を渡した。その後がたいへんで、安全な生活をするために気をつけなければならないことがまとめられた「説明書」という冊子をテキストに、約2時間の講義。とにかく保険が下りないような事故を起こされては困る、ということらしい。常時1000軒超の管理をしていると、とんでもない客には事欠かないようだ。生々しい火事や洪水の写真に驚かされた。ゴミ屋敷の写真も。どれも住人は女の子だそうで。おそろしや。
私はタバコが好きではないので、タバコ臭い部屋の空気に頭痛がしてきた。ようやく話が終り、「よろしくお願いします」と挨拶して辞去し、食事。
鍵をもらったので、大塚の部屋へ母を案内する。電気やガスや水道は復旧依頼をするまで使えない。
今後の予定。
明日、人事課に「寮入退住居区分変更届」を出す。続いて住所届と住所変更届を人事課に出す。交通費の精算をする。住宅手当申請書を人事課に出す。
3月分の家賃は自動引き落としが間に合わないそうなので、28日までに手動で振込む。カードが届いたら、管理会社に連絡して4月分以降の自動引き落としの手続きを頼む。
引越しは3月4日にする。引越し屋の予約を取らねばならない。四畳半の部屋だけど、引越し準備は面倒なのでしない。全部、引越し屋に任せる。
引越しまでに電気・水道・ガスの復旧依頼を出さねばならない。ガスとその他は別の日にせよとの指示で、しかも復旧作業には立ち会わねばならないのだそうだ。しかも土日は休み。ええ〜!? 仕方ないので、午後半休でも使うか。2月中に予約して、3月2日に電気と水道、3月3日にガスを復旧させる。面倒くさ過ぎる……。午前・午後くらいは指定できると思うが、まさかということもあるよな(想像しただけでゲンナリ)。
買わねばならない家電は選択乾燥機とガスコンロと炊飯器。ビックカメラから配送してもらおう。日付指定はできるそうなので、3月4日に届くようにする。薬缶やフライパンはスーパーに売っていた。問題は冷蔵・冷凍庫なんだよな。小さいのが最初からついているのだけれど……。冷蔵庫込みでも20万円以下に収まりそう。だから問題は、値段じゃなくて、それが無駄にならないか? ということ。
家具は要らない。まあ、将来的には家具の統合と整理のために何か買うかもしれないが、引越し絡みでは不要だね。部屋の内装とか全然、こだわらないし。あ、ゴミ箱が必要だ。スーパーで買ってこよう。あと水周りの掃除用具。三角コーナーとかも要るのか。100円ショップで何とかなるといいのだけれど……東急ハンズへ行けば、値段さえ気にしなければ何でも揃うよな。3月4・5日は面倒でも生活用品を買い揃えなければ……。
後は何だ、あー、転居通知を郵便局に出して、あと、うーん、やっぱり3月3日は1日休もう。西東京市役所に転居届けを出して、豊島区役所に転入届を出さなきゃいけない。警察署で免許証を書き換える必要もある。とすると証明写真も必要? あと保険証の住所も書き換えなきゃいけない。
意想外に、といったら失礼か。どのルートを選んでも、ちゃんとした(?)四コマ漫画になる。面白い。
5年も前に施行された法律をいまだに知らない人がたくさんいた……という、いわば「よくある話」です。基本的には、長らく電気機器を扱っているという自覚に欠け、電気用品安全法という法律の存在さえ全く知らなかった業界の自業自得なんじゃありませんか。「古いアンプを捨てろというのは環境破壊」は頓珍漢。もともと家電は9割超がリユースではなくリサイクルのルートに乗る。「捨てる」とミスリードして環境破壊につなげるのは不適当でしょう。
小寺さんの記事によれば中古品は危険だから市場を縮小させるとか、そういう論理でこの法を動かすわけではない
とのこと。なるほど「最新の建築基準をパスできない家でも中古なら売買できる」みたいな事例はありますが、何せ家ですからね。おいそれと建て替えできない。「楽器だって同じだよ」なのかもしれませんが、超高級品は個人売買の仲介業者がいれば市場は回るだろうし、一般向けの商品は、家とは比較にならない価格なんだから、どんどんリサイクルに回していいと思う。私はせいぜい1〜2年の執行猶予を推します。業界が倫理的に不適当な行為を自主規制することを前提として中古市場を除外するのは行き過ぎではないか。
それにしても、なぜ今頃になって騒ぐのか。不良在庫を抱えて倒産だとかいう話があるけど、5年前から準備していれば問題なかったはず。不勉強な人間が「お前が教えてくれないのが悪い」というのは、妙な感じ。本音としてはわかるけど、胸を張っていうことなのかな。
その他、代替品のない商品が云々という話は、まあ、バランスの問題でしょうね。
楽器販売大手で中古楽器も扱う石橋楽器(東京)は経産省の「指導」に従い、中古品にPSEマークを付けて販売するため、製造事業者の申請を同省に出した。「電気主任技術者」などの国家資格を持つ社員を検査部門に充て、新たに数人の社員を研修し、資格を取らせたいという。
全く違う発想なのが、全国211店を展開するリサイクルショップ最大手の生活創庫(静岡県浜松市)。販売禁止になる商品在庫は約16億円分もある。だが、販売は禁止でもレンタルや無償譲渡は構わない。そこで4月から、製品の作動を保証する「価値残存年限」を明示して客に貸し出す。年限を過ぎたら、そのまま客に譲渡する。
客は残存年限分のレンタル料を前払いすれば、買うのと同様に製品を使える。途中の返却もでき、故障しても安心だ。堀之内九一郎社長は「中古品の需要に応え続けたい。逆風を追い風に変える」という。
「国内がだめなら、海外だ」というのは全国8カ所でリサイクル業者向けの中古品オークションを開催するリサイクルマスタージャパン(静岡県伊東市)。同社はアジアなど4カ国で海外現地法人の設立を準備中。早ければ07年から、国内のオークションで売れない商品を輸出する。
丸田信治社長は「同じことを考える業者は増えるだろう。粗悪な商品が輸出される恐れもある。国際問題にならないよう、経産省が目を光らせて欲しい」としている。
これらの記事を読むに、電気用品安全法@2chまとめが描くほど悲劇的な結果にはならないんじゃないですかね。
経済産業省の方が個人で運営していたブログが「炎上」して閉鎖へ。
あーあ。「場」を支配する多数派のタチの悪さはいつものこと。いつもいつもいつもそうなのだけれど、ひとつの正義を確信すると、他のいろいろな倫理的・文化的なストッパーが解除されてしまう人がいかに多いか。いや、多くはないのかもしれないけれど、うるさい連中の暴れっぷりは目に余る。この手の人々に目をつけられそうなブログは、コメントとかトラックバックを受け付けない方がいいよ。聖徳太子だって同時に応対できた相手はたった8人なのに、彼らは平気で10人、20人で書き込んで「返事がない!」と怒るんだもの。困った話です。(参考:コメント機能なかりせば)
リアリストが、リアリストとしての自分の限界を突き付けられた時、そのような「現実」を拒否して、自分のリアリスト的観点に固執すると、「現実主義というイデオロギー」の信者となる。その「現実」を受けいれられる人、リアリスト的観点の限界を目の前で起きた「現実」に添って認めることができる人、それが本当のリアリスト、言わばメタリアリストである。
一般人にはおよびもつかない世界ですな〜。
こっちは「大丈夫、まだ間に合う」なんてのんきにやってたら会社に遅刻しそうになって猛ダッシュ、とかそういうレベルだから。「願望と現実を混同してはいけませんっ!」みたいな小学生レベルのことをいまだにやってる。こりゃ死ぬまで治らんね。これ以上の進歩もないような気がする(現状に満足してるから)。
私は決して梅田さんの脚を引っ張るつもりはないし、essa さんの高揚した気分に水を差すつもりもない。これは私の立場表明、あるいはアイデンティティの確認です。
梅田本はもう買いました(まだ読んでない)。近藤さんの本もインタビューを読みたいので買ってみようかな。でも、私は梅田本も近藤本も、自分に関係のない話として読みます。「へー、世の中、偉い人がいるもんだなー」といった感じ。以前「すごい会議」をパラパラ眺めましたけど、別に自分の関わる会議を改革しようとは思ってない。
どうせ、日本人の8割、あえて踏み込めば9割超は「こっち側」でしょう。それで「負け組」になったって、何せこっちは人数が多いのだから、生きていけないほど貧窮することはない。そこそこまじめに生きて、みんなと仲良くしていけば、殺されはしないだろう、という「読み」が、あるわけなんですよね。祖父母も両親も、若い頃は散々脅かされたけど、何とか無事に21世紀まで幸福な暮らしを継続できました。
80年生まれの私の余生は(事故や病気がなければ)あと30年か40年。無力なロマンチストは崖っぷち逃避行を最後まで続けられるかな? どんな谷にも底があるさ、と悟りを開きたいけど、私は聖人じゃない。怖い怖いといいながら、足を踏み外すか体力が尽きるまでトコトコ歩いていくつもりです。
(多忙につき今月の更新はここまでです/アドバイスは書きます)
えっけんさんがとくにどうこうといいたいわけではないが……。id:rir6 さんとmohicanグループの一部の人との衝突をしばらく眺めていて、mohicanグループよりCSSコミュニティの方が好きだな、と思った。
先日、野嵜さんがたなけん氏の文章をぶつ叩いた
事例を見ればわかるように、CSSコミュニティには相手の年齢によらずまじめに意見をぶつける文化がある(と思う)。mohicanグループに名を連ねる人々は、せめて「モヒカン宣言」に忠実であろうとしているのかと思ったら、そうじゃないらしい。「メタモヒカン族」「偽モヒカン族」だからいいのか? 紛らわしい話。
mohicanグループに「モヒカン族」がいなくて(あるいは非常に少なくて)、例えば id:LEOat さんの方が姿勢としてはそれらしい感じに見えたりするのは何故なんだろう。
注:アクセス集中のため外部リンクは蹴られる模様。Doblog トップページよりアクセスランキングをたどると閲覧できます。
イラクで人質になり無事に解放された今井紀明さんについて、長らく私は「ヘンな人だな」と思っていました。まあ今でもそう思ってはいるのだけれど、「ヘン」の内実はかなり変化してきました。なるほどふつうの人ではないのだけれど、全く理解できない人ではないし、同じ社会の中でそれなりに仲良く(?)やっていけそうだな、と。
考えを改めるきっかけとなったのは今井さんの処女作「ぼくがイラクに行った理由」の劣化ウラン弾に関するテキストを読んだ愛蔵太さんのコメントでした。きちんと読了するには至っていないのだけれど、興味のある部分を拾い読みした限りでは、勝手に持っていた印象を覆される部分が多かった。会って話して意気投合することはないだろうと思いましたが、「話はできそうだ」と感じたのです。
……あ、そうはいっても、ある種の人々を怒らせる本には違いない。とくにお勧めはしません。事件から約2年、本が出てから1年半が経ち、ブログの記事は、著書よりもっと穏当な、抑制の効いた文章になっています。読むならまず、ブログの記事の方を勧めます。
人質事件の解釈については、今井さんを批判する側に共感するところが多い。けれども、今井さんを一方的にぶっ叩いている人々より今井さんとの方が楽しく話をできそう。今井さんを猛烈に批判する人々の多くは「何でわからないんだ、バカ」という排他的な考え方を持っているようだからです。自分が「非常識」とみなす考え方への不寛容に、私はげんなりさせられます。
鵬一さんという方のそもそも世の中というのは、別にお前と『対話』なんかしたがっていない
という指摘は当っていると思う。相手の誤りは明らかなので、理解も共感も無用と決め付け、対話を拒否しつつ攻撃だけ行う……。今井さんだって著書では一方的な政府批判をやっているようにも読める。ただ、「お前だって」を言い出すと不毛で、聖人でもなければ他人を批判できなくなってしまう。だからバランスの問題でしょう。
私は今井さんを批判している人がみんな一方的だとか、異論を許さない人間だとか、そんなことはいっていない。今井さんを擁護する側にも偏狭な人は多い。これは言葉遣いのていねいさや、あるいは大勢がその人の主張を「正論」と認めるかどうかとは関係ない。主張に根拠があるかどうかも関係ない。ていねいな言葉遣いをし、根拠を挙げて自説を述べつつ、「異論を許さない」人はいます。
個人の内面の頑固さと、大勢の人が様々な価値観をもって暮らしている社会との折り合いのつけ方を意識する人がもう少し増えると、いくらか平和で不満の少ない世界が作れるのではないか、と私は思います。……が、糸井重里さんと池谷裕二さんの対談本「海馬―脳は疲れない」を読んだら、半ば絶望的な気分に。ひとつの解釈に固執するのは脳の特性なのだそうな。
何年ぶりの復活? 懐かしい。
レベル高いな……。私が書く程度のスタイルシート(div 要素を使わない、入れ子構造の複雑な文書を作らない)でよければ、そんなに頭を使うこともない。ま、みなさん頭痛がお好きなようですけど。
ここで紹介されているデータは、外部サイトへのリンクを別窓で開いているサイトが少数派であることを示すものです。2ch の当該スレッドでは、この結果をもとに「外部リンクを別窓で開くことは常識とはいえない→閲覧者に混乱を招く可能性がある」という教科書通りの結論を引っ張っているのだけれど、私は疑問を持っています。
これらの要素・疑問を加味せずに結論を導くのは早計だと思う。というか、本当に調べるべきなのは閲覧者自身が本当に困っているのかどうかということであって、製作者がどうしているかではない。
私自身は「target 指定なし」推進派ですが、さりとて今時、target 指定のために困る閲覧者が多いとは思わない。少数派といいつつも4割ものウェブサイトが外部リンクを別窓で開く指定を行っているのが現実なのであり、一定以上、ウェブを利用していれば自然と慣れるのではないか。初めての頃に戸惑っていた人は大学の教室で見かけたけれど、みな1〜3時間ですっかり慣れてしまうのでした。
カジュアルな名誉毀損が横行する素人ブログ界ですが、本来ならこれくらい抑制した筆致を採用するべきだと思う。いいたいことは、これで伝わるでしょう。(参考になる解説記事:ITmediaニュース:ネットサービス“そっくりさん”登場のなぜ)
興味深い。
関係ないけど、引越先をいちおう決めた。12時に不動産屋へ行って、2時間半で決着。内見して仮契約を済ませたのが15時半。残る問題は母親が保証人としてサインしてくれるかどうか。こっちで勝手に決めてから電話したら、案の定、不満があるらしい。契約書の内容について問いただしたいことがあるので、契約の場には同席するとのこと。念書と保証書を速達で送って返送してもらえばいいや、という考えは甘かった。
お金を払うのは私なんだから……と思って気付いたのだけれど、たしかに私が家賃を払えなくなる可能性はある。保証人になるというのは、自分が契約するのと同じこと。納得できない話に乗れないのはわかる。母は更新料と退去時のクリーニング代云々が気になるらしい。敷金を取られてクリーニング代も取られるのはおかしい、と。たしかに敷金の返却についてはハッキリしない点が多い。確認は必要だと思う。ま、これくらい慎重だったからこそ、大過なくやってこれたのだろう。
不動産屋の人もいっていたけれど、学生の下宿先がなかなか決まらない最大の理由は親の反対なのだという。ネットや雑誌で探すともっと安くて条件のいい物件がある、とか言い出すのだそうだ。
引越しにせよ保険にせよ、契約は大切。心してかからねば……。
それにしても、このところ社員寮に入る新人が少なく、空き部屋がこんなに多いのに、杓子定規に4年で部屋を出なければならないのは疑問。栃木の社員寮は何年でも入っていられるから、不公平な気がする。寮費はむちゃくちゃ安く、平日には朝食と夕食がついて光熱費込みで月額1万4000円くらい。水回りは共用で、掃除とかしなくていい。洗濯機と乾燥機もちゃんとある。社会人生活4年で貯金が400万円を優に超えたのは、社員寮のおかげ。お世話になりました。
昔、640×480 の画面に対応するのがデザインマナーなどといわれた時代に Yahoo!Japan が率先して 800×600 前提のレイアウトを採用したときのことを思い出しました。640×480 の画面で見たり、800×600 でサイドバーを出すと、右カラムは横スクロールなしには読めなかったのですが、強い不満を感じたのは最初だけ。いつの間にか慣れてしまいました。おそらく大多数の閲覧者が、そうだったのだろうと思います。そして現在、私は当たり前のように Yahoo!Japan を横スクロールなしで閲覧できる環境でウェブを利用している……横スクロールバーがなくなったとき、私は感動したろうか?
2006年2月の判断として、800px 以下のデザインを推奨する理由がどれだけあるかというと、微妙なところでしょうね。ひとつ自信を持って予想できるのは、少なくとも今回のデザイン変更によって mixi の会員数は減らないし、増加ペースも鈍らない、ということ。
Akiyan さんが論拠としているのはアクセス解析結果ですが、2つの注意が必要だと思う。
ひとつは、サンプルの偏りです。一時期、当サイトの閲覧者の利用するブラウザの3割超が Gecko 系になったことがあり、「個々のサイトのアクセス解析結果は偏る」ことを実感しました。
もうひとつは、1024×768 以上のモニタでなければ横スクロールバーが出るデザインのサイトがどんどん増えていることです。8割以上の閲覧者が 1024×768 以上のモニタを利用しているのだから、ブラウザの表示領域の幅を 800px 程度にしている人の多くは、意図的にそうしているのです。もし横スクロールバーが非常にウザいなら、他のいろいろな事情を勘案してもブラウザを最大化するでしょう。
じつは私も意図的にブラウザの幅を狭くしている一人です。1024×768 の画面でブラウザを最大化すれば横スクロールバーには滅多に出会わないことは知っています。では、なぜ? 簡単にいえば、ブラウザとテキストエディタを重ねずに並べたいからです。横スクロールは、大した問題じゃない。自分が読みたい部分さえ表示領域に入っていればいいと思う。
ま、mixi ユーザの偏り具合はナゾなんで、大半が文句をいうようなら、対策されるでしょう。営利企業のやることですからね。毎日MSNのリニューアルは記憶に新しいところです。あるいは MyYahoo! のようなカスタマイズ機能が用意されるのかもしれません。
バランスの取り方として、asahi.com はうまいと思っています。可変幅のデザインでありながら、ブラウザの表示領域を狭めていくと右端のカラムが画面外へ出て行く。テーブルで段組するメリットが活きています。私の経験上、レイアウトが崩れるよりは横スクロールの方が多くの人々に許容されやすい。
柔軟かつ崩れない段組は、少なくとも現行の仕様では十分には実現できません。非常によく考えられたスタイルにも「表示が崩れない条件」が必ずあります。float なら段組崩壊、絶対配置なら段と段の重なりを避け難い。overflow で逃げるなら、結局、横スクロールバーが出るわけです。一定の型を守って記事を更新していく限りは問題ないにせよ、ともかくも限界はあります。
ところで、「1行字数は全角20〜40字でなければ嫌だ、少なくとも画面の端から端まで文字がずらずら並ぶのは許容できない」といった主張はしばしば聞かれるところ。しかしながら、Yahoo!ニュースをはじめ、読売も産経も、1280×1024 のモニタいっぱいにブラウザの表示領域を広げると、かなり1行字数が増えます。そこで幅固定を選択しているのが毎日。朝日は中間派。ブログでは幅固定のデザインをよく見かけます。これは読者層の違いなのか?
ちなみに目次やニュース記事の概要表示など、多くのページで文字を小さくするのも Yahoo のお家芸。とくに衝撃的なのはトップページのヘッダーに使われている画像化文字で、なんと 10px 相当の文字サイズ。画像だからズームでもしなければ大きくならない。これで(無視できるレベルの)文句しか出てこないことには注意が必要か。
mixi もナビゲーションに画像化文字が使われていて、12px 相当の文字が使われています。アクセシビリティ指針で有名な富士通も検索ボタンが画像になっていて、「検索」という文字の大きさは 12px 相当。読みやすいかどうかは別にして、「読める」のは間違いない。
ほんの数年前まで「Flash をサイトに使う場合には、目立つところに Flash のプラグイン入手先へのリンクなどを用意するべきだ」とうるさくいわれていたのに、今ではすっかり、そんなマナーは忘れ去られています。最初から Flash プレーヤーが入っているのは当たり前、ヘンなリンクを目立たせておくと、むしろ初心者の混乱の元、らしい。
閲覧環境のトレンドに依存したマナーは、時代とともに変遷していくものです。
山際淳司のスポーツ・ノンフィクション処女作、そして「Number」誌創刊号に掲載され新時代を切り開いた傑作「江夏の21球」を含む作品集。Amazon の書評にある通り、登場人物のその後を、私も知りたくなった。
その後の津田はボート競技の第一線から退き、友人の父親が社長を務める電気通信関連の会社に就職した。仕事は順調で、海外滞在などのキャリアを重ねた。その合間に、ヨットやボートの大会に参加し、優勝したこともあった。現在では50歳過ぎ、4人の子供の父親でもある。
ちなみに日本人選手がボートW杯で初優勝したのは2005年7月10日、男子軽量級シングルスカルの武田大作(ダイキ)の快挙だった。
下総農業高校から巨人軍入団、3年間のファーム生活を経てバッティングピッチャーに転身した黒田真治は、1985年までその職務を果たした。「背番号94」読了した今、90番台を背負った選手の名前に何がしかの感慨を覚えずにはいられない。
1983年12月10日、半ば引退状態だった天才・春日井健は日本IBF主催の復帰戦で世界タイトルに挑戦し、全周都にKO負けを喫する。ともかくも世界タイトル挑戦までは上り詰めた。
山際が描く坂本聖二の全日本スカッシュ選手権大会9連覇達成シーンには不穏な描写がところどころ顔を出しているが、じつはそれが坂本の最後の優勝となった。第10回大会から第23回大会まで、第9回大会決勝で坂本に敗れた潮木仁が14連覇し、黄金時代を築くのだ(全日本スカッシュ選手権大会 歴代入賞者)。しかし坂本は今もスカッシュの神様として精力的に活動している。ちなみに、セイコさんは早世した。(熱海に現われたスーパーマン)。
1981年春の選抜高校野球大会、高崎高校は1回戦で敗北した。以降、甲子園への出場はない。高崎高校は現在も群馬県内有数の進学校であり続けている。
高橋卓己は1984年のロサンゼルス五輪に出場し決勝へ進出、12位となった。2003年の世界陸上で沢野大地(ニシ・スポーツ)のコーチを務めた(スポーツナビ | 世界陸上パリ大会2003)。
2004年アテネ五輪で沢野は高橋以来20年ぶりに決勝進出、日本人選手史上最高位の8位に入賞した。沢野は私の高校の後輩。生まれは同じ80年だが、私は早生まれなので……。インターハイで優勝するなど全校集会で表彰される常連、有名人だった。花岡麻帆は先輩の有名人。高校時代に日本一となって、当時付属中学3年だった私も吃驚した記憶がある。室伏広治はさらに年上の有名人。中学1〜2年の頃に高2〜3年の室伏を見かけたが、天上人だった。
そろそろホリエモンも忘れ去られようとしているわけですが、留置所がどんなところか、拘置所の生活はどのようなものか、といったことに興味のある方にお勧めのコンテンツをご紹介。
当初はホリエモンの逮捕直後にご紹介しようと思っていたのですが、サイトの再構築が終ってから……と考えて見送っていました。けれども残念ながら怒楽喜さん、お忙しいようで。
目次を見るとすごい分量なのですが、ていねいに書かれており読みやすいので、心配は要らないでしょう。佐藤優さんの「国家の罠」なども拘置所の生活に触れていますが、やはり印象的な出来事に比重が掛けられており、もっと日常的な、淡々とした部分について綴られた記事は貴重なのではないかと思います。
刑務所での生活については、私もいくつかの小説やノンフィクション作品の描写を読んでいます。留置場も、割とよく出てくる。でも拘置所についてはイメージがわかず、怒楽喜さんの記事を読んで「そうだったのか」と思うことがたくさんありました。まあ、読んだだけで「わかった」と思われても困るでしょうけど。
罰があるから悪いことをしない、というものではありませんが、いろいろ考えずにはいられませんでした。
こういう「裏技」が出てくるからには、やっぱり需要があるのだろうな……と思ったのだけれど、実際にやってみても、正直いって、あまり面白くなかったです。足あとは最近30件しか記録されず、これはプレミアムコースを選択しても増やせません。当サイトの場合、1時間強で「足あと」が埋まってしまいまして、当然のように知らない人ばかり。これならリンク元を見るほうが楽しい。
あと、1時間で埋まってしまうということは、「うちの読者ってどんな人?」と確認する私の「足あと」が、当サイトを閲覧して間もなく読者のところに記録されるわけで、バレバレじゃないか、と。私のところにはふだん、1日に0.5人しか足あとを残していませんが、同様の読者なら私の mixi アカウントを簡単に突き止められてしまう。何でもプロ(?)はうまいことやるのでしょうが、ど素人がこういうのに手を出すと自分が怪我するね。
だいたいこっちは読者のニックネームとか血液型なんか知っても何にもならないし、ほとんどの読者はそれすら公開していない。mixi の公開プロフィールなんか見たって何一ついいことがない。逆にこちらは「こんにちは、徳保隆夫です」と挨拶回りしているようなものなんで、馬鹿馬鹿しいな。
そんなわけで、読者の1割弱がログイン中の mixi 会員だったという事実だけを成果として、実験、終了。
mixi Alert を利用すれば足あとのログを10万件超も保持できます。「この人、何者?」と思って各人のプロフィールを開くと自分の足あとが向こうに残ってしまいますが、ユーザ名と閲覧記録だけでいいなら、mixi Alert で欲求は満たされるでしょう。でもそれなら、私が利用している高機能アクセス解析 CGI Professional版の方がいい。閲覧者の行動を追跡できるからです。
……ていうか、ローカルで動くソフトウェアだから当たり前なんだけど、mixi Alert ってパソコンの電源を入れてネットにつないでいる間しか機能しないんですね。1日5分〜3時間か。1日1回のチェックで足りる(1時間に1〜2人が足あとを残すペース)ならいいけどね。何か悪いことに使おうってならともかく、単なるアクセス解析としては、やっぱりいまひとつという感じがします。訪問者の大半が知り合いという零細サイトなら、楽しいかもしれないけれど。
あー、「にゃごろう村」なら、こういうの、ほしかったかもな。山田大佐は知り合いにサイトの宣伝をして、その後の数日間、訪問者のリモートホストの分析を頑張っていたから。1日10〜20人しか訪問しないので、リモートホストのダブりは滅多にない。大学からの接続だと、ほぼ確実に誰なのか特定できたのですね。問題は家庭からの接続で、時間帯とかでいろいろ推測していたようです。
みんな会うと「読んでますよ」という。私は知り合いに日記を読ませるのは嫌で、だからこのサイトについては宣伝をしたことがないのだけれど、大佐は40人以上にサイトの紹介をしていたんじゃないかな。でも、リモートホストの記録を見る限り、訪問者はそんなにいない。となると、嘘つきがいるのです。みんな一度は見たのかもしれないけれど、その後は見ていない人がたくさんいるだろう、と。
mixi のログイン状況を見れば、ネット自体ができないとかいったウソは結構ばれるし、足あと帳を解析代わりにすれば、本当のことをいっているのが誰かはたちどころにわかる(笑)。
メモ。何か記事にしようかと思ったけど、面倒なのでリンクのみ。
新聞記事のネタ元。様々な調査結果をダウンロードできる。興味深い。
社会面などに連載された記事の一部が読める。紙の新聞では、じつはニュース報道は紙面の一部に過ぎないのだけれど、ニュースばかり読んでいる人が多いのか、地味な取材に基づくニュース性のない記事の存在が知られていないように思う。
面白い。でも読者数はそれほどでもなさそう。いや、単なる直感ですが。IT-PLUS って、その記事量などの割に注目度・知名度が低いような気がするのは私だけ?
こういう感じのサイト、私も作りたかったな……と思ったスタイルシート解説サイトを3つご紹介。
XSS 脆弱性対策のみならず、「ブラウザの脆弱性に起因する問題についてもブログサービスは対処すべき=ユーザによる任意のスクリプト利用は禁止すべき」といった考え方に対置する意見を、以下に記します。
(いくつかの不便と引き換えに)なりすまし問題が生じないサービス設計を行っている fc2 ブログでは、ユーザが任意のスクリプトを利用できます。したがって fc2 ブログでは「極悪スクリプト」を貼ることができます。けれども、閲覧者が fc2 ブログで被害にあったとき、script 要素を許可している fc2 が悪いと思う人より、ブラクラを仕掛けたユーザが悪いと考える人が多いでしょう。isweb や geocities や cool でもそうだったように。
ブログサービスは横のつながりを強く意識しています。はてなで言えばキーワードやらトラックバックやブックマークやアンテナやRSSなど、いつでもおいでリンクでつながっています。行った先に罠が待ち構えていれば、それはアウトです。大通りでかっぱらいにあうようなものです。そんな治安の悪いところには人間、近づきたくもありません。
では fc2 は「危険」という理由で忌避されていますか? 有害ブログの出現を許すシステムであっても、取締りが追いつく限り、大多数のユーザが満足するレベルの治安は守られます。
大きな需要があるなら、妥協も考慮すべきです。テーブルレイアウト(崩れない段組)や object 要素のヘンな活用法(p 要素の中にリスト)も有条件で認めます。Nifty_Corners だって、どうしても使いたい人は使えばよい。サイドバーの折り畳みも、ブログペットの記事投稿も、「安全のためなら無視していい」需要だとは思いません。
追記された部分では、ブログサービスにおけるJavaScriptの許容の視点があります。この視点は訪問者=閲覧者の視点ではなく、製作者の視点となっています。すなわち、徳保さんの、製作者がJavaScriptを使えることが優先であるという思想がハッキリしたようです。…ブログサービスの健全な発展において、初心者が安心して巡回できることは必須ですけれど、そうでないようなブログサービスを擁護しています。HTMLやCSSを初心者に御指導されているのですからもっと現実的な公益性について考えていただければと思います。製作者サイドの技術的趣味の満足が優先であって訪問者の益については守らなくて良いというお考え、問題だと思います。…罠ページというと、程度の低いブラクラしかないように御主張なさっているかのように読める文章なのですけれども…ミスリードでしょう。ブラウザの脆弱性があればそれに対応したHTMLをDOM上で組み上げることはいとも簡単です。結果として閲覧者のブラウザを通じて、パソコンの管理者権限を盗られるか、データ破壊されるか、個人情報が無差別にネットワークに流れるか、そんなこともありますので。本来ならばこういった危険性について無自覚でいる多数の訪問者=ユーザを守らなければなりません。製作者サイドの需要は、その次の課題です。需要についての優先順位を履き違えていると思われます。
見解の相違、としかいいようがない。
私は id:hoshikuzu さんが必須
と考えている諸条件を必須と考えません。だいたい、現実というなら、初心者は JavaScript も ActiveX も有効な状態のまま、安心して巡回しているじゃないですか。せいぜいネットセキュリティ何とかみたいなソフトウェアを利用している程度ですよ。道を歩けば通り魔にあうかもしれない。赤信号で止まれば後ろの車が居眠り運転で追突されるかもしれない。そういうレベルの話だと私は認識しています。人々が怖い怖いといって家から一歩も出られなくなっているなら、しょうがない、強権発動で人々の自由を奪ったっていいのでしょうが、現状はそうではない。
レンタルサーバサービスがユーザの JavaScript 使用をまったく制限せずに十分に発展を遂げてきたことは周知の通りです。私には幸い大した技能がないが、もし一定の知識があれば、このサイトに id:hoshikuzu さんが心配されているようなスクリプトを設置することに何ら制限はない。FTP でアップロードすれば、そのまま動く。tripod.com なんて、匿名のメールアドレスだけで簡単にサーバを確保できるわけだから、tripod.com を利用しているサイトを閲覧する際には、スクリプトを無効化しておかねば危険じゃないかということになるわけですが、みんな平気でリンクを辿ってしまう。いちいち心配しないのが常識になっている。
なぜそうなっているか。3つリンクを踏んで、1つがブラウザの脆弱性を突く悪魔だというレベルなら、みんな気をつけている。1年間、あちこち見て回って、それで1回も悲劇に遭遇しない、そういうレベルの話だから、それくらい悪党が少ないから、みんな平気なんです。
そして逆に、悪党が少ないことがわかっているから、レンタルサーバサービスの事業者は、利用者がアップロードした JavaScript を無効化せず、そのまま利用できるようにしているわけです。object 要素の利用を容認しているわけです。
製作者サイドの技術的趣味の満足が優先であって訪問者の益については守らなくて良いというお考え
と仰るけれども、そう単純じゃないですよ。object 要素を禁止したら FLASH 文化は育ちようもなかったのだし、スクリプトだって、それなりに喜ぶ読者がいるから利用されているという面があるのです。サイドバーの折り畳みなんて、私はあまり評価しませんけれども、あれだって「便利で使い易い」と思う閲覧者がいる。「追記部分の折り畳み」も同様です。スタイル切替スクリプトや「こんにちは**さん」「今このサイトを閲覧しているのは**人です」といったスクリプトだって、喜ぶ読者がいるのです。そういった人々の思いが JavaScript 利用欲の源泉となっています。
私にもすぐ理解できるほど簡単な方法でセッションハイジャックできる状況において、スクリプトを禁止する理由は理解できます。犯罪の果実は大きく、技術的障壁は低いとなれば、悪党がうようよ集まってくる可能性は無視できないほど高い。だからその対策は必要なのでしょう(注:ただし管理画面を表示画面と別のドメインに置くといった対策が可能ならユーザのスクリプト使用を禁止する必要はない)。けれども、ブラウザの脆弱性を突いて云々という話になれば、これはもはやブログサービスの責任の範囲外だと思う。
例えば fc2 ブログのユーザ約20万人の中に、悪党が1人もいないとは限らない。これは危ない、危ないから全員のスクリプト利用を停止しよう……それが「公益を考える」ということなんですか。私は断固、違うといいたい。一般庶民のスクリプト利用を閲覧者には無益と斬って捨て、非常に僅かな極悪人が仕掛ける罠の危険を潰すため、全員の行動を制約することが公益重視の姿勢だとは思えない。id:hoshikuzu さんの議論はアンバランスです。
はてなダイアリーがスクリプトを禁止するのはかまいません。スクリプトを使いたければ fc2 へ行けばいい。閲覧者には選択肢がある。だからこれ以上、はてなに何かいうつもりはない。ただ、問題提起の意義はあったと思う。はてなユーザの少なからずは、決して悪用などしないのに、スクリプトを自由に使えない。だから、はてなは戦略ミスをしていると思うのです。いくつかの仕様を変更すれば、はてなダイアリー本文でのスクリプト利用を認めても、簡単ななりすましは防止できそうなのです。無論、それによって失うものはあります。しかし現状、どちらを喜ぶ人が多いか(注:とはいうものの、現在のユーザは現在の仕様に満足している、あるいは我慢できるユーザなので、現ユーザ内で多数決すると……?)。
私は100%の安全性なんか必要ないと思っています。安全だって、程度問題でしょう。
そう思う理由は、ずいぶんたくさん書きました。でも id:hoshikuzu さんは、全然、説得されないでしょう。だから虚しいといえば虚しいのですが、価値観対立による議論なんて、そんなものですよね。
私は根本的に、閲覧者が製作者より絶対に優位だと思っていない。製作者の一方的な我慢の上に閲覧者の安全を築くことが正しいと考えない。ブログサービスの健全な発展において、初心者が安心して巡回できることは必須です
というご意見ですが、私の見るところ、スクリプトの利用を許可している fc2 ブログの読者だって安心しているでしょう、と。もし私の見立てが間違っているなら、fc2 ブログやこれまでのレンタルサーバを舞台とした個人サイトの世界は不健全な発展をしてきたことになりますが、これが不健全だというなら、私は不健全でいい。閲覧者としても製作者としても、私は現在までのウェブの発展に概ね満足しているもの。
悪党はこれまでもいたし、これからもいます。悪党が捕まるのは、数人が被害に遭った後の話です。それは許せない、一人の犠牲者も出してはいけない、と仰りたいのかもしれませんが、私にはついていけない。僅かな悪人を封じ込めるために、善良な人々の行動を過度に制約するのはおかしい。たしかに、たかがスクリプト、たかが object 要素ですが、だから利用を制限してよいと、私はそうは思いません。
連想しました、ということで。深い意味はありません。
これは「コメントにscriptタグを書いてみたら有効になっちゃった」というのはまずいでしょ、という話ですよね。
Fuktommy さん、それは違います。id:hoshikuzu さんは、「悪いブログ製作者が悪いスクリプトを書けないようにするべきだ」と主張されているのです。他のユーザが悪い製作者のブログを閲覧すると危険だからです。
少なからず
という書き方に私なりの慎重さを込めたつもりです。(関連:はてなアイデア - タグ javascript)
どうみてもXSSではありません。本当にありがとうございました。この脆弱性を何と呼ぶのかと聞かれても「任意のスクリプトを実行できる脆弱性」としか言えません。
現在のはてなダイアリーでは、任意のスクリプトを実行できればセッションハイジャックが可能です。だから任意のスクリプトが実行できることが XSS 脆弱性と認識されています。はまちやさんのいたずら自体は XSS ではないとしても、XSS 脆弱性があったことは間違いない。
それはJavaScriptを使用させてもXSSにならない仕様だからであって(もしかしたらJavaScriptでXSSできること自体がはてなの脆弱性かもしれないが)今回の問題とは何の関係もない。
id:hoshikuzu さんはブラウザの脆弱性を突いて計算機を乗っ取るような行為についても心配されていることに注意してください。そこまで気にするなら、レンタルサーバの利用者にも制限を掛けるべきだということになります。
JavaScriptでXSSできること自体がはてなの脆弱性
……というのが(少なくとも現在の)私の見方に近い。はてなは記事編集、プライベートモード閲覧、ログインコメントなどにいちいちパスワードを必要としない設計となっており、それゆえ任意のスクリプトの実行許可が即ち XSS 脆弱性となります。他に選択肢がある以上、はてなのようなサービスはあっていいのだけれど、はてなのサービス設計を単に「不便」と捉えるユーザも相当数いるだろう、と私は指摘したのです。
悪質な(本来警戒すべき)XSSによる攻撃は、認証情報を盗み、それを利用して認証情報で保護されたはずの情報を盗み、あるいは認証情報で保護されたはずの機能を利用し、それでいて利用者にはそのようなことが起こっていることをまったく気づかせない、というものだ。そのような攻撃はそう簡単には発覚せず、発覚しない間に被害は広がっていく。そのような攻撃でも、(攻撃が見つかったら)その仕掛けたユーザーを排除すればそれで対策は十分?
ブラウザの脆弱性を突いて行われる攻撃については、「その通り」と回答します。
一方、ブラウザが仕様通りの動作を行っても、サービスの設計のまずさゆえに可能となってしまう攻撃に関しては、(私の価値観においても)なるほど許容範囲外だと思いました。そんなこんなで、誤解を広げめられると迷惑だ
の件、一定の対応を取りました。
今頃、気付いたので、いま答えます。
趣味のウェブデザの徳保さんにも挨拶できました。挨拶したというか、読んでます、といっただけでさすがにリスペクトしてます、マイミクにしてください、とは言えませんでしたが。一日中いる、と書いてあったのでいつ行っても大丈夫なのかと思ったら、15時時点で今来たところだったそうです(11時開始、16時終了です)。
あ。いや、12時到着です。本は売れないのに店番の担当者ばかりたくさんいて、でも椅子は2つしかない。私も1時間くらいは売り子をしていたのですが、負のオーラが出ているのか、客が寄り付かない。それで「どうです? いろいろ見て回ってきたら」と遠まわしの表現でお払い箱になりまして、結局、ほとんどの時間を会場内をふらふらして過ごしていたんです。
15時頃に、いい加減、足も疲れたので、椅子に座らせてもらおうとブースへ戻ったところで id:K2Da さんに遭遇したという次第。ちょうど私がブースに帰ってきたところに「徳保さんいますか?」という人が現れたので、「ちょうど今きたところですよ、奇跡だ」みたいな話になったんですね。
それにしても、こうして気付いてよかった。「誰だったんだろう?」としばらく思っていたもので。
その他、文学フリマへいったときの話は、はてなダイアリーにいくつか書いていたのですが、はてなを昨年末に退会してしまったので、転載することにしました。
文学フリマといえば、2月26日に名古屋でも開催されるそうです。東海地方の方は、興味があればどうぞ。
東横イン問題は、「障害者用の客室」が健常者の客から悪評を受け、そのため利用者が少なかったこと、そして機械式駐車場が客足を遠のけるダサい外観だったことから、多数派のお客さん(健常者で電車・タクシーを利用)に最適化した違法改造を行った、というものです。法令順守の精神に欠けた社長を責めていても、先につながりません。人に我慢をさせるばかりでは、事件の再発は防げないからです。
今回の事件は、日本のデザイン業界に大きな宿題を残しました。
ユニバーサルデザインは、なかなか実現しがたいものです。「とりあえずバリアフリー」というレベルで満足してしまうと、とってつけたような障害者用の手すりなどは、見た目も使用感も不愉快なものとなりやすい。床の段差をなくすといって三角のスペーサーが部屋に置かれるのも興ざめです。きちんとバリアフリーを目指した結果、ユニバーサルデザインが実現されることは少なくないのですが、まだまだあらゆる面で一般的に妥当とされる解が出揃っているわけではありません。(注:東横インの障害者用客室がどんなものだったかはわかりません。ただ、健常者が不快感を訴えるつくりだったことだけがわかっています)
フラットな床は、今や常識となりました。車椅子を使わない人だって、掃除機をかけるのに便利だし、何より廊下の真ん中を歩いているのに小指をぶつける理不尽から解消されるのは嬉しいことでした。
最近の駅舎のエレベータは、2方向に扉が設けられたものが増えています。2つ扉のエレベータでは、中に入って、そのまま前進すれば出口に向かうことができます。車椅子の利用者にはたいへんありがたいデザインといえます。じつはこのエレベータ、健常者にも使いやすいのです。何といっても出入り口で人がぶつからずにすむのがありがたい。もし床面積に余裕があれば、デパートやオフィスビルにも導入してほしいですね。
バリアフリーに関しては、様々な問題に対して、それなりの回答は出せるくらいにデザインの世界は進歩してきています。けれども、誰もが使い易いデザインの実現には、まだまだ研究が必要です。健常者も、「この部屋は素晴らしい!」と感動する障害者対応客室の実現、今日、明日にもというわけにはいかないでしょうが、デザイン業界の方々とにはぜひ、頑張っていただきたいと思います。やっぱりコストが最大の問題なので、みんなでユニバーサルデザインの実現、とくに最大の課題であるコストダウンの克服に協力し、知恵を絞っていきたいものです。
また障害者問題でかすんでしまいましたけれども、機械式駐車場の外観のダサさも、そろそろ劇的に改善されてよさそうなものです。何かいいアイデアが浮かんだら、メーカに意見を出してみるといいかもしれませんね。
以下は関係ない話。憶測メソッド全開。で、この憶測を断定口調で書くときっこメソッドに進化。
はてなではサービス全体で共通のログイン cookie を発行し、各種サービスの設定・編集やプライベートモードの閲覧、ログインコメントなどをパスワード入力なしで利用できるよう設計されています。そのため、*.hatena.ne.jp 内で任意の JavaScript が利用可能な場合、悪意あるユーザは他ユーザの cookie を取得してなりすまし、パスワードの入力が必要な退会・個人情報管理・ポイント操作を除く全ての操作を実行できます。
はてなダイアリーで JavaScript の自由な利用が制限されているのは、この危険に対処するためです。各種 SNS でユーザの自由なスクリプト利用が認められない理由も同様です。ログイン情報をユーザが保持していることを前提に設計されたサービスでは、避けられない問題なのです。
こうした事情は一般のユーザには理解されにくい(私も satoshii さんのご教示を受けるまで全く無知でした)。fc2 ブログのようにユーザの JavaScript 利用を許可しているサービスが多数あるため、はてなダイアラーや Yahoo!ブログ利用者の少なからずが不満を持っていると思う。
はてなダイアリーでユーザが自由にスクリプトを使えるようになるためには、表示画面へのログイン cookie が第3者に読み取られても、なりすまし問題が生じないよう設計を変更しなければなりません。プライベートモード閲覧やログインコメント機能をパスワード制とし、管理画面を別ドメインへ変更する、など。そういわれてみて初めて、現在の設計の便利さを理解できます。
はてなはスクリプトの利用制限に苦労しています。最近もはてなダイアリー本体のXSS脆弱性が話題になりました。はてなは HTML と CSS の(ほぼ)自由な入力を許可しており、入力パターンが膨大なので、スクリプトが紛れ込んでいないかどうかのチェックが大変なのだそうです。Yahoo!ブログや mixi などの SNS が HTML や CSS の利用を不可能にしたり、多くの制限を課したりする理由は、ここにあったのですね。
HTML や CSS の(ほぼ)自由な入力とスクリプトの禁止を両立させるため、あえて茨の道を歩んでいるはてなですが、個人的には「サービスの設計を変更してユーザのスクリプト利用を許可してはどうか」と考えています。SNS 的な部分に関心のなかった私は、はてなの仕様を長らく不便に感じていました。はてなダイアリーの書きやすさは他サービスに代え難く、「我慢」しているユーザは少なくないと思うのです。
一口にブログサービスといっても、その設計思想は様々です。はてなや Yahoo!ブログは SNS のような使い勝手を目指しているので、JavaScript 利用の自由を閲覧者に与えられません。逆に fc2 ブログは閲覧制限にパスワードを必須とする他ない。こうしたサービスの設計思想とユーザに課せられる制限との関係について、各事業者がもう少しうまく説明してくれたら、よくわからない段階で「なんだこりゃ」と放り出すことも減るのではないでしょうか。とくに、ユーザに多くの制限を課すサービスでは、納得できる説明がほしい。
私は過去に何度かはてなダイアリーを紹介してきましたが、「なぜ邪魔なヘッダーがあるの?」「忍者のアクセス解析貼れないの?」といった問いに答えられませんでした。はてなが SNS とブログの中間を狙うサービスだと理解して初めて、得心した次第です。得心したら会員が増える、とは限りませんが、サービスの設計に込められた思想を理解もされないままサヨナラされるよりはよいと思います。
それなりに追記・補足もしてきたつもりなのですが、ご不満が尽きないようなので、記事を現在の視点から全面的に書き換えました。従来の記事はコメントアウトしてあります。
古書店も調べられるのが便利。あとはオークションも一括で……。
テレビCMを見て、アクセスしてみた。これはたしかに、すごいね。他社を圧する掲載件数を確保した上で、革命的なインターフェースを提供する王道の戦略が見事にハマってる。勝ち組が潤沢な資金を投入して2位以下を突き放す、の図。
「必要はない」としても、多少のお勉強はやっぱりした方がいいわけで……なんてことを書くまでもなく、日本語の苦手な人は極東ブログなんて読めないんだから、心配要らないか。以下は、あんまり関係ない話。finalvent さんが批判しているあれこれとは別の国語教育について。
私が「国語教育はやった方がいいんじゃないかな」と思うようになったのは、大学時代です。高校受験を目指す生徒を教えてみて、県立高校入試のあまりの簡単さに衝撃を受けたことがきっかけでした。「こんな簡単な問題で10点や20点しか取れないで、よくコミュニケーションが成立するなあ」と思ったのだけれど、よく注意して彼らの様子を観察してみたら、実際、コミュニケーションが成立していなかったことに気付いた、と。
小説問題への批判として、「結局のところ書かれていないことはわからないじゃないか」みたいなものがあるのだけれども、その批判自体は正当だとしてもですね、まず実際の問題を見てから文句をいってほしいのはたしか。明らかに可能性の低い選択肢と、まさにこれでしょという選択肢があって、より妥当なものを選びなさいといわれて、後者を選べないのでは他人と意思の疎通ができるわけがない。
もちろん人と人とが分かり合えるなんてウソだよ、という意見は私も認めますが、しかし「多分こうなのでは」という予測が全く立たないのでは困る。いや、本人はじつのところ困っていないのでしょうけれども、お勉強させたい側の気持ちはよくわかる気がしました。
……が、論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。
という主張には半分賛成します。そういう精神修養的な指導をしたがる人は、自分が本当は何を教えたいのか、よく認識していないことが多いから。非常に迂遠なんですよね、音読とか暗誦って。そのことを認識しているのかどうか。何でもお手軽に、とはいかないので、そうした指導もやっていいとは思いますが、費用対効果の謎な指導に入れ込むのは危ない。
関連する話題。石原千秋さんは国語教育は道徳教育だ、といって警戒感を煽っているのですが、私は疑問を感じます。価値観は自然発生しないので、どこかで誰かが、何らかの価値観を提示する他ない。それは洗脳なのだけれど、誰かがあえて蛮勇を振るうしかない。もっと悪い事態はいくらでも考えられるわけで、学校が価値観の注入装置になるのはベターな選択でしょう。ようはその排他性の程度であり、バランスの問題だと思うのです。
うあっ、こ、これはしょーもない……。「これはどういう意味か」とか「作者は何を言いたいのか」とか「この『それ』は何を指すか」とか、そんな瑣末なことはどうでもよい。
って、逆ですよ。その瑣末なことがわからない子には内田さんの文章はサッパリ読めない。なぜか。内田さんの文章には代名詞や接続詞が含まれ、そして100字より長いからです。暗誦は手間も時間もかかり、授業向きではない。宿題にもなじまない(チェックが難しいから)。家庭教育の領域だと思う。
この記事では「世論」に配慮してか茶化し気味に書かれているけれど、私はこの備忘録を書く間に考えが次第に変わって「貶すより褒める方がよい」と思うようになった転向組なので、素直に賛同したい。まあ私の場合は、性格の問題があるので、意識して褒めることを心がけていてもこの程度でしかないわけですが。
ところで、以前「批判は効果がない、褒めることが大切」と主張して話題となった山田ズーニーさんの連載記事が本になっていたのでご紹介。面白いですよ。文章の書き方講座には違いないのですが、書く技術そのものではなくて、いかにして「書く」という行為を始めるか、そして完遂するか、そのモチベーションというか、熱い心の制御の仕方というか、そのあたりが読みどころになっているのです(というのが私の解釈)。岡田斗司夫さんの久々の新刊「プチクリ! 好き=才能!」にも通じる内容。
いま田中秀臣さんの「ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝」を読んでいます。講談社BIZの最新刊です。バーナンキさんの伝記を読みたかった人が本書を買って怒りのレビューを寄せ(そして Amazon に削除され)ましたが、まあ、その気持ちはわからないではない。けれどもこの本は経済書なんだから、これでいいと私は思います。バーナンキさんの発言を都合よく拝借した怪しい言説や、言葉尻を捉えた批判が、今後どんどん出てくると思う。バーナンキさんの FRB 議長就任に完璧にタイミングを合わせて刊行されたのが本書だったのは、明るいニュースです。今、書店で「バーナンキについてよくわかる本ありますか?」と訊ねると、田中本が紹介されます。本書がよく売れて、バーナンキ入門の定番になるといいと思います。
さて、田中本に挟まれていた講談社BIZの刊行予定のチラシを見ると、4月に竹森俊平「世界デフレは三度来る(上・下)」が刊行されるとのこと。今から待ち遠しい。月刊「現代」での連載も次号で終了なのかな。
多くのエコノミストは、石油価格高騰はインフレの原因になると言ってきたが、本当の経済学者は、石油価格の高騰はインフレの理由にはならないと、第1次石油ショックのときに、すでに指摘していた。ノーベル賞受賞の経済学者、ミルトン・フリードマンは、石油価格が上昇すれば、人々の石油以外のものに使うお金が減少する。したがって、石油以外のものに対する需要が減少し、それらの価格が下落する。それゆえ、石油価格が高騰しても財サービス一般の価格は上がらない。すなわち、インフレにはならないと指摘していた。もちろん、本当にインフレ率がゼロになるためにはこまごました条件がいる。しかし、こまごました条件が満たされなくても、石油価格高騰がインフレの主要な要因にはならないと指摘していた。
30年以上も前、私がこの理屈を聞いたときには、すぐさま空理空論だと思った。現に、石油価格の高騰とともに日本の物価は急上昇している。石油が上がっても、他のものの価格が下がるからインフレにはならないなどということがあるものかと思ったのである。
あの原田泰さんでさえ、「いかにもそれらしい理屈」に騙されてしまった、という話。「わかっている人」向けのコラムなので、肝心なことが書かれていない。70年代の狂乱物価の真因は何か?
このあたり「世界デフレは三度来る」に解説があります。端的には、好景気の演出に腐心する政治家の圧力(=選挙対策←民意)に日銀が負け、インフレ抑制策を実行できなかったため、狂乱物価となったのです。詳細は雑誌のバックナンバー、または4月発刊予定の単行本でご確認ください。
法律の條文自體に曖昧なところが「ある」として批判が續出してゐるとの事。しかし、法律ならば憲法の規定には逆らへない訣で、全うな言論ならば當然のやうに憲法の規定により保障・保護される。法律は、言論でない不法な行爲(暴力・恐喝・中傷・侮辱・壓力)を取締るものだと考へて良いだらう。
「アメリカも終った」みたいな意見が多いけれど、私は闇黒日記の見解に頷くところが大きい。
WebbingStudio は北海道の Web デザイナー洵さんの個人請負だけに、圧倒的に安価。もちろん宣伝期間としての特価ではあるのですが、まず検討してみる価値はあります。しばらくブログを読んでいますけれども、まじめな方ですね。技量も信用してよいと思っています。(参考:安い理由)
Blog-DESIGN と aamall.jp では価格が倍くらい違うのですが、これは注文の自由度の差です。aamall はイチから話を聞いてくれるので、3万円でも4万円でも儲からない商売をやっている、という印象。全部お任せにするなら、Blog-DESIGN の方が安くていいのではないでしょうか(そして存外、こっちは利益が出ていそう)。まあ、aamall にも、デザイナーに惚れ込んで「あなたに全部お任せ」というお客さんがいて、それで利益が出てくるのだろう、とは思う。
‥‥そんなワケで、あまりにも闇が深いライブドア事件は、知れば知るほど怖くなるんだけど、誰よりも怖がってるのは、安倍晋三や武部ブタをはじめとしたコイズミ内閣の面々だろう。とにかく、あたしとしては、せっかくコイズミを攻撃できるネタなのに、怖くて書けないジレンマで、思わず、かっぱえびせんのお茶漬け海苔味を一気食いしちゃいそうだ。だけど、このネタの他にも、耐震偽装問題でも、安倍を引きずり下ろせるだけのネタがあるし、すでに野党はその準備に入ってるから、コイズミがトンチンカンな答弁で逃げ回ってられるのも、もはや時間の問題だろう。ま、あたし的には、「サイバーファーム」とか「サイオン」とか「エアードルフィン」とかの名前がマスコミに登場するようになってから、ゆっくりとライブドア事件の続報を書こうかと思う今日この頃なのだ。
- ブログ書き込みは事実無根
- 2006年02月02日(木) 18時41分
- とあるブログの書き込みが発端となり、ライブドアに絡む一連の事件との関連性が取りざたされて急落したサイバーファーム<2377>。会社側では個人投資家からの対応に今日一日追われたそうだ。上場時の主幹事がHS証券だったことなどから連想が働いたらしいのだが、「事実無根。明らかな風説の流布と思っており、ブログを書いた人には法的な措置をとることを検討している」(会社側)とのこと。
- インターネット掲示板等への当社および当社グループ企業に関する記載について(PDF/12KB)
本日、インターネットのブログサイト、掲示板サイト等へ当社ならびに当社グループについて、思わせぶりな書き込みがございましたが、事実無根でございます。
株主様、投資家様、取引先各社様におかれましては、ご心配をおかけするような内容は一切ございませんので、ご安心頂きたく存じます。尚、現在、関係各所と協議の上、当該サイト等へ然るべき対応をとるべく検討を進めております。
また、発表が遅れましたのは、関係各所と協議・検討をしていた為でありまして、株主・投資家の皆様には、多大なるご迷惑をおかけしましたことを深くお詫びいたします。
- インターネット掲示板への当社および当社グループに関する記載に対する対応について(PDF/88KB)
本日のインターネットのブログサイト、掲示板サイト等への、当社ならびに当社グループに関する思わせぶりな記載に対して、現在その対応を協議すべく、警察をはじめとする関係各所へ相談を行っております。
株主様、取引先様等多方面にご心配、ご迷惑をおかけしており誠に恐れ入りますが、掲示板等に記載されております内容につきましては、当社は一切該当しておりませんので、ご理解の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
要注目。株式会社ウェディング問題では、ウェディングの業績に影響は出ていなかったわけですが、きっこのブログは株価に影響する、と。こうなるといよいよ、「一般人の個人サイトには信用がなく、社会的影響もないので、自由に好き勝手書く権利が最大限保障されるべき」という紀藤弁護士の主張も揺らぎますね。→iFinder(2006-02-25)
ekken 『[ekken]しばらくム所くらしなんすよ。』
ははーん、こりゃもう、戻ってこれないね。さよなら goo ブログ。いや、goo ブログにも高機能なお絵かきツールとか、いいところもたくさんあるのですが、えっけんさんなら fc2 の方が向いていると思うわけです。
それにしても、http://ekken.blog1.fc2.com/ というのがすごいですね。さすが。
「国」では日本が1位ですが、詳細な調査結果を見ると「EU」が No.1 となっています。ちなみに世論調査の対象国に日本は含まれていません。また調査対象国にはかなりの偏りがあるという印象。具体的には欧州とアフリカが他地域と比較していささか優遇されています。
フォントなんか指定したって、閲覧者のパソコンにそのフォントが入っていなかったら意味ないでしょう、という思いがあるので、ウェブアートデザイナーでロゴ画像を製作するとき以外はフォントのことなんて考えないのだけれど、こういったツールで遊ぶのは楽しい。IE7 ではアンチエイリアスがかかるので、ふつうのひとにはよりいいのかもね。私はアンチエイリアスがかからない IE6 の方が好きなのですが。
当サイトも山あり谷ありですが、長く続けてきて本当によかったなあ、と思う出来事がありましてので、ご紹介します。
いや、私の功績でもなんでもないのですが、生徒の活躍の報を聞いて感動する教師、みたいな……感動、そう、感動してます、私。
お世話になります。
ホームシアターに関するサイトです。現在、一日平均70〜100アクセス(200〜400PV)程度です。アクセス数をもう一桁増やしたいと思っていますが、行き詰まっています。何が足りないか、ヒントを頂ければ幸いです。
なお、ターゲットは、ホームシアターに興味がある未経験者、または、初心者、20代後半〜40代男性です。
徳保さま、こんにちは。
「Advice315 いつかはホームシアターをつくろう」でアドバイス頂きました「ぼう」です。
2006年になって、安定して当初の目標(700〜1000ユニークユーザ、3000〜4000PV)を達成しましたので報告いたします。
目標が達成できたのは、ひとえに徳保さまに適切なアドバイス頂いたからだと深く感謝しております。
本当にありがとうございました。
当時のアドバイスのポイントは以下の3つと理解しております。
- 1.Yahoo 対策
- 2.検索エンジン対策
- 3.個人体験以外のキラーコンテンツの作成
上記のアドバイスのうち、
- 1.については、Yahooディレクトリ登録完了。
- 2.については、「ホームシアター」のキーワードで、google、yahooともに1ページ目に表示。
を達成することができました。
ただ、3.を実現すべく「フォーラム」を立ち上げたのですが、閑古鳥が鳴いており、こちらはなかなか思い通りにいかなく悩んでいるところです。
(個人の体験でも数を集めれば自ずと多種多様な体験が語られ、自動的に「個人」ではなく「普遍的」なナレッジに昇華できるかと思ったのですが、実現するのはなかなか難しいようです。)
ともあれ、当初の目標は達成できたので、「ホームシアター」No.1サイトを目指して今後も努力していきたいと思います。
以上、ご報告まで。
あっさり書かれていますけれども、Yahooディレクトリ登録と激戦キーワードで1ページ目掲載はただごとではありません。一日平均70〜100アクセスのレベルから10倍増を実現するのは並大抵のことではありません。ところがぼうさんは、私が提示した無理難題を次々とクリアされました。たゆまぬ努力を支えた強靭な精神力は尊敬に値します。ぼうさんだからこそ成し遂げられた快挙だと思います。
おめでとうございます!
なぜ今、皇室典範改正なのか。雑誌「正論」2006年3月号の寛仁親王殿下インタビューを読んで、少し思うところがあったので、メモしておきます。私の仮説です。
皇室典範改正が急がれる理由は、紀宮さまが結婚して黒田清子さんとなり皇籍離脱された衝撃が、皇統断絶を心配する人々を不安にさせているからです。女性天皇と女系天皇を認めることは、女性皇族の皇籍離脱を制限することにもつながります。彬子女王殿下と瑶子女王殿下はいわゆる結婚適齢期です。2人の女王殿下が結婚される前に、皇室典範を改正したい。
皇族の中で寛仁親王殿下の発言が突出しているのは、娘を皇籍離脱させたい親心のためと解釈できます。真の狙いはココで、他は「あわよくば」の提案。最低限の目標は時間稼ぎです。彬子女王殿下も瑶子女王殿下も明るい性格で知られ、寛仁親王殿下によれば「もてる」らしい。親王殿下は法改正前の結婚を期待されているそうです。(注:現時点でお相手が決まっているのかどうかは不明)
また、寛仁親王殿下のお話を読む限り、やはり愛子さまが物心つく前に皇室典範改正問題は決着させるべきだと思う。教育の基本条件が異なってくるためです。寛仁親王殿下が旧皇族男子との結婚で宮家を存続させ、民間人との結婚では皇籍離脱させるアイデアに乗り気でないのは、皇籍離脱決め打ちで2人の娘を養育してきたからに他なりません。だから旧皇族の皇籍復帰を強く推すのでしょうね。寛仁親王殿下の時間稼ぎが成功すれば、次は高円宮家の3女王殿下へターゲットが遷移し、久子妃殿下のご発言が表に出てくる可能性もあります。
また寛仁親王殿下の建前は男系維持ですが、旧皇族の皇籍復帰が認められなかった場合、娘を守るため、女系天皇もギリギリの判断で容認に転じる可能性ありと私は見ました。女系容認なら傍系にお鉢が回る可能性はほぼ消え、皇室会議で様々な希望が通りやすくなるでしょう。
男女平等の観念を広げるため象徴的に女性・女系天皇を推進したい朝日新聞、伝統を尊重する価値観から男系維持のため旧皇族の復帰を推す産経新聞、娘を守るためメディアの利用を決断した寛仁親王殿下、三者三様の情報戦が展開されています。
ムツカシーことは分かりませんが、国民の問題でしょ。
というのは賛成です。(林家こん平メソッド)
第十條 立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。
女性天皇、女系天皇を認めると、皇族女子も婚姻の自由を失う、という指摘。寛仁親王殿下のインタビューでは触れられていませんでしたが、これも重要な変更点ですね。
その後、秋篠宮妃紀子殿下の第3子懐妊が発表され、国会の議論は凍結されました。仮に男子が誕生すると、男系維持+旧皇族の皇籍復帰を主張する人々には追い風となります。なぜなら(事故・大病のない限り)皇籍復帰第一世代が天皇に即位する可能性が消え、傍系継承となっても生まれながらの皇族が即位することになるからです。皇籍復帰から即位までに要する期間は約80年となり、皇籍離脱してからの60年間を大きく上回るわけです。
さて、秋に誕生予定の皇孫が女子の場合、皇室典範改正問題は再燃します。この場合、男系維持派は苦しい。秋篠宮の余命を考えるに40〜50年後には、皇籍復帰第1世代へ皇位が継承されることが予想されますが、国民の納得が得られるかどうかは微妙ですね。皇籍復帰後の言動次第でしょうか……。
「
p
要素の中にブロックレベル要素を記述するという発想自体がおかしい」とした理由は、ブロック要素として最小の単位がp
要素である、という意見に賛成だから。p
要素内のobject
要素は内容も含めてインライン要素として扱われるべきであり、そのインライン要素内にブロック要素を置くということは仕様と矛盾してしまうからである。
画像を埋め込むとして、その画像がリストを表す内容だったら、代替えとなる内容がリストになるのは至って自然である。
これは真名垣さんに賛成。
iframe 要素や object 要素は「文書」すら埋め込むことができる、とんでもないインライン要素。もともと無茶な存在なのであって、その代替テキストだけ「インラインの分を守っておしとやかに」といってもしょうがないような……。
まあ、現行の Firefox などの代替テキスト表現が素晴らしいかどうかは別問題だと思いますけど。強いて Firefox を擁護すれば、インライン要素を CSS で display:block; することは否定されていないのだし、といったところなんですかね。
IE6 では object 要素の内容として配置したブロックレベル要素は展開できないと思い込んでいたのですが、見出し要素の中なら展開されるのですね。私にとって、これはかなり衝撃的な発見でした。
そろそろ徒委記にリンク集を作成しないとなあ、と思って見てみると、どなたか有志の方が既に作成されていました。助かりました。
改めて私の主張を簡単にまとめておきます。
p 要素が日本語の「段落」に対応するなんて仕様書には一言も書かれていないわけだから、読点で p 要素を終了すればいい。あらゆる自然言語の文法に対応するのは不可能だから、仕様の中に「見た目依存」の部分を残してある、しかも非常に根本的な部分にそのような性質が取り込まれているのだと思う。
一方、野嵜さんの既に存在するW3Cの仕樣が既に「對應可能」な状態であるのならば「美しくない」「邪道」等と言つた偏見・極附けに固執しないでさつさと考へ方を變へてしまへば良い。
という主張は正論なのだけれども、今回の議論に適用する際には注意が必要。
p>object>ul はたしかに DTD では許容範囲だけれども、勧告の本文で object 要素の内容は代替テキストであって、あくまでも埋め込むオブジェクトありきだと示されている。object 要素はテキストをオブジェクトとしてマークアップする要素ではないのだから、埋め込むべきオブジェクトを指定せずに代替テキストだけ書くのは間違い。だから、真名垣さんが示された例は、あくまでも「妥協」であって、仕様がそれを認めていると解するのは間違い。明らかに「問題」はある。
誰もが承認する前提から出發して、その前提に合致するから何うであると結論を出すのなら話は解る。けれども、或結論がある、その結論を出す爲に前提をでつち上げる、と云ふのをこの無名氏はやつてゐる。いわいもさうだが、自分の結論は正しいと盲信してゐる爲に、結論の出し方がおざなりになつてゐるのではないか。
……。object 問題について、「内容にブロックレベル要素を持ってよいかどうか」という論点に関しては、たしかに仕様は認めていることに異論はない。でも「埋め込むオブジェクトを指定せずに代替テキストだけ記述することの是非」という論点に関して、野嵜さんが態度を曖昧にしている理由は、よくわからない。
各所で話題沸騰中の IE7ベータ2 ですが、個人的に一番心配していた IE らしい描画の風合いがきちんと護持されていたので、ちょっと安心しました。
逆に衝撃を受けたのが ctrl+マウスホイールで変化するのが「文字サイズ設定」から「ズーム」に変化していたこと。Sleipnir のズーム機能と同じようなものかと思ったら、これが全然違うのでガックリ。これがもしも改善されないとすると、スタイルシートでレイアウトしている人はけっこう困るんじゃないかな。当サイトの場合、かなり手ひどく表示が崩れました。
一般の方にとっては、すっかり変化してしまったユーザーインターフェースが戸惑いの種でしょうね。Sleipnir ユーザは何も変わりません。なお IE6 とは共存できず、また今のところ英語版しかない様子なので、ふつうの人がホイホイ手を出すようなものではないんじゃないかな、という印象。アンインストールは可能です。
ま、どうせ IE7 が普及して IE6 を無視できるようになるまでには IE7 の正式リリースから最低3年はかかるので、サイトの運営者は拙速にバージョンアップしないで、IE6 を後生大事にしておいた方がいいでしょうね。過去の事例から推測するに、正式リリース後は IE7 のアンインストールはできなくなると思います。
IE7 はアンインストール可能な形で提供されるそうです。
<object>
によるマークアップ(真名垣さん)ある仕様への準拠を決めたなら、不満はあっても、仕様に従うべきだというのが私の主張です。
仕様に従うといっても2つのレベルがあって、ひとつは DTD に違反しなければいいのだ、と。もうひとつは、仕様が想定しているような要素の使い方、マークアップの仕方をしましょう、と。私は後者の立場だから、真名垣さんの object 要素活用法に眉をひそめるのです。
これは p要素は最小の節 にも書いたことですが、W3C はブロックレベル要素は単体で意味が通じるものであるべきだと云う自説
を裏付ける、いかなる説明もしていません。W3C は循環論法や論理の倒錯まで駆使してブロックレベル要素の定義を自然言語の文法と結びつけることを避けています。真名垣さんと W3C とでは、多くの価値観が共有されていないことに注意すべきです。
HTML はこのように進化するべきだ、という提言をすることと、とりあえず現存の仕様に従うことは矛盾しません。仕様に従うのは、窮屈なことです。その窮屈さをテーブルレイアウトをする人には押し付けて、自分は、仕様に反する object 要素の使い方をする、これは疑問です。仕様が否定していない「読点で終了するブロックレベル要素」を気持ち悪い
とする感情は、仕様に挑戦する理由として正当なのでしょうか。
- 大前提
- はじめにテキストありき
- 仮説
- テキストをマーク附けする事で、HTML文書ができあがる。
これは野嵜さんの有名な基本方針
ですが、たしかにこう考えると HTML はわかりやすい。けれども、W3C の勧告書を検討していくと、この基本方針に反する内容がいくつも見つかります。理解の鍵となる概念の絞り込みは、学習の初期には重要です。しかし少なくとも現在、事実上の標準となっている各種 HTML の仕様は、原則だけでは説明できません。ならば現実に合わせる他ない場面では、原則が通用しない事情を理解していく必要があるでしょう。
これから世に出る新しい仕様は、ぜひ野嵜さんの基本方針に従ってほしい。HTML の仕様は、見通しがよくわかりやすいものが望ましいと思います。しかしそれは遠い未来の話で、「今、どうするか」という問題は別に考えるべきです。
真名垣さんが、普及しているとかそういった理由で他人の作った仕様に準拠するのであれば、仕様と個人的欲求の不整合は、自制によって対処するのが筋だと私はいいたいのです。現時点では、p 要素がブロックレベル要素を包含できる仕様はありません。
object 要素は解決策にならないと私は考えています。はじめにテキストありき
の大前提と矛盾するからです。object 要素において、本来、存在するのはオブジェクトであり、テキストはその代替なのです。object 要素は、実質的には空要素です。object 要素の内容は、img 要素の alt 属性値と同じ代替テキストに過ぎません。埋め込むオブジェクトがないのに代替テキストだけを用意するのは、無から有を生む行為です。奇怪といわざるをえません。
W3C の作成した仕様が我慢ならないなら、独自仕様を作って準拠する手も。DTD にはさして文句がないわけだから、解説部分だけ独自に書き直すのです。そして例えばこんな文書型宣言をつけるわけですね。
<!DOCTYPE html PUBLIC "-//managaki//DTD XHTML 1.1//EN" "http://www.w3.org/TR/xhtml11/DTD/xhtml11.dtd">
凡ゆる要素をobjectとしてマークアップしても何等問題は無い筈だ。「箇条書きのメモを埋め込む」的感覚。
object 要素の内容は埋め込みに失敗した場合の代替テキストであって、埋め込むオブジェクト自体は data 属性などで指定しなければなりません。そして残念なことに、URI で指定できない何か(例えばマークアップされた文字列そのもの)を埋め込む方法は、現状の object 要素の仕様には規定されていません。(私の読み落としでなければ)
object 要素は一見、テキストをオブジェクトとしてマークアップするための要素のようでいて、じつは違います。形式上の擬態ゆえに、野嵜さんの基本方針に賛同・共感する方々の誤解を招きやすい厄介な要素なんです。W3C は(あなたの)理想の代弁者ではない。だから、仕樣は仕樣として尊重する必要はあります。が、仕樣の見直しはあり得る。
と心に銘じて、批判精神を忘れてはいけないのだと思います。
私は絶対に
table
をレイアウト目的で使用するなとも、何時いかなる時でもblockquote
でマージンを取ってはならないとも、言った覚えはない。問題は、それを妥協として用いる正当な理由があるかどうかと云う点。私がそれらのマークアップを否定する場合は、必ず何か別の理由が存在している。
はじめにテキストありきと云う原則が仕様書の一部分と矛盾するから、ならばと言って即仕様書の決まりを守らなければならない訳でもない。<object>
を噛ませるのは、はじめにテキストありきの原則にも仕様が想定しているような要素の使い方、マークアップの仕方をしましょうと云う原則にも反している。だからと言って、どちらかを採ると、最良とは言えない結果になる。だから、私はどちらも採らず、それ以外の妥協案を呈したに過ぎない。
なるほど、当方にいささかの誤解があり、失礼いたしました。
「何をもって妥協するに足る正当な理由とみなすか」が、今後も折々に提起されるであろう問題に取り組む際の争点となるのでしょうね。