いろいろ説明を付して格好を整えてはいるのだけれど、相手がトニオさんだからこそ、こういう記事を書いたんだろうな、と思った。なかなか、こういうのって踏ん切りがつかないんだよね……とか書くと、「遠慮なく書きたいことを書いてきたくせに」と苦笑される方もいそうですが。
こういった機会を捉えて、加野瀬をなめるなよ、みたいなアピールをなさっているのかも(妄想)。
案の定、早速こうして意気軒昂な反論が。加野瀬さんの読み通りでしょう。ここで打ちのめされて体調を崩すくらいの弱さを示すことができれば、流れが変わったのかもしれない。「加野瀬さん、ひどい」「トニオさん、かわいそう」みたいな。何だかんだいってこの界隈は、「リンクしたら電話してください」といわれると、「電話するの面倒くさいからリンクしないでおこう」と考えるような、相手の意向を尊重する思想が強い。本当なら、トニオさんが有利な局面なんですよね。
以下は余談ですが、こんなことを書いていると、またまた徳保は勝敗の考え方を持ち込んで、といわれるのかもしれませんけれど、議論の整理に二分法は便利なんですよ。二分法を使うとき、なぜか「左右」など優劣のない分け方だけが「倫理的に正しい」という思い込みにとらわれている人が散見されますが、ようは現実をうまく図式化できればいいのであって、変な制約は必要ないはずです。「大小」など格差を含有するグループ分けが妥当なら、そうすればよい。
「正しい」とか「間違っている」なんてのは、正解がわかっているなら二分法のグループラベルに使ってもいいですけど、たいてい誰かと誰かが議論している時点であらかじめ何が正しいかわかっていることの方が少ない。というかそもそも、実際の議論には多様な形態があるのに、特定のカタチ以外は議論ではないとか何とかいって枠組み論で切り捨て、みたいな人がちょくちょくいて、なんだかな〜と思うことがしばしばあります。
上記リンク先は世評の高い記事なのですが、私はちょっと補注をつけたい。Iwatam さんは「幸福な議論」だけを議論とみなしているようで、とすると、これってそんなに使い道のないマニュアルなのでは?
関連記事として、「インターネット人類補完計画」の果てに(id:fujipon さん)をご紹介。ネットマナーの議論は続くよどこまでも(2005-08-07)に書いた通り、歩み寄るコストが争うコストより高い
ことが、id:fujipon さんの理想に共感する人が多いにもかかわらず、現実が理想に近づかない理由。「幸福な議論」なんて、そうそうあるものじゃない。
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に衝撃を受けた。世の中にはすごい人がたくさんいるものだ……と思っていたけれど、やっぱり「とんでもなくすごい人」となると、そうそういるものではないな、と。推理小説を読んでいて一人二役のトリックに驚かされることがありますが、satoru さんは45ものサービスの開発者であるわけで。
「素人でもできる」ことと、実際にやるということとの断絶を、読んでいるだけでもひしひしと感じた。「できそうだ」と思っても、実際にはできないことは多々ある。だんだん勘が冴えてきて、「できそうだ」といま自分は思っているが、実際にはできないだろうな、なんて厄介なことを考えたりする。それはようするに「できなさそうだ」ということじゃないのかい? という突込みまで自分でやるのだから忙しい。
私がこういうのを見たり読んだりしていて思うのは、重い腰を上げるコストですね。自炊もたまにしかやらないから面倒なので、毎日やれば、手間は同じでも気分はだんだん楽になる。最初の一歩、二歩、三歩くらいまでに必要なエネルギーが小さい性格を羨む人は多いけれど、けっこう危なっかしいんですよね。ま、私は面倒くさがりの自分とずっと付き合っていくつもりです。これはこれで、発想を変えれば生きやすいのです。
関係ないけど、私の居室(木造の賃貸ワンルーム)は耐荷重に制限があって、そもそも壁一面の本棚はダメなのだった。……ということを調べて、何となくホッとするのが我ながらおかしい。
- 仏揺るがすCPEは悪法か 平成 18年 (2006) 3月30日[木]
若年層対象の雇用促進策、「初回雇用契約(CPE)」が、激しい抗議行動のうねりを起こしフランスを揺さぶっている。雇用機会が拡大すれば、慢性的な高失業率からの前進にはなるはずだ。CPEは反対者たちが言うほどの“悪法”なのか。
フランスの若年層の失業率は22%と、ドイツ(15%)、英国(12%)などに比べても高い。CPEの目的は、雇用機会を広げて、失業率を低下させることに尽きる。
そのCPEをめぐっては、二十六歳未満という対象年齢と「二年間は理由なしに解雇できる」とした部分ばかりがクローズアップされている。
だが、在日フランス大使館のウェブサイトによると、給与、労働時間、休暇については、他の一般労働者と同等の権利が与えられ、二年の試用期間満了後は、普通法に基づく無期雇用契約(正社員契約)に移行する。
解雇の手続きが簡略化されるといっても、契約から一カ月たった後は十五日前、半年以降は一カ月前に契約解消を通告する義務が生じ、契約から四カ月以降に解雇された場合は、二カ月間、月額四百九十ユーロ(約六万九千円)の“失業手当”も支払われるという。
第一、試用期間の設定は何も、今回のフランスに限ったことではない。
ドイツは、年齢にかかわらず二年間の試用期間を設ける意向だし、英国でも契約一年目は解雇の理由を正当化する必要はない。それに、この間に能力を認められれば安定雇用への道が開ける。
デモ発生後にフランスを視察した日本国際問題研究所の小窪千早研究員(欧州担当)は「雇用が増えるかどうかは企業に委ねられるが、若者を解雇しやすくなるのは間違いない」と指摘する。
加えて、CPE導入後も雇用情勢が劇的に好転する保証はない。仏紙ルモンドによると、学生側には、より高い失業率に苦しみ不安定な生活を送る移民のような状況に陥ることへの不安がある。
フランスでは「解雇するのは離婚するよりも難しい」と、よくいわれ、労働者は労働法や社会保障制度を盾に、安定雇用の恩恵を受けてきた。
だが、欧州統合が深化すれば、ヒトや資本の移動はさらに自由になり、「現在のような手厚い保護が維持できるかどうか、仏政府部内にもこのままでは立ち行かなくなるという考えがある」(小窪研究員)という。そんな危機感がCPE導入の背景にあるようだ。(川越一)
弁護士一家を惨殺したものが、ちゃんとした裁判を受けられるほど法曹界は甘くないかもしれない。最後はやはり、弁護士の手によって死刑の道を進むのが、暗黙の弔い合戦なのかもしれないが、それを立証する事は不可能。不作為の法廷闘争。さすがに法律の達人のやり方はエグイ。
阿刀田高さんが短編に使いそうなブラックユーモア……と一瞬思ったけれど、私が他にブラックユーモアの書き手の名前を挙げられないだけだと気付いた。
そんな妄想を映画にすれば面白いかも
とのことですが、30年待てば based on a true story とか銘打って堂々と劇場公開できそうですね。
短編作家なら、いろいろ思いつく。とくに筒井康隆さんは大好き。大学1〜2年の頃、全集を読破しました……というのは嘘で、「虚航船団」と「虚人たち」と「美藝公」の3作品に挫折。その後、何度も挫折を繰り返してます。
私の(職場での)やり方は次の通り。
パソコンが職場間を移動することはなく、職場内の別部門の担当者にわたることもない。よって秘密保持云々の問題は基本的にない。そのためアカウントの削除以外、全く何もせずにパソコンの受け渡しが行われることもある(というか、後任の便利を考えて、そうすることの方が多い)。
ちなみに社内で使っているパソコンは、ウィンドウズをアップデートすると動かなくなるソフトウェア(じつはけっこう多い)による業務があるため、OS の更新云々は考えなくていいことになっている。もしネットワークの出入り口にあるマシンが破られたりすると、これはたいへんなことになる。
パソコンをリサイクルに出す場合には、ハードディスクを取り出して分解し、レコード面を物理的に破壊する。会社のパソコンの処分はたいへんだ。
一方、自宅にある私用のパソコンは、他人に見られて困るようなデータは何も入っていないので、何もせずにリサイクルに出した。というか、突然に壊れて電源も入らなくなってしまい、まあいいや、という感じ。過去に3度も電車の中に置き忘れたし、年平均1.5回も壊れ、修理に出すたびにハードディスクを初期化されて返ってきたので、いい加減に吹っ切れた。
案外、メールなんて消えてもどうってことないですよ。火事になって思い出の品を全部なくしても、それなりに何とかなってしまうようなものだと思う。
以前、殺人犯が風俗で働いていて逮捕されたときに、店長が「こういう商売は従業員に過去を尋ねないので……」とテレビの取材に答えていたことを思い出した。
そういえば、こんな記事があった。
- 【断】おかしな言い換え [2005年11月22日 東京朝刊]
江戸黄表紙の研究に来日しているアメリカ人留学生に質問されて苦笑したことがある。「先生、日本って何だか飲食店従業員が犯罪に巻き込まれることが多くないですか。日本の特殊事情でもあるのですか」と。確かに、別の意味で日本の特殊事情によるものだ。
読者諸兄諸姉も、新聞やテレビの報道でこんなことに気づかれないだろうか。“飲食店従業員”が殺されたり、暴行を受けたり、監禁されたり、脅迫されたり、という事件が多いことに。そして、こんな報道を見ていると、飲食店従業員って危険な職業なんだなと思えてくる…ことはないな。
この“飲食店従業員”のほとんどが「セックス産業従業員・準セックス産業従業員」のマスコミ式自主規制表現なのである。それらの産業の現場では、確かにビールも出ればツマミも出る。時には豆も出るし栗も出る。それならこれも一種の飲食店ではないか、という判断ではある。まあ「淫色店」という地口(じぐち)ってところだな。私がそう言うと、さすが黄表紙を研究しているだけあって、留学生はニヤッと笑って納得した。
留学生は納得したけれど、逆に私には疑問が沸いてきた。こういうおかしな言い換えに対して、本来の飲食店従業員を母や姉や娘に持つ家族は、そんな危険な職場に身内を送り出しているのだと誤解して不安に駆られないのか。また、本来の飲食店従業員自身は、このおかしな言い換えに不快感を抱かないのか。私は、行き付けの大衆食堂の元気な小母さんやレストランの明るいお姉さんを思い浮かべながら、暗然たる気持ちになった。(評論家・呉智英)
何というか、私は逆に、いまだに日陰産業あつかいされているのか……ということに気が向く。法を守って仕事をし、税金だってきちんと納めている分には、差別的な待遇をするべきじゃないと思うのです。実際と異なる職業で報じられて、化粧された「真実」が一人歩きしていく。しかしおそらくは、被害者当人たちも、現在のような報道を望んでいるのだろう。誰が、彼ら彼女らに、そんな卑屈な感情を持たせているのか。
太宰治のカチカチ山を思い出した
この示唆にしたがい、「お伽草紙」(太宰治/1945年10月)を再読してみました。10年ぶりか……。前回、読んだときには16歳だったんだな。
ちなみに作品冒頭に登場する器量も父に似て頗るまづいが、頭脳もまた不幸にも父に似て、へんなところがある
という五歳の娘
は津島雄二代議士夫人の津島園子さんです。ちなみに太宰治に顔が似ているのだから、器量が云々はもちろん謙遜。→津島園子さんのプロフィール
どうでもいいけど、津島さんとこの秘書ブログは……。そういえば元民主党議員公設秘書のぽよ橋本さんは秘書を辞めてからウェブ活動がマジメ路線に。秘書時代は匿名でこっそり息抜きしていたのですね。あれから3年、現役秘書が公式サイトで息抜きする時代がやってきたのか。
ちなみに、匿名メール転載という前科があります。
→ネットニュースで見知ったにすぎない人からもらったメールの公開
今頃になって……:電気用品安全法騒動(2006-02-20)という記事を書いた私としては、最初に書かれた雑感(2006-03-15)にビビッとくる。この問題は、中古楽器業界の大多数の業者が、自分たちが電気用品を売っていることに無自覚だった(そのため電気用品安全法の存在自体を最近まで知らなかった)ことに端を発している。
経済産業省が法律の施行を遅らせることに消極的な理由(のひとつ)として、きちんと電気用品安全法対策を進めてきた業者がいくつもあり、正直者がバカを見るようなことがあってはならない、との意見が繰り返し伝えられています。
私の中では緩やかに関連する話題をいくつか。
今まで一方的に好きだったダイアラーさんがだんだん心に響かなくなってきてそれはヒトエに自分があまり好かれていないせいでもあるのだけども寂しい感じそんな感じ。それだけじゃないのだけども色んなことでイライラしてて優しい気持ちになれない。
興味・関心の変遷と、自分が好かれているかどうかということに関係があるとは知らなかった……。
いつ頃になるのかな、と楽しみにしていたのですが、ずいぶんたくさんたまっているので、忘れた方がいいかも、と思った。
またまた怒っている人がいるのだけれど、単なるお願いなんだもの、そんなに嫌なら無視すればいいだけのことだろう、と思う。公共機関にはリンクの際に電話連絡をお願いする権利がないのか? ところで高木浩光さんの記事は面白かった。
「リンクは自由」ならリンクすればいい。「批判は自由」なら批判すればいい。「傷つきたくない」病を攻撃する人は、その裏返しに過ぎない「傷つけたくない」病に感染していることが多い。「俺が俺基準でオッケーと考えてることで傷つくのは、あんたの考え方がおかしいから。俺はあんたを傷つけたくないので、あんたがまともな考え方をするようになってくれると嬉しい」って、けっこうすごいよなー。→無断リンク禁止派と闘う理由を問い直す
あと、自分が納得できる意見を「論理的」と形容し、納得いかない意見を「感情論」などと評する人を時々見かけるのだけれど、「感情論」はたいてい「論理的」です。「嫌」だから「やめてほしい」……とかですね。論理の破綻はない。たいていの議論は、「考え方を変えれば、嫌だと思わなくなるだろう」とか、「なるほど嫌なのはわかるが、我慢すべきはあなたの方だ」など、論理ではなく前提条件をめぐって争われます。
気にし過ぎなのでは。他人の機嫌を全然損ねずに生きるなんて、できるわけがない。もっと図太くなれたら、いろいろ楽なのにな。あと、コメント欄のやり取りなどを読みながら、「仕事に厳しいということと、小さなことをいつまでも根に持つこととは別だろう」とも思った。
うわー、何だこれは。
初心者なので何をやっているのかはわからないのだけれど、テストは面白いなーと思った。JS だから転載とかは簡単みたい。
引っ越してから収入と支出のバランスが危うくなってしまったので、何となくはじめた自炊なんだけれども、これがなかなか。自分ひとりしか食べないなら料理も苦にならないね。中学高校の家庭科は裁縫はダメだったけど料理は90点台をキープしていた。これ、じつは苦手の庖丁を同じ班の他の人に必ず任せていたから。この点、不安があったわけですが、3週間くらい、いろいろやってみて、別に千切りやみじん切りができなくても困らないことがわかりました。
以前、はてブで話題になっていた料理ですが、なるほど、これはおいしい! しかし何というか、実際に作ってみたら、あんまり健康にはよくなさそうな感じがした……。気のせいかなあ。ま、朝食か昼食でバランスを取ればいいのでしょうけれども。
家計簿を現金の出入金とクレジットカード使用額のみつけ続けているのだけれど、今月は引越しに伴う一時的な出費を除外しても1万円くらい赤字になる公算(3月30日に追記)。貧乏というと食費を削るという話をよく聞きますが、私はちゃんと手取り月給15万円超をいただいているので、食費は問題ないことがわかりました。「外食しない」「肉を(あまり)食べない」の2点に留意すれば、お腹いっぱい食べても高々2万円。削るならまず書籍代だなあ、と思った。
自炊する限り、1日に1500円分以上の食材を消費するのはかなり難しい注文です。高級肉や高級魚に手を出さない限り、という注釈付ですが。一方、書籍なんて、とくに漫画なら1日1万円分でも読むことができてしまうわけですよね。計算してみれば、その出費の大きいことは明らかだったのでした。積読は絶対にダメだと思った。
おすすめの解説記事。CSS の仕様書をきちんと読み込んでいるのが、凡百の解説と一線を画すところ。そしてブラウザの実装にもきちんと目配りしているので、主に IE の仕様と異なる CSS 解釈との付き合い方について詳細な説明があるのが嬉しい。
面倒くさい人は、とりあえず、実践編のソースをコピペすればいいと思います。そういう風にも使えるように記事が構成されてます。
この3サイトはすべて橘MXリュウイチさんの手になるもの。「トップページだけでも〜」がはてなブックマークでヒットしたのだけれど、今後は、さてどうか。スッキリかんたんスタイルシートも1週間で平凡なアクセス数に戻ってしまったので(注:閲覧者が増えるには増えた)。
あと、テーブルレイアウトに批判的な人がいるようだけれども、これはこれでよろしいのでは。サンプルを全部、スタイルシートによるレイアウト例で置き換えたようなサイトを作ればそれなりに需要があるのだろうけれど、面倒くさがりの私には無理。間口を広げた解説スタイルと割り切って、その主張の根幹部分を追っていけばよいのではないかと。こういうサイトを、テーブルが云々といった視点から批判しても、あまり意味がないというか、実りがない。
ともあれ、橘さんは構成力と一連の記事を最後まで書ききる力に長けていらっしゃるので、本とか書くのに向いていそう。課長事件です!ビジネスマンの魔法の言葉などを読むに、ポジティブで明るい性格なので、「成功」には何かと向いていると思う。
こちらはスッキリかんたんスタイルシートの下位コンテンツ。内容的に私は勧めないのだけれど、趣味でよくぞこれほど手の込んだものを作成したものだ、と感心します。
ウェブサイトには、作りたいから作る、自分が満足できることが大事、という方向性があります。「見た目なんか、どうでもよろしいのでは?」といわれても、すんなり得心できる人ばかりじゃない。
はてなブックマークで500近くクリップされるほど先進的なテクニックを使っているわけではないですし
という判断基準は謎。単に約500人にとって気になる内容だったから、ブックマークされたのでしょう。というか、先進的なテクニックなら大勢にクリップされる(はず)というのがよくわかない。そうであってほしい、という願望に過ぎないような気がします。
リンクした記事の本題とは外れるのだけれど、一般の視聴者が受け入れる言葉と、そうでない言葉がある、という点に関心を持つ。「分散処理」ならいいのに、「バッチ処理」はダメらしい。どちらも全然、理解されていない言葉だと思うのだけれど。というか、私が理解してない。「2台に分散すれば処理時間は半分になる、というわけではないらしい」なんてレベル。言葉は聴いたことがあるよ、というだけ。
あと、この話題に限らないけれど、物事の費用とか技術的な難所について、部外者にはなかなかわかってもらえないものだなあ、といったことを思った。
メールでご質問いただいた方、返信が届かないようなので、こちらに転載します。週末には削除する予定。
UKONN 様 ご質問の件、こちらの解説が参考になると思います。 http://www.paddie.com/cgi-bin/padd-bbs.cgi?p=437 http://www.paddie.com/cgi-bin/padd-bbs.cgi?p=447 http://sb.xrea.com/showthread.php?p=71831 -- 徳保隆夫 hkt_o@hotmail.com
毎日新聞はこういった話題が好きなのに、なぜゼロインフレが好きなんだろう。フィリップスカーブについて、どう考えているのかな……と思ったのだけれど、hicksian さんの解説などを読むと、そう簡単でもないのかなあ、と。いろいろな説というか、理論があるということはわかった。NAIRU仮説によるゼロインフレ待望論は否定されても、物価の安定と失業率を別問題とみなす議論は簡単には倒れないらしい。ゼロインフレと失業率改善は両立しうる、という理屈もあるのですね。
まあ、素直に一連の毎日新聞の記事を読む限りでは、物価は上がらず給料は上がり、預貯金の金利は高く、借金の金利は低く、失業率は下がり、みんなが自分のしたい仕事をできる……なんて世界を夢見ていたいだけのような気はします。60年代〜70年代の高度成長期に刊行された経済本を何冊か読んでいるのだけれど、庶民の生活がグングン改善されていることを認めながらも全く満足する様子はなく、物価高への恨み節が非常に根強いことに驚く。完全雇用は実現されて当然、らしい。その当然のことが、デフレ不況の中でどれほど難しい目標となっていることか。
ところで、なぜ量的緩和が「ゼロ金利政策の先にあるもの」という社会的コンセンサスを得てしまったのでしょうね? 新聞報道によれば、98年4月に日銀の政策審議委員に就任された中原伸之さんは、名目金利をゼロに誘導することには、名目賃金の切り下げに対する労働者の抵抗と同じような心理的抵抗があることを見通し、「ゼロ金利よりも量的緩和(注:報道に倣って以降も「量的緩和」と表記するが、当座預金残高をターゲットとして2003年3月より2006年3月まで日銀が採用した「量的緩和」より広い意味を持つので注意)を」と主張されたという。
産経新聞の報道を裏付ける内容が議事要旨に残っていないか、と思ったのだけれど、これがなかなか難しい。
将来一段の金融緩和を行うような状況においては、公定歩合やコールレートを一段引き下げるという従来の方法だけではなく、併せてマネタリーベース等の量的金融指標を目標にするといった方法も、場合によっては使い得る手段として、検討してみる余地があるとの見解が示された。こうした問題意識に同調する委員もあったが、別の委員からは、諸外国の経験等では、そうした金融政策運営が必ずしも十分な成果を挙げていないのではないかとの指摘もあった。
中原さんは初参加の回から観測気球を上げていらっしゃる。結局その後、量的緩和への賛同は広がらなかったようで、議事要旨から報道を裏付ける言葉を拾うのが難しい。議論の過程は匿名となっているため、名目金利の確保に血道を上げる強硬な金融引締派である篠塚英子委員の発言と見分けが……。最後の採決における反対意見は名前が出るわけですが、この段階では中原さんの提案はむしろ(金融緩和の現実的な方策を模索した結果)ゼロ金利政策を推進するものとなっているのです。
当初は様子見だった中原さんですが、参加4回目の98年6月12日には議長案に反対票を投じ、以降、2002年に退任されるまで孤軍奮闘を続けることになります。
議事要旨を順に読んでいくと、同じことを延々と繰り返している。中原委員案は、採決の結果、反対多数で否決された(賛成1、反対8)。
その結果、どんどん景気が悪くなって、数ヶ月ないし数年後に否決した政策を実行する。そのとき中原さんは一歩先の提案を出すのだけれど、やっぱり(賛成1、反対8)で否決される……。
結局、報道の裏づけは取れなかったのだけれど、ゼロ金利政策も解除されたとして、それで金融緩和が終わってしまうとは限らないだろう、とは思う。自縄自縛で禁じ手にしているようだけど、日銀が長期国債をガンガン買えばいい。買っても足りないなら「債権放棄」まで突き進むのはどうか(放言)。
入不二基義「相対主義の追跡」(「哲学者たちは授業中」所収)より「4 相対主義の純化」を転載。全文の転載は打ち込みの分量が多く、断念……。
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これまでの議論は、相対主義を純化する過程であった。プロタゴラス説から出発し、それを「認識の枠組み」の相対主義へと修正し、さらに「認識の枠組み」の相対主義は、等質的なものから非等質的なものへと移行した。そして、「認識の枠組み」という考え方への批判を経ることによって、非等質主義的な相対主義から「認識の枠組み」という概念を消去する所にまで達した。その段階において残ったのは、複数性を前提にしない「境界線のない唯一性」(=地平線としての私たち)と、枠組みに関わらない「非等質性」である。つまり、「境界線のない唯一性」と「特別な否定」が示す「空」との間の非等質性が、相対主義の問題からあぶり出されたのである。それはまた、「地平線としての私たち」の有限性・偶然性の問題に他ならない。
1プロタゴラス説 → 2「枠組み」相対主義(2.1等質的→2.2非等質的 → 3「枠組み」という概念を消去した、非等質的な相対主義
(1)「境界線のない唯一性」
(2)「特別な否定」が示す空今回は「相対主義は自己論駁的である」という相対主義批判を考察する。この批判は、一般に相対主義への決定的な批判だと考えられることが多い。しかし、その批判は、意図したような「事故論駁性・自己矛盾性」の指摘には行き着くことができない、と私は考える。言い換えれば、相対主義は、事故論駁性・自己矛盾性をすり抜けることが可能である。相対主義のその「ずれ方」の中にこそ、境界線のない唯一性(地平線としての私たち)に課せられた「有限性・偶然性」が、映し出される。
1.外側からの批判と内側からの批判
話を少し戻すような感じになるが、相対主義のテーゼを、
(T)「真理・正しさとは、Xにとって相対的に真ということである。」
とひとまず定式化しておこう。Xには、素朴なプロタゴラス説の場合には個人の信念が、「枠組み」相対主義の場合には「認識の枠組み」や「生の形式」などが入った。(T)への批判は、いろいろ考えられるが、ここではその批判をひとまず二つのタイプに分けることを試みてみる。一つは外側からの批判であり、もう一つは内側からの批判である。
外側からの批判とは、絶対主義・非-相対主義の考えからに抵触するということを理由に、相対主義を批判することである。言い換えれば、外側からの批判の根拠は、相対主義の外にある。例えば、「相対的真理という考え方は、絶対的・客観的な真理の概念を否定するので正しくない。」「相対主義は、客観的な真理の追究を不可能にしてしまうので、退けるべきである。」「相対主義は、現代に蔓延する文化的病の元凶である。」などは、外側からの批判である。しかし、このような外側からの批判は、絶対主義者・非-相対主義者にとっては説得力があっても、相対主義者自身にとっては無力である。なぜならば、外側からの批判は、相対主義が拒否するもの(絶対的・客観的な真理)をあらかじめ認めることによって、相対主義を批判しているからである。外側からの批判は、相対主義側からすると「論点先取」に他ならない。外側からの批判は、絶対主義・非-相対主義の前提に基づいたものであり、相対主義者はその前提を共有しないのである。
一方、内側からの批判とは、相対主義自体の考え方の中に入り込んで、内側から自滅させるような攻撃を仕掛けることである。絶対主義・非-相対主義の前提に基づいて攻撃するのではなく、相手の内に潜む矛盾点をえぐり出すことで、相対主義を自己破壊に追い込むという戦略である。例えば、「相対主義は、絶対的真理を否定するといっていながら、絶対的真理を認めている。」や、「相対主義は、pの肯定と否定を同時に主張している。」などは、内側からの批判を試みている。相対主義は、絶対主義・非-相対主義によってつぶされるのではなく、自分自身の中に潜む要因によって自らつぶれていく、ということを示そうとするのが内側からの批判である。はたして、このような内側からの批判は成功するのだろうか。
2.内側からの批判は可能か
(T)「真理・正しさとは、Xにとって相対的に真ということである。」を、絶対主義者が次のように批判したとする。「……にとって真」という相対的真理の概念は、通常の「真である」という概念を基にして、それに「……にとって」という限定を加えているのだから、通常の真理の概念に依存している。「……にとって」という限定を加えない「真である」は、限定なしで客観的に成立することを表すのだから、相対的真理の概念は、絶対的・客観的な真理の概念に寄生していることになる。したがって、相対主義は、絶対主義を前提してしまう。
これは内側からの批判になりえているだろうか。答えは No である。相対主義者は、次のように応答することが可能である。「……にとって真」という概念の方が基本的なものであり、通常の絶対的真理の概念の方が相対的真理の概念に依存しているのである。相対的な真理の概念から、「……にとって」を取り去ることができるかのように錯覚したものが絶対的真理の概念である。あるいは、相対主義者は、次のように答えるかもしれない。「……にとって真」という概念は、「……にとって」という部分と「真」という部分に分割できる二次的・寄生的なものでなく、通常の「真/偽」の対とは異なる第三の基本概念である。したがって、相対的真理の概念は、絶対的真理の概念から独立であり、前者を後者によって説明することはできない。
ここで明らかになっているのは、一見「内側からの批判」に見えた批判も、実は、絶対主義的・非-相対主義的な前提に基づいた「外側からの批判」だということである。したがって、この批判は、相対主義を自爆させるのに十分ではない。
次に、絶対主義者が次のように批判したとする。相対主義者が、(T)「真理・正しさとは、Xにとって相対的に真ということである。」という主張をする場合、その(T)という主張自身は客観的で普遍的に成立するものとして語られていることになる。つまり、(T)自体は、限定なしでみんなに成立する真理なのだと相対主義者は言っていることになり、「真理は相対的である」ということ自体は、客観的・普遍的に成立する絶対的な真理になってしまう。したがって、相対主義を主張することは、「相対主義は、絶対に正しい」という絶対主義に転化することになり自己矛盾に陥る。
これは内側からの批判になりえているだろうか。答えはやはり No である。相対主義者には、次のように反論することが可能である。(T)を主張すること自体もまたXにとって相対的に真なのであり、(T)の主張内容は、(T)自身にも適用される。つまり、「相対主義は、相対的に正しい」ということである。相対主義者の(T)の主張自体の中に、客観的・普遍的な「絶対性」を絶対主義者が読み取ってしまったとすれば、それは「主張するとは、客観的・普遍的に真であると主張することである」という絶対主義的な前提がすでに入り込んでいるからである。絶対主義者は、自分の鏡に映った限りでの相対主義者を見ているにすぎない。相対主義者にとっては、相対主義を主張することもまた相対的に真なのだから、絶対主義に転化するという自己矛盾が生じないのである。
ここでもまた、一見「内側からの批判」に見えた批判が、実は、絶対主義的な前提に基づいた「外側からの批判」であるということが明らかになっている。したがって、この批判も、相対主義の内側に十分に入り込んではいない。
さらにこの反論を受けて、絶対主義者は、次のように批判を続けるだろう。(T)「真理・正しさとは、Xにとって相対的に真ということである。」という主張もまた、相対的に真にすぎないのならば、(T)がXにとって相対的に真であるのと同様に、(T)の否定であるnot-(T)も、Y(例えば絶対主義者)にとっては相対的に真であることになる。つまり、相対主義の主張が、相対的な真理にすぎないならば、正反対の絶対主義の主張にもまた、相対的に真である余地が認められることになる。相対主義者は、相対主義と絶対主義を、(T)と(T)の否定を、ともに相対的に真であると認めなければならなくなるのである。したがって、すべてを相対的にしてしまう相対主義は、pかつpでないという矛盾をはらむことになる。
これは内側からの批判になりえているだろうか。答えは再びNoである。相対主義者には、次のように批判を回避することが可能である。
(T)がXにとって相対的に真であるということから、(T)の否定であるnot-(T)も(相対主義の正反対である絶対主義も)、Yにとっては相対的に真であるということは出てこない。なぜならば、(T)の否定とは、相対主義者にとっては、次の二つのどちらかだからである。
否定が、肯定と対立関係にある通常の否定作用だとするならば、(T)「pはXにとって相対的に真である」の否定とは、「pはXにとって相対的に偽である」にしかならない。つまり、通常の否定作用は、相対主義の作用域の中で働くだけであり、相対主義の対立物を生み出しはしない。一方、否定が、相対主義全体を否定するように働く「特別な否定」ならば、「pはXにとって相対的に真である」の否定とは、「pはnot-Xにとっては相対的に真でも相対的に偽でもない」となる。つまり、その否定作用は、相対主義の反対物を生み出すのではなく、相対主義を「空」化するのである。(T)かつnot-(T)は、その否定作用notが、「真でも偽でもない」「肯定でも否定でもない」ことを表す「特別な否定」であるならば、矛盾にはならないのである。
結局、相対主義者は、自らの主張もまた相対的であると自己言及的に考えても、矛盾には陥らない。にもかかわらず、相対主義の主張自体が相対的であることが、自己矛盾に陥るように見えるとすれば、その原因は絶対主義側の前提にある。その前提とは、次のようなものである。
絶対主義の前提
(1)中立的な視点を前提とし、相対主義を等質的なものとして捉えていること。(「(T)はXにとって相対的で真かつ、not-(T)もYにとっては相対的に真である」という捉え方にそれが表れている。)
(2)肯定/否定、真/偽の二値性に基づいていること。一方、相対主義は、(1)ニュートラルな視点を前提にしない非等質的なものであり、(2)に知性を「空」化する「特別な否定」を認める。
ここでもまた、一見「内側からの批判」に見えた批判が、実は、絶対主義的な前提に基づいた「外側からの批判」であるということが明らかになっている。したがって、この批判もまだ「内側からの批判」になりえていない。
相対主義の前提
(1)「Xにとって」と「not-Xにとって」とは非等質的である。
(2)「not-Xにとって」のnotは、「pでもなくnot-pでもない」ことを表す「特別な否定」である。あるいは、絶対主義者は、次のような批判を続けるかもしれない。(T)がXにとって相対的に真であるに過ぎないならば、X以外においては、(T)という主張は大した重要性を持たないものとなり、相対主義者以外の者は、(T)という主張に真剣に耳を傾ける必要がなくなる。したがって、相対主義が、相対的に真に過ぎないならば、その主張は無力で価値のないものになる。
しかし、この批判もまた、「強力で価値ある主張とは、相対的に真にすぎないものではなく、絶対的に真であるものである」という前提の上に立った「外側からの批判」であって、「内側からの批判」ではない。
ここまで来ると、絶対主義者は業を煮やして、相対主義に対して次のように言うかもしれない。「内側からの批判」が成り立たないのは、絶対主義の前提や偏見のせいではない。議論の共通の土台として認めるべきことを相対主義が放棄しているからであり、合理的な議論を放棄している相手に対しては、いかなる批判も無意味なのだと。
しかし、これはあまりにも早計で浅薄な結論である。相対主義は、論理や合理的議論を放棄しているのではなく、別の論理や別の合理性の可能性を示しているのかもしれないし、合理性によって合理性を批判しようとしているのかもしれないのだから。あらかじめそれらの可能性を遮断したところで「議論の共通の土台」を考えるのだとすれば、絶対主義の方こそ、開かれた議論を放棄しているということになるだろう。
結局、相対主義の自己矛盾を指摘しようとする「内側からの批判」は、成功していない。「内側からの批判」は常に「外側からの批判」へと変質してしまうというのが、その挫折のメカニズムである。このような相対主義擁護論は、メイランドがもっとも詳細に展開しており、ここでの議論もそれに学んだものである。さて、このような挫折のメカニズムと、前回導き出した「境界線のない唯一性」と「非等質性」の問題は、どのように関係しているだろうか。
相対主義に対する「内側からの批判」は、常に「外側からの批判」へと転化してしまう。
3.「内側からの批判」の挫折と「空」
「内側からの批判」の挫折とは、それが常に「外側からの批判」に変質してしまうことであった。
「内側からの批判」とは、相手の内側に入り込んで批判することであるが、それが可能になるためには、相手の「内側」(あるいはその一部)が、同時に批判する側の「内側」でもなければならない。つまり、両者は、最小限の土台を共有していなければならない。例えば、「pかつnot-pは矛盾である」ということが共有される地平においてのみ、自己矛盾を指摘することによる「内側からの批判」が成立する。いわば、「内側からの批判」が成立可能なことと、「地平線としての私たち」が見出されることは、表裏一体なのである。「内側からの批判」の「内側」とは、「地平線としての私たち」の「こちら側」に他ならない。
しかし、純化された相対主義は、「pかつnot-pは矛盾である」ということすら絶対主義と必ずしも共有しなかった。なぜならば、not-pを「特別な否定」(pでもpの否定でもない「空」を示す否定)と解釈することで、相対主義は矛盾を回避できるからである。相対主義は、「特別な否定」を介して、「地平線としての私たち」から逃れ去っていき、常に「私たち」の外側(ただし外側とは「空」に他ならないが)に位置することになる。したがって、相対主義を批判しようとすると、必然的に「外側からの批判」になってしまうのである。
相対主義批判が「外側からの批判」にならざるをえないということは、逆に言えば、「地平線としての私たち」が、境界線を持たないにもかかわらず、有限であることを示している。「地平線としての私たち」は、「特別な否定」が示す「空」をその内側に取り込むことができないという点で、有限なのである。そして、「限界のない私たちの有限性」こそが、純化された相対主義の真理なのであり、それは、まさに「私たち」のあり方についての真理なのである。
4.メタ偶然性
通常、pということが偶然的であるとは、「pでないことも可能であること」「pであることは必然的ではないし、またpでないことも必然的ではないこと」として理解される。その場合、複数考えられる選択肢のうちの一つであるpが現実化しているけれど、別の選択肢が現実化する可能性もある、つまり「pやqやrやs……なども可能である」と捉えている。このような「偶然性」は、必然性の対立概念であり、複数の可能性を背景としている。
しかし、「地平線としての私たち」が成立していることの「偶然性」は、これとは異なる「偶然性」である。まず第一に、それは複数性を背景としない。「地平線としての私たち」は、対立する「彼ら」を持たないのだから、むしろ「境界線のない唯一性」自体の偶然性なのである。第二に、それは必然性の対立概念ではなく、むしろ必然的なもの自体の偶然性である。「地平線としての私たち」は、私たちがつねにすでにコミットしている他はなく、それ以外のあり方はないという点で、必然的なあり方である。その必然的な「私たち」の存在が、偶発的なのである。つまり、必然性自体の偶発性である。
この偶然性は、「p」の偶然性ではなく、「pまたはpの否定のどちらかである」(排中律)の偶然性である。それは、「pでも、またpの否定でもない」という「空」に対して、現に排中律が成立してしまっていることの偶然性である。この偶然性を、メタ偶然性と呼んでおく。
偶然性
「pであることも、pでないことも可能である」のに、現実には「pである」が成立していること」
メタ偶然性
「pでも、またpの否定でもないこと(=空)」に対して、現実には「pまたは、pの否定である」が成立していること「同一性と差異性」「肯定と否定」の織物によって理解していくという「私たち」のあり方には、それ以外のやり方はなく、またどこかに限界があるわけでもないにもかかわらず、その「境界線のない唯一性」というあり方が成立していること自体は、メタ偶然的なのである。「内側からの批判」が「外側からの批判」に変質してしまい「自己論駁性」の指摘に至れないということは、「地平線としての私たち」の必然的なあり方が、メタ偶然的なものとして把握されることに他ならない。
「枠組み」に関わらない「非等質性」とは、「同一性/差異性」「肯定/否定」と「空」との落差・断絶である。言い換えれば、それは「私たち」からメタ偶然性を消し去ることができないということである。メタ偶然性の場面では、「私たち」は、「私たち」以外の何か「存在するもの」に対峙することで相対化されるのではなく、「私たち」が「空」に対して相対化される。「私たち」は境界を持たないけれども、メタ偶然性を消去できない有限なあり方なのである。
純化された相対主義
「地平線としての私たち」は、境界線のない唯一性であると同時に、「空」に対して相対化されるメタ偶然的で有限なあり方である。
rody さんご紹介の記事をふたつ読んだ。id:santaro_y さんが違和感を抱くという近代的で合理的な思考や人間観
を私は支持している。またオウム真理教をテロ集団とみなし、共存より排撃の道を選択する id:plummet さんにも賛同しない。
山一証券は不良債権の「飛ばし」で廃業に追い込まれたが、社員の大半はその事実を知らず、関与もしていなかった。おそらく上司の指示があれば、唯々諾々と従う者が大半だったのだろうが、山一証券は犯罪集団で、社員は全員、社会的制裁を受けるべきだったのか? あるいは、テロ集団だった(そしてまた時勢が変わればテロ攻撃を再開するであろう) PLO の支援者が、今では米国政府の高官だちと会うことができる。アフガニスタンで強盗をはじめ犯罪を繰り返していた私兵集団のボスたちが表舞台に出て堂々と活動している。オウムがせいぜい数千人の集団でしかないから、そして現在の彼らに国家を転覆する力などありはしないから、安心して排撃できる、多数派がその立場に安住できるのではないか。
自分の思いを語る id:santaro_y さんとは、意見の違いはあれど仲良くやっていけそう。他方、id:plummet さんはノケモノだもの。 / ヨハンでまったくこの人がこれほど目を曇らせるとは想像していなかった。
と書いているように、「**はバカ/無知だからわからんのだ」という発想の持ち主。仮に将来、id:Schwaetzer さんが id:plummet さんの主張に賛同しても、現在の id:Schwaetzer さんの目が曇っているとはいえない。id:plummet さんは結局分かって貰えなかったようだ。しかし、なるほど隠棲者の視点とはそういうものかもしれぬ。
ともいうが、id:Schwaetzer さんは id:plummet さんの主張を理解しているでしょう。理解と賛同は別問題なのです。
松永さんに、こうした告白手記を書かせたかった人々の気持ちはわかる。いくら書いても、一部の人々の不満が尽きないことも、容易に想像がつく。そして圧倒的多数の無関心は揺るぎない。
うーん、これは……。私は、こういった主張をしようとしたけれど、できなかった。どうしても割り切れず、どっちつかずの宙ぶらりんになったのでした。
俺の「共存より排撃の道を選択する」記述がどのあたりなのか、具体的に述べてみてもらいたい
と id:plummet さんはおっしゃるのだけれど、乱暴に書けば「全部」といいたい。以下、簡単に説明します。
俺は一連の松永氏関連エントリーでは、個人的感懐である「恐怖」の吐露と、「まだ足りない」「書き方が悪い」くらいのことしか書いていない。
という一文を素直に読めば、id:plummet さんは「まだ足りない」「書き方が悪い」
の2点については、一般的な事実とみなしているらしい。だから、それを「知らない」のは「無知」で、「理解できない」のは「アタマ悪い」とお考えになるのでしょう。「足りない」「悪い」は価値基準を必要とする言葉だから、その背景には何らかの価値観がある。価値判断は一般的な事実たりえません。
社会の多数派は「足りない」「悪い」と思っているでしょうね、という状況認識を示しているだけならいい。問題はその先。「足りない」「悪い」と判断する価値観を共有できないなら、社会はあなたを排除します、と松永さんを脅迫することを是とするかどうか。私は、社会は多様な価値観を受け入れるべきだ、といいたい。もちろん、社会を維持するためにルールは不可欠なので、多数派の暴力を全否定できない。しかし価値観の社会的強制は極力減らすことが望ましく、立法の手続きを経たものに限るべきだと私は考えている。
いちいち「これはあくまでも私見ですが」なんて書くのはくどい。だから私もほとんどの場合、略している。だから文章の一部を切り出せば id:plummet さんと私の差異は消えてしまう。だから例示した一文だけでなく、総合的に「id:plummet さんは幅広い価値観の共有を求める社会を志向されている」のだろう、と私は解釈したのです。
あと疑問をふたつメモっとく(注:理解はしたいが合意は目指していない)。
2つ目の疑問を補足しておく。私は自分が少数派になりやすい性格なので、社会の多様性を確保することを、かなり重視している。その希望を実現するためには、全体の部分に対する干渉欲を抑制する必要がある。
しかしそれは結果的に、多数派の利益にもなっていくのです。例えば当事者にフォーカスして犯罪への対処を考えていくと、応報概念に陥ってしまう。被害者に同情してしまうから。ミクロではそれでいいのかもしれない。「犯罪者にも人権を認める」「疑わしきは被告の利益に」で涙を呑んだ人はたくさんいます。それでも「人権重視の原則は民主主義に不可欠+民主主義の維持増進は社会全体の利益に資する」という社会学の成果を、法制度は取り込んできた。
オウム怖い、という市井の声はわかりますよ。松永さんに脱会の証明を求めたい人の気持ちもわかる。それでも私は「原則の方が大切だ」といいたいわけです。原則通りの対応を基本として、個別の事情は「斟酌する」のが相当だ、と。
引っ越してテレビが見られるようになったので、毎日のようにテレビを見ています。以前は部屋の端子が錆びて根元から折れており、食堂のテレビしか見られませんでした。視聴時間帯などは帰宅時間に制約され、朝夕で合計40分程度しか見ることができませんでした。
で、やっぱりテレビは面白いね。インテリにはつまらないのかもしれないが、私には向いている。とりあえず、凡百のブログを読んでいるよりはマシだと思う。
今日の NHK スペシャルも興味深かった。アメリカのテレビ事情を追い、放送と通信のこれからを考える番組。
高品質路線はコケるというのが最近の流れ。大作映画で頑張るハリウッドも、結局は DVD 視聴に敗北しつつある。この虚しさ。
鳥新聞さんからご批判をいただいたのだけれど、うーん、正直よくわからないな。
以下、まるごと余談。
近年、大衆の有能感の高まりから、人々の司法に対する批判が強まっています。裁判に庶民感覚を持ち込もう、というわけで裁判員制度もスタートすることになりました。社会の様々な場面を振り返ってみれば、なるほど、司法の判断は一般人の最大公約数的な感覚と乖離している、といわざるを得ません。
例えば、オウム真理教(現・アーレフ)信者の転入届不受理は違法だと、裁判所は判断しました。オウム信者にだって人権はあるというのです。私の周囲では「殺人テロ集団に人権なんかあるか」「改心しないなら刑務所に入れるべきだ」「オウムは宗教じゃない。だから信教の自由とは関係ないのだ」などなど過激な意見が飛び交いました。いや、みんながそういっているなら、それはもはや過激ではない。多様な価値観の共存を訴える私の方こそ過激なサヨクなのだそうです。泣ける。
で、私は「この先何十年も、こんな人々に囲まれて生きていかなきゃならんのだなあ……」と嘆息したのだけれど、日本はこれほど過激で排他的な人々の国家なのに、政治家たちは無茶な法律を作らない。司法は素直な判断を下し続ける。行政もオウムに対する破壊活動防止法の適用を見送るほど慎重なのでした。国民は政治家を嫌い、裁判官をバカにし、官僚を憎む。なるほどなあ、と思う。でも私は、日本のエリートたちを信頼しています、少なくとも一般庶民のみなさんよりはずっと。
権力は民意を斟酌しつつも、なかなか一般人の思う通りのことはしない。たいてい、少しずれている。そしてしばしば、全く別のことをする。それはなぜか?
かつて私は、「権力の意思決定機構から愚者が排除されているからだ」と考えていた。しかしこのところ、それは違うなあ、と思うようになりました。これも価値観・世界観の対立なのだな、と。お互いよく話し合った結果、どちらがどちらに歩み寄るかは明らかでない。議論が決裂したとき、主導権を握るのが権力側と決まっているわけでもない。ときには革命だって起きる。そしてこの対立構造そのものが、この社会の生存システムとして戦略的に運用されているのではないか。
現在、少数派に優しく人権をできる限り守ろうとする人々が権力を持っているのは、ひとつの解に過ぎない。これが結論だと思ったら大間違いだろう。世界は、可塑性に富んでいる(かもしれない)。
私の声に何の力もないことは、日々実感してる。目の前にいる一人、二人も説得できないのに、こうして少し文章を書くだけで、何が起きるというものでもないとは思う。ただ、それでもね、もう少し、あとほんの少しだけでも、現在の多数派の価値観を、司法の世界の価値観に寄せる努力をしたい。異分子を排除する排他主義、過剰な応報概念の勢力を僅かでも弱めて、共生の価値観をもう少しだけ大切にするバランス感覚が社会のコンセンサスにならないかなあ、と夢想せずにはいられない。
……そうはいっても、スパッと割り切れないんです。私の本音は、id:Schwaetzer さん(2006-03-18, 19)にとても近い。違うのは、私はハイエナ野郎で、id:Schwaetzer さんは違う、ということくらい。私は当初、松永擁護でガンガン書こうと思ってた。でも、書けなかった。
泉氏にとって松永氏にとって、「
大多数の人間を納得させればよいのだ」で済まないのである。少数でもいいから、必要十分な人間に納得させなければならないと考えていると思う。なにより彼ら自身が苦痛を無視できる程度に、素性の分からぬてんこもり野郎氏の記事が「くだらない」と納得できなければならない。泉氏にとって肖像権を侵害されて到底納得できないだろうが。
泉さんのサーバを管理している ume さんを除けば、今のところ生活基盤の崩壊には見舞われていない様子。松永さんの住居の大家さんも今回の騒動を知らないだろうし、結核の診療を行っているお医者さんも、隣近所の人だって同様なのではないかと。希望的観測に過ぎませんが、仮に私の状況認識が大きく外れていないとすれば、最低限の必要は既に満たされているのではないか。「必要」は満たされても、「十分」は遠い。しかしそれは、みなが我慢していることだと思う。
オウムへの強い恐れと怒りを持っている人にとって、松永さんが本当に信仰から離れているのかどうかは大切なことで、不安なことで、心の負担になっていることなのだと思う。タコ殴りみたいなウェブ論壇(?)の状況に私はムカついたのだけれど、泉さんや松永さんらを責め立て、追い詰めずにはいられない人々の気持ちだって、わかる。いま彼らに水をザバザバ掛けて回るのが正しいのかどうか、私自身、よくわからなくなってしまったのです。
「お前の母ちゃんデベソ!」とか「このハゲ!」と言ったとき、証明することはできるだろうし、「母ちゃんはデベソでない」とか「ハゲじゃない!」とむきになっては疑念は深まるばかり。しかし(中略)数学的に証明できても心情的に困難である。
これはよくわかる。泉さんに、現在している以上の釈明はしようがないのだと思う。「不可能」ではないからといって、「可能」とも言い切れない。「できるはずだ」と「そんなこといわれても」の距離は、遠い。
ただ、その言葉の苛烈さ、冷たさ、残酷さを理解していてもなお、「お前の母ちゃんデベソ!」といいたくなる側の気持ちも、わかるのです。無論、単なる無神経かもしれない。でも、それすらもひとつの生き方で、一概には否定できないと思う……って、そんなに譲ってしまって、どうするんだ俺は。あああ、どこまでいっても「私はこう思う」という結論しかないのはいつものことだけど、「提言」する気力がわかない。何だか寂しい。
てんこもり野郎さんによる疑惑に提示に対して、松永さんは怒りにまかせて、こうお書きになった。
立証責任は貴様にある。疑いをかけた側が立証するのが筋であり、疑いをかけられた側に「私は違う」と立証させようとするのは、悪魔の証明であり、不可能だ。「違うと証明できないから、認めたんだ」とプロパガンダする奴は信用してはならない。繰り返すが、立証責任は疑った側にある。できないなら即刻泉さんに謝罪し、間違っていたということを誰の目にもわかるように訂正すべきだ。
「悪魔の証明」という言葉は好きな人が多いようだけれど、私は「あまり使わない方がよろしいのでは」と思っている。
日本では、一定の根拠を持って他人を疑うことが制限されない。疑うに足る根拠があるとき、「疑わしい」と意見表明する自由があるということ。そうでなかったら、裁判で敗訴するたびに警察は名誉毀損なり何なりの損害賠償をしなければならない。裁判所は一定の根拠があれば逮捕状に判を押す。逮捕のような重大な人権の制約だって、一定の根拠があれば認めるわけだ。
そういったわけだから、いま問題なのは、「顔の一部が似ている」という根拠が、疑惑の表明に十分なものといえるのかどうか、ということだ。
そしてまた、泉あいさんは、悪魔の証明を求められているわけではない。もちろん、てんこもり野郎さんを納得させることは不可能かもしれない。特定の一人を確実に説得する方法はない。しかし実際には、大多数の人間を納得させればよいのだ、といえる。つまり、一定の反証があればよい。菊池直子さんの年齢は警察が発表しているわけだから、例えば小学校の卒業アルバムなどを示せばよいのではないか。菊池さんの身長も公開されているわけだから、泉さんの身長が確実に高いことを示す写真などを公開すればよいのではないか。
それでも疑う人は疑うのだろうけれど、完璧な反証ができないからといって、何の対応も取れないということにはならない。
完璧な立証ができない限り、疑惑を一切、口にしてはならないのだとすると、それはなかなかヤバイ社会なのではないか。芸能人の喫煙写真とかだって、あんなもの、ネオシーダでないとどうしてわかるだろう? (注:未成年もネオシーダを使用することは違法でないが健康には悪そう)
あるいは、いくつかの判決を読んだことがあるけれど、そもそも裁判で有罪とか無罪とか決めるときだって、完璧な立証がなされているケースはそれほど多くないように思う。僅かな可能性を疑っていけば、無罪はともかく減刑はあってよさそうなものじゃないかと思われる事例は、決して少なくない。傷害致死と殺人とでは全く量刑が異なるが、これは絶対確実に殺人であって傷害致死ではないという証明なんて可能なのだろうか。
裁判員制度プレビューということで某所にて模擬裁判員を務めたときも、傷害致死か殺人か、が問われた。結局、精緻な証明なんて無理で、多数派が妥当だと判断するかどうかが問われた。その結果、傷害致死で決着した。元最高検検察官の教授も異論を挟まず、「そういうものか」と私は思ったわけだった。
「違うと証明できないから、認めたんだ」とプロパガンダする奴は信用してはならない。
というが、これも微妙な線だと思う。ここでも重要なのは、その主張に賛同する人が多いか少ないか、なのではないか。「こんなくだらない中傷にいちいち対応しないのは当然でしょう」と思う人が圧倒的に多い事案はある。
実際問題、泉さんが本当に疑わしいなら警察が動くに決まっていて、てんこもり野郎さんが紹介した疑惑は捨て置いてよいと思っている。ただ、この程度の「証拠」による「疑惑の提示」は過去に繰り返されてきたものであり、その多くは問題視されてこなかった。
永田偽メール事件に関する essa さんが紹介した疑惑は大外れだったのだけれど、essa さんは少なくともその点について、永田さんにも民主党にも謝罪していない。結果的に偽メールだったのだから間違っていなかった? いやしかし、essa さんが当初提示した根拠は崩壊したのであって、誤った根拠に基づく中傷的言辞には責任を取るべきではないか?
……けれども、そのように考える人は、決して多くなかった。ほとんど皆無だったといっていい。つまり、そういうこと。
相談の席についた担当刑事の第一声が「まず、あなたがオウム信者でないことを警察に証明してください」です。方法を聞くと、しばらく答えに窮し、出てきた回答は「オウム道場へ行って書面であなたはオウム信者ではありませんとの証明書を書いてもらってきてくれ」と。
ようするに、警察はそれで信じる、と。紙一枚の証明書に、どれだけの信憑性がある? けれども、ひとつの飛躍を受け入れると警察はいっている。世の中は、こうして回っていく。
特定の一人が疑惑を撒き散らしている場合、いくら多数の人間を納得させてみたって、特定の一人がどんどん疑いをかけてくるわけでしょう、あーじゃないか、こーじゃないかって。それで疑いがどんどん拡散する。否定しても否定しても「こーじゃないか」って言ってくる。こういうバカが多すぎるんだ、ネットには。だから、困るんだ。そういうバカ対策として「悪魔の証明」って言いだしたんだよ、きっと。相手を困らせるとか潰すとかいう意図がない限り、こんな単語は出てこないからね。
疑いに一定の説得力がある場合に限って話が拡散するのであって、大半の人が「いい加減にしろよ」と思うようになれば、いくら疑惑を言い立てても騒動は尻すぼみになる他ない。ただ、その特定の一人の攻撃の執拗さに白旗を上げざるをえなくなるケースはある。私がはてなをやめたのも、そういう理由だったので、それはわかる。だから「あまり使わない方がよろしいのでは」なんです。
ところで説得力というのは難しい概念で、大勢が「さもありなん」と思う仮説は根拠薄弱でも受け入れられ、「バカいうな」と思う仮説は厳しい検証にさらされる。そのため、しばしば真実は虚妄に敗れてしまう。ひどい話なんだけど、これは改善のしようがなさそう。→価値観対立を賢愚の図式に落とすのは
不運なケースでなければ、時間が解決するのでは、と思った。私の両親も、結婚前から持ち続けている物がほとんどない。母は辞書が数冊、あと詩集など。段ボール箱ひとつで収まってしまう。父は……何があるだろう、思いつかない。ずっと大切にしていた懐中時計とカメラは私が壊してしまったし(ごめんなさい)。
……とはいえ、多くの人の琴線に触れる話題なのはよくわかる。たいていの人が、ひとつやふたつはこうした記憶を持っているのではないか。
アムウェイより危険(©速水健朗)な鳥の写真という暗黒面の世界
の簡潔なまとめ記事。リンク先を必読のこと。
いわんとすることはわかるが、裁判所に却下された「公判の延期を求める理由」を「それでも正当だ」と言い張ることに社会的コンセンサスは得られないだろう。
裁判所だって、公判の準備がどうしても絶対に間に合わないと判断することはあるのだろうし、一概に「公判の準備が間に合わない」という理由を却下すると決めているわけではない。ケースバイケースで判断していく中で、今回の事案については「間に合うはずだ」と判断した。そういうことだと思う。
私も過去にいくつかの判決文などを読んできたけれども、裁判所は様々な意見の中から、より妥当な判断を選択する機関だと私は認識している。裁判所の判断に全員が納得することは基本的にない。一方が喜ぶなら、他方は「不当な判断だ!」と怒る。そういうものなのだと思う。
マスコミも裁判所も、基本的には市民の持っている価値観を忖度している。市民ったって大勢いるわけだから、少数派の主張は却下され、多数派が納得するような結論を導こうとすることになる。ここで注意すべきは、誰もが何らかの場面においては少数派となってしまうことだ。それゆえに、「少数意見も尊重しましょう」という原則がある。これが多数派の暴虐を抑える安全弁だ。
しかし人は、ときに原則を忘れる。「この問題で少数派に回る奴の気持ちはわからん」と多数派意識に安住する人が大多数となってしまうことがある。
このとき、私はやはり、小杉さんのような戦い方しかありえないのだろうな、と思う。多数派の人々こそが敵なのだから、彼らを糾弾する他ない。で、その言葉はどこに届くか。どこにも届かないだろう。価値観闘争なのだもの、いくら訴えたって、さ。それでも小杉さんは戦い続けるに違いない。
1903年(明治36年)2月10日付「例の自働電話の詐欺」の見出しの記事は、料理店を解雇された男が、以前の取引先の食品問屋にカマボコや鴨などを自働電話で注文、品物は自分で引き取り、露店などに売却していたと伝えています。
また、同年11月13日付「東久世伯を騙らんとす」の見出しの記事は、伯爵と親しい知人の書生を装って自働電話をかけ、「主人が盗難に遭ったので、当座の金を貸してほしい」と頼み込み、100円もの大金をだまし取ろうとした事件を詳しく伝えています。
どちらも電話でまず相手を信用させ、金品をだまし取る手口ですが、電話が手軽にかけられるようになってこその犯行でした。
電話による詐欺は伝統的犯罪なのですね。近年、凶悪な詐欺集団が本業として取り組み、たいへんな社会問題となったわけだけれども、100年経っても電話のリスクが改善されないというあたり、科学の進歩もこの程度なのかなあ、と思います。
茨城の殺人事件は主犯格の清水大志さんには死刑判決もありうる。淡々と公判は進んでおり、死体遺棄に関わった暴力団員や詐欺グループのメンバーには実刑判決がどんどん出ている。
ただまあ、仮に死刑判決が出たとしても、宅間守さんと同時に死刑が執行された島崎末男さんと同様、さして話題にならないでしょうね。「悪いやつ」が殺された事件には、関心を持つ人は少ない。
組員ら3人を殺害した熊本県菊池市の元暴力団組長島崎末男死刑囚(59)が14日、福岡拘置所で刑を執行された。死刑執行は、2003年9月以来で、野沢法相のもとでは初めて。
島崎死刑囚は1988年3月、組の運営資金や遊ぶ金欲しさから、組員らに指示し、1億円の生命保険に加入していた組員(当時44歳)を、事故を装って大分県上津江村のがけから突き落として殺害。さらに、この事件の口封じのため別の組員ら2人を絞殺するなどした。
熊本県警に89年7月に逮捕され、殺人、死体遺棄罪などに問われた92年11月の一審・熊本地裁では無期懲役となったが、検察側が量刑不当で控訴。95年3月の福岡高裁控訴審判決は一審判決を破棄して死刑を言い渡し、99年3月に最高裁で死刑が確定した。
島崎死刑囚は「死刑廃止・タンポポの会」(福岡市)が支援してきた。山崎博之代表(40)は「本人はキリスト教に入信して『やり直したい』と言っていただけに残念だ」としている。
私は、少なくとも現代の日本社会において、「死刑は仕方ない」という意見。応報概念には疑問を持っているのだけれど、現に日本人の応報思想は根強い。刑罰に応報性が強く求められる状況下で、それを無視するのはアンバランスと考える。衆愚の危険はあるにせよ、私に民主主義の全否定はできない。
警察は被害者が暴力団員でもきちんと捜査を行い、犯人を検挙した。それから10年、死刑判決が確定する。移り気な人々はもう忘れていた事件も、日本の司法はおろそかにしなかった。日本は、人の命を大切にする国である。
振り込め詐欺グループの死者4人はみな悪党だ。「死んで当然の連中だった」と思っている人も多いだろう。正直いって、私にもそんな気持ちがある。しかし警察は淡々と犯人を検挙した。一般市民は忘れ去っても、犯人たちには粛々と罰が下される。これが日本の司法制度のバランス感覚であろう、と思う。移り気な市民の目線で、感覚で事件に対処しない。人々が本音では軽視している平等主義、基本的人権の尊重に、けっこう頑固に取り組む。
オウムでサリンを製造した村井秀夫さんを刺殺した徐裕行さんは1995年11月13日、懲役12年の判決を受けた(確定)。麻原彰晃さんが殺されたって、やっぱり警察は淡々と捜査するだろう。
民主党の渡部恒三国会対策委員長は14日、地元の民芸品である「起き上がり小法師(こぼし)」を幹部に配り、奮起を促したが、前原代表の分だけが転んだままになる“珍事”が起きた。
渡部氏は同日朝の役員会で、「みなさんに差し上げたいものがある。雪の深い会津の冬でも春の来ない冬はない。七転び八起きだ」と切り出し、福島県会津若松市の民芸品である小法師を出席者に配った。
鳩山幹事長らは机の上で転がし、起き上がってくる小法師に歓声を上げたが、前原氏が転がすと、小法師は倒れたままに。前原氏は「あっ、起きあがらない」と引きつった笑いを浮かべた後、自分の小法師を手に取ってじっと見つめた。
どうでもいいニュースなんだけど、いささかの感慨を覚える。
現代風の企業ではあまりこういった情緒的なイベントがないというか、むしろ意図的に排除されているのだろうけれど、私はけっこう好きなんですよね。だから「国会議員がくだらないことに時間を使いやがって」みたいなことは思わない。会議の内容は忘れてしまっても(議事録があるわけだし)、起き上がり小法師のことは覚えている、それが励みになるということはあるでしょう。
不良品だったのかどうか、前原さんの小法師は起きあがらなかった。これも単純に「あーあ、逆効果、逆効果」というものではないと思う。自分の小法師を手に取ってじっと見つめた
前原さんの胸に去来した思いは? それは必ずしも悲観的なもの、ネガティブなものばかりではなかったろう。
まぁ冷静に考えても見ろよ、あなたとあのブロガーはただ同じ時期にブログを書いていた(少しばかり向こうの方が有名だけどね!)というだけの関係で、応援したり、見守ったりするような関係じゃないんだよ。ここで慈悲の心を恥ずかしげもなく表に出せる奴は相手が少しでも隙を見せたら速攻で哀れんでやろうと思っている、ハイエナのような人間だよ。
私はそういう人間なので、ガンガン支援する。といってもまあ、できることなんてないのだけれど。
世の中にはもっと不幸な人がいくらでもいることは知っている。感染病予防のワクチンなんか驚くほど安くて、あなたの1000円が10人の命を救う! とか、まあいろいろあるんだけど、不謹慎ながら、私はすぐに飽きてしまう。そうでなければ、手取収入が年250万円足らずの人間が東京に暮らして、何の用途もないのに4年で400万円超の貯金を作れるはずがない。我ながら、ホントいい加減だよなー、と思う。400万円あったら、何人が助かったんだろうね?
問題が解消されるか否かと関係なく、松永さんをめぐるあれこれの状況について私は次第に関心を失っていく。いま、1冊か2冊の本を贈ってみたところで、それが何だという感じはする。地震や台風などで各地に大災害などが起きるたび、思い出したように募金などしてみるけれど、くだらないよなあ、と思っている。
松永さんが嫌う2ちゃんねるに流布する「しない善よりする偽善」という有名な標語は、シンプルで馬鹿馬鹿しいけど、自分にガッカリして気力を失った人には優しく響く。そうさ所詮、自分に善行なんてできないのさ。よかれと思ってしたことで、人を傷つけるばかりなのさ。それでも私はときどき「いいこと」をしたくなる。もちろんそんなもの、自分勝手でしかない。相手に喜ばれたら、よほど幸運だったと思うべき。
……まるで小学生か中学生の作文だけど、正直、10年、20年前から何か進歩したという実感、ないんだよね。単に、歳をとっただけ。昔からずっと、自分のふがいなさを知りながら、他人を馬鹿にして生きてきた。人間って、ほんとに成長するのかね。
追記:3月16日に私が注文し、4月3日に Amazon から発送された何冊かの本は、12月23日にようやく松永さんのもとへ届いたという。
クロス集計が面白い。
やっぱり若い世代の方が変化に対する順応性が高いみたいだね。
これはひどい! ネカマ率って、予想以上に高いのね。
え? その程度の言葉が通じないの? 私も、よく使った言葉なんで、先生に通じないということに驚きました。
「自習室がいっぱいなんです」というのと、何が違うのだろう。そりゃね、「あいてない」は2通りに解釈できるわけだけど、そして教師の勘違いに生徒が気付いて「そういう意味じゃなくってさー」と教えてあげてもよさそうな話だとは思うけど。
元塾講師の私が考える模範解答は、「自習室があいてないんです」「あー、だったらね、第3教室が空いてるでしょ。あそこ、自習室にしていいよ」とかですね。
あと、「何か用かな」という問いかけに対し、「しょーろんぶーん」。やや間をおいて「ぷりんとー」と答える。
これって、「用意しといて」やや間を置いて「前からいってた出張、明日の朝一番。二泊三日」というおじさんと同じ。あるいは、「資料」やや間を置いて「午後の会議」「わかりました」「よろしく」という職場でのやり取り。ふつうじゃん? って思いませんか。
単語の羅列で日常会話、私はあまり、違和感を覚えないです。
「どうする?」「すみません」「欠席、っと」
「あれ、ちょうだい」塩辛が運ばれてくる。「これでしょ」「違うよ!」「何よ(怒)」「ごめん」
「電車が……」「仕方ない遅刻、ね」「先生!」「あっ、裏切り者っ」「じつは寝坊、なのね」
「あのさ……」沈黙。「いいたいこと、度忘れしたでしょ」
「こくご〜?」「数学です」「げっ、宿題」「やってないのか。つか、わざとだろ」
「行く?」「タイミング外してる」「人気メニュー、売り切れちゃう」「空くまで待つ方がいいよ」
「ブログ」「やめたい?」「うん」「無理だね」
松永さんの周囲に劇的なことが何も起きず、これまでの生活基盤が守られることを期待しています。
J リーグで熱狂的なサポーターが暴れている様子を目の当たりにしていた私は、W杯予選の日朝戦ホームゲームでサポーターが乱暴狼藉を働かないかと心配しました。しかし結果的に、温和な観客が大半であったことと警察の尽力により、また日本代表が快勝したことにより、平穏無事に終りました。今回も、そうあってほしい。
私はここ数日、悪い予想に基づいて、いくつかの不安を書いてきました。日本に暮らす者として、この社会の寛容であることを切に期待したい。100%の安全を求めて、他人につらく当ることを是とする人々の少ないことを望みたい。
近代の民主主義社会が刑罰のシステム設計から応報概念を排斥したことには様々な背景がありますが、「応報概念は社会全体の幸福の総量を最大化しない」という発見は重要な一歩でした。かつては泥棒も死罪になりましたが、それで泥棒がよく抑止されたか。そして罪人をどんどん殺してしまうことの社会的損失は? 復讐心に駆られる被害者の思いを晴らすこと、再犯の危険を高く高く見積もり、大多数の改悛した人々を牢獄に繋ぎ続け、あるいは簡単に殺してしまうことが正義の全てなのか。違う、というのが近代刑法の到達点なのだと私は理解しています。(このあたりはかつて受講した教養科目の受け売り)
今もなお最適なバランスを求める試みは継続していますが、法定罰はまだしも冷静に議論され、抑制的に運用されているものと思う。
日常生活を送る中でほんとうに注意しなければならないのは、一般の人々の良心に任されている社会的制裁との向き合い方です。私は、これを全否定しない。全部ダメだといったら、それはそれで逆に抑圧的な社会だと思うから。ではどのあたりまでが適切なのか、ということ。
応報概念の考え方ばかり口にする人が多い、という印象があるのは私だけでしょうか。そして厳罰化による抑圧という誘惑も、相当に強いらしい。パナウェーブのときに書いたことだけど、仮に松永さんが今もかつての信仰を持ち続けていたって、やはり人権はきちんと守られるべきだと私は思う。怪しげな連中に十分な注意を払うのは当然だが、逮捕されるような犯罪者でもないのに人権を制約するのはおかしい、と。それもまた極端、なのでしょうが、私はそう思う。
ともあれ、すべて杞憂に終ってほしい。
というわけでポーションという FF12 関連商品(青色の清涼飲料水)が話題になったところから青色1号に注目が集まっているらしい。
finalvent さんは健康に詳しいので、極東ブログの過去ログにはその道の役に立つ話がよく載っている。今回も燃え上がった怒りの声を静める役割を果たしていて、社会に役立っているなあと思う。極東ブログといえば海外のニュースをソースにした政治系記事が特徴的なブログとして人気を得たと認識しています。ブログによる検索結果汚染(=得意分野の記事と雑多な記事が混在する人気ブログにおいて、気楽に書いた素人レベルの内容まで検索上位に登場してしまう問題)がしばしば話題となりますが、極東ブログはその点、偉いなあ、と思う。
ちなみに医者の fujipon 先生はポーションについて飲んじゃ駄目だ
と仰っていますので、念のため。
メールへの返信。
- 中村正三郎氏とパオロ・マッツァリーノ氏
初めまして。
中村正三郎氏とパオロ・マッツァリーノ氏の今回の件について、どのように感じていらっしゃいますか?
彼らの表現した経済学観は、確かに完全な誤りでした。批判されるべきではあったでしょう。しかし、中村氏への「ののさん」氏の批判、マッツァリーノ氏への山形浩生氏の批判、これらは極めて苛烈でした。
今後、中村氏、マッツァリーノ氏が、経済学に興味を持つことは二度とないでしょう。ましてリフレ派になることなど。
私は徳保さんを、bewaad氏に「守られた」ことで、中村氏らと同じような道を辿らずに済んだ人だと思っています。ですから、徳保さんからは今回の件がどのように見えたのか、どうすべきだったとお考えか、伺ってみたいのです。
では失礼します。
とりあえずこれまでの展開に差異が生じた最も大きな原因は、中村さんやマッツァリーノさんは自説に自信を持っていたけれど、私はそうでなかった、ということではないでしょうか。対応云々は重要でないように思います。中村さんに対する bewaad さんの対応、マッツァリーノさんに対する飯田泰之さんの対応は、相手方の知性を信頼し、落ち着いた筆致を保って書かれていたように思うからです。
日常生活の中でみながそうしている程度に、私はウェブでも根拠に乏しい断言をしているわけですが、私は根本的に素人考えをあまり信頼していない。自分が「こうすればいいのでは?」と思いついたことなんて、実際にやってみればうまくいかないものだ、という経験的な感覚がある。だから私は、先生の胸を借りる生意気な生徒のような気分で臨んでいたわけです。
私がいろいろご教示いただいたのは2005年8月のことでしたが、経済学の本などをポツポツ読み始めたのは9月に入ってからです。9月に3冊、10月に12冊、11月に27冊の経済関連書籍を読了したわけですが、うまくいってこの程度なんですね。通常なら年単位で気長に考えるべきでは?
大学受験まで、私は政経が大好きでした。大学入学後、教養科目の経済学を履修しようと思って教室まで出向いたものの、オリエンテーションがひどくつまらなく思われ、受講票を提出するのをやめて他の教室へ。最初の躓きが全てで、「いつか勉強したいが……」と思ううちに卒業してしまった。それから4年経って bewaad さんのご指導に接し、やっと勉強を始めたわけです。
高校卒業から8年目ですよ。「経済学のことをもっと知りたいなー」と、ずっと思っていてさえこうなのであって、ちょっとやそっとのことではね、火がつくわけがない。中村さんやマッツァリーノさんは私などよりよほど勉強家でいらっしゃるから、単純には比較できないけれど、それでも年単位で考えるべきです。
中村さんもマッツァリーノさんも、リフレ派になるかどうかはともかく、今後も経済ニュースを見聞きし、様々な経済問題について多少の感想を持ち続けるでしょう。無関心になって、それっきり忘れ去ることができるほど、経済は一般人の日常から隔絶されていません。ですから、経済学を学ぶきっかけはいつも目の前にあり続けるはずです。
中村氏、マッツァリーノ氏が、経済学に興味を持つことは二度とない
とは思いません。昨晩の NHK 人間ドキュメントは、次男の死をきっかけに30代後半で医師を志し、40代で医師となり、50代で僻地医療に飛び込んだ女性を紹介していました。人生は長い。何が起きるかわかりませんよ。
NHK 総合で1989年12月のチャウシェスク政権崩壊の様子をまとめた NHK スペシャルの再放送(1990年1月に本放送)があった。
1989年12月23日にはチャウシェスク夫妻は救国戦線により逮捕される。25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場で殺害された。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。この放送は、チャウシェスクが対外的には清貧な大統領を装う一方で、残忍な独裁者であったという印象を強くした。即刻銃殺刑に処したこと、西側諸国に公開したことを見ても分かるとおり、如何に大統領が国民を抑えつけ恐れられていたかがよく分かる。
しかし、大量虐殺の形跡や、不正蓄財の証拠は全く見つからなかった。1990年、自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が2党に分裂する遠因にもなった。現在、大量虐殺と不正蓄財はなかったものと考えられている。
案の定、この問題は語られなかった。最近の私の興味から、被害者意識に駆られた人々の暴走の方に関心を持って見た。テラスから群集に向けて最後に大統領が語った言葉、絶望の表情。静かな政権交代を目指す穏健な改革派の呼びかけが大群衆の叫びにかき消される様子。テロリストとしてチャウシェスク派と目される人物が大した証拠もなく続々と逮捕され、市民が大歓迎する。
治安部隊の発砲は多くの市民の死傷を招いた。その責任が問われることは当然だが、治安維持もまた重要な責務だ。無罪になったかどうかはともかく、せめてまともな裁判を受ける権利くらいはあったはずだろう。
1999年12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると、6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで、死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。
旧ユーゴスラビア紛争で大量虐殺や人道に対する罪に問われ、オランダ・ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷で公判中だった元ユーゴ大統領のミロシェビッチ被告が11日、拘置所の独房で死去した。64歳だった。戦犯法廷の報道官が確認した。弁護人によると、死因は心不全とみられる。
国際社会には独裁者として糾弾されたが、実情はポピュリストに過ぎなかったといわれる大統領の死が報じられた。おそらく判決には反映されなかっただろうが、ユーゴスラビアの言い分を多くの記録に残してから亡くなったのは、せめてもの慰めか。イラクのフセイン元大統領も、いい足りないことはまだまだあろう。判決は最初からわかっているようなものだが、彼がその死の前に存分に語る機会を与えられることを望みたい。
ホロコースト修正主義の項を読むと、頭がクラクラしてきた……。ダメだ、私には判断しかねる。ゲットー建設と強制収容所への移送は間違いない。問題はその先にあったとされる毒ガスなどによる600万人の大虐殺。大量の被害と加害の証言があって、それらしい写真とかもある。にもかかわらず、決定的な物証を欠いている。戦時中から隠ぺい工作が続いていたというのが定説なのだという。
とにかく大勢が亡くなったことは間違いない。しかしそれが強制労働と劣悪な環境による衰弱死や病死なのか、それともガス室なのかというのは大きな違いではあって、事件の特殊性に強く関わる部分だ。ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている
そうだが、「矮小化」になってしまうのは間違いない。
この問題があるから、チャウシェスクによる「虐殺」も証拠の有無が今も十分には問われない、証拠不十分で無罪とはならない、倒された独裁者に人権はない、そういうことになっているのだと思う。
かつて、漢文の「故事成語」って不思議なものだな、と思っていました。なぜ庶民の日常生活が、現代日本の常識となるまで有名な言葉となったのか。
じつは、わかってしまえば簡単なことでした。
「三羽邦美の[漢文]に強くなる実況放送」の中に、「矛盾」に関して、こんな説明があります。
この話は『韓非子』にあるんです。実は韓非子は、このたとえ話で儒家を非難しているんです。儒家の連中は自分たちの「徳治主義」政治の理想像として何かというと太古の「堯」とか「舜」といった実在もしない人物を「聖天使」といって持ち出すわけです。「堯」の次の天子が「舜」なんですが、堯が非のうちどころのない聖天子だったのなら、舜が徳を施して人民を善に導く余地はなかったはずだろうし、舜がその人徳で人々の争いをしずめたりしたというなら、堯の時代には天下はよく治まっていなかったことになる。堯も舜も聖天子だといういい方には「矛盾」がある、というわけです。
本当は、そこまで読まれないと韓非子としては不本意でしょうが、教科書にはさっきの問題文のところしかのってませんね。ただの笑い話じゃないんですよ。
さらに別の箇所からも引きます。こちらは「株を守る」の故事について。
これは、「株を守る」という有名な故事に出てくる分で、原文はもちろん部分否定のほうです。「矛盾」と同じ『韓非子』が出典で、北原白秋の「まちぼうけ」って動揺のもとになってるお話です。「待ちぼうけ」なんて歌、いまどき知らないか。「まちぼうけ〜、まちぼうけ〜、ある日せっせと野良かせぎ〜」ってんですけどね(笑い)。畑たがやしてる人がいたんです。畑に木の切り株があった。そこへ兎が走ってきて、その切り株に頭ぶつけて失神した。そんなまぬけな兎がいますかね(笑い)。そこでそのお百姓さんは、こりゃいいや、こんなんで兎がつかまえられるんなら畑仕事なんかバカバカしくって、と農具を放り出して、それからはずっと毎日草むらにかくれて木の切り株をみつめてたんですね。しかし兎は二度と……という話なんです。
「矛盾」の場合と同じように、韓非子はこの話でも儒家の人々のいう堯舜の時代錯誤を笑ってるわけです。この戦国の世に「徳治政治」なんて、何を寝言いってるんだ、とね。「株を守る」は旧習にとらわれて融通がきかないことをいいます。
なるほど、故事というのは、実際にそういうことがあったのかどうかはわからない。著名な文章の中で例え話として使われたので、現代に伝わっているのですね。
私は理系に進みましたが、じつのところ数学や理科はあまり好みでなく、古文・漢文の方が好きでした。まあ進学後には勉強をやめてしまうのですけれども、高校時代はけっこうはまっていましたね。理数の勉強に飽きたら古文・漢文の教科書を音読したりして。三羽さんの本から、三度、引用します。
僕は山口県の小野田高校って高校出たんですけど、クラブ活動で新聞やっててね、ちょうど、創立八十周年だってことで、学校の歴史の特集やったんです。で、その小野田高校の前身が「如不及堂」って変な名前の私塾だったんですね。そんときはどうしてそんな名前なのかわからなかったんですけど、大学に入って『論語』を全部読んだときに「泰伯篇」に「学は及ばざるがごとくするも、猶ほこれを失はんことを恐る」ってあったんです。ゾクゾクッとしたですよ。立派な名前だったんだなーって感動しました。学問というものは追いかけても追いかけても追いつけないかのように勉めても、それでもなおとり逃がしはしないかと恐れる、そういう気持ちでやるものだ。いいこといってるでしょ。『論語』ってのは本当に立派な本ですよね。
補足をひとつだけ。
「なぜ二歩はダメなのか?」という問いには、いろいろな回答があると思う。それ自体は、回答不能な問いではない。けれども、例えば「ルールだから」「ルールなんか守らなくたっていいじゃん」「それじゃゲームにならないでしょ」「ゲームにならなくたっていいじゃん」「よくないよ!」「なぜ?」「楽しくないでしょ」「楽しくなくたっていいじゃん」というように、どんどん根拠を疑っていくことができてしまう。これは「なぜダメなのか?」と価値観を問うているからです。
これに対して、「二歩というルールが作られ、支持されてきた経緯」といった事実を問う質問なら、回答は難しくない。「多数派の価値観がルールを作る。二歩はゲームバランスを壊すと考える人が多い。また、たいていの人はバランスのいいゲームを好む。そのため、二歩というルールが作られ、受け継がれている」といったところ。いいとか悪いとかではなく、単に事実はこうだ、と回答できる問いなら、無限後退はない。
質問→回答→納得、ふだん生活している範囲では、とくに疑問を感じないことだろうけれど、よく考えてみると不思議な現象なんですね。だって、単なる事実の確認ならともかく(本当はここにも難しい問題があるのですが割愛します)、価値観や社会のルールは、いくらでも「なぜ?」と根拠を疑っていくことが可能であり、どこまで突き詰めても決定的な回答は得られないはずだからです。誰とも異なる価値観の持ち主は、どこまで根拠を示されても、永遠に「納得」できないことになる。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、決定的な答えはないものの、特定の人を納得させることは可能かもしれない。その人の持っている価値観から、殺人を否定する論理を組み立てることができればいいのです。しかし全員が共有できるのは「事実」のみですし、事実から価値観を導くことはできません。
特定の結論を導くためには、「なぜ?」という問いに対して、どこかで打ち切り宣言を出し、無根拠な断言をする他ないわけです。となると、いくつか「なぜ」を遡ってから「これ以上は問答無用」というケースと、最初から「門前払い」するケースとの間に、本質的な差異はありません。倫理は倫理でしか説明できず、世界から倫理を取り出す最初の一歩は、無根拠な断言でしかありえないのです。
ただし、最初の一歩は慎重に選ぶべきですね。だって、その一歩に根拠がないということは、それが最上位の価値概念ということになるからです。特別な事情がない限り、「公共の福祉」のような曖昧なコトバを第一歩に使われることを勧めます。
なぜころ問答に対して、価値判断を抜きに「現状を整理する」という形で説明を試みたのがこの記事。現在の日本の社会では、殺人を禁止したいと考えている人が多いから、殺人の禁止が社会のルールとなっているのだ、という説明です。結局のところ、殺人がいいとも悪いともいっていないのがポイント。倫理を排したら、こんな回答しかありえないわけです。
お怒りは理解しますが、小杉さんと id:santaro_y さんとの対立点は「何を大切を考えるか」という価値観なので、賢愚の図式に押し込むことには反対。私もパナウェーブ問題のときには熱心にいろいろ書いたりもしたのだけれど、みんな口でいうほど人権なんて信じていない。
そういうものかと思って、自分でもよくよく考えてみたところ、それもひとつの「賢い生存戦略」なのかもしれないな、と思い至った。自分が賛同するかどうかは別として、「こいつらはバカだからわからんのだ」という話でもなさそうだ、と。なるほど、それは単なる感情論の形を取ってはいるのだけれど、こういう汚さが人類を生き延びさせてきたのかな、なんて考えるようになっちゃったんですよね、私は。
これはありがちな若者批判本で、速水敏彦さんの筆致をていねいに追うと、「自分以外はバカ」と考えているのは全世代的現象なのだとわかってくる。まあ、予想通りの内容しかないのですが、逆にいって、きちんとある種の需要を満たす本でもあると思う。また、反面教師としても役に立つのではないか。
喜んでいただけたようで。その代償として、私の所有するパソコン(の古い方)からは恐竜が消えました。斜めから覗き込めば見えるのですが。安価な液晶なので、白がグレーに見えるくらいに輝度を落とさないと、パステルカラーがみんな真っ白になってしまうのです。
「善意」の説明が不十分でしたね。例えば、こんなケースがあるのです。
音楽を鳴らすな! という意見が広範にある一方で、音楽が流れてほしいという読者も、じつはいるのですね。そのため、初期に音楽を流しながら訪問者を増やしてきたサイトの場合、後に管理人自身は考え方を変えたのに、「昔からお世話になっている常連客の要望があるから」という理由で音楽を流し続けたりする。管理人が大学を卒業して社会人になってしまい、「これでは職場から自分のサイトを見ることもできない……」と嘆いていることもあります。
しかしまあ、多くの場合は「善意」と「自己満足」がイコールで結ばれていて、「こういうかわいいデザインが読者にも喜ばれるはず!」などと読者のためを思って「作者好みにひどいデザイン」をしたりする。いま私は「ひどい」と書いたけれども、製作者とセンスの近い読者は常にいるわけです。音楽が流れて嬉しい人がいて、白背景にピンクの文字が嬉しい人もいる。多数派の読者の方を向いたデザインばかりでは、そういった人々にとっては寂しい。ウェブは多様であっていいのではないか。
画像の形式を BMP にする、字と字が重なって読めない、といった明らかなミス・無知・表示の崩れなどは安心して指摘できますが、それ以上の提言はなかなか難しいなあ、と思っているところです。
私の「連想」をメモっとく。
自省はいくらでもすればいいのだけれど、他人に向かって「われわれはよく反省して、自制に努めています」と表明するべきではないかもしれない。例えば元受刑者が、自ら進んで「私はかつて、悪いことをしました。今は反省しています。だから信用してください」と表明できるか? 少なくとも現代の日本社会では、それは難しい。内省は心に秘めておいた方が、安全だといえる。
「自分が加害者になる危険」と同様に、「自分が被害者になる危険」にも敏感であるべきだ。それが「虐殺」を減らすことにもつながる。
しかし実際のところ、安全のためと称していちいち発言を自粛するわけにもいかないので、ひとつの考え方として留意しておけばいいのではないかな。とりあえず、自戒を民族の反省にすりかえないことを心がけたい。「私は危険人物ですが、今は反省しているので信用してください」と自己紹介するのは当人の勝手だとしても、「私たちは」といえば周囲に迷惑がかかる。
とはいうものの、これがまた、難しい注文なのではありますが。
私が思うに、日本人がほんとうに「自分が加害者になる危険」を意識しなければならないのは平常時ではなくて有事の際だ。アメリカにとっての9.11のように、大きな被害を受けたときなんだ。だから私たち(と敢えて書くよ!)は1995年を思い出さなければいけない。そして今、「麻原彰晃なんかさっさと死刑にしてしまえ!」と考えていないかどうか、自分の胸に聞かねばならない。
私たちが想像すべきことは、自分がどこまで傷つけられても冷静さを保つことができるか、なんだ。オウムに東京のど真ん中でサリンをまかれたからといって、元教祖の子どもの人権を否定して何になるだろう。そんなことで次のサリン事件を防げるのか。元信者の社会復帰も難題で、多くは経歴を隠して暮らしているという。直接には何のかかわりもなかった信者だって、厳しい差別の中で身を潜めて生きていかねばならない。命までは取らないからいいって?
そういうわけだから、私たちはまず、被害者になってはいけない。そして、被害に耐えて冷静さを保つ力を養う必要がある(しかし過去の数多の事例が、その困難を傍証している)。加害者になることをほんとうに恐れるならば、そういうことを、考えねばならない。
この対談、全10回になるそうです。さすがほぼ日というか、糸井重里クオリティというか。余談を読ませる対談だから、編集でバサバサ落とすようなことはしない。
- 岡田
- そんなに「がんばれ」だらけだったら
世の中、しょうがないじゃないかと
思っていました。
これまで出したぼくの本は、
応援歌ではなくて、
「ほんとうは世の中こうなってるんだ」
「思い知れ!」
という内容ばかりだったんですよ。- 糸井
- ええ、そうですね。
「俺は俺だ」とブイブイ書いているところに
気持ちよさがありましたよ。- 岡田
- でも、それも、なんだかちがうのかな、
と思いはじめたんです。
みんなが「思い知った」ところで、
この世の中がどうなるもんでもない。
みんなが思い知るより大事なことは、
明日元気に会社や学校に行けることのほうだから。
明日元気になるためなら、
「思い知れ」より「がんばれ」のほうが
100倍、役に立ちます。
「思い知れ」は、書いてる側が気持ちいい
カラオケみたいなもんなんだけれども、
「がんばれ」は読んでる側が気持ちいい。
そんなふうに考えて、
売れるというのはこういうことだ、と
思ったんですが、
でも、ちがうのか‥‥なぁ、なんて(笑)。- 糸井
- ぼくも、そういうこと、よくやっていましたよ。
「ネクタイを締めることで
相手が、ぼくの話を聞いてくれるんだったら
ネクタイを締めればいいじゃないか、俺よ!」
と、慣れないネクタイを締めて
出かけたとする。
でも、そこで譲り渡したぶんだけ、
「自分」が出なくなるんですよね。- 岡田
- うんうんうんうん。
いきなり本の反省会(笑)。
何だかホッとした。あ、注意して読んでくださいね。岡田斗司夫さんは、いったんはポジティブ路線へ舵を切ったのだけれども、結局は従来のスタンスに戻ってきた。それで、旧来からの読者である私が安心した、という展開です。
でも、「プチクリ」だっていつもの岡田節で書かれているようにも読めて、つまり「ほんとうは世の中、プチクリでいいんだ!」という。内容のポジティブさという点においても、旧来の作品と変わらない。岡田さんは基本的に、未来を陰惨なものとは捉えてこなかった。むしろ現実をつらく苦しいものと捉えている人々に対して、「現実と脳内世界とのズレが苦しさの原因なので、現実にあわせて価値観を選択すればいい。本音を大切にしていいんだよ」と説明してきた、と私は解釈しています。
「プチクリ」も同じ流れの中に位置づけることができる。「あなたも、じつは既にプチ・クリエイターなんですよ。それでいいんですよ」と、これまで通りに明るい世界を描いて見せたといえるのではないかな。
3月になってもまだ、これほど精力的に活動が続いていたとは。岡田斗司夫のプチクリ日記は、さすがにもう飽きているようですが。モノ・マガジンに以前、連載されていた日記も、〆切間際にまとめ書きされていたそうだし……。
まずはご一読を。gori さんが特に今回の分析で来日韓国人の犯罪率の低さを知り、過去のエントリー等で韓国人ビザ免除について感情的な批判をしたことを深く反省したい。
とお書きになったことには「さすが」と思わされた。当然のように、コメント欄で反省の弁を述べている者はいない。gori さんは「祭りの後のメディアリテラシー」と題してこうお書きになっている。
裏を取らなかった事で政党自体を崩壊の危機に晒した永田議員のガセメールに関する記事の中で、永田議員と全く同じタイプの失態を犯している週刊新潮。唯一違うのは、政治家の場合は徹底的に追及され白黒がハッキリ付けられるんだけど、マスコミの場合は有耶無耶に終わらせて誰も責任を取らないって事だ(例:朝日新聞のNHK番組に対する虚偽報道問題)。その点、キッチリ責任取らされる政治家の方がまだマシだという見方も出来るだろう。
これは無責任な読者たちへの批判でもあると私は思う。かくいう私自身、過去の放言について、考えを改めた際にお断りを付していない事例がいくつもありそう(注:基本的には過去ログを全部修正するようなことはしなくていいと私は思っている)。
いわゆる嫌韓厨は韓国の橋が落ちたりデパートが崩壊した事例をあげつらって馬鹿にしてきたのだけれど、日本でも耐震偽装なんて問題はちゃんと出てくる。落ちた橋も崩壊した巨大建造物も割合としてはごく少数でしかないわけで、そこから安直に国民性だのかんだのを演繹することに、どれだけの妥当性があったのか。そういった反省は皆無ではないけれど、非常に少ない。言動に責任を取らないことにかけては、政治家よりマスコミ、マスコミより庶民の方がもっとひどい。
最近のいちばんわかりやすい事例は、のまネコ問題で avex 社長の家族に対する殺害予告に関する自作自演説。後に2ちゃんねらの中から逮捕者が出た。記録も自供も揃ったので、もうひっくり返らないだろう。2ch やブログで散々くだらない憶測で他者の名誉を毀損する発言をくり返した人々の内、いったい何人があとでお詫びのコメントを出したか。
私自身、ときどきあちこちで質問に答えたりなどしているのだけれど、そのときに思うのが sugar さんの仰るようなこと。けれども、私が質問するときの感覚は、taigo さんの描写する通りで、「厳しいこといわないで」なんですよね。
私の解決策は、「多少の謝礼は出すから、お願いします」というもの(でした)。だから、ちょっとトラブルがあって、はてなをやめてしまったのは痛かった。まあ、fc2 のカスタマイズとかについてはてなで訊ねてもいい回答は得られないのだろうし、はてな人力検索で全て解決というわけにはいかない。fc2 のサポートフォーラムに有料版を作っても、どうせ利用者は少ないのだろう。
解決策なんてない
というか、あるならとっくにみんなそうしていますよね。パソコン通信以降に限っても20年来の課題なのであって、既視感のある話を繰り返しやっていくしかないのか。
個人的にいい線いっていると思うのがホームページ作成FAQとはてなダイアリーのヘルプ(はてなダイアリーガイドと連動)です。どちらも、よくある質問への回答に飽き飽きした回答者が、第一に自分たちの利便のために作成したものなのです。質問者が検索しないことはもう諦めて、回答者の側がアンチョコを用意して手軽にやっていこう、と。
実際のところ、たいていの質問には個別の事情が絡んでおり、リンクひとつでは回答にならないケースが少なくないのですけれども、悪くない試みではなかったか。
なるほどなあ……。はてなのプロフィル画像のような使われ方をするわけか。
うへー、レベル高すぎてついていけない。当サイトもこんななのに論壇系とみなされたりするのだけれど、敗者を生まない「幸福な議論」の3条件(2006-11-04)くらいのことしか、私は考えていません。小難しいのは苦手(と私が書くと、ご冗談を、って苦笑されるわけですが)。
よくわからないなりに面白い。
絶対優位と比較優位の違いを参照のこと。全てにおいて劣る者にも、分業によって活躍の余地が……。
こう書いてみると、比較優位説の残酷さがよくわかる。
TOSS の授業技術研究を私が高く評価するのは、教科書をきちんと教えるオーソドックスな形態と、眠くならない授業を両立させようという困難に向き合って、かなりの成果を上げているから。「面白さ」を追求して授業の本義を崩壊させるのはダメ教師。熱心な先生の少なからずがダメ教師になってしまうので、注意しなければならない。
需要ある限り、誰かが書く……というのは、2ch などを見ればよくわかる。一人が考えを改めても、代わりの一人が現れるだけ。だからゲーム脳の問題も、森先生が「改心」したって解決にはならない。最近では岡田尊司さんの「脳内汚染」がベストセラーになっていますよね。
気が滅入るような本の紹介はこれくらいにして、お勧めなのは以下の本。Amazon では「タイトル・目次が誤解を招く」という声が出ていますが、全然わかっていないんだなあ。これは「テレビゲームはヤバイ」と思っている人々に確実に読んでもらえるよう工夫をこらしているんですよ。最初から「ゲーム脳なんて嘘っぱちだ」と直感するような人を想定読者としていません。「ゲーム脳」批判はこうやるべし、という一冊。
ところで、ひとつ注意しなければならないのは、「ゲーム脳理論に対する批判は、単にテレビゲーム擁護の心の発露でしかない」という可能性に目を向けること。「ゲーム脳理論」が間違っていても、テレビゲームが脳の健康を損なうものである可能性はある。
例えば遺伝子組換作物については、ずいぶんていねいに試験が行われているにもかかわらず、「よくわからないから忌避しておこう」と考えている人が多い。そして「よくわからないけど気持ち悪い」という考え方を堂々と述べて、ほとんど誰も「そういう非科学的な態度は危険だ」といわない。「数十年間食べ続けた場合の臨床データがない」なんて、言い掛かりもいいところ。通常の交配による新種だって、意外な毒性を持つ危険はある。なのに、そっちは通常の安全試験で納得するのだから。→関連リンク集
「ゲーム脳理論」が正しいかどうかは、じつのところ重要なことじゃない。私は厚生省の基準をパスした遺伝子組換作物は「安全」だと認識しているけれども、そう思わない人がたくさんいる以上は、遺伝子組換作物は人々に嫌われ続ける他ない。テレビゲームはどうです? やっぱり少なからぬ人々が遺伝子組換作物と同じくらい、嫌っている、不信感を持っている。ひとつのいい加減な仮説が潰されたって、「けっ、俺は騙されないゾ」という思いを再確認するだけかもしれない。
「ゲーム脳理論」にブチ切れた人は、おそらくテレビゲーム排撃派が無意識的に抱いているであろう「最悪」と「もっと最悪」を意識的に選択するという考え方に、よく思いを致さなければならない。「ゲーム脳理論」を歓迎する土壌は、分野を変えればあなたの中にもきっとあるはずなのであって、単純に森さんの主張は疑似科学だからダメ、といって通用するのだろうか?
人権擁護法案に反対したり、PSE 法に反対したり、著作権法の改正に反対したり、のまネコを潰したり、そういった活動には常に(私などから見ると十分な内容の)批判があったにもかかわらず、「数十年間食べ続けた場合の臨床データがない」と同等の反論の前に無力化されていった経緯があります。これは「2ちゃんねらは馬鹿」という話ではなくて、日銀の量的緩和策がなす術もなく解除されてしまったのだって同じことなんです。
荒川静香さんが日の丸をまとって行ったウィニングランを NHK が生中継しなかったことが問題となった件について。
NHKには、「偏向批判」が常に存在することは承知している。NHKの現状に対しても言いたいことはヤマほどある。だが、「NHK=偏向」という金太郎飴の反応は健全とはいえない。「坊主憎けりゃ」のたぐいである。
きちんとした事実関係を踏まえ、批判すべきは批判する。そういう当たり前の議論をしたいものだ。これが責任ある自由な言論というべきだろう。
ゲーム脳と全く同じ構図。NHK の「偏向」癖を糾弾するためなら、牽強付会でも証拠不十分でも何でもかんでもやる、何から何まで悪意を持って解釈する、そういう「マスコミ批判」をやりたい人には「鏡を見よ」といいたいが、正義の確信は人を盲目にする。
たしかに花岡さんの提示した「取材の結果」に明確は証拠は無い。しかしそれをいうなら、報道なんてみんなそうだといってもいい。自分の直感を否定する言説には100%の証明を求めるくせに、自分は物事の一面を見ただけで結論を出す、まあ、私も含めてみなそんなものなのだろうが……。意見を変えろ、とはいわない。あなたが正しいかもしれない。ただ、とりあえず妥当と思われるラインを見定めることに、もう少しだけ熱意を持ってほしいとは思う。
万人の万人に対する闘争が、そんなに好きか。直感を信じて小さな可能性を言い立て、ワーワーギャーギャーやらかすのが正しいとは、私には思われない。「私はこう思う、その考えは変えないが、現状のデータから見て、より一般的な結論はこうであろう」という程度のバランス感覚。これが難しい。難しいのだけれど、やらねばならぬ(言い切ってみた)。
世間の空気はこんな感じ、ということで産経新聞の記事を最初にご紹介。
とくに注目したのは連載第1回。現在の私は、中原伸之さんの悲しみに共感します。……それにしても、経済学に突然、興味を持って、お勉強して、私は幸せになったんだろうか。何だかちょっと、虚しくなったな。今日の量的緩和解除のニュースを見て、「わーい、これで銀行預金につく金利がちょっと増えそうだぞ!」って喜んでいた方がよかったような気もする。
南無三。
このたび日銀が望ましいと考える物価上昇率は0〜2%と言明されましたが、インフレ目標値をめぐる論議について、不思議に思っていたことがひとつあります。インフレ目標を設定すると政策の自由度が失われるといった主張が日銀(+支持者)から出ていましたが、量的緩和政策にはもう戻らないとか、金利政策しかしないとか、自縄自縛は大好きなんですよね。ゴールは決まっているけど手段は何でもいいよ、という方がよほど政策の自由度は高いのではないか。
デフレ期待を考慮して、その期待を壊さぬようデフレ維持ですか。デフレ期待をマイルドインフレ期待に転換することが中央銀行の責務であるというのに、そうした可能性が出てきたからこそ期待が転換しないようにレジームを転換した、と。
ようするに、デフレ期待をマイルドインフレ期待に転換することが中央銀行の責務
との考え方に日銀の政策審議委員の同意が得られていない。マイルドインフレを実現するためなら、何だってやる、やっていい、なんて考え方は、いっそう理解が得られない。中央銀行の独立性が話題になっている昨今ですが、政治的な独立性よりも、専門知の世間知からの独立性をもっと問題にした方がいいのかもしれない。無論、それでは「国民の批判」に堪えられないのでしょうが。
福井総裁は記者会見で何回ご説明してもわかりにくい量的緩和政策
と仰っていますが、「これは市場にお金を増やして物価を上げる政策です」といえない、あるいはいいたくないから、わかりにくい説明になってしまうだけのこと。本当は非常にわかりやすい政策だったと思う。
「物価は上昇せず安定しているのがよい」「量的緩和は異常、金利操作は正常」「名目金利がゼロでは金利生活者がかわいそうだ」「国債を日銀が引き受けたらハイパーインフレになる」「借金はよくない」「景気は定期的に循環するものだ」「不良債権は処理しなければならない」「為替相場は基本的に操作できない」とかなんとか、そういった考え方がたぶん日銀にはあって……と考えてみるとスッキリするのだけれど、ようするにこれって、私が半年前までずっと信じてきた考え方なんです。
デフレの克服とはすなわちインフレを起こすことだ、という単純な事実さえ、私は認めていなかった。物価上昇率をゼロにすることと、さらにプラスの値へ持っていくことは別、などと(なぜか)考えていたのです。思い込みの力はすごい。
租税の仕組みは景気の安定化装置として働く、じつは国債もそうなんだ、ということにも気付いていなかった。税収が増えたなら借金を返すべきだ、という主張は必ずしも正しくない。700兆円分の国債は、デフレ対策として同額の日銀券を発行するための見合い資産ともいえる。日銀が買った国債は、インフレ時に市場のお金を吸い上げる際の商品ともなる。私企業の債権ではないから、日銀の市場操作に最適。
リフレ派の本、リフレ派と対立する人々の本、どちらも読みましたけれども、私は少なくともお話としてはリフレ派の主張に理があると考えます。いうことがいちいち納得できる。
「異常」な政策への恐れから、幻想の「通常」を追って底なし沼にはまり込んだ歴史は、忘れ去られて久しい。長い長いインフレとの戦いにデフレの恐怖は押し流され、昭和初期しゃかりきになって金本位制復帰へ突き進んで経済を破壊した愚を、再び繰り返しかねない量的緩和の解除。日本経済の白夜はいつまで続くのか。このまま日が昇らぬまま、再び長い長い夜を迎えるのだろうか。
みなさんも、ぜひ。
先日、取り上げた吉田アミさんの記事と同様、一読して「この主張は大勢に支持されるだろうな」と思った。現代日本のひとつの空気、時流に乗っている主張。
この映画、どっかで見た覚えがあるんだよな……。
くつしたさんが喜びそうな記事だと思った。ガラス越しに見える客を獲物に見立てて疑似的に待ち伏せするしぐさで、肉食動物としての習性だという。自分では隠れているつもりらしい。
という説明が、生々しい感じ。
旭山動物園は地道に来場客数を伸ばして話題になっており、本も出ています。動物園つながりで川端裕人さんの名作もあわせてご紹介。
→コミュニティの選択(2005-06-01)
これなんですがね、「何故、人を殺してはならないか、何故自殺してはならないか」を倫理を入れずに答えよ
という命題に無理がある。哲学の初歩的な知識として、「事実を積み重ねても当為命題は導かれない」というものがあります。つまり、いくら事例を集めても、「**が正しい」という結論は得られない、ということ。
id:ululun さんの結論は人は誰かを殺してもならないし、自殺をしてもならない。何故なら殺した人以上の存在を産み出す事は出来ないから。
なのだけれど、「殺した人以上の存在を生み出すことができない」ことと、「だから人を殺してはいけない」という主張の間には飛躍があることに気付いてほしい。「どんどん世界から価値あるものを減らしていって、何がいけないの? 別にいいじゃん」という主張を倫理的に否定していればこそ、そのような結論が導かれているのであって、倫理から解放されてなどいない。
とにかく、この命題に答えがないことは最初からわかっている。したがって、「**という倫理観は排除する」というように、一部の倫理のみを棄却して意見を組み立てるなどの対策しかありえません。
このあたり、詳細は takn さんの「事実命題から当為命題は導出可能か?」をご確認ください。
この問いへの回答も同じ。倫理観は事実という「動かせないもの」から遊離しているので、「なぜ?」という問いに対し、無限後退に陥ります。倫理は倫理によってしか説明できず、何らかの価値体系(群)の中でぐるぐると論理を巡らせる他ないのです。したがって、永遠に続く問いの連鎖を断ち切るためには、どこかで踏みとどまる必要がある。
「人殺しはいけない」「なぜ?」「悲しむ人がいるでしょ」「それがなぜいけないの?」「こ、この人でなしっ!」「人でなしで、何が悪いわけ?」「そんなこといってると、あんたも他人に傷つけられるよ」「別にいいんじゃない?」「そんなわけないだろ!」「なぜ?」「どうしてお前はそうなんだ?」「理由なんて、必要かしら?」「うっさいわ、ぼけぇ!」「あらあら」
ただ、私は、はあちゅうさんのこの間テレビで「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」って言ってる高校生を見て、「は?」って思った。もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。世の中には説明の要ることと要らないことがあって、その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。
という意見には「ご苦労様」という感想を抱きます。「殺人の禁止」を始点とした倫理体系に生きている人は、じつは少ない。
「殺人の絶対禁止」を掲げると、たいへん生きづらいはずです。例えば、正当防衛という概念が成立しなくなるし、死刑も当然にアウト。立て籠もり犯を狙撃することもできず、中絶だって不可能となる。とりあえず4つの「反論」を出したけれど、ひとつでも引っかかる人は、「殺人の禁止」より上位の倫理観を何か持っているということになります。
……なんてね。大学の教養科目レベルで哲学を学ぶだけでも、これくらいのことは書けるようになります。id:michiaki さんも、哲学入門の本を読むといいのではないかと思いました。「あえて無知戦略を貫き、手に負える範囲でつらつらと物事を考えるのが楽しい」という感覚は私にもあるので、強くお勧めするわけではありませんけど。
リクエストに応えて感想を書くと、ある事象があってそれについての「正否」を判断しなければならない時、人はその「ある事象」について知っていなければならない
というオーガストさんの主張には、根本的な見落としがある。殺人という行為そのものは無意味なんです。何らかの価値観を導入して、行為をどう解釈するかを定めなければ、意味なんて生まれない。
だから、意味を知っていれば判断が出来る筈
との主張は問題ありませんが、そこに倫理(=価値観)が入り込んでいることに注意しなければなりません。
松永さんも厄介なことに巻き込まれたものだなあ……。
せめてもう少し、体調のいいときならよかったのにね。「元オウム信者」は今でも差別の対象だから、この手の噂話が雑誌に載るだけでも嫌なことが増えると思う。仕事が減る、みたいな具体的な被害がなければいいのだけれど。他人事ながら、けっこう心配。
2ch のスレッドではテサロニケさんへ話が飛び火している。別にきっこさんが悪いわけではないが、何だかもやもやする。
過去の経歴の部分については、野田さんの公表されたとおりです。現在、私は団体に所属していません。
野田さんは雑誌に書いたので、名誉毀損の賠償金額が上昇している昨今、それなりの証拠を積み上げているものと認識してはいた。このところ私がオウムに絡めた話を書いてきたのは、この「結果」を予測していたからで、私なりの援護のつもり。とくに何事もなく平穏な生活が続くなら、私は日本の社会について、少し安心できるのですが……。今回の件に関してたいへんなことが何も起きず、とくに頑張らねばならないようなことの生じないことを祈ります。
メールを出したりしなかったのは、もともとブログで言及しあうだけの関係だから。顔も知らなかったし。声はネットラジオで聞いたけど。
森昭雄氏がここまで行動する動機が何なのか見極めたい。単純に金銭面での報酬がすごいからかな?
そういう発想は、森さんが「批判者はゲーム業界から金を貰ってる」というのと同レベル。狂人は自分が狂っているとは気付かない、という俗説がありますが、ひとつの考え方に固執する人は、他の考え方を理解できない、ということ。
私の推測を端的に記せば、森さんは「子どもたちがおかしくなっている」と思い込んでいる。だから犯人探しをした。そして森さんにはその面白さが理解できない「ゲーム」が目に留まった。「これだ!」と思って研究し、ゲーム脳理論を案出して自己暗示をかけた。そして社会の熱狂的な歓迎を受ける……。もうね、この洗脳は簡単には解けませんよ。
新興宗教の教祖様を詐欺師と決め付ける人が世の中にはしばしばいるのだけれども、私の狭い経験から書けば、教祖様の少なからずは自分の能力を信じています。一般庶民は「天国や地獄、あるいは霊の存在を完全に排除できない」というあたりでバランスしているわけですが、これをひっくり返して、「自分には何の能力もないという可能性は排除できない」というあたりでバランスしているのが教祖様。「100%大丈夫!」と太鼓判を押しながら一抹の不安を感じているときの心理状態を思い出してほしい。
森さんの講演に参加した作家の川端裕人さんが質疑応答でゲーム脳によってキレたり、殺人をおかす少年が増えるとのことだが、実際には森氏が17歳だった1964年に比べて今の少年の殺人は10万人あたりの発生率で比較すると三分の一以下だ。ファミコンの発売された1983年以来、一貫して凶悪犯罪は低水準。とすると、かりにゲーム脳が実在するにしても、殺人などの凶悪事件を「森氏の17歳」の同水準に引き上げるほどの影響はないと安心してよいのか。
と疑義を投げかけても、聴衆の大半はその情報をスルッと聞き流しました。
凶悪な少年犯罪が減っている、というデータは誰にとっても都合のいいもののはず。しかし「不安になりたい」症候群の前には、全てが無力なのか。
川端さんも一連の記事を読む限り、社会的使命感を帯びて戦っています。森さんの片言節句をとらえて云々するなら、川端さんの気負った発言をスルーするのはおかしい。→星海さんのレス返し(2006-03-09)
gori さんが韓国のビザ免除について「これで犯罪者がゾロゾロ入国してくる」という言い方をする人も居たが、実際1年以上も特別措置によるビザ免除状態で犯罪検挙数の推移を見て判断した結果がこうなんだから、ビザの有無が犯罪検挙数とあまり関係なかったという事なんだろう。
と素直に数字を読んでも、コメント欄にビザ免除されるまでは、来日韓国人は大人しくしてる。ビザ免除されると、犯罪予備軍の来日韓国人が大挙して押し寄せてくる。
と韓国人差別が登場する。
京極夏彦さんの「姑獲鳥の夏」のトリックに「アホかー!」と本を壁に投げつけた人は大勢いるでしょうが、私はことあるごとに、この小説を思い出します。この小説は極端を描いているのだけれど、ある意味で、現実の方がもっと極端だったりする。現代の日本人は不幸だ、とかですね。マジかよ、って。
交通事故がどんどん減っていく中で、厳罰化が進む。なぜ? 例えば、こんなところから(→日本の治安悪化神話はいかにつくられたか)。多くの方が、何らおかしさを感じずに「それでいいよ」といってきたことを、ひとつひとつ点検していかなきゃいけない、と思うのだけれど、それもなかなかね……。
ところで最近読んで面白かった「クジラを捕って、考えた」は川端さんの体験・考察記。単行本は1994年刊と古いのだけれど、多くの人にとって新鮮な内容だと思う。お勧めします。
家計簿なんかつけると性格が暗くなっちゃうよ! というすごいアドバイスを某先輩からいただいたことがあります(笑)
社員寮を出て金銭的に厳しくなったので私も家計簿をつけ始めたわけですが、1日平均1万円超の出費があって血の気が引く。まあ、毎日自転車や電子レンジを買うわけもなく、大根だって1日1本ペースで消費するはずもない。そうとわかってはいても、ね。家計簿をつけるのは4月からにしようか、なんて弱気になったりもする。記録しなくたって出費の事実は消えないことはよくわかっているのだけれど。
ともあれ、自炊が外食と比較して断然安いことは理解しました。100円の豆腐400g(注:100g増量パック)を完食するのに4食要るのです。米を3合炊いたら2合は冷凍というペースだし、80円の三つ葉をしおれる前に食べきるのはけっこう至難の技。たまねぎ1個を食べるのに、これほど苦労するとは思わなかった。1食で4分の1以上はなかなか食べられない。毎日のようにたまねぎを使った料理を本から探し出さないといけないのです。
料理はガスを使うと拘束時間が長くなるし後片付けも面倒くさいので、炊飯器と電子レンジに頼りっきり。味噌汁が準備を含めて10分でできたことには軽く感動しました。鍋を使っても10分でできるって? うーん、そうなのかもしれませんけど、私が鍋を使って10分で作った味噌汁はネギが白くて、かじると涙が……。かつて家庭科は90点台を(ほぼ)キープし続け、たいへんな得意科目だったはずなのですが。
これは私が今、お世話になっている本。書店で立ち読みしているだけでもよくわかったのだけれど、写真がきれいなばっかりの本は、料理が好きで慣れている方向け。紙面は地味でも文字の多い本の方が、私のような初心者には向いています。料理をやってみて、いろいろ思うところはあるので、暇なときに備忘録に書き残しておこうと思う。あ、読者に資するような内容じゃないですから、ご期待は無用のこと。個人的なメモです。今はまだ、頭の中でごちゃごちゃ考えている段階。
仕様を策定してみたけれど8年経っても実装困難となっている部分について仕様の方を修正しようというのが CSS2.1 の眼目と私は理解しています。したがって CSS2 からの変更点は実装先行というか、実装状況に対応したものなので、既に草案に対するコメントの受付も終了している段階で大幅な修正があるはずもない。……そう決め付けて、まず問題ないと思います。
CSS はともかく、HTML は今年第1四半期にいろいろ出てくるみたい。W3C の計画はなし崩し的な大幅遅延が恒例なので、あまり信用できないけれど。そもそも CSS2.1 は2004年11月に勧告が公開される予定だったのです。ところが期日を過ぎてからロードマップの書き換えが行われ、年単位での遅延となりました。ちょっとひどすぎると思う。
ていうか! 既に XHTML2.0 の Last Call が予定の2005年12月を3ヶ月も過ぎているのに音沙汰なしでしょ。正直、いったいどうしてそんなに時間がかかるのだか理解できない。2nd draft から3年余、審議時間は十分にあったはずです。
健康食やダイエットなどの風潮に取り残されているから、ではないかな。「天麩羅を食べて健康に!」とみのもんたさんが強力にプッシュすれば万事OKなのかも。低カロリーの天麩羅油はいろいろ出てきたけれど、食べて健康になるとか、天麩羅で痩せるといったレベルには達していないような気がする。
まあ、天丼を売りにした強力なチェーンは思いつかないけれど、ラーメンに中華のデニーズと同等の巨大チェーンがないことの方が不思議といえば不思議。というか、よく考えてみると牛丼とハンバーガーのように寡占市場で巨大な会社がいくつもあるジャンルの方がよほど珍しい。
ところで、どんな業界にどんな会社があるのか、ということを知りたい場合には、業界地図を見るといいです。ふつうの書店に売っている業界地図には大きな会社しか載っていないのですが、逆に地図のない業界には大手企業が存在しないか、極端な寡占状態にあるということ。暇なときに眺めると、結構おもしろいですよ。
業界案内の本は最近、いろいろなものが出ていますが、オバタカズユキさんの著書がいちばん面白いと思います。事典・地図帳より読物がほしい方に最適。網羅性の高い本がほしい方は以下の本などをご検討ください。
森田雄さんのご紹介による。私はコメント欄で沢渡さんが紹介されている evolt.org - Browser Archive しか知りませんでした。evolt.org 版の IE はとんでもないファイルサイズ。思えばセキュリティアップデートのファイルサイズが数MBにもなることがあるわけで、70MBなどと説明されても「そんなものか」と納得していたのですが、Skyzyx 版の IE は軽いですね。この差がよくわからない。
ところで「Web標準の教科書について」を拝見して、落ち着いたら(?)レビューを再開しようかな、と。読んだことがないので何ともいえないんだけど、ユニバーサルHTML/XHTMLで十分なんじゃ?とか不用意な推測をしてしまいます。
とのことですが、「教科書」の方が下流寄り。まあ目次を見ての通りなのですが。
私の中でセーフとアウトの間に明確な断絶はなく、なだらかにつながっています。日記を読んで好感を持つことも、共感することも、ある程度までは悪くない、むしろいいことだと思う。ただ、私の知りたいこと、いいたいことを代弁してくれる存在として過剰な期待を寄せたり、ガンガン感情移入していくことには、危険を感じます。そしてとくに若年の相手に対しては、厳しい制限をつけたい。つまり「程度の問題」なんです。
よい本に出会い、たいへん感銘を受けたとき、ぜひ作者に会ってみたい、もっといろいろ話を聴いてみたい、と思うことがある。これは自然なことだと思う。だから、講演会やサイン会などが開かれているわけです。
とはいえサイン会に足を運んで著者の顔だけ見たって、理解が深まるはずもない。サイン自体は記念品でしかない。講演だって本の内容の繰り返しに過ぎないことが一般的です。わざわざ聴く価値は? そして少人数で会食する機会さえも、積極的な意義は見出しがたい。私はかつて新聞社の編集局長にお会いして一緒に食事したのだけれど、気分の高揚とは裏腹に「よくよく考えてみると話したいことなんてなかった」とその場で気付いた。
サインをもらって嬉しい気持ちはわかる、講演を聴いて充足する感覚もわかる、会食コミュニケーションの濃密さもわかる、だから全否定するつもりはさらさらない。けれども、「会ってどうするんだ?」という問いは、バランスウェイトとして前のめりになる気持ちの反対側に用意しておく必要があると思う。
私はアドバイスなどに関連して、けっこう中学生の日記は読んでいるつもりなんです。アドバイスの際には、基本的に全コンテンツに目を通しますし、リンク先なども一通り拝見しますので。なかなか、これはと思う日記はない。それだけに、id:churchill さんの日記のログをどんどん読んでいったときには、「すごい!」と感激したものです。で、トントーンと「トークショーがあれば行ってみたい」というところまで持ち上げてしまった。
「行きたければ行けばいいじゃない」が常識的な判断なのだと思う。「年齢とか、そんなもので対応を変える方がおかしい」そうかもしれない。ただ、私は、そう思うことができない。だから、「id:churchill さんはすごい書き手だ!」と感激している自分への嫌悪感によって、熱を冷ますことになったわけです。
徳保さんの文が良文でなんだか私こんなブログやってんの切なくなってきた。
なんか騙されているような……。
文章を意図したように読んでもらえないのはいつものことだけれど、今回は相手がたいへん憤慨されているので、2006年3月27日に補足記事を書きました。
本題に入る前にひとつ。
私はサブカルではないし、オタクでもないと思う。私は中学・高校と、いわゆるオタク文化圏やサブカル文化圏の人が周囲に多い世界(文藝部とか美術部とか)にいたんだけど、自分はどちらにも関心を持たなかった。テレビを見ない、映画も観ない、音楽を聴かない、マンガも読まない、服飾にも無関心。じゃあ何をしていたか? まじめに勉強して、水彩画や油絵を描いて、雑誌の編集作業に没頭したり、美術館に行ったり、文化祭の準備を頑張ったりしてた。
校則を破らない、法律も犯さない。冗談みたいな「優等生」をやっていて、それが私にピッタリの生き方だった。朝はきちんと挨拶、家事をよく手伝い、道で困っている人がいれば助け、老人が電車に乗ってくれば席を譲る。今風の若者言葉も使わない。背筋をなるべくきちんと伸ばす。品行方正とは、こういうことだ、みたいな感じを目指していた。進むべき方向性がきちんと示されていて、基準をクリアすれば確実に見返り(注:お金ではない)がある。楽しかったなあ……。
ま、とにかく、私はサブカルとかオタクの人と仲良くなったり、いろいろ観察しながら勉強するのは面白かったけれど、自らその世界に飛び込みたいとは思わなかった。人生は短い。自分の望む生き方をするだけでも1日は短すぎる。中途半端な関心だけで体験取材に踏み切ることはできなかったわけです。
そこにさぁ変に援助交際だの売春だの絡めて憤慨してんのは一部の人じゃん!まるで私と仲良くしてるおっさんが外道、みたいな。仲良くしない俺は硬派、みたいな。私はなんだ…ヤリマンか…。「お前チャー子とヤったのかよ!?」「あいつおっさんと寝るんだぜ!」「うわーみんなーコイツチャーチル子とヤったってよ!」「(教室)ざわざわ…あの子ヤリマンなんだ…ざわざわ」なんだこのショートコント。私はおっさんとおしゃべりはするけど交際はしてない!休日のドライブもしてない!何か別の人と混同しています!
ここに、誤解が凝縮されていると思う。「誤解」という言葉はまずいかな、私の書き方が悪くてそういう印象を与えてしまった、というのが真相に近いのだろうから。
私は id:churchill さんに何か問題があるとも思っていないし、id:churchill さんと仲良くする人を気持ち悪いといいたいのでもない。
社会人になってからは中学生を見かけることもあまりなくなってしまったのだけれど(生活時間帯と行動範囲の関係で)、大学時代には塾講師の仕事を毎夕のように入れていて、のべ100人以上の中学生の面倒をみていた。主任講師として、それなりによく頑張ったつもり。
個別指導塾には成績の悪い子が多い。彼らは「どうせ自分なんか」と最初から諦めモードのことが多い。だから講師たちは「子どもが全然やる気を出さない」という問題に直面する。特効薬は、一回でもいいから、テストでいい点をとること。定期考査で、前回よりいい結果を出すこと。でも、これは無茶な話ではある。やる気を出して頑張ってはじめていい結果がでるのであって、先にいい結果がでるようなことは(滅多に)ない。そこで私たちは、生徒の信頼を獲得するために知恵を絞る。
テレビドラマのような劇的なイベントはふつう、ないのだし、あったとしてもたいてい、ろくな結末を迎えない。だから、淡々とした日常の関係、すなわち授業中の対話の中で努力することになる。基本的には、学科指導と信頼関係の醸成は重なり合っている。いくら怠け癖のある子でも、「じゃあ一緒に頑張ろうね」と水を向ければ、5分や10分はまじめにお勉強に取り組んでくれる。その5分間に、さっきまで解けなかった問題が解けるようになる喜びを与えられるかどうかが講師の力量なのだ。
肝心なことは上記の通りなのだけれど、生徒が「塾に通うのが嫌だ」というと塾を移られてしまう。たいてい教えるのがうまい先生は生徒にも信頼されるが、ダメ押しで雑談も楽しくやれたらいいのは当然のこと。8割くらいの子とは、楽しく談笑できたし、少なくとも強く嫌われはしなかったろうと思っている。
個別指導塾は生徒と講師の距離が近いため、「こんな先生の授業は嫌だ!」とすぐに講師のチェンジを申し出る子もけっこういる一方、「チェンジしたら悪いかな」と思って我慢してしまう子も少なくない。そのため個別指導塾にはペアの改編期がある。で、私の場合、生徒本人の希望で帰ってくる生徒がよくいた。自慢めくけれど、これはそれほどある話じゃない。夏期講習などでは特講担当として私は生徒によく指名された。「先生、なんか面白そうなんだもん」これは嬉しかったなあ。
以上は「おっさんの立場で中学生と仲良くした話」なんだけど、逆に「中学生の立場で大人と仲良くした話」もあります。当然(?)こっちの方が多い。もう書き疲れたので書きませんけど。
で、これだけの分量を費やして何がいいたいのかというと、私と仲良くしてるおっさんが外道
なんてことは思っていないし、私はいわゆる「クネクネ」を批判する一派じゃないということ。ふつうに話して楽しいとか、そういうのはわかるし、「ありえる話」だと思う。
で、結局、何が伝わっていないのかというと、「仲良くする」ことと「転ぶ」ことの違いなのだと思う。
ここを説明するとまたセクハラとかいわれそうなんだけど、必要最小限に書きたい。
おっさんだって性欲ばっかでぐるぐる動くわけじゃないだろ。この人の職場にはたまたまそういう変態ロリコン教師がいたってだけじゃん。
そうじゃない。「転ぶ」といっていきなりそっちへ妄想が進んでしまうのは間を飛ばしすぎてる。援助交際云々のとき、生徒と塾講師の間で、という疑惑なんてなかった。それはありえない、という認識が共有されていた。
私は「魅入られる」のが嫌だったけれど、他の多くの講師はそうではなかった、とも書いたはず。性的関係のことをいっているなら、大半の講師が「絶対にアウトだ」といったはず。だから、そういうことじゃないんだよ。
「転ぶ」ってのは複合的な問題なので難しいのだけれど、簡単に書けば、人を偶像化して過剰に感情移入してしまう、そんな状態をいっているのだと思ってほしい。これは芸能人とファンの関係みたいなもの。偶像が苦しむとファンも苦しんで、喜ぶとファンも喜ぶ。生徒が受験に失敗して先生の方が号泣。……と書くと、それならいいじゃん、っていわれてしまって、私の思うところが伝わらないだろうから、ひとつ例え話をしたい。
「モーヲタ」を蔑む人っているじゃないですか。私にとって「若い子に魅入られる」というのは、そんな感じで嫌なことだったんです。ずっとモーヲタを馬鹿にしてきた人が、新規加入の女の子がたまたま自分が見ている番組に出てきたのを見て、いきなりファンになってしまう、そのときに感じるであろう自己嫌悪を、私は感じたのだ、と。これなら伝わりますか?
塾講師が生徒に、前述したような感情移入をしてしまうのは、ダメなんです。それでは仕事にならないんですよ、じつのところ。生徒が受験に失敗したとき、泣くのは大人の役目じゃない。合格して一緒に喜ぶのはいいですよ、でも落ちて泣くのは絶対に違う。それは、子どもを傷つけるだけ。次にもつながらない。親が泣くのは仕方ない。でも講師が泣くのは、プロ失格なんです。
あとドライブ云々も補足しておくと、ある女子生徒ととても仲のいい先生(女性)がいて、生徒と携帯電話の番号を交換していた、と(就業規則違反)。それで生徒があれこれ、受験の悩みを毎日のように語るのだけれど、だんだん気分が落ち込んできているのがわかった。でも祭日絡みでしばらく授業がない。生徒の健康管理は親の領分で、塾講師がでしゃばることではない。それなのに、彼女は生徒をドライブに連れ出したんです。そのやり方が汚い。車の話をしたんですよ。で、生徒が「乗りたい」といった。
これは恋愛感情ではないです。ただ、過剰な感情移入があって、冷静な判断力が失われている状態。塾にばれたら困るから、生徒は親に嘘をいって家を出た。もしドライブ中に交通事故にでも遭ったらどうなるんです? これは単なる保身じゃなくて、「身の程を知るべきだ」という話でもあるのです。「家族でも恋人でもないあなたが、なぜ親の目を盗んでまで生徒をドライブに連れ出すのですか?」その講師は、この問いに答えられなかった。
生徒があんまり可愛くなってしまうと、自分の弟や妹みたいな気分になってしまう。なんでもしてやりたいと思って軌道を外れる。無事に合格して、生徒が塾をやめていったときに、喪失感で虚脱状態になってしまう。これは、単に「仲がいい」というのとは、一線を画すべきこと。塾講師には、どこか生徒を突き放して考える部分が必要なのです。だから、塾講師の間では、自嘲を込めて「転ぶ」って言い方をしていたんです。
でもそれは昔話。いま私は id:churchill さんの先生じゃないのだから、日記を読んで「魅入られ」たって不都合ないんですよ。でも、私は、嫌だったと。なぜ? っていわれても、わからない。塾講師時代の強迫観念をそのまま引きずっているのかもしれない。でもそんなこと、精神科医じゃないもの、自分ではわからない。「いい大人がモーニング娘。のファンなんて!」という感情と同じような、脳に何らかの過程を経てインプットされてしまった価値観なのだと思う。
「id:churchill トークショー」があったら行ってみたいな、とか思ったし、「id:churchill オフ会」があるなら出てみたいな、とも思った(過去形)。で、私は一緒にカラオケに行くだけの援助交際をしたがるおじさんたちは、何らかの性的欲望があるものとばかり思い込んでいたんだけど、ふと、そうじゃないと気付いた。まあ、勝手にそう思っただけなんだけど。で、ああいうのには絶対なりたくないなー、と思ってたようなことを、ふと気付くと考えていた自分が、嫌になったのです。
ようするに、これは私の問題なんです。すでに何度も繰り返している通り、たいていの人は「それのどこがいけないの?」っていいたくなるでしょう。「読者でファンなんだから、大人が中学生主催のオフ会に出たっていいじゃん」「相手は学生なんだから、多少、おごったっていいじゃん」なんじゃないですか。「そうだよね」と私も思う。思うけど、「嫌だな」と。「嫌だ」という気持ちの方が強い。
あくまでも私の個人的な基準として、それはアウトだと思っているわけ。馬鹿馬鹿しいけど。
今度こそ、大筋で私の書きたかったことが伝わっていることを望みます。
私は、id:churchill さんがどうとかこうとか書きたかったんじゃないのです。id:churchill さんの日記を読んだ自分の中にわいた感情が嫌だった、それだけのメモなんです。「こんな人がいなければ、自分は自分の嫌いな自分にならずにすんだのに」みたいな気分が、たしかに7日の文章には出てました。それは申し訳ないです。ごめんなさい。
私の中でセーフとアウトの間に明確な断絶はなく、なだらかにつながっています。日記を読んで好感を持つことも、共感することも、ある程度までは悪くない、むしろいいことだと思う。ただ、私の知りたいこと、いいたいことを代弁してくれる存在として過剰な期待を寄せたり、ガンガン感情移入していくことには、危険を感じます。そしてとくに若年の相手に対しては、厳しい制限をつけたい。つまり「程度の問題」なんです。
全然、伝わってないじゃん。愕然とした。へいうまが嫌いなら、私は何も悩まなかったわけで……と説明しようとして気付いた。自虐系テキストサイトのスタイルを踏襲しているへいうまで反応する以上、「誤読」を承知で嫌悪の対象を自分にしたかったのかも、と。えーと、この予想が的外れでも気にしないでください。
これね、けっこう面倒くさい話題なんです。id:churchiller は id:churchill さんのサブアカウント。「伸びろ!脳ミソ!」は趣味のお買い物の記録らしい。なんで、その人となりがよくわかるのはメインアカウントの日記「へいうま」(旧称:平成に生まれて)の方。へいうまといえば、以前、テラヤマアニさんがはてなブックマークでフィーチャーして話題になった日記で、加野瀬さんも好意的に紹介してた。ようするに、おじさん受けする女の子。
さて、その id:churchill さんが「80年代に一世を風靡した音楽グループの CD をレンタルしたよ」とサブ日記に書いた。これに対しトニオさんが「これでまたおじさんたちのハートをうまく掴んだね」と慨嘆したところ、言葉の端々に好きな音楽を素直に聴くことへの妨害を感じたアミさんがマジ説教モードで長文を著した……そんな話。
私は迎賓館裏口でへいうまの更新再開を知りましたが、こういうの(=天性の***)にハマるとろくなことがないと思って避けていたのです。なのにアミさんの記事に引っ掛けられてついフラフラと手を伸ばし、案の定、ね。あーあ。
中学生や高校生で日記を書いている人はいくらでもいて、でもその大半は、全然、おじさんやおばさんの注目を集めない。オッサンはいやだよ
は全く本音なのだろうし、自然な振る舞いの結果なのはわかるけど、id:churchill さんは中学生属性を売るのがうますぎる。その雰囲気がヤバげだったから敬して遠ざけていたのに。
昔、佐藤友哉さんの「フリッカー式」がメフィストに投稿されたとき、編集者による匿名選考会で太田克史さんがなんでこの人は僕がこんなに大事に思っているものをこんなふうに無造作にポンッとひっぱってきちゃうんだ!
と怒りをぶちまけたのだけれど、「じゃあ読まなきゃいいじゃん」という話ではない。それでも読んでしまうのだし、高く評価せざるを得ない。太田さんはそんな自分を肯定されましたが、私は忸怩たる思いを拭えない。
佐藤さんの売れなかった頃の本は、みんな読みました。でも、すぐに読んだのは「フリッカー式」と「クリスマス・テロル」だけ。「テロル」を読んで可哀想に思い、書店に本が残っている内に買っておこうと思って「エナメルを塗った魂の比重」と「水没ピアノ」を買ったのだけれど、読んだのは佐藤さんが少し売れるようになってからの話。ひどいよなー。
で、読んでみたら面白いんだもの、我ながら最悪。(説明不足ですが詳細は略す)
id:odakin さんのそうです。自分では認めたくないだろうけどトニオさんはチャーチルさんに恋をしているのです。
というコメントに、苦笑い。続く一文で打ち消しているけれど、じつはこれが正直な感想だったのではないか。しかしトニオさんを評す言葉なら「恋」でいいけど、私を評す言葉は……。
ただ、10日ほど経って私のアタマも冷めたし、ホッとして落ち着きました。時間が解決する問題って、あると思う。逆に、瞬間沸騰みたいな、魔が差す瞬間もあるんだな、とあらためて実感させられました。怖い。(追記 2006-03-17)
しまった。某氏向けにコメントアウトを解除してたんだけど、閉じるの忘れてた(また閉じました)。補足すると、この記事は id:churchill さんがどうとかこうとかいいたいのではなく、読み手としての自分の中にわいた感情の気持ち悪さを書き留めたものなんです。
天性の***ってなに?天性のばいた?売女?サセコ?
という id:churchill さんの言葉は私の意図とかけはなれていて、イジメだと思った。私は「オッサンはいやだよ」は全く本音なのだろうし、自然な振る舞いの結果なのはわかる
と書いているのに。しかし誤解であれ読み手が傷ついたなら、罰を受けて当然なのか。(追記 2006-03-27)
塾で高校受験の生徒を教えていた頃、推薦で合格する子は本当にありがたかったな。私が数学を担当していて、ちっとも成績が伸びず頭を抱えた子がいて、彼女が見事に得意の英語で推薦合格したときには腰が抜けるほど安堵したものです。id:churchill さんは何だかピンときていない様子だけど、推薦で合格したことは数学の先生を少し幸せにしたはずなので、少なくともそれだけの価値はあったんじゃないでしょうか。
リアルだなー。私が思い出したのは高校の修学旅行。旅館の部屋につくと、みんな「爆笑問題はまあまあ」「海砂利はつまんない」とか好き勝手なことをいって時間を潰した。私ひとり家でテレビを見ない子だったので、静かに話を聞いていた。夕食後、部屋に戻ってテレビをつけたらちょうど番組がボキャ天で、私以外の全員が、どんなに面白いネタでも笑わないという苦行に挑戦するハメに。私は彼らのゲームに乗らなかったので、思う存分笑わせていただきました。
id:churchill さんはいろいろ反省の弁を述べていらっしゃるわけですが、私は評論家になったようなつもりで「あの芸人ダメ」とか「あのコンビは笑いをわかってる」とか言
うのは、悪いことではないと思う。素直に楽しむという「自然」を追求し、真剣に改善を志すならば、逆に息苦しくなるに決まっています。日々、お笑いに接していた私のクラスメートは、著名な芸人たちを偉そうに論評せずにはいられなかったのだし、その報いとしての我慢大会だって、少なくとも私という観客に最高のエンターテインメントを提供してくれたのでした(結局 K くんが「プッ」と噴き出して敗者になった)。
あるいは、受け売りはダメ、体験が大事といっても限界はあって、どこかに線を引かざるをえない。そもそも「体験」なんて怪しいものですよ。鼓膜に空気の振動は伝わっていたはずなのに聞こえていない、網膜に光線は届いていたはずなのに見えていない、逆に聞こえないはずの音が聞こえ、見えないはずのものが見える、あるべき情動が生まれず、なかったはずの感情が湧き上がる。
ま、いいじゃん、受け売りで。開き直りといわれても、所詮は受け売りと自覚していれば、エンジンブレーキみたいなものがかかるんじゃないですかね。
こちらは治らなかった病気の記録? ふと思ったんだけど、吉田アミさんこそ、id:churchill 的な29歳だよなー。もちろん「はてな内での立ち位置」みたいな、ごく狭い観点において、ですけど。(関連:文体が似ているような気がする。)
私は、絵文録ことのはの意匠はあまり好みでない。いまひとつ、読みやすくないように思う。
ただ、私もそれなりにいろいろなサイトを見てきて、多くの管理人さんと簡単なやり取りなどしてきて、つくづく実感するようになったことがあります。私からみて「見づらいサイト」も、作者は「これがいい」と思ってそうしているのですね。文字を点滅させたり、スクロールさせたり。明度差の小さい配色、派手×派手の色づかい。すべて作者の美意識の発露であって、何の悪意もない。
そうなってくると、落ち着いた配色やレイアウトを良しとする私の感覚にどれほどの正当性があるのか、怪しい。私は私の主観的な判断基準においてアドバイスなどしたりするわけですが、頭ごなしの決め付けは蛮勇なしにはできない。なので、基本的に「私はこう思います」と書くよう、徐々に変化しました。
知識と経験が直感に与える影響は小さくないのではないか。多くを見、そして学んできたデザイナーが整った意匠を志向するのは、故なきことではないと思う。他方、そのデザインを利用する人々の大半はずぶの素人なのであり、端正なデザインにつまらなさを感じる人の少なくないことが予想されます。
ヤプログや携帯電話からの利用を基本とするタイプのブログサービスのテンプレートには「こんな派手で文章の読みにくいもの、誰が使うの?」と疑問に感じるようなデザインがたくさんあるわけですが、実際、それを見てビビッとくる人がいる。たまに「公式テンプレートはもう少しよく考えて作ってほしい」なんて怒っている人がいるわけですが、メイクボックスをひっくり返したようなデザイン要素を、高度な技術で整理し、まとめ上げ、一定の水準をクリアしたデザイナーたちは、いい仕事をしているといっていいのではないか。
……というようなことを、思った。えっけんさんはことのはのデザインが素晴らしいといい、真琴さんはそうでもないよ、という。私はその真琴さんのブログについて、余計な情報が多すぎると感じている。そんな私の好みを反映した CSSthink.css も、しばしば酷評されます。ぐるぐる。
自分が好きな文章を書く人が、自分と近いデザインセンスを持っているとは限らない。えっけんさんも真琴さんのようにユーザスタイルシートをバリバリ使いこなすといいのではないかと思います。
よく解からないので訊く。
(中略)
「人間なんて、こんなものですよ。」と認識すると、進歩はそこで止まってしまうと考えるのが普通──常識と言ってもよいけれども、そこから一歩でも二歩でも前進するための原動力は何ですか?
わかりません。
徳保さんの矛盾は ここにある。 一歩でも二歩でも前進しようとするとき、人間は「こんなもの」とは思っていない。 自分の出来る(手の届く)目標を達成したところで達成感はない。 満足感ならあるかも知れない。 しかし、不可能と思えることに挑戦するから全身に力が漲るし、達成出来れば幸せを感じることが出来ます。 仮に達成出来なかったとしても、高い目標に真摯に向き合ったことは自信に繋がる。 次の挑戦の原動力にもなります。
多くの場合、諦めると前進も止まります。けれども、何ひとつ前進しなくなる、ただ朽ちていく、というわけでもないな、という実感があります。だから、頑張るのは「無意識」にお任せしていいのではないか。意識的な精神のコントロールは諦観側に寄せ、自己を肯定し、悩みを減らしていい。
別に、「志」はあってもなくてもいいと思うんだな……。
トリノオリンピックで荒川さんが金メダルを獲りましたが、子供たちが荒川さんのようになりたいという目標を持つことは大事だと思う。 目標と言うより夢かも知れませんが、最初から結果を重視して夢を潰す「人間なんて、こんなものですよ」は受け容れ難い。 というより理想を掲げることを否定すると、人間は一歩も前進しないはず。
このあたり、三宅さんと意見の食い違うところですね。実際、私は10年くらい絵を描いていたけれど、「いくら描いても高が知れてるだろうな」とは思ってた。それでも、それなりに上達していったのだし、賞もたくさんいただいたし、他に関心が移るまで、この趣味を放棄することもなかった。結局はやめてしまうのだけれど、少なくとも「どうせ俺なんかこの程度なんだから」という理由で放り出したわけじゃないのですね。
「ひょっとしたら、ある日突然、絵の神様が降りてくるかも!?」という期待みたいなものを完全に排除していたわけじゃない。ファンタジーはあっていいと思う。けれども、「ま、誰もが絵で食っていけるわけじゃなし」という諦観があったればこそ、私は虚しさを感じなかった。
何かしらの見返りを期待しているから、厳しい現実に打ちのめされるのです。じつは人間は、見返りなしでも頑張れるものを持っているのではないか。そういうものだけ選んで取り組んでいけばいいのではないか。
「理想と現実」ということをよくいいますが、上の仮想としての「理想」と同様に、下の仮想としての「諦観」だって、もう少し注目されていいのではないかと私は思います。現実には「奇跡」も起きるし、「幸運」だってある。報われる努力も時々ある。だから私のいう「諦観」は現実とは違う。物理的な損害についてはリスク管理の大切さが説かれる一方、精神的コストは安直に軽く見積もられているきらいがある。
いろいろ書きましたけれども、私は「理想」の大切さをいくら説いても足りないように、「諦観」の大切さだって耳にたこができてもまだいい続ける必要があると思っているのです。私の言説だけを取り出せば「理想」を語る言葉が極端に少なく、「諦観」を掲げる発言が突出しています。しかし現代日本社会では、建前ベースでは「理想」偏重なので、私は対抗措置として「諦観」偏重路線を前面に押し出しているのです。
高校生の意識調査などを見れば、本音ベースでは若年層に「諦観」が浸透しつつあるようです。しかし新聞の社説が「それでいいよ」とは、まだいえない。そこまできていない。私はまだまだ「諦観」の布教を頑張るつもりです。
この説明をするのも何度目だかわかりませんが、私のいうことや書くことが天邪鬼なのは、みんなと同じ意見なら、わざわざ自分が声を上げる必要を感じないからです。私の性格の本質は「面倒くさがり」だと自己分析しています。天邪鬼といわれている人の少なからずが、じつは私のような人間なのかもしれない。
ちなみに私の場合、選挙では当選者に票を投じていることが多いし、昔の学級会などを思い出しても、手を挙げて発言したときには少数派、黙っていたときには多数派に与していたことが多い。ただし注意すべきは、「多数派の中の少数派」となる状況があることで、いわゆる「サイレントマジョリティーの意向を忖度する」タイプの言論をするのがこのケース。
授業が休み時間に食い込む。でもまじめ(?)な生徒が多くて、みなじっと我慢している。私が「先生、今日はここで終わりにしませんか?」と声を上げる。みたいな。
引っ越しました。四畳半の部屋なのに荷造り6時間は参った。あと蒲団や家電って、荷物にしてみると嵩張るね。
しかし何より強く思ったことは、もっとお金を稼いで広い家に暮らすか、本を処分するかしないとダメだということ。分相応の生活をするなら、書籍を溜め込んではいけない。既に処分した600冊に加え、さらに400冊ほど処分してスッキリしたい。
あと、これは予想はしていたことなのだけれど、このところしばらく兆候の出ていた喘息が、一挙に悪化。これほどきついのは久々。横になると「このまま眠ったら呼吸に疲れて死ぬんじゃないか」と思うくらい。それなのに、起き上がると何故か回復してしまう。仕事には差し支えない。なんでだー! かといって眠らなければ倒れるわけで。
月曜日になったので、定時に帰って医者にかかるつもり。豊島区にはたくさん病院があるので、選ぶのに困るな。
体を起こしている分には、寒い中を歩いても問題ない。走ると途端にアウトなので、よく注意しなければならない。走ることができないと、間の前でバスが走り去るのをむざむざ見送る他なく、たいへん悔しい思いをする。祖父母の気持ちが少しだけわかる気がする。