スーパーロボット対戦というゲームは、私も機会があって遊んでみたことがあります。
20時間くらいゲームを進めたステージで、絶体絶命のピンチに陥った状況で家庭内ルールによる「はい、今日のテレビゲームはそこまで」の宣告が下り、セーブ。
あ、しまった! と思ったけど、もはや後の祭り。ゲームを何度再開しても、あっという間に全滅。セーブ時点まで戻されてしまう。それでやる気をなくしました。たしか弟は最後まで何とかたどりついたんじゃなかったかな。
自称/他称「団塊の世代」が妙に拡散しているように、「二極化」も変な使われ方をしているように思う。
何となく思うこと。
もし、ある日突然に勤務先が粉飾決算の疑惑をかけられたとして、「そういうこともあるかも知れないね」と全く思わない人がいるのかね。
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なんて記述、画像の削除が面倒+対応が遅い、画像への直リンク、などは三者共通の問題。というわけで、je-pu-pu サムネイルだけがなぜ叩かれるのか、よくわからない。
ここで他称モヒカン族、自称(?)メタモヒカン族である otsune さんの感想にリンク。
やっぱりこうきたか。以下は otsune さんの記事の感想など。
法的にNGな事業者に対して、クレームをつける自由もつけない自由も権利者は持っている。「Googleを見逃しているんなら自分も見逃せ。一貫していないから変だ」というのは通用しない。
何をもって通用しない
といっているのかはわからないが、変だ
と思うのは当然ではないか。「あなたの主張は変なので却下」といっても業者の方が法的にアウトなので負けてしまう。しかし「なぜもっと大規模に悪事を実行している連中が許されるのか」との疑問はあっていい。答える義務はないけれど。
そもそもje-pu-puに限らず、他のどんなロボットも公開した瞬間からアクセスされる可能性は有る。ロボットへのアクセスを拒否する意思が有るのであれば、すぐに設定する「自由」は有る。「気が付けないからダメ」というのは通用しない。
この通用しない
もよくわからない。おそらく、たいていのロボットは気にならないが、ごく僅かな事例のみ気になる、ということだと思う。一貫していないから変だ
が通用しないなら、特定のロボットにだけ「事前に巡回の可否を訊ねよ」と要求するのだってOKだろう。ロボットによる巡回には法的な問題がないので、口調は偉そうでも「お願い」に過ぎないのだし。
昔からいっていることなんだけど、なぜか相手が個人だったり、中小企業だったりすると、この手の問題が燃え上がりやすいという印象がある。正直、「被害者」の主張は、「je-pu-pu サムネイルはムカつく」という第一印象から出発して、後から叩くポイントを探してきただけのような感じがする。被害感情が全てで、批判の言葉は嫌いな相手を叩き潰すための道具に過ぎない(決め付け)。
「そんなに嫌なら、お勉強して対処したら? バカはこれからも「被害」に遭うだろうけど、あなたはそれで一抜けできるじゃない」といったアドバイスが聞き流されるのは、根本的に、そういった問題じゃないからだろう。
私が何をいってもどうせ「被害者」は誰も聞く耳をもたないだろうし、放言してお終いにしとこ。こんなもの、気にする側の心の問題でしかない。Google 画像検索は「別にいいや」と思っているわけで、だったら je-pu-pu サムネイルなんて、もっとどうでもいいんじゃないかと。こんな零細サービスに目くじら立てて、バカみたい。自分の怒りに素直になるのが今風の生き方なんだろうね、と他人事のように書いておく。
泉あいさん、これだけテープ起こしするのはたいへんだったろうな。
松永さんはゲームのルールをよくご存知で、どうすれば「上がり」になるかもわかっていらっしゃる。そして、それが物理的に難しいことでないことも認識されている。大勢の人がいろいろなことをいっているのだけれども、何も全員のあらゆる要求に応える必要はない。そのことは、既に「上がり」となった人のたどった道を見れば明らかなのですね。
にもかかわらず、松永さんはこうおっしゃる。
松永 :全て否定しろということでしょ?「マインドコントロールされていました。アイツらに騙されてました。だから出てきました」と、私はそういう言い方ができないから。それは嘘だからね、流石にね。自分で好き好んで入って、でもそういう事件を起こすなんてことは予想してなくて、多少評判悪いってのは確かにあったけども、いろいろ言われるものだしなみたいな。
結局、自分に嘘をつく方が、いじめられるよりつらいのだ、と。思い悩んで死のうと思った話なども出てくる。嘘をついていじめを終らせるより死ぬ方が楽なら、これはもう仕方のないことなのだろう。
私はパナウェーブいじめもオウム信者いじめも「よくない」と主張してきました(「気持ち悪い」「不安だ」というだけで様々なレベルの攻撃をするべきではない)が、それで世の中がどう変わるものでもない。その意味で、「仕方ない」と。
私は R30 さんの主張に共感します。BigBang さんは、何でも個別に考えて、それぞれに全然違う結論を与えることを是とされるようですね。その非常に恣意的な判断の根拠は、素朴な「常識」即ち「場を支配する多数派の価値観」。直接民主主義が社会の理想像というわけか。
私は個別の事象に対する大衆の判断を信じていない。「常識」側に立つ連中は、すぐに「非常識」を脅迫するのだもの。「社会的に抹殺されるか、こちらの価値観を受け入れるか、二者択一だ」というわけ。議会制民主主義のいいところは、少数派も「国民に選ばれた存在」として尊重されることだと思う。
民主主義社会で、多数派の決めたルールに従うことと、自説を護持することは矛盾しない。採決は暫定的な結論を出しますが、意見対立はその後も続く。元日銀審議委員の中原伸之さんが委員会で何度1対8で自説を否定されても、粘り強く金融緩和を主張し続けたように。世界はあまりに複雑なので、直接民主主義では事実上、多数派の横暴・少数派の排撃という形でしか意見を集約できない、と私は認識しています。間接民主主義は、選挙といった「飛躍」により状況を整理し、その先の議論をいくらかでも理想的なものとする知恵です。
「議会制民主主義」とは、紛れもなく「多数をもって正義とする」政治制度なのである。
とのご意見には、賛同しません。法治主義の民主主義社会は、多数派の主張をルールとして(当面)選択していく仕組みであり、多数派を「正義」とする仕組みではない、と私は認識しています。だからこそ現時点の少数派の主張にも(相対的な)「正義」はあることは否定されないし、今日の少数派は明日の多数派かもしれず、ルールは常に改定されうる。
……けれども、議会などと異なり、井戸端会議では「場を支配する多数派」の主張を(唯一無二の)「正義」と同一視する人が少なくない。なかなか民主主義の前提とする世界観は広まらないものだな、と。学級会で文化祭の出し物がお化け屋敷に決まったとする。反対者は、嫌々参加することになるが、役割分担をこなす段階まではルールだから守る他ない。ところが多数派はすぐに「不機嫌な表情をするのはやめろよ。もう決まったことなんだからさ」なんていいだす。そんなことまで、ルールにあるのか。ないだろう、と。ルールと価値観を混同しているから、多数決の勝利をどんどん拡大解釈してしまうのです。
少なくともこの数年、この人物をアルファブロガーとして奉じなければならなかった、この国のブロゴスフィアの悲劇を今心より嘆く。
なんて BigBang さんはおっしゃるわけですが、例えばここに私のような R30 さんの主張に賛同する者がいるわけで、少数派にだって代表がいていいと私は思うわけです。非常識な主張をする人間がわずか数万人の支持を得るだけでこの国のブロゴスフィアの悲劇
なんていいだす BigBang さんの感覚にはついていけない。
またことのは問題を「常識の圧制」として論じないとすれば、何を議論の基準にしたら良いのか。
とのことですが、私なりの落としどころは、「多数派といえどもルール抜きの圧制は許されない。だってあなたも法治主義を是とされているのでしょう?」といったあたり。そしてルールの制定に一定のハードルが設けられているところに、この社会システムの妙味があると思う。
ざっと読んだが、よくわからない。どうせ失業率は5%かそこらなんだから、心配しないでもみんなどこかに入社できる。ていうか、企業側だって、(就職を希望する人の)95%を採用しなきゃ人手が足りない。むしろこっちの方がつらいよね。だから就職を希望する人は「君なら喜んで採用するよ!」という会社を探せばいいだけの話で、最も簡単な方法は高望みをやめること。そうはいっても、なかなかそれが難しいので、書類だけで落とされたりするのだろう。で、数打っている間に、実力ちょい上のところに滑り込むという算段、というか結果的にそうなる。運がよければ。
関係ないけど、私が就職した頃は就職氷河期とかいわれていたのに、入社してから同期の人に聞いたら、きちんと SPI の問題集を買って勉強などしていたのは数人だけだったので驚いた。「いちおう、うちの会社もペーパー試験あったじゃない」「全然できなかったけど、友達も全然できないっていってたし」つまり低いところで馴れ合っている、と。何社落ちても SPI など勉強する気はなかったのだそうで、それで就職氷河期もあったものじゃないだろう、と思った。
それが一人二人ならともかく、過半なのだから情けない。一部の人は、勉強するまでもなく楽勝だった、という。ところが、入社後の漢字テストは私がダントツの成績。「楽勝」の基準が低かっただけなのか。ともあれ、同期の出身校のレベルはバラエティに富んでいる。また、私が一番「こいつすげーなー」と思った人は、出身校のレベルでいうと真ん中くらいだった。(参考)
面接の練習さえ全くしない、ぶっつけ本番だったという人も多いのだが、入社後の活躍では、私など中の下(辞めなかった分、会社にとって最悪ではないだろう)。面接官は偉いものだ。理系企業だけに、昔から縁のある大学の教授推薦は有効なのだけれど、先生も無理筋の生徒を送り込んでくることはない。さすがにいい線を突いている。
オバタカズユキさんの「何のために働くか」「何の為のニュース」は学生時代に何度か読み返した本。不況が続く中、大企業に入社したってしょうがない、なんて嘘だ、といった内容。今にして思えば、それほど実証的でもないし、何せ軽い本だったのだけれど、とかく印象に残っている。以来、今でもオバタさんはひいきのライター。
そのオバタさんが書く就職活動用情報書籍が「会社図鑑」で、基本的に有名企業しか載っていない。私はこの本に載っているような会社には通らなかったけれど、まあそれも当然だろうなあ、と学生時代から納得はしていたことを思い出す。高校受験の受験校選びでもそうなのだけれど、本まで買ってまじめに進路研究に取り組むのは、基本的には成績上位グループ。下位グループの人は、パンフレットを眺めたりするだけ。面接で志望動機を聞かれて口ごもるのも当然ではある。
私が就職したのは、それでも大企業ではあった。引越しのときにアパートの内見のため不動産屋の担当者と電車で移動などしながら話をしたのだけれど、やはり世の中、ひどい待遇の会社は珍しくないな、と。まあ、とくに考えがないなら、大企業を目指すに越したことはない。
それにしても、いずれ景気浮揚に成功すれば、もっともっと失業率は下がる。これから地獄なのは採用する側だ。というか、就職氷河期ということでここ数年、中小企業は勇んで幹部候補生の採用を狙ったというが、あまりいい結果になったという話を聞かないな。そりゃそうだろう、と、私などは思わないでもない。
書く際に気をつけたのは、俺が普段書いている感じをできるだけ削ることです。otsuneさんに代表されるモヒカンの人たちや、徳保さんの書き方を参考にしたのですが、書いている内に俺自身が持っている天然の煽り体質がどんどん出てきてしまって、最後の方は冷静さを失い、かなり津田大介をDISる内容になってしまいました。その点はちょっと反省しています。
……。
別にレコード会社がこの世からなくなろうが、それに代わる何かが現れて、クリエイターとユーザーに今以上の利益がもたらされるなら、僕ら(僕らの時代らしいので例によって僕らっていいます)ユーザーには何の問題もない。レコード会社が本当に生き残りたいなら、ユーザーとクリエイターの利益を考えてバランスを取るしかないのに、そういう気配がほとんど見えない。だったらもういっそ潰れてくださいと。
将来のことはわからないけれど、現在の私には、以前と異なり、アニさんの主張に反論したいという意欲があまりない。消費者の大好きな価格破壊が何を引き起こすか、どうぞ好きなだけ実験してください、と投げやりな気分。
成熟商品の価格破壊は市場を縮小する(参考)。半額セールだからといって2倍買うわけではない。ここ数年で、韓国の音楽業界は市場規模が4分の1になってしまったという。
書籍の価格(2006-04-18)に書いたとおり、価格破壊は従来型の勝ち組を絞り込むことになる。思えば、レコードとラジオこそ音楽史上最大の価格破壊だった。音楽の主用途だった BGM は一流のプロフェッショナルの音を再生する仕組みに席巻され、生演奏は庶民の生活から消えました。音楽で生きることが難しくなったのは、そう古い話ではない。一流の音楽を安価に享受できる世界は素晴らしい。しかしその代償は、決して小さくはなかった。
新著をハードカバーと新書と文庫の3形態で同時発売すればいいじゃないか、と森博嗣さんは仰った。作品や読者のメリット
を考えよ、とも。売れっ子作家らしい発言。音楽家にとって、本当に現在のレコード会社が単なる中間搾取者ならば、さっさと飛び出すだろう。著名な漫画家や編集者がコアミックスを設立したように。著名な芸能人が独立して事務所を構えるように。ベテラン医師が総合病院を出て開業医となるように。……こうした事例をみれば、本当に「搾取」されているのは一部の勝ち組だけとわかる。
けれど私も、スーパーの出店を歓迎してシャッター通りとなった旧来の商店街を忘れ、安価な輸入食品に感激して食物自給率の低下を招いた一人。
最も文化の発展に寄与する
のは、どのような選択なのか。消費者の権利を拡大していくと、(プロ)クリエーターの淘汰が進みます。それでも1億人が低コストで音楽に満ち溢れた生活を送れるなら、その方が大切なのか? レコード業界を不用意に破壊した先に、私は明るい展望を描けないが……。
そして、言葉は返ってくる。
Winny の挑戦は夢破れました。そして大勢が悲しみました。では Naver と Yahoo! の挑戦はいかに? 今、著作権の侵害を不安視するあまり、スクラップ機能や転載機能そのものを殺そうとする人が多い。P2P 自体は素晴らしい技術だといい、「不安」だけで未来を潰そうとする勢力を批判していたのは誰なのか? 私はここで、「どーだ、
福祉の喫茶店からも著作権料を徴収する JASRAC の気持ちがわかったろう」とはいいたくありません。
個人的には、とりあえず最初から無料の領域でこそ著作権の縛りをユルユルにして、本当にそれで文化が発展するのかどうか実験するべきだと思っている。ところが現状は逆なわけだ。他人の飯種を奪ってまで、危うい挑戦を押し付けようとしている。消費者なんてそんなものだといってもいいけれど、あんまりなんじゃないのかね。
この部分は毎回徳保さんと対立する部分なのだけど、俺は決してユルユルは望んでませんよ。靴にしてもPCゲーにしてもクリエイターに最も利益の大きい購入方法を取るという実践をしてる。自分は卸業者なのに 笑
アニメのこと(2004-01-19)や任天堂次世代機 コードネーム『Revolution』(2005-05-18)などで(適切な)対価を払いたい
と繰り返し表明されていることは承知してます。その一方で、アニさんが適切と考える範囲・手法で画像や映像などを利用しても法に触れてしまうケースがあるが、大切なのは世界を豊かにすることだ、とも主張されていますよね。私のいうユルユルは、著作権のこと(2004-11-19)で穴がありまくり
とアニさんが書いたニュアンスに近いと思う。
「わざわざ自分のWebサイトまで閲覧しにきてほしい」という感覚が本能的にあるのは理解できる。また「カウンターが回らない」という理由を上げる人も居るだろう。
しかし本当に重要なのは「自分のエントリーを記憶に留めてくれる事」だ。
これは相当に感覚的な主張だと思った。何が重要かなんて、客観的に決められるものか。にもかかわらず、対立する意見は本能に従った感覚
であり、自説は合理的
としている。けれども、その合理性は otsune さんが主観に基づいて設定したルールの中での合理性に過ぎない。
「自分の記事をわざわざサイトまで読みにきてくれる人がたくさんいること」こそが重要なのであって、「記事が単に大勢に読まれること」なんてのは無意味だ、少なくとも自分にとってはどうでもいいよ、という主張は十分にありうる。記事だけじゃなくてサイト全体のデザインを見てほしいといった意見はよく聞く。文章や、せいぜい文字装飾だけ伝わればいい、という人ばかりではない。
それに、RSS リーダーの利用率はまだ低い。現に RSS など出さなくとも巨大なアクセスを誇るサイトは無数にあって、「私」が「こんなサイトは読まない!」と思う感情を一般化することは難しい。その程度のことなのだから、脅迫めいた言辞を使うのは(あえていうなら)詐欺的だと思う。
モヒカン宣言などを読む限り、そもそもモヒカン族(またはその類縁)とは、一定の倫理規範を守る(そしてある種の倫理規範を無視する)集団なのであって、彼らが「感覚的な主張」と無縁なわけではない。
実際、モヒカン宣言のルールを全部守っても、「RSS に全文を入れない」という主張を導くことは十分に可能。にもかかわらず、そのような自称/他称モヒカン族がいないのは面白い。このあたりに、otsune さんの主張もまた感覚に基づくものに過ぎないことに気づかない読者が多い秘密があるように思った。
これも不思議な主張。伝統回帰色のある教育基本法改正に反対するのは民主主義社会の一員として当然なのに、なぜみなそう思わないのか? というのだ。これは id:t_kei さんの常識が「常識」でないからなのだけれど、そんなこと、いわれなくても気付きそうなもの。
社会の分断を訴えている割に、例えば多くの国民が多党制より二大政党を志向していることなどについては、考慮の外となっている。そして現代の日本社会においては、他者の生活空間を侵犯しないことこそが、マジョリティの属性
なら、なぜ下世話な教育基本法改正が行われようとしているのか。全編こんな調子なので、筆者が多様な価値観の存在を、いいと思っているのか、悪いと思っているのかよくわからない。
断:怒りを忘れた日本の学生たち(2006-04-22)という新聞記事がある。
フランスでは「若者雇用制度」が学生たちの大規模な反対運動で廃止になった。運動が燃え上がるや、一九六八年の学生運動の連想から、フランスの学生は大したもんだが、日本の学生は怒りを忘れている、という単細胞反体制主義者の声が聞こえるようになった。
若者雇用制度が若者に不利か有利かは単純には言えない。日本でも女子深夜勤務禁止の廃止が女子労働者の就労機会を増やし労働環境を改善したのだ。もっとも、長い目で見て、これが良いことかどうかは分からないが。
思考停止の単細胞反体制主義者には困ったものである。と思っているところへ、インドネシアでも若者たちが怒りを表明して過激な該当行動を展開し始めたというニュースが報じられた。男性誌「プレイボーイ」のインドネシア語版の創刊に怒ったイスラム過激派の青年たちが、十二日、出版社の社屋前で抗議集会を開き、投石などで警官隊との衝突も起きている。
日本の出版社はインドネシア語版「プレイボーイ」(セミヌード止まり)の十倍はイヤラシイ雑誌を出しているのに、日本の学生たちはなぜ怒りの抗議デモをしないのだろうか―。という怒りを、単細胞反体制主義者はなぜ表明しないのだろうか。
そういえば一九九〇年九月にはインドで大規模な反政府運動が起き、抗議の焼身自殺者まで出た。運動の要求は「差別廃止反対」であった。命がけで差別を要求する学生たちの怒りに連帯しようという声は、日本ではなぜか上がらなかった。
日本の学生たちが怒りを忘れていることはホントに悪いことなんでしょうか、反体制主義者様。(評論家・呉智英)
呉さんの物言いは皮肉が過ぎると思うけれど、どうも id:t_kei さんは、単に伝統回帰が嫌なだけなのではないかと。現行の教育基本法も、読んでみると相当に恣意的な価値観の押し付けがある。まあ「恣意的」かどうかの判断自体が主観的なのだが。
「私は**が正しいと考える」と主張するのはいい。しかしその主張に客観性がないことを自ら認識することは、なかなか難しいな、と。ついつい、ここまでは「常識」でしょ、とやってしまう。ある程度、そういっていかないと話が進まないのではあるが。
というか、情報もないのに先入観に基づく憶測でガンガン盛り上がり、多少の否定的情報は「信じられない」として受け入れない、そして(常識的には)決定的といってよい否定情報がもたらされると、ようやく沈静化する。そのとき誰も何ら反省の弁を口にすることなく、「そもそも疑われる奴の日頃の行いがいけないんだ」と愚痴る。それがブロゴスフィアの現状なのであれば、改善の余地は十分にあると私は思う。
典型的な事例だから何度も例に挙げるけれど、avex 社長の家族に対する殺害予告事件は、自作自演の線で盛り上がった。犯人は2ちゃんねらで、逮捕もされたのだけれど、あらぬ疑いをかけていた人の中で、きちんと謝罪した名無しさんを私は知らない。ハンドルネームで活躍されている方でさえ、頬かむりしている人が少なくないし、明確な証拠もなく書きたてた疑惑ときちんとつりあう謝罪をなさった方はたいへん少ない。
私は essa さんは立派な方だと思っているが、その essa さんでさえ、ホリエモン偽メール事件に関して「堀」「掘」誤報の件検証にあるとおり、若干の反省点がありますが、それ以外には、プロセスとしては問題が無かったというのが、今回の件についての私の結論
と総括されている。現実問題、こんなものだろうな、と思う一方で、釈然としないのも正直なところ。
で、例えば件の2ちゃんねらが、かつて文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたという報道が誤報であった教科書検定誤報事件について、訂正や謝罪をろくに出さなかった報道機関を口を極めて罵る。産経新聞が南京事件の犠牲者数には厳格な検証を求めるくせに、天安門事件については不正確な報道をし続けている、文革の犠牲者数を最大限に見積もって当然という顔をしている、そのあたりと同じく奇妙だ。
essa さんは、新しい(?)価値観に共感するところが大きいようなのだけれど、私はどうも……。報道を信じないことは、とりあえずよしとして、そういう自分が信じているのは何なのか、そこが気になるわけです。無根拠な思い込みを経験的直感として誉めそやすのは、怖い。漠然とした不信
は、漠然と表明されるべきだと私は思う。
陰謀論や憶測が戦わされているときに一番盛り上がり、事実が出たら白けてしまう、これが悪癖でなくて何なのか、と。
もっと速くなっていいと思うのは実際のところ。関係ないけど、来年発売の Excel2007 ではシートの最大サイズが100万行/1万6384列に拡張されるそうで、とても嬉しい。これまでは実験データをいったん処理しないと Excel に読み込めず、悲しかった。まあ、100万行といわず1億行くらいまで許してほしいのが本音なのだけれど、重たくて処理できそうにない。……あ、話がつながった。
結論、(現状のパーソナルユースの)コンピュータは、非力過ぎて使えない!
真鍋かをりさんも中川翔子さんも、よそに全然言及しない。リンクさえほとんどせず、トラックバックも滅多に打たない。人気ブロガーとアルファブロガーは違う、ということなのか。
あとブロゴスフィアってのは、どこにあるのかなあ、と思う。以前も書いたことなんだけど、零細ブログにはあまり存在感がない。その昔、ネガティブアクセス剛掌波とかいう言葉があった時代には、リンク先の掲示板がリンクした側の信者に荒らされるという現象がないではなかったけど、やっぱりそれほど明確ではなかった。
梅田望夫さんは、幅広く状況を捉えて、意識的にスタイルや素材を選択して主張を組み立てていらっしゃる。以前、私がつまらない言及をした際も、結局、自分はお釈迦様のてのひらの上を飛び回る羽虫に過ぎないのだなあ、と思い知らされた気がしたものです。
Google といえば、saito-kazuo さんが Google Calendar の使い方を公開して大人気だそうで、他人事ながら嬉しい。私自身はスケジュール管理ソフトは使ったことがなく、そもそも紙のカレンダーも数年間、無用で過ごしておりますが……。
ところで shuu さんが歯磨きを嫌がるそうですが、歯科衛生士の解説によると、たいていの子どもが嫌がるそうなのでご心配なく。あと、「何かを我慢したら誉める」ことが(年齢に関係なく)脳の健康にいい(らしい)という話があります。「よいことをしたときに誉める」のは、気をつけていれば何とか。でも「何かを我慢したときに誉める」のは、誉め続けるのが非常に難しく、なかなか難題だと思っています。
ときどき、冤罪の可能性があるから死刑はダメだ、という主張がありますが、それはおかしい。僅かでも疑問があれば死刑を回避する、という運用規定の変更でよいはず。なぜなら、公衆の面前で、殺意を明らかにして行為に及ぶケースが世の中にはあるからです。冤罪の可能性が全くない場合のために、死刑はあっていい。冤罪は死刑を廃止する理由にはならない。
けれども、「疑わしきは被告の利益に」といいながら、疑わしいのに有罪判決が出てしまう現状は、どうしようもないのかもしれない。だから仕方なく、ということであれば、わかる気もする。私は模擬法廷で裁判員役を務めたことがあるのだけれど、やはりその場でも、疑わしいまま被告は有罪となってしまいました。これはつらい、と思ったものです。
とはいうものの。原則がないがしろにされる理由は、わかるんだな……。現状、これほど踏み込んでいても、「まだ足りない」と言い募る人々の気持ちはよく理解できます。
「評決のとき」は唖然とした作品。結末は明かせませんが、日本の法も、次第に、あのような結論を可能とする方向へ変化していくのでしょうか。
検察は国民の「空気」を読んだだけなのだろう。黒幕の政治家を逮捕すべし、厳罰に処すべし、という国民の圧力に負けた。実行犯は明らかなので、有罪にできた。では、裏金作りを指示したのは誰か? ことによると、上意を忖度した会計責任者の個人犯罪なのかもしれないのだ。指示があったとしても、それは口頭によるもので、物証は全くない。
実行犯らの証言により、村岡兼造さんが献金に領収書を出さないよう指示した黒幕として名指しされ、起訴された。原理的には疑わしきは罰せずで無罪なのだが、それを言い出すと、世の中、無罪だらけになってしまう。それでいいと断言できる人は珍しいので、疑わしさの程度が争われることになる。検察が「国民の期待に応える」ためには、実行犯の証言だけで政治家を起訴する他なかった。
裁判長は、橋本龍太郎さんこそが真犯人だと推理し、村岡さんは生贄に差し出されたのだと考えた。しかしながら、検察が「橋本さんが事件の黒幕です」と起訴しても、やっぱり判決は無罪だったろう。実行犯の証言は「村岡さんに指示されました。橋本さんじゃありません」なのだから。橋本さんを起訴するのは無理だ。
「悪党を吊るせ!」という国民の声がある。証拠の有無なんて、さして気にしていない。和歌山砒素カレー事件でもそうだった。裁判の前から「林真須美さんが犯人に決まっている」という。山口母子殺人事件も同じ。「殺意はあったに決まっている」という。だから被告を弁護する必要性さえ否定しようとする。自分が「不本意な罪状で被告席に立たされる」ことはない、と心底信じきっているのだろう。
個別のこの問題に執拗に食い下がることでむしろ一般論の構図が見えてくるのでは。
私は食い下がり方が足りないのかな……。何も見えない。
週刊誌の記事では、証拠を出せない内部告発者の発言は、匿名某氏がこういっている、と紹介される。そういうことをいっている人がいるのは事実である、という報道の仕方。そしてまた、批判の対象についても実名を挙げない。それが名誉毀損をギリギリ回避する知恵なのですね。
立花さんの告発をざっと拝見しましたが、明白な証拠を出すことができなければ、それまでだと思います。発言者が身元を明かし、批判対象の実名を挙げているのが目を引くものの、ひとつひとつの話は、既に週刊誌、夕刊紙のレベルで報道に載っていることと大差ありません。zakzak は批判対象の実名を書かず、疑惑の信憑性も保証していない。常識的には、(少なくとも現時点においては)その程度の扱いにしかなりえない話なのだと思います。
しかしながら、姉歯さんの耐震偽装事件のように疑惑が広く信じられ、「許すまじ」の論調が支配的になったならば、話は変わってきます。疑惑の本件について証拠があろうとなかろうと、関係なくなってくる。
姉歯さんの偽装はヒューザーも木村建設も総研も関係ないところで始まったようだ、とわかってきた。そしてこれまでのところ、イーホームズが外部情報を契機に行った再検査の結果が出る以前にヒューザーや木村建設が姉歯さんの偽装を知っていた証拠は出ていない。大々的に捜索までしておきながら、この状況。ところが「個人犯罪でした」では納得しない国民感情を、権力は無視できない。
犯人の姉歯さんは耐震偽装より刑罰の重い名義貸しで起訴され、ヒューザーは耐震偽装を知った後にマンションを販売した詐欺容疑で立件、手抜き工事をはじめとする様々な悪事を行っていたとされる木村建設は粉飾決算、長らく偽装を見抜けなかったイーホームズは架空増資で罰せられる見通しとなった。あとは総研の悪事を何かひとつでも見つけたら、事件は一件落着となるのだろう。
みな叩けば埃のひとつやふたつは出る身だったわけだけれど、全体としてみれば妙な話だと思う。あの世論の高まりを背景として強行された捜査に、どれだけの理があったのか。結果的に「悪事を発見しました! やっぱりこいつらは悪党でした!」って、それでいいのか。どこかの誰かさんの話だと思って、「いいぞ、やっちまえ」と思ってる人は、自分(の会社)があやふやな容疑で捜索を受け、帳簿とかみんな持っていかれ、粗探しされて断罪の憂き目に遭う可能性を考えないのか。
考えないのだろうな。あるいは、「いや、やっぱりそれは、悪いことをやっていたからいけないんでしょ」と素朴に思っているのかな。
もともと架空増資の疑いがあってイーホームズが捜索されたなら別にいいの。粉飾決算の疑惑に基づいて木村建設が捜査を受けたなら、わかるわけ。でも違うでしょう、本件取調べのための別件逮捕とかでさえない。国民の「空気」を読んで証拠もないのに本件捜査が強行され、結果が出ないので(あまり)関係ない話を持ち出して「成果」を作り出す。警察や検察に、こんな権力を与えて、よく安心していていられるものだと思う。
俺は以前にブログをやっており、そのブログは兄にバレた(というかバレているのは分かっていたけどハッキリと読んでいることを告げられて萎えた)ことが理由になって閉鎖をしたワケです。
この気持ちはわかる。閉鎖するのも当然だよ。でも、こういうことというのは、いわれなきゃ気付かない人も多い。一番困るのは、いわれてもわからない人。私などのように、むしろ知人は読まないでほしい、一生顔を合わすこともない、知らない人だけに読んでほしい、という人だってめちゃくちゃ珍しいわけじゃないのに、そういった気持ちをわかってくれない人って、いるんだよな……。
知り合い同士で日記を見せ合ってわいわいやるのが好き、友人・知人がコメントしてくれると嬉しい、顔も名前も知らない人に日記を読まれるのは気持ち悪い……その主張はわかるけど、私はあなたとは考え方が違います、だから見つけてしまったのは仕方ないとしても、「読んでますよ」とかいわないでほしい。なのに。「なんで? なんでなんで? 全然わかんないんだけど。親に読まれたくないとかならわかるけど、どうして友達にまで隠し事するの?」
勘弁してくれ、と。
家族にバレない限りは続けるつもりですので、その日が来るまでよろしくお願いします。
家族バレを防ぎたいなら、まず家から更新しないこと。大学生でいらっしゃるので、学校だけで書くべき。
editaを使うユーザーは、自分が記事を収集したいブログのオーナーに対して事前に許可を取る必要がある。
私の記事は、無許可で収集してください。改変も可。お好きなようにどうぞ。
うじうじ悩むだけ損だ、とも思う。だいたい自分にはもっと伸びる余地があると考えるからいけないので、結果が実力、これが全てなのさ〜、と気楽になればいいような。もっと単純には、努力できるかどうかも才能の問題でしょ、といってしまえばいい。サボったら生きていけない不幸な時代は(多くの日本人にとっては既に)終った。それなのに、愚痴っているのではもったいない。
……と、私は考える。基準を下げて幸せになろうキャンペーン。
まさかこんなに伸びるとは思わなかったな……。魔法のiらんどの競合サービスなのですが、ブログブームの中でニッチな市場を制覇したということか。というか、魔法のiらんどがあまりにも進歩しなさ過ぎたということのような気がする。
コミュニティ機能の充実ということにかけてはカフェスタなどの方がよく、あるいは mixi に招待されたら楽しいだろう。単に日記を書くだけなら、いわゆる携帯メインのブログサービス(Realog など)の方が便利だったり、パソコンから閲覧する分にはきれいだったりする。あえてウェブサイト作成機能を売ったところにフォレストページの特色があるのですが、なぜライバル社がまともに対抗策を打ち出せなかったんだろう。
カフェスタの不自由さは前身のガイアックスに勝るとも劣らなかった。しばらく会員が増え続けたので必要を感じなかったのだろうし、mixi の成功もあったわけだから、まあ仕方ないのだろうが……。一方、魔法のiらんどは自由といえば自由だったけれど、便利なツールを準備できなかった。
とまあ、後知恵でゴチャゴチャいうことはできる。できるのだけれど、「これくらいの不自由さがウケる」という匙加減は難しいよね。フォレストページ、実際にいじってみればわかるのだけれど、これまでふつうにウェブサイトを作ってきた人は、「たしかにポチポチ選択していって、空欄を埋めるだけでサイトを作れるのはいいけどさー」と釈然としないのではないか。
フォレストページとは、簡単にいってしまえば、最大20個のコンテンツをダイアログ形式で設置できるウェブサイト作成システムなのです。作れるコンテンツは「ミュージックボックス」「掲示板」「日記」「チャット」「新しいページ」「メールボックス」「お友達リスト」「アンケート」「リンク」「テキスト」「ブック機能」「プロフィール」「辞書」「Web拍手」の13種類。20のコンテンツを組合せ、順番などを決め、トップページのコンテンツリストの上下に挿入する内容を設定する。これで完成。サイト内のナビゲーションリンクの作成など、面倒な部分はぜんぶ自動で作成される。
ブック機能を使えば、たくさんのページにまたがるコンテンツも簡単に作成できるので、小説コミュニティが発達しています。しかし20作品しか書けないで満足できるのか。じつは Senza temp のように、複数のフォレストページを連携させればよいのです。でもね、やっぱり不便は不便ですよ。
たしかに、携帯電話からの利用という極限の制約下において、これがひとつの正解であった、という結果は納得できる。しかしこの違和感は如何ともし難い。私がコンサルタントだったら、フォレストページは成功しなかったろう。
魔法のiらんどは長らくサーバが不安定だった。フォレストページが月間15億PVを達成できたのは、優秀なサーバ技術者を雇い、投資もすることができたから、なのかも知れない。高度なサーバ技術は mixi 成功の重要なポイントでもあったという。
庶民にとって凶悪犯罪が十分に縁遠くなって数十年、こうなるのは必然だったんですかね。絶対に自分ではありえない誰かさんの犯した凶行の罪を、巨大な社会の特異な一人に負わせる、その他人事感覚に依拠して、被害者に絶対の同情を寄せてしまう。その復讐心を肯定してしまう。
復讐権を独占しながら、その権利を行使せず、加害者のみを庇護し、被害者遺族の権利を踏み躙っている近代国家と法制度に問題がある。そういう根本的な問題を本村洋は提起しているわけだが、論理的にも心情的にも当然の主張であるように思われる。
諸説あることは理解していますが、私の理解では、近代刑法は復讐権そのものを否定しています。復讐の禁止という意味では、なるほど加害者のみを庇護
しているともいえましょうが、国家が復讐権を独占
しているという考え方に私は与しない。
被害者の遺族にも国家にも復讐の権利はない。権力が犯罪者を処罰する根本のロジックは、「罪の報い」ではなく、「社会秩序を守るため方法として、現状それ以上にうまい手段が見当たらないから」だ。
私の勤務先に超高学歴の人はたいへん少ない。「東大生が面接に来たらどうします?」「試しに採ってみたいね」「面接が下手でも?」「関係ないよ。少なくともオイルショックで大企業から中企業とのボーダーラインに転落してからというもの、おそらく初めての志望者だもの。採ってみない手はない」「まあ、そりゃそうですよね」
私の採用もこんな感じではあって、書類を出した時点で半分、採用は決まっていたらしい。一次面接は身元確認程度のもの。二次(最終)面接の前に電話がかかってきて、「キミは***への配属を検討しているので、**さんが主に話すと思う。あと社長は**な人なので云々。とくにひどい失敗がなければ大丈夫なので頑張ってね」とのこと。あちこちでずいぶんたくさん落とされたが、通るときはこんなものか、と思った。
じつはこうした企業はあちこちにあって、大学の研究室の同輩の一人も、1月の院試に落ちて進退窮まったので先生に相談したところ、あっという間に地元企業への就職が決まった。私の出身大学は「県内」のトップクラス校に過ぎませんが、それでも「いやー、大卒の人が全然、就職を希望してくれないんでね、幹部候補がおらんのだわ」という会社では重宝される。
オークションで、2000円の値付けをしてもちっとも売れなかった商品が、1600円に値下げした途端に3時間で売れたりする。1800円でも売れたのでは……と悔しくも思うが、そこはわからない。私の就職活動もそんな感じで、通るところは楽勝、ダメなところは「惜しい」と思ってるのは本人だけ、みたいな。二次面接にも進めなかった会社も少なくなかった。ひとつだけボーダーラインで宙ぶらりんというケースがあったけれど、これは面談で口を滑らせた一言がまずかった事例なので、本来なら通っていたらしい。
ところで、私の勤務先では高校生も採用するし、短大生や偏差値40の大学生も採る。超有名企業では、低学歴の人の職場を子会社やグループ企業に移管しているのだろうけれど、東証一部上場の従業員が少ない会社では、いろんな人をまとめて採用している。だから、東証一部上場に絞っても、大学名で足切りなんて、僅かなエリート企業を除けば、そうそうやっていないだろうと思う。
ちなみに現在、私の配属先にいる20数人の中でもっとも偏差値の高い大学を出ているのが派遣の事務員さんだ、という話は以前書いたなあ。某都の西北大学卒。景気が順調に回復していったら、事務員さんもどこかに再就職されるのだろうか。以前の勤務先は気苦労が耐えないので退職して派遣登録したのだという。派遣も、勤務先次第では寿命が縮むそうだ。最初の派遣先がうちのような会社だったのはリハビリにはいいが、次が心配だ。要らぬお節介か。
ゲーム脳問題:えこひいき(2006-04-06)の補足記事。
「えこひいき」の記事では「森・岡田を批判して、川島を批判しない人が多いのはどうか」という問題を提起しているのですが、これは言ってもしょうがないでしょう。物理学会でも「優先順位問題」として言いましたが、「あれを取り上げるなら、これも取り上げないとおかしい」という話は不毛なんです。「これが大事だ」と思う人がまず率先して批判する以外に手はない。
ちょっと考えれば,なんで森氏の「ゲームで脳が壊れる」説が批判されて,川島氏の「ゲームで脳が鍛えられる」が批判を浴びないか,わかりそうなものだと思うのですけどね。森説は,ビデオゲーム全体の消滅につながりますが,川島説は,個人の選択の自由で完結するものです。ビデオゲームを生活の彩りとして用いている人間は,当然,森説を否定します。
私は菊池誠さんの、「脳年齢」もよろしくないが、優先順位の問題で後回しになっているのだ、という説明には納得できるのです。それなら筋が通っている。リソースが十分にあれば、「脳年齢」も批判するわけだから。しかし A-WING さんの主張はいただけない。
A-WING さんは「疑似科学自体は良くも悪くもないが、他人の趣味をネガティブに評価するために使うのはダメだ」といわねばならない。「サルヂエ」というテレビ番組にも「脳年齢」が登場しますが、「ゲーム脳」よりも「脳年齢」の方が社会的影響力は大きい。あなたがほんとうに気に入らないのは「ゲームに対する非難」なのか、「疑似科学の蔓延」なのか。前者なら、その立場を明らかにした方が誠実です。
私がいいたいのは、ゲーム擁護派が単に批判の道具としてニセ科学批判を持ち出すのはおかしい、ということです。それは100万本売れたゲーム「脳を鍛える」の否定につながる自爆技だからです。菊池さんはゲーム脳批判に乗ることでニセ科学批判の仲間を一時的に増やすことに成功していますが、これは奇妙な共闘関係です。ただ、「わかってやっている」なら、私自身それを一概に否定できるほど一貫した人間ではありません。
個人の選択の自由で完結
という考え方は危険で、現にこの世の中には、当事者たちが「それでいい」といっても、社会が許さないことがたくさんあります。個人の選択の自由で完結していれば問題ないなら、自殺幇助などという罪は存在しえない。売春や麻薬の売買だって、当事者間の了解があればいいことになってしまう。無論、「その通り。いいんだよ」という考え方はある。けれどもたいていの人は、違う。
暴力団が云々とか、強制される人もいるとか、そういった反論があるのかもしれないが、それは暴力団だからいけない、強制は禁止、という話であって、売春や麻薬そのものの問題ではない。売春や麻薬の(一定の管理体制の構築と限度の設定を伴う)合法化というアイデアが何度も取り沙汰され、特定の地域では現にそのようにしているのは、その証左といえる。程度が全然違う、という主張はあって当然ですが、絶対的な差異はない。
程度の違いは現在の議論によく反映されていて、ゲーム業界の非合法化なんて誰も主張していない。残虐ゲーム数タイトルについて販売規制を行う、年齢制限などの内容規制をもう少し詳細に定める、ゲームのやり過ぎを戒める教育を拡充する、といった提案にとどまっています。その妥当性を個別に問うことには賛成ですが、個人の自由を持ち出して全否定するならば、「あなたが守りたい社会秩序」も否定されることを警告したい。
正直いって、科学的にその悪影響が証明されているかどうかと関係なく、POSTAL2やグランド・セフト・オートの残虐性は規制に値すると考える人が少なくないだろう。審議会で根拠の明示なく「青少年に有害」といった発言が出ても、これは致し方ないと私は思う。これは価値観の問題だからです。
もちろん、規制推進派の主張に科学的根拠がないことは指摘されていい。けれども「だから規制をするな」という主張がどれだけ説得力を持つか。科学的根拠と無関係に「猥褻表現」が規制されていることからもわかるように、この社会には多数派の倫理規範に基づく(その他の根拠が希薄な)規制が多々あります。その全てに反対できる人が、どれだけいるのか。例えば近親婚の禁止だって、遺伝学上な根拠は、そのタブーの大きさとは全く不釣合いである事実をご存知ですか?
自分が当然だと思う規制を疑わず、気に入らない規制だけに反対する。そのときせめて「所詮人間は価値観の奴隷だし、私たちの思考は不自由な言葉に支配されている。矛盾は避け難い」といった留保はあっていい。自分の言葉に潜む怪しさを自覚してほしい。
上記リンク先で再配布されているゲームは、いずれも社会的に問題視されたもの。おそらくこれらのゲームを否定する人はゲーム(の自由)擁護派にも多かろう。では、いくつか単語を入れ替えただけのゲームならいいのか? 殺す相手が人間ではなく、例えば地底人なら問題ないのか?
近親婚が他人婚と比較して異常児の発生率が高いことは事実。しかし微小と微小の比較なので大きな差が出るが、絶対値はいずれも小さい。
この道の究極がこちら。
逆リンク! http://plaza.rakuten.co.jp/catfrog/diary/200604070003/
逆リンク!
というのだが、じつは猫蛙さんの記事には、アニさんの記事へのハイパーリンクがない。文脈上のリンク(連接)はあるので、アニさんの言葉は間違っていないのだが……もはやここまでくると、リファラがどうのこうのというレベルではない。
「物いえば唇寒し」という言葉があるが、語源は松尾芭蕉の句「物いへば唇寒し穐(あき)の風」。本来の作意に訓戒の意図はなく、「秋が深まって話をするだけでも唇が冷えますね」という内容なのだそうな。なるほど「古池や蛙飛びこむ水の音」が教訓話でないのと同じですか。
伊藤洋さんの作成された芭蕉(bashoDB)には興味深い話が満載なので、著名な句の解説だけでも眺めてみるとよいと思います。伊藤さんは山梨大学名誉教授で、情報通信の専門家とのこと。つまり、芭蕉探求は個人の趣味なのです。
森博嗣さんの日記が面白く、いくらか過去ログを遡って読んでみた。どうも私は、誉めるのは不得手なので、以下はまあ、いつもの。
映画でもドラマでも小説でも、作者の提案する「世の中、もっとこうすればよくなるのに」という提案について、私は「副作用がなければ、それでいいけどね……」とげんなりすることが多い。
ハードカバーが出てから通常3年ほどすると文庫になる。ノベルスは2年ほど経ってから、が普通らしい。(中略)一番良いのは、最初から3つを同時に出すことだ。外国ではペーパバックは同時に出る。別に特殊なことではない。それがごく普通の考え方だろう。もちろん、そうなった場合には、もう少し価格が接近するものと思われる。
具体的なデータを持っていないので、あちこちで目にした話を又聞きで書くだけなのだけれど、出版点数が減っていいなら、この主張にも利があるのだろうな、と。世の中、たいていの本は文庫化されない。1200〜2000円で数千部発行して、収支トントンというミドルクラスの本を、500円で文庫形態で売ろうとしても、元が取れない。安くした分だけたくさん売れるというものではないから。
売れる作品が最初から廉価版で出てくると、中堅の作品群が、少量を高値で販売する領域へ押しやられてしまう。「売れる作品は、3年待てば安くなる」「売れない作品は、何年待っても安くならない」とりあえず、最初は同じくらいの値段でミドルクラスに勝負させてあげようよ、ということなのだと私は理解しています。アメリカの文芸作品のカタログは日本と比較して貧弱なのだそうです。森さんのように売れる作家が、最初からペーパーバックで本を出すので、そうなってしまうのも当然だとは思う。
あまり関係ないけれど、新聞休刊日に号外を戸配した朝日新聞に月に一度あるかないかの休刊日に恋人と逢う事だけを糧に毎朝暗いうちからの労働に勤しむ若者たちのことを私は想い拳を握りしめたのである
といって怒った勝谷誠彦さんが、新聞休刊日の横並びに怒った矛盾をなんとなく思い出しました。何が矛盾なのかというと、新聞社毎に配達員が異なるのは全国でもごく一部の地域に過ぎず、大半の地域ではひとつの配達所に複数のメジャー紙が乗り入れているからです。一紙だけ休刊日となっても休めないわけ。
東京へ出てきて、「読売新聞でーす」なんて人に出会ったのだけれど、千葉県成田市某所では「新聞でーす」でした。「産経から毎日に変えませんか?」「今度は読売、どうでしょう」なんていう。配るのは同じ人なんだけど、新聞を変えると「新規顧客を開拓した」ことになって、キックバックが少しあるのだそう。購読者もその都度オマケがもらえるので、近所の人は3ヶ月ごとに新聞を変えていたものです。
私は勝谷さんの無知に暗然としたけれど、世の中、こうしたことは多い。森さんも、売れない作家のことなんか気にしていない。単に知らないだけなのか、「売れない作家は兼業作家になればいいじゃない」とお考えなのか。……なんて書く私自身、先に述べたとおり、きちんと事実を踏まえて書いているわけではないのであって、「物いえば唇寒し」だな、と思う。
なぜDVDを買うのかという話は、単に俺が所有欲の権化ということももちろんあるんですけど、対価を払いたいからです。その対価は俺が決めることで、レンタルで済ましていい程度のものならそうするし、もっと金を払いたいと思えば買うのです。でもアニオタの愛にあぐらをかいて高い値段設定にしてるものには余分な金は払いたくない。6000-3800=2200という差額は俺の決めた対価を超える、アニメ業界の驕りだと、こういうことですよ。あとこういう話と関連して、『スターウォーズ』最新作を映画館で観ると1800円、『CHECKERS in TAN TANたぬき』(!)を映画館で観ても同じ1800円というのは納得いかんわな。
以下は上記リンク先の話の流れとは関係ない話。
レンタルでよければ、何でもかんでもほんとうに安い。引っ越してからレンタル屋が遠くなったので郵送型サービスを利用してみたのだけれど、これが店頭で借りるよりずっと安いので驚きました。定額使い放題だから、使い倒し系のユーザに優しい。私の場合、DVD1枚あたり200円を切っています。こうなるとケーブルテレビと感覚はあまり変わらなくなるわけで、DVD でテレビドラマを再生しながら食事を作ったり、手洗いに立つ際に一時停止ボタンを押さなくなったり。
テレビ放映の映画を観ている途中で「お風呂が沸いたわよ。さっさと入りなさい」と母にいわれ「ハイハイ」と従っていた、実家にいた頃を思い出す。映画館で鑑賞中に「お風呂に入ってらっしゃい」といわれたらシュールだな。「値段じゃない、やっぱり内容だよ」と思う一方で、「値段もあるよな」と感じる。
それにしても、なぜレンタル商品になるとセル商品の価格差がどこかへ消えてしまうのか。値段の高い DVD ほどレンタルする人も少ないように思われるわけで。ある程度、マイナー作品をカタログに載せないと「アレがないから入会しない」となってしまうので、難しい線引きをしているのだろうな。
最初はこれらのサービスを誉めるつもりだったのだけれど、自分の興味を離れてカタログの検索をしてみると、いろいろと気になりました。古くてマイナーな作品は、カタログにない様子。新作ならマイナーでもカタログに入るものの、「全作品、返却期限なし」のルールがあるためか、(高回転が見込めない分)入荷数が当然に絞られているらしい。新作で貸出中となっていないものを探すのは簡単でない。
著名な旧作(2年以上前に公開された作品)を観たいという志向の持ち主でないと、カタログに不満が絶えないかもしれない。
- すなふきん (2006-04-18 07:34)
このデータを拝見する限り過去の大型景気が政府の財政政策主導で今回のは民間主導というマスコミの主張を裏付けるものはとりたてて見当たらないんですが・・・。輸出が突出してるというのは言えますけど。
私の知る限り、過去の大型景気が政府の財政政策主導
とマスコミで吹聴されているというのは、すなふきんさんの勘違いです。高度経済成長真っ只中に刊行された経済書を何冊も読みましたが、民間投資偏重を戒め、経済発展を公共投資の増加にもっと振り向けるべき、との主張が目立ちます。医療福祉や住宅補助の充実、上下水道の整備などが喫緊の課題だ、と。
財政政策主導
と敢えていうならば、財政規模を小さく小さくしてきたことが大型景気の原因だ、ということのようです。
面白いのは、そうした論者が減税も主張していること。「庶民から富を収奪している独占資本」の課税を強化すれば十分足りるはず、なのだという。ともあれ、50〜70年代の岩波新書をどんどん読んでいくと、田中角栄さんが人気を集めた理由がよくわかる感じがします。田中さんが日本の首相となったとき、金日成さんから(社会主義革命の)同志として祝辞が届いたという逸話を読んだことがありますが、なるほどな、と。
バブル崩壊後に2度あった景気回復と比較しての論評であれば、おっしゃることはよくわかります。しかし過去の大型景気
となると、それは違うのではないか。
ちなみに岩波新書には珍しく独占資本という言葉が出てこない「現代の経済政策」(渡辺経彦 1969年)では、高度経済成長を支えたのは日本人の高い貯蓄性向が民間投資を支え続けたため、と説明しています。そして政府部門は常に税収を低く見積もって予算を抑制し、減税を繰り返し、高度成長の邪魔をしなかったに過ぎない、とも。その結果が狭い家に物をどんどん詰め込むがごとき経済発展だったというわけ。
同書は旧来の景気循環理論や経済成長の考え方に対する新古典派の批判と、その輝かしい成果としての「黄金の60年代」、そしてベトナム戦争という政治的要因などによるインフレのために新古典派の理論自体が批判を浴びた理不尽までを描いており、面白い。物価の安定と失業率の抑制は両立困難なので、緩やかな物価の上昇を許容し、失業率を抑制すべき、といった提案(当時はまだ定説ではなかった)の好意的な紹介もあります。
最も驚かされたのはポール・クルーグマン「良い経済学 悪い経済学」所収の「アジアの奇跡という幻想」とほぼ同趣旨の解説なされていること。これが新書版の啓蒙書、しかも1969年の本。自分がどれだけ遅れているか、あらためて身にしみました。
なぜこの記事が共感を集めているのか。それは素朴な結論に帰着させているから、のような気がする。状況整理のディテールを取っ払ってみると、50年前の文章だといわれても違和感がない。ディテールで納得させ、ありふれた本旨で共感させる。王道のパターン。
財団法人社会経済生産性本部の発表する毎年度の新入社員のタイプが、手を変え品を変えしつつ、結局は同じことをいっているようなもの。
……というのは批判ではなくて、今、突然に気付いたということ。あ、そうか、と。でも、気付いたことを言葉にしてみると、これって先月も同じことを気付いて一人で感動していたような気がする。小寺さんも社会経済生産性本部も、毎回、頭を絞って新しいことを考えているのに、結果的に大いなるマンネリズムに取り込まれていく。そういうものだよな、と自分の備忘録を読み返しながら再確認する。
長すぎて読む気になれず、しかし読みたいという気持ちは消えずイライラしていたのですが、Baatarism さんのまとめを読んで満足しました。
こちらも面白そうなんだけど、長いので(一部しか)読んでない。自分が適切と思えるまとめ記事を探すのが、また面倒なんだよな……。それにしても、読んでもいない文章のポイント解説が適切かどうかなんて、どうやって判断するのだろう。自分でも納得のメカニズムがよくわからない。
この注意書きも話半分に読むといいだろうと思う。
そういえば、人間だって、おなかにいるうちはいろんな名前を考えているのに、出てきた子を見た途端、「この顔で『麗華ちゃん』とか『美麗ちゃん』はないだろ」などと、急遽、名前を変更するパターンは結構あると思う。
冗談では聞くが、実例は寡聞にして知らない。生まれてから名前を考えたケースは聞いたことがある。昔は珍しくもなかったそうだ。私には弟がいるが、私の名前を考えるのに苦労したので、弟の名前は姓名判断で決めてもらったのだそうな。弟は損だな、と少し思ったりもする。
面白そうだ、と思ったが、これだという元画像を作るのがなかなか……。
興味深いのだが、とても読みきれない。
すごいなーと思ってみやお課bやみやお課@hatenaも読む。やっぱりすごいのだが、とても読みきれない。
匿名コメンターの陰謀論に付き合わされて疲れ気味の青山繁晴さん。
半年前の私では理解できなかったネタ。今でも半分はわかってるフリだけ。
こういうのが人気ある理由はわかるけど、これに感動してしまう人は CSS を誤解してますよ、といってもなかなかわかってもらえないんだよな……。あと、実務レベルの話に限っても、実際問題、これで全パターン網羅! というほど話は簡単じゃないです。例えばカラムの背景を色分けしたい場合、どうされます?
とはいえ、上記リンク先をくさすつもりはない。これはこれで需要があるのはわかるし、これで救われる人がいるなら、それなりの価値があるのでしょう。
懐かしい感じ。2002年か……。
転載自由だそうなので、とりあえずログを取得。深夜のシマネコBlogも面白いが、ブログはログの取得が面倒なので、転載するかどうかは微妙なところ。
ほんとうに追いつけないケースについて。その他、Log of ROYGB には多数の数学コラムが収められている。しばらく読みふけった。(注:概ね高校卒業レベルの数学知識が必要)
SF的な発想をすれば、車輪生物がπ進数を使うということも考えられます。車輪生物が、自分の身長つまり直径に対して、1回転した長さ、直径×円周率を使って数というものを理解するわけです。
他にも自然対数の底であるeを使った、情報効率がもっとも高いと考えられるe進数を使う生物なんていうのも考えてみると面白いかもしれません。
こうした話が好きな方なら、お勧め。はてなダイアリーではTeXの記法により数式を表示できるため、数学コラムが読みたい人は気になるキーワードを探してみると面白いと思う。
このあたりのデータを見るに、現在の教育基本法は、そう悪くはなかったように見える。
常識的には、これほど顕著な成果があるなら、従来の方針を堅持するもの。たしかに80年代以降、あまり進歩がなく、そろそろ梃入れが必要なのかもしれない。しかしどうしてそれが伝統回帰なのかなあ。いや、少年犯罪云々が教育基本法改正の要因となっておらず、別の観点からそれを導入しようとしているのなら、話はわかるのですがね。「教育現場の荒廃」なんていわれますが、体罰がまかり通った80年代前半までと比較して、校内暴力は断然減っているわけです。
朝日・岩波的価値観が成果を上げながら壁にぶつかったのは、大病が治って「薬の副作用」が目立つようになったからだと思う。現状は、大病の記憶が忘れ去られ、薬を変えようという提案がなされている状況。副作用を抑制することには賛成するけれど、治療方針の大胆な転換は危なっかしい。漸進主義で頑張ってほしい。
私が時代に合わなくなっていると感じるのは第7条、あるいは全体の構成。現行法は学校教育基本法にオマケをつけたような内容で、第7条に家庭教育と社会教育という、学校教育と併記すべき(と現在では考えられる)内容が押し込まれている。
あとはまあ、理想に流れて永久に実現不可能と思える第2条なども気にならないではないが……。
倫理研での白田秀彰さんの発言はいつも冴えていて、卑近なレベルで膠着した議論を、うまいこと抽象度を上げて混ぜっ返す。ところが今回の白田発言は、意想外に素朴な言葉で語られる「わかりやすい」内容。拍子抜けしたものの、よくよく読み込めば、そしてその先の展開を見るに、「さすが白田さん」との認識を新たにしました。
白田さんのコメントは三つに分かれていました。第一に、匿名とは言論を内容だけで判断することである。それは近代の討議空間がもともと理想としていたものだ。しかし実際には、商業的な言論市場はその理想を実現していない。そこで理性的な討議空間を再構築するためにこそ、匿名のネットワークはつくられてきた。そう考えることができる以上、コメントスクラムが多いから匿名を排除するというのは考え違いではないか。これが第一点ですね。
第二点に、仮に言論が自由市場だとすれば、コメントスクラムは数の上で注目を集めている以上、言論の質が高いことを証明している。というよりも、そもそもこうしたプロセスがない限り、なにをもってして質の高低を判断するのかがわからない。言論の質は事後的にしか測定できない。そうである以上、コメントスクラムを事前に抑制するようなシステムを構築していいのか。それはむしろ市場の機能を喪失させてしまうのではないか。これが第二点目ですね。
そして最後に、粘着さんが問題だというが、その粘着さんは命をかけているのかもしれないし、その人なりの表現方法なのかもしれない。粘着だからといって切り捨ててしまえば、はたして言論の公正さは保てるだろうか。これが三点目ですね。
これは白田さんのコメントを受けた東浩紀さんのまとめですが、東さんの司会はいつもながらお見事。
私より月収が多いだろうとは思っていたけれど、たった9万円しか差がなかったのか……。何冊も翻訳などしていらしたのに。ライターってやっぱり儲からないのですね。私の給料は税金と保険を引いた金額だし、年2回の一時金もある。だから名目の年収は私の方が多いかも。
たとえば彼の記事のために月25万円分の収入がなくなったといったらちゃんと払ってくれるのだろうか
オウムの件で切られた分の収入が25万円であり、それ以外にも収入があるということでは?
脈絡もなく(低い)稼ぎをさらすなんて露出狂だけ。
ふーん。西村博之さんは月5万円の収入があれば満足だといっているし、私も手取16万円で満足してる。月25万円分の収入
は予想よりは安かったけれど、絶対値として低い収入とは認識していなかった。私の父も20年以上勤続してそれくらいだったし、高校時代の知人の大半も手取り収入は10数万円。
だから、月25万円というのは、今回実際に切られた金額ではなくて、仮にこの調子で全ての仕事を失ったら、という仮定の話だと思ったわけ。たとえば
は以降の文章全体にかかるのだ、と。いったら
だけでなく。inamode6 の投稿者って、25万円を「月収にしては安すぎる」という感覚なのかな。
また、松永さんはお金がなくて長らく教団施設を出られなかったのだという。たしかに一人暮らしを「する」には手取月収16万円で余裕だが、「はじめる」には30万円以上のお金がないと厳しい。月収25万円程度なら、資金がたまるまで時間がかかったことにも納得がいく。
たしかによく見かける意見ではあるのだけれど、そういうことはやっぱり全国ネットのテレビ番組で堂々と悩み公開しちゃってる人に、まずいいたい。新聞の悩み相談はたいてい匿名だけど、生活情報バラエティで血糖値がどうのこうのとか、お部屋の収納がどうのこうのといって「実験」に登場する人は家も顔も家族も公開してしまうのだからすごい。
あまり関係ない話。いま母が朝日新聞アスパラクラブの会員をやっているのだという。産経新聞しか購読していなくとも、アスパラクラブの会員になるには支障ないのだそうだ。
アスパラクラブはいい、というので、詳細を訊ねると、朝日新聞社の本がときどき無料で送られてくるのだという。20字以内の感想を書いて送ると、ときどき図書券が届くのだそうな。帯や新聞広告などに「感動しました! 50代女性」なんて書かれているアレらしい。「あんなもの、宣伝部が適当に作文していると思っていたけど、違うんだねえ」……私などは、案外、ああいうのはマジメに作られているのだろうと思っていたので、案の定といった印象だったが、母はしきりに感心していた。
「案外」と書いたとおり、「全部、適当な作文です」といわれても、それはそれで驚かないのが私のスタンス。テレビ番組で「今回の相談者」として登場する人がみな役者の類でも、スタッフに相談の手紙を出した一般視聴者でも不思議はないと思っている。ふつう決定的な証拠は画面に登場しないわけですから、とりあえず私は演出に素直に従うことにしています。
こういった考え方は好き。だけど、嫌でもお金がなくなったら「なんとなく働く」ことを受け入れるような気もする。みんなそうしているんでしょ、というか。なので逆に、行き着くべきところに行き着くまでは、放っておけばいいような気がする。生活が成立している間はふらふらと夢みたいな話を追いかけたっていい。死ぬまでそうしてやっていける人もいないではない。そして当初の希望通りの職につける人もいる。
ただ id:zoot32 さんは、相談されたから自分の考えを述べたのだろう。とすれば、相談した側にも意図があるのだろうな。なんとなく働けばいいんじゃないの、といった意見も聞いておきたかった。これは「あのときああいったじゃないか」と責任を押し付ける意図ではなく、当たり前のことをひとつひとつ確認していく作業なのだろう。こんな考えの人もいる、あんな考えの人もいる、どちらの道を進んでも、人は生きていける。
私も「仕事とは、かくあるべき!」みたいな方に力の入った言説をたくさん目にし、聞いてもきたけれど、快刀乱麻を断つのごとき語り口の人も、「ま、そうはいってもさ」みたいなところを持っていることが多い。家電量販店の店員が、「テレビの調子が悪いからといって叩いてはいけません」といいつつ、自分もついつい叩いて直そうとしてしまうような、そんな「どうしようもなさ」を微かに自覚している。
そういうものだ、とは思うのだけれど、いまだに「そうですよね?」と問い質さないともやもやの晴れないときはある。
大学受験で「浪人は絶対に許しません」という保護者の方はそれほど多くないが、高校受験の浪人は保護者はもちろん当人にも忌避感が非常に強い。国立大学でさえ前期試験と後期試験があるのに、県立高校は1回しかチャンスがない。推薦入試はあるが……(私が塾講師をしていたのは6年前の話だから、最近は違っているかもしれない)。だから中学3年生の受験校選定は、けっこう悩ましいのでした。
さすがに学生アルバイトの講師は主任とか肩書きがついたって進路指導まではしない。だから私は一番繊細な部分からは外されていたのだけれど、やる気の管理という面で、受験校問題は日々の授業の中でも繰り返し取り上げなければならないテーマではありました。
一番多いのは、少し楽観的な生徒。模試の結果を見ると C 判定(合格率50%)以上のところがひとつもない。かといって E 判定を取って平然としているわけでもない。滑り止めの私立か県立推薦に通れば万歳、手持ちのカードが一枚もないまま県立入試に臨むことになると、仕方ないのでランクを下げることになる。合格して当然の学校を受験するのだけれど、やはりプレッシャーはたいへんなもののようで、自己採点の結果はギリギリになってしまうことが少なくない。
次に多いのが、「どこでもいいよ」という生徒ですが、そんな彼らでも、じつは「ここまでは落ちたくない」というラインがあるので、講師が「こりゃ楽だ」などと考えて手を抜くと、恨まれることになる。「先生、あたしのことなんてどうでもよくなってたんでしょ。わかってたんだよ、やる気ないの」と、全部終ってからいう。講師、愕然。「ま、そこそこ好きな学校に受かったからいいけどさ」フォローされて、また落ち込む。
あとは無茶な目標を掲げる生徒、特定の学校を目指す生徒、極端に自信のない生徒がそれぞれ少しずつ。だが表面的な言動や人生のビジョンが「個性的」な生徒も、いろいろ話をして強く印象に残ったのは「平凡さ」だった。親馬鹿に付き合って高い目標を掲げ続けていたり、言葉に対する責任感の強さから最初は何気なく口にしただけの学校名をギリギリまで抱え込んでしまうハメになったり、誰もが持っている「万が一」の不安から絶対確実なカードを見せ札にしているだけだったり。
私に何ができたか。何もできなかったな。ま、ともあれ、就職先の選択も学校選びも似た面がないではない。
現在の勤務先、私の入社時には社員が1000人超の大企業だったのだけれど、4年余りで2割も減ってしまった。それでも毎年、少しずつ新人を採っている。今年は私の世代以来の20名超の採用となり、入社2〜5年目の世代が主催する毎春恒例の歓迎会が予算的に厳しい。新人は無料なので、先輩が集まらなければ少ない参加者に重い負担がのしかかる。私は毎年きちんと参加して、煙たがられている。
歓迎会につきものなのは、「なんでうちの会社を志望したの?」と嫌がらせのような質問をする先輩社員。面接ではみな適当なことをいったのだろうけれど、歓迎会で建前を語るのが果たして正解なのかどうか、難しいところ。そこで私は助け舟を出すことが多い。「この歓迎会は人事とは無関係だから、何を話しても不都合ないよ。うちは年功序列だから、集まっているのは一般社員だけだしね」……すると、いきなり本音(のようなもの)を話す人が多いので驚く。そんなに素直に先輩のいうことを信じてしまっていいのだろうか。あるいは「入社したからには、いまさら本採用見合わせもないだろう」と高を括っているのか。
面白いのは、一通り「ぶちあけた話」を語り尽くすと、後に残るのはかなり真面目な抱負だということ。意地悪な見方をすれば「内実が伴わないので言葉が上滑りする他ない」のでしょうが、私はこのような形で出てくる志高い言葉を好ましく思う。
「本音をいっていいよ」と水を向けるのは、「頭を冷やしなさい」と指示することに似ている。夢や希望を神棚に恭しく奉納し、卑近な欲求に寄り添って生きている自分を見つめることになるから。それでも理想は、自らの痛撃をも耐え忍ぶ。
「見たいものしか見ない」ってのはよくいえてると思いますが、それが私やあなたにとって具体的に何らかの不利益をもたらさない限り、それを咎める権利は私にもあなたにもないと思います。
私はこのような主張には賛成しない。咎める
という言葉の意味を非常に限定しているのかもしれないけれど、anomy さんの意見に従うと、「ゲーム脳の恐怖」に対するほとんどの批判は「あなたにそんなことをいう権利はない」となってしまう。もちろんゲームによる具体的な不利益がないであろう森昭雄さんが同書のようなゲーム批判を書くこともできないので痛み分けではありますが……何だか、窮屈じゃありませんか。
頭の体操で(アルツハイマー病を)予防できるという認識が広がれば、認知症になった人々が、頭の鍛え方が足りなかったせいだと非難されるようになるかもしれない
脳のトレーニングの足りなかった「怠け者」批判としての脳科学。ゲーム脳の問題点は私はこの部分だと考えています。
いわゆる生活習慣病に対して散々なされている「怠け者」批判
に、大きな問題があるとは認識していません。
タバコと肺癌だって、因果関係が「証明」されているわけではない。タバコによる肺への害が遺伝子の複製異常を起こし、癌を発症させるメカニズムは不明瞭です。ただ、統計的に喫煙と肺癌の相関は有意です。そして長年の研究から、「喫煙者に共通する何か」が真の原因なのではなく、喫煙こそが肺癌を引き起こす重大因子なのだと、現在ではわかっている。一方、十分に研究が進む前からタバコの害は喧伝され、未成年者の喫煙は禁じられてきました。それはそれでよかったのではないか、程度の問題だろう、と。
私は実のところ、ゲーム規制をしたければどうぞ、という立場。現状程度の材料では、飲酒・喫煙と同等の規制はありえない。せいぜい「『有害』ゲームの規制」にとどまるでしょう。長い年月をかけて次第に猥褻表現の判断基準が緩くなっているのだけれど、あんな規制をなくしたところで、これというほどの影響はないだろうと思ってはいる。でも大勢が欲しているのなら、規制があってもいい。
多数派の不安に対して、「単に不安だというだけで規制をかけるのは云々」といった主張がなされるわけですが、証明されない限りは何もしない、何でも野放し、自己責任、というわけにはいかない。少なくとも日本が民主主義の社会である以上、大半の国民が規制を求めているのに、それを無視することは現実的でない。いくら自由の確保こそ民主主義を支える条件だとしても、です。社会は「たかが不安」にも付き合っていかざるをえない。
リスクの程度をいうなら BSE なんか気にする暇があったらスピード違反を即座に免許停止とし、無免許運転を懲役刑にでもした方がいい。でも、米国牛の輸入は差し止めてもスピード違反を即・免停にしたりはしない。そこには人々の利益と経費の比較判断が働いている。
いまでもゲームには内容によって年齢規制がかけられています。書籍や映画やテレビもそうです。そして業界で自主規制を行ってさえいる。年齢制限や内容の規制に、いったいどれだけの科学的根拠があったというのでしょうか。そんなもの、全然ない、といっても過言ではない。こうした状況を受け入れている人が、プラスアルファの規制に突然、恐れおののき、世界の終わりだといって大騒ぎを始めたりする。そして atomy さんのなさっているような主張が、持ち出される。
少なくとも、この奇妙さを認識しておく必要はあると思う。
反駁の困難な命題は多々あって、「エイヤッ」で判断を下さざるをえない。何もしないのが正解、ともいえない。何もしないこと自体がリスクを取る決断に他ならないからです。
anomy さんが心配されている点について、私は楽観的なのですね。一部に突出した差別や「怠け者」批判が現れる可能性は否定しませんが、社会全体の風潮としては生活習慣病患者に対するそれと同等程度にとどまるのではないか。麻薬はもちろん、酒・タバコほどにも嫌われないのでは、と。
後の記事にも書いているのですが、程度の問題に対し全否定で返すと、自分の足元が崩れてしまうのです。無論、あれとこれは別、といってもいい。しかしその場合、なぜ別扱いなのかを説明する必要がある。
そして内面の自由の件ですが、どのみち他人には言動しか見えないわけだから、言動さえ要求を満たすことができれば、相手は満足する。直接に規制されるのは行為だけで、背景にある心ではない。大酒飲みやヘビースモーカーが受けている程度の非難・蔑視が人の内面の自由を侵すか? 各論をいえば様々な事例があることは承知していますが、総じて心配されるほどのことではないと認識しています。
経済学の素朴な疑問をふたつ。
日本の経済論壇(のごく一部)で有名な「バーナンキの背理法」とは、「もし通貨の発行量をいくら増やしてもインフレが生じないとすると、無税国家が実現される。これはおかしいので、通貨発行権を持つ銀行はインフレを起こすことができる」といったもの。最初は「ふーん」と思ったんだけど、よくよく考えると、「無税国家はありえない」って、どこから出てきたのかなあ、と。無税国家、ありえるのではないか。
物価の上昇がなく、年率5%の経済規模拡大があるとする。このとき単純には、通貨の供給量も5%増やすことになるのだろう。このとき仮に国家予算が経済規模の5%なら、無税国家は実現できるんじゃないの? これが第一の疑問。山崎元さんのブログのコメント欄で飯田泰之さんが「貨幣発行益を国債の償還に使って増税を回避すべし」と主張されていますが、それが可能なら無税国家も不可能でないはず。全額を発券銀行引受の国債で賄うわけ。
ところで飯田さんは「貨幣発行益を国債の償還に使うことと、日銀が国債の買い切り額を増やすのは同じこと」とも主張されている。これも何となく納得してたんだけど、じつはいろいろよくわからないところがあります。先の無税国家の仕組みでは、どんどん国債の残高が積み上がる。返す気もないのに借金ばかり増えるのは気持ち悪い。じゃあ国債を引き受けた発券銀行が「債権放棄」したらどうなるのか。これが第二の疑問点。
日銀が国債を買う場合、その時点で既に日銀券は発行されているわけだから、「債権放棄」しても経済に影響を与えないような気がする。その一方で財政不安は解消される。何も悪いことがない? でもリフレ派の本でも「買い切り」までは書くけど、「債権放棄」はいわない。何故なのかな。金融引締めの際に売り物がなきゃ困る? でも半分くらいは「債権放棄」していいような……。
何か根本な知識が抜けているか、勘違いしているのかな。しばらく考えたけどわからなかったので、ここで仮綴じ。
単純形として全ての歳出を紙幣印刷で賄う無税国家を想定すれば、毎年の増分はマネーサプライではなくマネタリーベースのそれでなければなりません(つまり、信用乗数の逆数分だけ規模が小さくなります)。
あっ。完全に失念していました。今回もていねいなご解説をいただき、どうもありがとうございます。やはり無税国家は現実的には難しいわけですね。GDP の 5% ならありえないとも言い切れないかと思いましたが、それが勘違いで、実際には 1% 程度だと。日銀保有分の国債についても、おかげさまでスッキリしました。
ども。毎度お世話になります。トリビアル
という言葉がわからなくて、辞書を引いたら自明であること
と説明が。たしかに「中央銀行はインフレを起こすことができる」はトリビアルだと思いますが、財政規律などの問題で無税国家は実現不可能
とは決め付けられないような気が、私はしてまして……。
同庁生活安全局に事務局を置き、ジャーナリストの江川紹子さんや京都医療少年院の精神科医、岡田尊司氏、首都大学東京の前田雅英・都市教養学部長ら心理学、教育、法律の専門家ら十五人が委員を務める。
岡田尊司さんか……。岡田さんが医療の専門家枠だとすると、結論は見え透いているような気がします。ともあれ、ゲームを擁護したい人はベストセラーを書かなければダメですね。「テレビゲームと子どもの心」は売れていないのかなあ。目下、期待の星は久保田競さんの「バカはなおせる」ですね。読みやすいので、お勧めしたい。
ところで、森昭雄さんの「ゲーム脳の恐怖」や岡田尊司さんの「脳内汚染」などのゲーム批判にガンガン反撃する人は、たいてい「疑似科学に怒りを燃やす正義の人」を装っている。彼らが東北大学の川島隆太さんの提唱する「脳を鍛える」云々を看過しているのはなぜか。ひとりで全ての疑似科学を相手にできないのはわかる。でも、同じゲーム業界の話題くらい、拾ってもよさそうなもの。川島さんは総じて森さんのような出鱈目ではないが、少なくとも「脳年齢」は大いに誤解を招く言葉であり、科学を騙っているといっても過言ではない。この点だけは強い不満がある。
「ゲーム脳」はテレビ CM になっていないし、100万部も売れていない。「脳を鍛える大人のDSトレーニング」は2800円と高価なのに売上100万本を突破。まやかしの「科学」をご都合主義で利用している、誤解を招く言葉遣いで金儲けしている、というならゲーム業界の方がよっぽどひどい。「脳年齢」に「実害」がないというなら、「マイナスイオン」だって放っておけばよかったろう。
結局、気に入らない意見を潰すために科学がどうのこうのとかいっているだけで、ほんとうはそんなもの、どうだっていいんじゃないか、『正論』だけど『方便』なんだろう、と勘繰りたくもなる。無論、事実はそうではなくて、ゲームが好きな人は「脳年齢」の非科学性が見ても見えない、聞いても聞こえないのですね。人は見たいものを見るのです。いくら気をつけても、まだ足りない。
期待できます
という書き方に留めているのが、監修を務めた川島さんの良心だとは思う。
なるほど筋肉マンは超人なのだなあ……と思ってはてブを見たら、既に書かれてた。
たしかに素晴らしい見た目を実現しているのだけれど、流用は簡単じゃないね。ソースがすっきりしていることとは裏腹に、案外 HTML の形式も最終的な外観も決め打ちになっているから。あと、素人が手を出すようなテクニックじゃないな、とも思った。
昔、ちょっとご縁のあった方のサイト。交信が途絶えているけれど、大丈夫なのかなあ……とここに書くだけで、メールもしないわけですが。
ようするに「わからない」という話だと読み取った。
散人が感動したのは、フランスにせよ、タイにせよ、若者たちの行動が政治が左右するという例が多いということなのだ。日本では残念ながらそう言うことはない(安保闘争での挫折以来、若者たちは世の中を斜めに見るようになってしまった)。事の善し悪しは別にして、どっちが政治的成熟度が高いのか? 明かだろう。不満を持ちながら行動に移さない若者たちの方が、政治的に成熟していないのである。
こうした主張を明らか
といわれると鼻白む。それは言葉の定義の問題でしょう、といいたい。あるいは「行動」偏重の考え方を自明とするのは短兵急ではないか。とはいうものの、「短いコラムとは、こうやって書くものだ」という感じもする。
自分たちが多数派のくせに、農村少数派のエゴイスティックな自己主張に流されて、スローライフやらに尻馬乗りをして損をしたり、税金が一世帯あたり数十万円も増税になって「あれっ、こんなはずじゃ」なんていっている日本の都市住民は、まだまだ政治的に未熟だ。
この結論もまた言葉の定義の問題かな。日本人は利己主義者か?(2005-09-17)に対する id:buyobuyo さんの言及を思い出しました。人に優しい会社(2005-09-03)などあちこちに書いたことだけれど、私は自分の利益の最大化を追求するのが正しいことだとは思っていません。
そもそもフランスの若者たちだって、勝ち組の「既得権」を仮に守り通したとしても、「負け組は死んでしまえ」というのでなければ、結局、自分の財布からカネを出さねばならない。目先の利益に捉われているだけなのではないか。
また、暴力的な、ルールの破壊を目指すような闘争は、基本的に支持できませんね、私は。タイの政争は、少数派の都市部が多数派の農村部に対抗するために非民主的な手段に打って出ているもの。選挙のボイコットなどという手法で「小よく大を制す」なんてことがまかり通っていいのか。フランスの若者だって同じこと。投票に行かず少数派の立場を甘受したくせに、落としどころを見極める知恵もなく、大統領の妥協案にも徹底抗戦するのだという。
選挙で勝てず、(外向きの)言論に絶望し、暴力に訴えたのが安保闘争であり、成田闘争だった。夜な夜な住宅密集地にある空港公団幹部宅を放火して回った過激派のことは、成田で育った人間として許しがたいと思っている。連中の行動原理はテロを実行したオウム真理教と何ら変わらない。しかしそんな連中も社会の一員である。「死ね」といえば殺し合いになる。共存していくしかない。
しかしそれは、(概ね)公正な選挙の仕組みがある国で、暴力的な多数決の転覆を是認するということとは異なる。行動は大切だ、というのはいいが、あんなのを支持してどうするのか、と思う。
id:rinrin_pickup さんがとくにどうだといいたいわけじゃなく、あくまでも一例として。
- 独断と偏見による集団的な迫害が可能になることから、この案自体には反対。
- ただ、某氏がろくでもないのは事実なんだよな…。
独断と偏見
はよくない、といいつつ、次の一文で某氏がろくでもないのは事実
と書いてしまうあたりに、集団的な迫害
の芽があるのだ、といいたい。「ろくでもない」とは価値判断であり、そのような「事実」があるわけがない。「ろくでもない」と思っている人の存在は「事実」なのですが。
もちろん、いちいち面倒な書き方をするのは現実的でないので、私だって省略して書くことが多い。ただ、私は id:rinrin_pickup さんの短い文章から、これは省略表現ではないと読み取りました。
id:rinrin_pickup さんが某氏の価値観に賛同できないのはいい。問題は、某氏の正義を却下する自分の主張は独断でも偏見でもないとお考えになっているらしいことです。独断と偏見による集団的な迫害が可能になる
と心配されているので、多数派の価値観に反するものが独断や偏見だ、というわけでもない様子。とすると……自分が納得できるかどうかが判断基準? もしそうだとすれば、id:rinrin_pickup さんと某氏のどこに差があるというのでしょうか。
ある「場」で少数派になっても自説の正しさを確信できることはしばしばあって、そこで頑張ると「ろくでもない」なんていわれてしまう。それでいいのか。自分が少数派になることもあるのだから、他人様の正義を安直に却下するのは危ないのに。大勢を不快感を与えているユーザにも某社が慎重に対処しているのは、単なる不作為ではないと私は思っています。
2005年8月、mixi はコミュニティの和を乱す人物として Kusakabe さんを排除しました。賛否両論あったけど、概ね賛成の方が多かったと認識しています。某氏が某サービスから排除されて怒ったり悲しんだりしてくれる人が Kusakabe さんより多いか少ないかというと、おそらく少ないと予想しますが、だからいいんだ、GoGo! だ、と私はいいたくない。
私は某氏の言動を支持しない。しかし「某氏を今すぐ強制退会処分とせよ」と気勢を上げている人々は許し難い。異端者の排除はコミュニティ防衛のため必要悪と認識し、努めて抑制的に行うべきです。「正義」の執行に酔う者は、自らもまた異端審問の場に引きずり出され、火あぶりの憂き目にあう可能性を考えるべき。私は間違ったことをしていない、法も犯していない……某氏だって、そう思っているのです。
補記:私が「某氏」のことを「某氏」と書いているのは、「某氏」と書きたいからです。
お題はふつうなんだけど、回答がむやみに豪華。
米光さんのこどものもうそうblogは私も1回、拝見したことがあるのだけれど、ブログ文章術がエキサイトブックスの企画記事でなかったら、これほどの波及力はなかったろうと思う。花岡信昭さんが日経BPで企画記事を書いたら、内容はメルマガ(+その転載版であるブログ)と同じなのに反響が数倍になったという事例もある。
CNET Japan読者ブログについて、「何これ?」みたいな感想が散見されたわけですが、これは興味深い試みだと私は思う。大学の先生などがこれからブログを始めて、大きな人気を得るのはなかなか骨です。CNET の威光(簡単な審査+CNETのドメイン)を借りて下駄を履いた状態でスタートできること、週1回更新の努力目標が課されていることなどは、十分に魅力的ではないかと。
hotwired のブログは3月末をもって軒並み終了と相成りましたが、高橋靖子さん、佐々木俊尚さん、田中秀臣さん、小倉秀夫さんともに、hotwired という看板が(そこそこ)内容に箔をつけていたように思う。もとより著名人であってさえそうなのであって、ましてや一般人なら……。
コメントできなかったのでこちらで。
呼びかけする相手のリスト
の中に私の名前がありますが、私は参加しないので、呼びかけは無用です。名前を出してみただけで実際には呼ばないというアレだろうとは思いましたが、まあ一応。
私としては、松永さんがいつの間にか元気に(?)活動を再開されている風なので、もういいです。やりたいことはやったし、いいたいことはもう書いた。これ以上、私の中に何があるわけでもない。ようするに、面倒くさい。やる気のない人間が座の一角を占めても、みな不愉快になるだけでしょう。
ハイエナブロガーの出番は終りました。
住所公開しているんだから突撃すればいいじゃん
猫蛙さんとこの日記は筆者が大勢いるので誰が書いたか不明だけど、常識のない人もいるんだな。親が子どもに会うのだって、事前にメールか電話か手紙で連絡をして、都合が悪ければ日を改めたり、場所を変えたり、ときには訪問をキャンセルしたりするもの。見も知らぬ赤の他人が突撃すればいいじゃん
だって? 行動力だけ突出してる人は、これだから嫌なんだ。
それから、私の性格とかは掲示板を作りました(2005-11-25)とそのリンク先を読めばだいたいわかりますのでご参考まで。
最近一部で話題になっていたローカルツール版とは解析結果が異なる。別の人が作ったのかも。ウェブ版は解析結果にリンクできるのがいいところ。面白い結果が出た人は、自己紹介にでも使ったらいいかも。
私は Gmail のアカウントも持っているのですが、これはスパムフィルターとして使っているだけ。主に利用しているのは有料版 hotmail です。
有料版 hotmail は Outlook Express からメールデータを操作できますので、ローカルとウェブの両方にメールをバックアップできます。ほとんどこれだけの理由で、hotmail をメインにしてます。
逆に Gmail のいいところは、全受信メールの自動転送ができること。hotmail にはこれがない。
まあ、僕に友達ができなくなった理由は「大人になった」からではなくて、日頃からいろんなところに噛み付きまくっているせい、なのかもしれませんが……
なんか根に持つタイプというか、一度イヤなことがあると、それっきり仲良くしてくれない、という印象が……。日頃からいろんなところに噛み付きまくっているせい
で友達ができない、という発想自体、その裏返しなんじゃないかと思ってる。つまり、くだらない揚げ足取りをしてくるような人と友達になんてなれるもんか、みたいな。
人間だもの、揚げ足取りしたくなるときだってあると思うのだけれど。(……なんて私が書くと、涼しい顔して、どの口でそんなことをいうわけ? と失笑される方がいるだろうな)
旧約聖書の話題。聖書は死ぬまでに一度は読みたいと思っているのだけれど、小中学生向けにリライトされたものでさえ、読んでいると欠伸がとまらないので、当面は無理なんじゃなかろうか、と思ってはいる。よくわからないけれど、何らかの波長が合わないのでしょう。それでも読みたい。ずーっと、そう思い続けている……だけで何もしないのが私らしいところ。
書店で聖書を立ち読みしてみたりはするのですが、広辞苑を1ページ目から読むようなものだなあ、と。最初は面白いですよ。でも、10ページも耐えられないでしょう。私にとって聖書というのは、そんな感じの本なんですね。聖書入門みたいな本もたくさんあるわけですが、別にキリスト教自体に興味があるというわけではなくて、私の場合、いろいろな小説や随筆を読む際に、聖書の素養がちょっとでもあったらなあ、と思っているだけなんですね。もともとの動機がそんなだからダメなのかなあ。
小説版の聖書が話題になったときにも、「とりあえずこれでいいや」と思って数ページは読みましたが、ベストセラーになった「読みやすい」と評判の小説でさえ手が止まってしまったので、ひょっとして何か悪霊でもついているのかと不気味な感じがしました。
さて、2月3日に finalvent さんが世の中にこんな美しい話は少ないというほど美しい話
としてエサウとヤコブの物語を挙げられたので、「よーし、創世記だけでも読むかー」(注:エサウとヤコブの物語は旧約聖書の創世記に収められている)と気合を入れてみたけど、案の定、「光あれ」で飽きて放り出した。無念なり。
3月末に数年間ずっと積読になっていた(そしてわざわざ引越しの荷物として持ってきた)山口雅也さんの大作「奇偶」を読み始めたら、今度はヨブの物語が出てきました。これがまたなかなか興味を引かれる紹介のされ方なので、今度こそ……と思ったけど、やっぱり挫折。もちろん、あんな分厚い本を全部読もうというのではない。当該の部分だけ読もうという話なのに、これがつらいんだなあ。そのくせ読みたいという気持ちだけはあるのだから、たまらない。
多分、私にはまだ早い、ということなのでしょう。こうなったら頼みの綱は阿刀田高さんです。「旧約聖書を知っていますか」を買ってきて、恐る恐る読み始めたところ……読める、これなら読める! エサウとヤコブの物語も爽やかに描かれているし、ヨブ記の解説もある。もやもやが晴れまして、気分爽快です。私にはこれくらい楽しく読みやすく書いていただかないと、とても手が出ません。
とりあえず、聖書を読めない理由が悪霊ではなく私の無能だったことがわかり、これもホッとしました。
ちなみに阿刀田さんの本は、こんな感じ。
古い時代には、レビラート婚の習俗があって、イスラエル民族もこれを堅く守っていた。レビラート婚とは、子なくして死んだ男の兄弟は、残された妻をめとって子を生ませる義務がある、という制度である。太郎が子どものないまま死んでしまったら、次郎が太郎の未亡人と寝て子を授け、太郎の血筋を絶やさないようにしなければならない。オナニーの語源となったオナンも旧約聖書の登場人物で、彼は子なくして死んだ兄のために、兄嫁と交わることになったが、
――俺の子になるんじゃないから、種が損しちゃうな――
自分の種を地に流してしまった。けち。なにがそんなに惜しいのか。正しくは自慰ではなく、膣外射精だったろう。つまりレビラート婚にさからったわけであり、そのため神はオナンを殺してしまう。それほど重い掟であった。
あははは。さっぱりとした語り口で、とんでもない(と現代の日本に暮らす私には思われる)ことをどんどん書いていく。ユーモアを積み重ねながら、少し考えさせられるところへといざなわれていく。
裁判官「裁判の本来の目的は被告人が2度と犯罪を犯さず、きちんと生きてもらうことなんだよ。検察官もなんとかしてあげたいんですよ」
やはりそういうものなのだろうな……。そして怒楽喜さんのことを思い出した。
裁判官から告げられた判決理由で最後に「この執行猶予の意味を良く考えなさい、君は恐らく再度罪を犯す可能性が高いでしょう。 この執行猶予は更生を期待するというより、再犯の時の為のものです。事件の緻密な計画性と行動力を良い方に向ける様努力しなさい」 こんな言葉を聞かされました。
厳しい内容でしたが「お見通しなんだな」と、変に納得していました。
(中略)
執行猶予中に警察沙汰になったのが5回。相互暴行で処分保留、車内にポンプ(注射器)を60本所持していて採尿。 シャブ5gを所持しての人身事故。風俗店グループの社長(名義貸し)として逮捕、拘留の後罰金刑、マジックマッシュルームを 食べ過ぎて死にそうになり腸内洗浄。
嘘では無く全部本当の事です。
裁判長の言葉が頭にありながらの凶行、これはまた別の話。
同社では「パソコン通信上で展開していたフォーラムのうち9割以上はWebに移行した」(広報部)としながらも、パソコン通信上で交わされていたコミュニティサービスの書き込みに関しては「残さない」方針を明らかにしており、蓄積の破棄を惜しむ声も聞かれる。
ある意味、予想通り。ウェブサイトが閉鎖して誰一人ログを持っていない、なんて事態が頻発しているのをみて、パソコン通信のログだって儚いものなんだろうな、と。
「パソコン通信での発言って、半永久的に保存されるんですよね。怖いなぁ」
知り合いに言われ、僕も考えた。パソコン通信への書き込み(これを「発言」と呼ぶ)は、ある程度の分量になると、データライブラリーという場所に移動され、データ圧縮して保存される。見たい人は、一手間かければ誰でも見ることが出来る。
パソコン通信は始まってまだ十年ほどだから、今は十年分の発言が保存されているわけだ。当然、8年前についカッとなって書き込んだ自分のおバカな発言も残っている。なぜおバカな発言が多いのだろうか。
(中略)
油断していると大変なことになる。数十年後、大人になった自分の息子や娘が、若かりしパパやママの発言を検索できちゃうのだ。そこに「レイ姫、ラブラブでごじゃりまするぅ・〜〜〜!!(翻訳:私はエヴァンゲリオンのヒロイン・綾波レイのことを考えると、心が熱くなることだよ)」と書いてあったりするのだ。
書き込み一ナノ秒、恥永遠。気を付けよう。
これは1997年頃に書かれた記事です。永遠に残るかと思われた恥も、2006年に早くも消滅。著作権とか、個人情報がどうのこうのとかで、ログの管理もコストが馬鹿にならないことが次第に明らかになってきた、ということなのかな、と思っています。
ともあれ、こういったことがあるから、中央集権的なデータ管理は信用ならない。essa さんが何度か書いていた、ローカル Internet Archive の早期実現に期待したい。そこまでいかなくとも、自分が閲覧したウェブページを全部自動で保存できるような、そしてそれを簡単に検索できるような仕組みを、私が手軽に使えるようになったらいいな、と思っている。書籍と比較してウェブサイトが不便なのは、まさにこの点なので。
rir6 さんがなぜブログをやめてしまったのか私は知らず、残念に思っていたのだけれど、こういうことだったのか……。澄良木修司さんのストーカーっぽい行動に参った、と。
rir6 さんは傍観者たちに対して怒っている。ここしばらく、そういった筋書きの小説やドラマ、よく見かけるような気がする。いじめの実行者よりも傍観者に恨みを抱くという。ふつうの復讐劇に読者や視聴者が飽きているとか、大量殺人の動機付けに都合がいいから、といった視点から重宝されてるのかな。
私は rir6 さんの怒りはわかるけれど、その倫理基準には賛同できないな。だって、厳し過ぎるもの。例えばホームレスが近所の公園にいるとする。ある冬の朝、彼は凍死していました。さて、彼を助けなかった私は殺人者なのでしょうか? まあ、広義の殺人者ではあるのだろうね。多少は申し訳なく思う。けれども、死者の遺族が現れて、「放置の責任を取って賠償せよ」とか要求してきたら「勘弁してよ」と思うでしょう。
私は rir6 さんと澄良木さんのトラブルを知りませんでしたが、まあ、知ってても静観していたでしょうね。rir6 さんが「やめてください!」といっているのを見てさえ、何もしない。「徳保さんからも一言いってやってくださいよ」と頼まれたら、ようやく重い腰を上げる……と思うけど、保証はできません。冷たい話ですが、rir6 さんよりもっと不幸な人は世の中にいくらでもいて、私は彼らを見捨てて生きている。
rir6 さんを助けないことが罪ならば、私の人生なんて、とっくに罪の底なし沼に落ちているといっていい。私は気まぐれで、助けたいときだけ人を助ける。これが精一杯だ、とはいわないが。→ウッシュリスト(2006-03-17)
もしまた将来に於いてこの様な状況(つまり、あるブロガーに対し変質者が犯罪行為を行い、それをウェブ上に公開しているというような状況)が現れた時は、今度はきちんと言論人としてそのような変質者を批判して欲しいし、明白な犯罪行為でなくても、犯罪行為につながるような異常な行動であったら、それをブログなどで取り上げる時は一定の留保をして欲しいと、それだけを僕はid:kanose氏にお願いしたいのです。
と、rir6 さんはおっしゃる。無理だね、少なくとも私には無理。よく知らない人が死んでも死んでも死んでも、何の声も上げないような人間だもの。そんな私も、ほしい助けが得られなかったときには、冷たい人々を恨んで憎んで呪うに違いない。けれども、時が激発した感情を洗い流したなら、冷たい人を憎むよりも、温かい人に感謝する気持ちを思い出したい。
いつぞやに助けてくれた fhvbwx さんには恩義を感じています。
私も「住所を公開してもいいかな」と少し思っているので、そのあたり少しだけ……。
現在私は電話番号を公開していますが、いたずら電話はほしくない。これは、それなりに発言に責任を取るつもりはある、という意思表示なのです。
住所と電話番号がセットになると、いたずらのバリエーションも増えます。しかし個人レベルで住所と電話番号を公開している人は、じつはたくさんいます。個人運営のネットショップや、フリーのデザイナーの多くは、自宅が仕事場と一緒になっていて、当たり前のように住所も電話番号も公開されています。彼らがみないたずらや嫌がらせに悩んでいる、という話は聞きません。連絡先の公開が即ち致命的だとはいえない。
じつは私が某ウェブサービスをやめたのは、要求を示さず嫌がらせの予告が行われたからでした。私はそのサービスにおいて本名も勤務先も自己紹介に記載していました。そこに目をつけた某氏は、私が数回「**という属性を明かせる方のみ、ご意見ください」と書いていたのをとらえて、私の勤務先に「御社では社員に個人情報を集めさせていますが、何に利用しているのですか?」といった質問をする、という。これには参った。
べつに悪いことはしていないのだけれど、申し開きができればいいという問題じゃない。趣味領域のトラブルを仕事場に持ち込むこと自体が問題なのは、気弱な会社員の人ならお分かりいただけると思う。
相手は私を侮蔑する言葉などを日記に書くのみ。要求が皆目わからないので、私は困りました。悩んだ挙句、「目障りだから消えろ」ということか? と思ってサービスを退会したら、「これで許してやる」みたいな日記を相手の方がお書きになったので、ホッとしました。触らぬ神に祟りなし。この日記の読者様におかれましては、「あーそういうことがあったのね」とだけ思ってください。こういうこともあるんだなあ、と私は実感したわけです。
ではなぜ、いま住所の公開を即座に却下しないのか。やはりそれは、世の中たいていのものごとは、利益と経費のバランスの問題だと思っているからです。最近、クラスの緊急連絡網に電話番号を載せることさえ嫌がる人がいるのだそうですが、「台風で学校はお休みです」という電話がかかってこない不便に耐えてまで、広告電話を掛けてくる業者に電話番号が渡る危険を避けたいと思う心理は、私には共感し難い。BSE でみんな大騒ぎしているのだけれど、自動車には平気で乗っている……。
仮に将来、私が住所を公開しても、私は来客を望まない。電話番号を公開しても、常に留守電にしているのと同様です。徳保隆夫は連絡先の割とハッキリした人間だ、というアピールをしたいだけです。僅かな利益と、僅かなリスクのバランスをどう考えるか。ま、大半の日本人は匿名を貫くのでしょう。その一方で、年間の売上が数万円にしかならないネットショップでも法の規制があるのでみんな住所と電話番号を公開している。「住所を公開するなんて信じられない!」という人も、そうした現実を知った方がいい、とは思う。
本題と関係ないところに注目。
「決して愉快そうにしているわけではない相手の誕生日を祝う会を勝手に開くという十二分に悪趣味なイベントについて馴れ合って事実上承認することに、何の問題もない」
どうしてこう述べないのか。こんだけ長いやり取りをしていても、まるでそれだけは言っちゃいけないことを知っているかのように、このような言い方だけはしないのですよ。
苦笑い。ある事象を表現する言葉には、発言者の価値観が紛れ込む。したがって、事象の認識そのものは共有されていても、表現の選択は対立する。そこを曖昧にして「この言葉を受け入れないということは、事実を否定するということだ」と迫るのは、なんだか詐欺っぽい。ま、私もしばしば便利に使う手なのですが。
#しかしこうして並べてみますと、webmasterのエントリ名の付け方がいかにもみすぼらしいです・・・。
だははは。「吹き出した」つながりでもうひとつ。
山田優だってトップレスになっているのに
セクシー度は明らかにアネッサでしょうというのは結論先にありきだと思います。
し、しまつた。単にエビちゃんファンなのがばれちまった_| ̄|○
という Koiti Yano さんのコメントもいい。
「いかがなものか」は言葉の響きが好き。
で、それはさておき
云々だけど、「ホンマかいな」という感じ。ダブルミーニングじゃないの。
……まあ、加野瀬さんの記事を否定はしません。そういう面はあるのだと思います。
ただ、私は「誤解」に基づいて相手が怒っているから補足記事を書いたので、私が「書いたつもり」のことがきちんと伝わっていて、その上で相手が怒っているなら、続きはなかったはず。あるいは「誤解」があっても、相手が気にしていないなら、やっぱり何も書かなかった。だからコミュニケーションを継続したいのなら、あのようなアプローチ方法はデメリットが多過ぎる
なんて解説されるのは不本意です。
ところで、男子小学生ってのは、仲良くなっても(子ども社会のしがらみゆえに)いいことがなく、そのためむしろ仲良くならないことを目標とするので、好意をうまく表現する必要がない、と私は理解しています。(だから? ってトコは略)
トニオさんには何か嫌なことがあって、以前のはてなアカウントを捨てたんですね。で、新しいアカウントを取って、楽しい新生活をはじめようとしていた。加野瀬さんは、トニオさんが新アカウントでとある嘘をついていることが気になっていた。けれども、その説明をするには、新アカウントをばらす必要がある。とりあえず、新アカウントをソーシャルブックマークして様子見を決め込んだ。
加野瀬さんのブックマークをお気に入りにしている人は数百人いるので、トニオさんの新アカウントはけっこうたくさんの人に知られてしまうことになった。トニオさんは怒って、日記で反応した。ま、罠にかかったようなものですよね。トニオさんが公開のウェブ日記で質問するなら、こっちもそうするよ、というわけで満を持して温めていたネタを繰り出した。で、トニオさんは開き直って(?)ガンガン反論をはじめたわけなんだけど……みたいな状況。
以上のまとめには、例によって私の憶測がいろいろ入ってます。
私的な対話ならメールなどを使う。ウェブ日記で意見を書くからには、仮に私信のような形式であっても、第三者の目を多少は意識しているもの。ウェブ日記ならどれでも同じかというと、もちろんそうではない。読者の人数とか、客層とか、いろいろ考えることはあって、加野瀬さんが最もホットな手持ち媒体であるARTIFACT@ハテナ系をトニオさんへの言及の場として選択したことには、一定の意図があるのだと思う。
トニオさんもメールではなくウェブ日記で反論を返したので、おそらく事態の収拾より、もっと大切に思っている何かがあるのではないか。
加野瀬さんもトニオさんも、何を望んでこんなやり取りをはじめたのか、私にはよくわからない。私の経験上、ネットバトルみたいなものは、「公開の場で書く」ことが最優先になっていて、他の目的が希薄化しているときに、起きやすいような気はしています。
議論が膠着したときに、ギャラリーの判断を仰ぐというならわかる。あるいは、自説に強い自信があって、相手が口答えしても大勢の支持を背景に叩き潰してやるぞ、といった意図があるなら、まあ理解できなくもない。けれども、たいていはそうではないのですね。何となく、公開の場で書く。
書いてしまう、といった方がいいのかなあ。素直にメールで意見する方が、議題となっている問題の解決には効率がいいケースが多いと思うわけです。みんなの前で批判するから、自尊心を大きく傷つけることになりやすい。あるいは肝心な部分をズバリ書くのをためらって「ほのめかし」にしたがためにトラブルとなったりもする。非公開の対話なら自尊心を傷つけないか? もちろん、そんなことはない。非公開でも直言し難いことは少なくない。ただ、公開のやり取りと比較すれば、と。
いや、非公開でのやり取りこそ、醜くエスカレートしていくことがあるではないか、という反論があるかもしれない。それはそうなのですが、非公開をいいことに罵倒の限りを尽くしたメールに、果たしてプライバシー権が認められるのか疑問です。著作権云々だって、もっと優先すべき問題があると考えられるケースはあります。そんなわけで、非公開でこじれた議論を公開の場に移すことは、必ずしも難しくない。
だから、もし「問題」の「解決」が最優先ならば、基本的には、とりあえず非公開で対話をはじめるべきなのではないか。企業間取引も、政府の外交も、大抵そうした手順を踏んでいますよね。
加野瀬さんのブックマークが嫌だったなら、トニオさんはメールで連絡すればよかったのだと思う。加野瀬さんしか読まないメールでかっこつける必要はないので、抗議なんかせずに「お願いだから勘弁してください」と下手に出れば、ブックマークを削除してくれたんじゃないかと思う。
逆に加野瀬さんがわざわざ目立つ場所でトニオさんの抗議に反応したのは、それとは別にいい機会なので
云々を書くためでしょう。でもこれだって、機会なんか気にせず、メールで指摘すればよかった。メールでは無力? 私には、最初からそうとわかっていたとは思えません。相手の恥を公然と指摘しておいて、議論に自尊心バトルを絡めるのはやめてほしい
という言葉を「名言」として紹介するのはいかがなものか。
とはいえ相変わらずウェブで元気に(?)反論するトニオさんにも、それほど問題解決の意思はないような感じがする。加野瀬さんが日記で反応したのを受けて、もう当初の希望は実現されないことが明らかとなり、やけになった? まあそうなのかもしれないけれど、もう一回はてなのアカウントを作り直すくらい、どうってことないんじゃないかと思う。だから、この場を適当に切り抜けることに気を向ければいいのに、と考えなくもない。
加野瀬さんの第二信には加野瀬さんなりの手打ち案が書かれています。「加野瀬さんは影響力の強い大手サイトなんだから、言及には気を使って欲しい」ということだと理解しました。ということは、これは対等に扱わないで欲しいという宣言なんですよね。
というわけ。加野瀬さんは何となくギャラリーの支持において優勢なので、強気に出ている。そこがムカつく、という感覚は理解できるけれど、「そうです、すみません」とかいっておけば、「仕方ないなあ」となりそうです。
真実はどうだっていいわけですよ、相手が自分の望む行動をしてくれるなら。本当に切羽詰っているなら、四の五のいう余裕はない。加野瀬さんの挑発に乗るなんて、無駄なことをやっている場合じゃない。ましてやトニオさんが加野瀬さんを挑発するなんて、愚の骨頂です。ますます追い込まれるだけなのは目に見えている。
それでも、トニオさんはウェブ日記で加野瀬さんへの反論を書きたいのでしょうね。そもそも加野瀬さんだって、一定の意図を持ってブックマークされたのでしょう。だからこれは、予約済みのネットバトルだったのだと思う。
ただ、私は今回の加野瀬さんとトニオさんのやり取りを「くだらない」と思っているわけではありません。
「そんなことはチラシの裏に書いてろ」なんて言葉がありますが、ウェブ日記を書く人の大半は、公開するのでなければ日記を書けない人だと思う。私はそうでした。紙の日記には何も書けなかった。すごく書きたかったのにね。
高校時代から数年間、文通相手ができて、いろいろ書くことができて面白かった。ひたすら自分のことばっかり書くのだから、よく相手が我慢したものだと思う。まあ、相手の手紙の内容にほとんど触れないのはお互い様だったんだけど(と書くと、そんなことはない、といわれそうな気もしないでもない)。
最初は単に手紙を出すだけだったのですが、ふと「あ、生まれて初めて自発的に日記を書くことに成功してる!」と感動して、コピーをとってから手紙を出すようになりました。気持ち悪いねー。ワープロを買ってからは、コピーの手間がなくなって嬉しかったな。でもフロッピーディスクが不思議とよく壊れたので、やっぱり紙のコピーも必要だと実感させられた。
で、大学生になってメールを使えるようになったら、手元に自動的にコピーが残ることに感動したなあ。複数人と気軽にやり取りできるのもいい。それに大学のサーバは基本的に壊れないのが素晴らしい。
そんなわけで文通に飽きてしまって、「初期の手紙はコピーをとっていないので、コピーを送ってもらえますか? コピー代と手間賃は出します」とかいう手紙を書いた。ありがたいことにコピーがどさっと送られてきた。お礼状を返した後は、2回くらい年賀状。2回で終わりにしたのは、私の年賀状が届いてから、返信を書いた旨、さらっと書かれていたから。あー、面倒なんだろうな、そういうのは申し訳ないな、と。
えーと、何の話だっけ。あーそうそう、チラシの裏。チラシの裏じゃあ、日記を書けない人が、いるわけです。紙の日記を書いている人は、それをウェブに公開したい人の気持ちがよくわからないかもしれない。実際その疑問は正しくて、母が書いてる暗号のような日記を公開しても、誰も読みたがらないだろうし、母だってそんなもの、読ませたいとは思わないに違いない。ウェブに日記を書くなら、やっぱり今の日記とは全然別のものを書くことになるはず。それは不思議なことではない。
同じ「日記」という言葉を使っているのが誤解の始まりで、他人に読ませる日記と自分専用の日記は別物といっていい。そして、ウェブ日記でもブログでもいいんだけど、「他人に読ませる文章を書く」というのは、それ自体、けっこう重要な目的となりうるのではないか。「なぜ重要なのか」という説明が難しいから、これまで軽視されてきたのだけれど、ブログもこれだけ普及してきたことだし、そろそろ見直されていい頃だと思う。
加野瀬さんもトニオさんも、「公開の場で書きたい」ので、そうしている。加野瀬さんが問題視した「嘘」も、トニオさんが怒った「正体ばらし」も、もっと大きな欲求の中に飲み込まれている。「日記書きというのも、難儀な生き方だな」と、この日記を書きながら思いました。
我ながら、ものぐさの癖によくこんな長文を書いたものだね。ま、読者様のお力、ってやつですな。
私の結論は加野瀬さんもトニオさんも、「公開の場で書きたい」ので、そうしている。
ですよ。瑣末な問題の解決や損得などを超越したところで喧嘩をなさってるのだ、と。トニオさんが引用された部分は、「問題」を「解決」したいなら……という話。実際にはトニオさんと加野瀬さんに却下された選択肢なのだから、ぼくとしてはまったく違う
に決まってます。