備忘録

平成20年8月27日

1.

「折鶴オフ」の再現。

長崎平和公園とか行ったことがある人ならわかると思うけど、地元民にとっては上野公園や日比谷公園と同様の「公園」なのであって、路上パフォーマンスをやってる人もいるし、走り回ってる子どももいる。

上野公園にだって関東大震災や東京大空襲のつらい思い出がある。2005年に「時忘れじの塔」が建立された際に広く報道されたので、記憶している人も多いと思うが、上野公園は、かつて東京大空襲の犠牲者がリアカーで運ばれ仮埋葬された場所だ。(遺体は後に掘り起こされ荼毘に付された)

様々な楽しいイベントが開催され、私たちが楽しく過ごしている場所は、かつて無念の死を遂げた人々が埋められた地でもある。しかし先人たちは、あるいは多くの遺族たちは、いま私たちが上野公園で平和を謳歌し、楽しく歌い踊ることを不愉快に思うだろうか。

墨田区横網町公園はかつての本所被服廠跡であり、関東大震災で4万人が焼死した場所だ。5月頃、出張帰りに寄ったが、女の子たちがキャッキャいいながら最近人気のアイドルグループ「羞恥心」のダンスを練習(?)していた。不謹慎だ、と私は注意すべきだったのだろうか。

横網町公園は慰霊を目的とした都立公園で、毎年3月10日と9月1日に大法要が行われ、公園の「外」に縁日の屋台が並ぶ。厳粛な慰霊の儀式と、縁日を楽しむ人々の笑顔は、両立していると私は思う。無論、うずたかく積まれた白骨の山を見て、やっぱりこういう場所で歌い踊るのはひどい、と思う人はそれでよい。

ただ、ブログを炎上させ、当人の意に反する形で個人情報を晒し、急進的に社会的制裁を求めるのではなくて、もっと穏当に共存しようと考えることはできないか。

原爆ドームを背景にパンチラダンスとやらをする人の気持ちは、私にはわからない。不気味な感じもする。けれども、「わからないから、どうでもいい」「気持ち悪いから、消えてもいい」「ニコ厨m9(^Д^)プギャー」という風には思わない。

寛容の精神なき世界に平和はない。炎上のような数の暴力で、意に沿わぬ言動を叩き潰さんとするのは、大袈裟にいえば平和への挑戦ではないか。

2.

日頃の行いが悪かったので、この程度のことで異様な攻撃を受けるのである、なんて意見をいくつも見かけた。

どう悪かったのかと思ったら、「アイドル気取り」「調子に乗っていた」「バカっぽい」「コメントくれくれ厨でウザかった」……なんなんだ、それは。いじめっ子の論理そのものじゃないか。世の中にいじめられた側の体験談ばかり多いのは、いじめた側が無自覚だからだ、ということをあらためて認識させられた。

分析、として書いているなら、同意もできる。ひどい世の中なので、処世術として、こういうことに気をつけた方がいいかもね、というなら。でも違うんだな。一部に例外はあるのだろうが、だいたいはむしろ積極的な現状の追認・強化の意思表示なんだ。

あと、こうした話題になるといつもそうなんだけど、擁護側は奥歯にモノが挟まったような物言いをし、批判側がストレートに嫌悪感を表明する、というパターンが今回も踏襲されている。自分自身も原爆ドーム前でパンチラダンスしたいという人は皆無に近いので、どうしてもそうなってしまう。

自由を擁護することの難しさ、を痛感する。

平成20年8月27日

自分が敗者と判断した人物が、それでも撤退せずに持論を主張し続けているのを見て、「敵を増やして、バカだね」と冷笑する人は、自分自身が無意味に敵を増やしていることには頓着していない様子。確実に勝てる相手なら、いくら敵に回したっていいらしい。

で、こういう人って、バカにしていた相手に他の話題で言い負かされそうになると、今の話題とは無関係なのに、しつこく過去の話を持ち出して、所詮こういう人ですからね、とやるのが常套手段。

みな論理的に話をしている(2006-06-06)に書いた通り、人の意見はたいてい、論理に瑕疵はない。前提とする事実と価値観の相違が、意見対立を生む。議論を進めれば、事実については共通認識が得られても、価値観の差異は最後まで残る。価値観は人格と結びつくことが多いから、人間として云々みたいな話になる。

つまりさ、例えばの話、判例を研究する限り赤ちゃん殺しはざっくりいって0.5人の殺人とみなす、という考え方があることは事実なのだけれど、そういう歴史的な判例の積み重ねを重視する、という価値観の表明が、「人間として許し難い」みたいな反発を招くことになる、という。

こうなると、その後、全然違う問題で、どれほどていねいな議論を展開しても、「騙されるな! **は赤ちゃんの命は0.5人分とかいってたヤツだぞ!」で無効化されてしまう。

ふつう最初からこちらをバカにするような人とは議論しない。だから過去の議論の相手方は、やっぱりそれなりの人。時間はかかっても、意見は対立したままでも、お互いに一定の信頼関係を築けることが少なくない。でも勝ち馬に乗って人を見下してくるような人とは、いつまでも相容れない。

で、こういう人が一番しつこい。倫理的な枠組みに落とし込めば絶対に(ギャラリーの支持において)勝てるとわかっているから、何のリスクも感じずに平気で人を貶めて楽しむ。もう忘れてくれたか、と思ったら、またやってくる。

平成20年8月20日

北京五輪の開会式で少女が「歌唱祖国」を歌う場面、画面に映ったのは林妙可さん、歌声は楊沛宜さんだった、という話題がありました。

単に「そういったこともあるのか」というのではなく、倫理的な批判が繰り広げられたのは、私には意外な感じがしました。さらに「マクロス」のファンでもこの件を嘲笑している人がいて、困惑しました。マクロスのヒロインらの歌唱シーンは、しばしば声優ではなく歌手が吹き替えているので。

ミュージカル映画などでも、しばしば歌声の吹き替えは行われています。有名なのはオードリー・ヘプバーン主演の「マイ・フェア・レディ」。ヘプバーンさんはきちんと訓練して撮影に臨み、カメラの前で歌声を披露して録音もされたのだけれど、結局、吹き替えに。いつだったか、ヘプバーン歌唱版がテレビ放映されて話題になったことがありました。

タイトルを失念したのが残念ですが、日本人女優が演じている実写映画で、あえて声優で吹き替えた作品がありました。いわゆるアニメ声のできるいい女優がいなかったから、といった理由だったと思う。

顔担当と声担当の分業の何がいけないのでしょうか。熱湯コマーシャルの湯加減などと同じで、騙されたとかいって怒ってる人の方がおかしいと私は思う。

しんすけのDQ4実況おすすめの紹介記事)が初プレイ風の演出をしていることを、作者のやる気を削ぐような無粋なやり方で公然と指摘して胸を張っていた人々もそう。いったい何の意味があるのか。以前のブログ暴きへの反応から予想された通り、しんすけは引退表明。楽しく見てたこっちはいい迷惑です。

追記:その後、DQ4実況は条件を変えて再開、完結しました。

平成20年8月20日

実況プレイ動画で、初プレイとか、ゲーム初心者などと称するケースが多いのには理由がある。

たいていの人は、平凡なプレイを楽しく見ているだけなんだけど、ニコニコ動画のコメントや実況掲示板には、必ずといっていいほど、自己顕示欲の強い人が棲み付いている。で、何かと実況者のプレイを貶し、俺ならもっとうまくできる、と言い出す。

それはそれで言論の自由ではある。文句をいうならまず自分がプレイを公開してみろ、と思うが、よく考えてみれば、別にそうしなきゃならない理由は何もない。

しかし、たった数人の自己顕示欲を満足させることと引き換えに、数百人が楽しんでいたコンテンツの更新が止まってしまうのは、アンバランスだと思う。言論の自由という大儀があるので、みな我慢しているが、いつか溜め込まれたストレスが爆発するかもしれない。もう少し、上手に住み分けできないものか。

こんなことで更新を止めてしまうなら最初から公開なんかしなければいいのに、などと嘯く人もいたりして、その自分勝手に愕然とさせられる。自分で嫌がらせをしておいて、相手が潰れたことが気に入らないものだから、そういうことをいう。

私はいいたいことをいっただけ、とくに害意はない……はいはい、実際そうなんでしょう。でもね、ようは相手がどう受け取るかという話でね。理想的には、自分がいいたいことをいえて、相手が傷つかなくて、というのがいいとしても、現実はどうなのか。

それをわかっていながら、あえてそこに眼をつぶって、やりたい放題やって、その結果に何の責任も感じない無神経さに腹が立つ。本当は心に痛みを感じていて、それがつらいから、ますます相手が弱いのがいけないと言い募って自分を守っているのかもしれない。私も身に覚えは多い。だからこそいいたい。

攻撃する側が、自らの欲望を制御する以外に、現実の解はない、と。

平成20年8月12日

1.

「女性が痴漢に遭うのは派手な服装をしているからだ。自業自得だと責められるのは当然である」というナツさんの要約に、私は同意できません。

発端の記事を私が要約すると「(事実とは関係なく)派手な服装が痴漢を誘発するとの社会通念があるので、服装次第で世間の対応が変わるのは仕方ない」となります。

その後、ナツさんの指摘を受けて「そのような社会通念はない」「事実として服装は関係ない」この2点を私は納得しました。

ナツさんの要約で不満なのは「(事実として)女性が痴漢に遭うのは派手な服装をしているからだ」「原因を作ったなら痴漢にあうのは自業自得だ」と私が主張したように読める点です。

多くの方が、私の文章をナツさんと同様に解釈されました。それはわかっています。それでも、実際の私の記述へも、できればリンクしてほしいです。お願いします。

3年後に書いた補足記事です。これを読んでも「原因を作ったなら痴漢にあうのは自業自得だと徳保は主張した」と解釈する方が多いのかもしれない。

*末尾をコメント投稿版から改訂しました

2.

この道はいつか来た道でナツさんに指摘されたことなどは、私も身に沁みることが度々あり、近年は再び、原因と責任(2008-03-06)のように思っています。

追記(2008-08-25)

ナツさん宛のメールの一部を、整理して公開。いろいろ気持ちの整理がついた今だから書ける「解題」もありますので、2003年の議論をリアルタイムで読んでいた方には興味深く読めると思います。

平成20年8月11日

Googleストリートビューで自宅を見たら、庭に見たことない人が写ってて大騒ぎ、という話題。

おそらくは水道メーターのチェック。実家のある千葉県成田市の場合、いちいちピンポーンとやらずに「失礼しまーす」といって、さっさと入ってくる。パートっぽいおばちゃんが多い。この件については、契約時の書類をよく読むと説明があったりする。

1円単位で節約してる人がたくさんいる商品なので、メーターをチェックするたび、ていねいに許可を取ることが難しいのだろう。電気・ガス・水道というけれど、水道は最後まで止まらない。経費の節減は死活問題で、ずいぶん苦労されていることと思う。

平成20年8月8日

昨日の続き。学生の期末レポートの質が低くて困惑している先生の日記を読んだ件。

5枚以上という分量になると、当然下書きは必要だ。それをして推敲してから書くように言っているが、たぶんぶっつけで書いている学生がかなりいると思われる。だから、繰り返しが多かったり、論旨に一貫性がなかったり、尻切れとんぼで終わったり、文体が突然変わったりする。

長文レポートに下書きは必須。なのに、それをサボる学生は、たしかに多い。そこで強制的に学生に下書きさせる方法を紹介します。簡単です。

「清書したレポートに下書きを添えて提出しなさい。下書きを添付しないレポートは零点とする」

ちなみにこれだけだと、全く同じ内容のレポートを2通作成する学生が現れます。そこで、「下書きは必ず6枚目の最後の行まで文字を埋めなさい。1行でも足りなければ零点とする。また清書は必ず5枚とすること。4枚でも6枚でも零点とする」などとし、下書きの分量は清書より1枚多くします。

こうすれば、ワープロで下書きする学生でも、無理なく下書きを作成できます。まず6枚ガチャガチャ書いて下書きとし、これを1枚削る過程で自然と清書することができるというわけ。

なぜ下書きは最後の行まで書かせるかというと、5枚+1行で6枚到達、みたいなズルを排除するためです。それに、ページの穴埋めに書いた脈絡のない話が、意外と清書に使えたりもするのです。逆に清書は、内容の方に注力してもらいたいので、行数合わせなどに気を取られないよう、5枚であればよしとします。

余談

某所で実践した方法ですが、バカバカしいけど有効です。なお「零点」は厳しいと思われるでしょうが、複数回、レポートを課す前提で、本当に零点にした方がいいです。そうすれば、2〜3回目で下書き忘れはなくなります。ゴネれば何とかなる、と思われると、ずーっとサボり続ける人が出てくるので要注意。

ただ、この提案を私がしたとき、みんな目が点になってました。ポカーン。一発で変人扱いされます。

だいたい常識人が考えるのは、「下書きの大切さを授業で教えよう」といった方法。でも、そういってる本人が、ちょっと忙しくなると原稿を一発書きしているのだから、他人だって同様だと考えるべき。下書きの有効性は、ちゃんと「下書き→清書」の手順を踏めば嫌でもわかる。

口で説明するのは教師の自己満足。大切なのは、いかにして実際に下書きをさせるのか、だと私は思います。

平成20年8月7日

学生の期末レポートの質が低くて困惑している先生の日記を読んだ。

ジェンダーの基礎知識については、そこらのジェンダー入門書を一冊読めばだいたい足りるので、最小限に止めている。それより何かを見聞きして自分の考えを自分の言葉で書いてまとめるトレーニングをした方が、学生のためになると思っている。

具体的に、どのようなトレーニングを課してきたのか、疑問に思った。

教育技術の初歩を適用するならば、まず例題を提示し、続いて標準的な解き方と、そのポイントを紹介、最後に練習問題に取り組む、という流れ。数学でも小論文でも同じ。学生時代、私は個人的な趣味として、弟が投げ出した進研ゼミの小論文講座に取り組んだが、やっぱり例題+考え方+練習問題の3点セットだった。

数学の問題に様々な解法があるように、小論文だって、唯一の模範的な構成など(通常は)ありえない。けれども、だからといって「主な考え方の枠組み」について教える必要がないかというと、そんなことはない。だいたい小学生を1000人集めたって、自力で掛け算を思いつく子なんか、いやしないだろう。

教師は問題を提示するだけでいい、あとは学生が考えるに任せる、なんてのは小学生に自力で掛け算を発見させようとするのと同様の無茶だ。掛け算を知らない小学生がいつまで経っても足し算一筋で問題を解き続けるように、学生もまた以前から自分の中にある考え方の枠組みから一歩も出ずに考察し続けるのだ。

文章なんか、何も教えずにたくさん書かせたって、さしてうまくなりはしない。いくら書き慣れても、接続詞の誤りなどは直らない。

ストーリーを説明しているだけのもの。個々の登場キャラクターについてはある程度分析できるが、物語の解釈ができてないもの。「でも」「しかし」が続いて何を言いたいのか論旨が不明のもの。ほとんど「性」について触れてないもの。途中からいきなり自分語りになって終わってしまうもの。改行すべきところで改行なし、句読点を打つべきところで無しなどあたりまえで、信じられないほど誤字が多い。

単に講義の度に学生に文章を書かせているだけなら、いつまで経ってもほとんど改善は見られないに違いない。

ストーリーの説明に終始するのは、他に何を書いたらいいのかわからないからで、この手の学生には、定番の「何かいう」技術を伝授するとともに、主張を中心に文章をまとめる文章構成の型を練習させる必要があるだろう。最初は穴埋め作文からはじめるとよい。

キャラクターの分析に注力して物語の解釈を忘れているケースは、ことによると出題側のミスである可能性がある。物語の分析を中軸に据えたレポートを書け、と指示していたのかどうか。

もちろんキャラ分析はできるが物語分析はできない、という学生の能力の問題である可能性は否定できない。やはりここでもまずは知識の拡充から入るのがふつうで、「物語」を分析する道具を授けるとよい。とりあえず「テーマ」と「モチーフ」の2語を学べば、みんな何かしら書けるようになる。

ジェンダーの授業なのに「性」にふれないのは、指示が不明確だったか、学生が何も思いつかなかったか。あるいは、かすかに関連があるから、それでいいと判断したか。何も思いつかない学生には、典型的なジェンダー論へ落とし込むパターンを授ける。判断基準がずれているなら、蛮勇を奮ってボーダーラインを示す。

改行がヘン、句読点がおかしい、これは時に教師のセンスが硬直的なだけで、世評の高い(文学)作品によりひどい(と教師には思われる)事例が存在するケースがままあるから、注意が必要。樋口一葉の小説なんか、衝撃的なまでに読みにくい。

しかしレポートは教師しか読まないわけであり、教師が俺基準を押し付けてもいいだろう。きちんと具体例を示し、AはNGなので、A'のように記述せよ、と指示する。毎年のことなので、一回くらい、きちんと説明資料を用意する手間を惜しむべきではない。

誤字、これはいちいち指摘し、減点の対象であることを学生に伝えること。多くの先生が誤字を減点の対象としていない。学生はそこに甘えている。瑣末なことだと思うなら放っておけばよく、そうでないなら、学生が痛みを感じるレベルで減点していく。

いずれにせよ、フィードバックは必須といえる。他人事だと思うと、学生は勉強しない。夏休み明けに成績表を見て「なんで?」と不思議そうな顔をする。採点済みのレポートを返却されてはじめて、学生は自分の弱点をきちんと認識し、勉強を始めるもの。

だからレポート指導は毎回行うべきだ。半期で10回くらいレポートの採点と返却を行えば、学生もそれなりに進歩する。最後の1回だけ、ではダメなのだ。

しかしレポートの採点はたいへんだ、ふつうは優秀な学生にアルバイトで採点を任せ、教師はチェックだけすればいいのだが、非常勤講師の給料だとアルバイト代を払えない。ボランティアは気紛れなので計算を立てにくい。仕方ないので、毎回の小レポートは400字以内の長さにする必要がある。

それでも、100人、200人が相手だと破綻する。大人数が相手なら、諦めて期末試験を正誤問題などの単答式にするか、文章力云々は気にしないことにするか、だ。指導できないなら文句をいってもはじまらない。

平成20年8月7日

以前より度々表明していることですが、私は、人の本心がどうのこうの、といった議論にはあまり関心がない。結果として表出する(した)こと、を重視することが多いです。「本質」派にとっては些細な違いでしかないだろうことを、大きな違いと認識して、対応に差をつけるわけです。

以下、状況説明は略。言葉の選択の問題について。

福耳さんも麻生さんも、意図が正しく伝わっていないなら釈明したいという意思を示したし、その結果、それぞれに、その場面で自分の意図を伝えるのにより適切な言葉を発見し、以降、同じことをいうのには新しい表現の方を採用するよう心掛けているように見えます。

麻生さんなどはきっと、今後も高頻度で「失言」を繰り返すと予想するけれど、おそらく、(ウッカリを除けば)全く同じ「失敗」はしない。

「真意が伝わらなかった」は、謝罪ではなく、過ちを認める発言でもない、かもしれない(個人的にはそのようには解釈しないが、一般的には辞書的な読解にかなり分があるとも思う)。しかしながら、非を認めた、認めていない、といったこととは別の領域で、「一歩引く」感性を示すことには意義があると私は考えます。

だから私は、HALTANさんが、Apemanさんを、福耳さんや麻生さんと区別することに疑問を感じない。過去の言葉の選択について、「(全面的に)間違っていたとは考えていない」点で共通するにせよ、「以後、自粛する」と「正しい言葉の選択を改める理由はない」では、それなりに違いがあります。

じつのところHALTANさんの意図は私にはわかりません。少なくとも上記のような説明はなさっていない。私はこう考えて、勝手に共感しています、ということです。

平成20年8月7日

例え話は共通点に着目して解釈するべきだと私は考えます。「トリアージ」「ナチス党」「ホロコースト」いずれにせよ、共通点以外の部分に着目して攻撃する意見は、世界を不自由にする嫌な主張だと思います。

だったらなぜHALTANさんに共感するのか。それは、実際問題として前述のような比喩が、共通点以外の部分について注目を集めないことがない、現実の読み手は(書き手も)比喩読解の基本に忠実ではない、それゆえ事実として福耳さんも麻生さんもコミュニケーションに失敗し、Apemanさんの記事も一部の反発を招いているからです。

ようするに、私は究極的には、読み手が賢くなり例え話などで紛糾しない世界を希求するけれども、そのような未来は実現し難いので、処世術としてこうした方がよいのでは、とも考えているのです。

Apemanさんが「ホロコースト」を連発したって「衒学的な威嚇」にならない社会が一番いいが、それは無理なので、だったらもっと言葉の選択には慎重であるべきだ、と、ここでHALTANさんと意見が一致します。

いや待て、Apemanさんがコミュニケーションに失敗したら何か困るのか。お節介なヤツだ。

私の内面の動機を書くならば、結局のところ、私は「バカな読者」を脱することができない。「ホロコースト」なんて言葉がポンポン出てくると、かえって理解が進まず、Apemanさんの文章を読むのに、大きな障害となっているわけです。まあ、本当に理解したいのか、感情的反発を解消したいだけなのかは……。

いま私がApemanさんの文章に感じている気持ちは、muffdivingさんやAntiSepticさんの文章に感じているものと近く、どうも私の中では、「衒学的な威嚇」は***と同様に処理されるようです。そんなの徳保の問題であって、俺が何か改めるべき話じゃない、といわれれば、「まあ、そりゃそうですよね」。

よくよく考えてみれば、私がApemanさんの意見を表現のレベルで引っかかって理解できなくたって、誰も(私も)困らない。……とか何とか、すぐこういう方向へ頭が行くので、そりゃブログの更新も止まるというもの。

平成20年8月7日

横レス。

君が「ホロコースト」を否認したなんてことは言ってないの。誰かが「ホロコースト」について語ることを否認してる、って言ってるの。

あらためて書くと、私の場合は、「ホロコースト」みたいな強烈な言葉を持ち出さずに文章を書いてくれたら、もっとすんなり読めて、理解もしやすいんじゃないかな、と。そう思っているので、「ホロコースト」を例示に使うのは、どうしても必要な場合に限ってほしい、と。これが基本的なスタンス。

HALTANさんは、「衒学的な威嚇」の持つ「他者を黙らせる」効果を重視して、自由な言論環境を維持するための自主規制を説いているのだと思う。で、私はこうした意見にも賛成。炎上のような集中砲火や、罵倒表現なども、全体を活性化させるために一定の自主規制をすべきと考えており、その一環ですね。

で、私としては、「ホロコースト」について語ることを否認するつもりはないし、HALTANさんだってそれは同じだと思う。ただ、ようは、程度の問題であって。そんな小さな的を大砲で狙いますか? と私は思い、Apemanさんは「十分に大きな的だろう」と。そのあたりの基準が、かなり違うのだと思います。

hokusyuさんの説明も、理屈はわかるけど、正直、大袈裟というか、いちいちこんな話題をそこまで広げるの? という、そういうところで違和感をぬぐえない。感覚の違いなのか、バカは想像力が足りませんね、だから困るんですよ、ということなのか。理屈はわかる、と、共感する、は違うんですよね。

で、麻生さんは「政権与党が国民の理解を得る努力を怠ると大衆迎合政党が選挙に勝ち政治が混乱する恐れがある」という話をするのに、ナチス台頭の例を挙げたのは軽率だった、との認識を示された。例として間違いではないが、必要以上に議論を拡大したり、無用の誤解を招きかねない、そういう意味で間違いだった。

福耳さんだって、今度同じ内容の授業をするのに、トリアージを例え話に持ち出すことはないだろう。理由は麻生さんのケースと同じ。無闇に大砲を撃つと、副作用が大きい。そういう認識がある。

今後、麻生さんがナチスについて何も言わない、福耳さんがトリアージについて何も語らない、そういう話じゃない。

私がApemanさんにお願いしたいというか、期待していることというのは、これと同じなんであって。どうして、たかが福耳さんの一記事を批判するのにホロコーストが出てくるのか、と。こうこう考えると、ほら、ホロコーストにつながっているでしょ。そりゃわかりますけど、という話。

別に、そんなに話を大袈裟にしなくたって、福耳さんを説得するには困らない。むしろ、福耳さんや麻生さんがそうだったように、不相応な大砲を撃ったことでかえって話が理解されにくい状況になっていないか。あるいは、過剰に相手を黙らせる結果になってはいないか。

平成20年8月7日

敵に勝ちたいだけなのか? とHALTANさんがいいたくなるのは、私にもよくわかる。大砲があれば、そりゃ戦いには勝てるでしょうけど……という話。

外形的に勝てばいいなら、それでいい。でも、議論でコテンパンに負けたって、納得できないときはできないのが人間でしょう。反論があるならいってみろ、っていわれても、私なんかもう、何もいえない。何も思いつきさえしない。それでも、やっぱりもやもやしてる。ストンと腹に落ちるものがない。

自分がいいたいことも分からないようなヤツが、駄々っ子みたいなことをいってるんじゃないよ、とApemanさんは呆れるかもしれないが。

かつて、私が容赦ない批判を浴びせた結果、消えてしまったウェブサイトやブログがいくつもある。その筆者たちは、「蒙を啓いた」私に感謝していただろうか。わかりきっている。仮にそういう気持ちがゼロではなかったとしても、悲しみ、困惑、怒り、憎しみ、そういった気持ちのほうがずっと大きかったに違いない。

自分が間違っていると思う意見がウェブから消えて、私は嬉しかったか。

はじめは、嬉しかった。だけど、404エラーのページを何度も、何度も、開くうち、バカなことをした、と思うようになっていった。

いつしか、批判対象が消えるたび、ズドーンと気分が打ち沈むようになった。こんなことなら、むしろ放っておけばよかった。どうせ世の中に何の害をなすほどの影響力もなかったのだ。そう思いつつも、反論欲にかきたてられて文章を書いているとき、投稿するとき、私は悲しみを忘却しているのだった……。

そりゃね、こんなのは、ただのお節介ですよ。論敵を大砲で沈黙させたいなら、Apemanさんにその自由はある。やりたければやればいい。悪を論破して何が悪い。そりゃ悪くない。どんどん論破なさればいいと思う。私のいう「副作用」なんか、「効用」と比較すれば、顧慮に値しない些事かもしれない。

「わかりません」で抵抗する連中は、卑怯で、バカで、許し難い。ウェブサイトやブログを消すのは、無責任で臆病な逃走に過ぎない。それもひとつの見識だと思います。私自身、こういう風にでも思わなきゃ、苦痛に耐えられない。

狂犬の言い分がまとまっている記事。オマエはこんな身勝手な理由で人を傷付けて回っているのか、とお怒りになる方は多いと思う。現時点においても、私を突き動かす力の多くは、この記事で説明が付く。

たしかに世間様の倫理観には反するのだろうし、損得をいうなら、「馬鹿なことをした」と私も思います。けれども私は、世間様の倫理観や損得の上に、別の何かを置いて行動しています。だから、世間様の倫理で責められても、よりによってfujiponさんを叩いてしまう大損を理解しても、私はやめられなかった。

さらに3年が経ち、私の信じていた「何か」は、いくぶん磨耗が進んだように思う。それがいいことなのか、悪いことなのかは、よくわからない。

平成20年8月6日

「順位をつけない徒競走」にもいろいろやり方はあります。

私の小学校5年生の時の徒競走は「順位をつけない徒競走」でした。ちなみに兵庫県です。正確に言うと、当日の速かったチームではなく、当日までにタイムを一番縮めたチームがいいんだよというものでした。なので、運動会前に一度タイムを計り、そのタイムをベースに運動会当日のタイムを比較します。

走り終わったときに順位はなく、数時間後、張り紙がはられ、縮まったタイムを確認しに行っていました。

足の速かった私はこの制度に疑問を持ち、先生に「そんなんやったら、運動会前のタイム計るときにわざと遅く走ったらええやんけ」と言いましたが、「みんなのことを信用してる」と言われあえなく却下されました。

私の出身高校には全国レベルの陸上指導者が何人も在籍していました。ある程度の情報共有があったのか、無名の先生の指導法にも、興味深いものが多々ありました。その中に、運動会ではありませんが、「順位をつけない徒競走」に通じる指導もあったので、ご紹介します。

さあ今週から短距離走の授業を始めるよ、という初っ端の授業で、いきなり「小テストを行います。これは成績に直結しますから、一生懸命やりなさい」といって、タイムを計測します。

以後、数週間、いろいろな指導を行って、いよいよ最終回、再び「最終テストを行います。これは成績に直結しますから、一生懸命やりなさい」といって、タイムを計測します。これを準備運動後、2回くらい練習で走った後にすぐ行う。で、残った時間は生徒の好きなサッカーのミニゲームなんかをやらせておきます。

最終回の終了チャイムが鳴る直前、生徒を集めて「初回と比較してタイムが一番縮んでいたのは**くんでした。よく頑張りましたね」と発表。時間に余裕があればベスト5くらいまで。最大の成長株は、ふつう足の遅い半分の中にいます。だいたい体育の授業で褒められた記憶のない生徒だから、とても喜ぶ。

毎回、こういうことをやっていたら見透かされます。そこが難しい。だけど、種明かしさえしなければ「万が一」をみな考えますから、初回の小テストをわざと遅く走る生徒は、まずいません。ときどき「日頃の鍛錬も評価したい」などといって抜き打ちテストをそのまま最終評価とすると、非常に効果的です。

教師と生徒は、ほどよい緊張関係を保つこと。すると、様々な「仕掛け」が機能するようになり、教師の一方的な信頼が当然のごとく裏切られ、生徒のズルに逃げる堕落心が大きく育つ、といった不幸を避けることができます。

「みんなのことを信用してる」で了としてしまった先生は、もったいないことをしましたね。アイデアはよくても、具体的な方策が手抜きでは結果が出ません。

「全力で走れ」と教師がいっても、生徒は手を抜く。手を抜いた方が後で美味しいなら、なおさらのこと。マジメに頑張ったのに誰からも褒められない生徒も、手を抜いて表彰された生徒も、次第に世間をバカにし、憎むようになります。知恵を絞る労を厭い「信用」なる美辞で逃げる人々の未来は暗い。

補記:

ちょっと待て、順位、つけとるやんけ。まあそうなんですけど、ようするに、「速い=偉い」という価値観に対抗しうる価値観を教師が示す、口先だけでなく、身体的な実感のあるカタチで、という話。数週間、みんな頑張って練習して、「あ、速くなった!」と思う。その感覚は横一線。そこで勝負させよう、と。

無論、陸上部員なんか、もともと鍛えてるんだから、数週間でそんな速くなるわけがない。それで彼らが腐ってしまうかというと、それはない。やっぱり、「君が一番だ」といわれて大喜びした生徒だって、陸上部員がどれだけすごいかは、よくわかっている。数週間走り続けて、むしろ尊敬の念を強くするわけです。

基本的にはタイムの近い同士で組を作って走る練習をするんだけど、授業の最初の2走は出席番号順とか、誕生日順とか、座席票に従うとか、ランダム要素が絡むようにするわけ。自分が生徒だったときには理由がわからなかったけど、見事な工夫ですよね。速い=カッコいい、羨ましい、その感覚を忘れさせない。

プロの仕事には無駄がありません。

平成20年8月6日

嘘は言わない。だけど、ミスリーディングはする。エンターテインメント小説の基本的なテクニックだけど、応用範囲は広い。

この手の「人を動かす技術」に脊髄反射で倫理的な批判をする人もいるが、(不幸な例外を除いて)「騙された」側が怒らない、上手なやり方があるもの。一流の人は、スマート。私にそれは無理だけど、ゴツゴツした仕上がりでも、誠心誠意からやったことだと伝われば、だいたい許されるように思う。

私がお世話になってきた方々は、必ずしも一流ではなかった。しかし、知恵を絞った工夫の数々は、けっこう高打率だった。種明かし欲に克つことが最大のポイントらしい。親切のつもりで意図をバラしてご破産、てな展開は多い。そこだけ注意して、みなさんもぜひ挑戦してみてください。

平成20年8月6日

ネタばらしをする理由って何だろう。親切心で、ってのは、やっぱり多いんだよね。だけど成功しない。ある意味、ミスリーディングで人を動かす技術ってのは、そうまでしなきゃ人を動かせないからそうしている、ってことでもあるわけだ。ぶっちゃけていえばね。正面突破でいけるなら、最初からそうしてるってば。

もちろん、個別の事情というのがあって、この生徒なら、むしろ教師の意図をそのまま示した方がいいだろう、みたいな判断はありえる。でも、その生徒の友だちはどうなのか。口止めは下策。結局、0か100か。秘密を抱えて苦しいのは、教師が背負っていくしかない。ネタばらしは、安直で無責任なやり方だと思う。

あとは、自己顕示欲からネタばらしをしちゃう、という事例も多いよね。当初の意図通りにことが運んで成功したなら、それで十分じゃないですか。それなのに、うまいこと考えた自分が少しも褒められないものだから、ムズムズして、全部いっちゃう。卒業式の日ならいいけど、明日からどうするんだろう。バカだよねえ。