いちおう、フルタイムで仕事をしてるサラリーマンですけど……今年は本を484冊読み、DVD換算で1493枚分の映像作品を視聴したようです。
読了冊数に漫画は含むが雑誌は含まない。仕事関連の本も除外します。映像作品のDVD換算とは、映画は1本で1枚、1時間番組は2本で1枚、30分番組は3本で1枚という数え方。ちなみに音楽は映像作品のうちに含めており、CDはシングルでも1枚と数えます。だったら楽勝……と思われるかもしれませんが、再読と再視聴は数えないというルールですので、同じCDを何回聴いても1枚分の扱い。年間1000枚超は厳しいです。
というわけで、たくさん読み、たくさん視聴したけれども、とくにお勧めしたい作品はありません。強いていうならば、「世間に冷たくされた人々の言葉」は書籍として公になることが多いので、書店で見かけたら手に取ってみてほしい。
昨年も、例えば蓮舫さんが著書を出しています。こうした本を、粗探しをするように読むのは、時間の無駄だと思う。既にある批判を上書きすることにしかならない。しかし、なるべくよい方に行間を補って読んでいくと、意外な解釈にたどり着き、「そういうことだったのか」と腑に落ちることがままあります。
リンク先の記事にも書いたことですが、ま、本を読んでも、とくにいいことはないですよ。それは、生きてても、とくにいいことがないのと同じです。読みたい本があれば、読めばいいと思います。
読了冊数は漫画や児童書をどれだけ読むかに大きく左右されます。読む本の趣味・傾向次第では、年間1000冊突破もあり得えそう。
年次視聴作品数は、ふつうに生活する限りでは、限界に近い。録画番組を1.5倍速で延々と視聴し続けて、この数字。休日にダレてしまう分を何とかすれば、DVD換算で2000枚まではいけるかもしれないけれども、仕事と両立させるのが大前提なので、大幅な上積みは無理そう。
……それにしても、私が読みたい本は数万冊はあるので、死ぬまでかかっても、現時点で読みたい本すら、全て読むことは不可能。映像作品も同じで、観たい映画がざっと5000作品くらいはある。一生かけても見終わらない。テレビドラマやNHKスペシャルなどもどんどん新作が登場して、それすら追いかけきれない。
テレビドラマなんてくだらない、つまらない、という人がけっこういますね。まあ、そうかもしれない。私はたくさんのテレビドラマを視聴しましたが、その動機はハッキリしない。強いていえば、「すれちがい」に関心を持っています。
言葉足らずや、他人の言葉を悪意に解釈するために、悲劇が起きる。日本では、そういう作品を毎日、1000万人以上が視聴しているのに、他人の言葉を好意的に補ってすれちがいのトラブルを減らそうとするような社会は、まだ遠い夢のような気がする。ドラマの中では、当人たちだけでなく、冷静であるべき周囲までもが、すれちがいを助長するような言説を振りまいている。「ああなってはいけないな」と、思わないのか。
どう思ったところで、そうなれるというわけではありません。ただ、マスメディアの啓蒙効果に疑問を持つ理由のひとつは、こうしたところにあります。
月次データを見ると、けっこう波がある。月平均はこんな感じ。ばらつきが大きいので、統計的な意味はないに等しいが、単純な事実として個人的には面白い。
CSSアーカイブにリンク集を追加しました。備忘録の方にも転載しておきます。なお、備忘録版は、これっきり更新しません。
おすすめのサイトの他は利用条件別で紹介します。ただ、スタイルの改変や部分的なパクりをどこまで許容するかについては見解が様々です。スタイルを見て勉強するだけなら問題ありませんが、一部または全部を改変して再利用する場合には、リンク先のサイトに記載の利用条件を熟読してください。
なお、私の需要に沿ったリンク集なので、『GALLERY GALLERY : Result -> 179 Gallery site : CSSギャラリーまとめ』から辿れるようなサイトは紹介しません。私は面倒くさがりなので、ブログの「テンプレート」など、1回作ればそれっきりという領域を除いて、基本的には div や class を使いません。ですから、div なしでも使えるスタイルを公開されているサイトがほしい。それに、表紙より本文の方が重要なわけで、「個別ページ本文の見出し、段落、リスト、引用、表をきれいに表示するスタイル」でなければ意味がない。
また、CSSファイルだけで完結する画像なしのスタイルも取り扱いが簡便で好都合。とくに石動さんのスタイルは、日常の様々な場面で何度も活用させていただきました。
親切なテンプレート配布サイトが多数あり、サンプルを見て回り、利用規約を読んで、ファイルをダウンロードして自サイトに適用するまで、ざっと30分。サンプルを再現するには HTML がテンプレートに沿っていなければならないけれども、シンプルなテンプレートなので、新しいサイトなら容易に導入できると思う。
それに、プロジェクトが配布している CSS のテンプレートにおいて、本文領域(div#KIZI)内の要素を基本表現とし、周辺部の要素のみ div#MENU ul など子孫セレクタでスタイルを指示するようにしている成果か、div なしの文書にもそのまま使えるスタイルもたくさんあります。
画像なしのスタイルが多々。利用条件が一律なのがいい。再利用の壁となりそうなのは、テンプレートが複雑なこと。私のような面倒くさがりには、本文を div で構造化するのはつらい。class 不使用のスタイルを選ぶと、急に選択肢が減ってしまうのが残念。
実質的にパブリックドメイン相当ですが、再利用の際は「自分の作品と称してよい範囲」に留意してください。
私が上記リンク先のスタイルを利用させていただいたのは deztec.jp と無関係の場がほとんど。過去、「備忘録」用に他所のスタイルを流用した事例は限られています。
私が deztec.jp 以下のコンテンツによそのスタイルをあまり適用してこなかった理由は、アイデンティティーやメンテナンスの問題もありますが、私が備忘録でしばしば用いる特異なマークアップに対応していないことが多いから、という理由が最も大きいです。本気で探せばいくらでも見つかるのでしょうが、私は一回でゲンナリしてしまい、以降、探す意欲を失っています。
上でまとめたスタイル公開サイトには、リンク先ページ内には、再利用を許可する言葉のない場合があります。それらは、私がサイト全体の利用規約を読み、「スタイルの再利用を許可している」と解釈できたケースです。が、私の解釈が間違っているという可能性もありますし、いつの間にか利用規約が書き換わってスタイルの再利用が禁止されるかもしれません。再利用するのは、最新の情報を調べてからにしてください。
趣味でCSSなどの勉強をされた方のサイトには、しばしば過去のスタイルをまとめたコンテンツが用意されています。それらは大抵、「見て参考にするのはいいけど、そのまま再利用したり、ちょっと改造しただけで完全に自分の作品のように扱うのはやめてほしい」ということになっています。当初はそれらのリンク集も作ろうとしていたのですが、何せ数が多いし、デザイナーのコミュニティとかで話題になるようなタイプのCSSギャラリーサイトとの線引きも難しいので、途中で断念しました。
私自身がお勉強させていただいたスタイルは、「言葉 言葉 言葉」スタイルシートギャラリーやluzu.in/css/からリンクされている中にあります。興味のある方は巡り歩いてみてください。
私の中では、趣味系とプロ系の間には直感的な線引きがあるんですけどね……。上のリンク先にあるスタイルは、どれもシンプルか、素朴か、素人っぽいか。だいたいそんな感じ。適用対象のHTMLが簡単で、スタイルにも一定の普遍性がある。他方、プロ向けのCSSギャラリーで紹介される事例は、個別の状況に特化していて、「自分のところにも使えそう」な気がしない。実際にソースを見ても、記述が膨大すぎて理解不能だし……。
まあでも、うまく説明できないので、再利用を許可しているかどうかでザックリ絞りました。
はてブ経由でCSS Archives :: ねこまぐろ雑貨店を拝見して、「自分も、以前からこういうの、作っておきたいとは思っていたんだよな……」と。古いスタイルが増えて、自分でもよくわからなくなっていたので、ちょうどよかったです。
私の視界の範囲内では、どんどん新しいスタイルを作っていく方が多いようですが、私は少数のスタイルを延々とメンテナンスし続けるタイプ。歴史の長い「think」などは最新版の他に旧版のバックアップが8種類もあります。その変化を追いかけるのが個人的に楽しいので、アーカイブページの構成は少々複雑になりましたが、全ての旧版を紹介しています。
せっかくアーカイブページを作ったので、スタイルの配布についても考えてみました。私が作成したスタイルなら、どれもパブリックドメインにできるだろう……と思いきや、ほぼ全ての画像が素材集の画像を加工したもの(または全くそのまま)だったので、全然ダメ。デザイナーさんに図案などの製作を依頼したスタイルも、私があれこれカスタマイズする限りは問題なさそうなんだけど、第三者が自由にいじることまで私が勝手に許可するわけにはいかない。結局、まじめに考えていったら、どうも窮屈な感じに。
素材集の画像って、素材集を購入した当人はけっこう自由に使えるのだけれども、第三者による再利用は厳しく制限されていて。素材集の購入者が加工した画像であっても、転載NG、改変NG、再配布NG。もちろん、改変の度合いが一定のラインを超えれば、「素材集の画像を加工したもの」ではなく「オリジナルの画像」に変化して、権利の問題はなくなります。が、私の使っている画像は、いずれも素材の良さに依拠してまして……。長らくお世話になってきた素材製作者の権利を、ないがしろにはできない。
そんなこんなで、自分ひとりのためのページにしかならなかった感じだけれども、まあ仕方ない。将来の自分を喜ばせるために手間をかけた、と思えばいいか。
どのスタイルも直リンクなら権利関係の問題がないので、短期的、限定的な利用なら直リンクがおすすめ。転載(流用)や再配布をする場合、素材集由来の画像は差し替えが必要。デザイナー製作の図案は、改変不可。その他、詳細はリンク先をご確認ください。
甲斐範宣さんが公開し、再利用を許可されているスタイルのひとつ。こうした繰り返しの画像などを自分で作れたらなあ……と思うには思うけれども。購入者自身が使う限りは加工自由+権利表記不要という素材集の利用規約は、便利。素材の質にも価格にも不満はない。そんなわけで、勉強する意欲がわかない。
自分の書いた CSS を見直していて、あらためて感じたことをいくつか。
まず、私は CSS の分割が嫌いなんですね。野嵜さんのスタイルを流用する際も、もとは複数あった CSS をひとつにしています。その理由は、「分割すると管理できない」ということに尽きます。ふつうは、どんどん CSS の記述がリッチになっていくので、「分割して管理しやすくする」のだと思う。でも私の場合は逆に、 CSS の記述をプアにする、という道を選択してきました。
CSS がひとつなら、ページ内検索が可能。私の CSS は基本的に「一般→特殊」という順序にしていて、例えば、「font-weight:bold; は強調の表現である」と規定し、
h1,h2,h3,h4,h5,h6,dt,strong
{font-weight:bold;}
などと、まず書いてしまう。見出しと定義リストの定義語と強勢はどれも「地の文より強調される箇所」なので、まとめて太字にするわけです。個別には指定しない。同様に、見出し以外の本文に用いるブロックレベル要素に対しても、まとめて margin の指定をしています。まず「本文のブロックレベル要素はこう表現する」と示す。そうすると、同じ要素に対する装飾指定が、CSS 内に複数登場してしまいます。そこでページ内検索が活躍するわけです。
次に、私は CSS を縦方向に圧縮したいらしい。究極的には、1画面に全部収めたい。どうも私のアタマはメモリが少ないようで、いま画面に映っていない内容を、ちゃんと覚えていられない。だから上の例でも、h1,h2,……と対象要素を並べる際、コンマで改行は絶対にしない。装飾の指定も、セミコロンで改行せず、そのまま続けます。行を増やすと、理解不能になってしまう。
そんなわけで、ゼロから私の書いた CSS は、私の編集環境で、ほぼ2画面に収まるサイズになっています。短いものは80行程度。130行前後がふつう。ファイルサイズは2〜4kBです。
今年は3回、NHKから問い合わせを受けました。NHKの方の目に留まった記事は「家族とゲーム」「ハーバード白熱教室」「節約のコツ」の3つ。これらの記事には、その時々の番組制作のテーマに関連する部分があって、お話を伺いたいというようなことでした。
が、全てお断りしました。NHKの方のご苦労はわかるので、申し訳ないと思う。
私が書いているのは、現実を単純化・理想化した寓話です。取材を受けると、寓話と「事実」のズレに目を向けなければなりません。それは避けたい、と思いました。私が自分のブログに書いているのは、心の中の「ほんとう」であって、客観的事実ではありません。私が写真をほとんど用いないのは、事実と距離を置くための用心でもあるのです。
今年、問い合わせのあった記事は、偶然なのかどうか、「ほんとう」と「事実」に乖離があるものばかりでした。
まず、これら記事には、様々な脚色が入っています。後日談の記事に戦歴や地図の写真を載せたのは、どんどん空想の世界に没入していく筆を、事実の制約によって押さえるためでした。そうした努力にもかかわらず、少なくとも3割引で読んでいただかねば困る記事となっています。
また、ウェブ日記を書いていることを、私は家族に話していません。だから好き勝手に書けたという部分が、相当にあります。こんな記事をもとに取材のカメラが入ることを許せば、無用のリスクを負うことになります。個人的な損得の問題として考える限り、取材を受けることにメリットはありません。
ただ、ひとつ誤解されては困るのは、記事に書いた内容は、私にとっては「ほんとう」の話だったということです。私はこういう世界に生きている。そういう意思表示なんです。「うちのパパは世界一!」みたいなもので、客観的事実は重要ではない。
この記事で、私の母は「無理せず節約できた人」として登場します。が、それはおそらく、客観的事実ではありません。
総体的に状況を観察すれば、母の言葉は「強がり」あるいは「願望を現実に重ねて語った」と解釈するのが妥当でしょう。取材を受けて同じ言葉を口にすれば、多くの人には白々しく聞こえると思う。あのとき、あの場で、他ならぬ私が聞いたからこそ、母の言葉は(私の中で)「ほんとう」になりえたのです。
「ほんとう」の気持ちも、言葉にすれば嘘になる。
私がふだん、無口であろうとする、大きな理由のひとつです。現実から距離を置いて、文章という形で遠い誰かに伝えるのでなければ、私の抱えている「ほんとう」を他者に伝えることはできないのではないか。キリストも、故郷では奇跡を起こせなかったといいます。さもありなん、と私は思う。
どう書いたところで、全員に伝わるとは思っていない。ただ、カメラが捉えるのは、私の「ほんとう」より、よほど客観的事実に近い何かでしょう。それでは、私が記事に込めた思いは、うまく伝わらない。
サイトを見て感服しました。ところでサンデル教授の東大講演にはお出でになられますか? との問い合わせがありました。
「いいえ、私は考えるのに時間がかかるので、生の講義に参加しても、とてもついていけそうにありません。席は限られているので、私が応募するのは不適切だと思いました。後日、放送される番組を楽しみにしています」というような回答したら、「残念です」とのこと。
意地悪な見方をすれば、私は「テスト」から逃げたのではないか。莫大な時間の投入によって(ある程度は)リカバーできる世界に閉じこもっている方が、自分には有利だと考えたのかもしれない。
別解をいくつか。物事には様々な側面があります。「ほんとう」と客観的事実のズレだけが、取材を断った理由ではありません。これもまた単純化のひとつ。
さらが5まいあります。1さらにりんごが3こずつのっています。りんごはぜんぶで何こあるでしょう。
個人的には、5×3 という式にバツがつくのはヘンだと思う。
昨日の記事に登場した2行6列に並ぶ点の個数の問題に戻って考えてみよう。もし「1列ずつランプが点灯していって6列目でランプが全部点灯した」ということならば、2×6 と表現するのが自然だろう。だが、最初から2行6列の点があった場合、それは 2×6 でも 6×2 でもおかしくない。
初歩的な乗法のイメージにおいて、被乗数は固定量、乗数は変化量である(少なくとも学習指導要領解説は、まずそうした理解から乗法の学習をはじめることを想定している/そのことの是非は、今は問わない)。皿の枚数も、1皿あたりのリンゴの個数も固定量なら、どちらを被乗数にするかは、好きに選べばいい。「まず皿の数を数えて、次にそれぞれの皿に何個のリンゴがのっているかを考える」人と、「まず1皿あたりのリンゴの数を数えて、次に皿の枚数を数える」人、どちらもありえる。
文章には、書き手の行動や思考が反映されている。問題文は、まず皿の枚数に言及している。皿の上のリンゴの個数は、その次に書かれている。書き手は、まず皿の数を数えた、と想像できよう。とするならば、3×5 より 5×3 の方が自然ではないだろうか。
しかしながら、多くの人が、「5×3 が間違っているかどうかはともかくとして、3×5 の方が自然ではある」と考えた。さらには、5×3 という式を「被乗数と乗数を通常とは逆に書いた式」と解釈して、「そういう書き方をしたっていいじゃないか」といって擁護する人まで、何人も現れた。妙な話である。
つまるところ、文章を謙虚に読む人が少ないのであろう。
テーブルの上にリンゴの乗った皿が並んだ状況をリアルに想像してみれば、先に皿の数を調べるのは、とくに不自然な行動ではないと理解されるはずだ。先に皿の枚数が確定したので、これを被乗数とし、その時点で不確定な1皿あたりのリンゴの数を乗数とする。自然な思考の展開であろう。結果、皿は5枚、リンゴは1皿あたり3個だった。ならば、リンゴの個数は 5×3 である。
5×3 を間違いとはいわずとも、3×5 の方がより正しい、という側の根拠は何なのか。「1皿あたりのリンゴの数」という語感に引っ張られて、「1皿あたりの」の方が被乗数なんじゃないか? というコンセンサスが生まれ、なし崩し的に問題文それ自体よりも、多数派がその文章を読んで感じることの方が「正しい」ということになり、3×5 が正解だよね、となった……ということであろう。
混乱の原因は、「複数の皿にリンゴを1つずつ置く作業」を表現する適当な単位が日本語にないことである。
再び2行6列に並ぶ点の個数を計算で求める例を考えれば、もし日本語に「列」という言葉だけあって「行」という言葉がなかったならば、「1行あたりの点の個数」という日本語が成立せず、それゆえ、「1列あたりの点の個数」×「列数」という式だけが「自然」といわれたかもしれない。
上図は、「列」と「皿」、「行」と「全ての皿に1個ずつリンゴをのせること」を対応させたもの。この図を見てもなお疑問があれば、問題を除法に変換した次の例を見てほしい。
「皿の枚数」が単位量として自然に機能していることに注目していただきたい。
リボンを7本作ります。1本を8cmにすると、リボンは全部で何cmいるでしょう。
Benesseは「1つ分の数」は「リボン1本分の長さ」なので「8(cm)」、「いくつ分」は、「リボンの本数」なので「7(本分)」となり、かけ算の式は「8×7=56」となります
、と説明する。
問題文からは、「リボンを7本作ることが確定していて、長さの調整をしている」ことがハッキリ読み取れる。ならば、状況を最も適切に表現する数式は 7×8 だ。
図解や除法の例から、リボンの長さと本数はどちらも「1つ分の数」になりうることがわかるだろう。この例が悲しいのは、Benesseの担当者が自分で例題を作成していることだ。自分の書いた文章の意味がわからず、片言節句にとらわれて、歪んだ式を立てる……。ところが、世間的には、Benesse派の人が多かろう。
算数も結局は国語力がないとダメだよね、なんていわれるけれども、私は国語が得意科目だったからこそ、算数の理不尽さには泣かされてきた。「大多数の人が誤読しているなら、誤読の方が正当な解釈となる」という理不尽は、国語の読解問題が本当に得意だった人なら、みな味わってきた悔しさではあるまいか。
そもそも論として、「被乗数×乗数」という順番が「自然」に思えるのは、日本語の性質による。英語圏では、英文法に従い乗数が先にくる。所詮、自然言語に依拠した話なので、高度に抽象的な議論をする場合、自然言語基準の「自然さ」は意味をなさない。
私はこの点について学習指導要領解説のような立場に賛成で、日本の小学生が学ぶ「算数」は、日本語となじむ形で教育するのが合理的だと考える。私は、そうした前提で書いている。
だがそのとき、国語の得意な人が直面する矛盾について書いだのが、この記事だ。「1皿あたりの」という言葉が出てくるや、多くの人が文章の読解を放棄し、無条件にこれを被乗数とする。国語の読解問題なら間違いとなる解釈が、多数決で「自然」とされ、3×5 を「最適な答え」へと押し上げる。
文章の「自然」な解釈とは、多数意見か、それとも実際に書かれている言葉そのものか。国語教育に慣れ親しんだ私は、後者だと思いたいわけだ。言葉と解釈が遊離してしまったら、言語による意思疎通など不可能であろう。ところが、算数の文章題指導は、大多数の人が同じ誤解をするなら、文章に書かれているままの意味とは関係なく、誤読を正解釈とする、というスタンスで行われている。
私は、悲しい。
国語の読解問題なら、クラスで1人しか書かなかった答えでも、正答は正答である。が、算数の立式では、大多数の人が問題文を読み誤るなら、その誤読に沿った式を書かねばならぬ。国語的に正しい解釈に沿って式を書いたら、バツになることさえある。これは国語の得意な人が直面する、国語科と算数科の指導方針の違いに由来する矛盾である。
国語科は、究極的により多くの人が共通の理解を持つためには、テキストに忠実に読む技術を養成せねばならぬ、と考える。算数科は、いますぐ教室の中に共通理解を形成しないと授業が進まないので、ある文章から大多数の人が想起するイメージがあるなら、それを正解釈ということにしたい。私は国語科の理想に共感するが、算数科の事情もわかる。
昨日の記事で、私は「問題文を適切に表現する式を書かねばならぬ。なぜなら数式は答えを得るための単なる通過点ではなく、それ自体がコミュニケーションの手段だからだ」と書いた(つもりだ)。とすると、Benesseの例のように、問題文を書いた当人が誤読準拠の式を正解とするのが現状なので、国語脳は封印するのが正解……なのか?
私も文章読解の勉強をやめて久しい。現在の私の読解力には疑いの目を向けてほしい。
問題文の筆者が、「さらが5まいあります。」を先に書いたのって、「引っ掛け問題」のつもりだったのかもしれないな。
記事を書き始めて数分後にその可能性に思い至り、脱力して半月くらい放り出していた。冒頭に「さらが5まいあります。」を配置した問題文が「引っ掛け問題」として成立しうるのは、「日本語の制約からくる先入観に基づく誤読が、逆に正当な読みとされる状況だから」だ。
盛り上がってるな、ということだけ把握して、その辺の記事はほとんど読まずに書いた。書き終えてから少し読んだら、私の書いたことの多くは、既に誰かが書いていた。いつものこととはいえ、今回は少し手間取ったこともあって、ゲンナリした。
先月、ネットの片隅で盛り上がった話題に関連して。
以下に引用するyetanotherさんの主張は、学習指導要領解説を読み誤っている。いろいろ遠回りもするが、多くの言葉を費やして、その説明をしたい。
なお、話題の種となったもともとの問題について、結局のところ私自身が 3×5 と 5×3 のどちらを「よりよい答え」と考えるかについては、記事を分けた。結論はタイトルの通りである。→5×3 を推す(3×5≠5×3問題)(2010-12-21)
さて、あっさり結論から書いてしまうが、この指導要領解説中に乗法の式の順序を重視せよと書かれている部分は全くない。Kidsnoteで引用されている部分は「何を教えることが求められているか」についてであって、そこに乗法の式の順序が関係するとは全く書かれていない。
さらに以下の引用部分だが、
順序については、ここにばっちり出てます。
また,1 0×4 は,10 が4つあることから,40になると分かる。
この文章が登場するのはP.88「エ 簡単な場合の2位数と1位数との乗法 」の中であって、要するに10の位の数と1の位の数のかけ算についての話の中での文章であり、この件とは無関係である。
P.98には「D(2 ) 乗法の式 」という節があるが、式中の数字の順序については何も触れていない。
無いことの証明は難しいので、有ることの話をしよう。この指導要領解説で乗算の交換法則がどのように扱われているかだ。
P.81「エ 一つの数をほかの数の積としてみること 」には乗法の基礎となる積の概念を示す図がある。
算数を教える教師にとって交換法則は自明なのにあえて「2×6 または 6×2」などと並記されていることに注目すべきである。
次にP.83にははっきりと「( 3) 内容の「A数と計算」の(2) のウについては,交換法則や結合法則を取り扱うものとする。 」とある。
さらにP.88の(さっきの10×4の例の次節に!)は「〔算数的活動〕(1) イ 乗法九九の表を構成したり観察したりして,計算の性質やきまりを見付ける活動 」として、児童に自然に交換法則に限らない数の性質について気がつくような指導を掲げている。この節の最後の文章は個人的には涙ものである。(強調は私)
乗法九九を構成したり観察したりす ることを通して,乗法九九の様々なきまりを見付けるように指導することは,児童が発見する楽しさを味わうことにつながるものである。
やれやれ。というわけで、指導方法としての「3×5≠5×3」の正当性を主張する方々は学習指導要領解説以外のところに典拠を求められるがよろしいと思う。
まず、学習指導要領解説は、児童が学ぶ順番に沿って編集されているのではない。例えば、「第2学年の内容」から見出しを拾うと、以下の通りである。
2 第2学年の内容 〔A 数と計算〕 A(1) 数の意味や表し方 ア まとめて数えたり,分類して数えたりすること イ 十進位取り記数法 ウ 数の相対的な大きさ エ 一つの数をほかの数の積としてみること オ 簡単な分数 A(2)加法,減法 ア 2位数の加法とその逆の減法 イ 簡単な場合の3位数などの加法,減法 ウ 加法,減法について成り立つ性質 A(3)乗法 ア 乗法が用いられる場合とその意味 イ 乗法に関して成り立つ性質 ウ 乗法九九 エ 簡単な場合の2位数と1位数との乗法 〔B 量と測定〕 (略) 〔C 図形〕 (略) 〔D 数量関係〕 D(1) 加法と減法の相互関係 D(2) 乗法の式 D(3) 簡単な表やグラフ 〔算数的活動〕
「A(1)数の意味や表し方」の中に加法、減法、乗法が登場し、その後「A(3)乗法」で乗法の基本的な説明が再び現れている。さらにずっと先に「D(2)乗法の式」がある。
何だこれは!? と面食らう方も多いだろう。簡単に解説すれば、小学2年生の算数で学ぶのは「数と計算」「量と測定」「図形」「数量関係」「算数的活動」であって、「足し算」「引き算」「掛け算」はそれらを構成する要素に過ぎない、ということだ。
しかし現実問題としては、まず掛け算を教えなくては「A(1) エ 一つの数をほかの数の積としてみること」を授業することは不可能であろう。学習指導要領解説は、「到達点」を示しているのであって、そこに至る「道のり」を詳述しない。それゆえ、教科書は1冊ずつ構成が異なっている。日本のあちこちで編集者らが知恵を絞り、もっとうまい構成はないか、こう教えたら成果が上がるのではないか、と熟議を重ねている。
ちなみに、10年ほど前の話だが、私も5種類ほどの教科書を比較検討したことがある。きちんと資料を残していないので、記憶で書くから話半分に読んでいただきたいが、乗法の学習は「A(3)ア→D(2)→A(3)イ→A(1)エ→A(3)ウ→A(3)エ→算数的活動」のような順序で教える本が多かったように思う。
まとめると、「乗算」という切り口で学習指導要領解説から内容を引き出す場合、学習指導要領解説の全体を読み、あちこちから記述を集め、再構成しなければならない。そして学習指導要領解説は、基本的に到達点を示しており、途中の指導に必要な便宜は、その少なからずを教科書や指導者の工夫に任せていることに、注意が必要だ。
学習指導要領解説は基本的に、「**である」と説明し、「**ではない」とはいわない。これは簡潔をよしとする書類、重要度に応じて内容量の配分をすべき書類では標準的な記述法で、民間企業の作業標準書なども、多くは同様の形式でまとめられている。
通常、こうした書類の中に多くの人が誤解する部分などがある場合は、より信頼度の低い(その分、柔軟な対応が可能な)形で付属書や解説書を発行する。学習指導要領解説は、それ自体が学習指導要領の解説書なのだが、算数編などは200ページを超える大部だし、またこの解説の公的な重要度から考えるに、現在の編集方針は正しい。
誤解の多い箇所について「**ではない」という記述が必要であれば、学習指導要領解説の補足書を作成すべきだろう。民間企業の製品の仕様書や図面だって、標準、解説、補足の3段階くらい用意することは珍しくない。解説が膨大になるなら、補足の部分を切り分けて、解説書類もまた標準書類と同様の形式で作成するのは、実用の知恵である。
というわけで、学習指導要領解説のような文書を読み解くにあたり、「**が間違いだとは明記されていない」と言い募るのは悪手だ。その言い分が通ると、社会のあちこちで不都合が生じる。この場合は、「様々な記述に照らし合わせて、自然な解釈を採用する」という読み解き方を採用するのが妥当だ。
掛け算が登場するのは2年生からだが、その基礎概念は1年生の段階から準備されている。例えば算数編のP64を参照してほしい。注目してほしいのは、「40は10の4個分」「10が6個で60になる」といった記述。「40は4個の10」「6個の10で60になる」とは書いていない。
単位量をまず示す、という解説の記述法は、P70に記載の意図にも合致している。
P76では加法の式の読み取りについて解説しているが、ここで解説者は「5+3=8」から「砂場で5人の子どもが遊んでいます。そこへ3人の子どもがきました。子どもは全部で8人になりました。」という物語を作っている。5+3 という数字の順番を無視してはいない。5がまずあって、そこに3を足す、と解釈している。
P77の例も同様である。
P63では繰り上がりの計算に必須となる、数の分解を扱っている。これは同時に、児童が加法の交換法則を帰納的に納得する仕掛けを示している。「交換法則」を道具として十全に活用するのは4年生からだが、1年生の段階で種はまかれている。
まあそれは余談で、ここで気付いてほしいのは、解説が 1+4 と 4+1 を異なる操作として列挙していることだ。もし 1+4 と 4+1 に何ら違いはないのだとすれば、1+4 と 2+3 の図のみ示せばよい。だが、そうはしていない。
解説書では、立式の論理と計算の都合とを区別している。P69の例題の状況を数式で表せば、8+7 となる。だが、そのままでは計算に不都合なので、数を操作するための便宜として、途中の式 (8+2)+5 や 5+(3+7) が登場するのである。
難しい箇所なので、落ち着いて読んでいただきたいのだが、数を操作する手段として登場する (8+2)+5 と 5+(3+7) は可換である。解説書の説明から、そう読み取れる。道具は自由に選べるわけだ。しかし、最初の式 8+7 は 7+8 と可換か? 「全く問題文の通りに立式する」という制約下では、非可換である。
学力到達度を測る試験において、7+8 という立式を誤答とするのは、正しい指導か否か。それは、わからない。学習指導要領解説は、そうした実践上の課題に答えを示してはいない。ただ、例題の状況を最も自然に表現した数式は 8+7 なので、「例えば」を付さずに 8+7 という式だけを示している。
8+7 でも 7+8 でもどちらでもよい、というのは、粗雑な考え方だ。数式は具体的な状況を要点を絞って表現するきわめて強力な手段である。計算して答えを得るための、一時的な道具ではない。数式は単体で意味を持っている。具体的な状況を言葉で詳述するよりも、数式によって端的に示す方が、本質をズバリ示すには好都合な場面は少なくない。
「太郎さんはどんぐりを8個拾ってきました。花子さんはどんぐりを7個拾ってきました。合わせて何個でしょう。」この問題文だけでは、太郎さんが先に登場する意味はわからない。意味はないかもしれない。しかし結果さえ正しければいいという立式は、「仕様通りに動作すればいいんだろう」というプログラムと同じで、第三者による検証や、よく似た他の事例への適用ができない。結果は最重要だが、大勢が思考の過程を理解できるよう、わかりやすい式を書き残すことも重要である。
計算上の意味が同じなら、式はどのように立ててもよい、と教えることには賛成できない。たしかに 8+7 と立式する方が自然だな、という感覚は育てた方がいい。が、その手段として、7+8 にバツをつけるというやり方がいいのかどうかは、別個に検討されてよい。問題は適切に切り分けてほしい。
これは 8+7 と 7+8 だから「どちらでもいい」気がするに過ぎないのであって、「計算結果が同じなのだから」という理屈を推し進めれば、最初から繰り上がりを考慮して 5+3+7 とか 5+(3+7) などと立式することも否定できない。一足飛びに 5+10 と立式するのはありやなしや?
交換法則だけは最初の立式から認めてよいという立場もあろう。だが、足し合わせる数が5つ以上にもなると、問題文通りではない式は、やはり意味不明に近付いていく。試験の採点基準は別として、理想形は 8+7 である、という指導はほしい。7+8 でもマルを与えるのはよいが、理想形を曖昧にすべきではない。
無論、理想形がひとつとは限らない。正解はひとつではない。高度に抽象化された、8+7 と 7+8 を「同じ」とみなせる状況を前提に考えを進めるべき場面も多々あるだろう。しかし、その事実からストレートに「P69の例だって 7+8 と表現してもいいじゃないか」という意見には与しない。
乗法そのものは2年生で登場する。
いきなり核心に迫るが、P88の交換法則に関する記述をどう読むか。これを「自由に数字を交換して立式できる能力を育てようとしている」と解釈するのは早合点だ。解説は乗数と被乗数を区別し、A×B という式について、Aを被乗数、Bを乗数としている。乗法の初歩的理解に忠実な立式を心掛けるなら、逆はありえない。
P98-99は乗法の式の作り方、読み方を扱っている。式を作る例は正解の式を省略しているが、読み取りの例から類推すれば、「1袋に5個ずつ入ったみかんの4袋分」は 5×4 という式で表現されることがわかるだろう。もしこれを 4×5 と表現してもよいのだとすれば、3×4 という式から「プリンが4個ずつ入ったパックが3つあります」という物語を作ってもいいはずだ。しかし、学習指導要領解説の中に、そうした事例はない。
類推では不安だ、という方のために、P107の例を示す。これは3年生の内容の解説だが、「例えば,的当てで得点を競うゲームなどで,0点のところに3回入れば,0×3と表すことができる。3点のところに一度も入らなければ,3×0と表すことができる。」とある。学習指導要領解説が、初歩的な乗法の式における被乗数と乗数の並べ方をどう規定しているか、明快に理解されよう。
「被乗数×乗数」という順番が規定されていないとすると、P88の説明は意味不明である。
suzusukeさんは、批判を受けてP88からの引用を論拠から外してしまった。suzusukeさんは書きすぎた部分のみ訂正し、論拠の取り下げまではすべきでなかった。過剰反応もまた誤解を招く。
yetanotherさんが、学習指導要領解説は 3×5 でも 5×3 でもどちらでもよいと書いている、と論じた根拠は、P81の「エ 一つの数をほかの数の積としてみること」の説明だった。
なるほどたしかに、2行6列の点の個数を数式で表す例について「2×6 または 6×2」、3行4列の点の個数を数式で表す例について「3×4 または 4×3」とある。だが、これは、被乗数と乗数のどちらを先に書いてもよいという意味ではない。そう読むと、他の記述と整合性が取れない。
P81の例題は、被乗数と乗数を自分で定義するタイプの問題だ、と解釈するのが妥当だろう。
つまり、被乗数と乗数を自分で定義できる場合、2×6 と 6×2 が、ともに正しい式になりうる。しかしこの事実から「被乗数と乗数の順番など気にする意味はない」と結論することはできない。問題文中に1列あたりの点の数を被乗数とすることが明記されていれば、2×6 だけが正解になる。
この何を今更的な問題。「別窓」とか懐かしすぎる。俺は数年前にユーザーテストをした。5人くらいのど素人を対象にして。結果は明白。真っ黒だ。なぜなら「別窓」が開いたことを理解できなくて、「戻る」が機能しなくなったんだよ。まあそういう先行研究みたいなものはたくさんあって、一応確かめただけなんだけど。ハイパーテキストブラウザの「戻る」が機能しないというのは、送受信できないメーラみたいなものだろう。そのアプリケーションで一番大切なGUI部品が機能しないということだから。で、パワーユーザに対してはその自由を奪うわけだろう。勝手にウィンドウを新しく開かれるとか、余りにもうざすぎる。それに対して利点っていったいなんだ? もうね。あり得ないレベルだね。センスのかけらもないよ。
こういう話は何度も目にしたのだけれども、経験的には異論があります。
端的には、「素人はいつまで素人なのか」。
私の母の場合、最初は「別窓」に戸惑ったけれども、3日でそれには慣れてしまい、その後はむしろ、特定の場面でサイトの製作者が「別窓」をあらかじめ指定していることを「親切だ」と感じるようになりました。いったんそうなると、「適切な別窓設定」をしていないサイトを「不便だ」と思うようになります。そうして、母は「親切」なサイトを好み、「不便」なサイトを敬遠するネットユーザーになりました。同様の例は、大学の同級生をはじめ、私の周りにいくつもありました。
で、母や同級生のように慣れることができない人は、そもそもウェブサービスに対する親和性が低いし、パソコンにもなかなか親しめない。それが社会の真の多数派なら対策を考える価値もあるけど、じつはそうでもないらしい。私が入社した2002年の段階で60歳を過ぎて延長雇用になっていた先輩方も、target で新窓が開くのを少しも苦にしていませんでしたし、70歳くらいの伯父も、そういうの平気。
とすると、「間口を広く」と考えて、「ど素人」が迷わないようにするよりも、多少間口を狭めてでも「便利」にする方が、サイトの運営者にとって利益が大きいと予想できます。サービスに魅力があれば、人々は多少の壁なら乗り越えてみせるし、いったん障害を突破すれば「便利」な方が魅力的だ、と思うようになるのですから。
Gmail とか、すごく人気ありますけど、あれなんか、素人にはとっつきにくい。私も苦手で、SPAMフィルターとしてしか使っていません。Yahoo!メール や hotmail の方が、よほど間口が広いと思う。でも、人気は Gmail の勝ちですよね。それはなぜか、という話にも通じていると思う。
「閲覧者の自由を狭めない」というのはユーザビリティの基本的考え方の一つだけれども、これに対して「ユーザのしたいことを先回りして準備する」こともまた、製作者には求められている。ユーザが「他サイトへのリンクは新窓で開きたい」と考えているならば、製作者側でその希望を実現することが「ユーザの利便を向上する」ことになる。リンク target 問題の争点は、製作者が target 指定すると、ユーザの選択肢がなくなることだ。しかしユーザが通常のリンク参照と同等の簡単操作で新窓を開くためには、ある程度の勉強が必要だ。そして多くのユーザは、「(自分は何も努力する気が無いが)製作者には何とかしてほしい」と思っている。
この記事を書いてから約7年か……。いろいろ、変わらないな。もちろん変わったこともあって、まさか将来の自分が、本文領域の幅固定や文字サイズのピクセル指定に踏み出すとは、予想していませんでした。まあ文字サイズの方は、本当にこのままピクセル指定でいくのか、考えあぐねているのだけれど。
私は、タブブラウザを使うようになり、複数のタブを一気に閉じれるようになって以降、target指定は気にならなくなりました。ほとんどのリンクを別のタブで開きたいというのが私の希望となり、右ダブルクリック(私はこの操作に「新タブ(裏)で開く」を割り当てている)ばかりしているからです。どういうわけか、target="_blank" が指定されていても、新タブで開くのは邪魔されないんですね。
私の周りの人が特殊なのかもしれないけど、リンク先をどうしても現在のタブで開きたいと思っている人なんて、ほとんどいないんじゃないか。新タブならいいけど新窓は嫌だ、てのは割と聞くけど、Sleipnirなどの「絶対に新窓が開かないタブブラウザ」を紹介したら、たいてい満足されました。
私の母の場合、最初は「別窓」に戸惑ったけれども、3日でそれには慣れてしまい、その後はむしろ、特定の場面でサイトの製作者が「別窓」をあらかじめ指定していることを「親切だ」と感じるようになりました。いったんそうなると、「適切な別窓設定」をしていないサイトを「不便だ」と思うようになります。そうして、母は「親切」なサイトを好み、「不便」なサイトを敬遠するネットユーザーになりました。同様の例は、大学の同級生をはじめ、私の周りにいくつもありました。
この段落がすべてを物語っている。つまり「別窓」とは詐欺師のようなものだ。本当は不便なものを便利に見せかけ、逆に本当は便利なものを敬遠するように仕向ける。
そんなものに騙されないように何かできることはないかを考えるのが常だよ。俺は。
「green」変更点メモ(2010-11-06)の追記部分を、まず再録。
別にその「green」に限った話ではないけど、onselectイベントでアクションが起こるのは非標準的。そしてその切り替え用のGUI部品がスタイル毎にコロコロと位置を変えるのは紛らわしい。俺はユーザースタイルシートでマルチカラムにして流し読みしているが、悪しき「フラット」な構造が踏襲されているため、「Information」以下をコンテンツと区別できずにいる。長文を読むときに致命的なゴミになる可能性があるが、一サイトにこれ以上の手間はかけられない。
申し訳ありませんが、ゼロ回答とさせてください。小さな需要よりは、作者の趣味や都合を優先したい。CSS切替は滅多にやることではないでしょうし、RSSに記事の全文を出しているので、記事のみをマルチカラムにして読むのは、RSSリーダーの方で実現していただければ……。
個人的にマイクロWeb日記は3ヶ月ごとにはてなアンテナに登録しなおさなきゃいけないのが面倒くさいと思っているのですが、Jintrickさんとしては、そういう不満の声に応えるつもりはないと思う。RSSを出してほしい、日付の見出しにIDを振ってほしい、なんて要望にも答えはノーですよね?
それと同じ……といってしまっていいのかどうかはわかりませんが、ご希望は理解しましたが、少なくとも今すぐ対応する意欲は出てきません。
小さな需要の話はすんなっていうなら、初めからコメントを募集なんかすべきじゃないだろう。
大きな需要を見落としている可能性があるから、というのがコメント募集の意図。「たしかにそれは大勢が同様に思っていそうですね」と納得できることでも、指摘されるまで自分では気付かないことって、よくあるので。とはいえ、信頼できる統計付のコメントがくると期待していたわけではなく、所詮、指摘を受けた私が、感覚的に「大勢がそう思っていそう」「そんなことを気にする人は珍しいんじゃないか」と決めるわけです。
あと、私は「小さな需要の話をするな」とも「してほしくない」ともいっていません。コメントをいただいたことには感謝してます。だから、せっかく指摘を下さったのに、「対応しない」という判断になって、申し訳ないと思っています。とくに今回、私が対応しない理由は「面倒くさい」というだけなので。
スタイルシートを切り替えると、切り替え用のGUI部品がどこか別の位置に飛んで行ってしまうのは本質的なデザインの失敗だと言っている。
「本質的なデザインの失敗」なのは同意。でも、私は「本質的だけど10人中1人だけが気にする問題」より、「表面的だけど10人中9人が気にする問題」の方を重視します。
そもそもスタイルの切替なんて、ほとんどの人はやってない。サーバーのログを見る限り、私がスクリプトのデフォルト指定を変更すると、それに従う人が大半。わざわざスタイルを切り替えるのは特殊な人。ならばスタイル切替自体をやめればよさそうなものですが、「私という特別な個人の需要は、100万人の一般閲覧者の需要に匹敵する」という重み付けをしているので、「私がやりたいことはやる」のが大前提になります。
ただ、私だって「絶対にやりたい」ことばかりじゃない。だから、私の中での希望の濃淡と、読者の需要との兼ね合いで、要望を受け入れるかどうかを決めたい。スタイル切替用GUIの位置については、新しいスタイルをデザイナーに発注する際、過去のスタイルに縛られず、自由にレイアウトしてほしいと私が望みました。「大多数の読者に不便が生じるのでない限り現状維持」に分類される事柄のひとつです。
要望くれれば応えるけど、それがこの件と一体全体どういう関係が(棒読み)。
例え話をしているのですよ。「面倒だからやらない」ことって、Jintrickさんにもあるでしょう、と。
Jintrickさんにとって、日付IDは「要望があればやる」くらいのことだったそうですが、やっぱりRSSは出さないわけですよね。
RSS? あるよ。http://page2rss.com/rss/b2b4bc35f4729e55bb925a096780420f。なんでウェブページの作者一人一人がRSSを作る必要があるの。いくらでもそういうウェブサービスはあるのに。
これは私の書いた問題の解決策にはなっていません。3ヶ月ごとにRSSを作り直さなきゃならない。
昔、少なからぬ人がウェブ日記に「latest」とか「最新」といったリンクやページを用意して「ブックマークはこちらが便利です」とやっていたのは、月が変わって更新ファイルが新しくなるたびにブックマークをしなおすのは面倒だから、という配慮でした。「トップページにブックマークして、リンクをひとつかふたつたどればいいじゃないか。その程度のことを面倒くさがるヤツになんか読んでほしくないね」というのが、もうひとつの意見だったように思う。
私は「更新ファイルが新しくなるたび、更新情報であるRSSも新しくなってしまうのでは不便だ」と思うほう。「JintrickのマイクロWeb日記, 2010-2011 冬」のRSSではなく、「JintrickのマイクロWeb日記」のRSSがほしいのです。現状、http://stream.jintrick.net/ のRSSを作っても、毎日の更新をチェックできない。
memo:Jintrickさんへのレスポンスについて言及する意味がありそうなのは1点。更新フィードの部分か。なるほど文脈からすると、RSSうんぬんというよりも3か月毎の登録更新の面倒を論点としていたことはわかる。しかし俺の意図はそこにはなくて、以前から書いていることを読んでくれていれば誤解はなかったと思うけれども、俺は面倒だから自前のRSSを用意しないのではなくて、ユーザーの側が外部ウェブサービスを最大限利用することによって、より多くのサイトが便利に利用できるという考え方を理想としているので、それをここで実践しているということをいいたかった。ここで勘違いしてほしくないのは「ユーザー(User)」というのはその「代理人(User Agent)」を含むということだ。実際にユーザーが行動を起こしてRSSを取得する手続きを踏むことなく、代理人(User Agent)がそのインターフェイスを通じて選択肢を与えるだけで、更新フィードを用意していないサイトでもその更新フィードを取得させるという未来を相手にしている。大した話じゃあない。現在読んでいるウェブページの更新フィードを登録していなければRSSアイコンが一瞬光るなどの動きを見せ、そうでなければくすんだ色で表示されるという、それだけでいい。読者は、読みたいと思えば「光った」RSSアイコンをクリックするだろう。それで登録完了のメッセージが表示されておしまい。
これが何を意味しているかが重要だ。このマイクロWeb日記では、季節毎にURLが変わる。つまり季節毎に、ブラウザが「まだ購読を続けるかどうか」を「RSSアイコンが光る」という仕草でユーザーに尋ねるということなのだ。これこそが俺の狙いというか願いだ。昔登録したブログ等を放置してどんどん溜め込み、ある日気づくとフィードリーダーはスパムメールみたいなつまらない、興味のない記事の見出しにあふれかえっていて、それらを駆逐する作業が定期的に必要となる。そうではなくて、まだ読み続けるかどうかを定期的に尋ねてほしい。ブラウザの側から。
他の部分は話にならない。トクホ氏がどう誤解していようが俺には関係のないことだが、どうやら俺がdeztec.jpに対して何か「希望」あるいは「要望」を出したものと勘違いされてしまっているらしい。上の文章だってトクホ氏への反論じゃあないぜ。
俺は滅多なことでは本質の話以外議論しない。特に個人の好みを因子に含めた議論をすることはまずない。
2008年4月、GIGAZINEは「青少年インターネット規制法案」が成立すると、日本のネットは完全に死ぬと主張した。実際に法律が国会を通った同年6月には、今後の動向についてはかなり注視する必要がありますと書いた。はてブでは、この論調に賛同する人が多かった(例1、例2)。
法律は2009年4月1日に施行された。附則の第三条によれば、政府は、この法律の施行後三年以内に、この法律の施行の状況について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずる
そうだ。2011年には、改正案が国会に提出され、議論が行われるだろう。
改正案の作成に向け、青少年インターネット環境の整備等に関する検討会の議論は、いよいよ佳境に差し掛かっている。例によって内容は「真剣な雑談」で、議事録を読んでも面白くない。が、こうした検討会の出す報告書が、けっこうそのまま法律になってしまうのだ。委員たちがどのような関心を持って議論に臨み、何を実現しようとしているのか、きちんと読んでおくべきだ。
きっとまた、法案提出が迫るあたりから、3年間の議論の過程も、実際に行われてきた施策も無視して、不安と恐怖からギャーギャー騒ぐ人がたくさん出てくるのだろう。言葉尻を捉えて、この部分が曖昧だからこんな最悪のケースが考えられるとか何とか。そのような議論が有効だと考える人は、まず名誉毀損や侮辱を禁ずる刑法の条文を読んでみてほしい。刑法をパラパラ眺めれば、曖昧な記述がたくさんあることに気付くだろう。
かつてオウム真理教の信者は、微罪でガンガン逮捕された。一般市民はそれで「安心」していたが、奇妙なことだ。左翼の活動家がビラの配布で有罪になった事例も、特定の状況を狙い撃ちして法律を適用したケースだった。少なからぬ人々がこれを歓迎したが、恣意的な法律の適用に恐怖を感じないのは不思議なことだ。
が、こうした事例から見えてくるのは、「日本の司法は概ね民意に沿って動く」という事実だ。ネット上の声量の大小ではなく、きちんとした標本調査で賛否が拮抗するような問題なら、基本的には司法も慎重な立場を取る。そこから外れる事例はゼロにならないし、当事者にとっては、それが全てだ。しかし、オウム信者に対する特別扱いを歓迎した市民たちは、司法権力が強力な武器を持っていることに、恐怖するよりむしろ安心したのだった。
冤罪が判明するたび、警察や検察は厳しく批判される。しかし、司法の武器を減らすことには、むしろ反対の声の方が強いのが実情ではないか。自由を希求する声が強い(ように私には見える)ネット上ですら、何か問題が起きるたび、政府の規制や罰則の強化を支持する声がガンガン出てくる。
ようするに、「アパートや官舎でのビラ配りが不法侵入なら、宅配便の配達だって不法侵入になりかねないよね」という意見に、大多数の人は「そうだね」と思わないわけだ。
「宅配便業者も、集合住宅の共有部分に入るときは、事前に電話して、受け取りの意思を確認してからにすべき。そうでなれば、配達先の住人から通報されて不法侵入で有罪になっても仕方ない」と真顔で解説する人も、じつは「日本の警察が本当にその理屈で宅配業者を逮捕するわけがない。万が一、逮捕されたとしても、まさかそのまま起訴されて、すんなり有罪判決が下ったりはしないだろう」と思っているに違いない。
あるいは「原田ウイルス」の作者が著作権法違反で有罪になったケース。別件逮捕どころか別件有罪。たしかに著作権法違反だったが、あれが有罪ならtwitterのアニメアイコンだって有罪になってもおかしくない。彼はコンピュータウイルスを作ったからこそ逮捕され、起訴され、執行猶予付きとはいえ有罪判決に至った。(誤記訂正)
どれも同じことだ。もし本当に、有害サイト規制法とやらで日本のインターネットが「死ぬ」としたら、それは、「常識の外側にいた人にとってのインターネット」が死ぬに過ぎない。そして、ネット世論はどうあれ、大多数の国民は、その変化に好感を持つだろう。
一部、世間様と司法の判断にズレが生じる事例も出てくるに違いない。が、どんどんそのズレが拡大していって、大多数の人を(主観的に)不幸にするところまで突き進むなんてことが実際に起きるとしたら……そのときには、有害サイトの規制などより、もっと重大な法律の曖昧さを問題にしなければならないはずだ。
2011年2月7日に研究会の中間報告が出ました。果たして法改正によって「日本の言論の自由とインターネットは死ぬ」のかどうか、大騒ぎになる前に、まずご自分の目で内容をご確認あれ。
- もし仮にウィキという言葉が他に(ほとんど)使われていなければ? その場合はウィキペディア=ウィキと略しても問題ない。
- たとえば、携帯するものは非常に多くあるが、それらの携帯物すべてを「携帯」という総称で呼ぶことはなく、また他に「携帯」だけでこの物品を指すという例は見当たらないので、「携帯電話」を「携帯」と略しても混乱が起きない。つまり、単に「携帯」と呼ばれるものがほかにないから可能なのである。「携帯」と聞いて「携帯灰皿」を思い出す人はほとんどいない。だから携帯=携帯電話でいいわけである。
- 言葉とは、事物を区別するためのものである。「ウィキ」で指し示すものがすでに他にあるのに(しかもそれが語源)、「ウィキペディア」を「ウィキ」と略せば、他のウィキなのかウィキペディアなのか混乱が生じる。
この説明は、苦しいな、と思った。携帯電話を「ケータイ」と略すことが一般化するまでは、単に「携帯」といったとき、その意味するところが伝わらない場面が実際に多々あった。時が経過し、携帯電話が普及する際、人々の携行品の中で「ケータイ」という略称が広く普及したものが他になかったから、混乱が収束したに過ぎない。
いや、現在でも、「ケータイ」は名詞で、「携帯する」は動作を表すにもかかわらず、両者の取り違えは、よく起きる。生活環境次第では経験のない人もいておかしくないが、「**を携帯したか?」という確認をしているのに、「携帯電話を持っているか?」と間違って伝わってしまうのが、典型的なケース。「ありますよ。確認しました」という報告に安心していたら、じつは**を持っていなくて、出先で呆然とする、みたいな。
実際に人が携帯しているものはたくさんあるのに、日常生活において「携帯する」という言葉が登場する場面が極端に少ないものだから、耳では「携帯する」と聞いても、脳内で品詞の壁を乗り越えて「携帯電話」に変換されてしまうのだ。これはちょうど、松永さんのいう「言葉の本来の意味」が「おかしな略称」に侵食され、伝わらなくなる事例だろう。
私はたびたびこの行き違いに当惑させられたので、今では意識して確認の言葉を「**を持ちましたか?」に変更している。「持つ」といえば用が足りる場面ではあっても、「携帯する」「携行する」「携える」「提げる」などと表現すれば、より状況を限定できるのは日本語の豊かさだ。「携帯する」が滅びたわけではないが、ある種の状況で、より広い(曖昧な)意味の「持つ」を使わざるを得なくなったのは、残念なことだ。
携帯電話が「携帯」と略されたのは、望ましいことではなかった。文字で書くとき、「ケータイ」とカタカナにする表現も広まったが、これは理に適っている。だが、文字表現はこれでよいとしても、耳で聞いた場合の問題は、解消されていない。今後も、そうだろう。
話を「ウィキ」に戻すと、そもそも「ウィキ」を本来の意味で使う場面が非常に少ないので、大多数の人は「ウィキペディア」を「ウィキ」と略しても全く困らないわけだ。「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの? という疑問を持つ人が登場すること自体を問題視してもいいが、それもなかなか厳しいものがあると思う。
例えば、「でんぷん」と「ちんでん」に共通して登場する「でん」は同じ意味だが、多くの小学生は、意味がわからないまま、まず「でんぷん」という言葉を知る。言葉の順序からいえば、まず「沈む(しずむ)」と「澱む(よどむ)」という状態を理解し、次いで「沈澱(ちんでん)」について学び、「粉」を定義し、それからようやく「澱粉(でんぷん)」にたどり着くべきだろう。だが、「澱む」はいつまで経っても学校で習わない漢字であり、今ではふつう「ちんでん」は「沈殿」と書かれてしまうので、「殿」は意味不明のままだ。それで小学生が困るかというと、困らない。
いや、だからさ、「でん」が「澱む」の意味だとわからなくても、「でんぷん」と関係なさそうな「ちんでん」に「でん」がつくのはどうして? なんて疑問を口にした人には会ったことがないぞ、と。うん、それはそうなんだけど、じつは、「でん」が共通することに、かつての私は関心を持ったのだ。ゼロじゃないということ。「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの? という疑問を持つ人だって、所詮は少数派だろう。
「ウィキペディア」という言葉は長い。キーを打つのが面倒くさい。もっと短く表現したい。この需要は大きい。「ウィキ」という言葉を多義語とするに十分だと思う。大多数の人が第二の語義でその言葉を使用したので、第一の語義を知らない人が増える、というのは、珍しい話ではない。第一の語義を知らない人がトンチンカンなことをいうのを聞くと、「勘弁してくれ」と思うが、しかし、だからといって主に流通している語義を消そうとするのが、正しいのかどうか。
「流れに掉さす」など、意味が全く逆になってしまい、「棹」の意味まで誤解させるような事例は、「弊害が大きい」と個人的には考える。が、「ウィキ」に「ウィキペディアの略称」という語義を付加する場合、大きな弊害があるだろうか。
私の知人は、長男が「ケータイ」は知っているのに「携帯する」の意味を知らないので驚いたそうな。しかし「ケータイ」ってどういう意味だろう? 携帯電話の他にも、「ケータイ」の付く言葉ってあるんだな。と気付いたとき、「ケータイ」が「携帯」の本来の意味を習得する妨げになるだろうか。
知人のお子さんにとっての「ケータイ」や、かつての私にとっての「でんぷん」の「でん」と同様、「ウィキ」という言葉は、多くの人にとって意味不明の記号でしかないだろう。ならば、松永さんの憂慮は、過剰ではないか。
松永さんの批判は、多義語一般に当てはまる。たしかに、多義語は安直に増やすべきではない。もし可能なら、「ウィキペディア」の略称は「ウィキペ」とか、もっとこう、他と重ならない文字列にしたい。が、難しい。既に「ウィキ」という略称は、他の略称では置換不可能なレベルまで普及している。
これから力を入れるべきは、言葉の多義化に反対することより、「本末転倒な疑問」を抱いた人に第一の語義を伝えていくことではないか。もし言葉の多義化を回避できたとしても、「ウィキ」の本来の意味が知られていない状況に何ら変わりはない。「本末転倒な疑問」は、むしろ啓蒙の好機と考えるべきかもしれない。
最終段落の「本末転倒な疑問」とは、具体的にはどのような疑問でしょうか。文中から40文字を抜き出して答えなさい。ただし記号は字数に含みます。
……という国語の読み取り問題が、ふと頭に浮かんだ。正解は、次の通り。
「ウィキリークス」は「ウィキペディア」と関係ないのにどうして「ウィキ」がつくの?
小学生の頃、クラスメートのこうした問題の正答率は8割に達しなかったから、なかなか言葉というのは伝わらないものだ、という感覚がある。
どちらもはてブで少し盛り上がった話題なのだが、一方では机上の議論で大きな可能性を封殺したエリートたちを嘲笑し、他方では市場の洗礼による淘汰を拒否して、そういうものが世に出ること自体を許さない。たぶん、それぞれ別の人がコメントしているのだろうが……。
AT&T幹部の懸念はマクロでは外れたが、ミクロでは現実のものとなっている。問題は確かにあった。が、利益の方が大きいから、社会に受け入れられた。だいたい、利益というのは薄く広く作用し、不利益は狭く深く作用する。だから、懸念を強調すれば、たいてい利益を訴える側より説得力があるように聞こえるものだ。
大上段に構えて頭ごなしに否定するのではなく、消費者問題として小さく捉え直して、商売自体は認めるべきだ。「飲むヒアルロン酸」とか、散々テレビCMをやっているじゃないか。「宣伝文句に一定の枷をはめて、その枠内なら消費者に自分たちを信じさせようとするのは勝手」という仕組みでは不満なのか? 既に大々的に商売をしている「飲むヒアルロン酸」より、市場に受け入れられずに滅び去る可能性も十分にある新商売を潰すことに関心が向く感覚が、私にはわからない。
倫理的な心配というのも、既に散々行われている適性検査や性格検査と比べて、どうなのか。それらの検査は、「自分の生来の長所と短所を認識し、自分に合った選択をするための資料」として使われているじゃないか。実質的にDNA検査と何が違うのか。「経験的な確率の高低の問題に過ぎない」という1点さえ、きちんと説明されるなら、その先は受け手のリテラシーの問題だろう。「誤解を生む」なんて理由で他人の商売を叩き潰す世の中で、本当にいいのかね。
『脳トレ』とか、数百億円も動いたわけだ。そして現に、脳年齢は誤解されまくっている。たまたま、ああいうゲームが苦手だっただけの人が、「脳が老化している」と大勢にいわれてショックを受けた。で、そういう側面にばかり注目するなら、あんなゲームは回収すべきだ、となるだろう。でも、そうは考えないわけだ。性格検査だってそうだよ。ずいぶん誤解されている。だからといって、社会から撲滅すべきなのか?
表現の自由とかいっている人も、なぜか自分にとって目新しいものへの不安は、最大限どぎつい言葉で拒絶することが少なくない。仮に、直接には、メリットよりデメリットの方が大きかったとしてもさ、それが世に出ることすら許さないなんてのは、おいそれと主張できることではないと思うのだが。
新しいアイデアや商売を「世に問うことすら許さない」ラインは、きわめて慎重に引き、かつ平等に適用するのでなければ、気まぐれな世間様(の常識とかいうもの)を恐れて萎縮する、息苦しい社会になってしまう。