備忘録

平成23年1月31日

1.

中本さんには、ゲームや技術のことだけではなく、物事の考え方を教わった、というか考えさせられた。

CD-ROMが生まれたばかりのころ、「これからは大容量化の時代がやってくる」と言った。ところが、90年代も後半になると「CD-ROMは金と体力を消耗するだけのメディア。これからは容量の小さいものをつくる」という。話す言葉は正反対。

言葉は正反対だけど、根っこは同じであることが私には伝わる。新しいことをする、おもしろいものをつくる、他社と違うことをする‥‥に変わりはない。その手段が時にCD-ROMであり、携帯電話である。

よく政治家の発言が違うと、「ブレた」と言う。私はあの論議が愚かしいと思う。言葉はブレていいんだ、根っこがブレない人は表層に出る言葉はかえってブレやすいんだ。逆に言葉だけをブレないようにすると、思考の根っこがブレてしまうことが起きる。

リンク先の文章全体についてではなく、あくまで引用した部分について。

これはやっぱり、少なくとも言葉を素直に解釈する限りにおいて、中本さんの発言はおかしい。「これからは大容量化の時代がやってくる」ことと「CD-ROMは金と体力を消耗する」ことは、最初から両立している。後から過去の選択についてデメリットを言い立てると、「そんなことは最初からわかっていたよ」という反発が出てくる。とくに大容量化にもともと反対だった人が、ようやく自説に光が当たることになったにもかかわらず、むしろ不愉快になる。「責任取れよ。今頃なにいってんだ、ふざけるな」と。

ここでは平林さんが中本さんの根っこの気持ちを捉えて好意的に解釈してくれたから結果オーライになっているけれども、たいていの場合、そうはならないという実感がある。

最初に「新しいこと、いま面白いことを追求し、他社の先手を打つのが我が社の基本方針である。CD-ROMは金と体力を消耗する。だが今は、万難を排して大容量のコンテンツに挑戦すべきときだ」と説明していれば、後に携帯電話が世に出てきたとき「我が社の強みを活かせるのは、時代の最先端をゆく領域である。これから伸びるのは携帯電話だ。携帯電話の特性を活かした、新しい小容量コンテンツの開発に邁進してもらいたい」という指示に、みな納得がいくだろう。

2.

とはいうものの、「根っこ」にあるものは、しばしば当人にも自覚できないことが少なくない。私も、自分の言葉に矛盾を感じつつも、「うまく言葉にはできないが、根っこはブレていない」という確信だけはある、ということはままある。こんなときに、無理やり言葉の方の矛盾を解消してしまうと、後に悔やむ結果になることが多い。

中本さんも、そうだったんじゃないかな。平林さんが見抜いた「根っこ」を、中林さん自身は、きちんと自覚できていなかったのだと思う。それでも、自分の言葉のブレに動揺することなく、正しいと信じたことを推進していったのではないか。

……中林さんは、仕事を進める大きなエネルギーと人間的な魅力のある方なのだろうと思う。私とは、条件が違う。

私には「ないアタマを、それなりに小賢しく使って生きていく」のが向いていると思う。客観的には「バカの考え、休むに似たり」で時間を浪費しているだけなのかもしれず、「つまらないことを考えていないで、愚直に前へ進むことだけ考えるべき」なのかもしれないが、主観的には「小賢しく生きようと足掻く」のがしっくりくる。「これが自分の生き方だ」という感じがする。

もし可能なら、自分の言葉のブレに気付いたとき、それが「考え方の変化」によるものなのか、「状況の変化」によるものなのかを分析し、以前と「変わったこと」「変わらないこと」を分けて、きちんと説明できるようにしたい。自分ではきちんと説明できているつもりでも、他人には伝わらないかもしれない。それでも、言葉は議事録に残り、記憶に残る。

そして、自分の「変節」の理由に自身が納得できてさえいれば、「ブレた!」という批判に対して、心が折れずにすむ。傍目には頑固なだけに見えたとしても、納得のいかないまま表面の言葉を取り繕ってしまうより、心の健康のためにはずっといい。

最後にもうひとつ。自分が聞き手のとき、平林さんのように想像力を働かせられるようになりたい。そのためには、直感的に「何それ?」「おかしくない?」と首を傾げたときこそ、好意的に相手の言葉を補う必要がある。これが、じつに難しいんだ。

平成23年1月30日

平成23年1月29日

1.

私は、コンテンツの製作者にこそ自由で強力な権利が認められるべきだと思う。製作者が一定の対価(それは必ずしも金銭とは限らない)と引き換えに消費者の自由を拡大する。消費者には、製作者から認められた範囲内での自由がある。……これが私の考える「基本的な構図」。

Appleが自社のオンラインストアで販売するコンテンツに一律のDRMをかけることに問題はない。独占禁止法がきちんと機能し続ける限り、コンテンツの製作者が他のオンラインストアを同時に利用することをAppleは制約できないからだ。そして、Appleのものに限らずDRMが気に食わない消費者は、DRMなしで楽曲を販売するオンラインストアへの出品を、製作者に求めることができる。

もちろん、DRMがない分、製作者は不安になる。製作者は、その不安と釣り合う水準までコンテンツの価格を引き上げるだろう。安いがDRM付きのコンテンツか、高いが私的複製が自由でプラットフォームに縛られないコンテンツか……消費者には選択肢が生まれ、市場を通じて消費者の投票がはじまる。AppleがDRMによる囲い込みに血道をあげ、一定以上の成功を収めていくならば、自ずと対抗馬はDRMフリーの方向性を打ち出すことになろう。iOSに対するAndroidのように、だ。(独占禁止法が機能する前提で)一定以上の割合の消費者が「自由の対価」を支払う意思を持ち続ける限り、囲い込み勢力が完全に勝つことはない。

現実にはAppleが独占的販売者となって市場を支配することになるのかもしれないが、その場合に問題視すべきは「独占禁止法が機能していないこと」であって、「AppleがDRMをかけること」ではない。

2.

コンソールゲーム(console game)については、これまでのところ、ゲーム性がハードウェアと結びついているという特性ゆえか、消費者の側が「自由の対価」を支払う意思を持たなかった。

しかし古いコンソールから「ベタ移植」されたゲームの一部は、かつてと遜色ないプレイ感覚が得られる。ならば今後、コンソールゲームだって私的複製やプラットフォームからの解放を望む声が出てきてもおかしくはない。

値段は高いがプラットフォームフリー、値段は高いが私的複製が可能、といったゲーム市場が成り立つなら、必ず参入者は現れる。自由経済なのだから、前提が満たされる限り、必ずそうなるはずだ。

3.

アクセスコントロールの法的保護に、私は賛成だ。

今でも公衆送信化可能権などがあって、違法配布に法の網はかかっている。その通りである。が、その規制に実効性を持たせるためには追加の税負担が必要になるが、国民は同意していない。警察予算の制約は厳しく、違法なアップロードをした人が片っ端から捕まっていく日は来そうにない。消費者の意識さえ高ければ、それでも大した問題にはならないが、現実はといえば、とても満足できる状況ではないと私は思う。

その点、マジコンは工業製品であり、その価格などから考えて最低でも5000個くらいは製作しないと元が取れない。だから少ない予算で効果的に取り締まれる。(注:アクセスコントロールの回避に工業製品が必要になるのは、物理的に独自の規格を作っているコンソールゲームの特質。DVDのアクセスコントロール回避はパソコンとドライブとネット経由で入手可能なソフトウェアで実現できてしまうため、法改定後も取り締まりには実質的な壁がある)

ようは、増税ないし他の施策の縮小を受け入れて警察予算を増額するか、現在の予算で取締りを強化できるよう法律を改定し、消費者の自由を縮小するか、という選択だ。あるいは、コンテンツ製作者の被害を放置して、その代わりに何らかの補償を行っていく手もあるのだが、こんな話はまとまらないと私は思う。

平成23年1月28日

昨年末、はてブで上位に出てた記事。「またか」とゲンナリした。

全て調べたわけではないが、全くコンテンツ製作者の利益にならないサイトがいくつも並んでいることは確認した。紹介されているサイトには、個人が趣味で撮影・投稿した動画もたくさんあるのだろう、きっと。だけどリンク先記事にある各サイトの解説文には、「新作AV」だの「女優で探せる」だの「芸能お宝」云々だのという言葉が繰り返し出てくる。当然、それを読んで「これはいい」と思う人々は、「権利的に問題のない映像だけを視聴する」つもりなど端からありはしないのだろう。

はてブの反応も悲しい。批判的な視線がほとんど感じられない。どうして、性行為を撮影した映像作品の場合、製作者に何の還元も行われないことに直感的な嫌悪感がわいてこないんだ? お金の話だけじゃない。名誉の問題だって大きい。動画の読み込みをオフにして、タイトル、説明文、タグだけをチェックしているのだが、この手の動画共有サイトに投稿された動画に、製作者の名前が添えられている事例は皆無に近い。演出どころか、女優の名前すらない動画が、やたらたくさんある。どうかしているとは思わないのか。それでもコンテンツの供給は続いており、業界が壊滅したわけではない。だから安心している、ということか。自分ひとりくらいフリーライダーでもいいだろう、と高を括っているわけか。

雨後のタケノコのごとく現れる「壁紙スレ」と同様、不愉快きわまりない。何が「本当に使える動画サイト」だ。ようは盗品の無料バザーじゃないか。たまに「私は転載を歓迎します」という製作者や出演者がいるわけだが、ならばそういう方の作品だけを共有物にすればいい。複製不可とパッケージかどこかに記されていたはずの作品を「文句をいわれるまでどんどん共有物にしていく」なんてことまで、擁護できるわけがない。

追記:

指定したアーティストの曲のYouTube動画を連続再生できるサイトだそうである。公式動画だけを対象とするならよいが、残念ながら、そうではない。

直接的には違法アップロードされた動画をきちんと取り締まらないYouTubeが悪いのだが、それを「便利」だの「すごい」だの「すばらしい」だのといって歓迎している連中こそ諸悪の根源なのだ。こういう連中が、違法アップロードをする人に「ありがとう」なんていっているから、違法アップロードが減らないのだ。違法なアップロードをする人が四方八方から絶えず罵倒ばかり浴びせられるなら、世間が彼らの逮捕と社会からの隔離を希求し、取締りを財政的にもバックアップしていくなら、必ず違法アップロードは下火になるはずなんだ。

ちゃんとアーティストに利益を還元していた有料(といっても高々月額千数百円の定額制だった)の音楽聴き放題サービス Napster Japan が撤退して、こんなサービスが歓迎されるような社会には、心底うんざりだ。アーティスト名で検索して連続再生? 聴き放題? そんなの、Napster で実現できていたことじゃないか。有料でしかも「あの曲がない」「この曲がない」というので、不満があったのだろう。しかしだからといって、違法アップロードされたものであっても、自分の聴きたい曲が聴ければそれでいいという自分の身勝手さを臆面もなく肯定してみせる人には、呆れる他ない。

現状の『君のラジオ』を何の留保もつけずに褒めているような人々は、みんな失業して飢え死にすればいい。広告モデルで云々、それはアーティストの許諾を得て、合法性を確保してからいうべきことだ。順番が逆なんだ。合法サービス同士の競争が激化していった結果、無料サービスをはじめる業者が出てくる、ということでなければならない。絶対に削ってはいけないコストを最初に削ってしまった違法サービスを擁護できる理由など、ありはしない。

平成23年1月27日

平成23年1月26日

平成23年1月25日

平成23年1月24日

政治に多少の関心を持っている方々には、通常国会で行われる総理大臣の施政方針演説の文字起こし版は、ぜひ読んでみていただきたい。こういうものを知らずに「総理が何をしたいのかわからない」などと批判するのは滑稽ではないか。

世評に反して、歴代の総理は、それぞれに力の入った演説をしてきたように思う。これから作り上げたい国家の姿を語り、具体的な政策や、その背景にある世界観などを説いてきた。いま再び読み返すと、歴代の総理が果たせないままに終った夢の跡に悲哀を感じる部分も多い。とまれ、賛否は脇へ置き、まず虚心坦懐に目を通していただければ……。

施政方針演説はけっこうな分量があるが、政策を網羅的に扱っているので、個別の政策課題の説明は意外なほど簡潔にまとめられている。私の場合、「えっ、これだけ!?」と拍子抜けした箇所がずいぶん多い。

ところで、臨時国会や特別国会では所信表明演説が行われるけれども、これはたいてい実務的な内容で、個人的には施政方針演説ほど面白くない。

私の感想など

自民党政権の施政方針演説は、総じて政策を列挙した実務型(安倍演説は例外的)。それを「ビジョンがない」と批判してきただけのことはあって、民主党政権の演説は、各論が総論に収斂する構成になっている。

読み物としては民主党政権の演説の方が面白いが、うまくまとまらない部分は大胆に省略しているので、施政方針演説で言及されなかった政策が国会で論議の的になることも多く、施政方針演説としての体をなしていない感じもする。これは安倍総理が最初の所信表明演説で一言も触れなかった「道路特定財源の一般財源化」をいきなりぶち上げて政権が早々に暗礁に乗り上げた例にも通じているように思う。

平成23年1月23日

Amazonのカスタマーレビューでは定番の話題。

いまブルーレイディスク(BD)が普及過程にあり、海外の映画を中心に、BDとDVDがセットになった商品がたくさん販売されている。DVD単体の商品との価格差は小さく、BD単体の他作品との価格差はゼロ。私にはお得なセットに見える。

知人の一人は「現時点ではDVDプレーヤーしか持っていないけど、いずれBDプレーヤーを買う予定だから、最近はBD+DVDの商品を買ってるよ」と話していた。なるほど、BD単体だと、こういう客層を逃してしまうわけか……と大いに納得した。このように、私の周囲では歓迎する声しかなかったので、Amazonのレビュー欄で「DVDとのセット商品だから星1つ」というレビューを目にしたときは驚いた。

BDソフトだけほしい。DVDはいらない。私は見ないのでゴミ。ゴミには1円も払いたくない。たとえ価格が同じでも、BDソフトだけの商品がほしい。なのにDVDとセットの商品しかない。不愉快だ。

といった意見だ。Amazonのレビューに関心のある層には共感される考え方のようで、こういう意見を投稿すると「参考になった」票が入りやすい。逆に「BD単体の他作品と同価格なんだから得じゃないか。文句をいう人の気が知れない」などとを書くと「参考にならなかった」票が大多数になる。「営業戦略だから仕方ない」とか「私個人としては歓迎しています」といった書き方をしないと許されないらしい。

これも「ネットで声の大きい層の偏り」の一例だと思う。そもそもこういうことに関心を持ち、問題として捉える人には反対派が多いということなんだろう。単純に「DVDがセットでお得!」と思う層は、こんなフォーラムを読まないし、たとえ読んでも投票まではしない、ということなのではないか。

追記

BD+DVDの場合、わざわざBD単体の商品を別ラインで作ると、販売数量の関係でかえってBD単体商品の方が高価格になりかねない、という意見がフォーラムに出ていた。実際にどうなのかはわからないが、さもありなん、という感じはする。また、店舗における販売スペースの問題も無視できない。

ところで、「自分が必要だと思わないものには一銭も払いたくない」という考え方は、例えばネット上で毎日噴出している弱者保護政策に対する怒りの声などにも通底しているように思う。そして税金の使途の場合も、「無駄」を排除するためのコストは見落とされやすいと感じる。

少し関連する話かな、と思った。

平成23年1月22日

「リフレ+基礎控除の据え置き」が現実解だと思う。これだって、実際に地価が再び上昇したとき、守り通すのは並大抵のことではない。

……と書いてから約2年、まさかの展開が待っていた。

2010年12月16日、2011年度の税制改正大綱が閣議決定された。その中に、相続税の基礎控除と法定相続人比例控除の4割減が盛り込まれていたのだ。これには正直、ビックリした。しばらく民主党政権が続くのだろうから、自民党がやらない政策の内、私が実現を望んでいた政策は、どんどん実現してほしい。

菅直人内閣の支持率は、このままいくと鳩山内閣を下回りそうだけれども、「支持率が1%になっても続ける」という意気込み通り、この税制改正はぜひ実現していただきたい。TPP参加も保護貿易と手を切る突破口として期待しているのだけれど、これはさすがに無理かな……。短期間ではゴタゴタが片付きそうにない。

明後日に迫った施政方針演説を注視したい。どれくらい本気なのか。個人増税なので、政局になれば槍玉に挙げられる可能性が高い。あっさり譲歩の材料にされてしまうようだと残念だ。施政方針演説の中で明確に言及されていれば、と思う。

追記:

相続税への言及はゼロ。残念……。

平成23年1月21日

平成23年1月20日

1.

大都会の中心部には手頃な家賃の高層住宅物件が乏しい。巨大なオフィスビルであるサンシャイン60の周辺には、低層の一戸建てやアパートがひしめいている。それだけの人口で池袋の生み出す雇用を吸収することはできないので、通勤ラッシュに耐えて遠くから人が集まってくる。不合理きわまりない。

どうしてこうなってしまうのか。いろいろな説明がある。例えば……

といったメカニズムだ。非効率な土地利用にペナルティが存在しないため、便利な街に、貧しい先住民が居座ることになる。そして、いま街を栄えさせている人々が、毎日毎日地獄をみるわけだ。

2.

土地は全て独占商品なので、その取引を完全に自由にすると、市場の失敗が起きてしまう。独占商品だから、原理的に市場価格は存在しない。「似たような土地」がどんな価格で取引されていようと、所有者が「その倍の価格でなければ売らない」といえば、それまでの話だ。

大規模開発のためにはまとまった土地が必要だ。広い土地の中に残った最後の1軒ともなると、ゴネ得の状況になる。いまさら開発中止にもできないから、3倍、5倍と価格がつりあがっていく。どうしても売りたくない土地を売れと迫るので人々はこれを「地上げ」と呼んで政府の規制を求めたが、そもそも論をいえば、独占的所有者が「市場価格」で商品を売らないことの方が問題なのだ。

この5年余り、古書店でいろいろな本を買って読み、図書館の蔵書にも目を通してきたが、結局、「功利主義的な見地に立つタイプの経済学者」の提言は、50年前から全く変わっていない。「住宅や宅地に対しても固定資産税をガッツリかけるべきだ」ということに尽きる。

1970年代以降に広まった概念も取り込むなら、日照権にせよ何にせよ、それを「一片たりとも侵すべからず」といったら都市問題は先住民の既得権益への配慮が過ぎるのであって、諸問題を金銭で補償することで強制的に解決する枠組みが必要になる。日照権もまた、独占的な財産とみなすことができ、どれほどお金を積まれても一歩も譲らぬという主張を認めるのはアンバランスだ。

例えば、こうすれば売り地が増え、状況は一変する。山手線内には手頃な家賃の高層賃貸住宅が続々建設されよう。総床面積は倍増し、職住隣接が実現するだろう。

先住民が分相応の土地や住居へ移動する必要がないよう保護し、その何倍もの人々に広く(通勤地獄などの)負担を強いてきたのが、今日まで続く日本の都市政策だ。

3.

a)

デフレの問題になると鋭く深い痛みを背負わされる失業者への共感が働かず、薄く広い利益を享受する立場に安住する人々が多い。ではどうして、都市問題になると「地上げ」によって街を追い出される少数派に同情し、職住隣接が実現する多数派の方に共感しないのか……。

5%の失業率なら他人事だが、大都市とその周辺に暮らす過半数の人々にとって、非効率を理由とした追い出しは「自分の問題」だと感じられたのか……。たしかに最初に開発が進むのは高級住宅で、金持ちが貧乏人を追い出すように見えるだろうが、土地の流動化は最終的に9割超の人々の生活実感を改善するはずなのだが。

b)

地価税や固定資産税を強化することで半ば強制的に売り地を大量に出現させた場合、短期的には地価の大幅下落が生じる。その変化があまりにも急激ならば、土地の担保価値下落により90年代前半の不動産バブル崩壊が再来する。税率の設定は経済に混乱をもたらさない水準としたいが、万一の場合には、時限的に地価税の税収(の一部または全部)を担保価値毀損分の補助として銀行に注入してもよいと思う。

ただ、仮に混乱が生じても、長期的には、地価は税額と需給を織り込んだ水準に落ち着く。また、土地の流動化促進効果で全体として地価は下がるが、地価が下がれば地価税も下がるので、土地の流動化効果も長続きしない可能性がある。地価が「地価税が痛い」水準で留まればよいのだが……。悪い方のシナリオが実現した場合、土地の私有が独占に直結しない枠組みができるまで、問題の解決には至らない。

追記:

人余りの現状を前提とすればたしかに、再開発の結果オフィスばかり建って通勤地獄が解消されない可能性を否定できません。ですから、オフィスと住宅の税率に差をつける、という政策的な調整要素は残してよいと思います。また、同じ市町村の中でも特定の地域に特定の税率を適用する、という自由度も認めてよいと私は思います。ただ、税率調整の濫用を防ぐ仕組みは必要かもしれません。

平成23年1月19日

平成23年1月18日

21世紀になって、工場三法のうち2つが廃止されるなど、大都市への人口集中を抑制する政策の見直しが進んでいる。人口の増加にブレーキがかかった後もたゆまずインフラ整備を続けた甲斐あって、大都市は暮らしやすくなった。通勤電車の混雑も、濃淡はあるが、全体としては緩んできている。だから、都市住人にはもう、人口過密を嫌って地方に投資する理由がない。

かつて、(自分が追い出されかねない施策には絶対に反対する条件で)都市の過密を解消するには、地方の振興は費用対効果のバランスがいい政策に思われた。移住第一世代が多かった頃、それは故郷を豊かにする政策でもあった。だから、地方偏重の選挙区割も、都市から地方への再分配も、概ね支持されたのではないか。

だが、もはや都市の過密化を恐れる必要はないのだとすれば、いやむしろ、今後は学校の統廃合などの痛みを減らすためにも都市への再集約を緩やかに推進していくことが望ましいのだとすれば、地方への利益誘導など「お金の無駄」に他ならない。だから、90年代以降、公共事業批判の声が高まり、地方と都市の意見の相違が目立つようになってきたのだと思う。

昨夏の参院選の一票の格差について、違憲判決が相次いでいる。かつては、都市と地方の住民が同じような政策を支持していたから、「一票の格差より地域代表」という考え方が黙認されていた。だが、見解の相違が拡大したので、今は一票の格差に大きな関心が集まる。そんな世論の力学が判決を動かしているのだろうか。

平成23年1月17日

昨日の記事にはひとつ暗黙の前提がある。

それは、「なぜ概ね人手不足の続いた60〜80年代を通じて人口過密が自動的に調整されなかったのか」という問題意識だ。90年代以降の人余りの時代においては、そのまま適用することには難がある。

1.

1990年代以降はデフレギャップが恒常的に経済の重石になっており、人余りの状態が続いている。だから、都心で「通勤交通費を支給しない」なんて条件で募集をかけても、応募者がちゃんとやってくる。これでは、たとえラッシュ時の電車賃が上昇したって、企業は痛みを感じない。時差通勤の推奨すら行わないだろう。もちろん、それでも電車賃が2倍、3倍ともなれば、さすがに人件費を増額しないと必要な人材が集まらなくなる。が、少々のストレスなら労働者が背負い込んでしまうわけだ。

電気代や水道代も同じ。元の金額が大したことないので、これが2倍や3倍になっても、新しい土地へ移って転職を目指すには至らない。

労働力率の推移

上の図を見ると、現在の日本の失業率は5%程度ということになっているけれども、近年の日本の労働力率は60%を下回っている。傾向として、女性の労働力率は高まっている。2000年代の日本で労働力率が低迷しているのは、不景気で若年失業者が増えたこと以上に、60〜70代の健康な人が仕事をできずにいることが大きい。自営業(農業含む)の従事者が減り、労働意欲はあるのに、定年後の仕事が失われている。

企業が新卒などに全くこだわらなくなってしまえば、都会の生活費が上昇して従来の採用対象層からの応募者が減るようなことがあれば、採用枠を広げることになろう。仕事が全くないよりはいい、とシニア層がどんどん労働需要を埋めていくことになる。現代の日本にはこうした巨大な労働力のバッファがあるので、企業に集積のコストを負担させようとしても、労働者にしわ寄せが行く可能性が高い。

私の勤務先は、同業他社より給与が低い。だから、ちょっと景気が上向くと、新卒で人を集めることが難しくなる。そこで2006〜2008年の好景気では、まず引退したOBを呼び寄せた。新卒の入社5年目程度の年棒でも、応援要請を断る人は滅多にいなかったと伝え聞く。さらに、若年失業者層にもサッと門戸を開いた。これも応募者殺到となった。こうした衝撃吸収装置が機能する限り、新卒に固執する企業を例外として、「人材難を理由とした事業所の移転」が活発になることはない。

2.

とはいうものの。1970年代以降、工場三法によって東京や大阪に工場を新設できない時期が長く続いたが、法律が改廃された後にも、地方に移転する企業・事業所は多々ある。

家電メーカーの多くは、企画・営業・デザインなどの部署だけ大都市中心部に残し、工場は地方に移動した。これはやはり合理的な判断だろう。「開発部門との連携をきわめて緊密にすべき商品」を生産する工場などを例外として、大部分の工場の配置は、今後も見直されないだろうと思う。

高齢者を中心に雇用すれば、いま都会にある工場を地方へ移す必要はないだろう。いったん地方に移した工場を都会に戻すことだって、場合によっては不可能ではないと思う。おそらく業務に遅滞も生じまい。が、地方へ移れば、企業として雇用・管理の経験が豊富なタイプの人材を、人件費を抑制しつつ確保できる。人余りの状況ではあっても、一定のメリットが見込めるのなら、企業は事業所を移すわけだ。

まして人手不足の状況では、一人が抜けた穴を埋めるために、企業はたいへん苦労することになる。逆に労働者は、転職のリスクやコストが低くなるので、「辞めた方がマシ」の基準が下がる。したがって、人手不足の状況下で人口過密による生活費の上昇が起きればどうなるか。企業はまず手当ての増額で当座をしのぐ。これは当然、つらい出費になる。結果、企業は事業所の移転を真剣に考えるだろう。

3.

ともかくそういうわけで、昨日の記事において実質的に私が「こうすべきだった」と主張しているような政策を今すぐ実行することには、必ずしも賛成しない。デフレを解消し、人余りの経済を人手不足の経済に転換することが最優先の課題だ。しかし、集積のコスト負担を受益者にきちんと請求していく施策も、より現実味のある(穏当な)形で、少しずつ強化していくべきだ、とは思う。

例えば、インフラの値段に集積のコストをストレートに乗せることが妥当ではない状況下では、地方法人税を引き上げてインフラ整備を促進することはできないだろうか。いくら企業が儲かっても、個々の労働者、都市の生活者が疲弊しては本末転倒だ。グローバルな都市の魅力競争という問題はあるのだけれども、集積の利益に見合ったコストを負担していただくことすら否定するのは、むしろ不合理だろう。

集積のコストを負担できない企業には、集積の利益を諦めて地方へ移動していただく方がよい。外資系企業や大企業の本社部門などは税金を嫌って海外の大都市へ移るかもしれないが、大半の日本人労働者は日本を離れたくないはずだから、多くの企業は継続性の観点から日本国内での移転を選択するはずだ。

平成23年1月16日

1.

所得倍増計画は「後進地域の底上げによって経済成長を実現する」と謳ったが、その主張には難があった。公費を投入して後進地域に生産性の高い産業を誘致することは、たしかに可能だ。しかし、同じ金額を投入するなら、集積の利益を活かす方が、より効率的だ。土地は動かせないが、人は移動できる。投資効率の高い地域をいっそう発展させ、人々の移住を促進する方が、平均的な生活水準を上げる政策としては優れている。

だから全総では、「現在の先進工業地帯は過密なので、分散した方が効率がよくなる」という論陣を張った。この考え方は、大都市の生活者に大いに歓迎された。

だが本来、人口の過密に起因する諸問題は自動的に調節されるものだ。どういうことか?

需要が増えたら、価格を上げて調整すべきだ。そうすれば、企業も人も、自ずと身の丈にあった土地へ移動する。人口密度が上昇した土地では生活費が上昇し、給与を増額しなければ人材の確保が不可能になる。生産性の高い企業・事業所のみが高密度地域に進出・生存でき、逆に低賃金しか出せない企業・事業所は、雇用とセットで人口密度の低い土地へ移っていく。

しかし、日本人はこうした考え方を敢然と拒絶した。経済成長は、「合理的な変化」によって生まれる。だが、自分に利があれば他人には気軽に変化を求める人々も、自分が変化を「強いられる」ことは許せなかった。政治は、人々の思いに応えた。

はるか彼方まで連なる低層建築の間にポツンポツンと超高層ビル群が並ぶ風景は、日本の大都市の非効率さ象徴している。新宿副都心は淀橋浄水場跡地、サンシャイン60は巣鴨拘置所跡地、汐留シオサイトは汐留貨物駅跡地だ。戦後の政治は先住民を強力に保護してきたから、人口密度が低かった頃に建設された公共施設の跡地にしか、高層ビルを建設できなかった。

農地や山林を潰して造成した住宅地に移り住んできた人々も、政治は続々と保護の対象にしていった。だから移住第1世代の人々も、半世紀を経た今、「先住民」として再開発の障害となっている。

経済成長の代償を認めない不合理は、(決してそれだけが原因ではないが)長期経済停滞という形で具現化した。人々は将来不安からますます既得権益の維持に汲々とし、不幸の連鎖は止まらない。心底から経済停滞に甘んじる覚悟があるならいい。だが、多くの人は「あいつが変わらないのが悪い」「こいつが改革に抵抗したからだ」と他人を恨んで死んでいくのだろう。

私たちは、いちばん大切な願いをかなえた。だから、2番目の願いは、かなわない。

2.

視点を変えて、説明する。

都市には集積の利益がある。だから、企業が集まってくる。企業としては、もし人件費を含む諸経費に差がないなら、地方より都市に事業所を開設したい。

都市の過密は、なぜ生じるか。それは、集積によって生じる問題を解決するコストの負担を、多くの者が嫌がり、集積の利益のみ得ようとすることによる。外部不経済の内部化さえ実現できれば、集積の利益とコストがつりあう水準で都市の高密度化は止まるはずである。

負担増はなぜ実現できなかったか。それは、現在の住民、以前からあった企業を、(可能な限り)全て守ろうとしたからだ。限られた土地を大勢が需要している場合、その土地を最も有効に活用できる者に利用権が与えられるべきだ。しかし、生産性の低い人々も、非効率な企業も、こうした考え方を憎悪した。

政治家を動かすのは、これから街へやってくる人々ではなく、いま街にいる人々である。新しく生まれる利益を代表する者には選挙権がない。それゆえに、地方税の柱である住民税、固定資産税、事業税のいずれも、集積によって生じる問題を解消するに十分なだけ引き上げることができなかった。貧しい住人も、儲かっていない企業も、増税に大反対したからだ。

a)

結果、どうなったかというと、ほぼ都会に進出した企業の一人勝ちになった。インフラ整備のコストを十分に負担することなく、集積の利益を享受できた。通勤地獄は、企業が集積の利益を享受し、その弊害を労働者に押し付ける仕組みの典型だ。

ただし、高度成長期以降、80年代までの人手不足の中で、次第に労働者の待遇は改善されていった。大企業が交通費の支給と住宅手当を軒並み導入していったのは、人材確保のために必要だったからである。

人余りの現在、電車賃を上げても、そのしわ寄せは労働者だけが背負うことになろう。だから、今すぐ「1.」に書いた市場による解決を実行するのは弊害が大きい。替えの利かない人材の多い企業では、まず労働者の負担を手当て増で補償し、その補償費用が都会に留まる利益を上回るなら移転を決断するだろう。だが、多くの企業は手当てを増やさず、一部の労働者が離職した穴を「状況に耐えうる者」で埋める道を選ぶに違いない。

もし通勤地獄の解消が十分に優先順位の高い課題であるならば、人手不足の実現を待たず、政府が市場に介入することも正当化しうる。具体的には、例えば、従業員の平均通勤距離の長い企業は地方税を増額し、強制的に交通整備のコストを徴収する、といった方法が考えられる。この案の現実味はさておき、「集積の利益を得ている人々から集積のコストを徴収する」というアイデアを理解してほしい。

b)

だんだん人口の減っている街と、人口の増えている街の両方に(短期間であれ)暮らしたことがある人ならば、前者より後者の方がどれだけ恵まれているか、身をもって知っていることと思う。

生活者の視点からいえば、人口の過密は「集積の利益が完全に相殺されるまで、際限なく生活環境が悪化していく状況」と説明できる。60年代、公害の街へ、それでも人はどんどんやってきた。先住民は迷惑ばかり蒙ったようでいて、じつは街の発展による様々な利益を得ていた。個々人が望んだものであろうとなかろうと、間違いなく集積の利益は存在し、そうだからこそ人が集まってきたのである。

本来は市場による解決が望ましいが、優先順位の問題があって公費による解決を選ぶのであれば、住民税を増税するのが妥当だ。先住民を追い出すことが絶対に許されないとするならば、日本で現実に可能かどうかという問題を脇へ置いていうと、「転入後20年間は住民税が3倍」といった案が浮かぶ。集積の利益は全員が享受しているのだから、転入者イジメは不公平だと私は思うが。

c)

実際に行われた施策は、まず土地の利用制限の厳格化と、住宅地の容積率規制だった。物理的に、人口過密地域に住宅を増やさないようにしたのだ。でも、法人事業税は美味しいので、商業地は容積率を緩めに設定する例が多かった。結果、職住隣接は夢となった。

ちなみに1980年と1995年の国勢調査では東京の人口が減少して話題になったが、じつは年平均0.1%の減少に過ぎなかった。1985年、2000年の調査ではいずれも前回の減少分を3倍以上も上回る人口増となっている。1000万人以上が暮らす東京で、人口が5万人にも満たない千代田区や20万人程度の港区の人口減少をドーナツ化現象と呼んで騒いだのは、あまり有意義なことではなかった。東京の人口は「増加にブレーキがかかった」と見るのが実態に近い。

東京都と全国の年平均人口増減率

次に、工場は法人事業税より公害問題への対処が頭の痛い問題となったので、地方移転を促進することにした。国家レベルで強力な法律が次々に制定され、大企業の多くは、都会には本社などを残し、工場は地方へ移転させた。「市」や「町」にお住まいの方なら、地元の地図を探せば市街地から離れた場所に工業団地を発見できると思う。よく調べてみると、意外な大企業の工場を見つけて驚くかもしれない。

そして電車の混雑に対しては、電車賃から僅かずつ基金を積み立てて、少しずつ、だが着実に鉄道整備を進めることとした。

いずれも政治的に実現可能な範囲内で最善の策だった……のかもしれない。だが、そのためにどれほど多くの人が苦労をしてきたかと考えるに、本当に他に策はなかったのだろうか、と私は考え込む。

平成23年1月15日

1.

移動の強制は必要ない。故郷に残りたい人は、残ればいい。いずれにせよ、各地域が自活を志向するなら、対立は生じない。所得の再分配は個人単位を基本とし、地域単位では行わない方がよいと思う。自由市場による調整が機能する社会が望ましい。

例えば、どんな仕事も自由に選べて、待遇にも差がないとしたら、人はみな自分のやりたいことばかりやって、経済が成り立たない。自由市場により需給が調整されればこそ、必要に応じた人員の配置が自動的に行われる。一般人が存在すら知らないような仕事であっても、それが本当に社会に必要なものである限り、誰かがその任に就く。居住地の選択も構図は同じだ。無制約に人が住みたいところに住むのでは、必ず無理が生じる。

社会保障は、1人あたりの金額を定額に近付けていってほしい。地域単位ではなく、個々人の生活を定額(に近い形で)保障してほしい。そうすれば、都市部の社会保障水準が地方より明らかに高まることで、足による投票が促される。引っ越すメリットが、明らかにコストを上回るようにもなるだろう。

私は地方の社会保障の水準を大きく切り下げることに賛成しないから、これは実質的に都市部の住民に現在の地方民の8掛けくらいの1人当たり社会保障費を投入すべき、という意見である。爆発的に増える経費は増税によって賄う必要があって、私はそれに賛成する。なお、各市町村が住民税率を調節してサービス水準を上げ、ることにも賛成。人々が多様な選択肢を持てるのはよいことだ。

2.

誰かが変化を受け入れることなしに、経済成長は実現し得ない。だから、変化を拒否する人が、格差への不満を根拠に生活水準のキャッチアップを求めるのは成長へのただ乗りだと思う。全体の経済成長に伴って国が保障する生活水準も上がっていくことを否定はしないが、ただ乗りを手放しで肯定することはできない。

100年前と同じ生産活動しかしていないなら、本来的には100年前と同じ生活水準でよしとすべきだ。もしそれで納得するなら、社会の経済的な負担はかなり小さく、問題にはなるまい。だが現状の地方支援策の積み増しを求め、例えば「日本人なら全員が現代的な水準の医療を受けられ、冷暖房完備の家に住み、自動車を持てるようにすべき」といった目標を立てるなら、それは転居の強制なしには実現不可能だろう。

現代の先進国の文明は、集落の人口密度を必要としている。たしかに「引っ越しなんて簡単にできない」が、過疎地の集落を残しつつ、生活水準の格差を埋めていくことだって、同じくらい難しい。移動の強制という話が、「最低生活水準の引き上げ」とのバーターとして登場するなら、私は理解できる。

つまるところ、私には「貧乏人は故郷を捨てろ」という表現は不当だと思える。諸々の問題があることは認めるが、基本的な枠組みとしては「選択」の問題として捉える方が、妥当ではないか。とくに地方で育った子らが「貧しさ」を嫌って自発的な「選択」をしたことを、「故郷を捨てることを強制された」と被害者のように記述することには疑問がある。

3.

激変緩和措置には賛成する。だから現在行われている様々な施策を全面的に否定するわけではない。だが、「たいていの人は引越しなんてしたくはないのだから、引越しの動機を政府の力で解消しよう」という考え方には反対だ。それは経済の停滞を招き、全員を不幸にする道だろう。

市場がより効果的に機能するための施策こそ、政府が注力すべき分野だと思う。ただしもちろん、市町村の範囲を超えた外部経済性のある政策領域を県や国が担うのは理に適っている。例えば県を跨ぐ河川の管理などは、国が支援するのが自然だ。これは個人が受益者となる社会保障とは問題の枠組みが違う。

平成23年1月14日

1.

高度成長期、都市住民は人口密度の増大を憎悪した。インフラの整備が人口増に追いつかず、小中学校の校庭にはバラックの校舎が立ち並び、体育の授業にすら支障をきたす例があった。地方からやってきた人々の多くは、本当は故郷を離れたくなかったのだし、以前からその土地に暮らしていた人々にとっては、よそ者に街を荒らされたという感覚があった。水は濁り、空はスモッグに覆われ、緑が失われていった。だから都市住民は、産業分散を求めた。

だが、「多軸型国家」というファンタジーを支持するコストは、どれほど国民に理解されていたか。かつて日本国民は「狭い国土では1億の人口を支えきれない」と早合点して満州事変を大いに支持した。これが誤りだったことを、戦後の日本に生きる私たちは知っているはずである。そして20数年後、人々は「東京・大阪は明らかに過密なので人口を減らさねばならぬ」と早合点した。これも、誤りだったろう。

発展途上で経済成長を放擲し、国債残高を積み上げて将来不安に怯える日々を送るほどのコストを支払うのが正解だったとは思えない。失敗は「過密」と決め付けたところに起因している。世論に従って政府が結論を決め打ちにするのではなく、外部不経済を市場に取り込み、市場の判断を信頼するべきだった。

2.

最初の大きな試練は、1974年の狂乱物価だった。1972年6月、首都圏工場等制限法(1959年)、近畿圏工場等制限法(1964年)に続く強力な工業分散策である工業再配置促進法が制定された。この法律を推進した田中角栄さんは同月に『日本列島改造論』を出版、翌7月、総理大臣となった。1973年、田中内閣は工場立地法を制定。都市の過密、地方の貧困、公害問題の同時解決を目指し、国土の均衡ある発展を推し進めようとした。田中内閣は、これによって日本の経済成長率は高まると信じ、高度成長期を上回る経済計画を国民に示した

東京都と全国の年平均人口増減率

しかし戦前から次第に上積みされてきた工業分散と人口移動抑制の施策は、着実に効果を発揮しつつあった。1965年の証券不況において、政府は戦後初めて赤字国債を発行。1966年から1969年まで年率10%超の高成長を維持するが、1970年は8.2%、1971年は5.0%と成長率が急落する。1972年、列島改造ブームで9.1%成長を達成するも、生産性の改善にブレーキがかけながら、財政拡大と金融緩和によって高度成長を持続するのは無理な相談であった。1973年、成長率は再び5.1%に低落。翌1974年、明らかに需要が供給を超過し、年23%もの物価上昇が起きた。経済は混乱し、日本経済はマイナス成長に陥る。

原油価格の上昇はパニックのきっかけに過ぎないし、パニックそのものに長期的な影響などあるわけもない。「人々がより自分を活かせる土地へ移動する」ことによる社会の変化を妨げれば、経済成長は困難になる。そういう、シンプルな話だったのだ。だが人々は、これをオイルショックと呼び、外生的な経済ストレスにより高度経済成長が終った、と解釈した。自らの望んだ地域格差の縮小が真の原因だとは、ついに認めなかった。

3.

全総とは、国民のファンタジーを、現実に可能な範囲で実現する計画だった。国土の均衡ある発展など、実際にはありえない。石炭産業の競争力が失われた夕張で、大人口を維持しようと奮闘した結果が経済破綻だったことは、その象徴だろう。均衡を徹底的に目指せば日本経済の非効率は甚だしくなり、生活水準の大幅な切り下げが必要になる。そこで政府が実行したのは、どのような施策だったか。

  1. ナショナルミニマムの底上げを図った。とくに教育の整備には力が注がれ、学校施設と教職員数の均等な配置を実現した。その結果、県民所得と小中学生の学力は無相関になった。また上下水道をはじめとする公衆衛生の水準確保も実現され、寿命との相関も解消された。
  2. 全国各地で道路、鉄道、利水などの産業基盤を整備した。結果、全国の市町(村)の辺縁部に小さな工業団地が作られた。
  3. 大都市の雇用を抑制した。例えば、工場三法により東京や大阪に大型工場を新設すること禁止し、業績拡大中の企業の雇用を地方へ強制的に移転した。また地方への事業所の移転や新設を公費で補助し、「本来ならば最適とはいえない土地」への企業進出を促進した。
  4. 大都市の人口増加を物理的に制限した。都市部では容積率の制限や土地使用目的の制限が徹底され、高層住宅による効率的な床面積の増大を制約した。その結果、郊外にベッドタウンが広がり、通勤時間が先進諸国有数の長さになり、中距離輸送は需要過多となって通勤地獄が発生した。
  5. 既に都市に暮らす人々の生活を守ろうとした。例えば、速やかにインフラ整備を進めようとはしたが、公共料金の抑制が絶対条件となった。また、借地や借家に関する法律は借り手有利の考え方を基調とするなど、貧しい者が「都市から追い出される」ことのないよう、様々な保護策を講じた。

人の移動という目先の痛みを抑制するために、将来の経済成長率を引き下げる政策メニューが並ぶ。私は、教育環境と公衆衛生の底上げ(第1項)は強く支持する。だが、人々の自由な判断を縛る諸政策(第2〜5項)にはとても賛成できない。外部不経済の内部化こそ、必要な政策だったはずだ。

平成23年1月13日

現在の日本では地方の衰退ばかりが問題視されるが、かつては都市の過密の方が大きな問題だった。それゆえ、都市から地方へ様々な分配を行う政策が、国民に広く支持された。

しかし、都市の過密を政治的に抑制したことが、経済成長率の屈折、そして1990年代以降の停滞のひとつの要因となった。都市には集積の利益とともに過密の弊害がある。この外部不経済を取り込み、市場による問題解決を図れば、集積の利益を諦める必要はなかったはずだ。

1.

1960年、池田勇人内閣は国民所得倍増計画を閣議決定した。

(1)計画の目的
国民所得倍増計画は、速やかに国民総生産を倍増して、雇用の増大による完全雇用の達成をはかり、国民の生活水準を大巾に引き上げることを目的とするものでなければならない。この場合とくに農業と非農業間、大企業と中小企業間、地域相互間ならびに所得階層間に存在する生活上および所得上の格差の是正につとめ、もつて国民経済と国民生活の均衡ある発展を期さなければならない。

(2)計画の目標
国民所得倍増計画は、今後一〇年以内に国民総生産二六兆円(三三年度価格)に到達することを目標とするが、これを達成するため、計画の前半期において、技術革新の急速な進展、豊富な労働力の存在など成長を支える極めて強い要因の存在にかんがみ、適切な政策の運営と国民各位の協力により計画当初三カ年について三五年度一三兆六千億円(三三年度価格一三兆円)から年平均九%の経済成長を達成し、昭和三八年度に一七兆六千億円(三五年度価格)の実現を期する。

(3)計画実施上とくに留意すべき諸点とその対策の方向
経済審議会の答申の計画は、これを尊重するが、経済成長の実勢はもとより、その他諸般の情勢に応じ、弾力的に措置するとともに、経済の実態に即して、前記計画の目的に副うよう施策を行わなければならない。とくにこの場合次の諸点の施策に遺憾なきを期するものとする。
(イ)農業近代化の推進
国民経済の均衡ある発展を確保するため、農業の生産、所得及び構造等の各般の施策にわたり新たなる抜本的農政の基底となる農業基本法を制定して農業の近代化を推進する。
これに伴い農業生産基盤整備のための投資とともに、農業の近代化推進に所要する投融資額は、これを積極的に確保するものとする。
なお、沿岸漁業の振興についても右と同様に措置するものとする。
(ロ)中小企業の近代化
中小企業の生産性を高め、二重構造の緩和と、企業間格差の是正をはかるため、各般の施策を強力に推進するとともにとくに中小企業近代化資金の適正な供給を確保するものとする。
(ハ)後進地域の開発促進
後進性の強い地域(南九州、西九州、山陰、四国南部等を含む。)の開発促進ならびに所得格差是正のため、速やかに国土総合開発計画を策定し、その資源の開発につとめる。さらに、税制金融、公共投資補助率等について特段の措置を講ずるとともに所要の立法を検討し、それら地域に適合した工業等の分散をはかり、以つて地域住民の福祉向上とその地域の後進性克服を達成するものとする。
(ニ)産業の適正配置の推進と公共投資の地域別配分の再検討
産業の適正配置にあたつては、わが国の高度成長を長期にわたつて持続し、企業の国際競争力を強化し、社会資本の効率を高めるために経済合理性を尊重してゆくことはもとより必要であるが、これが地域相互間の格差の拡大をもたらすものであつてはならない。
したがつて、経済合理性を尊重し、同時に地域格差の拡大を防止するため、とくに地域別の公共投資については、地域の特性に従つて投融資の比重を弾力的に調整する必要がある。これにより経済発展に即応した公共投資の効果を高めるとともに、地域間格差の是正に資するものとする。
(ホ)世界経済の発展に対する積極的協力
生産性向上にもとづく輸出競争力の強化とこれによる輸出拡大、外貨収入の増大が、この計画の達成の重要な鍵であることにかんがみ、強力な輸出振興策ならびに観光、海運その他貿易外収入増加策を講ずるとともに、低開発諸国の経済発展を促進し、その所得水準を高めるため、広く各国との経済協力を積極的に促進するものとする。

国民所得倍増計画は、「先進地域の成長はもはや限界なので、後進地域を成長させる他ない」という認識に貫かれている。

2.

1962年、国民所得倍増計画に沿って全国総合開発計画(全総)が閣議決定された。計画は、2年間の議論を踏まえ、「都市の過密が第1の課題であり、結果的にそれが地域格差という第2の課題を生み出している」と問題を整理した。

国土総合開発の意義は、昭和25年に国土総合開発法が施行されて以来、わが国の経済的および社会的諸条件に応じていくたびか変遷した。人口の圧力が強く、食糧、エネルギー等の基礎物資の不足がはなはだしかつた法制定当時においては、何よりも国内の自然資源の緊急総合開発にその意義がおかれた。つぎに、一応経済の基礎が整備され、技術革新、消費革命という形で生産力が拡充された時代における国土総合開発は、企業の合理化、近代化のための民間設備投資に見合う産業基盤の整備、主として既成大工業地帯の用地、用水、輸送力等の隘路の応急的な打開に重点がおかれた。そして、わが国経済が産業構造の高度化、人口動態の変化、貿易為替の自由化など、内外経済情勢の変化に対応しながら、高度の経済成長をたどりつつある今日の国土総合開発は、高度成長の過程において露呈された重要かつ緊迫した地域的課題の解決に重点をおかなければならない。

その地域的課題の第1は、既成大工業地帯における用地、用水、交通等の隘路が一段と激化し、とくに東京および大阪への資本、労働、技術等の集積がはなはだしく、いわゆる「集積の利益」以上に「密集の弊害」をもたらし、その弊害は生産面だけではなく都市生活者の生活面にまで及び、過大都市問題をひきおこすに至つていることである。

第2は、既成大工業地帯以外の地域は、相対的に生産性の低い産業部門をうけもつ結果となり、高生産性地域の経済活動が活ぱつになればなるほど低生産性地域との間の生産性の開きが大きくなり、いわゆる地域格差の主因を作り出したことである。

以上の地域的課題は、もはや一つ一つの局地的な問題としてではなく、国民経済的な問題として緊急に処理されなければはらない。すでに、個個の都市問題の解決のために、あるいは個個の低開発地域の開発のために数多くの計画や構想が用意されつつある。しかし、これらの計画や構想は、相互の関連および国民経済的考慮が必ずしも十分であるとはいえない。

したがつて、ここに策定する全国総合開発計画は、上記の地域的課題の解決につとめ、地域間の均衡ある発展をはかるために、長期的かつ国民経済的視点にたつた国土総合開発の方向を明らかにすることに意義をもつものである。

都市に集積の利益があることには、様々なデータの裏づけがある。だが全総は、「4大工業地帯は市場の失敗により最適な密度を超過している」という現状認識を示した。もしその通りなら、既存の工業地帯への産業集積を食い止めることに合理性が認められる。先進地域の過密を解消し、後進地域を底上げすることこそ、経済発展を実現する唯一の道ということになる。

ただ、仮に全総の経済分析が正しいとしても、「政府が介入して工業分散を行う」のは疑問だ。政府は平均的には市場より非効率なのだから、政府は「外部不経済を市場に取り込む」仕組み作りに注力し、資源の配分は市場に任せるべきだった。そうすれば、先進地域が真に過密なのか、それとも集積の利益をもっと追求できたのか、市場が明らかにしてくれたはずだ。

「それでも、所得倍増計画は成功したではないか」という声もあろう。私には異論がある。まず、所得倍増が実現されたのは、内需の拡大と緩和的な金融政策がうまく噛み合ったためだ。そして様々な格差の縮小が実現したのは、少し高めの物価上昇率のもとで完全雇用が実現され、人手不足になったことによる。(注:労働市場が十分に柔軟な場合、労働力不足になれば、職種間の賃金格差は縮小する。たいていの仕事は「誰かがやらねばならない」からだ。例えば医師の収入は、究極的には医師になるために他の職種より余計にかかるコストを相殺するだけの水準となる)

つまり、池田内閣の施政下で実現した所得倍増と、国民所得倍増計画の諸政策は、因果関係が乏しいと私は考える。経済発展のために工業地域の面積的拡大が必要だったのは事実で、産業基盤整備そのものは有意義だったかもしれない。だが、国民所得倍増計画は基本的に誤っていた。だからこそ、幸運な時期は長く続かず、後の経済停滞を招く最後の大きな一撃となった。

3.

50年後の世界に生きる私たちは、先進地域でいっそう経済が成長し、後進地域の発展は相対的に困難だったことを知っている。経済学の教科書通り、国際分業を推進し、得意分野を伸ばして苦手分野は縮小するべきだったのではないだろうか。

地域格差の縮小は戦前からの政治課題だった。経済成長は「合理的な変化」なしに実現し得ないが、人々は「自分だけは変化せずに経済成長の果実を得たい」と望んでやまない。変化が加速しても不況になっても為政者たちはテロリズムに襲われた。1887年から1892年まで(明治21〜26年)、日本最大の人口を擁していたのは東京都ではなく新潟県だった。当時の日本では、稲作が基幹産業だったからだ。変化を拒絶するなら、経済発展も諦めねばならなかったのだが……。(ちなみに1886年までの人口1位は大阪府だが、当時の大阪府は現在の奈良県を含んでいた。また1887年の人口2位は愛媛県だが、これも当時の愛媛県は現在の香川県を含んでいた)

東京都と全国の年平均人口増減率

度重なる人口移動抑制策の累積により、東京と全国の人口増加率の差は戦前から縮小傾向にあった。そして1970年代、ついに東京の人口増加率が全国平均を下回った。国民の悲願が達成されたのだ。すると、たちまち経済成長率は屈折した。とくに第三次産業はキャッチアップ型の経済成長が依然として持続可能だったにもかかわらず生産性の伸びが止まってしまった。産業構造の変化は緩やかになり、大企業の顔ぶれも変化が乏しくなった。こうして、日本の高度経済成長は終った。

製造業と非製造業の一人当たり実質GDPの推移

開国以降の日本の経済発展は、10〜30年という短いサイクルで基幹産業を次々と乗り換えていくこと、経済が活況を呈している地域へ大規模に人口が移動していくことによって実現された。それなのになぜ「新時代に過去の経験は通用しない」と考えてしまったのか……。それは、過密に苦しむ都市住民、過疎に苦しむ地方住民が、ともに誤った処方箋に飛びついてしまったからである。

底辺を引き上げる政策は、国民全体の幸福の総量を増やすために必要な政策には違いない。だが、それはできる限り個人への所得再分配で実現すべきだったろう。地域格差の縮小を目指し、先進地域の発展を阻害し後進地域への半ば強制的な産業分散を進めた国民所得倍増計画は、日本経済の蹉跌を象徴している。

平成23年1月12日

平成23年1月11日

珍しく長文のメールを書いたので、少し整理して採録。

0.

『ハーバード白熱教室』Lecture15より。(注:抄録です)

(マイク)先生の議論は、政策や正義を下から、つまり最下層の目線から議論していることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。
(教授)マイク、いい質問だ。では自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか、考えてみてほしい。
(マイク)ハーバードも上層思考を進める1つの例だと思います。僕は生まれた時は自分がどの程度頭がよくなるのかわからなかったけど、この場所にたどり着けるよう頑張って来ました。ハーバードが何の資格もない1600人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。
(教授)それで、君はどんな原理を選ぶ?
(マイク)僕だったら能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。
(ケイト)1つ疑問があります。その能力ベースというのは皆が平等なレベルからスタートできることを前提としていて、そこからどこに辿り着くかによって報いられるということでしょうか。教育が始まったとき、その人がどれほど有利な状態にあったかは無視するということでしょうか。
(マイク)誰もが平等なレベルからスタートできるわけではない、といいたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは誰にとっても最善のものだと思います。上位2%に属する人も、下位2%に属する人もいますが、結局のところ、それは生まれながらの違いではありません。努力に報いることが最下層のレベルを押し上げるのです。
(ケイト)でもここにたどり着くまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力になぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人が皆、この大学に来ることができる同じだけのチャンスがあったとは思えません。
(教授)以前、こんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、146校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたんだ。その中で家族の所得が下から25%に属する学生はどのくらいいたと思う? わかるかな? 最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生はたった3%しかいなかった。70%以上が裕福な家庭出身だったのだ。
(教授)幸運よって便益を享受することは、それが最も恵まれない人の便益になるという条件の下のみ許される。例えば、マイケル・ジョーダンは稼ぎの大部分を他の人たちを助けるために税金として支払うというシステムにおいてのみ、3100万ドルを稼ぐことが許される。
(ケイト)平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部が分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力がある人が才能を最大限に発揮することができるシステムは能力主義システムだけだと思います。才能は明らかに恣意的な要素ですが、それを正そうとするのは弊害があります。
(マイク)この教室に座っている僕たちは皆、君たちは何もつくりだしていない癖に受けるに値しない名誉を受けているといわれているようなものです。足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が早く走ることで、僕らももっとも早く走れるかもしれないし、僕の後ろの人やさらにその後ろの人ももっと早く走れるかもしれません。
(教授)わかった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値がある、と考えているんだね。それが君の弁護の背景にある考え方だ。
(マイク)もちろんです。マイケルジョーダンをここに連れてきて、なぜ3100万ドル稼ぐのか聞いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したかわかると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的にを少数派を抑圧する多数派です。
(会場一部拍手)
(教授)賛同者がいるようだねぇ。
(マイク)そんなに多くはないですけど(笑)

1.

これらの記事について、概要、次のような感想メールをいただきました。

少し思うところあって、応答のメールはかなりの長文となりました。そのメールを再整理したものを、以下に示します。

2.

a)

マイクの意見にケイトが疑問を提起し、サンデル教授はケイトの発言を支援しました。間接的であれ、教授の発言がマイクへの反論として機能していることは明白です。

サンデル教授の巧みな誘導により、リバタリアニズムとリベラリズムの典型的な対立構造が提示されたわけで、講義としては成功しています。ただ、議論は噛み合っていません。

マイクは条件の違いを無視しているわけではない。環境にも能力にも格差はある。だから、最下層から本人の努力だけでトップへ到達できるわけではない。

しかし、下位2%の立場に甘んじているのは、当人の努力不足を指摘できる種類の人々ではないか。逆に上位2%に入るためには、幸運に加えて努力も必要だったはず。マイクは、そう考える。だから「全員にインセンティブを与え、真に最下層の人々の生活を底上げできる能力主義が望ましい」と結論するのです。

金持ちの所得を再分配するだけで社会が豊かになるか。なりはしない。みんなが生産性を上げて、経済成長を実現していかねばならない。……と読み解くと、これは経済学の知見とも合致します。

マイクは、出発点の格差、結果の格差を否定していないのに、ケイトは実質的にマイクへの「反論」として結果の不平等を指摘しています。もし『Justice』が論理学の講義だったなら、ケイトの「反論」が反論に なっていないことを、教授は指摘したでしょう。

b)

ところが、ケイトの攻撃は弁論術としてはきわめて有効であり、マイクは痛恨のミスを犯しました。ケイトに答えて、「結果の不平等がすべて恣意的な要素に基づくものではない」と主張してしまう。これでは「恣意的な要素に基づく分配は道徳的には正当化できない」というリベラリズムの根本概念を認めたも同然。

こうなってしまうと、ロールズに反論するのは極めて困難です。実際、マイクの主張は、Lecture15,16を通じて「出発点の格差への対応策がない」「努力と成果の相関は不確実だ」「努力も環境に左右される」と袋叩きにあいます。

相手の論理を取り込み、「それでも私の結論は揺るがない。あなたは議論の前提を間違っているから、結論も間違っているのだ。本来は私の主張に賛同できるはずだ」とやるのは、ありがちな失敗パターン。自説を導く論拠を安直に増やしていくと、しばしば論拠同士が矛盾してしまう。とくに対立する意見の論拠を取り込むのは、敵兵をみすみす城内にひきいれてしまうようなもの。

マイクは「能力の劣る者が、ただ待っているだけで大きな分配を受けられ、努力しても相対的に小さな果実しか得られないとしたら、人々は努力して自らを高めるより、確実に分配を受けることに注力するでしょう。逆に私財の分配を強制される成功者もまた、意欲を損なうことになります。結果、社会は活力を失い、みなが不幸になります」というロジックを強調すべきでした。ケイトの主張に一理あると認めるにせよ、「仮に恣意的な分配が問題だとしても、その解決を優先順位の最上位に置くのは間違っている」と釘をさすのが正解。

マイクはミスを挽回できず、自説の正しさを確信したまま、議論では自滅していく。次第に苛立ちが募り、終盤には足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきなどと、「いや、誰もそんな主張はしてないし……」と聞き手を呆れさせるような発言に至ります。

c)

ちなみに、リバタリアニズムの教典は、財産権という「人権」を楯に、所得再分配を否定しています。双方同意の市場取引を通じて得た財産は正当、という手続き論を取り、格差自体の正当化はしない。

つまりノージックは、人々が自らの意思で税金を納め格差縮小に寄与することには、何ら反対していません。あくまで、政府が強制的に個人の財産を奪うことだけを問題視しています。(私の理解です)

おそらくマイクは、真正のリバタリアンではないのです。上では痛恨のミスと書きましたが、それは正直な発言だったのでしょう。しかしそれゆえ、マイクは矛盾に直面しました。

不平等も悲惨も現実にあるので、苦渋の選択は避けられません。ノージックは、「それでも財産権の侵害はダメだ」と言い切った。マイクには迷いがあるので、現実の方を捻じ曲げて、格差を正当化したいのだと思う。それができれば、所得の再分配に反対しても心が痛みませんからね。

d)

……ともあれ、サンデル教授の講義は論理的ではありません。学生も非論理的だし、教授の仕切りもそうです。

教授の狙いは典型的な正義の対立構造を教室に再現することなので、むしろ個々の学生が直感的に持っている「異なる価値観への嫌悪感」をあぶりだすことに注力しています。功利主義の扱いなんか、相当にひどいと思う。でも、講義の進め方としては悪くありません。

論理的な議論をすると、最終的には根幹の価値観に行き当たり、その先は説明不能になります。双方、説得が不可能となり、お互いの主張を理解(≠賛同)することしかできません。

e)

ノージックがどうして究極的に不平等より財産権を重視するのか、ロールズがなぜ恣意的な分配に断固反対するのか、それは謎です。分厚い主著を読んでも、それは議論の出発点であって、結論ではないのです。根幹の価値観が違うので、ノージックはロールズを説得できないし、逆も同様です。

けれども、多くの人は彼らほど純粋ではない。マイクが肝心要の部分でリベラリズムの前提を受け入れてしまったように、そして学生たちが、「分配の正義は道徳とは全く関係がない」というロールズの論理的思考の帰結に「えっ!?」となったように、いろいろな価値観を併せ持っています。

サンデル教授が学生たちに非論理的な「議論」をさせておくのは、それが世間で現実に行われている「議論」に近いからではないかと私は思っています。

ハーバード白熱教室ノートの欄外:サンデル教授の六本木講演は失敗だった?(2010-08-30)で私が指摘しているのは、それがサンデル教授の狙い通りだとしても、『Justice』の講堂で行われている議論は論理的でなく、講義の内容を正確に反映した議論も行われてはいないことです。

サンデル教授の六本木講演はネット中継され、同時通訳で行われたために、編集と吹き替えの効果が剥落しました。そのために議論の水準が下がったように見え、ネットで「日本人は議論ができない」といった意見が噴出したのだろうと思います。

平成23年1月10日

1.

2chやはてブでは、気に食わない人が多いらしい。漠然とした意図を具体化する仕事って、そう珍しいものではないと私は思う。ウェブデザインなんかもそうじゃない? ジャンルは違うけど、私の仕事も、ちょうどそんな感じだし。

でまあ、リンク先はゲームのプログラマの募集。ゲーム開発者のインタビューなどを読むと、プログラマという肩書きの人の提案で具体化した仕様や機能が、分業体制の進んだ現代においても、まだまだたくさんあるようなのだ。同じプログラマという肩書きではあっても、業界によって、その職務範囲は違っていい。

2.

そういえば、昔、映画製作のドキュメンタリー映像などを見て驚いたのは、監督って全てを把握してるわけじゃないんだな、と。フィルムを編集している現場に、監督の姿がない。映像に音楽をつけている場面にも監督の姿がない。「えっ、そうなの!?」と。脚本を書かない。絵コンテを描かない。キャスティングをしない。衣装を決めない。カメラの位置を決めない。みんな人任せ。じゃあ、何をやっているんだ? いや、それぞれ自分でやる人もいるけど、どれもやらない人もいる。

宮崎駿監督は、何でも口出しする人。でも、『もののけ姫』のドキュメンタリーを注意して見直すと、案外、スタッフに任せている領域は大きい。サンの髪の色なんて、かなり重要そうだけど、基本的には色指定の担当者が決めていたので驚いた。監督は、気になる部分についてはしつこくいうのだけれど、だいたいどれも細かい話ばかり。例えば、色指定の方が豆の色を薄い茶色にすると、監督はその茶色の中でどれがいいかという話をする。そもそも豆の色なんてのは、黒も紫も緑も赤も白もある。まず薄い茶色(大豆か?)を選ぶというのが大きな決断。監督は、そこには何もいわない。あるいは、エボシのマントを紺色にしたのは、やっぱり色指定の方。だから、「なぜ紺色なのか」は監督ではなく色指定の方が説明するのだった。最初に監督と色指定の方が共有しているのは、「エボシはかっこいい」という漠然としたイメージと、いくつかの設定だけらしい。

たぶんゲームは業務システムよりは映画に近いものだと思う。制作意図は漠然としていて、下流工程に判断が委ねられている部分が相当に大きいのだろう。

3.

もちろん、スタジオジブリでも指定された通りに色を塗る人には、本来の職務範囲内で個人の意見を作品に反映する余地がない。毎日毎日、ひたすら指示通りに色を塗り続ける様子がカメラに捉えられていた。「着色工程」の中でも仕事の範囲は人それぞれだ。ゲームの「プログラマ」にもいろいろ区分けがあって、完成した設計書の通りにひたすらコードを書く人もいるのかもしれない。それはわからない。

そう、わからない。ですよね? その、わからないものを、あれこれ決め付けて叩く。いや、実際に、それらの批判は当たっているかもしれない。が、偶然当たっていたからそれでいい、という話ではないと思う。「もし**だとしたら」という批判は、その不確実さに対応した穏当な言葉でなされるべきじゃないか。

冤罪事件が怖いなら、まず自分が、冤罪につながる考え方に与しないこと。行間を補完するなら、なるべく善意に読み取るべき。私自身、必ずしもそのようにはできないが、「なるべくそうしたい」とは、いつも思っている。

平成23年1月9日

1.

とても皮肉なことですが、ホテルの従業員は(ホテルに限りませんが)、自分と仲間の報酬と職を減らすために、日々相当な努力を強いられるという構造の元におかれているのです。

日本経済全体のアウトプットが横ばいだから、生産性の向上が悲劇になる。本来なら、これは決して暗い話ではない。ホテルのように「変えられないもの」に売上げが制約される場では、生産性の向上に伴い従業員を減らしていくのは正しい。売上げがほぼ一定なら、1人当たりの給与を増やす方法は他にないだろう。

問題は、日本全体の経済成長が、労働者の生産性向上より大きいか小さいか。成長率の方が大きければ、人手不足になる。生産性の上昇に伴い、各ホテルの従業員を1%削減することになっても、日本全体ではホテルが2%増えていたとしたら? 当然、人手不足なので人材獲得合戦になる。「ダメな人がクビを切られる」のではなく、「(高給などに惹かれて)移りたい人が移る」ことで人員が調整されることになる。

ホテル業界は不況でも、日本全体では力強い経済成長が実現されているという場合、やはりマクロでは人手不足だ。ホテル業界は人余りで給与が下がっても、成長中の業界は人手不足で給与が上がっていく。すると成長中の業界に人が集まり、他の多くの業界が少しずつ人手不足になる。そこにホテル業界から人が移動していく。もちろん、成長中の産業へ直接に飛び込んでいく人もいるだろう。

2.

ちなみに。給料を下げても従業員のアウトプットが同じなら、給料を下げるのが正しい。ホテル業界だって競争があるのだから、自分のところだけ高給を維持しようとしても無理。サービスが全く同一なら、いずれライバルの価格攻勢に負ける。倒産したら全部パーだ。

人余り社会の人員調整はつらい。人手不足社会にしないとダメ。人手が足りないので海外から労働者を……なんて話には、絶対に絶対に賛成しちゃいけない。国内で本当に人手が足りなくて企業が海外に進出するなら、それはいいことだ。

これが「労働力不足の緩和を目的とした海外労働者の受け入れ」を私が容認する条件。「国内で得られない才能が必要なので海外労働者を呼ぶ」ならいい。でも「人手不足による賃金上昇を嫌って海外から人を呼ぶ」のは決して認められない。

例えば、看護師が足りないのは医療水準に比べて医療費が安いから。「インドネシア人の看護師なら現在の待遇でも働いてくれる」なんて理由で受け入れたら、看護師の待遇はずっと固定されたままだ。こういうことを許す社会では、自分の労働環境が改善されることもない。

また、高齢化が深刻な問題となるのは、寿命が延びたのに生涯の就業年数が十分に伸びていないからだ。奈良時代、吉備真備は76歳まで働き80歳で没した。健康が許す限り経済的に自立できる社会を復活できれば、高齢化は問題ではない。海外から人を呼ぶ前に、国内の1000万人に働いていただける社会を実現すべきだ。

平成23年1月8日

1.

企業最大の費用は人件費ではありません。経営者のエゴです。

非公開企業の株主は、経営者であることが多い。経営者が株式の公開に合わせて強気の事業計画を出すと、株価は釣り上がり、株式の売却によって得られる金額は大きくなる。だがそれは、企業が将来の大きな利益を新しい株主に約束することだ。株式を売却して縁が切れた元経営者はハッピーだが、会社に残った人々にとっては、「利益」という名の「コスト」がのしかかるに等しい。……という話だと理解した。

株式上場とは、まず資本調達の手段であって、銀行からの借金と比較して考えることができる。わざわざ銀行から借金をして経営幹部に莫大な賞与を払ったりするか。ありえない話ではないが、珍しいことだろう。なのに、株式を上場する際には、そうしたことがよく起きる。たしかに奇妙な話だ。しかし、銀行の融資を受けられるくらいの明確な意図と計画(企業の成長に資するお金の使途)があるなら、上場は有意義だ。当然、「株式上場のコストをきちんと考慮しても銀行の融資より得なのか?」は考える必要がある。

いまのところ、長い目で見ると、銀行は少しずつ押し負けているそうだ。社会的な責任とやらを背負わされ保守的な判断に傾く銀行よりも、自分だけの責任で参加する者の多い株式市場の方が判断が甘くなりがちなので、企業としては都合がいいということか。

2.

樋口さんが、「経営者のエゴ」の話を理解するための準備として、「株式の売却益とは何か」を説明するために挙げたホテルの例を読み直してみる。

  1. とあるホテルは赤字経営が続いていた。そこで樋口さんらが30億円で買収した。たまたま、そのときの株価が30億円だったのだろう。なお、この時点でホテルの建屋寿命は残り20年だったので、金利を無視しても年1.5億円の利益が出ないと、この投資は損になる。
  2. 樋口さんらは優秀で、すぐ年2.3億円の利益を出すことに成功した。どうやったのかは、わからない。するとそこへ、「我々なら年3億円を超える利益を出せる」と考える人物が現れて、3億円/年×約20年≒60億円で買収提案をする。樋口さんは、年3億円超の利益を実現する方法は人件費の圧縮しかないので反対だ、と主張し、臨時株主総会でクビになった。
  3. 新オーナーの秘策は、やはり人件費の削減だった。樋口さんの読み通りだったわけだ。しかしその後、新オーナーが目論見通り年3億円超の利益を実現できたかどうかは不明。

こうした事例から樋口さんは、1)株式の売却益とは利益の先取りである、2)足元の利益が増えると株価も上がる、よって上場企業では、従業員が頑張って企業の利益を増やしても、ロクな見返りを得られず、走らされ続ける、と説く。

気になる点がいくつか。

念のため。会社が利益を出したなら、従業員にも還元しないとね……という話は、今回、関係ない。樋口さんらは年2.3億円の利益を実現したそうだが、その金額は、売上げから従業員へのボーナスなどの経費を差し引いたもの。経営が改善されたなら従業員の給与も伸びるのが普通だが、その人件費増は既に経費に組み込まれているはずだからだ。

3.

株価が利益ゼロ水準まで上昇するのは、市場が機能している証拠。

実際の株価は、足元の利益と比較するとマイナス水準に突入していることも少なくない。だが、それは資本主義を牽引するエンジンのひとつとなっている。起業家の楽天的なマインドが新しいビジネスを生み出していくように、株主の楽天的なマインドもまた、保守的な経営者に変革を促す力となる。

樋口さんは、自分にできなかったことは他人にもできないと決め付けて、「新オーナーが60億円の投資を回収するためには、従業員の待遇を悪化させる他ない」と考えた。けれども、ふつうは人件費を圧縮すればサービスを維持できなくなる。某ホテルのケースでは、新オーナーの施策は(樋口さんの言葉を信じるならば)樋口さんの予想通りであり、従業員は不幸になったわけだけれども、これには別解もありえたろう。

例えば、建屋の寿命を15年長くする画期的アイデアがあったとすればどうか。20年で建屋を取り壊し事業を終了するという樋口さんの前提は覆り、給料カットなしで60億円を回収できる可能性が見えてくる。現在30歳の従業員は、50歳で解雇されることなく、65歳まで働き続けられることになる。みんなが幸せになれた可能性もあるわけだ。

「俺なら今の経営陣よりうまくやれる」と自信たっぷりな人が次々に登場するのが、市場の面白いところだ。まあ、その多くは自信過剰であり、望んだ利益を得られず損をする。だが、今の経営陣がベストであり、現状以上の業績は実現不可能だという前提の正しさを、誰が保証するのか。誰にもそのような保証はできないからこそ、挑戦者に対して会社を開く。それが、株式公開のもうひとつの意義だと思う。

平成23年1月7日

既に記事は読めなくなっているので、はてブの方にリンク。

以下、素人の感想。

聖書に示されているのは、抽象的な言葉と、限られた数の具体例だから、細かな戒律は、聖書から類推して人が作らねばならない。

オナンの兄エルが神に処刑されたので、父ユダはオナンに兄エルの妻タマルと結婚するよう命じた(創世記38:6-8)。しかし、オナンはタマルによって設ける子が自分の相続人とならない事を知っていたので、性交の際、故意に精液を地に流した(創世記38:9)。この事は神の意に反する事であったので、オナンは神により処刑された(創世記38:10、46:12、民数記26:19)。

カトリックは、旧約聖書のこの記述から、「神は性交から生殖を分離し、性的快楽のみを得ることを禁じている」という解釈を引き出した。これは「生めよ増やせよ地に満てよ」や「姦淫の禁止」といった神の命令とも整合的で、説得力がある。

人が自動的に正しい行動を取るなら、そもそも戒律など要らない。聖書は「人がしたいようにした結果、神の怒りに触れた」事例を、たくさん紹介している。性的快楽と生殖を切り離したいという欲求は、大昔からあったのだろう。だがユダヤ教やキリスト教は、「自然な欲求に従うことが正しい」という主張を否定する。

オナンが性交そのものを回避しなかった理由は明らかではない。性的快楽を得るためではなく、「子をなすための努力はしています」と人の目をごまかすためだった、とも考えられる。あるいは、神が怒ったのは、オナンが避妊したからか、それとも兄の家系を絶とうとしたからか。もし後者なら、オナンは性交自体をしなくとも神の罰を受けたろう。

だがいずれにせよ、オナンは夫婦間の性交で避妊をして神に殺された。姦淫は罪だが、生殖は賞賛される。カトリック教会がコンドームを容認できる理由が、私には見つけられない。

aiaki 女性取り込むというか、性病関連では必須なモノになってきているのに、今世紀になっても駄目とか言ってた団体を普通に容認している社会が狂っているとしか思えんなぁ。

guldeen 宗教で伝染病ほか病気は治せない以上、それに口出しはして欲しくないもんだ。それと『不順異性交遊』とは別の話。そういや、少子化問題も救えてないしね、宗教では。

カトリックは貞操を称揚し、婚前交渉も離婚も認めない。実質的に、生涯にセックスの相手は1人限定としている。少子化問題についても、神は人に「生めよ増やせよ」と命じた、と説く。みなが敬虔なカトリック信者なら、性病の蔓延も少子化もありえない。これほど明快な答えを持っているのだから、カトリックが人々を導こうとガンガン「口出し」するのは当然じゃないか。

妊娠を邪魔せずに性病を防ぐ方法があるなら、カトリック教会は(少なくともここまで書いてきたような論理によっては)それを問題視しない。なお体外受精などへの批判は、視点の違う議論。ともかく、カトリックは子をなす以外の目的で性交することを認めないのだから、避妊具など存在意義がない。当然の理屈だ。

……それだけに、ローマ法王が限定的とはいえ避妊具を容認できる理由がわからない。どういうことだろう、と首を傾げていたところに、続報がきた。

追記

平成23年1月6日

経済学の本は、背の高い建物が作る日陰について、概要こんな回答をしていた。

街の住人にとって、近所に新しい建物ができることは、プラスの面もマイナスの面もあるだろう。これを直接に測定し、積み上げていくことは難しい。そこで、住宅価格の変化をモニターし、当該の建物の登場によって価格が下がった分(または価格の上昇が抑制された分)を補償金とするのが合理的だ。

ビルを建てる業者は、ビルから得られる利益と、結果として必要になる補償金額をそれぞれ予想し、最適なビル高さを決めればよい。政府が構築すべきは、こうした補償の仕組みであって、事前にビルの高さを規制することではない。

この議論では、「原住民利権」を認めていない。市場において5000万円の住宅は、5000万円分の価値だけを社会的に認める。現在の市場価格が6000万円の家が、ビルの日陰になった結果、5000万円になったとき、「差額の1000万円を補償金として支給するから、どうしても日当たりがほしい人は引越しなさいよ」ということ。

5000万円で売れる家と、5000万円で買える家は違う(税金、不動産屋の取り分、引越し費用、etc)。だから、補償金は1.5倍にする、ということでもよい。そのあたりは制度のさじ加減だ。とはいえ、原住民が「補償金が1億円でも10億円でも絶対にビル建設は認めない」と訴えても、それは認めないということ。

この背景には、「土地のような希少で人為的に増やすことができないものについて、たまたま現在それを所有している者に完全に独占的な権利を認めるべきではない」という考え方がある。自由経済においては、個々人が自由に価格を決定できることが重要だ。しかし土地のような替えのきかない財は、独占者が無制限に価格を吊り上げることを許すと、市場取引が適正に機能しない。これを認めてよいとすると、他の様々な財についても同様に、独占による市場機能の麻痺を否定できなくなる。だから、「客観的に見てだいたい同じもの」の価格を参照した必要最小限の強制的な取引を支持するわけだ。

補記

海などを埋め立てれば陸地は増やせるが、例えば「新宿」を増やすことはできない。土地はひとつひとつが特別なものである。まあ、工業生産された製品だって、ひとつひとつ「違うもの」ではあるが、その「違い」が問題になる場面が多いか少ないかで話を切り分けている。

上で挙げた日照権の例でいえば、徹底抗戦する原住民に対して、6000万円を渡して土地の所有権を奪ったりはしない。それは「必要最小限の強制」の範囲を超えているからだ。しかし、「1000万円+αの補償金で日照権を買う」取引は強制する。その判断は恣意的じゃないか、といえば、まあ、私もそう思う。だが……。

「迷惑施設」問題が金銭的に解決できれば、費用と便益の関係も明確になる。「お金の問題ではない」と言い募ると社会の端と端をつなぐ媒体が消えてしまい、一部の人が我慢をして、受益者がタダ乗りする世の中になってしまう。障害者施設を作れなければ、それを欲した人々の負担は放置される。

経済学の本の主張は残酷に聞こえるかもしれないが、それは「障害者施設の建設に反対するなど不届きだ」といった意見に対抗するものでもある。他人事だと思ってお説教で問題を解決しようとするのはおかしいんじゃないの、と。

平成23年1月5日

平成23年1月4日

平成23年1月3日

平成23年1月2日

1.

2009年夏から2010年夏にかけて、社会人になって2回目の給料をもらって以降、はじめて前年同時期との比較で預貯金が月収(手取り/一時金の月割りはしない/以下同じ)の1ヶ月分以上、減少した。長らく年平均では月収×4ずつ預貯金を増やしてきたので、驚いた。しかし収入が減ったのに支出が増え、そのどちらの程度も激しかったのだから、当然の結果だった。

収入が減ったの勤務先のは業績の反映。支出が増えた要因は多々ある。まず寄付が増えたことが大きい。そこに引越しと、祖父の入院が重なった(お見舞いの交通費)。さらに、寄付が増えると、私的な消費も増えた。理由はわからないが、「ま、いいか」の基準が明らかに緩んだ。というわけで、かれこれ月収×5ほど支出が増えた。収入は月収×1.5ほど減ったので、例年の月収×4のプラスが、月収×2.5のマイナスへと変化した。

「貯金など増やしても使い道がないので意味がない」ということは、ずっと考えていた。が、実際に貯金が減ってみると、心中穏やかではいられなかった。

2.

支出の推移

色分けの意味や金額の絶対値に注目されても面白くないから、意味不明は承知でこういう支出推移のグラフを示す。12月までは実績、1月以降は計画。なお、家賃は家計を組み立てる前提とし、コントロールの対象にはしないので、除外している。秋以降、急激に支出を絞ったことがわかる。年末に上期の好況を反映した一時金が出て、一昨年の末よりは、わずかに預貯金を増やすことができた。

支出推移のグラフが昨年7月から始まっているのは、支出の記録を完全に把握できたのが7月分からだったため。預貯金の推移は通帳から数字を拾うことができたが、それでは何にどれだけお金を使ったのかはわからないし、タイムラグも大きい。社員寮を出てから2年間は家計簿をつけていたが、結局、何も我慢することなく100万円が余ることがわかったので、しばらく支出の記録をつけていなかった。

除外した家賃について補足すると、山手線の内側から栃木県へ移ったので、家賃はほぼ同じで床面積が倍増した。希望する条件を満たす狭い部屋がなかったので、無駄に部屋数が増えた。が、六畳の和室に引きこもっているせいか、光熱費が3割減。家屋関連支出の総額は微減に。冬の寒さもどうってことなかった。

3.

寄付(増加分)と引越しとお見舞いを完全に除外しても、月収×1.7くらい、年間支出が増えている。それで生活水準がどう変わったか。驚くほど何も変わっていない。パソコンはパソコン、携帯電話は携帯電話、米は米、靴は靴だった。

私は長らく1000円か2000円の靴を履いてきた。社会人になってから2回だけ3000円台のを買ったくらい。ところが、昨年は突然、8000円の靴を買っている。前の靴の底が磨り減って穴が開き、雨の日に底面から水がしみてきたので、仕方なくスーパーの靴売場へと足を運んだ。

たしかに、1000円の靴と8000円の靴とでは、感じが違った。それは間違いない。だが、「値段が8倍」と考えると、「この程度か」という気がしてならなかった。それでも、「ま、いいか」と思って、1000円の靴ではなく8000円の靴を選んだ。「所得倍増」と聞くと夢が膨らむが、現実はこんなものなんだな。(誤記訂正)

平成23年1月1日

昨年の方針を維持する。

  1. 精神一到。自分なりの幸せのあり方を見据える。
  2. 生活防衛。車なし生活を維持する。
  3. 不況に抗う。仕事は幸福の基盤。守り抜く。

補記

一昨年、勤務先はたいへんな危機に見舞われたが、昨年前半は持ち直した。ただ、どちらにしても私に求められたのは短い勤務時間で所定の開発成果を上げること。勤務時間などの面ではむしろ、以前の好況時よりよほど楽になってしまった。「仕事を守り抜く」と掛け声は勇ましいが、行動に戦いの実感が伴わない。

秋以降、また業績が悪化しており、「何か素晴らしい発明でもできたらなあ」とは思うが、汗を流して披露すれば発明が成るというわけでもなく。人員増なし残業ゼロの制約下でと開発の遅滞なき推進を実現していく日々が続く。疲れてヘトヘトになれば、「できるだけのことはした」という言い訳ができるのだが……。