ガジェット通信編集部
担当者さま
はじめまして。徳保隆夫です。記事寄稿の依頼について、回答します。
徳保隆夫名義で公開した文章について、私は一切著作権を主張しません。
それらの文章は、転載も改変も自由にしてください。リンクも無用です。
なお、再利用版は「ガジェット通信の記事」として公開していただけると、
個人的にはありがたいです。もちろんこれは「希望」であって、
そうしないなら記事の再利用を許可しない、という意味ではありません。
以後、連絡不要です。既に公開された文章も、私がこれから書く文章も、
自由に再利用してください。
--
徳保 隆夫(とくほ たかお)
http://deztec.jp/
deztec@gmail.com
過去、私の文章が初出情報を伏せて再利用され、「それってどうなの」という反応が出たことがあります。しかしそれは、私自身が望んでいることです。私の文章は、私の名前を伏せて再利用していただくのが私にとってはベストなので、それを咎めるようなことは、どうかやめていただきたい。
経験的には、私が「再利用は認めますが、できれば、再利用した文章については、あなたが責任を負ってください」と希望を伝えると、渋い顔をされることが多い。それはそうだろうと思う。私が書き飛ばした文章の責任を代わりに背負うなんて、嫌に決まってます。
でも、転載する人が、「転載しただけ」といって責任を逃れようとする感覚に対して、私は批判的です。例えば tumblr ユーザーの大多数は不愉快。あんなふうに一部を切り取って転載しておきながら、自分たちは何ら文責を負う覚悟がないように見える。
2chで私の記事を引用する人にも、同様の不快感がある。誰かが私の記事から2〜3行を引用すると、他の数人が、引用された箇所だけ読んで叩く。引用した人が匿名で、引用レスに自分の考えを全く添えていないことも多く、結局、私が批判の矢面に立たされている。いい加減にしろ、といいたいよ。
こっちは著作権を放棄しているんだからさ、私の言葉を再利用したい人は、リンクとかしないで、「自分の言葉」と偽って再利用してほしい。再利用によって得られるものは全て差し上げるから、再利用先で発生した悪罵とかも、全部そちらで引き受けてください、ということ。
世間では著作者名詐称をこそ憎むようですが、私としては、転載元記事へのリンクなどしないでほしい。tumblr で100人がリブログしても、tumblr 経由の読者はリブログ数より少ないことが珍しくない。あんなリンクは言い訳にしかなっていない。実際には転載された部分だけが一人歩きしています。
「引用なら自由だろ」という人がいるかもしれませんが、tumblr に「引用」なんて1割もありませんよ。9割以上は著作権法の精神も条文も無視した無断転載です。私の文章は著作権を放棄しているから著作権絡みの問題はありませんけど、tumblr で転載されているコンテンツの9割以上は違法な無断転載でしょう。
親告罪ってのは、告訴されるまで司法権力が動かないというだけで、告訴がなくても罪は罪。tumblr コミュニティに関わると違法行為に対する感覚が麻痺するので、自分が流されやすい性格だという自覚がある人は、あんなのには近付かない方がいいです。
以前も書いたことですが、tumblr コミュニティは、無断転載OKのコンテンツだけをリブログし合うべき。それではコンテンツが足りないなら、布教を頑張って「リブログされてもいいよ」という仲間を増やしていくのが本来の道。tumblr の思想に同調していない外部の人々のコンテンツを、平気で勝手に転載しまくってる連中には感心しません。
とくに写真の扱いは酷すぎますね。たとえ権利者の不興を買おうともこれは転載するべきだと信じる、といった信念や覚悟を持ってやっているならともかく、「赤信号、みんなでわたればこわくない」という感覚で他人の飯の種を無断転載している人が大多数ではないのか。
2011年4月8日に初出情報入りで掲載されました。
2006年(平成18)7月,かねてより「小口シール止め」雑誌の内容が過激化し,成年雑誌マーク表示図書と変わらない現状について,東京都治安対策本部が雑協,出版倫理懇話会と意見交換を行った。都側は秋の審議会に過激なシール止め雑誌を不健全図書として諮問にかけたい意向を表明。出版社側は「小口2か所止め」は中身もほぼ完全に見られず,青少年の目に触れさせない条例の目的は果たしており,内容の是非は刑法175条に任せるべきと主張した。
都条例の改定に関して、twitterなどで「都内のコンビニは既に成年雑誌を取り扱っていません」という情報を何度も目にした。私は「そんなバカな」と思っていたのだけれど、「小口シール止め」雑誌の内容が過激化し,成年雑誌マーク表示図書と変わらない現状
という率直な記述に接し、疑問が氷解した。
ここからリンクを辿って自主規制団体の事情聴取結果を読んでみると、「これは熟女ものなので青少年が手に取る可能性は低い」とか、「値段が高く青少年の買うような商品ではない」などといい、「だからこの商品の区分販売を義務付ける必要はありません」という意見が繰り返し出てくる。
東京都は、「内容で判断する」立場を取っている。実際には青少年が手に取るとは考えにくいコンテンツであっても、その内容が「不健全」なら、区分陳列を義務付けたいわけだ。
出版社側は、この考え方に昔から反対し続けている。区分陳列されると客層が狭くなってしまう。だから、価格の設定や、表紙のデザインなどをうまくやって、青少年の関心をひきつけないようにした商品は、一般の棚で売ることを認めてもらいたい。
多くの都民は、じつのところ、子ども云々以前にまず自分が「不健全」なコンテンツを視界から追い出したいのではないか。現行の都条例は、そうした民意を反映しているように思える。
自主規制団体の意見を無視して不健全指定がなされるのはおかしいじゃないか、という意見をネットで散見するが、規制は条例に基づいて行われるのだ。条例を無視して区分陳列の強制に反対しても、都側にスルーされのは当然。都が自ら条例を無視するようになったら、むしろ民主主義的にヤバイ。
「小口シール止め」も同じだろう。「立ち読みできないのだから、成年雑誌マークを外して混合陳列していいよね?」という考え方はあってよいけれども、それは今あるルールとは違っている。ルールを変えたいなら、議会で戦うべきだ。なし崩し的に運用の実態を操作しようとするのはおかしいと私は思う。内容が成年雑誌マーク表示図書と同じなら、小口シールの有無によらずマークを表示し、区分陳列の対象とするべきだ。
レンタルビデオ店の場合、アダルトビデオの類が一般客の目に触れないよう、布などで床から天井まで店内を仕切っていることが多い。以下、これを「100%の区分陳列」と表記する。いま、少なからぬ人々が「とくに過激な内容の書籍には100%の区分陳列が必要」と考えていると思う。
コンビニエンスストアで実現可能な区分陳列が「50%程度」であるならば、その状況に見合った内容の制限はあって当然だろう。もし「成年雑誌マーク付き図書は100%の区分陳列が妥当」というのが社会的なコンセンサスならば、コンビニで「足切り」が起きても致し方ない。他に販路が残されている以上、「コンビニからの排除=表現の自由の侵害」とはいえないと私は思う。現状、R15+の映画のDVDなら扱うコンビニがあるが、アダルトビデオはないと思う。これを「表現の自由の侵害」と捉えるべきか?
ようするに、小口シール止め雑誌の内容が成年雑誌マーク表示図書と同じならば、その区分陳列は同等の水準でなされるべきだ。コンビニからマーク付き雑誌が消えた理由が「100%の区分陳列がコスト的に無理」という理由だったなら、内容に差のない小口シール止め雑誌がコンビニから消えても致し方ないのではないか。
私はアダルトビデオと成年向け図書の「不健全さ」の程度に差はないと認識しているから、前者の規制に反発しない人が、後者を前者と同等に規制しようという話にばかり猛反発するのは、不合理だと思う。
内容に新味はないが、なかなか面白い。2回開かれたきり中断しているのが残念。
栃木県ではこんな図書類が有害指定されている(2011-02-25)の補足記事。
有害指定リストを見て、「もっと優先的に取り締まるべき本があるはず」と思った方もいると思う。私もそう考えて書店へ行ってみたのだけれど、予想に反して区分販売が機能していたので驚きました。エログロのない本と混ぜて置かれている作品は、有害指定図書と比較すれば描写がソフトなのです。『ジャンプスクエア』とか『チャンピオンRED』はネットでしばしば描写が過激だと話題になりますが、有害指定された『35歳からの恋愛』や『別冊週漫スペシャル』などと比較すれば、雑誌全体としては内容に相当の差があります。
これは小説でも同じで、ふつうの文庫の棚に置かれている「官能小説」には、例えば強姦を「よいこと」のように描くものは見当たりませんでした。他方、カバーに成人マーク(?)の付いた小説には、そのような倫理的制約がない。その自由度は、予想を超えていました。「いくら何でも、こんなの誰が買うんだ?」と不気味な感じさえします。
ともあれ、実感として、有害指定されたレベルの本を一般書の中に発見するのは簡単じゃないです。現状の基準を是とする限りにおいて、区分陳列はかなり厳格に実施されてました。2時間かけて3つの書店を回ったのですが、私個人としては「この本をここに並べちゃうの?」と思う事例は多々あったけれども、いずれも栃木県が実際に有害指定している水準とは距離があるのです。
あと、いちばん印象に残ったのは「きちんと区分されている中には、有害指定された作品とは段違いにひどいものがたくさんある」ことでした。ポカーンとなった。
実際に書店を巡り歩いてみて、「たしかに区分陳列は機能しているけれども、これでPTAが満足するわけがない」と感じました。他方、「出版社が徹底抗戦の構えを取るのも当然だ」とも思いました。現状の成人コーナーには、成人の大多数が近寄りません。成人コーナーに隔離された出版物は、販売上、大いに不利です。
では、どうしたらよいか。私は「成人向けの基準を圧倒的に厳しくすべき」と考えています。例えば、書店の売り場の過半が成人コーナーになれば、書店に訪れる人の大多数が成人コーナーに足を踏み入れるはずです。そうなれば、区分陳列を強制されても商売上の不都合はなく、出版社が規制に反発する動機は小さくなりそうです。
もちろんそうなったらなったで、現行の成人マーク付き図書をさらに隔離してほしいという要望は出てくるでしょう。しかし、青少年の健全育成という大義名分を失えば、もはや行政の出る幕ではありません。書店などが客の要望と商売の都合を天秤にかけて自由に決めればいい話です。
栃木県は青少年健全育成条例に基づき、年4回、有害図書・有害興行を指定しています。また年初の審議会では、優良図書類の指定も行っています。優良図書は先に紹介したので、今日から数日は有害図書について書いていきます。
ちなみに2009年3月以前の情報はウェブ上に公開されていません。
2011年2月指定の有害図書は、下図の通り。有害興行は県内で公開された映倫R18指定の作品リストを追認しているだけみたいなので、略。
東京都の指定する有害図書と見比べると、栃木県の方が規制が厳しいことが伺えます。
栃木県の青少年健全育成条例には、東京都の条例にない包括規制があります。包括指定をしたうえで、個別にも指定する、ということではないかと思う。
第二十二条 知事は、図書類の内容の全部又は一部が次の各号のいずれかに該当すると認めるときは、審議会の意見を聴いて当該図書類を青少年に有害な図書類として指定することができる。ただし、緊急を要する場合で、あらかじめ、審議会の意見を聴くいとまがないときは、審議会の構成員のうち二名以上の意見を聴いて、当該図書類を青少年に有害な図書類として指定することができる。
一 著しく青少年の性的感情を刺激し、その健全な育成を阻害するおそれのあるもの
二 著しく青少年の粗暴性又は残虐性を誘発し、又は助長するおそれがあり、その健全な育成を阻害するおそれのあるもの
三 著しく青少年の犯罪又は自殺を誘発し、又は助長するおそれがあり、その健全な育成を阻害するおそれのあるもの
2 知事は、前項ただし書の規定による指定をしたときは、その旨を速やかに審議会に報告しなければならない。
3 第一項の規定にかかわらず、次の各号のいずれかに該当する図書類は、青少年に有害な図書類とする。
一 書籍又は雑誌であって、全裸、半裸若しくはこれらに近い状態での卑わいな姿態又は性交若しくはこれに類する性行為(以下「卑わいな姿態等」という。)を被写体とした写真又は描写した絵で知事が規則で定めるものを掲載するぺージ(表紙を含む。以下この号において同じ。)の数の合計が、二十ページ以上又は当該書籍若しくは雑誌のぺージの総数の五分の一以上であるもの
二 録画テープ、録画盤その他これらに類するものであって、卑わいな姿態等を描写した場面で知事が規則で定めるものの時間が合わせて三分を超えるもの
三 録画テープ、録画盤その他これらに類するものであって、図書類の取扱業者の組織する団体等が青少年が閲覧し、視聴し、又は聴取することが不適当であると認めた旨の表示で、知事が審議会の意見を聴いて指定するものがなされているもの
4 図書類の取扱業者は、第一項の規定により指定された図書類及び前項に規定する青少年に有害な図書類(以下これらを「有害図書類」という。)を青少年に販売し、貸し付け、交換し、頒布し、贈与し、閲覧させ、視聴させ、又は聴取させてはならない。
5 図書類の取扱業者は、有害図書類を陳列するときは、知事が規則で定める方法により他の図書類と区分するとともに、当該有害図書類を陳列している場所の見やすい箇所に知事が規則で定めるところにより有害図書類を青少年に販売し、貸し付け、交換し、頒布し、贈与し、閲覧させ、視聴させ、又は聴取させることが禁止されている旨の掲示をしなければならない。ただし、青少年立入制限場所(風適法第二条第一項に規定する風俗営業(同項第八号の営業を除く。)、同条第六項に規定する店舗型性風俗特殊営業又は同条第九項に規定する店舗型電話異性紹介営業に係る営業所をいう。以下同じ。)において有害図書類を陳列する場合は、この限りでない。
6 何人も、有害図書類を青少年に販売し、貸し付け、交換し、頒布し、贈与し、閲覧させ、視聴させ、又は聴取させないように努めなければならない。
東京都の条例が改定される際には「包括規制の導入を絶対に阻止するぞ」的な議論を何度か目にしたのだけれど、果たして栃木県で、反対者がいうほど出版社が追い込まれているのかどうか。栃木が漫画文化不毛の地と化しているのかどうか。たかが区分陳列、というのが一県民の実感ではあります。
ひょっとすると、人口比の売上げをみたとき、東京より栃木の方が2割くらい低かったりするのかもしれない。もしそうなら、弱小出版社にとっては非常に厳しい話。それでも「包括規制で出版社壊滅」というストーリーにはリアリティを感じません。だって実際、包括規制の網に引っ掛かる本は、成人向け図書のコーナーに置かれているとはいえ、コンビニでふつうに売られているには違いないので。
2月8日の栃木県青少年健全育成審議会の結果がようやく公報に載りました。優良図書34冊、有害図書11冊、有害映画24本が指定されています。
かつて私は「読書感想文コンクールの指定図書はつまらない」と思い込んでいたのですが、実際に読んでみたら、これが面白い。「おとなしく本を読んでいる子が、じつはいちばん危ないんだよ」という感覚を呼び覚ますものがありました。(ネットで感想を検索してみると、その毒をスルーしている人が意外に多くて「えー?」と拍子抜けもしたのだけれど……)
ともかくそうしたわけで、私は優良図書に関心を持っています。昨年はリストを手許に転記しておかなかったので、結局、読まずに終ってしまいました。今年はこうして自分用にAmazonリンク集を作成したので、何冊か読んでみるつもりです。
この他に図鑑や紙芝居も大好きでした。瀬川昌男さん、斉藤洋さん、岡田淳さん、古田足日さん、画本シリーズ、あと星新一さんと加古里子(かこさとし)さんの本は、図書館にあるだけ全部読みました。とくに好きな本はボロボロになって書庫にしまいこまれるまで、1〜2年に1回のペースで何度も借りて読んでいたと思います。その他、福音館書店の月刊誌『こどものとも』『かがくのとも』『たくさんのふしぎ』も大好きで、高校卒業までずっと読み続けました。
大学生になって大学図書館という天国に出会った私は、高校時代まで緩やかに変化してきた読書生活をサクッと切り捨てて新生活へと移行してしまいます。いま思うと、もったいなかったな。10年間の児童書離れを経て、2008年から怒涛のように数百冊の児童書を読んだエネルギー源は、ある種の喪失感だったのかも。
やっぱり、子供はかわいいですね。自分たちで選択して産んだのですから、社会がどうのこうの言う気はないです。むしろ、社会とかよくわかりません。総理大臣が誰なのかも知りません。ただ、パン焼くの大変ですね!と声をかけてもらえると、癒されます。
私の両親にも、いろいろ子育ての苦労というのはあったのだろうけれど、私には母が一人で苦労している姿というのがあまり思い浮かばない。母は、いつも私たちを頼ってくれた。「お味噌汁を作ってちょうだい」「買い物に行っている間に洗濯をしておいてちょうだい」「晴れた日曜日には、全員分の布団を干してね。今日から、お兄ちゃんを布団干し大臣に任命します! 責任を持ってやりなさい」
布団干し大臣は最高に楽しかった。「大臣権限です!」といって父から布団を取り上げるほど痛快なことはない。父は往生際悪く毛布などを持ってくるので、今度は掃除機大臣の弟がブワーンと大音量をあげて掃除攻撃をする。ただし、父が本当に疲れているときは、「今日は静かに寝かせてあげてね」と母がいうので、私たちはがっかりしたものだ。
母が「たいへん」になると、子どもたちはどんどん大臣に任命されるのが常だった。お母さんの「たいへん」は自分たちの「たいへん」だった。また、母は身体が弱く、よく寝込んでいたから、「自分たちがちゃんとしなきゃ、お母さんが安心して寝ていられない」という思いもあった。ふと気付くと、「たいへん」だったはずの母がくつろいで新聞を読んでいたりしたのだけれど、家族には「母がのんびりしているのはよいことだ」というコンセンサスがあったと思う。
「お母さんっていうのは毎日が日曜日でいいなあ」と私は考えていたけれど、今にして思えば、子どもにそう思わせるようにするのが、どれほどすごいことだったか。
母は「子育ては楽しいばっかりですよ」とニコニコしていたので、友だちのお母さんが「私はお前のために毎日こんなに苦労しているのに、お前はどうして私のこんな簡単ないいつけも守れないのだ」みたいな話を延々と続けるのに私は衝撃を受けた。ご飯とおかずをバランスよく食べろとか、その程度のことでいちいち親の苦労が云々といいだすのだから、「へぇ、よそのお母さんというのは、こうなのか、たまらないなぁ……」と。それでも、よそのお母さんの悪口をいうと友だちは「絶交だ!」というので、もう黙っているしかない。思ったことをいえないのはつらいことだ。私は友だちのお母さんに会うのがすっかり嫌になり、友だちとは必ず外で遊ぶようになった。
それはさておき、私の両親にとって「パン焼くの大変ですね!」に対応する言葉はどんなものだったろう? ここ数日、ずっと考えていたのだが、答えは見つからなかった。
とりとめのない話になったが、ひとまずここまで。
専業主婦は、それはそれで大変です。妻の仕事の関係で、しばらく兼業主夫をやっていました。専業主婦は楽だと考えているサラリーマン夫は、しばらく会社を休んで家事をやってみたらいいと思います。これだけ奥さんにサポートしてもらって働いているのですから、もっと仕事の生産性を高めてみたらいいと思います。
母はだんだん家事が面倒になってきたとかで、料理も掃除も洗濯も、どんどん子どもに任せていった。最初は教育の一環だったのかもしれないが、そのうち、母より本当に私の方がうまくできることが、ずいぶん増えた(これも両親の演出だったのかもしれないな、と今は思ったりもする)。
コルクの床のワックス掛けなどは、うまくやるとピカピカになって楽しい。両親が日帰りで旅行へ行っているときなどに、留守番のついでにやってしまうことが多くなった。ワックス掛けは昼間にやらないと乾きが悪い一方で、家の中に人がいると何かと不都合が多い。旅行についていくよりワックス掛けをやる方がいい、というのも珍しい子どもだったろうけれど、いったん「ワックス掛けならお兄ちゃんだね」と誇りを植えつけられると、その仕事をキッチリこなすことが人生の最優先課題となっていくのである。
アイロン掛けは、はじめるまでが億劫なのであって、いったん道具を広げて作業を始めてしまえばとても楽しい。皺を見つけては四方八方から追い込んでいく。「やったか!?」と思いきや、裏返してみるとアイロン掛けによって新たな皺が生まれていたり。
多くのご家庭では、火傷を心配して子どもにアイロンは触らせないそうだが、私と弟は、何度も火傷をしながらアイロンに慣れていった。ただし、片手でアイロンを操作できるだけの筋力がつくまでは無理がある。小さな子どもが両手でアイロンを持つと、指先ではなく腹部に火傷をしてしまい、こうなると大事だ。私がアイロンを扱っていると、弟も同じことをやりたがって危ないことがわかったので、弟が成長するまで一時棚上げになった。
かつて私が病院で治療を受ける必要があるレベルの火傷をしたのは2回。私にはアトピーがあったので、ふだんの小さな火傷は、アトピー治療のついでに念のためにちょっと見てもらうだけで十分だったが、この2回ばかりは、そうはいかなかった。
最初の大火傷の原因はバイクのエンジンだった。母が帰ってきたので、喜んで足にじゃれつこうとしたとき、うっかりエンジンに触ってしまった。母は父の願いを聞いて興味のないバイクに乗っていたのだけれど、これでプッツンきてバイクを売り飛ばした。
もう1回は炊飯器。私は湯気に魅せられ、椅子を持ってきてステンレス製の流し台によじ登った。間近で白くホワホワした美しい湯気を見て満足すればよかったのだが、人の欲望は際限がない。私は湯気を手でつかもうと奮闘したが、どうしてもつかめない。「そうだ、湯気の出てくるところを手で押さえたらつかめるんじゃないか?」これはナイスアイデアだったが、残念ながら人間の手の仕様を超えていた。
アンギャー!! と私が悲鳴を上げたとき、母がどこにいたのかはよくわからない。さすがに炊飯器と縁を切るわけにもいかず、その後も頑丈な炊飯器は長く活躍した。
大火傷から数年後、お米を研ぐ作業が私のマイブームになった。母が台所に立つと「ね、ご飯炊く? 炊くならいってね。ぼくがお米を研ぐから」といって私はつきまとった。その延長で、炊き込みご飯が好きになった。ただ具材を混ぜてスイッチを入れるだけで料理ができあがるのが楽しい。「今日は炊き込みご飯にしようかしら」と母がいうと、「じゃあ、ぼくやるー」と台所へ駆けていったし、スーパーで瓶入りの炊き込みご飯の素を見つけると、「これほしい!」と訴えた。
家事というのは、なかなか楽しいものである。会社の仕事が楽しいのと同じように、家事も楽しい。とくに子どもが好奇心でいっぱいのときに家事に親しむと、これは一生の宝になるんじゃないか。
我が家は団地の5階なのですが、エレベーターはついていません。エレベーターなどついていません。一番下の子が2歳なので、なんとか階段を登ることはできる、いや、登る能力があります。ところが、2歳、3歳の子供というのは、階段を登りたがらないのです。手に荷物を持っていると、3人を抱いて登るわけにはいきません。5階まで往復することになります。
母はたいへん優秀な人だったが、子どもを眺めて過ごすことに人生を費やしたいと思ったので、私を産んだ後、いかなる賃金労働もしなかった。社会的には損失だったかもしれないが、母の幸せには代えられない。
とにかく母には、いつもたっぷりと時間があった。子どもがグズれば、1時間でも2時間でも待った。「自分で登れるのだから、ちゃんと登りなさい」その一言だった。私は頑固なので、「登りたくない!」とへそを曲げると、20分くらいは梃子でも動かない。すると母は、「じゃあ、先行ってるね」と私を残して家に入ってしまう。これは私が3歳の頃から、既にそうだった。まあ、幼稚園から帰ってくるなり、カバンを置いてスモックを脱ぎ捨てるなり友達の家へ遊びに行ってしまうのだから、玄関先の階段にいる子どもから目を離すくらい、どうってことはない。不幸があればそれはそのとき、と母は腹を括っていた。
だんだん子どもの命が重くなってきて、最近の子どもは、家の外ではずっと大人が見守ってやらないといけないらしい。でも子どもってのは、大人の目のないところでないと、思いっきり遊べない。幼稚園児だってそう。大人がいると、木登りとか、塀の上歩きとか、絶対にさせてくれないんだもの。つまらないよ。
幼稚園は楽しかったけど、でも幼稚園が終った後に友達と遊ぶ方が、もっと楽しかった。それはなぜかといったら、放課後は大人の目がなかったからだと思う。あとは環境かな。幼稚園には人工の場所しかない。虫がいない。葉っぱを千切ったり踏みつけたり実を取ったりしていい植物がない。24時間、そういう不自由な場所で過ごしていたら、子どもはみな気鬱になってしまうのではないだろうか……。
私が動かなくなると先へ行ってしまう母だけど、子どもたちが登ろうとしている限りは、ずっと見守っていてくれた。家から数百メートル離れた場所に14階建ての雇用促進住宅というのがあった。弟は3歳の頃、母と一緒に2時間かけて最上階まで非常階段を登った。そこからは小さく富士山が見えたのだと弟は興奮して話してくれた。私はもう小学1年生だったから、14階まででもサッサと登りきることができてしまい、弟と同じ感動を味わうことはできなかった(それに富士山も見えなかった/空気が澄んでいないと見えないのだそうだ)。私が階段でいちばん感動したのは、後に東京タワーの展望台から階段で下まで降りたときかな……。
閑話休題。あるとき、私がなかなか上がってこないので、母は心配になって戻ってみた。すると私が微動だにせず同じ場所におり、テンションもそのままにプリプリしていたので、「こどものエネルギーってすごいな」と感心したという。この日、私はよっぽど虫の居所が悪かったようで、40分後も、1時間後も階段の同じところに座り続けていたそうだ。
いくらなんでも……と思って、そっと扉を開けて忍び足で階段を降りてみたら、私は蟻の巣を眺めたり、草をむしったりして遊んでいた。母はいったん家に戻り、今度はふつうにガチャンと音を立てて扉を上げ、カンカンカンと足音を立てて降りてみた。今度は、例のムスッとした顔で考える人のようなポーズを作っている。母は、カラクリを理解した。
母は昼食の準備をすると、またコッソリ降りた。案の定、私は蟻の行列を追いかけて遊んでいた。母は私の背中に近づき「ワッ!」と脅かす。私は「うひゃー!!!」と転がり、母は大笑いした。バツの悪そうな顔をする私に、母は「お昼ごはんができたわよ。あったかくておいしいうちに食べないともったいないんじゃない?」という。私は機嫌を直して、母と一緒に階段を登った。
読みながら、実家ではどうだったかな、と思った。
子供3人を含む5人で生活しています。何が一番大変なのかと言うと、朝、パンを5枚焼くのが大変です。ほとんどのトースターはパンを2枚ずつ焼くことができる、いや、焼く能力があると思います。つまり、5枚焼こうとすると、3回焼かねばなりません。朝起きていきなり5枚のパンを焼くというのは、他の人になかなか伝わりづらいストレスだと思います。
両親は、子どものパンを焼かなかった。私も弟も、物心ついた頃から、自分が食べるトーストは自分で焼いていた。だいたい最初に「いただきまーす」というのは母。次が父。
私たち兄弟は、洗面台に届かないから、風呂場で洗面器に水を張って顔を洗う。それから子どもでも取り出せるよう洗面台の下にしまわれたタオルを取り出して、顔を拭く。弟と洗面器の取り合いなどをして時間をロスするから、ダイニングへやってきたときにはもう、両親のトーストは焼けている。つまり、トースターは空いている。
私たちは、テーブルの上に置かれた袋からパンを取り出して、トースターに入れる。トースターは2枚焼きで、子どもは1人で1枚しか食べないから、スイッチを押すのは1回でいい。私も弟も、スイッチレバーを押し下げたかった。ジャンケンにしたら、後出しだとか何とかいって水掛け論になる。母が「先にパンを入れた方がスイッチを押す」と決めたら、二人とも顔をテキトーに洗って、走ってダイニングに駆け込むようになった。「ちゃんと顔を拭きなさい」といわれても弟はテーブルに水滴が落ちるのも構わずパンを入れる。私は「ずるい!」といってつかみかかる。
両親のト−ストを焼いたばかりだから、トースターは熱い。それなのに焦って揉み合いながら食パンを突っ込むので、私も弟も、しょっちゅう火傷をした。母は「これほど火傷を繰り返しても懲りないとはバカな子たちね」と笑っていた。弟が火傷をしたら、母と私とで火傷の治療をする。ベランダのアロエの葉を切ってきて、皮を剥いて、火傷したところに貼り付けて固定する。だいたいこれで治る。私が火傷をしたら、母と弟が手当てをしてくれた。
こうして私たちは、「トースターのどこを触ると熱いか」とか、「熱いところの近くでは空気がユラユラして見える」とか、「火傷はアロエで治せる」とか、「火傷するくらい熱いものも触った瞬間にはそれほど熱いとはわからないので、触って確かめるなんて戦略は通用しない」とか、「濡れ雑巾では熱がすぐに伝わってきてしまう」とか、「でも分厚い濡れ雑巾越しなら、熱いかどうかを触って確かめられる」とか、「中綿のある乾いた布があればチンチンに熱くなっているものでも安心して運べる」といったことを学んだ。
外の世界では、中学生になってもこうした生活知を欠く同級生が珍しくなく、たびたび閉口させられた。みなどうしてトースト先生に教えを請わなかったのだろう。
さて、朝にこうした教育をするためには、ふつうのご家庭より1時間は早起きしなければならない。父は早番、遅番、夜勤、日勤と起床時間は毎日のように違っていたが、母は5時起きを徹底していた。母は主婦である。ただ私たちを教育するためだけに、母は早起きをしていた。
私たちが珍しく喧嘩をせず、トラブルも起こさずに朝食を摂り終えると、時間が余る。そんなとき母は、私たちを連れ出して、朝の世界を見せてくれた。草の葉に露がつき、指でそっとなでると大きな雫になる様子、バケツに張った氷、朝もやの空気……いま思い出すに、私はなんと恵まれた環境で育ったことだろう。
弟はそのうちにトースターへの関心を失ってしまったのだけれど、私は自動でパンがポンッと飛び出してくるのがとても気に入り、小学校へ上がった頃には、両親より早く顔を洗ってダイニングへ行くようになった。「お兄ちゃん3枚お願いね」といわれると、私は喜んでパンを入れ、だんだん電熱線が赤くなって、香ばしい匂いが漂いはじめ、そしてポンッと熱々のトーストが出てくるまでをジーッと眺めていた。私はポンッを何回も見たいから、「ねーねー、急ぐ? 急がない?」と訊ねる。「急がないよ」といわれると、私はトーストを1枚ずつ焼いた。至福の時であった。
生活保護の先行きは暗い(2011-02-16)の補足記事。
「生活保護を現物支給にしたい」という意見が、なぜ出てくるのか。
「死ね」とネットに書いても、本当に殺したいわけではない。税金を払っている側として、「羨ましいところはひとつもない」状態になれば納得できるのだ。しかし単純に公的扶助の金額を絞ると、死んでしまう。そこで「俺様のいうことを聞け」「自由を制限させてもらう」という発想に行き着く。
一体どこからそういうアイデアが出てくるのか……と思ったが、何人かと話してみたら、みな「親と子」のアナロジーで考えているんだな。私の両親はそういうことをいわなかったので失念していたが、多くの親御さんは、親と子を対等な人格と考えていない。その究極的な理由は「子は親なしで生きられないから」というものだった。親は繰り返し、このロジックを子に吹き込む。ときには、実際に食事を抜いたり、子が大切にしているものを捨てたりして、親の全能と子の無力が事実であることを印象付けようとする。
いま生活保護の現物支給を支持する人は、生活保護の受給者が自由に振舞って、納税者たる自分たちの意に反することをするのが、許せないのだという。
一般人がパチンコをするのはいい。だが生活保護受給者はダメだ。刺身を食べてはいけない。牛肉もダメだ。外食なんてもってのほか。子どもに携帯電話を持たせる必要はない。クーラーなんて贅沢だ。せめて設定温度をギリギリまで高くしろ。なんで家中に物があふれているんだ。無駄な雑貨は買うな。地デジ対応テレビなど要らないだろう。5000円のチューナーで十分じゃないか。
要約すれば、こんな感じ。じつに細かいことまでグチグチと批判の的にする。親が子のやることなすこと批評し、自らの価値観を押し付けてよいのは、子が親に生かされている存在だからだ。ならば納税者たる自分には、公費で支えている家庭に対して何から何まで口を出し、価値観を押し付ける権力があって然るべきだ、と。なのに実際には、生活保護受給者には自分と大差ない自由が与えられており、自分を苛立たせるようなことをたくさんやっている。それが我慢ならない……。
一通りご意見を伺ったので、私の方も訥々と持論を語った。うまく話せなかったが、概要はこうだ。
本当にみなが望むなら、しょせん多数決の世の中だから、いずれ生活保護は現物支給になるのだろう。食事も生活必需品も配給制(あるいは指定された商店の非贅沢品しか買えないプリペイドカード)になって、現金は1円も渡さない、というような。
そのうち、居住の自由もなくなる。貧しい人はルームシェアをなさい、海外では老人や親子連れがルームシェアをやっているなんて、ビックリするほど珍しくもないよ、と。全寮制の学校を卒業した知人は数人いるが、個室住まいだったという話は聞いたことがない。病院も薄いカーテンだけで仕切って、8畳間に4つくらいベッドを入れている。予算の制約は、プライバシー権より強い。
あるいは、もはや再就労は望めない高齢者が都会で生活保護を申請すると、遠く離れた田舎のアパートに住まわされたり。公営住宅にかけられる予算が増えないまま、年金を払ってこなかった老人を中心として生活保護対象者が急増していくなら、こうした施策が必要になる日がくるかもしれない。
必要なのは発想の転換である。自分より受給者が楽をしている、だから受給者は云々、という論理を求めるのではなく、受給者よりも苦労している自分に対しても、状況を改善するような手立てがさしのべられても良いのではないか、と。
この説得がうまくいくとは、とても思えない。
私の手取り年収は320〜350万円くらい。2010年に支払った税金と社会保険は、消費税6〜8万円、所得税11万円、住民税20万円、厚生年金34万円、健康保険11万円程度。私は、税金と保険の合計が2倍になっても構わない。けれども、私と同じくらいの給料を貰っている人の大半は、そうは思っていない。
厚生労働省調査の所得階層は(私の勘違いでなければ)総所得に基づいている。私という単身世帯の所得は中央値を上回っており、日本の世帯の過半数が、私より低い収入で生活している。つまり、私は弱者ではなく、弱者を助ける立場である。私と同程度の所得の人々も同じだ。本当に貧しい者を助けるために、より多くの税金を納めなければならない。
私が現在の2倍の税金と社会保険料を納めても、所得が低い方から20%の世帯の収入を上回る。いまその収入で多くの人々が実際に生活している。その中には子育て世帯だってある。単身世帯の私が「そんな収入では生きていけない」などといっても説得力がないだろう。
しかし現実はどうかといえば、私くらいの年収の者に対して、議員に立候補された方々は異口同音に「もっと生活を楽にします」と訴える。そういわねば当選できないということだ。
候補者の主張をよく聞いてみると、「増税をせず、みなの生活を改善することにお金を使う」といっている。つまり、「弱者に対象を絞った手厚い支援は見直す」のであろう。多くの人が「自分は納めた住民税に見合ったサービスを受けていない」と思っていて、市町村の財政赤字に構わず自分の要求を通そうとする。そこで「お金がない」と突っぱねられるから、自分に利益のない施策から予算を分捕りたくなる。
Thirさんの説得が意味をなすのは、生活保護を受けている人と同等か、少し多いくらいの所得しかない人までだ。大多数の人々は、「弱者支援を強化すれば、自分の生活水準は下がる」と考えている。実際、その通りだろう。「現状でも不満いっぱいなのに、もっと悪くなるなんて許せない。貧しい人々にやるお金を節約し、俺の生活をもっと豊かにしろ」これが多数派の本音ではないか。
ネットで散見される生活保護の受給者を羨む発言は、一種のレトリックだろう。もちろん、自分よりフローの収入が多いこと、自分より食費に余裕があることなどは、ベタに羨ましいのだ。とはいえ、貯金を吐き出すのは嫌だし、経済的自立がもたらす自尊心だって手放したくない。総合的には、「自分も生活保護を受けたい」とは思っていない。
……それでも、「自活している自分と、生活保護を受けている人とは、もっと生活水準に差があるべきだ」と思う気持ちは、理解できる。私と同程度の収入がある人でさえ、そういうことをいうのだ。もっと所得の少ない人々の憤りは想像に難くない。
5年前には上ばかり見て足るを知らぬ人々は、今日もまた同情だけしてカネは出さない。
と書いたけど、景気が悪くなったら同情するのもやめちゃったみたいだね……。
現実的に「ドーピング違反」を形式的に判断する他ないのだとすれば、「ドーピング違反」は意図の有無によらず処断されるのだ、と啓蒙すべきではないか、という話だと解釈した。なるほどなあ、と思った。
現行の規則において、いわゆる「ドーピング違反」は、不正の意図を要件としていない。が、規則の背景には、意図的な不正行為を取り締まりたい、という意図がある。意図を要件とせず、検査にひっかかればアウトとしているのは、調査に要するコストと、迅速な判断の必要性ゆえなのだろう。
刑法において、過失致死と殺人とでは、まったく罪の重さが違う。いま「ドーピング違反」になると、当該のレースで失格になるだけでは済まない。「過失致死と殺人を区別せず、人を殺したら殺人罪の刑罰が適用される」というような状況にあると感じる。意図を問わないなら、「疑わしきは罰せず」を原則とし、形式的な違反にはそれなりの罰則が適用されるべきだ。証明されてもいない罪に対応した罰を下すのは間違っている。
ただ……民間団体が、自らの主催する大会への出場にどんな制限を設けたところで、「人権侵害」とは言い難い。競技会の真のスポンサーたるファンの人々が、「疑わしきも罰す」ことを求めるのなら(逆に場合によっては情状酌量を求めるのなら)、それを無碍にはできないだろう。ひとつの団体が超然と振舞ってみせても、対抗団体が登場して、ファンを奪っていく。
薬品使用コントロールの分野で他のスポーツと比べて非常に進んでいる自転車界は、間もなく新たなステージへの選択を強いられる予感がします。
それは、上に書いた「明確かつ厳格」な機械的ルールの設定と、有無を言わさず発動する無慈悲な罰則という組み合わせであり、「控訴」や「出場停止期間」などの猶予は一切排除する仕組みを構築することです。
ルール違反を犯すことは、選手にとっては「死」を意味することになるでしょう。
そして、もう一つの選択肢は、「全てを自由化する」ことです…
個人的には前者の道に進むべきだと思います。
今更、後者を選択するなど私には考えられません。
えっ!? これが栗村さんの考えなのか……。私は、両極端のどちらにも与しない。「ドーピング違反」を形式的な規則違反と捉え直した上で、違反があった大会の記録を無効とするのがよいと思う。過去に遡って記録を無効にすることも、未来の大会への出場資格を奪うこともしない。「疑わしきは罰せず」「違反の経緯を考慮しない」を原則として、規則違反が明らかな部分に限りペナルティを課す。そういった仕組みを希望します。
2005年頃、私はレンタルブログのアカウントを30近く持っていた。その大半は、アカウントを取っただけで、記事はひとつもない。一応、テスト投稿などをしてみて、使い勝手の確認はしたのだけれど、それだけ。
ここしばらく取り組んでいた共有レンタルサーバーのアカウント整理で、パスワードを思い出せず、消すのに苦労したものがいくつかあった。登録時のメールアドレスが既に使用不能でパスワードを忘れた場合の救済措置を利用できず、パスワードを思い出すまでに半年以上を要したものもある。だからブログの方も、パスワードがわかるうちに整理することにした。
試用目的で登録しただけのアカウントは、どれもパスワードが一緒。だから簡単だった。まあ一部にはIDの形式が特殊で、どうにも思い出せず、古いメールを検索する羽目になったブログもあったけど。
私は物覚えが悪いから、パスワードを「あるルール」に基づいて暗号化してメモしている。が、そのルールが、メモをした時期によって違っている。レンタルサーバーの一部は10年前にアカウントを取得しており、当時のマイルールは全く思い出せなかった。
当時から現在まで利用し続けているサービスもあるのだが、それらは最近もパスワードを変更しており、メモは最新の「あるルール」によって暗号化されている。だから、現在のメモと正解パスワードを見比べても、10年前のマイルールはわからない。
手詰まりかと思われたが、古いフロッピーに昔のメモが残っていた。現在も使っている某サービスは、当時からよく利用していた。当時のパスワードは現在のパスワードとは全く違うが、何百回も打ち込んだ文字列なので、身体がうっすらと覚えていた。といっても、パスワードの定期変更のためラスト2文字分はランダム。
メモの文字列にどんな操作をしたら正解パスワードになるか、総当り的な手法で調べた。たまたまメモを作成した時点でラスト2文字が何だったのかは、わからない。わからないが、ランダムな2文字以外がピタリ一致するルールを見つけたら、それが正解だと思っていいだろう。実際、そうだった。ランダム分以外が一致するルールを見つけ、それをランダム分にも適用し、ログインフォームに入力してみたら、それが正解だった。
レンタルブログのアカウント削除なんて、こんな手間をかけてまでやることかなあ……とは自分でも思った。
私が共有レンタルサーバーのアカウントをいちばんたくさん持っていたのは2004年。当時のメモを見ると、13もあった。その後、自分用のファイル置き場にしていた無料アカウントを中心にいくつか削除したが、某サイトの縮小移転を機に、ウェブサイトを公開していたアカウントも大幅に整理した。いま残りは3つ。
当初は公益が上回るので合法だった犯罪報道も、いつまでも公開を続ければ罪を償った人への名誉毀損になる。ウェブにいったん公開された新聞社の事件記事が、数ヵ月後には制限公開(会員制の過去ログ検索サービスなどでしか読めない形)になるのは、そのためだという。
個人の違法とはいえない行為への批判も、同様に考えるのがよいと(今の私は)思う。批判記事を取り下げても、それは相手の意見が正しかったと認めたわけではない。問題に見合った攻撃の程度というものがあるのではないか、といいたいのだ。それ自体は正当な批判だとしても、ある人の名前を検索したとき、10年も20年も、検索順位の上位に、その人の一面を批判した記事が居座り続けるのはアンバランスだと私は思う。
というわけで、いくつかのサイトは、残したアカウントに縮小移転した。
リンク先記事のタイトルは私の感想とピッタリ重なる。同格の力士から星ひとつ買うのに月給の2〜3割という金額。ここぞという場面でなければ、おいそれと八百長などできやしないことは明らか。
わかったようでわからない。
その後、NHKの特集番組などをいくつか見た。八百長自体は犯罪ではなく、そうである以上、「疑い」程度でプライバシーをないがしろにはできないのだから、八百長の撲滅などと謳っても現実には無理だ、という。それはそうだろうな、さすがNHK、感情論には走らないか。が、アナウンサーがさらに問うと、専門家らは口を揃えて「相撲協会の体質を改革するしかない」という。具体的には? 答えはない。はぁ……。
私は経済学的な説明に親和的なので、協会の体質云々なぞ何の関係もないだろう、というのが率直な感想だった。力士が大きなコストを支払ってでも八百長をしたくなる状況が問題なのだから、そこに手を入れなくて何とするのだろう。
例えば、こうした「改革」をするのに協会の体質改善が必要だというなら、専門家の方々の意図も理解できるのだが……。
Karma Cupのコンセプトを要約すると、店頭に黒板を置き、マイカップを使った人がいたら、チェックをしてゆき、その数が10人、20人となったら、その「キリ番」の人は飲み物が無料になるというものです。(中略)本来ならインセンティブは個人に蓄積されていったほうが公平な気がします。このシステムだと、初めてその店に来て飲み物を買った人が無料のタイミングに当たるなんてこともあるでしょう。しかし、それを是とするのがこのアイデアのポイントだと思うのです。
はてブの反応を見たら、概ね好意的なんだけれども、「恥を恥とも思わずタダ飲みを狙う人が必ず出てくるので、この試みは成功しない」という趣旨のコメントもちらほら。
タダ飲みを狙う人が出てくるのは、間違いない。「1人でもそういう人がいるのは許せない。ズルい人にタダ飲みさせるためにキャンペーンに参加するなんて真っ平」と考える人も、やっぱりいるでしょう。それはそう。仕方ない。でも、「だから必ず失敗する」というものではありません。
大多数の人がこのキャンペーンを好意的に捉えて、喜んで参加するならば、そして素直に幸運を期待するならば、僅かな反発を飲み込み、キャンペーンは成功するでしょう。ズルをする人、ズルをする人がゼロでないことを許せない人が、十分に少なければよいのです。
まあ、実際のところ「十分に少ない」水準ですむのかどうかは、やってみないとわからない。まずは試験的に、一部の店舗で実施してみてほしいですね。
ともあれ、少数派が空気を読まず伸び伸びと発言できるようにするためにも、少数意見は適当に聞き流す社会がよいと思う。少数意見を無視できないばっかりに多くの人が歓迎するアイデアを実現できず、結果的にであれ「**みたいなヤツがいるからだ……」と少数派への憎しみが堆積していくような社会は、息苦しい。
追記:主題を逸脱した部分をコメントアウト
私がlastlineさんの立場なら、「kirikさんの「引用(=非公式RT)」は「日本の著作権法が権利者の許可なくやってよいと認める引用」の要件を満たしていないので、著作権の保有者として自分なりの基準で引用の可否を決めさせてもらう」といいたい。
法の定める要件を満たさない引用は、権利者に許可・不許可を判断する自由がある。問題のある引用を恣意的に選び、形式的な不備を理由に問答無用で叩き潰せるはずだ。実際には、kirikさんが削除に応じる可能性は低い。刑事罰にも問えない。だがそれは、法がきちんと機能しない日本の現状がおかしいのだと私は思う。
kirikさんは非公式RTをする際にtwitterの「返信」機能を使っていない。これでは、「不完全な引用であっても、ダイアログを追えば元の発言を読めるので問題はない」という主張に疑問が出て当然だと思う。
Togetterにまとめられているのは1/27のやりとりだが、2/10時点で既に、kirikさんのツイートから引用元のツイートへ辿りつくことは不可能に近い。lastlineさんはたまたまTwilogに登録しているからいいけど、twitter公式からは半月前のツイートを探し当てる手段がない。
ツイートから丸1日程度なら、kirikさんの主張も成り立つ。だが、注目を浴びたツイート単体は、検索エンジン、ソーシャルブックマーク、ブログなどを経由して長期にわたり読者を集め続けるのに、ダイアログを追うのは数日間が実質的な限界。それ以降は、不完全な引用の害が垂れ流しになる。lastlineさんが不愉快になるのも当然だろう。
私は夜明け前さんのレビューに同意する立場。で、多くの肯定的評価があることにホッとしたのだけれども、コメント欄で反論しているR30さんにも肯定的評価がたくさん入っており、不思議に思った。
レビューを読んでいて疑問に思った点がありましたので、少し指摘しておきますね。
まず第一に、人口の波がデフレの真因であるとするなら、日本と同じ高齢化問題を抱える国は、日本同様に長期デフレに悩まされているはずです。
著者は「日本では人口の波が需要と供給の変動に大きな影響を与えている」とは言ってるけど、それが「あらゆる国において長期デフレの直接の原因となる」とまでは言ってないのでは。
あっさり言うなら、成長率が下がると失業率が上がるということで、これは我々の日常的な感覚にもぴったりくるものでしょう。 (中略)人口の波デフレだから労働人口の減少を食い止めよという処方箋は、理解に苦しみます。
と解説されているオークンの法則は因果関係が逆で、失業率が上がれば(=雇用が減れば)実質GDPは減り、失業率が下がれば(=雇用が増えれば)実質GDPは増える、というサプライサイドの法則を述べているセオリーなので、女性の労働力を増やせばGDP成長率を上げられるという著者の主張とは矛盾しないと思います。
藻谷説を好意的に補完して読むならば、少子高齢化はデフレ圧力になる、と。でも、最終的にデフレになるかどうかは、諸政策次第ということかな。労働人口の減少でデフレになるというのも、将来不安から消費が落ち込むという筋立てだから、考え方として理解はできる。ただ、現実には貯蓄率は低下を続けているので、結局は賛成できないのだけれど。
オークン則云々は揚げ足取りの応酬。夜明け前さんが指摘したいのはおそらく、「女性を労働市場に投入せよ」といったって、誰が雇うのか、という話。人手不足で、応募すれば即採用される状況でもなお女性のフルタイム労働を妨げる壁があるなら、それはすぐに改善すべき。でもふつう、そのとき経済は「人手不足→賃金上昇→インフレ」となっているはず。フィリップス曲線は恒常的なインフレ下では上方シフトして崩れてしまうが、それでもデフレのまま完全雇用になるわけがない。
他方、藻谷さんは「どうやって実現するかは別にしてとにかく何らかの方法で労働力率を高める→多くの人の経済的な見通しが明るくなり将来不安が減じる→消費が活発になる→デフレ圧力が緩和される」というストーリーを描いている。オークン則は経験則に過ぎないから、R30さんの説明もひとつの解釈でしかないのだけれど、それでも夜明け前さんのオークン則の援用の仕方には疑問がある。しかし、藻谷さんの提案はその第一歩のところに難がある。経験的には「受給逼迫の予想から雇用の回復が起きる。その逆ではない」のだから、「まず雇用を増やすことでデフレ脱却なんて可能なの?」と。オークン則云々で議論がすれ違ってる。
ふつう、こうした話になれば、政府が有効需要を生み出して余剰生産力を吸収し云々という聞き慣れた提案が出て、「まあ、そうですね」となるところ。いま国債残高に関心が集まっていて、聞き慣れた提案に不安の声が上がるから、議論の出口が重くなっている。
結局のところ、夜明け前さんが壁を突き抜けた大胆な金融緩和をデフレ脱却案としているのに対し、藻谷さんはこれに消極的。おそらく、どんな政策も突き抜ければ必ず害が勝るという直感があって、既に目に見えているデフレの害を消すために、大きなリスクを背負いたくないのだろう。円安誘導は近隣窮乏化策なので採用不能、と自ら政策メニューを消してデフレ継続を前提に社会を変えていこうと主張した榊原英資さんと構図は同じ。とすると、女性の労働力率上昇は、ワークシェアのような形であっても実現していこう、ということになるのかな。
この記事ははてブの反応が謎だった。
……という記事に、どうして以下のような感想が付くのか。
nuicksilver 対日貿易赤字にはまったくふれず、日本の構造がと言われても説得力ゼロ。
触れる必要がないから触れていないことは、読めばわかる。
temtex 成長起因の殆どを輸出だのみにする韓国で、何故に内需起因の経済成長理由があるのかさっぱり。
これはtemtexさんの読み違い。いくら外需が旺盛でも、労働と資本の投入量を増やせなかったら、供給が追いつかず経済成長できませんよね? 高安さんは供給側の話をしているんです。
mkusunok これは『デフレの正体』と共通した視点かな
違います。『デフレの正体』は高齢化が進むと需要が減ってデフレになる、という内容。私としては全く支持できない意見だけれども、それはそれとして、この記事は供給側に着目したもの。視点が共通しているのは小峰隆夫さんの『人口負荷社会』です。
記事の誤読とは違うタイプの感想について。
API インタゲしてるから。
それで説明できるのは1%分ですよ、というのがこの記事の視点。デフレを脱却して、デフレギャップをなくしてもなお追いつけない成長率の差に注目しているわけです。
ただ、APIさんはおそらく「デフレが潜在成長率を抑制している=緩やかなインフレ下では日本の潜在成長率は記事中に引用されている内閣府推計より高い」という予想に立脚してコメントされているのでしょう。ところで、APIさんの予想通りだとして、インフレ下では労働投入、資本投入、技術進歩のどれが伸びるのか。労働投入、かな……。
ahahasasa EPAなどの戦略面での話がないのがちょっと残念
タイトルからそういう話を期待したけど、違っていて残念、ということかな。記事の構成上、高安さんがEPAに触れていないのは自然だと思うけど。なお、経済連携協定(EPA)は労働投入、資本投入、技術進歩の全てに寄与するものと期待されています。
連帯保証人制度とは、貸し手のリスクの一部を保証人に転嫁して、融資の利率を低減する仕組みだ。貸し手はリスクが減った分だけ利率を低減しているので、損得ゼロ。連帯保証人制度によって得をするのは、タダで保証人を頼み、低利で融資を受けることができた借り手である。
「銀行は保証人にリスクを丸投げして暴利を貪っている」と考えるのは間違いだ。かつて一時的にボロ儲けをした銀行があったとしても、そのような状態は長くは続かない。借り手は、より低利で融資をしてくれる銀行を求めている。市場が機能している限り、いずれ必ずライバル銀行が顧客を奪う。競争を嫌ってカルテルを結べば公正取引委員会の指導が入るし、外部から新規参入した銀行や外資系の銀行は業界の不文律に頓着しない。自由化の進んだ現在の銀行業界においてもなお、濡れ手で粟の大儲けを続けられる理由はない。
ところで、銀行の融資担当者が「連帯保証人なしでは融資できない」と宣告することは、実際にあるそうだ。それはなぜか。私が思いつく理由は3つ。
茂木さんは「貸し手がリスクを取れ」というのだけれど、実際のところ、連帯保証人制度を廃止すれば、「起業のハードルが上がる」「家賃が高くなる」といった、借り手側不利によってバランスする。連帯保証人によって利益を得ているのは、借り手側からだ。現在の保証人制度の最大の不合理は、じつは多くの人が無償で保証人を引き受けていることにある。
賃貸住宅についても同じこと。連帯保証人制度がなくなれば、家賃は上がる。あるいは、家賃保証会社との契約が必須になる。保証人がタダで背負っていたリスクが、有償の保険に置き換わるわけだ。従来、得をしていたのは借り手側なので、負担が上昇するのは借り手側である。
経済の自由を安直に縛れば、その弊害もまた大きい。連帯保証人制度を禁止すれば、2.iに示した低収益高リスク事業の即死を招く。高リスクといっても破綻確率は1割に満たないのだ(そうでなければ保証人がいたって法定金利で融資するのは不可能)。これらにまとめて死刑宣告をくだす正義など、私には認め難い。
やるべきは連帯保証人制度そのものをなくすことではなく、「連帯保証人必須」の解消を後押しし、サービスの消費者に選択の自由を与えることだ。「保証人がいれば低利率で融資、いなければ高利率」「保証人がいれば家賃保証会社との契約は不要、いなければ必須(実質的に家賃値上げ)」というように。
今はまだ「保証人必須」としても商売が成り立ってしまう。だが、人の縁が薄くなる流れは止まりそうになく、保証人を見つけられない人は増え続ける。いくら家賃を下げても「保証人必須」である限り借り手が見つからない、「連帯保証人が絶対に必要だというなら、少し金利は高いけど他の銀行に融資をお願いすることにします。さようなら」という顧客が激増する、そういう日が必ずやってくる。ならば、「現在の商売のやり方を変えるコスト」を政府が少し補助して、変化を促進するのは有意義だと思う。
31歳になった。小学生の頃は、30歳で天寿を全うするつもりだったので、人生計画の白紙領域に踏み出してしまった。両親が生きている間は死ねない。両親が存命である限り私は生き続けるが、それ以外は「何もしない」つもり。後で自分史を書くとき「とりあえず生きてました」とだけ書けば足りる1年にしたい。
生きるためには飯を食わにゃならんでしょ。すると稼ぎが必要で、つまり仕事をしなきゃいけない。仕事をすればまた周囲の人々や社会のお世話になるから、恩返しをしていかねばならぬ。ただ生きるだけでも、それなりに忙しくなっちゃうんだよなあ……毎日たくさんテレビ番組を視聴できる程度の忙しさとはいえども。
30代の目標「死なない」
私はライアンエアー社の最高経営責任者マイケル・オリーリーさんの考え方に賛成したい。立ち乗り席(席といっても手すりと金属柱に取り付けられたベルトのみが用意されるそうである)は、座席より安全ではないだろう。リスクは大きい。が、料金がリスクに見合っていれば、消費者は喜ぶと思う。
乱気流に巻き込まれたとき、立ち乗り席の人は、座席の人より怪我をしやすいだろう。それは認められない、というのが現在の航空規制を貫く考え方だ。それは消費者の選択肢を奪う、お節介な考え方ではないか。
新しい時代に登場した乗り物は、古い時代の乗り物と比較して、やたら滅多ら安全基準が厳しい。その甲斐あって、移動距離あたりの事故・怪我の確率は、飛行機が断然低い。その代わり、金持ちしか乗れない。それでいいのだろうか。もし、電車に乗るくらいの気軽さで飛行機に乗れるようになったら、社会はもっと発展するのではないだろうか。
人の死と引き換えの社会の発展などありえない、という主張は現実的ではない。経済発展なしに、日本人の平均余命が30年も延びることはなかった。私たちがこれほど快適な暮らしをできるようにはならなかった。昔を懐かしむ声は常にあるが、「だったら、まずそこのクーラーを取り外してみろ」といいたい。
一般家庭からクーラーを追放すれば、途端に大勢が死ぬ。クーラーひとつで、自動車事故と吊り合うくらいの死者数になるだろう。夏場、人々がクーラーのある部屋で暮せる経済的に豊かな社会に必要なもののひとつは、「適当なコストで運用できる自動車」だ。多くの人々が、経済的繁栄によって生き長らえている。事故は少ない方がよいが、性急に事故ゼロを目指せば、結果的に国民の平均余命は短くなる。
かつてイギリスには赤旗法があった。「自動車は赤い旗を持った人(徒歩)によって先導されなければならない」という、自動車事故をほぼ100%防止するすごい法律だ。19世紀のイギリス議会は、自動車の便利さより、事故によって失われる命の方を重視したわけだ。
しかし、もし赤旗法が存続すれば、イギリスでは今も(昔ながらの乗り物ゆえに規制の緩かった)馬車が走り続けていたに違いない。その非効率は甚だしく、イギリス人の平均余命も生活水準も現在のものとは比較にならなかったに違いない。あるいは、侵略国家に蹂躙され、多くの国民が命を落としていたかもしれない。(現実にはイギリス人が世界中で人を殺したわけで、世界基準で考えればどちらがよかったのか……)
高リスク商品を消費する自由を単純に認めれば、外部不経済が生じる。そこで「メーカーに事故賠償の保険加入と、保険料の価格転嫁を義務付け、保険会社が商品のリスクに応じて保険料率を上下させる」といった施策が考えられる。こうなれば、商品価格はリスク発現時の社会への影響を加味したものとなり、公平な競争になる。
これはこんにゃくゼリーを念頭に書いた記事。旅客機や自動車の場合は、メーカーの責任もさることながら、その後の運用も重要だ。そこで、メーカーと運用者(航空会社や自動車の運転・管理者)の双方に保険加入を義務付けるべきだと思う。
コストを重視して安全基準を緩める格安航空は、保険料が高騰して、それほど格安ではなくなるだろう。それでもある程度は運賃引き下げに成功すると思うが……。ともあれ、リスクとコストを調整する仕組みによって公正な競争の条件を整えた後に、それでもなお消費者の選択の自由を奪うことに、合理性はあるだろうか。
日常生活のあれこれに経済学の教科書によく出てくる仮定と思考の道具を持ち込んでみると、不思議なことがスパッと説明できたり、逆に当たり前だと思っていたことに重大な疑問がわいてきたりする。西田成佑さんのブログは、数年前、私が経済学に興味を持ったときに感じたワクワク感を思い出させてくれる記事が満載で、少なくとも私は、読んでいて楽しい。
話題(議題、問題)設定能力が高い人は羨ましいな。いや、そういう能力があったら具体的にどう得をするというものでもないのだけれど、私はふだんの会話でも、誰かの個別具体的な発言への感想という形でないと、自分の意見というものが出てこない。
何度も何度も同じことを話していると、ようやくまっさらな状態から提案をできるようにもなるのだけれど、その内容は既に話したことの枠を出ない。考えを進めて新しい見解に達するには、何らかの外から与えられるタイプのきっかけが必要になる。というか、考え続けることが苦手なのかもしれないな。じゃあ会話が好きかといったら、むしろその逆。人と話していると、すぐに疲れてしまう。
「中学生だから」といって持ち上げたり、逆に、物の見方が違いを「幼稚」「若者の考え足らず」「人生経験が足りない」なとど説明して納得したり、といったことには嫌悪感を持つ。かくいう私も、ついそうした態度を取ることを完全には避けられない。だが、反省の種を、開き直りの根拠にはしたくない。
書き手の林さんが「衝撃を受けた」と書く内容は、私には直感的に「それはそうでしょ」と思えることばかり。この感覚の差は、様々な分野に影響するものだと思う。端的には、市場経済の考え方にすんなり賛同できるか否か。現物支援に親和的な人は、何とか仲介者の人智を尽くして需要と供給のミスマッチを解消しようとする。私なんかは、直感的に「そんなのは無理。口のうまい人、声の大きい人の掲げた建前が勝って、その実、みんなに不満が残る愚策」と思うので、現金支援で「使い道はご自由に」ってのがいちばんいい、と考える。
現物は支援する側の感情、現金は支援される側の感情に寄っており、林さんはスパッと頭を切り替えて支援される側の本音に寄り添おうとしているように見えたので、「センスがいいな」と思った。
……。「センスがいいな」と思った……って、何ですか、コレ。自分でキーを叩いたんだけど、出てきた文字列には目を疑ったね。いま自分、本当にこんなこと思ったの? うん、思ったみたいだね、残念ながら。んー、自分と意見が近くなったから「センスがいい」ってのは、その、どうかと思う。日頃「いや、私は自分の分をわきまえてるつもりですよ」と自戒していたはずなのに、これが自分の本音ですか。はぁ……。あー! あーあーあー!
頑張ってスピーチして支援をゲットする、ってのも、まあ、何だな。でも、こういう「試練」があった方が、受け取る方は気持ちが楽になるのだろうな、とも思う。
いろいろ本を読んだりドキュメンタリー番組を見ただけの感想だけれども、施設の子の進学率が低いのは、自分に支援を受ける価値があることを納得できてない、みたいな理由がかなり大きい感じがした。単純に進学したいかしたくないかといったら「したい」のだけれど、多くの人に感謝して生きるのはもう嫌だ、みたいな。ふつうのご家庭で育った方の場合、親が学費を出してくれないと「ケチ」だと思うのがふつうじゃないかな。でも施設の子や里子の場合、さっさと自立して「支援していただく立場」から抜け出たいという気持ちが勝つ。
ボランティアで就学支援の無料下宿をやっている人もいるわけで、国立大の学費程度の奨学金なら大した金額でもないし、徹底的に他人の世話になる図太さがあれば、大学に「行けない」わけがない。だから問題は、客観的な条件より、心の問題だと思っている。まあでも「心の問題は解決不能」と前提するなら、客観条件を変えるしかないんだけどね。
人口201万人の栃木県と人口1316万人の東京都の体力の違いを思い知らされる。栃木県の青少年施策に関する審議会は、どれも議事録が出ない。テープの文字起こしをする予算がないのだと思う。
日本で最も人口の少ない都道府県である鳥取県(人口59万人)では、青少年施策に関する審議会は青少年育成鳥取県民会議に集約されているらしい。本当はこれとは別に鳥取県有害図書類指定審査会があるはずなんだけど、委員を公募するという案内だけあって、審査会の開催状況や審査の結果についてウェブ上に記事がない。
議会というか、職員さんはたいへんだな。人口も予算も減りつつあるのに、作らなきゃいけない法律は増える一方。人口が100万人に満たない県が「県」として存続することには無理があるというか、無駄が大きいと感じる。せめて「県として独自性を出す必要があまりない条例・政策は近隣県と共通にする」というわけにはいかないのだろうか。「有害図書の指定」くらい、中国地方全体でまとめてやればよさそうなもの。
「主人公がタバコを吸っていたら、主人公に憧れる少年たちに悪影響が起こる可能性がある」とPTAなどの団体から抗議を受ければ、編集部は、親が子供に雑誌を買い与えなくなることを恐れ、少年漫画の主人公に「タバコを吸ってはいけない」という自主規制を設けます。
近年の嫌煙ムードは別にして、成人が喫煙することは違法ではありませんが、このような事情で、少年漫画の主人公は20歳を超えてもタバコを吸うことができません。
「合法なのに自主規制するのはおかしい」という捉え方には賛同できない。「表現の自由=あらゆる媒体で制限なく表現できること」ではない。少年誌には少年誌の文化がある。その文化には、読者と書き手だけでなく、その周囲の人々の価値観も反映されるし、それは当然のことだと私は思う。
本来なら、自主的に棲み分けできればいちばんいい。私は小学生の頃から『ゴルゴ13』を読んでいた。『ゴルゴ13』は少年誌に掲載されるタイプの漫画ではない。だから小学生の頃、同級生の大半は『ゴルゴ13』を読んだことがなかった。それでよかったろう、と思う。
『ゴルゴ13』は素晴らしい漫画だと思うが、同じような漫画を少年誌に掲載することに固執し、「違法ではない」「表現の自由の侵害だ」「憲法違反だ」と批判をはねつける事例が出てくるなら、いずれこうしたところにも法規制は入り込んでくる。そのとき、少年誌に『ゴルゴ13』のような漫画が掲載されないのは実質的な表現規制であり云々という主張に、私は与しない。「少年誌の主人公は喫煙できません」で、よいではないか。
しかし同時に、少年誌はたくさんあって、それぞれに多数の作品が掲載されているのだから、主人公が喫煙する漫画のひとつやふたつ、あってもいいと思う。でも、その作品が批判され、喫煙描写をやめたり、掲載誌を移動したりするのも、悪いことだとは思わない。そうしたせめぎあいがあってこそ、少年誌なら少年誌なりの、その時代の感覚に合った適切な自主規制の水準を見出しうるのだ。
昨年末、「刑罰法規に触れる性交等を不当に賛美、誇張するように描いた」作品の区分陳列を求める東京都の条例案が、ネットの一部でたいへん話題になった。このような流れがどんどん広まっていくことは、何とか回避したい。
「違法でなければ完全に個人の自由」という考え方に賛同する人の割合が高まるのは危ないんだ。法の裏付けなしには「この表現は少年漫画にはふさわしくない」といった主張が力を保てないならば、自主規制は機能しなくなる。自主規制の放棄に商売上の不都合がない状況では「やったもの勝ち」が横行し、市場の論理によって倫理的な出版社は苦境に立たされる。
いま、規制を求める側も、それに反発する側も、「違法でなければ自由、無制限」という世界観に片足を突っ込んでいるように見える。それでは「価値観の多様化が、自主規制型から行政規制型への回帰を導く」逆説的な展開を避けられないだろう。きわめて残念だ。