個人的には、これを問題視する人の「こだわり」にどんな実益があるのかがわからない。むしろ「ようやく」という感がある。日本中で方眼紙が作られていて、その中には不出来なものも少なくなく、大勢が不便に感じていたのだから、最初から質の高い方眼紙テンプレートを用意されるのは歓迎すべきことだろう。
「Excelは本来……」といったって、じゃあ他に、だいたいどの業務用パソコンにも導入されているソフトで、現在Excelが担っている仕事を引き受けてくれる存在があるか。ないじゃないか。
「いくらなんでもこんな書類くらいはWordで作るべきだろう」と思うなら、テンプレートを自分で作成して文書管理関係の会議に提案したらいい。それが面倒だというなら、黙っている方が組織の利益になる。担当者に任せるとテンプレートがExcelで作られるという状況を変えるコストと、その状況に甘んじるコストの比較の問題に過ぎない。経験的には、Excel製の書類や図面には一定の合理性があって、これを頭ごなしに変えてみても、意外な問題が次々に出てきてすんなりいかない。
上記の記事では、Excelで作った書類を自動処理するケースを例示しているけれども、もっと素朴には、入力制限や、入力規則の情報を各セルに持たせることができる、といった機能がよく使われていると思う。空欄にカーソルを合わせるとポップアップで入力形式を表示させる、とか、入力文字列を書式機能を駆使して自動で変換する、とか。
類似の現象として、画面上に表示されるワークシートのイメージと印刷結果またはプレビューの表示が異なるという問題が起こることがあります。
割と多くの人がExcelの挙動で気になっているのが、この問題じゃなかろうか。編集画面ではセルに文字列が収まっているのに、印刷してみたらはみ出していたり、2行になったり。あるいは表をWordに図として貼り付けてみたら、ちょっと見た目が違う、みたいな。
Excel は行、列単位でサイズのデータを持ち、表示の調整をしています。他の種類のアプリケーションに比較しても、表示に関して計算処理が多くなることで速度が遅くなります。表計算ソフトの性格上、行や列のサイズを変更したり、スクロールさせたりする操作は頻繁に行なわれますので、Excel ではある程度処理を簡略化することで速度を優先させています。Excel では、サイズの基本単位として「標準フォント」で指定されたフォントの幅をベースに、その時点でのプリンタ ドライバからの情報も合わせて計算で求められた「ポイント」を使用しています。この方法は、環境に依存しますので表示上の正確さには欠けますが、表示の度に表示領域と表示文字列の調整 (計算) を行わなくてすむため、速度的に有利になります。この他にもいくつかの理由によって、ワープロソフトや DTP ソフトなどのように出力を重要視するアプリケーションよりは厳密ではない部分があります。
なるほどね……。それでも、個人的には、Excelで文書を作りたいという需要は非常に大きいのだから、「行と列の制約は厳しいけれども、出力が正確」という編集モードが用意されてもいいんじゃないかと思う。
方眼紙テンプレートは、まさにそうした編集モードがあってこそ真価を発揮するはず。
私好みの記事スタイルではないが、知人に説明して「よくわかった」と納得されることの多い記事群で、重宝している。
Excelとは関係ないが、電子データをきれいに印刷することの難しさが実感として伝わってくる記事として、興味深く読んだ。まあ私の場合、読んだ内容を役に立てる機会はないが……。
今月18日、仙石由人官房長官が参院予算委員会の答弁において「暴力装置でもある自衛隊はある種の軍事組織でもある」と発言。途端に怒りの声がワーッと上がり、すぐに「実力組織」と言い直し、「不適当だったので、自衛隊の皆さん方には謝罪する」と陳謝する一幕があった。
仙石長官は「軍事組織」を「実力組織」と訂正したんだ、という解説もあったが、多くの人は「暴力」を「実力」と言い直した、と解釈した。
この件に対して私の視界内で盛り上がった意見は2つあった。
以下、そこから派生した話題。
私はヴェーバーを読んでも要領を得なかったので、だったら黙っていればいいのだが、そこを敢えて蛮勇を奮って素朴な感想をいえば、hokusyuさんの意見の方が納得できる感じがした。
すべての国家は、体制を維持するための究極的手段(ウルテイマラテイオ)ultima ratioとして、軍隊、警察などの暴力装置を有している。暴力装置をまったく欠いたままで、特定の体制を継続的に維持することは不可能だからである。
暴力という言葉は、きわめて曖昧に広く用いられている。政治学などでは正当性や合法性を欠いた物理的強制力と定義されるのが普通であるが、社会学や社会心理学ではもっと一般的に攻撃の一形態として捉えている。(中略)平和研究においては、貧困、抑圧、人種差別などをさす「構造的暴力」という概念が定着している(中略)暴力という言葉を用いるときは概念規定に細心の注意を払う必要がある。→権力
権力とは、ある個人なり集団なりが特定の方法(制裁、威嚇、実力の行使等)によって、他の個人や集団の意思および行動に影響を与えうる能力をさすといってよい。
マルクス=レーニン主義によれば、恐慌、失業、窮乏化、さらには戦争といったブルジョア社会の矛盾(中略)は、軍隊、警察、刑務所などの暴力装置を備えた国家権力を通じての、支配階級による搾取の結果であり、「プロレタリア国家のブルジョア国家との交代は、暴力革命なしには不可能である」ということになる。
sleepless_nightさんが集めた多くの本の記述や、大屋雄裕さんが論拠なしで提示した語義は谷藤説と合致するし、その他、私の観測範囲内では、インテリ諸氏の見解はほとんどが「自衛隊は暴力装置」を支持するものだった。
「暴力」や「暴力装置」がヴェーバーの専売特許なら、もう少し違う反応になっていたと思う。「暴力装置」はありふれた言葉なので、「えっ!? こんな言葉が、国会では失言になっちゃうの? 嘘……」という感じで反響を呼んだのだと思う。「暴力装置」は既に、最初にその言葉を作った人の定義を離れて普及している言葉だ。原典探索より現在の使用例や辞書の説明を収集する方が大切だと思う。
ちなみに最近、私が読んだ本では、エーリカ・マン『ナチズム下の子どもたち』は学校を暴力装置と呼んでいたし、佐藤文明『戸籍がつくる差別』は日本の戸籍制度を暴力装置だと説明していたと思う。それらの本において、学校も戸籍制度も、国家の統制下にある諸機関として登場する。
なお、私がヴェーバーの翻訳に目を通した限りでは、ヴェーバーが現代の日本の自衛隊を「暴力装置」と呼ぶことを認めるかどうかは判断できなかった。「装置」と「機関」「組織」が全然違うのか、あるいは視点の問題なのかがわからない。国家の一部分に焦点を当てて論じるとき、「機関」を「装置」と呼べるなら、特定の機関を「暴力装置」といっていいことになる。『社会学の根本概念』はヴェーバー謹製の社会学用語集なので、何度も読み返したのだけれど、答えを得られぬままギブアップした。
ただ、ヴェーバーが自衛隊の持つ防衛力を「暴力」とみなすことはほぼ確実。そして、仙石長官が攻撃されたのは、自衛隊を「暴力装置」といったからというより、防衛力を「暴力」といったから、だろう。「暴力装置」論議に、大した意味はない。仙石長官には「ヴェーバー的な意味で「暴力」という言葉を用いましたが、私の言葉足らずで誤解を招き、議事に遅滞をきたしたことをお詫びします」などと説明してほしかった。
学術用語を言葉狩りの対象にされてはたまらない。常識的な言語感覚とのズレを丁寧に説明する必要は認める。だが「自衛隊を暴力装置と呼ぶような人物は大臣として不適格」などという国会論議には寒気がする。
途中で紹介した本について。なぜ学校や戸籍が暴力装置なのかといえば、個人の納得と同意を基礎としていないから。例えば、自分の名前なのに、自由に変更できないのは、戸籍のせい。究極的に個人の意思を踏み越える強制力を持った機構なので、著者らはそれを暴力装置と呼んでいる。そんなこといったら、社会制度なんてほとんどみんな暴力装置なんじゃないの? ハイその通りです、ということらしい。
……ただ、「暴力装置」は左翼用語、というレッテル貼りは、少なくとも日本語で書かれた一般書の世界では、それなりに妥当ではないかと思う。対談本などにナチュラルに「暴力装置」が出てくる作家として印象深いのは大江健三郎さんだったりするし。印象論としては、一定の説得力を感じる。
自民党所属の衆議院議員で元防衛大臣の石破茂さんが新聞の対談記事で自衛隊を暴力装置と述べていたように、保守系の論者も暴力装置という言葉を使う事例はいくらでもあるだろう。だが傾向として、革新系の人の方が好んで使う言葉だな、とは思っている。ちゃんと調べてみたら、違う結果になる可能性は否定しないが。
個人的には、レーニンの「暴力装置」はヴェーバーの「暴力」と同じだと思う。ヴェーバーは「暴力」一般を説明し、レーニンはある種の「暴力」について述べている。
12月3日、政府は「憲法の下で認められた、自衛のための実力組織である自衛隊を表現する言葉としては不適切だ」との答弁書を閣議決定した。
平成二十二年十一月十八日の参議院予算委員会における、仙谷内閣官房長官の「暴力装置」との発言については、本人によれば講学上の用語として発言したものではあるが、憲法の下で認められた自衛のための実力組織である自衛隊を表現する言葉としては不適切であり、本人も、同委員会において撤回して謝罪し、また、菅内閣総理大臣もこの発言についておわびを述べたところである。なお、菅内閣は、政治主導によって、国民が政治に参加する真の国民主権の実現を目指しており、「社会主義・共産主義国家を目指していく」との御指摘は当たらない。
また、御指摘の通達の発出や仙谷内閣官房長官の「暴力装置でもある自衛隊」との発言により自衛隊員の士気の低下が発生しているとは考えていない。
むぅ……。こうした見解が一般化され、広範囲に適用されないことを望む。
少し前に、暴力装置がどうのこうのという話題に興味を持って書店へ行ったら、ソレル『暴力論(上・下)』とかシモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』といった作品の新訳が岩波文庫から出ていた。
「きっと何年も書棚を占拠しつづけてきたんだろうな。こういう本をこういう値段(ベストセラー作家の小説と大差ない)で売る決断をする出版社もすごいし、ちゃんとそれを仕入れる書店も偉いな。利益は度外視なんだろうか。いやそんなわけないよな。しかしともかく、誰かが買わないと、こういう仕事って続かない。どういう人が買うんだろう。この書店の客で、この本を買う人って、本当にいるのかな。いま自分が買うために、数年前に店主はこの本を仕入れたんじゃないか? でも正直、自分のレベルよりだいぶ高いんだよな……」とか何とか逡巡した末、買った。
で、苦労して読み終えたんだけど、やっぱり全然、頭の中で話がつながってない。新約だから読みやすくて、いま読んでいる数行の意味は取れる。でも、1ページ全体の主張となるともう怪しくなり、10ページ前の記述と関連付けて考えようとすると、もうダメ。これは、背伸びしたときの典型的なパターン。
積読にならず、一度は目を通すことができたので、個人的には満足した。書店が補充でこの本を仕入れることはないだろうし、私が買っちゃってよかったのか、という気もするけど、考えても仕方ないな。ちなみに地元の図書館も買っていることを確認。だったらまあいいか。
マックス・ウェーバー『職業としての政治』は書店になかったので図書館で借りて読んだが、これも私の頭には入ってこなかった。続いてヴェーバー『社会学の根本概念』も読み終えたが……。
『暴力論』が書店の棚に並んでいた。再入荷されたのか、もともと2冊以上を仕入れていたのか。
今朝、以前お世話になった某所に顔を出してみたら、瓦礫の山になっていた。
日本はいいな。植物がたくましく育つ。
もうすぐ冬ですね。
とくに証拠はないが小沢一郎さんは悪党に決まっているので、強制起訴は正しかった。何の根拠もなくたって、自分の直感を信じて情報を「拡散」するのは正しい。くらコーポレーションが悪い企業なのは明らかなので、今回ばかりはTBSが正しい。くら側の言い分など聞く耳は持たぬ。私の視界に飛び込んでくるネット上の意見って、だいたいそんな感じ。
人は信じたいものを信じる。それが現実だが、それでいいとは思わない。
日本の司法が冤罪を日々生み出し続けるのは、裁判報道などを見ても当然のことに思われる。警察・検察のいうことは自動的に信じる+犯人に厳罰を、というセットだから、検察は不十分な証拠で起訴し、裁判所も世論を伺って有罪判決を出してしまうのだ。
ケネディが暗殺されてもアメリカは何も変わらず、民主主義の国では大統領の命に特別な価値のないことが明らかになった……という評論を読んだことがある。日本の司法も同じようなもので、最高裁長官や検事総長が次々殺されたって、何も変わるまい。容疑をかけられ、そして逮捕されるだけで人生が暗転するような社会を作っているのは、私たちである。
今年9月、尖閣諸島で日本の領海内に立ち入った中国漁船が、海上保安庁の巡視船に意図的に船をぶつけ、船長が逮捕された。その後、船長は処分保留で釈放された。中国の人々は、そもそも尖閣諸島は中国領なので日本が司法権を行使すること自体が不当だという。一方、日本の世論は、船長の犯罪が釈放を正当化できる程度のものなのか、という点に関心を寄せた。
政府は衝突時の映像を非公開としたが、国会は紛糾し、国会議員を集めて非公開の場で6分半の編集版を上映した。そして今月、神戸の海上保安庁の職員が、庁内LAN経由で入手した44分の映像をYouTubeに公開した。翌朝にはテレビで大報道され、朝刊も最終版に滑り込みセーフ。朝から大騒ぎになった。職員の行為が刑事罰に値するかどうかは警察・検察により慎重に捜査が進められているそうだが、職場の規則や命令に反した行為をしたことは明らかなので、規定に基づく処分をされるそう。
この件について、マスコミ経由なら身元バレはなかったのに、という話があちこちで起きた。すると今度は、海保職員は、事前にCNNに匿名+内容の説明なしでSDカードを送ったけど、動きがないのでYouTubeを利用したことがわかった。その後の報道によると、CNNでは内規に沿って内容を確認せず処分していたという。
ネット世論はCNN批判に傾いている。映像を見れば、それが本物だということは直感的にわかるので、匿名で寄せられた情報だとしても、これを報道しなかったのは大失態だ、と。
私は、このネット世論に与しない。YouTubeに投稿された映像は、海保幹部が未明に「対応を協議」し、海保職員の「おそらく本物」というコメントがあって、それで朝からの大報道になったと私は認識している。政府が黙殺しても国会議員が「自分の見た映像と同じ部分がある」と話すから、大騒ぎは時間の問題だったろう。
だが、何の確証もない内は、「ネットにこんな動画が投稿された」と少し紹介するに止めたはずだ。視聴者にとっては映像から直感的に受けた「これは本物だ!」という認識だけで十分なのだろうが、報道機関がそんなに軽薄では困る。どうせ視聴者は、後で偽物とわかれば報道機関を責めるのだから無責任きわまりない。
結果的にYouTubeに出た映像は本物だった。政府の対応が、それを証明した。が、CNNが匿名で送付されたSDカードだけ見て「これは本物だ!」と判断するような報道機関だったとしたら、それはヤバイことじゃないのか? 映像の提供者がたしかに海保職員であり、映像の入手ルートの説明が合理的で信用に足る、ということをきちんと確認せずに「スクープ報道」をするようなテレビ局が、世界有数の報道機関であっていいわけがない。
取材のきっかけは匿名の情報でもいい。だが、匿名で寄せられた情報を、裏取りなしでそのまま流すなんてのは、報道機関のすることじゃない。
新興ネットメディアでは、噂話を安直に報道する例が多々ある。後で訂正を入れることもない。「噂話があったことは事実」で押し通すつもりだろう。つまるところ、個人の雑感をつづるブログと信頼度では大差ないわけだ。その点『ケータイ Watch』などを運営するインプレスは、それらとは一線を画していることを、あらためて認識した。
CNNを批判する立場からすれば、有志が行っている信頼性の保証がない「検証」は直感的に信用でき、ソフトバンクが悪い企業なのは自明なので、ケータイWatch編集部が記事掲載を一時見送ったのはおかしい、ということになろう。私は、そんな主張がまかり通る世界なんて、嫌だね。
アメリカでも庶民の感覚は日本と変わらないのではないか、と思える記事。もしそうだとすると、報道関係者の「高い意識による自制」による状況の改善も、ある程度までは期待できるという話になるのだが……。
私は過去に「報道されてない、っていうけど、されている。テレビやネットのニュースしか見てない人はバカ。有料の紙の新聞に目を通せ」という内容の記事を何度も書いてきたが、これは本当に報道されなかったケース。
10月に元航空幕僚長の田母神俊雄さんが主導して行ったデモについて、海外メディアだけが報道して、日本のメディアは報道しなかったことが、ネットの一部で話題になった。これは「私」と「国内マスコミの客層」と「CNN視聴者」それぞれにとってのニュース価値のズレが招いたことだといっていいと思う。
日本国内で、本当に田母神さんのデモ活動に大きなニュースバリューがあるのなら、後追い報道がワッと出てくるし、次のデモには記者やカメラが殺到するだろう。マスコミも商売なので、客のほしがるニュースを取材して報道するのだ。かといって、これから起きる出来事について、事前にアンケートをとるわけにもいかないので、経験的に反響の大きな話題に関する出来事をなるべく見逃さないよう、準備をしている。
もちろん、そうした予測・準備から漏れてしまう話題は多々ある。今年の事例だと「行方不明高齢者」「戸籍上の生存」などは、まさに「長らくマスコミではあまり報じられることがなかったが、じつは大きな報道価値があった話題」だろう。たしかにそういう話題には事欠かない。
が、尖閣デモ報道は、1ヶ月半余りが経過した今、盛り上がりをまったく欠いている。ネット上ですらそうなのだ。田母神さんらは、週末毎に政府への抗議活動を行い、11月に入って以降も大規模なデモを行っている。が、産経系ニュースメディアですら、さしたる扱いはしていない。購読者の関心・反響がいまひとつで、特別に紙面と人員を割くだけの経済的理由を見出せなかったのだろうと思う。
本当に購読者の関心を集める話題の場合、最初は小さな記事だったものが、どんどん大きな記事になっていく。マスコミのアンテナが不完全なのは事実だが、尖閣デモを見逃したことは、失点と呼ぶに値しない。憂国系団体のデモなんて実際は珍しくないし、ニュース価値は低いよ、という感覚の方が、今回は正しかった。
じゃあ一時期のネットの一部での大盛り上がりはなんだったのかといえば、あれはその界隈で衆論の一致する種類のマスコミ叩きネタだったんだろうな。海外メディアとの対比で批判のフォーマットにストンとはまった。あるいは、憂国系団体のデモにいつもより多めに人が集まってる様子を初めて見て印象的だったということかな。どちらにしても、一過性の話題力しかなかったのだろう。
野球中継の利益は特定の人々にしかないので、そのコストは利益の享受者が負う他ない。つまり、中継料を無料にするとか、深夜アニメのように「お金を払って中継してもらう」ことで、地上波のテレビ局が「たとえ視聴率が低くても、これなら野球中継の方が儲かるな」と判断できるような条件を揃えねばならない。ここまではタケルンバさんと意見が一致するが、その先は違ってくる。
かつては多くの国民が野球中継を好んでいたから、テレビ局はお金を球団に大金を支払って中継の許可を得た。今は巨人人気が低落し、全国区で視聴率の取れる球団がなくなった。少なくともその理由は、野球中継の減少でない。視聴率の低下に耐え切れず野球中継が減ったというのが実際の順番だ。
「もっと中継番組を増やさないと野球に未来はない」といっても、視聴者は既に「野球中継より他の番組の方がいい」という判断を下している。市場競争の結果を無視して天下り式に野球中継を実施しても、展望は開けないだろう。タケルンバさんが正しくて、中継しないことの逸失利益が中継費用より大きいなら、TBSがセ・リーグの横浜球団を手放す理由はない。低視聴率にもめげずに試合の中継を続ければ、自ずと横浜ファンが増え、いずれ横浜球団は大きな黒字を生み出し、TBSに還元することになろう。そんなバカな、と思う。
日本のプロ野球が、テレビ中継の宣伝効果に賭けて、例えば中継料をゼロにしたとする。きっと多少の効果はあるだろう。球場への入場者数が増えるとか、選手名の認知度が高まるとか。しかし、それが球団の収入減とテレビ局の減益分を相殺できるかどうか。テレビ局は、視聴率が下がるので売上減は確実だ。問題は、番組制作のコストが下がって増益になるのか、中継料ゼロでも減益になるのか……。もし減益なら、球団側が逸失利益を補填しないと、中継は必ず途絶える。
例えば、ある種の深夜アニメの場合、テレビ局が制作費を負担せず、しかもお金を受け取って番組を放映しているそうだ。これならテレビ局は確実に儲かる。しかし「ゴールデンタイムに放映してほしい」と頼めば、もっと高い金額を要求されよう。テレビ局としては、「損をしなければいい」のではなく、「利益が最大化されなければならない」のだ。
テレビ局に野球中継を強要することはできないのだから、「損はしないよ」じゃダメで、「野球中継がいちばん利益になる」とプレゼンする必要がある。球団の損得だけなら勝算があっても、テレビ局の逸失利益の補填まで考えると、タケルンバ提案は、私には分の悪い賭けに思える。
スポーツ中継によって潜在的なファン層が開拓されることはあるが、いくらやっても人気が出ないものは出ない。だからテレビ局の作った映画だって、しょっちゅう興行的にコケる。宣伝効果で同等にダメな作品よりは客が入るだろうが、実質的な宣伝費を考慮すれば莫大な赤字が発生しており、むしろ痛みは大きい。
これはテレビCMと同じで、やれば売上は増えるが、利益が増えるかどうかは全く別問題だ。テレビCMをやめて減収増益になった企業は多々ある。
一昨日、やっと献血できた。14年越しの実現だ。
私はアレルギー体質で、アトピーと喘息が主な症状である。ステロイドを服用することは滅多にないが、ステロイド入り軟膏は手放せず、これが献血不可の要因となっていた。
今秋は久々にアトピーの状態がよく、ひょっとしたら、と思っていた。ちょうど会社に献血車がくることがわかったので、10月後半から睡眠時間を増やし、摂生に努めて、どうにかステロイド入りの軟膏を使わずに献血当日を迎えることができた。
ステロイドの服用は年単位で過去の話。ステロイド軟膏は1ヶ月断っているし、最近3ヶ月でも、強い薬は使っていない。腕の状態を見ても、少し乾燥気味なだけで傷がない。問診の結果、これならいいでしょう、ということになった。
母は私を産む際、大量に出血して危機に陥り、輸血を受けた。母は低血圧なので、自分でその血を返すことはできない。母を助けてくれた社会への恩は、私が返さねばなるまい。私は16歳になると、献血を希望した。だが、断られてしまった。残念だが、仕方ない。私の血が、かえって人の命を危険にさらしては本末転倒だ。その頃はまだ、アトピーや喘息がすっかりよくなる可能性に期待していた。
まさか、献血できるまでにそれまでの人生と同じくらいの時間がかかるとは予想していなかった。20歳までに心の負債を完済して、それ以降は貯金をするつもりだったのだ。
400cc全てが使えるわけでもないだろうから、最低でもあと4回は献血したい。できれば、新たに1人を救えるよう、さらに5回、計10回の献血をしたいと考えている。30年余りでようやく1回だから、ふつうに考えたら絶対に無理なのだが、諦めてはいない。
体力に自信はなく、低血圧な方でもあり、献血後は元気がなくなった。勤務に支障はないが、一昨日、昨日と10時間以上眠っている。
血管も細くて血の出が悪く、私の採決中に他のベッドでは2回の入れ替えがあった。タイミングのズレを考慮しても、ふつうの1.5倍以上の時間がかかるらしい。それでも、献血に協力してくれる方がいいというので、今後も可能な限り参加していきたい。
ちなみに父は過去に数十回の献血をしており、私が幼い頃は「お母さんはお父さんの血で助かったようなもの」と子どもに言い聞かせていた。私と弟が、母にばかり懐いて、父を理由なく避けていたからだ。かつて私が母の受けた輸血の分だけは献血すると心に決めた理由の一端には、父への反発もあったのかもしれない。
いままでチェーンがバレるの避けてましたけど、これだけはバレやらないとなにも書けない。
この程度の話題に触れるためにばらしちゃうの? と疑問に感じた。いろいろ情報収集しながら考えたこと、というスタンスで書けば、嘘を避けつつ具体例について語ることもできたろうに。
これまでは、具体例を書いているようでいて、本論に関係ない部分はディテールをぼかすことでチェーンを秘密にしてきたわけです。今回も話の引きの部分だけ「見聞したこと」として具体例に触れて、自分のところの話は抽象化して語れば、本当は全く同じ話を語り直しているのに、読者の方では都合よく「それとこれとはよく似た別の話」と解釈して読んでくれたんじゃないかと思う。
コンビニ店長というイメージに水色のカラーがついて、ちょっと具体的になって、好奇心が少し満たされた感じはするけれども、先行きに不安を覚えた。突然ブログが非公開になる可能性が高まったと思う。G.A.W.ではコンビニ店長のお仕事について部分的にかなり詳細に書いてこられた。過去に機密に属することを書いていなければいいけど……。フランチャイズのオーナーだから、最悪の場合でも何とかなる、という自信かな。
私はどうだろう。たぶん機密は漏らしていないはずだけど、絶対の保証はない。会社の名前と結び付けられたとき、会社の得にならないことは、ずいぶんいろいろ書いてきた自覚がある。
上司バレしたときは、仮名で書いているなら今のところ趣味の範囲だと思う、とのことだった。今はどう思っているんだろう。もう読んでないのかな。薮蛇になると嫌だ……っていうなら、まずこの段落を削除するべき! 私はもし今の職を失ったとして、もっといい会社に再就職できることは99%ないと思っている。だったら安全策で仕事関連の話なんかひとつも書くべきじゃない。だけど、こんなこと何の利益もないのに、我慢できてない。だからG.A.W.のチェーンばらしは他人事じゃない。
怖い。こうしてだんだん気が緩んでいくんだ。そう思った。ひとつの対策として、気休めだが、仕事関連の記事には必ず創作を加味している。会社側が「この記事はデタラメ! 事実無根!」と断言できるように、という意図がある。
所詮、私が職場で体験したことについて書いている記事は、ハナから読者による検証を拒絶している。記事の価値自体は、創作でも実録でも同じだと思う。が、もし違うというなら、私は記事の価値を下げる方を選ぶ。フッターに「備忘録の内容は全て創作!」とか書こうかな、と。ブログは給料くれないし……。
Twitter が普及して考えを改めたこと(2010-11-15)から連続していくつか書いた記事の補遺。
私が考えているのは、例えば、こういうこと。
その昔、「永田偽メール事件」というのがあって、ネットで散々「偽メールである証拠」が見つけ出されました。が、たしかにメールは偽ものだったのですが、「証拠」の方にも間違いはたくさんあったんですね。こうしたときに、「メールは贋物」という結論の正しさが、全ての間違いを帳消しにするのでしょうか。
私は、結論が正しければそれでいい、とは思いません。とはいえ、過去の間違い全てに訂正文を付すのは現実的ではない。あっちを訂正するならこっちも直せ、全部修正しろ、なんていわない。そういう無理はいわない。でも、と思う場面があるのです。誤解や勘違いに基づく批判は、相手から抗議があったときくらい、訂正なり削除なり、何らかの対応をしてほしい。
私の要求が過大なのかもしれない。訂正がないからといって、無責任だとは決め付けない。私の補足説明に納得されていない可能性は大いにあるし、「責任の程度に鑑みて、こんなレベルの話でいちいち訂正なんかできるか」という判断なら、それはそれで理解できます。でも、黙ってちゃわからない。
もちろん、私にわからせることに義理もメリットもありません。私が一方的に「わかりやすく示してくれたらいいのにな」という希望を持っているだけです。
Twitterで私の補足説明に「たしかに誤解してました」と認められた方の中で、最初のコメントを削除して、再びコメントし直してくれた方はいません(2010-11-18 時点)。私の説明を聞いて、「なるほど」という反応をしてくださっても、元のコメントはそのまま。過去の発言を再編集するより、新しい発言により、書き手という文脈において、過去を上書きする方が低コストなようです。
ああ、それは私も同じだな、と。自分の考えが変わったときに、何年も前の記事を検索して、「現在はこう考えています」なんていちいち追記しない。新しい記事で現在の見解を表明するだけ。例えば、古い記事がずっと大きなページビューを維持し続けているなら、追記や改稿をする場合がありますけれども、基本的には面倒の方が勝つ。
削除・再投稿しかできないTwitterと比べて、はてブのコメントは再編集が容易ですが、それでも、物理的にも、心理的にも、過去発言の再編集の前に立ちはだかる壁は高い。そのことを、認識できました。
そして私は、それが不満かというと、そうではなかったんですね。Twitterで補足説明して、「やっぱり賛成はできませんが、仰っていることはわかりました。**ということですよね」といってもらえたら、大いに満足できたのです。
あと、だいたいの方が、はてブより言葉がていねいになりますから。Twitterの@会話はプライベート気分が強く出るということだと思う。第三者の目を意識した仮面が透明になるというか。Twitterでも@の対象が著名人だと「よそ行き」の仮面が外れない人が多いので、心理的に緩やかな線引きがあるらしい。
かつて私が掲示板を閉じたのは、そこが社会的に「寄せられた意見に応答すべき場所」とみなされていたからでした。掲示板への書き込みを無視すると罵倒されるのに、掲示板がないことへの文句は少ない。ブログのコメント欄も同じで、コメントを無視すると怒られるのに、コメント欄がないことへの文句は少ない。
ここで重要なのは、システム自体ではなく、それを解釈する文化の方です。「掲示板やコメント欄を用意するのは、応答意思の表明だろう。なのに私(たち)の投稿を無視するのは裏切りだ」と考える人がたくさんいる(いた)から、掲示板がないことより、掲示板への投稿を無視することの方が、強く批判されたのです。
昔、掲示板やコメント欄への投稿は、自動的に「返信を希望する」という言外のメッセージを持っていたと思う。そうだからこそ、「返信は不要です」と書き添える投稿もされていたのではないでしょうか。
はてブのコメントに、私はあまり反応してきませんでした。ウェブ日記やブログからの言及にも、だんだん反応しなくなってきています。私の応答を求めているのかどうか、よくわからなくなってきたからです。
私の記事にリンクしてはいても、それは読書感想文の課題図書を紹介するような意味。記事中に疑問文があっても、それは内省的なもの。リンク先の記事の筆者である私の回答を希望するものではないらしい。言及側の記事の読者もそう認識しているから、「この言及を無視した徳保はチキン」とはいわない。
近年、言及記事に何らかの応答をしても、スルーされることが増えました。私がコメント欄で反応すると、むしろ「ネタ元に反応されても困るんですけどー」的な雰囲気を漂わせた応対が珍しくないのです。
昔のテキストサイト界隈ではふつう、個人が趣味で書いた記事に文中リンクして批判する人は、批判対象の記事の筆者とのやり取りを(多少は)望んでいたと思う。人気サイトの場合は被言及が多いから、無名サイトの書き手はなかなか相手にしてもらえない。だから、批判対象の人気サイトから文中リンクして返信されると嬉しかったりしました。
現在でも、一部にはそうした文化が顔を出すことがありますが、たいていの場合は違うようです。なので、10年ほど前とは異なり、「私に対する意見」という解釈が成り立つ構成の言及記事であっても、返信がスルーされたり、おざなりの対応をされる確率が高い。私も何度か悲しい思いをして、学習しました。
はてブのコメントも同じでしょう。私が記事に追記して言及しても、ポイント送信メッセージを送っても、無反応。形式的には「私に対する意見」でも、私の反応を望んではいないのでしょうね。
ところが、Twitterが普及して、私は「えっ!? はてブユーザーって、こんなに気さくだったの?」と驚きました。はてブとTwitterに同時投稿している人に@で返信すると、高確率でレスポンスがあったのです。
あらためて考えてみると、はてブユーザーは、以前からエントリーページ内での会話はしていました。Twitterの@や、はてブのIDコールは、「応答を希望する」の明示的なサインとして文化的に通用している様子。だから、Twitterの@などを見れば、相手が返信を求めていることが明瞭に理解できるらしい。
私がはてブへのレスとして行ってきたポイント送信メッセージや記事への追記は、なぜ無視されたか。それは、はてブユーザーの側から見て、「応答を希望している」と判断できなかったからでしょう。それはちょうど、私がはてブコメントの大半や、言及ブログに応答しなくなったことと、同じなのだと思います。
そういえば、ブログが日本に入ってきた頃は、「トラックバックを無視するのはヘタレ」という文化がありました。当時、トラックバックは応答希望の明示的なサインとみなされたわけです。しかし近年、あまりそういう話を聞きません(皆無ではない)。SPAMが多すぎて、「トラックバック=言及通知≒応答希望」という文化が崩れ、「トラバ≒宣伝」という風に文化的な解釈(人々の認識)が変わったのではないでしょうか。
今では人気ブログのコメント欄も、ブログ管理人の返信を求める場ではなくなってきています。むしろレスしてる暇があったら新しい記事を書け、みたいな。コメント欄のシステム自体は昔と同じなのに、文化の方が変化しているのです。
客観的には、自分と意見の違う1人や2人を説得しようと頑張るより、態度を明確にしていない大勢に向けて持論を説く方が効率的だと思う。ブログやウェブサイトの記事本文と比較すれば10分の1以下の人しか目を通さないだろうコメント欄や掲示板で、延々と時間を浪費している人はもったいない。文章を書くなんて面倒なことなんだから、何か書くなら、1人より大勢に伝わるように書く方がいい。
とはいうものの、対話が成り立ちそうな人が、こちらの主張を誤解して、それゆえに無体な批判をしているように見える場面などに遭遇すると、強烈に「何とかならないのか」という気持ちが湧き上がってきます。
私はこの感情を不合理だと思い、「そもそもそのような気持ちにならないようにしよう」と考えてきました。でも、次第に「別に私の記事が大勢に読まれたからって世の中、何かいい方に変わるわけじゃないしな」と思うようになりました。すると話の前提が変わってくるわけで、「所詮、ただ書きたくて書いているだけなのだから、自分の気分がよりよくなる方針を選択すればいいんじゃないか?」ということに。
私は自分の意見に多くの賛同が得られないこと自体は、さして気になりません。他の人が既に書いていることなら、自分が書く必要はない、という思いも強いので。しかしながら、「そもそも話を聞こうともせず、結論だけをつかまえて叩く」「特異な話の前提をうまく読み取ってもらえず、言葉の端々を捉えてある種の典型に当てはめ、私の意図と異なる読み方に基づいて批判される」といったことには憤りを感じます。
そこで、誤解がどんどん広まっているような状況では、追記や記事の改訂によって真意をより明確にするようにしています。最近はうちの読者層が変わったのかどうか、記事の改訂に怒る人は減ってきたという印象があります。ちなみに、新しい記事を書いても、常連読者にしか読まれません。補足記事へのリンクをしてもアクセス解析を見る限り大半の人が読まないのが実情なので、その記事自体に追記か改訂をする方がいいです。
以上はプチ炎上を前提とした話ですが、ごく一部の人だけが誤解しているケースでは、私の中では、違うものが優先順位の上位に上がってきます。「せっかく短くまとまっている記事に、ゴチャゴチャ追記するのは嫌だな」と思うのです。言葉の選択は私の個性なので、誤解を招く程度が小さいなら、「備忘録」としてそのまま残しておきたい。だから、記事はそのままにして、誤解した人と直接コンタクトを取って、真意を説明したいと思うのです。
プチ炎上の場合、掲示板やコメント欄やはてブで「常識」が向こう側にあることが可視化されていることもあって、個人を相手に何をいっても、まず聞く耳はもたれない。私は「意見に反対でも構わないが、まずこちらの主張をちゃんと理解してください」といいたいのですが、「大多数の人が間違っていると断じている意見など、理解する価値なし」と。だから、個人ではなく、全体の空気を変えていくことに注力すべきなのです。
ともかく、プチ炎上への対応と、一部の人のコメントに反応したい場合とでは、いろいろ違ってくるわけです。
はてなブックマークのユーザーには「ポイント送信メッセージ」を送ることができますから、私は過去に何回か「真意を説明する」メッセージを送ってきました。しかし、そのほとんどが無視されました。必ずしも微妙な話ではなく、明々白々な読み違いもあったのに、無反応。
私は「はてなブックマークのユーザーの少なからずは、自分の言葉に責任を持つということを、わかりやすく態度に示してはくれないんだな」という印象を抱きました。
ではその人が他の誰とも交流せず、独り言をつぶやいているだけなのかというと、必ずしもそうではないから頭にきます。例えば、はてブのエントリーページでのコメントの応酬などはやっていたりするのですね。その他、ブログのコメント欄では、ふつうに返信していたり。
「はてブのエントリーページ内で意見されれば反応する」という人の存在には、引っ掛かりがありました。それから数年経って、「あ、そうか、ここにつながるんだ」と理解できたのが、「はてブのエントリーページ内でコメントに返信できる機能がほしい」という被はてブ側の要望でした。
私はずっと、はてブのエントリーページより確実に「あなたのエントリーそのもの」の方が大勢に読まれるのだから、返信は話題になっているエントリーの追記として行えばいい、と考えていたんです。自分の記事なら字数制限もないし、圧倒的に有利じゃないですか。
でも、そういうことじゃないんですね。はてブのユーザーは、はてブ内で反論されないと、反応が鈍い。記事に追記しても無反応、メールアドレスがわからないのでポイント送信メッセージを送っても無反応、そういう人が、エントリーページ内で意見されれば反応する、だから……。
10月に作ったメモをもとに、11月13日に整理して公開した記事。最初は「memo:節約のコツ」と「memo:」を付していたくらいで、とくに目新しい内容はない。それでも面倒くさがりの私が記事にしたのは、これが私の思い出の記録を兼ねていたからだ。自分の人生の記憶は、自分で文章にするしかない。
なぜかスルスルとブクマが伸びて、私の記事では初の1000ブクマ突破となった。Twitterでもたくさん感想をいただいた。正直、わけがわからない。「リンクすればいい」は実情に即していない(2010-02-02)で紹介した例のように、主に偶然でウケた類の記事なのかな、とも思う。
いくつかのコメントにあったとおり、「それができるならとっくにやってる」という種類の話なのだ。まあ、世の中にはこういうことができる人もいるよ、と主張することには意味があると思う。でも、大勢にとっては無関係な話だろう。「あー、これは無理。俺は無理」っていう。
細かいところでは、「外食NG」への言及の多さも意外だった。そういう各論に力点のある記事じゃないので。いやまあ、筆者の意図とは関係なく、自分の関心について書くのは全く自由なんだけど。
SBMのコメントに反論したい人には、メタブクマ、ブログ、雑誌に寄稿、チラシ配布、街頭演説、抗議デモ、他にも様々な方法が用意されています。反論権は十分に担保されていると思う。
SBMのコメントには同ページ内で反論したいと思うのは、同じギャラリーの前で反論したいから? でもSBMのコメント一覧ページに並んでいるのは、過去のブクマ記録。今その場にいるギャラリーの顔じゃない。
それに、SBMのコメントに同ページ上で反論したって、大して読まれない。ブロガーなら、記事本文に追記するべき。字数制限もないし、より大勢に言葉を伝えられる方法だからです。これは零細ブログでも同じ。コメント欄が炎上しても、コメントより本文の方が読まれるのと同じ。このあたり、錯覚してる人が多いと思う。
ブロガーの特権に気付く人が、もっと増えるといい。新聞記事やテレビ報道、あるいはメディアの向こう側の事象、身の回りのこと、ブロガーたちは何でもブログに書いてる。批判対象が決して読まないことを知っていてさえ書いてるよね。それでいいんだ。SBMのネガコメだって、ブログで反論すればいい。
3年が経ち、いくらか経験が増え、そしてTwitterが普及して、私は少し考えをあらためた。
私が先ほどリンクした記事を書いたときに想定していたのはプチ炎上状態だった。一人二人に反論したって仕方ないじゃないか、と。しかし、プチ炎上など、そうそう起きることではなかった。この3年間に私が「はてブコメントへの反論のしにくさ」にイラ立ったのは、もっと別の場面だった。
例えば、せいぜい一人か二人の「読み違い」に基づく批判や悪罵がそうだ。そんなもの放っておけばいい、とは思う。だが、過去の他のコメントを眺める限り「理解できる」コメントを書いている人の場合、「何とかならないか」と諦めきれない。少数であれ誤読する人がいるとわかったのだから記事に補足説明を追記すればいい? それはそれで有意義だと思うので、私はちょくちょく記事に追記したり、より意図が伝わりやすい文言に改定するなどしてきた。
が、それで満足できたかというと、残念ながら、そうではなかった。プチ炎上の場合、(私の主張に正対した批判はあって当然として)誤読に基づく批判の増加ペースが落ちればそれでいい。しかし、僅かなコメントが気になって追記などをした場合は、まさにそのコメントが訂正されないと、どうも納得がいかない。
経験上、いくら記事で補足説明をしてもコメントが訂正されることはほとんどない。それで、はてなポイント送信メッセージ機能で何度か直接のコンタクトを試みたのだが、数十回メッセージを送信してみて、返信がきたのは片手の指が余る程度でしかない。メッセージの末尾にメールアドレスも添えていたのに、そんなに返信や対応が面倒くさいのかね。
これと比較すると、Twitterはまだしも返信率が高い。記事に追記したり、ポイント送信メッセージを送るより手軽でもある。これはいいな、と思った。
はてブでいちばんわからないのは、疑問形のコメントを書いてる人。疑問があるならお答えしましょう、ということで、何度か解説をポイント送信メッセージで送ったのだけれども、一度も返事がない。いい加減にしろ、といいたい。イチャモンを付けたかっただけなら、そうとわかるように書いてほしい。
何人も同じ質問をしているなら記事に追記するが、一人か二人なら、個別に回答したい。やっぱり記事に追記するのは敷居が高い。マークアップの面倒とかもあるけれど、それ以前に、不特定多数に向けた記事と個人宛のメッセージとでは、私の中での位置づけが違うのだろうな。Twitterへの投稿などは、結局、公開の場で書いているのだから「同じ」はずなのだけれども、書く側の気持ちは違っている。……ということは即ちTwitterは失言の確率が高い危険なツールなのだが、それはまた別の機会に。
ともかく、Twitterのように、記事で返信するより手軽で、反応がある確率の高いサービスが登場してみると、「こういうの、自分もほしかったんだな」と認識させられた。
「2011年7月24日の地上デジタル放送への完全移行が予定通りに行われるかどうか」という話題が、私の周りでちょっと盛り上がりました。私は「計画通り」派なんだけれども、「延期される」派が過半でした。
私の論拠は地デジチューナーの値下がり。
経済的な理由で地デジ対応が困難な世帯等(NHK受信料全額免除世帯)に対して、地上デジタル放送簡易チューナーの無償給付等を行う事業に関して、昨年、今年と続けて公募が行われました。昨年は12社、今年は13社が一般競争入札に参加し、昨年はアイ・オーとバッファロー、今年はピクセラとバッファローが事業者として採択されました。
目を引いたのがその価格。120万台で36億円、つまり1台3000円。落札した会社のいちばん安い製品をAmazonで検索してみると、どれも5000円未満でした。アンテナ工事費という課題は残っているけれども、大多数の人にとって「貧乏で地デジ対応機器を買えない」という説明は相当に苦しい状況になってきたように思います。
最近の地デジチューナーには、録画もできる機種が多々ある。液晶ディスプレイと地デジチューナーがあれば、テレビ+レコーダーに早変わり。たいていの機種は録画用HDDがUSB外付けなのだけれども、バッファローの新商品はHDDを内蔵してスマートにまとめており、目を引いた。
実家のHDD+DVD+VHSレコーダーはアナログ専用だったなので、買ってみた。母は現在のレコーダーで録画番組をDVDに焼きたいと思ったことは一度もなく、視聴済の録画番組は遅かれ早かれ全て消してきたそう。追っかけ再生機能なども全く使ったことがないし、そういうことができたらいいなと思う場面もなかったとか。1ch録画で困ることもないという。ということならもう、これでいいよね、と。(ちなみに父はレコーダー自体に関心がなく、見損ねた番組のことは即座に忘れ去る特技を持つ超人である)
とにかく小さい。軽い。機能がシンプルで配線も操作も簡単。起動が早い。番組表から録画したい番組を選んで決定ボタンを2回押すだけで録画予約が完了する手軽さ。25年前のVHSレコーダーで機能的には満足できている人なら、価格10分の1、体積20分の1、録画時間30倍、画質と操作性は圧倒的に向上……と技術の進歩に感動できる商品だと思います。
最近のテレビは端子が多すぎると思う。実家のテレビにDTV-H500Rを接続する際、説明書が必要になったのはテレビの方でした。「入力9」とか、多すぎないか? 誤ってリモコンの入力切替ボタンを押してしまうと、元の映像まで戻るのにボタンを連打しなければならず、ついつい勢いでまた通り過ぎてしまい……。うがー!
逆に液晶一体型のパソコンに映像入力端子が乏しいのはどういうわけなのだろう。個人的には、長らく「ノートパソコンに映像入力端子があったらいいのにな」と思っていましたが、いつの間にかTVチューナー内蔵タイプすらレアになりました。家庭用PCなら映像出力機能こそ不要じゃないか、と思っていたのに、それは断然少数派だったらしい。今ではHDMI端子搭載ノートPCがゴロゴロしていますよね。
自分には作れないスタイルにする、というのが新スタイル「green」の狙いだったので、デザイナーの WebbingStudio さんとのやり取りの中で、細かいことをゴチャゴチャいうのはナシにしてました。
でも4日に「green」を公開し、5日には代金も支払ったので、この先は自分の領域だと思う。先代の「plant」も、あれこれ改造していく中で、少しずつ「自分のスタイル」になっていきました。「green」も、1年くらいかけて好きに手を入れていこうかな……と思っていたのですが、カツヤマさんの反応を発見して、特急工事をすることにしました。
- 五日
- “新スタイル「green」を追加”だそうで。右上に恐竜の骨がある等、中々良いセンスを感じるデザイン。って作ったのはプロの人のようなので当然か。“気になる点があれば、ご指摘をいただければ幸いです。”とのことなので色んなHTMLで試してみるのも一興かと。俺は新しく自分とこのCSS書く時は色んなサイトのHTMLを使って確認したりする。そうすることで意外な落とし穴が見つかったりするからな。まあ汎用性だけに特化したものが良いCSSとは断言はできないけど。てなわけで今週一杯〈趣味Web祭り〉とす。(Info/趣味のWebデザインに則って直接読み込ませて頂いています。もし問題あればご連絡下さい。)確認するまでもなく言えることは字が小さいのは如何なものかという点だが。
- とりあえず徳保氏のサイトでも発生しかねない問題点と俺が感じたもの。
- blockquote内のアンカーが背景色と同化して読めない場合がある
- h1要素の文字量が多い場合、青いテキストが背景画像の濃い緑(モニターの上を飛ぶ鳥等)と重なった際に可読性が落ちる
- 同様にh1要素よりも先にそれなりの量の文章が入った場合に可読性が落ちる
- 個人的に問題点と俺が感じたもの。と自分ならこうするかも案。
また見つけたら追加することにしよ。あくまで汎用性を考慮するならってことなので別にデザインに難癖つけてるわけではないのでそこはご理解頂きたい。でも文字が小さいのは致命的だと思う。シートの書き方はやはりプロの方らしく非常に美しい仕上がり。わかりやすいしグルーピングも良い。俺の書くシートはほんとどれも汚くて。
- 幅固定はどうか。例えば現状の幅をmax-widthで指定してやれば小さなウインドウでも横スク不要で読めるように配慮できると思うが。
- 緑に白抜き文字はどうか。徳保氏のサイトが基準になってるのでdivってれば問題無いのだろうけど汎用性を考慮するならば本文がそのような状態で読まれる可能性は排除しておきたいところ。多分、この文章をgreenスタイルで読んでるアナタもそろそろ目が痛くなってきたのではないだろうか。HTML要素に背景、BODY要素にHTML要素より薄い背景とかすれば特定のdiv要素が無くとも可読性の高い色調で配色できると思う。やってみないとわかんないけど。
- 本文メイリオってどうなんですかね。俺個人の好みやPCの設定の問題かもしれないけどXPでメイリオはMSIE以外のブラウザでかなり文字が読みづらくなるんだよな。背景緑の白抜き文字+メイリオ+文字の小ささ、のジェットストリームアタックで相当に目が疲労し気分まで悪くなったのは、決して俺が徹夜で仕事しているせいだけとは言えない気がする。
<ul>
<li>テキスト
<p>ブロックレベル要素</p></li>
</ul>
カツヤマさんご指摘の箇所を中心に、あれこれ変更しましたが、本文メイリオだけはそのまま。従来の「think」「plant」と新スタイル「green」の一番の違いって、じつはこのフォント指定だと思います。ビットマップフォントを偏愛してきた私が、文字のアンチエイリアス表示を「これも悪くないな」と思うようになったのが、今年の夏。そこへメイリオ指定のスタイルがデザイナーさんから出てきたので、「2010年の新スタイルとして、これは外せないな」と。
メイリオ自体に思い入れはありませんが、よそで見慣れたフォントがいい、とは考えていました。「メイリオ, ヒラギノ, "MS Pゴシック"」というフォント指定順は、よく見かけるもの。デザイナーさんの提案は、私の心積もりとズバリ一致していました。メイリオを指定するサイトは数多いので、どうしてもメイリオがダメな場合、私だけが別のフォントを選択しても意味は薄いはず。自分のPCのメイリオを、自分の好きな別のフォントで置き換える、といった対策をした方がよいのでは?
文字サイズ固定は、ひとつの決断。IE9ベータで「文字サイズの変更」が半ば隠蔽されたように、競争に勝ったのはズームでした。もはや文字サイズ可変を重視する意味は乏しいと思う。私は Yahoo!Japan の 12px 固定(10月時点)を参考に、デザイナーさんの 13px 固定案を了承しました。
個人的にズームは嫌いで、フォントをMS Pゴシックにして文字サイズ 9〜12px くらいで閲覧するのが好きでした。しかし周囲の人はたいてい IE7 や IE8 の文字サイズ「中」でウェブページを閲覧しています。その設定で「think」や「plant」の font-size:100%; なMS Pゴシックのテキストを表示すると、どうにも間抜けな感じに見え、敗北感がありました。そのときのやるせない思いが、13px 固定メイリオの背景にはあります。
デザイナーさんのブログで紹介していただいたばかりなのに、たった一晩でけっこう変更箇所が多くて申し訳ない。パッと見てわかるのはリンク表現の違いだけで、他は地味な変更ばかりですが……。
新旧のCSSファイルの内容を比較した様子。同じ部分がほとんど残っていない。実際には、記述の順番変更による変化が大半。なので、見た目ほどの違いはありません。それでも、「think」のCSSはたったの108行なのに対し、「green」のオリジナルは968行だから、私にとっては大仕事ではありました。
なお、「green」の改訂版CSSがオリジナルより3割ほど短くなっているのは、面倒くさがりな私が、リンク周りなど、一部の装飾をバッサリ単純化したためです。
別にその「green」に限った話ではないけど、onselectイベントでアクションが起こるのは非標準的。そしてその切り替え用のGUI部品がスタイル毎にコロコロと位置を変えるのは紛らわしい。俺はユーザースタイルシートでマルチカラムにして流し読みしているが、悪しき「フラット」な構造が踏襲されているため、「Information」以下をコンテンツと区別できずにいる。長文を読むときに致命的なゴミになる可能性があるが、一サイトにこれ以上の手間はかけられない。
申し訳ありませんが、ゼロ回答とさせてください。小さな需要よりは、作者の趣味や都合を優先したい。CSS切替は滅多にやることではないでしょうし、RSSに記事の全文を出しているので、記事のみをマルチカラムにして読むのは、RSSリーダーの方で実現していただければ……。
個人的にマイクロWeb日記は3ヶ月ごとにはてなアンテナに登録しなおさなきゃいけないのが面倒くさいと思っているのですが、Jintrickさんとしては、そういう不満の声に応えるつもりはないと思う。RSSを出してほしい、日付の見出しにIDを振ってほしい、なんて要望にも答えはノーですよね?
それと同じ……といってしまっていいのかどうかはわかりませんが、ご希望は理解しましたが、少なくとも今すぐ対応する意欲は出てきません。
新スタイル「green」を追加しました。今回はFC2ブログ方面でちょこっと縁のあった WebbingStudio さんに製作していただきました。
今後もスタイルはスクリプト経由で提供し、当サイトのデザインが「製作者スタイルなし」を基本とすることに変わりはありません。なお従来のスタイル「think」と「plant」は提供を継続します。スクリプトが有効な環境では画面上端付近に表示されるセレクトボックスより、好みのスタイルを選択してください。(Google Chromeでは「green」「no style」の二択になります)
ウェブサイトの思い出(2010-07-17)で「plant」から5年。そろそろ新スタイルを追加したいな。
と書いたことを4ヶ月で実現したわけですが、私のスタイルは「think」で完成されています。「think」で満足といえばその通り。それでも敢えてデザイナーさんに発注したのは、自分では作れない(+作らない)スタイルに期待があったからだと思う。
結果にはたいへん満足しています。まずイラストがいい。生と死、緑茂る大地と爽やかな青空、本とIT機器、眠る竜骨……。水平repeat対応だから、フルHDでも画面をガッチリ支えてくれる。そして白い本文領域を緑で囲う表現から見出しやリストのスタイルまで、きちんと関連付けてデザインされているのが素敵。
膨大なブログテンプレートが既に存在する中でも、「green」は独自性のあるスタイルだと思う。私にないセンスと技術をたくさん詰め込んで、個性と実用性を兼ね備えたスタイルを完成させてくれた WebbingStudio さんには、たいへん感謝しています。
ただ、『deztec.jp』は本文に登場する要素の入れ子パターンが非常に多く、「dl>dd>ul>li>blockquote>ol>li>p」なんて通常は考えにくいですが、当サイトでは自然です。簡単なチェックはしましたが、見落としはあると思う。何か気になる点があれば、ご指摘をいただければ幸いです。
新スタイルをテスト中。
以下は WebbingStudio さんとのやりとりから、公開しても差し支えのなさそうな部分を抜粋して整理したもの。文字通りの「備忘録」です。
http://deztec.jp/design/
http://deztec.jp/x/etc/img/
↑のスタイルシートを1枚追加する。現在のスタイルシートも引き続き提供する点に注意。
http://deztec.jp/z/dw/j/
予算が余れば↑のスタイルシートも。こちらは現行スタイルを破棄し、新スタイルへ移行する。
年内
参考サイトのポイントは、イラストがレイアウトと一体化していること、フルHDの画面でブラウザを最大化しても割といけること、の2点。
絵柄イメージのような賑やかな感じから、画面を構成する塗り分けへ溶けていくような仕上がりを希望します。
上記の他は、とくに必要でない限り、スタイル設定不要。雑多な指定はCSShb.cssにまとめているので、@importで読み込むこと。現行のMTのテンプレートは添付ファイル参照。
3案とも納得のできるデザインにまとまっており、いずれ劣らぬ内容。#F6F7EEという共通のベース色は、とても気に入りました。一晩悩んだ末、シャープな印象の2案を上位に推すことにしました。
了解しました。
可読性が確保できていればよいです。新しいサンプルの状態で私は納得しました。
私は「フルタイムで3日間拘束する」くらいのイメージで予算を組んだ。ザックリ、構想半日、カンプとイラストに1日、コーディングに1日、確認に半日、と考えた。そこから2割引で請け負ってもらったのだけれども……。こうして振り返ってみると、デザイナーさんの仕事ってたいへんだな、と思った。
いつの間にか徳保さん(@deztec)にテーマ作成の全貌を公開されていた #ノノ)キャー この分も換算に入れてお見積を出させてもらったわけですがw [Tw]
徳保さん(@deztec)が金額について言及されているので補足。トータルの期間にするととてつもない時間がかかっているように見えますが、別件で多忙だったため待っていただいた期間がかなり含まれてます。 [Tw]
また「二割引」というのは公開に伴う割引10%と、徳保さんの拡散力+こちらが勉強させていただく分10%となってます。元がいくらだったかは内緒ね。 [Tw]