その話題に関心を持つ層の違いなのか、ブックマークされた年代の違いなのか、よくわからないけれども、ずいぶん反応が違うな。1円の得にもならないような形で勝手に動画をアップロードされて嬉しいAVの出演者やスタッフなんて、多くはないはずだ。勝手にアップロードされている同人作品をかき集めるサイトがダメなのと同じ理由で、ゆーすけべーさんのYourAVHostだってダメに決まっていると思う。
そもそも本当に悪いのは無断アップロードする人々なのだが、数が多すぎて潰しきれないのが実情だろう。そこで次善の策として、せめて便利なまとめサイトを潰そう、というアイデアに至るのは自然なことではないか。違法動画は雨後のタケノコのごとく現れるが、著名なコンテンツ案内サイトの数は高が知れている。サイトの知名度にせよ検索順位にせよ、上げるには手間と時間がかかる。だから紹介サイトの方は、無断でアップロードしてリンクを張ればいいコンテンツほど簡単にはアクセスを増やせない。
同人界隈の人たちがgameraさんのサービスを批判集中で閉鎖に追い込んだのは、状況の悪化を食い止める、効率的なやり方だった。便利なサイトができれば、従来、ちまちま探すのが面倒くさいと思って寝ていた層を覚醒させてしまうことになる。
ところで、ゆーすけべーさんがYourAVHostを作ったのは、アダルト動画にリンクしているブログ(エログ)などが、「騙しリンク」を駆使しており、「不便」だったから、だそうだ。
消費者目線で同意する人が少なくないだろうが、私はエログの不便さこそ、市場の示した解なのだと思っている。単純な話、無料でサクサクと見たい動画を検索・発見して視聴できてしまったら、それで消費者は満足してしまうだろうから、コンテンツの再生産が成り立たない。エログは閲覧者への善意ではなく金儲けを目的としているからこそ、アフィリエイト収入につられて自ずとサイトを不便にし、消費者にどうにかしてお金を使わせようと躍起にもなる。エログの不便さは、エコシステムに欠かせない要素なのではないか。実際のところYourAVHostに市場を壊すほどのインパクトはないと思うが、もし将来、圧倒的なアクセスを集めるようなことになれば、自らの拠って立つ基盤を突き崩すことになるだろう。
端的にいえばYourAVHostはフリーライダーの支援に特化したサービスであり、生産者への還元という要素があまりに希薄なので感心しない。
そういえば森博嗣『笑わない数学者』の「逆トリック」って何だったんだろう? 唐突に思い立って、検索してみたら、すぐ正解に行き当たった。著者自身が登場して正解だといっているので、まあ正解なんだろうな。
10数年の疑問が解けてスッキリしたのかといえばそうでもなく、ただただ拍子抜けした感じ。森博嗣さんが面白いと思うことと私が面白いと思うことには相当の隔たりがあって、森さんが伝えたいと思っていることなんて、私の方は受け取る気すらさらさらないのに、私は私なりに森さんの小説を楽しく読んでいたんだな。こういうことって、けっこう多い。
じつのところ、大学卒業後は森さんの本をあまり熱心には読んでいなかった。小説の既刊が67冊で、あと13冊出るらしい。こういう予告は嬉しいな。エッセイとかは興味ないので、未刊を含めてあと40冊か。残りの人生の長さを考えると、十分すぎる量だな。それにしても、森さんの小説は今のところ全てどこかのネット書店で買えるのが凄い。あと何年くらい続くのかわからないけど。
あ、今気付いたけど、私は森博嗣さんの全小説の半分を既に読んでいるわけか。そうか。
11月1日にinfoseekの無料ウェブサイト作成サービスiswebライトが終了する。iswebライトのウェブページ群を維持するのに、年間いくらくらいが必要なのだろう。
更新不可、検索エンジン拒否、ロボット拒否、くらいのことをしてもなお毎年100万円以上のコストがかかるのか。もし何とか年100万円以内ですむなら、寄付金を募って何とか……なんて空想をしたのだが、個人情報とか、著作権とか、著者一人一人の同意なしにはどうにもならない部分が多くて、実際、無理なんだろうな。パソコン通信のログですら、どうしようもなかったのだし。
一部のサイトは有志によってサルベージされそうだが、ほとんどは消えてしまう。残念だ。2001年にサービス開始、そして2002年にTripodのデータを引き継いでから8年か……。頑張ったというべきなのかもしれないが、個人的には、予想以上に早かったと感じる。ニフティのパソコン通信はサービス開始から19年でログごと消滅した。iswebライトはまだ9年だもの。やっぱり早いよ。
ブログサービスもいくつも終了しているが、オンラインのデータは、存外はかなく消えていく。twitterが躍進した裏で、その日本版を目指したもごもごは12月24日に終了するという。これもログは消えてしまうらしい。そのうち、twitterも消えてしまうのだろうな。まあ、twitterなんてのは毎日過去ログが消えているようなサービスだけれども。
パソコン通信のログなどと比べれば少ないだろうけど、サイトが消えてホッとしている人もそれなりにいるのかな。自分で消すと動機を詮索されるのが嫌で、自然と消えるのを待つ、という感覚は私にもわかる。こうして、人がひと塊として認識できる程度の時間の中でデータが消えていくのも、そう悪いことばっかりでもない。そう、思って、慰めにするしかないんだろうな。
「1)日本からの輸入を停止する。2)日本への輸出を停止する。3)日本より高値で資源を買い占める。」という内容。政府高官の発言などではなく、中国のメディアが掲載した記事だそうだ。
いずれも意図的に発動すれば、日本に限らず世界中の国に対して「中国との経済取引のリスクは従来予想されていたよりかなり高い」ことを印象付けることになり、貿易や投資の冷え込みが予想される。また単純に考えても、1)2)は中国側にとっても日本側と同等の極めて大きな打撃になる他、3)は中国が一方的に損をするので、意志の強さや覚悟を示すという以上の意味はないだろう。
自由貿易による国際分業の推進は、人々が合理的に行動する限り、平和に資するものだ。しかし、リンク先のような意見を真顔で語る人や、それを真に受ける人が多いなら、必ずしもそうはなるまい。
ただ、主要国首脳会議などのたび、反グローバリズムの抗議行動が行われていたりするが、会議はいつも貿易促進の重要性を確認している。政府が愚行に走ったとき、仮にそれが民意の反映だったとしても、大衆は無責任にも結果から政治を批判する。極めてマズイ結果をもたらす政策は、民主政治そのものがきちんと維持される限り、破滅の前に打ち切られるはずだ。民主国家の政治家は、ある程度それを見越して行動してきたし、今後もそうだろうと信じたい。
一党独裁の中国政府は、過去半世紀の歴史を振り返ってみても、あまり信頼は置けない。まあでも、レアアースの一時的な輸出停止にしても、中国政府はそれを政治的報復措置だとはいわなかった。様々な解説があったが、「世論のガス抜きのため、国民の福祉によい結果をもたらさない政策であることは承知の上で、一定の無理を通している」という意見が、個人的には納得できた。
私が不勉強なだけかもしれないけど、ワシントン・コンセンサスは自由経済と国際分業を推進するものではあるけれども、再分配を否定しているようには見えない。経済の安定化と所得再分配の重要性を付け加えるべき、という主張なら納得できるけれども、ワシントン・コンセンサスの否定が格差社会解消への道、といった(私の視界の中でよく見かける)意見には首を傾げる。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』という小説がテレビアニメになったら、作中の「18歳未満への販売を自主規制しているはずの商品を、中学生が勘違いや手違いではなく堂々と購入して楽しむ」描写が、ネットの一部で大いに問題視されたそうな。そのログなどを読んでいて、個人的には奇妙に感じた。
作品の内容をよく確認せず商品画像を提供してスタッフロールに名を連ね、自主規制によるゾーニングが機能していないこと認めたようにも取れる状況を作り出してしまったメーカーの「問題」は私の関心外なので脇に置くとして、「どうして原作の小説は問題視されなかったのか」ということに、まず興味を持った。
ところで、未成年の飲酒・喫煙シーンは、リアルな時代の様相を切り取るために避けられない場合に限って認める、というような自主規制、あるんじゃなかったっけ。実写ドラマなどで、冒頭や末尾にそういう注意書きを見ることは珍しくないように思う。その精神を敷衍すると、現実にゾーニングは不完全にしか機能していないので、中学生が商品を手にする描写はあってもおかしくないと思う。が、原作を読んでみたら、アニメ版と同様、著者はその状況を肯定的に描いているのだった。これには面食らった。
まあでも、よく考えてみると、「悪いやつなら暴力によって打倒していい」とか、「軽犯罪くらい別にいいでしょ。青春だよ、青春」的なメッセージは、様々な作品の中に認めることができる。それらに感化されて実行に移せば、当然たいへんなことになるわけだ。が、あまり問題視されていない。こうしたことと、何が違うのだろう。あらためて考えてみると、私にはうまく説明できないことに気付いた。
私が面食らったのは、「中学生が商品のゾーニングを無視して何が悪いのか。そんなルールを守ることより、自分の好きという気持ちを貫くことの方が大切なのだ」と堂々主張する作品を私が見慣れていなかったから、に過ぎないのかもしれない。まあ、飲酒や喫煙と違って法律で規制されているものではないからな……いや、暴力による問題解決は実質的に法律で禁止されているよなぁ。でも殺人まで全肯定する作品は見たことが……あるような気もするなぁ……すぐには思い出せないけど。妹を守るためにひどい養父を殺しちゃって、そのこと自体には最後まで少しも反省なんかしない、とか。別に成人指定の漫画じゃなかったはずだよ。
あるいは『ゴルゴ13』とか、どうなんだ。私が最初に出会ったのは小学生の頃だったが。ゴルゴって、別に悪党を倒しているわけじゃないからね。とくに罪のない人も、たくさん撃ってる。『北斗の拳』だって、明らかに殺人者を肯定的に描いていないか。ああいう世界だからいい、って説明でみんな納得しているのかね。わからん。あるいは、主役が自殺を全面的に肯定する作品はあったかな。あったような気もするけど、これもちょっと、すぐに作品名が出てこないな。
ともかく、殺人を肯定的に描いてしまう作品もあるのに、商品のゾーニングがどうとかこうとか、問題の大きさが全然違うような気はするな。
しかし、また別の話で、どうして(こうして騒動になった後も)原作はろくに問題視されないのに、テレビアニメの方ばかり「規制強化の口実にされる」とビクつく人がたくさん現れるのか、という最初の疑問に帰ってくる。原作はベストセラーだそうで、書店へ行ったら目立つ場所で平積みになっていた。
「それはやっぱり、商品の届く範囲が違うじゃないか」といってしまうなら、逆に「なぜ小説より漫画の方が厳しく規制されるのか」といった、規制に抵抗する側の論拠のひとつが、怪しくなるように思う。
とくに結論はありません。
テレビアニメでは、下着規制とか、乳首規制というのもある(あった?)そうな。以前、そういう話を知ったときには、ポカンとした。その規制をやっているという局が、昼過ぎに放映している実写映画では、どちらも規制なしに出ている。整合性が取れていない。登場人物の設定年齢の問題なのだろうか。謎だ。
あるいは、ゲームでは18歳未満にセックスさせないという自主規制などがあるとか、実際にはないとか、そういった議論などを目にしたときも、非常に違和感があった。18歳未満に販売禁止というゾーニングをした中で、さらにそういう規制をするという話題だったからだ。
その何が不思議かというと、例えば『この文庫がすごい!』というムックには官能小説大賞というのがあったと思うけれども、そこでは少年少女が登場してセックスを愉しむという内容が無造作に紹介されていたと記憶している。そういう作品を褒めると規制の口実にされる、みたいな空気は全くなかったと思う。
あんよさんの研究記事「ハートキャッチプリキュア 堪忍袋の緒が切れるまで」「ハートキャッチプリキュア ここらが正論の限界よ」を読んで書いた商業フィクションと価値観対立(2010-09-17)の追記。
現状維持に納得できた時点で「こころの花」を枯らせずにすむはずです。
納得。あと、選択肢を提供することが大切、という意見には全く賛成です。それにA思考「あきらめる」とB思考「困難に立ち向かう」のうち、周囲の支援が必要なのはプリキュアのB思考。テレビ番組がB思考を推すのは理に適っている、とも思います。あと、私の中には相反する気持ちがあって、B思考を貫いて人が幸せになる展開に感動することは否定できません。
前の記事をあらためて読み返してみると、話が逆だったかも……と思えてきました。私(たち)には人生経験からA思考に親和的なバイアスがかかっていて、敵幹部がとてもひどいことをしているのを見てさえ、敵幹部をちょっと応援してしまう。あんよさんがプリキュアのシナリオを検討して、意外に敵幹部の主張の正当性が低いことを明らかにしていくのは、いわば憑き物落とし。やっぱり敵幹部は支持できないでしょ、という。
私はあんよさんの研究を読んで、それから記事を書き始めたので、事前に自分が持っていた考えが書き換えられたことに気付かなかっただけなんじゃないか。敵幹部の悪行を、その主張への共感によって中和してしまい、不当に小さく見積もってはいなかったか?
だから、「あんよさんの研究を読んでもA思考とB思考の対立は解消されない」というネガティブな表現は不当で、「あんよさんの研究によって、擁護すべきでない部分まで擁護してしまいかねない状態が解消され、価値観対立の構造に惑わされずに作品を楽しめるようになった」と、まずいうべきだった。
ていうか、これって、当たり前すぎる感想を回りくどく書いてるだけだな……。
小山駅西口ロータリーの出口には押しボタン式信号がある。私は最初、それが押しボタン式の信号だとは気付かず、ボンヤリと青信号を待ち続けるうち、意識がとんだ。
急に周囲の音が聞こえてきて、ハッと気付いたとき、急に頭の中がクリアになったように感じた。そういえば、と仕事で壁になっていた技術課題のひとつについて思い起こしてみたところ、スルスルと解決策が浮かんできたのでビックリした。
数日後、私はまた同じ場所で信号待ちをしていた。今度は、押しボタン式と知っている。だが、ボタンを押さない。押さなきゃわたれないよな。わたりたくない? いや、家には帰りたい。でも……。
1分経ち、2分経つ頃には、両側に数人ずつ信号待ちの人が集まった。と、向こう側に男の子が走ってきて、迷いなくボタンを押す。ペカッと信号が変わり、人々が歩き出し、世界に音が戻ってきた。男の子はダッシュで横断歩道をわたり終える。私が2、3歩進んだところで、ようやく男の子のお母さんが向こう側に到着した。
その後も、私は「ボタンを押さなきゃなあ」と思いつつ、押さなかった。そのまま数週間が過ぎ、いよいよ私は、自分が「本当はボタンを押したくない」ことを認めざるを得なくなった。信号待ちをしているときの、だんだん音が消えていく感じは、私の生活の中で、よいアクセントになっているように思われた。
また次第に、案外ボタンを押さない大人がたくさんいることに気付いてきた。私と行動パターンが近いのか、たびたび一緒に信号を待つ人もいた。みなそれぞれに理由はあるのだろうが、私にはうかがい知れない。
「敢えて押さずに待つ」という人は見当たらない。ひとひねりすればDPZのネタになりそうなんだけど。もうやっているかな、と思って検索してみたが、まだやってないみたい。DPZの方々は、どちらというとボタンを押したくなるタイプらしい。
昨日に続いて小山駅の中央自由通路について。
見た目にインパクトがある。富士通とComputer Associates社が共同開発したJasmineというマルチメディアオブジェクトデータベースが持つWebLinkという機能を利用して製作されているのだという。まあでも、ツールの問題より担当者のセンスの関係でこうなっているのだろうな……。
中央自由通路など作っても、建設費をペイするほどJRの利用者が増えるわけはない。だからJRは、改札口の統一を認めることを事業参加の絶対条件とした。
ところで、どうして行政が税金で中央自由通路など作るのだろう。小山市には、小山駅にエレベーターを設置してほしいという要望が繰り返し寄せられている。これは東久留米市でもそうだった。東久留米駅には以前からエレベーターがあったが、全ての入り口にはなかった。私が転出する頃にようやく、最後の1基の予算が通ったんじゃなかったか(少なくとも現在はエレベーターが完成している)。
東久留米駅のエレベーター設置問題は、私が西東京市に転入した頃から東久留米市議会の議題になっていた。しかも反対派は存在しなかった。ならばどうして、という話なのだが、ようするに優先順位の問題だったのだと私は解釈している。でも議会って、そういう風には議論しないんだな。議題Aと議題Bを関連付けない。別個に是非論を展開していく。だが税収は決まっているわけで、自ずと予算の規模は制約される。だからより優先順位が低いと判断された事業は「問題」を指摘されて先延ばしになるのだが、奇妙な話だ。
そりゃAとBに直接の関連はない。どちらも「いずれ実現できたらいいね」という話ではある。が、今年の予算をどうするのかという観点からは、両者の比較検討を「しない」なんてのはナンセンスじゃなかろうか。それでいて、何かというと「ビジョンが見えない」という言葉が飛び出す。無内容な批判だ。現在のような議論の仕組みでは、ビジョンなんか示しようがないだろう。
ひばりヶ丘駅は西東京市、東久留米市、新座市の市境に近く、ロータリーのある南口では西東京市議、東久留米市議らが朝立ちをしていた。その中に熱心に活動報告している東久留米市議がいて、そのビラなどで東久留米駅のエレベーター設置問題に興味を持った。
小山駅のエレベーター設置が進まないのは、ひとつには費用の問題ゆえだった。バリアフリー法対策としては、車椅子対応エスカレーターで最低限の基準はクリアされる。これは既に小山駅東口に設置済だ。そのため、JRはエレベーター設置の費用負担に消極的だ。議員は憤慨するが、怒って解決する問題か。
税金で何かを作ろうとすれば、やたら時間がかかる。それはそうだろう。議会を経由しているので、何となく「不便だから何とかしろ」みたいな感覚になってしまいがちだが、実際には、「市内で行政の助けを必要としている他の多くの人を差し置いて、まず自分の望みをかなえるのが正しい」と主張しているに等しい。自分の要望を通すには、予算獲得合戦の結果、今年も涙を呑むことになる人を納得させなければならない。そのためには、「自分たちこそ何年も我慢を強いられてきた」という実績を積まねばならぬ。
要望それ自体にはみなの賛同を得られても、その緊急性、重大性の程度があまり高くなければ、我慢積み上げ戦略を採るしかないのだ。しかしそうまでして税金で作ることにこだわる意味って何なのだろう。
もし小山駅の中央自由通路にSuicaで100円払うと開く有料ゲートを設置してよければ、JRが勝手に自由通路を作ってくれたかもしれない。Suicaで100円払うと動くエレベーターでよければ、とっくの昔にエレベーターだって設置されていたんじゃなかろうか。
逆にいって、それで赤字になるようなら、実際には税金の使途として無駄だったということにならないか。中央自由通路によって商業施設が活性化するなら、商業施設の寄付によって建設してもいい。だがそれも結局は、商品価格への上乗せ分に化けるのだから、究極的には消費者の財布から建設費用が出ることに変わりはない。ならば、通行人から直接取っても話は同じだし、よりシンプルな構図になる。
だが、実際にそうした有料サービスが登場すれば、事業の収支が出る以前に、きっと頭ごなしの批判が殺到するだろう。直接に建設費を負担するのは嫌だけど、税金経由で負担するならいい、という感覚は何なのか。通りたい人が自由にお金を払って通ればいいだけの話なのに、有料通路や有料エレベーターという発想そのものが攻撃されるとすれば、「そういうものにお金を払う習慣がない」というだけの理由ではないのか。
公共財なら税金で整備するしかないが、小山駅の中央自由通路やエレベーターは対価を払わないものを排除可能な準公共財であり、受益者負担でも成立するはずだ。もし利用者が殺到して移動に支障が生じるほど混雑するなら、競合性すら認めることができ、準公共財ともいえなくなる。
小山駅のエレベーター設置に時間がかかっている他の理由のひとつは、「ビジョン」に関係している。場当たり的にエレベーターを設置するだけではダメだ、という考え方が市議会の議事録に何度も登場している。それで、中央自由通路事業と関連付けて一体的に進めるのだ、といって何年も空費することになった。これは、一時しのぎのことに税金はかけられない、という「税金ならではの制約」の問題と捉えることもできる。
利用者負担なら、「今すぐエレベーターがほしい人」がどれだけいるか、という整理できる。耐用年数を残してエレベーターが退役しても、誰も怒らない。使用予定年数内で利益が出ると予想できたなら、JRは即座にエレベーターを設置したはずだ。公金なら「無駄」でも、私費なら「有益」というケースがありうるのだ。
バリアフリーの実現は、法律の定める最低限のラインを実現すればそれでよいというものではなく……それはそうだろうと思う。
ただ、駅のエレベーターは実態として、「必要不可欠」な人より、「あれば便利」くらいの人の利用が圧倒的に多い。ならば、必要不可欠な人にだけ無料パスを発行してはどうか。バスの無料パスなんかでも、顔を見ただけで年齢や居住地の確認はできないので、無料パスの掲示が必須になっている事例がある。不注意で無料パスを家に忘れてきた場合、とくに係員に申請して認められなければ乗車は無料にならないわけだが、この仕組みが非難の的になっているという話は聞かない。この手法でOKならエレベーターの無料パス制は可能だろう。
私の利用駅でエレベーターを利用しているのは、過半が中高生。笑ってしまったのは階段を下りるのにエレベーターを使うケースで、昇降機を待つ時間が無駄なんじゃないかと。
JR成田駅西口にエレベーターが設置されたのは私が小学生の頃だった。JR成田駅は西側が崖になっていて、ビルの4階くらいの高さを登らねばならない。なのにエスカレーターすら地上3階相当の高さのフロアからしか設置されておらず、理不尽な設計だと思った。それでエレベーターが設置されたのだが、予算を絞って小型のものにしたので、高齢者と障害者専用ということになっていた。ところが、実際の主な利用者は高校生だった。
なんで中学生や高校生って、あんなに楽をしたがるのだろう。私は自分が中高生だった頃にも、高齢者と身体の不自由な人専用という掲示を無視して駅のエレベーターを使う同年代の気持ちがわからなかった。まあ、「みんな」じゃないんだよね。たいていの中高生は、大人たちと同じく粛々と階段を利用している。
うーん、ただ制服が印象的で目立っているだけで、本当は大人たちと利用率は変わらないのかな。
JR小山駅は東北本線(宇都宮線)が南北に走り、東の茨城県から水戸線が、西の群馬県から両毛線がやってくる、栃木県南部の鉄道交通の要衝だ。小山駅は東北線に沿って作られており、水戸線も両毛線も小山駅の付近で向きを変え、南北を向く。
かつて駅の西側には工場があって、市街地は駅の西側だったので、今も小山駅は西側だけに大きく開かれている。が、旧市街は鉄道と川に挟まれて手狭であり、町の発展とともに市街地は川ではなく鉄道を越えて東側へ広がった(インフラ普及の都合らしい)。現在では面積の圧倒的に広い駅東側の方が人口が多いそうだ。
こうした状況の変化に対応し、旧国鉄は1969年に東口を開設した。これは西口側の中央改札とは別の南口改札へつながる簡素なもので、両毛線や新幹線のホームへ行くには東北線ホームを経由して西口コンコースへ向かわねばならない不便があった。だが、東京の一部の地下鉄駅を思えば、特段、不便を言い募るようなものでもない。旧国鉄の狙い通り乗降客は増え、景気のいい頃は通勤ラッシュもあったそうな。
しかしそれは鉄道事業者視点の話であって、市民の方はずっと不満を抱えてきた。会社の同僚によると、小山駅の正玄関口は西口なので、たいていのカーナビは「小山駅」といわれれば西口を終着点とするらしい。私の父が乗る車のトヨタ純正カーナビは、小山駅の東口の目の前で試しても、そこが到着地点とは認めず、きちんと(?)西口までのルートを案内してみせた。さすがにこれは理不尽な感じがする。
また工場が移転した後に商業施設や大学ができ、周辺にマンションが立つなどしたが、東口が不便な場所にあるため、駅利用者を十分に取り込むことができていない、という状況もあった。これは西口側に暮らす私が、引っ越してきてすぐに感じたことでもあった。なまじっか西口側で生活が完結するだけに、東側は「ホームから見えているだけ」の別世界という感じなのだった。
その他にもあれこれあったようで、私が5月末に引っ越してきた頃には、とっくにこんな計画が具体化していたのだった。
今秋着工という話だったが、ちっとも動きが見えないのでどうなっているんだ? と思って調べてみたら、10月12日に着工したのだそう。よかった。でも、一体どこで工事をしているのだろう。
市議会の議事録などを読むと、今年になってからも延々と基礎的な議論が百出していて頭がクラクラしてくる。どうしようもない事情で期限が切られているか、あるいは現状に致命的な問題がない限り、民主的な議論というのは自然と時間を空費する方向へ進みがちだよね……という認識を再確認させられた。結局、改造駅舎の完成予想図は数年前に出た絵のまんまで工事が始まっていたので拍子抜けした。
JRはこの自由通路によって乗降客数が増えるとは考えにくく、工事に消極的だったようだ。調べてみると長期的に小山駅の利用者は減少傾向にあり、10年で1割の利用減となっている。自動車の普及に伴い鉄道利用が減るのは、都市部を除き全国共通の傾向だ。利用減に対抗して駅の魅力を上げる投資をしたって、せいぜい利用減のペースを鈍らせる程度の意味しかない。JRに必要なのは、合理化戦略だ。
JR東日本は中央自由通路を作って南口改札を廃止し、現在の東口と南口を閉鎖する案を示した。中央改札は自由通路に面して新設され、両毛線、新幹線ホームへの動線が単純明快になるという。改札を減らせば駅を維持する必要人員は減らせる。客数に比して複雑すぎる駅構造を整理することで、設備の維持・管理も容易になるだろう。しかも建設費は大部分を小山市に負担していただきますよ、という。売上げ減予想の中で、民意を楯にサービス向上を強要する行政に対し、営利企業として筋を通した感じだ。
市議会では南口改札の閉鎖に対し議員から何度も何度も怒りの声が出ている。市もJRに南口改札存続の申し入れを行ってきたそうだ。しかしJR側の主張に理があって、JRと市の協議は2005年、南口改札閉鎖で妥結した。同年、市議会へ報告・説明がなされ、以後毎年、議会に同じ説明を繰り返てきた。まあ、これだけが問題だったわけでもないのだが、何ともつまらないことで5年も工事が棚上げにされてきたものだと思う。
以前、暮らしていた西東京市でも、私が転入して間もなく、最寄のひばりヶ丘駅で改装工事があった。素晴らしく開放的な駅になり、工事中の不便への鬱憤はスカッと晴れた。次に暮らした豊島区でも、大塚駅の改装工事があった。これも工事の前後で駅の印象が一変するほどのもので、なるほど便利になったなあ、と思う。が、後で調べてみると、工事の前後で乗降客数の増減傾向に変化はない。鉄道事業者が「駅舎改装は税金でやれ」という理由はよくわかる。経営上、無駄な投資なのである。
自転車につきましては、東西、自転車の通行を確保したいということで、現在の南口自由通路か、これから整備をいたします中央自由通路、いずれかにはどちらかには通れるようにしたいということで、市としては考えております。それで現段階では整備がされることにより動線が明確化し、それと西口と東口の駅前広場が直接直近で接続されると、かつ東西にエレベーターを設置する中央自由通路での自転車通行を可能とすることが、最も費用対効果の面ではよいものと考えておりまして、中央自由通路での通行可能とすることで、今JRに強く要望しているところでございます。
特に、これ全国の事例を調べさせていただきました。8件自由通路が自転車通行が可能となるところがございまして、ただその自由通路が可能になった背景というのは、いろいろ駅の両側にある踏切があかずの踏切で、その改修に伴って自由通路をつくって、その際に代がえ措置、いわゆる保障として自転車を通行可能とした背景がございますけれども、小山市としてはその実態として、そういうふうな自由通路に自転車が通行することが認められているという実態を見てみましたら、ルールがちゃんと、自由通路に乗った段階では、自転車に乗らないで歩行して歩くということをやっておりまして、ルールを守っていただきまして、ルールを守れば危険性は、JRが言うように危険性はないということが確認できたものですから、その辺のことを強く訴えて、今後もJRの情報をかち取っていきたいなということで今取り組んでいるところでございます。
JRが「官僚的」にNoといった件について、市民の要望だからと全国の事例を調べて懸命に食い下がっていく小山市職員の奮闘に感心する。議会で文句をいうだけの議員さんは気に食わないが、必要悪なのかもな、とは思った。とはいえ、JR側を慎重にさせるのは、結局のところ「ルールを誰が守らせるのか」という問題があるからだろう。事故が起きればJRの責任問題になりそうだ。
この他にも「平成22年 建設水道常任委員会 06月16日−01号」はなかなか読みどころが多かった。
例えば、そもそも自由通路事業とは「JRの私有地によって市街地が分断されていて不便だから、JRにお願いして市の施設として自由通路を建設する」ものだから、結果としてJRに多少の利益があるとしても、行政側が建設費を負担するのが当然なのだ、といった基本的な構図の説明とか。市議は建設費のJR負担分をもっと増やせないかと食い下がるのだが、JRとしては自由通路など建設費が全く利益に見合わないもの。工事のため長期にわたり通常業務に支障が生じるのだから、むしろ補償金をほしいくらいだろう。だが市当局はJRをどうにか説き伏せて工事の承諾を取り付け、異例の工事費一部負担まで勝ち取った。
ほら見ろ、やればできるじゃないか、わがままなJRの言い分をハイハイと聞いてちゃダメなんだ、もっと強く出ろ、と市議たちは議会で説教をしている。それはじつは、検討委員会などで市民代表らが好き勝手に言ってきたことと真っ直ぐリンクしている。無理を通す使命を果たして不可能を可能にした市職員や、地元対策として経済合理性を超えた決断をしたJRを誰も褒めず、上から目線の「使えない役人ども」への注文ばかり並ぶ議事録にはウンザリするのだが、これが市民の姿なのだと思う。
「現状は国債バブルである」という説は以前からある。お決まりの反論は「そう思うなら国債を空売りでもしたら儲かるんじゃないの?」なのだが、「いつバブルが崩壊するか」は明らかでない。ひょっとすると満期を迎えるまでずっと国債価格は「高止まり」するかもしれない。
これは世界金融危機を招いたサブプライムローン問題も同じで、「アメリカの住宅バブルは崩壊する」という声は、実際に不動産価格が下落する前からたびたびあった。が、「いつ」の予測が立たなかったので、バブル崩壊を儲けにつながる形で予見できた人も組織も僅かだった。
日本の不動産価格は「本当にバブルが崩壊した」感がある。元の上昇曲線への復帰どころか、元の地価にすら戻ってはいない。
株価については、日経平均の推移を見てもあまり意味がないと思うので、東証一部の時価総額に注目すると、1989年12月末がピークで、同年11月末が2位、2007年6月も惜しいところまで迫って3位。これも1950年代から1980年代末までの上昇曲線への復帰は考えにくい感じ。80年代後半の伸びは特別だったとしても、以降、山の方は次第に高くなるも、谷の底は相変わらず250兆円程度。底上げの方が進まない。
価格が急落するたび「バブルが崩壊した!」という人が出てくる。モノの価値が急変しているとは考えにくいから、価格と「真の価値」は一致していないと考えるのが妥当だ。しかし、価値と価格のズレは、値段が高くなる方向だけでなく、値段が下がる方向にも存在すると考えるのが自然ではないだろうか。
とはいえ、繰り返し250兆円程度まで落ちる東証一部の時価総額などを見ると、「時価総額が300兆円を超えたらバブル!」といっても、世間的には一定の説得力があるような気がする。私の周囲だけかもしれないが、どうも多くの人は「真の価値」を「全員が認めざるを得ないもの」と定義しているらしい。なるほどね、その定義なら、株価でも地価でも底値こそが真の価値ということになり、それ以上の価格は「不当に高い」んだな。
バブルの話題からは離れるが、公共料金や電車賃などについての議論が噛み合わない理由の一端がわかった気がする。都会の通勤ラッシュを解消する方法:補足(2009-11-21)では「超過利潤があればこそ新規参入が起き、競争を通じて積極的な設備投資も行われるのだ」と主張しているが、この意見に同調してくれた知人は少ない。「超過利潤=不当な利益」だから許せない、電車賃を上げるな、で終了。
私の周囲の人が偏っているわけではなかろう。行政は市場による解決を目指さず、企業に社会貢献のための経営努力を強いて僅かなお金を搾り出し、少しずつ輸送力を増強している。通勤ラッシュの緩和は着実に進んでいるが、通勤ラッシュ解消の目処は全く立っていない。私には不満のある方策だが、混雑を解消せよ、ただし運賃は上げるな、という人々の声に誠実に応えた結果だろう。
この連載は図がきれいなのがいい。連載が進んでいるので、ひとつだけ勧めるなら「国債の安全神話の大転換(2010-11-16)」がよいと思います。
それぞれに力作。ざっと眺めるのに便利。私も最初はこういう情報を参考にして選びます。
が、最終的に自分が特定のサービスやツールを選択する理由って、たいていこうした一覧表には書かれていない部分なんです。逆に、ここが気に食わない、というポイントもそうだったり。
そのあたりの機微をうまく言語化して、比較表を作れたらなあ……と思っているのだけれど、これがうまくいかない。そうして苦心惨憺していると、家電や歴史の長いソフトウェアなどが、わかりやすい機能の追加に大きな力を注ぎ、既に機能一覧に入っている項目の改良がなかなか進まない理由はよく理解できます。でもやっぱり、客を捕まえておくには、そこが大切なんじゃないかなあ、とか。
とはいえ、自分が気に入っている箇所というのは、ためしにリストアップしてみると、一般性のないことばかり。私個人の感性とガッチリ結びついていて、他人に薦める言葉にならない。
本当はHTMLエディタを比較する記事にリンクして、もうちょっと具体的な話をしようと思っていたのだけれど、いま探しても昔お世話になったページが見つからない。無念。
じゃあ、ということで「書籍のスキャンサービスはすごく増えて、一覧表での比較では優位性を失っているBOOKSCANだけど、私が他人に薦めるのはBOOKSCANのプレミアム会員サービスですね。サービスの完成度が同業他社とかなり違いますもん」という話をしようかと。でも、これが書けない。何でだろ。よくわからない。でも書けないものは仕方ない。
もういいや、記事タイトルに「memo:」ってつけとけば、別に何でもいいだろ。で、こんな無意味な記事が公開されることに。どうも今月の記事は「memo:」が多いな……。息切れしてる感じ。
このところ、政治や経済のニュース的な話題には触れていないな……。新聞は毎日読んでいるけれど、気力が抜けていく感じ。
この記事に有益な情報はありません。
KDDIが発表した電子書籍端末が、Twitter方面で電子書籍方面の有識者たちから「禁則処理ができていない」「ゴシック体で本を読むのは嫌だ」といった批判を受けています。
そんなの大した問題じゃないだろうに……というのが私の素朴な感想。携帯電話でメールを読んだりする際には気にしないことを、電子書籍だからといってそんなに気にする必要があるのか。ケータイ小説というのも、意外と大作がたくさんある。ゴシック体だからダメだとか、禁則処理がないと嫌だとか、そのあたりは慣れれば気にならなくなるのでは? とも思う。
最近は本文が丸ゴシックみたいなフォントの製品マニュアルや書籍もありますよね。気になる人がいるのは事実なのだろうけど、それを致命的な欠点のようにいうのは妥当でないような。あくまで「私にとって」の話をしているなら「そうですか」なのだけれど。主語の大きな批判が少なからずあるのは気になります。
「biblio」の名称は、2009年に電子書籍対応携帯電話として登場した東芝製モデルで使われた。「biblio Leaf」は、後継モデルに位置付けられるが、メーカーはKDDI、本体開発は台湾のFoxconnとの共同開発となっている。Foxconnは、デジタル機器の生産を請け負ういわゆるEMS企業。Amazon.comの電子書籍端末「Kindle」や、家庭用ゲーム機などの生産などを受託している。
SP02の開発会社って、Kindleと一緒なんだ……。Kindleは電子ペーパーの画面を使った電子書籍端末として世界一売れている商品。日本国内では未発売ですが、電子書籍方面の有識者らがよくほめているもの。私は都電荒川線の車内でKindleの実物を1回だけ見かけました。使用者は旅行者風の白人男性でした。意外と画面が小さいな、薄くて、落としたら壊れそうな感じだな、といった印象を受けたことを覚えています。
KindleはPDFなどの他にテキストファイルにも対応しているそう。ならば、テキストを自力で整形表示する際、禁則処理への対応が課題になりますよね。
それでちょっとネット記事を検索してみたのですが、結局、禁則処理がどうなっているのか、私には明確な答えが見つかりませんでした。フォントの自由な選択が可能なのかどうかもわからない。行頭にコンマやピリオドがきている画面写真は見当たらなかったので、英文の禁則処理はできているということなのかな。
私は「Kindleだってこんななのに、他のいろいろな良いところに注目して褒めているのだから、そんなに批判するのはおかしいんじゃない?」とか書こうと思っていたのだけれど、材料が揃いませんでした。Kindleのダメなところを列挙している記事をどこかで見かけた気がするのだけれど、見つからないのだから記憶の捏造なんだろう。割とこういう、文章の組み立てを考えてから、ふと気になって調べてみたところで頓挫すること、あります。Twitterだと呟いてから調べる手順にしてるので、後で間違いを消すことがちょくちょくあります。
話を戻してまとめると、電子ペーパーを搭載した端末で、日本語対応で、Kindleみたいに通信機能があって、というだけでも、とりあえず歓迎していいんじゃないかと。そりゃ禁則処理はないよりあった方がいいだろうし、明朝体も選択できたら嬉しい。でも、批判が圧倒的という反応には違和感があります。
個人的に気になるのは、SP02の発売元がKDDIだということ。ひょっとすると、KDDIと通信回線の契約をしないと使えないのかな。もしそうだとすると、私には関係ない商品のような気がするな……。ちなみにKindleは携帯電話会社との契約なしで形態電話網を通じて電子書籍を購入・ダウンロードできるのが便利なのだそう。
100万人突破は10月15日か……。私は9月26日を予想していた。100万人に近づいたら勢いがついて加速するのかと思ったけど、そんなことはなかったみたい。
2007年6月18日にプレミアム会員サービスが始まって、3年4ヶ月か。私は開始後1ヵ月で入会しているので、いつの間にか支払った会費が2万円を超えていたんだな。私が漫画レンタルのコミかる!で使った金額はその2倍以上、DVDレンタル(ぽすれんなど)には6倍以上、書籍・雑誌代には約20倍を使っているので、意外と慎ましい金額に思える。
別の角度から考えてみると、3年間の総収入の0.15%か……。まあ、回線代とかPC代とか、その辺を全部抜きにしての話なので、参考値ではあるけれど。
考えてもみて下さい。死刑制度を廃止するということは、オウムの松本智津夫のように、自分を信じて集ってきた者たちを使って、自らの野望を満たすために多くの人々を殺傷し、その後も弟子のせいにしたりして全く反省をする気もない人を、国民の税金で何十年もお世話して差し上げるということなんですよ
経済的な問題は、刑務所が利益を出せる組織になれば解消されること。受刑者にも給料は支払われるが、その水準はとても低い。刑務官と受刑者の人数比って、どんな感じなんだろう。刑務所の設備費って、けっこう高かったりするのかな。そのあたりの条件次第では……と思うのだが、どうなんだろう。
国内でも刑務所業務の一部民間委託がはじまっている。リスク管理の問題で、凶悪犯を収容している刑務所では、まだダメらしい。将来も望み薄かな。でも、刑務所をバラバラに考えるからいけないので、いくつかの刑務所が出した利益で凶悪犯を収容する刑務所の赤字を補うような仕組みができたなら、総合的に見て、経済的な問題は解決されたといっていい状態になるのではないだろうか。
まあでも、死刑を廃止は終身刑の導入とセットになると仮定して、終身刑の人の労働意欲を、どうやって喚起すればいいのか。んー、これも、刑務所が全体としてうまく回ればそれでいい話、かも。
海外から帰国した際、荷物の中に税関の検査が必要なものがあるかないか、100%確実に判断できる人はいないだろう。そこで「私には判断できないので、そちらで検査して判断してください」と白紙の携帯品・別送品申告書を提出した……というのが最初の話。税関の職員は、登さんにきちんと申告することを求め、押し問答になったという。
二番目は、自動車保険の解約について。ある保険では、電話で解約を申し出ると保険料の支払いは即座に止まるが、解約書を返送せずに放っておくと契約は継続するのだという。もし契約期間中に事故が起きたら保険料を後払いし、起きなければ解約書を返送する、という風にすれば、実質的に「事故が起きてから保険に入る」ことができる、と登さんは指摘する。
私も、こういうことを考えるのは好き。でも登さんを支持しない。
手荷物検査の件も、自動車保険の解約手続きの件も、登さんは「可能である」ことに正当性の根拠を置いている。もしそれが悪いことならばルールによって制限するべきだ、と。私はこの二分法に与しない。
携帯品・別送品の申告は基本的に旅行者の義務だろうが、全員がその義務を果たせるとは限らない。様々な事情が考えられる。旅行先でトランクを盗まれ、その後、無事に見つかったけれども鍵がなくなって開けられなくなってしまった、とか。「中に何かヤバいものが入っていたらどうしよう……」「あー、それなら仕方ないですね」と大勢が納得するのではないか。稀なケースにも対応できるよう、制度に遊びが設けられていることには意味がある。登さんのような事例だって、例えば「病気で意識が朦朧とし、自分で判断できる状態ではない」といった状況なら、職員の対応も違っていたろう。
保険契約の件も同じ。電話だけで解約できたらイタズラや嫌がらせの排除が難しい。だが、時間のかかる書類のやり取りが終るまで契約が継続し、保険料を払い続けるのは、顧客としては面白くない。第三者に勝手に契約を排除されるリスクをブロックしつつ、電話解約の利便性をも実現するのが、某保険会社の選択だったわけだ。いい話じゃないか。
登さんが指摘したのは、悪意ある顧客のため保険会社が損をするリスクである。だが制度を「悪用」する人がごく僅かなら、顧客サービスを充実して、より多くの顧客を獲得する利益の方が大きいだろう。ちなみに登さんの指摘を受けた保険会社は、電話だけで解約できる仕組みが持つ顧客側のリスクを甘受して、登さんの指摘した保険料後払いを可能とする保険側のリスクを重視することにしたそう。
純粋の民間企業は、常にサービス品質による競争に晒されているので、わざわざ、サービスが悪いとか、やり方が間違っているとか言って、違法でもないことを、重箱の隅をつつくようにしてクレームしなくても、自動的に淘汰されて、他のよりサービスが良いまたは業務がしっかりしている同業他社に負けてしまうので、違法なことを見つけた場合以外は、放っておけば良い。
保険は許認可事業ではあるが、ことに自動車保険なんてのは、激しい競争が行われている分野である。性急な回答を求めて短慮を引き出すことなく、放っておくか、せいぜい「私はこう思う」と伝えるに止めておけばよかったろう。登さんは、保険側にリスクの存在を突きつけ、サービスの質を低下させたが、有意義な活動とは思えない。企業がリスクをとってサービスの水準を維持するのは自由競争の範疇ではないか。
「電話解約後も保険料の引き落としは続き、書類で解約の確認が取れ次第、電話連絡の日付に遡って保険料を返金する」という仕組みを思いついた。でも振込手数料が問題だな。稀な例に対応するために、全ての取引について余計なコストが発生させるのでは、保険料競争に勝てないだろう。
サラ金規制の是非は、思想的には功利主義とリベラルの対立だ。リベラルの人が、その信念からサラ金規制を訴えるのはいい。私も説得の言葉は持たない。多数決で負けたことも甘受する。だが、目が曇って事実を見ることのできない人もいるのは残念だ。資料を読めば大多数の利用者の姿が見えてくるはずなのだが、データより直感が重要らしい。
素朴に考えてほしいわけだが、多重債務者なんか相手にするのはババ抜きであって、安定した商売たりえない。そんな人は審査で落としたい。人権侵害に相当する取立ては禁止されているのだ。ちゃんと定職に就いているが、収入と支出の片方または両方に波があって、一時的に赤字になることがある、という層だけを相手にしようと苦心するのが当たり前じゃないか。
簡単審査の利便性だけがサラ金の売りなので、長期的にも収入より支出の方が多くなる客の排除に限界はあった。だが結果としてサラ金の顧客に「詰んでいる人」が相当数いることを、サラ金業者が多重債務者から搾取している、と読み替えるのは間違っている。危険客がどんどん破産するから、サラ金業者はその金利から素朴に連想される水準よりずっと少ない利益しか出せない。
イギリスの事例。羨ましい。
リンク先では表題の主張に賛否両論が出ている。私は「おかしくない」派。需要と供給の関係によって賃金を決めるのでなければ、経済はうまく回らない。市場の効用を減じてまで東大の非常勤講師の給料を増やすだけの理由は、私には思い当たらない。
東大の非常勤講師という肩書きには外部効用があるので、ボランティアでもやりたい人は多いのではないかな。でも、本当にボランティアにすると、講師をしてほしい人の何割かに断られてしまう。そんなわけで、折り合いがついているのが現在の価格なのだと思う。まあ、非常勤講師の労働市場がちゃんと機能しているとは考えにくいが、「そんな薄給では嫌だ」というトラブルが、給与水準を上げるほどには起きていないのだろう。
ちなみに。この話題に関して「世の中」はおかしくないと考えるが、「現在の東大非常勤講師の給与は安すぎる!」と声を上げる人が出てくるのは正しい。逆に「私ならもっと安価に請け負いますよ」という人もいていい。そういったせめぎあいがなければ、市場は機能しない。価格が高すぎても安すぎてもフィードバックが必要。何の情報もなしに誰かが直感で決めてしまうのがいちばん問題。
同じような話だと思う。
労働契約なら最低賃金の問題があるけれども、商品の取引なら、需給で価格が決まるのが正しい。安値で請け負う人を攻撃する人もたくさん。経済史を繰り返しているな。いつも既得権益を守りたい側は必死だ。自由市場の利益は直接には消費者の側にあるのだが、回り回ってみんなの(少なくとも経済的な)利益になる。
……のだが、説明して納得してもらうのはなかなか難しい。経済学の教科書を通して読んでいる人ですら、経済とは別の観点からではなく、まさに経済問題として一種の座や談合やカルテルの変形版を堂々と支持してくれたりする。250ページ読んで説得されなかった人を、私が説得できるわけない。
従業員が、家庭を持って子供を育て、子供が極端に優秀でなくてもそこそこの大学に行けるだけの賃金を支払わない会社が、採用の条件に「大卒」を課すのは、家庭からの搾取だと思う。再生産はさせませんが果実だけいただきます、ってことだから。
大学で学んだ内容をストレートに必要とする仕事なら、同意できる。ポスドクとか、研修医とか。常勤の仕事として、あまりにも給与が低すぎるのではないか。でも一般論としては賛成しない。
企業が大卒に期待するのは地頭の良さと勉強熱心な性格。企業にとって、大学の学費は無駄なのだ。その無駄なものに払うお金が足りないから給料を増やせと文句をいわれても、困る。しかし完全に信頼できる能力指標がない以上、「同じ能力なら高学歴が有利」の罠は機能し続ける。企業は学歴インフレの被害者だ。
「同じ能力なら高学歴が有利」の悪循環、大卒が多すぎる、もうこれに尽きると思う。
かつてアルバイト先で体験したことだが、中学レベルのテストでも、好成績を収めるのは学歴のある人が大半だった。人手不足になって経歴不問で募集をかけたら様々な人が応募してきたのだが、最低限のペーパー試験を通るのは大学生と大学卒が9割超だった。結局、多くの応募者に会ってテストと面談をするコストが割に合わないと判断され、学歴条件が復活した。
昔、某大学図書館の図書整理のアルバイトは、近隣の大学の掲示板だけに募集広告が出ていた。なんで大学生限定なのか、訊ねてみると、「まじめな高校生なら勉強してるでしょ。バイトしてるような高校生は、急にサボるからね」。短期バイトなので面接はできない。安全を見込めば学生限定になる、という。偏見が実体験によって補強されたケースだと感じたが、私は反論しなかった。
病院のカルテ整理のアルバイトも、学生限定だった。病棟の建替えにともない、数十年前のカルテを整理して倉庫にしまう準備だとかで、50人くらいが集められた。「学生ばっかりなんですね」「え? だって、カルテだし」「でもこの仕事、アルファベットと数字の順番さえ間違わなければ誰だって……」「いや、大学生の方が安心でしょ」この仕事は2日限りの短期。面談したら割に合わない。電話申込だけでOKを出すなら、大学生に限定しないと、という。
大いに偏見含みだとしても、採用側にとって「大学生や大卒なら安心できる」のは現実だった。個人を見ろ、というのは正論ではあるが、進学率が高まるにしたがい、進学しない人の平均レベルが落ちていくのは単純な事実である。大卒で足切りする合理性は高まる一方だ。そうして、経済的事由などで能力と無関係に進学できない人だけが損をする。
学歴インフレは壮大な無駄だ。
私が入社した頃、勤務先には高卒部長がいた。大学なんてたった4年間のことに過ぎない。入社後にきちんと勉強を積み重ねた人は、技術者として非常に優秀で、圧倒された。ただの学卒などまるで相手にならぬ。ところが、大学進学率が上がるにつれ、高卒で入社する人の中に大卒上位者と伍する者が現れなくなっていった。昔は高卒取締役もいたそうだが、今は部長も大卒と院卒だけになった。
別に、やっている仕事は同じだ。私は研究や開発の職場を転々としてきたが、定年間近や延長雇用の方には高卒の方が多かった。でもそんなこと、全然わからない。材料力学も制御工学も電磁気学も、私よりずっと理解が深い。電験三種などの資格も持っている。大学なんて、存在意義がない。つくづくそう思った。だが、いま高卒に門戸を開いても、先輩方のような優秀な人を採用することは、不可能に近い。
企業は大卒がほしいのではない。そこそこ頭がよくて、まじめにお勉強をする能力のある人がほしいだけなんだ。
おかしいのは、優秀な人がみんな進学してしまう世の中だ。しかし「同じ能力なら高学歴が有利」の悪循環がある限り、進学の合理性は揺るがない。今後も大卒の割合は増え続けていくだろう。
絶対に実現されないだろうが……景気が好転し、若年層の雇用環境が改善されたら、大学をバッサリ減らしてほしい。好景気の人手不足の中で進学率が下がれば、「大卒」足切りは終わる。多くの会社にとって、それは過剰に厳しい条件となるからだ。
そして、進学率が大幅に下がれば、1人あたりの予算は何倍にもできる。そうなれば、大学無料化だって可能なんだ。私程度の人には、大学なんて行かず、さっさと就職して稼いで、税金を納めてもらう方がいい。
優秀な人は親の収入に関係なく大学へ行けるが、一般人は中卒や高卒で就職する。そういう社会の方が合理的だと思う。
仕事と関係なく教養を学ぶ場だって必要でしょ……って、それ、放送大学じゃダメなの?
学生だった頃から思っていたのは、こんなだらけた学生のために税金を使われてしまう納税者はたまらないよな、ということ。とても優秀なら、勉学の意欲に乏しくても、支援する価値はあるかもしれない。だが実際は、私程度のアタマの学生が優をたくさん取って院試の学力検査を免除されてしまうような大学で、大勢が留年しているのだった。まして底辺大学の学費まで無料にするなんて、納税者の過半は許せないだろう。
高校無料化は無駄遣いだと批判された。そりゃそうだと思うよ。勉強する気のない高校生がたくさんいる現状で、一律に学費の無料化なんて。それなのに、いま高校の進学率が高くなりすぎて、中卒枠採用はリスクが高くなり過ぎ、就職枠が狭い。だから、みな高卒資格を「必要」としている。馬鹿馬鹿しい話だ。
「子どもの選択肢が親の収入に制約される不平等」の解消には大賛成。高校無償化、大学無償化、大いに結構。ただし「枠を絞って進学率を下げる(勉強熱心で有能な人だけを進学させる)」「勉強の不得手な一般人には通信制高校や放送大学を利用してもらう」といった施策とセットで進めてほしい。
私の父は大卒枠で入社したが、年収は400万円未満だった(平均)。それでも、子ども2人を大学へ行かせた。とくに弟は下宿して大学院まで進学している。なお、ローン型の奨学金は利用した。しかし、とくに苦労はしていない。電気・ガス・水道の節約に汲々とするような生活は、記憶にない。
母は家計簿をつけてみて、小さな出費を削るより、大きな出費を削る方がずっと効果的であることを発見したという。
結局のところ、どこかで帳尻を合わせなければならない。だが、「外食しないのが当たり前」「会社の保養所がある場所の他には旅行しないのが当たり前」といった感覚を持つことができれば、年収400万円未満でも惨めな思いをすることなく、子ども2人を大学までやることができる。ようは、気の持ちようだ。
それさえできれば、あとは経験を整理して明確な方針を立て、淡々と日々の生活を組み立てていくことで、自ずと幸せに毎日を過ごせるわけだ。
……が、自分の気持ちをコントロールできない人が世の中には多い。「当たり前」の基準を家庭の外に求めて、自分は不幸だと感じてしまう。だから年収400万円未満では、無理せず子ども2人を大学へやれる水準とは考えない人が少なくないのではないかと思う。
小学生の頃、成田では成田の天気予報が放送されないのに、同じ千葉県内の銚子や勝浦に行ったら成田市の天気予報が出ていてポカーンとした。どうしてそうなっているのか、ずっと疑問に思いながらも放置してきたのだけれども、ようやく20年来の謎が解けたような気がした。
房総丘陵程度の山でも、テレビ電波を邪魔するには十分ということなのだろう。勝浦のあたりは海岸線のそばまで山が張り出しているので、せっかく中継局を立てても、ちょっと山に入っただけで電波が届かなくなるようだ。今では、テレビって携帯電話より電波が入るエリアが狭いんだな。地上波放送はたいへんだ。
ところで、よく考えてみると、まだ謎は残っている。銚子でも勝浦でも民放の天気予報は成田にいたときと同じだった。NHKだけが違っていたのだ。つまり、NHKだけは、東京タワーから電波が届かない地域に千葉県専用の放送をしていたことになる。
放送エリアの説明がない……。NHK千葉放送局は千葉市内にあるのだが、当の千葉市内では独自放送をやっていないように見える。DPAによれば、千葉局は千葉テレビしか使っておらず、千葉市内で受信できるNHK放送は関東広域圏のものだけとなっている。千葉県の人口は東京湾沿いの各市に集中しており、もし千葉放送局独自の天気予報などが東京広域圏の外側でしか放送されていないとすると、千葉県民の9割には無関係ということになる。もしそうならば、千葉放送局は支局に格下げする方が合理的なようにも思える。
以上の話は20年前の記憶に依拠したもの。銚子や勝浦で千葉放送局独自の天気予報(他にも独自番組があったのかどうかは記憶にない)をやっていたのは昔の話で、今では関東広域圏の放送を中継しているだけかもしれない。こういうのって、どこで調べればわかるんだろう。
もちろん、NHKに電話すれば、簡単かつ確実だ。が、20年間、この疑問を放置して何の不都合もなかったわけで、人の手を(強制的に)煩わせるほどのことではないと思っている。
ランキングはさておき、この一節にビビッときた。
★前田有一の超映画批評★を知り合いに紹介したところランキングが欲しいけどないの?って言われたのでないなら作ればOKってことでスクレイピングしてランキングリストを作ってみた。
スクレイピングと言えばrubyでHpricotとMechanizeだが、あえてのwshで作った。wshも慣れたから10分もかからずに出来た。プログラミングって素晴らしい。
たった10分でできるなら、時給3000円としても500円でいいわけか。私がこの手のプログラムを「ほしい」と思うのは年に数回に過ぎないので、予算を6万円ほど用意しておけば、自分で勉強する必要はなさそう。……とすると、自分でプログラミングの勉強をする気にはなれないな。
これは私が英語を勉強しない理由と同じだ。勉強の苦労と果実が対応しない。英語がわかると世界が広がるよ、という人は珍しくないが、その人と話していて「すごい」と感じることは滅多にない。英語ができてもダメな人はダメだ。「世界が広がった」結果があなたの現状だというなら、英語の勉強なんか割に合わない。まあ、当人が満足しているなら、それはいい。だが、所詮は主観的な幸福の問題であるならば、私にとって魅力がないという結論は動かない。
とはいうものの、問題は、実際に500円とか1000円で簡単なプログラムを作ってもらったり、ちょっとした翻訳を頼む仕組みがないことだ。「できる人」に10分間くらい時間をもらえばすむことのために、数百時間も費やして自分で勉強して解決しなければならぬ。そんなのは割に合わないので、私は「諦める」ことを選ぶのだが、どうにかならないものかと思う。
英語は大学入試に必要だから勉強した。いま大卒資格のおかげで手取り月給20万円の仕事をできているので、ちゃんと役に立ったんだろう。
ちなみに仕事で英文を読む「必要」がある場面は全くない。海外の最新の研究成果なども常日頃からチェックして……という仕事の仕方をしなくても、クビにならない程度に働くには支障ない。『日経エレクトロニクス』でさえ全ての記事に目を通している人は多くなく、JISに目を通し、国内の特許検索をマメにやり、さらに国内の学会誌にちょこっと手を広げたりなんかすれば、下から3分の1には絶対に入らない。その水準でもクビになるとすれば、それは会社自体が倒れるときであって、英語ができたらどうなるという話でもあるまいよ。
趣味でブログやウェブサイトの製作ツールなどを使っていて、「痒いところに手が届かない」と感じることは時々あるが、とくに勉強せずとも、たいてい解決できてしまう。MT ならプラグインを検索すればいいし、もっと簡単な CGI なら、一部を書き換えればいい。
『ハーバード白熱教室ノート』などで利用している FreeWEB は、自分の都合に合わせてあれこれ改造したもの。根幹の部分はサッパリだが、枝葉を調整したら、テンプレートに使える変数を2つ増やすことができた。Trackbackもどきも掲示板を改造したもの。これも私は根幹の仕組みを全く理解していない。
改造というのは簡単で、素人でも結構できる。勝手に改造してサポートを求めるのは筋違いだが、自己責任でやっている分にはいいだろう(利用規約で改造が許されていることが前提)。
使ってみたらブログツールの便利さはすぐに理解できて、現在に至るまで手放せずにいる私ではあるが、昔から CMS の存在は知っていた。が、「便利そうだからプログラミングを勉強して自分で作ってみよう」とは思わなかった。また、今日突然に他人の作ったブログツールの使用を禁ずる法律ができたとしても、やはりプログラミングの勉強はしないだろうな。
勉強嫌いにとって、勉強することの敷居は、相当に高い。ちょっとやそっとのことでは勉強なんかしないぞ、という感覚がある。
小学校四年生の第二子、なんか
算数の位どりについてかなり混乱しているらしいことが発覚。
しょーがんないのでニワカ先生やったところ
・新しい方法を学ぶ必要性が認識できない
らしく、古いやり方で出来るものについて、より効率のよい新しい方法を学ぼうとしてくれない。
しまいには
「勉強なんてできなくてもいい」
とか叫び出す始末。
だからドラクエに譬えて説教してみた
のだという。そのお説教はText Analyzerによると1625字なので、せいぜい5分間程度のもの。大した長さではない。「選択肢は多い方がよい」という話も、一般論としては納得できる。
でも、私は感心しない。ネコタさんは特別な人であり、お説教に説得力があるのかもしれない。だがふつうの人は、こんな説教をしても憎まれるだけだろう。
新しいやり方を学ぶのは、ふつう、面倒なこと。そして多くの人にとって、面倒なことをするのはつらい。大人でも子どもでも、それは変わらない。
だから実際、「新しいやり方を学ぶかどうかは自由です」と選択を任されている領域では、たいていの場合、従来のやり方を維持して、勉強をしない。多少の問題が起きても、運用の努力や、従来の方法の延長線上にある改良策でしのごうとする。「もう無理じゃないか」「別の道を探るべきだ」と忠告されても、「お説ごもっとも」といいつつ、なかなかそのようにはしない。とうとう破滅してさえ、「原点に返る」とかいって、やり方を変えないまま再出発することも珍しくない。
お説教を無意味とはいわないが、それで説得できるなら、みんなもっと幸せになっているだろう。小学生は自分の興味と無関係に勉強を押し付けられている。大人は自分の興味関心や利害に関係する領域でだけ勉強すればいいのだから、大人の方がずっと条件は楽なのだ。なのに勉強できずにいる。
多くの子どもは、別に算数そのものに興味は持っていない。その証拠に、学校を卒業しても算数に関心を持って勉強を続けている人なんか、滅多にいない。それでも、小学生は毎日学校へ通って授業を受け、家に帰っても宿題などに取り組み、さらに塾へも通ったりする。少なからぬ大人より、よほどまじめだ。
子どもの向学心を支えているのは何だろう? 生活の不便から算数の必要性を理解しているのか? それは違うだろうな。分数の割り算どころか少数の割り算さえできなかったり、距離と速さと時間の関係も理解できていなかったりする大人は世の中にたくさんいるが、その大半は算数の勉強に背を向けている。
小学生が勉強するのは、「それが仕事(=生活の糧を得る代償として家族や社会が求めるもの)だから」「勉強ができない惨めさから脱出したい」といった動機が大きいように思う。「勉強しない」ことが許されない以上、勉強するしかない。そうした状況で自尊心を保つには、勉強が苦手なままではつらい。だから、勉強ができるようになりたい。
そんな後ろ向きの動機ではいけない、と思って大人たちは言葉を尽くす。だが大人たちは自らその言葉を裏切って生きている。小学生の頃、私は許せなかった。何が「知る喜び」だ。あなた方は何年生きてきた? もし本当に「知る喜び」がそんなに素晴らしいものなら、小学校の教科書に書かれていることくらい、全部知っていてもいいだろうと思った。なのに知らない。花の名前も、地名も、ことわざもだ。こんなのが学校の教師をやっているのか。舌先三寸で世渡りする詐欺師ども! 憤り、そして悲しくなった。
学生時代、アルバイト先の補習塾には、勉強しないことで説教をされ続けてきた子どもたちが集まっていた。彼らの、大人たちへの憎悪に、私は胸を打たれた。プレゼントを相手が喜ばないのを見て、「もっと前向きに考えなきゃ。これは君の役に立つものなんだよ」とか何とか。いい加減にしろ、と思わないか。
そんなにいいものなら、あんたが使えばいい。辞書とか、百科事典とか。なのに使わない。自分でも信じていないことを、なぜ真顔で他人に語ることができるのだ。相手が子どもだというだけで、どうして。
……本題に戻す。お説教以外に、どんな指導法があるか。
使い慣れたやり方を離れるのは、きわめてコストが高い。新しいやり方に多少の利益があっても、それでは努力に見合わない。だからお馴染みの方法に固執する。そういうもの。だから、次のいずれかを選択する。
時間があれば前者、ないなら後者の方法が定石。なお後者の方法は学習者に大きなストレスがかかるため、工夫すべき。家庭学習なら個別指導になるので、定番の方法は、指導者と学習者が一緒に手を動かすこと。
他に「学校へ行かず、勉強もしない」という選択肢もある。子どもたちは夢を見続け、繰り返しこの選択肢を掲げる。だが、よほどの事情がない限り、認められまい。ならば、(それなりの確率で)憎まれることを甘受するか、ともに苦難の道を歩むしかないのではないか。
ついでに書くが、「生きるために必要な力」云々が建前でないのなら、勉強ができないまま子どもを卒業させてしまう無責任は、いったい何なのだ。
あと、虚飾を剥いだ後に「学ぶこと、それ自体の面白さ」が残ることは否定しない。が、たいていの場合、それは重い腰を上げさせる力を持ってはいまい。「腹を割って話す」の思い出(2007-03-10)や教える理由(2007-04-04)で書いたのは、否応なく勉強しなければならない状況下で、最後の希望となりうるのは……という文脈での話。絶望せず塾へ通い続けた彼らが、いまも国語や英語の勉強を続けているとは思ってない。
このところ検索経由で「負け組」と「勝ち組」(2005-02-12)へのアクセスが増えている。いったい何なのかと思っていたが、新聞に『汚れた心』という映画の話題が載り、「これか」と思った。
『汚れた心』は2011年公開予定のブラジル映画。先の大戦後、ブラジルの日系人社会において、日本の勝利を信じた「勝ち組」が、敗北を予想した「負け組」を襲撃した事件を描く。原作はブラジル人ジャーナリストの著したノンフィクション。ネットで調べてみると、夏頃に第一報があったらしい。日本の著名な俳優が主演することが話題になっていた。これはアクセス動向と符合する。
無料公開されている電子書籍(PDF)。160もの作品がまとめられている。ブラジル移民は1908年に始まり、2008年に100周年を迎えた。そこで「ブラジル移民100周年記念協会」の主催行事として製作・公開されたのが『ブラジル移民文庫』なのだそう。第一版公開後も編纂作業は継続され、2010年に改訂増補版にアップデートされた。
この中に「勝ち組テロ事件」を中心テーマとした本が2冊ある。分量はかなり多く、読むのにはかなりの時間がかかる。内容は興味深いが、読みやすくはないと思う。また、記述や証言の詳細さは、必ずしも筆者の見立ての正しさまで保証するものではないことは、注意深く読んでいけば理解されることと思う。
それでもなお、この件に興味があるなら、目を通してみる価値は大きいと思う。
増補版の前書きには、『「ブラジル移民」=「苦労話」からの脱却』と題して、こんな文章が添えられています。
ブラジル移民というと、苦労した人たち、あるいは、日本が貧しかった時代の産物、というイメージがあります。これは一面では真実ですが、すべてではありません。
日本においてそういうイメージが定着したのは、おそらく、報道というものの性質にもよると思われます。安定して生活している人たちより、苦闘している人たちのほうがニュースになりやすい。そういう報道が繰り返されると、それなりのイメージが定着します。
ブラジルにおいても、あえて苦労話をとりあげた時期があった。移民50年祭、つまり第二次大戦後、祖国の勝ち負けで二つに割れてしまった日本人社会が、ようやく融和に向かいだした時期ですが、第一回移民(笠戸丸移民)の苦労話を大きくとりあげ「我々の先輩たちはこれだけの苦労をして、今日の日本人社会の基礎をつくった。われわれも一致団結してがんばろう」という、いわば民族的なサーガがつくられたのです。
これは50年祭には意味があったのですが、以後の著述にも、このパターンが踏襲されたきらいがあります。また、過剰な人口のはけ口としての移民が国策として送り出されたことも事実ですが、実際に事に当たった官民の指導者たちは、けっして余剰人口の処理などではなく、あくまで「日本人の海外発展」という大きな目標で動いていたことも事実です。
いずれにしましても、本「移民文庫」の目次を見ていただいただけでも、決して単なる「苦労話」だけでは括れない社会があったことをご理解いただけるのではないかと考えております。
なるほどな、と思い、どんどん読み進めていった。まずは手軽に眺められそうな写真集から。
……しかし、読んでも読んでもゴールが見えない。後書きを読むと、概算で16万ページ分をスキャンしてテキスト抽出を行ったとある。ウェブで公開されているのは、その一部に過ぎないわけだ。160作品=160冊であって、とても1週間やそこらで読める量ではなかった。
プロジェクト・マネージャーは『ブラジル勝ち組テロ事件の真相』著者の醍醐麻沙夫さん。単純な紙面のPDF化ではなく、テキスト抽出に労を割いたのは英断だと思う。どうせならHTML文書にしてくれれば……とは思うが、もともとDVDに焼いて配布したものだそうで、PDFの方が製作しやすかったのだろう。
2005年の記事にも書いたことを、あらためて補記しておきたい。
ときどき、ブラジルで起きた事件を引き合いに出して「これが「勝ち組」「負け組」の本来の意味」などとする説明を散見する。だが「戦後ブラジルの日系人社会において、「勝ち組」「負け組」という言葉がそのように使われた」という以上のことがいえるのか。「本来の意味」とまでいうのは勇み足ではないか。
自己解決した話題。「解決編」が正しいかどうかはわからないが、自分の中では疑問が解消されてしまったので、それ以上、調べる気がしない。
松屋は銀座店の底地を9000平方メートル所有しており、この超一等地の時価は2000億円を下らないと見られている。つまり松屋は、時価ベースでは2000億円以上の資本を百貨店事業に投じていることになる。しかしながらそこから得られるリターンは、ほぼゼロだ。松屋のビジネスは、恐ろしく非効率なのである。
松屋の時価総額は現在、たったの300億円ほどしかない。仮に松屋の買収に500億円をかけたとしても、企業を解散し資産を売り払ってしまえば、投資は容易に回収できる。金融機関には借入金を返済し、土地の売却益にかかる法人税を払い、さらに社員が一生暮らせるほどの退職金を払ったとしても、十分におつりがくるのである。これは「幸せな解散」と呼べるはずだ。
私が松屋の社員で、小屋さんの試算が正しいなら、会社の解散に大賛成だな。社員全員に宝くじが当たったようなもの。今すぐ社員みんなで自社株買いして解散すべき。働いて赤字を出し資産を食い潰していくなんて、道楽に近い。仕事が好きなら次の職場を探せばいい。給料を気にする必要がないので、選択肢は広い。
だけど、実際にそうして「社員みんな仕事をリタイアして楽しく暮らしましたとさ。おしまい」と大企業が大団円を迎えた話は記憶にない。小さな商店や農家なら、先代から受け継いだ店や土地を売却して悠々自適の生活へ……という例を知っている。どうして大企業は、そのようにできないのだろうか?
集団が大きくなると「社会」化が進み、現実的な本音より、教条的な建前が勝ってしまうのかな。人が増えると、その場の状況に応じた柔軟な対応が難しくなるという場面は、しばしば見られるように思う。会社を解散して得をすることはあまりないし、常に解散という選択肢を睨みながらの会社運営では、士気を維持するのが難しいだろう。だから一般論としては、解散という選択肢は考えない方がいいのかもしれない。
もしくは、大企業だと資産の配分基準がまとまりにくいのかも。「若い人ほど、会社が消えることによる逸失所得が大きい」ともいえるが、「若い人が一生遊んで暮らすという前提はいかがなものか。むしろ勤務年数に応じて配分すべき」とか、「現在の年収との連動も必要では?」とか、「正社員以外はどうなるんだ」とか、自分に都合のいい利益配分を実現する理屈は、いろいろある。大きな組織ほど、これは難しいだろうな。
あと、引用した事例については、単純に小屋知幸さんの見積もりが間違っている可能性も全くないとはいえない。例えば、松屋は1919年設立なので企業年金の受給者が多く、その債務を引いたら遊んで暮らせるほどの金額は残らない……とか。
自営業の場合、労働者=資本家だから円満に解散できるけど、大企業はたいてい株式会社で、労働者と資本家が別々なので、従業員は解散に抵抗する。従業員が解散の利益を得るべく株式を買い集めれば、途端に株価は上昇し、結局は既存の株主が解散の利益を先食いする結果となる。
企業の解散に利益があるなら、必ず市場原理が働く。つまり、解散による粗利益から手間賃を引いた残額がゼロになるまで、株価は高くなるはずだ。現在の株価は「会社の解散はない」という前提に拠っている。実際に解散へ向けて動き出した途端、株価は急上昇するだろう。
社員と株主が別である以上、株主ならざる社員たちは企業の解散など望むはずもない。株式会社の社員の場合、企業が解散しても資産は株主の方へ行ってしまう。だから企業を存続させて職にしがみつき、資産を食い潰すのが、社員にとっては合理的だ。非上場企業であっても、株式が社員に平等に分配されているはずもないから、話は同じだ。
社員たちが会社の解散を企図してこっそり株式を買い進めるのは、あまり現実的ではない。どこかから情報が漏れて、株価がグンと上昇することになるだろう。「株価の上昇=解散の利益の既存株主への移転」であり、遊んで暮らせるほどのお金が残るわけもない。
ところで、株主が自分たちの利益だけ考えて企業を解散するのは、失業の不利益を外部経済に押し付けることに他ならない。したがって、資産の処分を当て込んで、今後数十年は社員を食わせていけるジリ貧の企業を解散することは、強く強く社会に抑圧される。が、これには反論がある。
ジリ貧の企業を解散した利益は、新しい投資や消費に向かい、結局は新たな雇用を生むはずだ。企業や産業の新陳代謝を促進することで経済成長率が高まり、雇用が逼迫し、労働条件が改善されていく。そう考えれば、究極的には労働者にとっても利益があるはずだ、というわけ。
しかしその場合、マクロ経済は成長しても、個人の人生のリスクは高まる。民主主義的に通りにくい意見だろうな。多くの人々は「安心」に大きな価値を感じている。リスクを取ること自体にきわめて大きな心理的な負担があるので、客観的な金銭的得失がプラスになるだけでは、説得できない。そして、企業の「幸せな解散」を促進することで実現できる経済成長の果実は、「安心」の縮小分より小さいのだと思う。
記事の内容を離れて一般論としていうのだけれど、「無理」だと思った方が気楽でいいと思う。できないつもりでやって、できたらめっけもん、という。「できるはず」って思い込みは、しばしば不幸の素になる。
秋になると芸術祭参加作品がどんどんテレビ放映されるのが嬉しい。どれもさすがの力作で見応えがあります。「最近のテレビ番組はダメだ」といっていてもつまらないですよね。テレビ局の自信作を視聴して、よかったこと、感動したことなどについて感想をメールで送ったりするのは楽しいです。
アトピーがあっても写真集を出してる芸能人って、たぶん他にもいるのだろうけれど、私が名前を挙げることができたのは亀井絵里さんだけ。体質改善のために活動休止とのこと。
アトピー患者の多くは中学生、高校生くらいで症状がひくそうだけれども、私もそうだけど治らない人は治らない。いま調べてみたら、亀井さんはもうすぐ22歳になるのだそう。私は高校卒業の頃に「この病気とは一生つきあっていくしかない」と諦めたけど、20代前半はアトピーと(完全に)縁を切るにはラストチャンスかな……。決断が報われるといいな、と思ってます。
レジ打ち2500回、売上高は1000万円を大幅に超過、とのこと。
いや、それはさ……と思ったことが連載第2回に追記された。
心理実験での話。ほとんどの参加者が欲張りなプレーヤーを嫌い、次いで過半数の参加者が利他的なプレーヤーを嫌うとのこと。
日本人が「その通りだね」と追随する流れを想像したが、反論がたくさん出ていて、意外な面白さがあった。現状を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは別として、先人達が行ってきたことを受け継ぎ、進化させ続けてるのが、今の日本の風景。
という説明には説得力があると思った。
はてブを参照のこと。今後も、何度でも同じ誤解に基づいた記事が話題になると思う。
「転載したら話題沸騰」の一例としてメモ。他には朝日新聞の人生相談もそうだったかな。当の回答者自身がブログに回答を転載して解説まで付けているのに、tumblrに転載されたものの方が話題になっていたように記憶している
興味深く読みました。小沢さんも菅さんも、決意表明ではデフレ脱却を強く主張されているんですね。有言実行、期待したいところです。ていうか、期待することしかできないんだよな……。
追記:「平成22年10月12日 衆院予算委・石破茂(自民)前編」石破さんは好きなんだけど、ポイントの差を支持票の差と混同して、議員と党員の意識のズレが大きすぎると批判したのはまずいな、と思った。
私が最初にこの件についての解説を読んだのは上野泰也さんの著書だったかな。上野さんの本って、やわらかい記述の中に基礎的な知識の解説がいろいろ入っていてお得だと思う。
とりあえず、多くの人が「さもありなん」と思うらしい、ということはわかった。
「あいつは**だからいいんだ」という発想自体がヤバいんだけど、その「**だから」の根拠がまた怪しい、という。非常にありがち。私も、ふと気付くとこの罠にはまっている。怖い。
これから数日、いいたいことがあってアドレスをメモしたけど面倒くさくなって放り出してる記事をいくつか紹介していきます。他人にはわからない私だけの基準で適当に記事を分けて公開します。
個人的に、著者の誠意は疑わない。
→消費者が決める新聞の未来(2010-01-18)
http://www.nikkei.com/tech/business/article/
g=96958A9C93819499E0E0E2E08B8DE0E0E2EBE0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;
dg=1;q=F2F2F2F2F2F2F2F2F2F2F2F2F2F2;
p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E2
記事の内容とは関係ないが、リニューアル後の日経ウェブ版は記事のURIがやたら長大で閉口する。じつは「;dg=」以降は捨てても問題ないことを最近になって知った。短縮アドレスサービスが普及した昨今ではあるが、個人的にはリンク先の安全性を確認できないことから忌避感を持っている。URIはシンプルに短く設計してほしいと思う。
2010年は漫画を200冊くらい読むことになりそうだけれども、費用もさることながら、時間もかなりかかるな……ということを実感。1日に気持ちよく読める初めての漫画は5冊程度まで。休日に頑張って15冊くらい読んだら、とても疲れてしまった。面白くて途中でやめられなかったんだけど、やめといた方がよかった。漫画なら大丈夫、なんてことはない。
国枝史郎にひかれて利用中。電子書籍って場所をとらないものだから、積読本がたまっていくペースがすごい。お布施だと思えばいいのかもしれないが。
島国大和さんから、以前の記事(ゲーム産業の保護はダメな政策/ここがその「楽園」です。たぶん。/幼稚産業の保護は中国でも失敗している)への返信をいただきました。その内容を受けてド畜生掲示板に投稿した内容を転載します。追記は島国さんの返信について、追記2は★さんの返信についての記述です。
web産業従事者の雇用を、web産業の保護によって確保するのは間違っている、という話です。デフレギャップを縮小する財政・金融政策によって全体の失業率を低下させることだけが重要なのであって、web産業そのものは国内から消えてもいい。小麦や大豆の生産農家、繊維産業の大半は、日本国内から消えました。それは正しい選択だったと私は思います。
これに対して中国は、特定の産業を保護することに熱心です。中国は労働人口の増加と技術的なキャッチアップで高度経済成長を実現しているため、いまは問題が隠れています。でもじつは、産業保護をやらなければ、中国人はもっと幸福になれたはずだ、と経済学者は分析しているわけです。
- 【追記】
「世界全体で成長する産業」と「自国で成長する産業」は違います。小麦や生糸だって、世界的には市場が拡大しています。日本は競争に敗れましたが、オーストラリアやニュージーランドは1次産業を柱としたまま先進国になりました。「web開発」のような「新しい」産業を伸ばすことではなく、「自国でやって儲かること」をやるのが大切なんです。日本では、繊維、造船、製鉄などなど、政府が支援してもしなくても、得意になった産業は発展し、時が移って苦手になれば必死の支援も虚しく滅びました。労働者は常に苦手産業から得意産業へ移動し続け、そうして日本の経済成長は実現されてきたんです。だから失業率の抑制と自由な市場競争(+国際分業体制)の発展に力を注ぐことを「国家の戦略」とすべきなのであって、特定の産業を保護するのは間違いなんです。市場任せより政府の肩入れの方が打率は低いというのが過去の実績です。これは平均するとパッシブな投資信託がアクティブな投資信託より成績がいい(手数料を考慮すると明らかにパッシブ型が有利)という事実にも対応する話です。政府がゲーム産業を保護すれば日本で『GTA』や『CoD』が開発され得たのでしょうか。私は「No」だと思います。得意な産業は支援があろうとなかろうと勝手に伸びるし、苦手な産業は投入された税金を回収できない。多くの経済学者の実証研究の結論は、「web開発」や「ゲーム開発」にも当てはまると考えるのが自然です。
- 【追記2】
説得は難しそうなので、これで一区切りにさせてください。もちろん反論は拝読します。ただ、私の反論は所詮、教科書の引き写しですし、基本的な考え方は既に繰り返し書きましたので、これ以上は堂々巡りかな、と。
- 政府の支援にも成功例、失敗例があります。平均すると割が悪い、ということです。
- アダム・スミス以来の経済学は、市場の動きを予測することは「できない」ことを示し、それゆえ政府は「先を見通した政策」ではなく、市場が十全に機能する環境を作ること(だけ)に注力すべし、と説きました。強制的に徴税できる政府より、自己責任の民間だけが「投資」をする方が打率が高い。公共財への投資、外部不経済への対処などは政府の仕事ですが、それは産業保護とは異なる話です。
- 豪州の一次産業に政府の保護は入っていますが、日本で同等の保護をしても勝ち目がないことは明らかです。また、政府の保護にも「生存者バイアス」があり、継続されている保護事例だけみても全体の傾向はわかりません。
島国さんのコメントを引用。
web産業従事者の雇用を、web産業の保護によって確保するのは間違っている
雇用を守るのが目的ではないですね。
「今後まだまだ成長が期待される産業を国外へも競争力を持つレベルで維持した」
こちら。
これが出来なければ今後数十年の食い扶持を放棄したことになる。産業保護をやらなければ、中国人はもっと幸福になれたはずだ
その分析があってるのか間違ってるのかはわかりませんが、もっと不幸になるシナリオもいくらでもあります。
★さんのコメントも引用。
政府がゲーム産業を保護すれば日本で『GTA』や『CoD』が開発され得たのでしょうか。
例えば、政府が保護したから出てきたものとして、AION、TERA、完美世界などがあります。
外貨獲得手段としてネットゲームは非常に優秀な成績を収めていますね。経済学者を例に出した所で、未だかつて経済学者が市場動向を当てた事はありませんから、自説の優位にはつながりません。
比較優位のデヴィッド・リカードなんて何年前に死んだことやら。
すでに、その考えは古いものとされています。政府の保護による成功例と、その偏りによる市場の荒れ方を無視して、保護は良くない。というのは、片手落ちでしょう。
失業率の抑制と自由な市場競争(+国際分業体制)の発展に力を注ぐことを「国家の戦略」とすべきなのであって、特定の産業を保護するのは間違いなんです。
そんな事が出来るというのは、ある種の夢想です。
現実のプレイヤーを見た上で、日本がどういう手段でそれを実現出来るというのでしょう。特定の産業保護が行けないというのも幻想です。
オーストラリアやニュージーランドは1次産業を柱としたまま先進国に
オーストラリア、ニュージーランドが一次産業を保護して無いとでも思っていますか?
blog主の発言も随分大雑把で荒いものですが、比較優位はさらに理想論でしかなく見えます。
サイト名変更に続いてサイトを移転。以前の場所(http://deztec.jp/mtr/01/)は削除。
2chで流通していた事件の名称をそのまま使ってしまったのがまず失敗だった。固有名詞が入っていなければ、まだよかった。何年経っても固有名詞で検索したとき私のサイトが2番手に登場するのは嫌だった。しかし、あちこちのリンク元や、複数の検索語で毎日150PVくらいのアクセスがあった。社会的な需要があるようにも思えて、スパッと割り切れずにいた。
サイト名の変更とコンテンツの大幅縮小を行ったのが8月。しばらくアクセス動向を注視した結果、踏ん切りがついた。もっと早くこうすればよかったと思う。