備忘録

平成22年9月30日

何か感想や意見を書こうと思ってメモしたけど、「いいたいこと」を見失った記事をいくつか紹介。

リンク先とは関係ないんだけど、Togetterの記事って、話題になったものでもけっこう情報密度が薄いことが多いように思う。Togetterだと発言者が重視されがちなので、主要な発言者のツイートだと余談に近い部分まで拾われてしまう。2chだとIDが出ていても発言者は軽視されがちなので、結構ばっさり発言が刈り込まれる。そんな違いがあるような気がする。(検証してません)

平成22年9月29日

辺の長さが 3cm、3cm、6cm の三角形をかきなさい。という出題に対し「三角形は作図できない」と回答したら「小学校では書けるんだ」と先生に力説されたという話を子どもから聞いて困惑した親御さんの相談。そりゃ、やっぱり先生の説明には無理があるんじゃないの、という反応がほとんど。

球面なら……とか、話の前提を変えてしまえば面白い回答はいろいろありうるけど、それはまた別の話だと思う。球面上では平行な線は2回交わる、とかね。

私の出身小学校では、中学校と同様に、専任教諭が各科目を教えていました。だから小学4年生になる頃には、最低でも2人、最大で4人(補助教師も含めれば最大8人)の「算数の先生」と顔見知りになれます。このことを利用し、「もし先生の説明がよくわからない場合には、これまでに教わった他の先生方にも相談してみてください」という指導がなされていました。

教師にも思い込みやミスはあるけれど、だからといって全ての授業を録画して情報共有するというのも難しい。「問題のある指導があったとき、自動的に生徒が動いて多くの教師に情報を伝える」というのは、よくできた仕組みだと思う。

それに、たとえ生徒の方が正しくても、小学生くらいだと、生徒が教師に丸め込まれてしまいかねない。「たしかに君のいうとおりだ」と思った教師と、勘違いをしている教師とでバトルをしてもらう方が、すんなりまとまりやすいじゃないか。ちなみに私も、国語の小説の解釈などで「訂正」を勝ち取ったことがある。4人くらいの先生を巻き込み、職員室の一角で30分近い激論が交わされたそうな。

ちなみに中学校では

私は小中高の一貫校に通いました。小中高をまたぐ人事異動なども行われていたためか、共通する教育手法もいろいろありました。「なるべく多くの先生で生徒を教える」というのは、そのひとつだったと思う。

中学は3年間しかないので、英数国理社の主要5科目は、それぞれ内容で2つの授業に分けて、中学3年間で1科目あたり6人の先生に学ぶ仕組みになっていました。非効率なようにも思えるけれども、一人の先生に問題があったとき、その情報を学校全体で共有して解消していくためには有効な仕組みだったのではないか。

たまたま中学時代は経験の浅い先生に当たることが多く、私は「先生に対するダメ出し」が多い嫌な生徒をやっていました。新人の先生には気負いがあって、その場で質問やツッコミに対応しようとして墓穴を掘ることが多く、ベテランの先生ほど「次の授業までに検討しておきましょう」と慎重でした。

後で聞くと、本当はその場で回答できることでも、職員室に持ち帰って若い先生の研修課題などにしていたそうな。

余談

あれこれ思い起こしてみる限りはいい小学校だったはずなのだけれど、実際のところ入試で選抜した割には生徒の成績が伸び悩んでいたので、何か私の気付いていないところに問題があったんだろうな……。ただし私の学年はなぜか後にも先にもない唯一の定員割れが起き、入試は有名無実化してました。

逆に中学の方は成果が出ており、私の卒業後、少子化の逆風の中でさらに定員増を実現しました。

注:いずれも昔の話なので、近況は知りません。

平成22年9月28日

ゲーム機は予想画像の製作が盛んな分野。「答え合わせ」は、いつも楽しみにしています。

でも今回は「正解」に近いかどうかという観点とは別に、こちらの記事が頭抜けていたと思う。いま読み返しても面白いです。もともとはエイプリルフール向けに作った記事だそうですが、公開が遅れたので早とちりする人も出たとか。

関連:

3DSの予想画像と比較すると、「何だかんだいってもソニーの技術力って期待されているんだな」という印象を受けます。

平成22年9月27日

7月の参院選の話題。新聞を購読している私にとって、このテレ東ブームは不思議だった。たとえば、新聞記事はこんな感じ。

この他にも、記事の切抜きは忘れてしまったけど、選挙期間中の報道には宗教票の行方に焦点を当てたものもあった。ネットにどれだけ記事が出ているのかはわからないけど、紙の新聞を読んでいる人にとっては「組織票の報道はタブー」という人の存在は奇妙に感じる。組織票に関心があるなら新聞を読めばいいのに、と。

平成22年9月26日

以前、テレビ番組の「ごきげんよう」だったかで、お笑い芸人として(とりあえず)成功した人とそのお母さんが登場して、司会者から「お子さんは親孝行ですか?」という質問が出された。回答は事前にボードにまとめられており、番組の進行に合わせて回答を隠していたシールをはがしていくのだけれども、子どもが親の望む安定した職業に就かなかったことを「親不孝」と判断するお母さんが多くてビックリした記憶がある。

お母さん方の言い分は、「いつ人気がなくなるかわからない。心配で寿命が縮む」みたいなことだったけれども、本音がよく表れているな、とも思った。「あなたのためを思って」という気持ちを疑う理由はないが、勝手な話だ。まあ、親の望む子の幸せというのは、ある程度は、自分の幸せを別の方向から見た表現でもあるのだろうな。

ちなみに私の両親は「こっちの方が安全・確実だし、たぶん向いている」というアドバイスはしても、夢を諦めさせようとすることはなかったな。「危険なことに挑戦するのは自由。決めたなら応援はするよ。支援するかどうかは約束できないけど……まあ、私たちが生きている間は、家に帰ってきたらご飯の心配は要らないよ」みたいな感じだった。「人生、命だけ守って他は全部捨てる覚悟があれば、どうにかなる」といったシビアな楽天主義があったな。

中学生向けの補習塾では、周囲があれこれ鼓舞しても「人生を諦める」方へ進む子が多かった。口ではいろいろいうが、実際はあきらめていて、だからとくに努力しない。だけど、ご両親と面談すると、たいてい言葉の方に振り回されていて、私にはそれが不思議だった。まあでも、教師にとっては確率の話だけど、ご両親にとっては万が一の方を心配せずにはいられないんだろうな。

平成22年9月25日

電話したいならメールでアポを取ってほしいというHmachiya2さんはプログラマーとのこと。プログラミングの最中はきわめて高い集中力の維持が必要なので、電話で割り込まれると能率が極端に落ちてしまうのだという。陶芸家がろくろを回しているときに電話に出ることを強要されたら許せないだろうな……と考えたら、理解できた。

たいていの人は電話が入っても1日の仕事量にとくに影響はないと思う。そこそこの集中力を長時間維持するという仕事の仕方なので、電話の前後で急激に仕事の能率が変わらない。だからメールでアポを取って……なんて手続きを踏むのは、むしろ労力に見合わないはず。だけど、特殊な職業の人には、特別な配慮をした方が、会社にとって都合がいいに違いない。

勤務先の会社だとどうなっていたかな……と考えてみると、塗料の調合なんかは、そういう仕事だった。同期の人がいるので、ちょっと聞いてみたら、「うちの部署だと、電話は事務担当が一括して受けてるよ」とのこと。事務担当者が相手の用件を伺い、手の空いたときに作業担当者が折り返しの電話をかけるそう。

いわれてみれば当たり前の解決策だった。わざわざオフィスに出勤しているのだから、役割分担をすればいいんだな……。ともあれ、一部の問題を解決するのに社会全体を啓蒙しようとするのは無茶なので、できる範囲で解決策を探すのが得策だと思う。

平成22年9月24日

はてブで話題になっているのを見て、既視感があるなと思ったら、1年半で3回目だった。使ってみた感想はというと、たしかに私が愛用しているウェブアートデザイナーよりは高性能なんだけれども、この程度なら専用ツールを使う用事なんて滅多になさそうだな、と。

そういえば6月にPCを新調してOSがWindows7に変わった関係でホームページビルダー(HPB)を久々に買い足したんだけれども、私が唯一使用している機能である肝心のウェブアートデザイナーの機能は驚くほど進歩がない。どうなっているんだろう。開発元がジャストシステムに変わっても、新機能を追加するばかりで従来からの機能やツールをブラッシュアップしたりはしないという方針には変更がないらしい……。

HPB8(2003年)ベースの記事だけれども、7年経っても少しも変化がない。サポートに改善要望を送っても無反応だった。まあ不具合対応窓口に意見を寄せるのはお門違いというものだが、メーカー製のPCソフトって感想や要望の送り先が用意されていないことが多いんだよね……。年賀状ソフトとか、HPBみたいに毎年のようにバージョンアップ版を発売しているソフトなら、要望受付窓口があってもいいと思うのだけれど、不具合サポートだけで手一杯なのだろうか。ジャストシステムのオンラインユーザー登録をしてみたのだけれども、どこにも意見の送り先がなくてガッカリした。

いろいろ薦められて、かれこれ30種くらいの画像ソフトを使ってみたけれども、ウェブアートデザイナーと同じような設計のソフトはひとつもなかった。どれも(私から見ると)根本的な設計に不都合があって、私が慣れ親しんでいる自由な使い方ができない。ホームページビルダーは私より寿命が短そうなので、将来が不安……。

追記:

SmillaEnlargerの機能は近年のPhotoshopと大差ないそう。

平成22年9月23日

1.

愛知県岡崎市立図書館の公式サイトはLibrahackさんにとって新着図書リストの使い勝手が悪かったため、1秒に1回の間隔で1日2000回の問い合わせを行い、手許に自分にとって便利な新着図書情報データベースを構築・自動更新するプログラムを作成し、実行した。結果、図書館のシステムがたびたびダウンし、図書館の相談を受けて警察が捜査を開始。Librahackさんは逮捕された。その後、Librahackさんは不起訴となった。

個人的には、図書館側の言い分を理解できる事件だった。「刑事罰は不当」という意見には賛成だが、自粛要請はあって当然だろうと思うし、現実的にそれが個人情報の壁に阻まれて不可能だったので警察に相談することになったのは、致し方なかったのではないか。追記:通常はJPCERT/CCに相談すれば連絡が取れるそうです。

ネットでの反応は、「1秒1回のペースで1日2000回の問い合わせを行ったくらいでダウンするシステムの方がおかしい」というものだった。実際、システムには「不具合」があって、プログラムを「直し」たら、システムはダウンしなくなったのだそうだ。

図書館が問題視したのは「大量のアクセス」ではなく「システムの停止」であって、たとえLibrahackさんが岡崎市民37万人のうちたった1人の特異な利用者だったとしても、「不具合」のないシステムだったなら停止しなかったのであるから、「悪い」のはシステムを作った業者だ、ということだろう。

2.

私は違う感想を持った。

私は機械系の技術者で、構造設計をやっている。その仕事の仕方を考えてみるに、客先の仕様を満足しているのに不具合といわれるのは怖い。素朴にそう思う。三流エンジニアの考え方かもしれないが、「業界標準の設計法を採用していれば100℃でも壊れなかった」としても、「仕様では、使用条件は−20℃〜+40℃でしたよね。±20℃の余裕を見込んで設計して、実際に試験もクリアしているのに、事故の責任を取れ? そんな殺生な」と思う。

Librahackさんのような利用法は図書館の想定外だったはずで、実際、37万人も市民がいて、同じようなことをした人は他に1人もいなかったのだ。命がかかっているなら、それでも無視はできまいが、これはそうした問題ではない。

「図書館はポンコツを売りつけられた被害者なのにどうして業者の肩を持つのだ」という意見が私の観測範囲内では圧倒的だった。ネットで声を出す人々というのは、優秀な人ばっかりなんだろうな……と思った。私は正直、そのような水準では仕事をできない。「教科書に書いてあるくらいの手法だぞ、まともな技術者ならこれを知らないはずがない」と責められても俯くしかない。同じ条件で働いてくれる、もっと有能なエンジニアが見つかるなら、クビになっても仕方ないな……。

日本中探せば、実際いると思う。ただ、その人を見つけるコストというのもある。それに、私みたいなエンジニアだって、失業させたら公費で生かすしかない(ですよね?)。だったら働いてもらった方がマシではないか。ちゃんと仕様を満たす仕事はするのだから。

業者は図書館の提示した仕様を満足するシステムを納入したのでしょう。そして実際、何年も問題は起きなかった。ならば、「不具合」として業者がプログラムを追加費用なしで改修するのはおかしくて、図書館システムの利用規約に「問い合わせは1日100回、週300回まで」と書き加える方が自然なのではないか。

3.

私の家の近所の図書館では、夜間帯は利用者が少ないため、少ない人数で業務を行っている。私が書庫の本をリクエストすると、貸出カウンターから人が消えてしまい、列ができたりすることもある。私の次の人がまた書庫の本を頼むと、ますます列は伸びていく。

が、3組以上が列をなすのは、夜間帯(2時間)のうち1回程度でしかない。そして半分以上の時間は、誰も貸出カウンターを利用していない。私はカウンター前のソファが好きで、よく座って本を読んでいるので、そのことを知っている。だから、列が伸びてイラ立った人が、一緒に並んでいる家族や友人に「もっと人を増やせばいいのに」と話すのが聞こえるたび、「費用対効果がなぁ……」と思う。

さて、もし次第に夜間帯の利用者が増えていき、書庫の本のリクエストがもっと大勢から寄せられるようになったなら、人手を増やすのは自然なことだろうと思う。しかし、10万人に1人くらいの珍しいタイプの人が転入してきて、5分に1回のペースでリクエストをはじめたらどうだろうか。

図書館のような公共施設は、そもそも全市民の一斉利用に耐えるようにはできていない。私の住む町では本の貸出上限は1人10冊だが、図書館の蔵書は人口×3しかない。図書館は乏しい予算でささやかに運営されているのだから、「お互い様」の精神が必要だ。

たまたま人員配置術の達人が図書館にいれば問題は解消されるのかもしれないが、対応すべきはまず10万人に1人の特異な人の方だと思う。これは想像力の問題だ。優秀な人の「標準」を基準として、天下り式に「最低限」のハードルを上げられては困る。小学校のクラスメートを思い出してほしい。その誰もが、ほんの少し頑張ったくらいでうまく回るような、そんな社会がいい。

4.

「ダメ業者の淘汰」は、市場が行うべきこと。優秀な人々の基準で取引に介入し、「不具合」「欠陥」といって生産者に仕様(消費者の実際の要求)を超える成果を強要すべきではない。「うちの方が安くて堅牢なシステムを提供できますよ」という業者があるなら、いずれ状況は改善されるだろう。議会も予算を検証している。

あるいは、「品質の追求より(凡人を雇って)価格を下げる方が重要」というのが市場の声かもしれない。サーバーとしてこの程度の性能がないのは「不具合」だ、なんて批判には、絶対に与したくない。優秀な人々からみて「改善の余地がある」ことをみな「不具合」といわれたのではたまらない。

Librahackさんの反省の弁は、私には納得のいくもの。これを残念がる人がネットにはたくさんいるけれど、私は大いにホッとした。Librahackさんのような感覚が常識でなければ、私は困る。

5.追記(2010-11-02,03)

多くの人の関心は「こんなことで逮捕!?」にあるが、私は私の関心事について書いている。逮捕の是非と業者叩きとは切り離せる話だ。「逮捕は不適切」と「欠陥製品に非ず」は両立する。また「刑事罰は不当」と「合法だが迷惑。自粛すべき」も両立する。一部の人の「私が主張していないこと」への批判には困惑する。

また私は優秀な人の足を引っ張るつもりも毛頭ない。みなさんどうぞ高い給料を貰ってください。私が脅えているのは、足切り的な発想だ。「消費者がどんな選択をしても大丈夫なように、全ての業者を一定水準以上に底上げすべし。ついてこれない業者は廃業しろ」という世界には、私の居場所がなさそうだ。ある消費者が真に求めるのは「サポートのフレンドリーさ」で、性能は二の次かもしれない。自由な市場で競争して討ち死にするなら納得もできる。だが、頭のいい人の作った規制に殺されるのは嫌だ。

事件について、他に思うことは三つ。 1)警察に相談しなくとも図書館がLibrahackさんと連絡を取れる仕組みがあれば事件は起きなかった。追記:仕組みはあったが図書館はその存在を知らなかった。 2)「違法ではないが迷惑」への対処コストが全面的に「社会」持ちなのは不都合。「自由のコスト」を一定割合(上限あり)で個人に繰り戻す市場の整備を望む。 3)IT分野でも「ルールで対処する」領域を広げるべき。多くのサービスは国内からの利用が大半。……いずれも他の話題で記事にしたこと。再論しない。

関連:

いずれも興味深く読みました。SPAM送信や過剰アクセスなどについては、JPCERTがトラブルの解決に大いに活躍しているとのこと。2chでは、たった一人の荒らしを規制するために数万人を巻き込んでプロバイダごとアクセスを規制したりしていますが、問題の種類が違えば解決状況も全く違ってくるのですね……。

twitterでのやり取りを経て(2010-11-04)

pmakinoさんとmitiyonさんに粘り強く対応していただいた結果、かなり説得されました。

「チャチな商品はチャチな商品だと認識された上で、それでも消費者がそれを選ぶのは自由だよ」という状態が理想です。業界標準に満たない商品を「欠陥」「不具合」として排除するのは、多様な消費者と生産者のみなが幸せに共存できる方法ではありません。

しかし現実には、公共システムの市場整備は不十分で、ことに保守契約には市場原理がほとんど働いていません。また全体として優れたシステムの中の劣った部分が放置されるという問題の解決には工夫が要ります。長期的に理想の実現を目指す方法とは別に、今そこにある問題を解消する方法も考えねばなりません。

その前提において、Librahack事件で図書館システムのウェブ機能を「欠陥があった」と批判するのは業者にインセンティブを与える数少ない有効な手段であり、必要悪ではないか。

将来に向けては、性能に関する等級基準を設け、素人でも大きな性能差を判別し商品を選択できるようにすることが、市場を機能させるために有効だと思う。

ご意見はtwitterで承っております。

平成22年9月22日

出社する時の地下鉄で、「子どもがうるさいので降りてくれませんか。みんなこれから働くんですよ」と親子連れに意見したOLに遭遇。泣きそうな顔で子どもを連れて降りたお母さんに勝ち誇った顔をしたOLに嫌悪感。スーツ姿でパリッと決めたキャリア志向さんなんだなぁ。

とりあえず事実だとして。話題そのものはさておいて、メタな話をする。

その場にはおそらく大勢の人がいて、一人の他は誰も何も意見を語らなかったのだろう。消極的にであれ、そういう選択をした。たった一人の発言者の言葉に、動じる必要はない。むしろ、一人の発言がみんなの意思の代表とみなされるようだと、誰もおいそれと口を開けなくなってしまう。そんな息苦しい社会は嫌だ。

実際、「うるさいな」「早く目的地に着いて降りてほしいな」と思っていた人は他にもいただろうが、だいたいの人は何ともいわなかったのであり、それが多数派の意思だ。みなが、そこをしっかり押さえておかないと、「たとえ一人でもこんな酷薄なことを公言するヤツが存在してはならない」という方向へ進んでしまい、少数派の言論の自由は強く強く抑圧されることになる。

みなが「そうだ、そうだ」とでもいうようにうなずいてみせた……というなら話は変わってくるが、考えにくいな。心の中で同意することと、賛同の意思を表明することには大きな段差がある。まあね、「黙認」というなら、OLさんの発言だって「黙認」されたわけなんだけど。

平成22年9月21日

1.

ふじぽんさんの記事には批判的なコメントが多くついているが、私はどちらかといえばふじぽんさんに共感する。少なくとも東さんに感心はしない。

私が納得するのは、増田さんの記事のような対応。ちゃんと真偽を確認し、その後、ルールに則って処罰すべきだ。twitterでつぶやいただけでは、証拠にならない。しかし東さんがつぶやきを転載し、しかもその内容を真実と断じてみせたなら、「東さんの判断を信じる」という経路に乗って社会的制裁が先走ることになる。それがよいことだとは全く思わない。

東さんは肝心のカンニング問題について「ぼくのフォロワーには早稲田関係者は多数いるので、彼らが処分は決めるでしょう」という。これが殺人の容疑だったら、東さんだって直感だけで犯人(と信じる人物)を大勢に紹介して社会的制裁にかけようとはしなかったろう。所詮、東さんにとっても「カンニングなんてのは不愉快なだけで大した問題ではない」という認識があったんじゃないのか。バレたら人生が大きく変わりかねないほどの大問題に対して、こんな手抜きの対応は解せない。

学生に真偽を確認した結果、「冗談です」といわれ、他に証拠も見つけられなかった場合はどうするか。無闇に他人の名誉を傷つけることは許されないので、「このような冗談は笑えない。俺は認めない」と批判すればよいと思う。その場合、今回のような大騒ぎにはなるまいが、それが「本来の話題の大きさ」だったのではないか。東さんがつぶやきの内容を真実と断じたからこそ、注目を集めたのではないか。もし公式RTだけして、それ以上、何の評価コメントも付けなかったら、こうはならなかったろう。

2.

これは東さんだけの問題ではない。多くの人々が、「きっとそうに違いない」といって、実際にはロクな証拠もないのに人を悪い方に決め付けるから、こんな騒ぎになる。学生はたしかに隣の人に答案を見せてもらったと書いているが、「それでも単位を落とす」ほど講義の内容に関心を持てなかった、という文脈があってのことだから、カッコの部分を強調する最大級の表現を模索した結果に過ぎないかもしれない。

「寝起きが悪くてイラ立っていたので、玄関先で寝ていた野良猫を思いっきり蹴飛ばしてから自転車に乗って学校へ向かった。門を出るとき後輪が尻尾を踏んだので、またギャッといった。」なんてウェブ日記があったとして、いちいちそれを真実だと確信して、学校へ通報するのかという話。いやまあ、通報するのは自由だとして、そのとき「こんなヤツは即刻、退学にすべきだ」と怒っているようだとヤバイ。「もし記述が事実の描写なら」という仮定を置かねばなるまい。

ちなみに、以前から時々書いていることだけれども、私の備忘録には適当に創作が混じっている。なので、書いてあることをいちいち事実だと認識しないでほしい。「書き手の実際の生活をベースとした、架空の人物である徳保隆夫さんの備忘録」として読んでいただきたい。「私小説」にだって適当に創作が含まれているわけで、この備忘録は、そういうものである。

ともかく、件の学生は、申し開きの場も与えられないまま、東さんの信用力によって叩き潰された。東さんは、学生のつぶやきの他には何ひとつ、具体的な証拠を挙げていない。にもかかわらず、大勢が学生を「単にカンニングしたと書いた人」ではなく「実際にカンニングをして、それをウェブで公言した人」として批判した。私自身、こういうことからは逃れられないから、自戒を込めていうが、みんな「どうかしている」。

3.

東さんは、肝心の真偽の確認を、完全に他人任せにするという。もしカンニングの事実がなかったとしても、「ぶっちゃけ言うと、カンニングより、「カンニングしています」と堂々とツイートするほうがよほどやばい。」と予防線を張っているから、大丈夫だと思っているのだろう。しかし、繰り返しになるが、ただ単に「カンニングしました」と書くだけで、これほど大きな批判が集まったとは思えない。

言語感覚は人それぞれだが、「社会の良識」なるものは一応、ボンヤリと存在している。良識からズレた人が、大勢の「不快感」によって表現の自由を抑圧されることを、私は全否定しない。

でも、その抑圧が「記述から大勢が想像することは全て真実として扱う」なんて方法でなされるのは、ホント勘弁してほしい。ところが現実はどうだ。今回のカンニングの件など、実際にそう書かれているのだからまだマシで、「**だって? とすると……、**としか考えられないな!」なんて経路で全く身に覚えのないことで叩かれたりする。ひどい話だが、こうした「理由のある偏見」は、それを偏見だと認めてもらうことさえ不可能に近い。

予想に基づく批判には、「もしこの予想が正しければ」という条件が付く。単純なことだが、それさえ認識できていれば、自ずと批判のトーンは抑制されるのではないだろうか。

「カンニングしたと書いた人」と「実際にカンニングをして、それをウェブで公言した人」とでは、批判される度合いは相当に違うであろう。ていうか、「カンニングした」と書くこと自体は、表現の自由の範疇ではないのか。ルールを否定・批判することと、実際にルールを破ることとは別問題だ。いや、この書き手は実際にルールを破っているはずだ、なんて「確信」で社会的制裁が発動するのは恐ろしいことだ。

関連:

私は「誤解される方が悪い」という人が嫌い。事実と異なる前提認識から、過剰な批判をしてしまったなら、まずそのことは反省すべきだと思う。「どちらが、より悪いか」なんて関係ないだろう。

平成22年9月20日

小説家の東浩紀さんの講義を受けた学生が、簡易コミュニティサービス(twitter)で試験中にカンニングしたという投稿をしたところ、同サービスで自分の名前を検索するのが趣味の東さんに発見され、投稿を転載(リツイート)された。その結果、少なくともネット上では社会的制裁のような様相になったそう。東さんはコミュニティの人気者で、登録読者(フォローしている人)が多い。それゆえ、東さんが転載をした時点で、そうなることは予見されていたという。

……って、10年後を見越して固有名詞を排して書いてみたけど、twitterは「twitter」と書きたいな、やっぱり。でも「リツイート」や「フォロワー」は、まだ使うのに抵抗がある言葉。現在の読者を前提とすれば、単に転載と書くよりリツイートと書く方がズバリの表現になるだろうし、もっと踏み込んで公式RTか非公式RT(=事実上のQT)かを書き分けた方が、情報が精細になってよいのかもしれない。ちなみに東さんがやったのは非公式RTだった。ならば「転載」と書かずに「非公式RT」と書けばいいじゃないか?

……んー、そうかな。さっき「10年後を見越して」なんて書いたけど、それも違う気がする。たぶん、自分は10年後でも「非公式RT」で困らないだろうし。「あー、あったね、そんなの」って感じで。『先行者』とかさ。読者にはわかんなくても自分にはわかるので、いちいち過去ログを直そうと思わない。

だったら何なのか、ってことになるんだけど、はてなブックマークが登場した当初、私には警戒感があって、はてブという略称を避けていた。まずソーシャルブックマークとは何ぞやというメモ記事を書き、そのひとつとしてはてなブックマークを紹介した。これは読者への配慮というより、私自身のはてブ(ユーザーのコミュニティ)への距離感の表現だったと思う。

いま私が「リツイート」を「転載」と書きたいと思うのも、同じではないか。twitter(ユーザーのコミュニティ)に対して警戒感がある。「リツイート」「公式RT」「非公式RT」「フォロー」「被フォロー」「フォロー数」「フォロワー」といった言葉をそのまま使う人々への距離感が、引っ掛かりとして現れている。

補記:

ちなみにブログについて、私は今も「エントリー」「ポスト」という言葉を避け、「記事」「投稿」と書いている。「パブリッシング」を「公開」と書くときは、「リツイート」を「転載」と書くときと同様、語義のズレへの懸念が頭をよぎる。しかし「公開」と書いて不都合のある文章でもないので、そのままにしている。

平成22年9月19日

1.

先月の末に公開し、その後もちょこちょこ手を加えたもの。主にtwitter方面で多くの反応があった。『ハーバード白熱教室』の話題が再燃するたびにページビューが出たのだけれども、作り手の伝えたいことは伝わらないものだな、という思いを新たにした。

2.

当該記事は消えてしまったのだけれども、私がコメントしたという記録だけは残っていて、t-hirosakaさんが新しい記事を立てるたびブログ検索でエゴサーチした結果のRSSに引っかかってくる。記事が消えたら「最近のコメント」も消える方が自然なように思うが、はてなダイアリーの仕様はそうなっていないらしい。いったんt-hirosakaさんが何か返信コメントを書かれたようだが、私がそれを読む前に記事が消えてしまい、「返信コメントがあった」ことだけ表示されている。もやもやする。

消えた記事の内容は引用しないが、以下に転載する私のコメントから、おおよその推測は可能だろうと思う。

中の人の1人です。この診断は、『ハーバード白熱教室』の入門ガイドである無料の電子書籍『セイギのつくり方。』を興味を持って読んでいただくための仕掛けとして作成したものであって、この診断そのものにはそれ以上の意味がありません。サンデル先生の講義において、それぞれの立場の代表として登場した方々のうち、まず1人について興味を持っていただこう、という意図です。いきなり9人全員の意見や立場を勉強していただこうとしても厳しいので、全54ページのうち5ページくらいを、まず読んでほしい。

診断チャートの最初のページにも、結果一覧のページにも目立つ位置にそういう意味のことを書いているつもりなのですが、なかなか読まれません。あと、サンデル先生の講義をテレビで見るまで、そこに登場した政治哲学者の名前をひとつも知らなかったような方を想定して活動をしているのですが、反応してくださるのは私どもよりよほど哲学に詳しい方が多い。ならば親が子を見るように、こちらの意図を汲んでいただけるかというと、そうではなくて、診断チャート単体で完成されたコンテンツとみなしてダメ出しを下さる。あちこちからいろいろ反響をいただいているのですが、正直なところ困惑しております。

念のために補足しますと、『ハーバード白熱教室』にはフーコーもハーバーマスもアーレントもマルクーゼも登場しません。書籍版にも登場していないのです。ですから、番組のガイドブックである『セイギのつくり方。』が彼らを取り上げることはありえないし、当然、その導入部である第1章をウェブに移植した診断チャートウェブ版にも登場しないのは道理だ、とご理解いただきたい。愛想とかそういう問題ではないです。それでも取り上げるべきだと仰るなら、まずサンデル教授に対して、全12回の講義、400ページ近い本の中にすら彼らが登場しないのはおかしいじゃないか、といってほしいです。

それはともかくとしても、そもそも「政治哲学者」の診断チャートであるわけで、高々10程度の分類をする中にフーコーとマルクーゼを取り上げて位置づけるのは難しいと思いますが、いかがでしょうか。ハーバーマスとアーレントは納得もできますけれども。

3.

twitterで簡単に否定してくれる方々にいちいち説明するのは面倒が勝つので避けていたが、鬱憤は溜まっていた。t-hirosakaさんのブログを大勢が読んでいる様子はなく、たまたま長文で批判してくれたに過ぎないt-hirosakaさんのところのコメント欄に記事本文に迫る長さのコメントをしたって、状況は何も変わらない。

しかし現状でも、いちばん目立つ位置に必要な説明はあるのであって、これ以上はどうにもならないと思う。不愉快なことだが、場面が変われば私も「勝手な思い込みを前提として意見して相手を困惑させる」ことをやってきたわけなので、お互い様ではある。だから我慢する、ということではない。もっと別の折り合いのつけ方があるのではないか。

私の場合、「作者の意図は理解しました。**ということですよね。だけど私は、これは**としても有意義だと思っていて、その場合、**のようにすると、完成度がグンと上がるし、そのようにしても当初の意図には反しないはずです」といった意見は、好ましく思う。あるいは、「作者の意図からは外れるけれども、**という応用形態も考えることができるのではないか。その場合、ここは**した方がよい」といった提案も、大歓迎だったりする。

人それぞれ思うことは違っていい。ただ、作者の意図は無視してほしくない。まず理解してほしい。とくに前提を示さない批判が成り立つのは、作者の意図を汲んでいる場合だけではないか。作者とは別の前提に基づく批判なら、まずその点を自覚していることを判読できるモノの言い方を選択してほしい。

……といっても、批判はいつも思わぬ人から飛んでくるものなので、まあ、仕方ない。なので、これはもっぱら自戒としたい。まず自分が、批判の前提を明らかにしていくよう気をつけていこうじゃないか、と。

平成22年9月18日

1.

私は基本的に功利主義に与するので、「無条件で成立するルール」なるものに正当性は認め難い。

『仮面ライダーOOO』という作品があって、公式アカウントがtwitterのハッシュタグを#OOOと設定したのだという。ところが、オープンソースのオフィススイートを開発しているOpenOffice.orgが、#oooというハッシュタグを何年も前から使っていた。

ハッシュタグとは、twitterの検索機能を用い、特定の話題について触れているつぶやきを一覧表示するため、同じ話題に興味のある人同士でつぶやきの末尾にくっつける文字列のこと。twitterの検索エンジンは大文字小文字を区別しないので、#OOOは#oooと区別されないのだった。

結局、仮面ライダーOOOの公式アカウントは、ハッシュタグを#KROOOに変更したとのこと。

2.

そもそもハッシュタグは自然発生的に生まれたもので、現在もtwitter運営に「管理」されてはいないそうだ。話題のテレビ番組などが始まると、ワッと複数のハッシュタグが誕生し、次第に淘汰されていったり、複数のタグが並列で残ったりする。このあたりの人情の機微は、私にはよくわからない。

『ハーバード白熱教室』の感想は#nhk_harvardに集約されたが、将来、サンデル先生以外のハーバード大学の先生を特集するNHKの番組が登場したらどうするのだろう。そもそも『ハーバード白熱教室』という番組タイトルに問題があるのだが……という話はともかくとして、仮面ライダーOOOのハッシュタグも複数あったし、OpenOffice.orgの方でも、用途などに応じて複数のタグが使い分けられており、問題の#oooは使用頻度が低下していたそう。

Togetterにまとめられただけが唯一の流れではないだろうが、当初は公式が云々ではなく、仮面ライダーOOOのファンが実態として#OOOを使っていることが問題視されていた。その後、なぜか「公式アカウントが」という点に大勢の関心が集まってしまい、公式が騒動の翌日に#KROOOにタグを変更したら話題は収束していったのだが、なんかヘンな感じがする。

この問題を「問題」と認識した人の多くが「早い者勝ち」ルールを正当と認めていたのは、ある意味で当然の話だろう。だから、コメント欄にタグ被りを批判する意見が多いことをもって、多数決的に判断することには疑問がある。

3.

前振りばかり長くて、じつは本題についていいたいことは、あまりない。

功利主義的に考えると、「みんながルールを守ればいいのに」という主張の妥当性は怪しくなる。ルールの周知徹底にもコストがかかるからだ。

もし「ハッシュタグ#OOOは公式アカウントが使用したがために広まった」という見立てが間違っていて、「#OOOは自然発生的に大勢に用いられ、人気のハッシュタグになった」のだとすれば、少数派であるOpenOffice.orgの話題をつぶやきたい人々の方が、利用率の低下した#OOOから撤退して、各言語版のハッシュタグ(例えば#ooojp)や#OpenOfficeに統合する方が低コストかもしれない。

そもそも#OOOのような3文字のハッシュタグはtwitterの利用者が増えるにつれタグ重複が起きやすくなり、OpenOffice.org界隈でも「#oooに固執するのは茨の道」という認識があって、#OpenOfficeの利用がかなり広まっていたそうだ。これは私には納得のいく判断に思えるわけで。

4.

オンラインゲームの『ブラウザ三国志』のハッシュタグがbotに乗っ取られた跡地、だという。いまブラウザ三国志のユーザーは主に#bura3というハッシュタグを使っているそうだ。けれども、しかし#3gokushiから単純に想起されるのは『三国志』ないし『三国志演義』ではないだろうか。

たまたまそのハッシュタグを最初に使ったコミュニティがブラウザ三国志だったとして、ふつうの三国志ファンがどんなハッシュタグを使えばいいのか、疑問に思う。いくつかのタグで検索してみたが、うまく引っかからない。「三国志」「三國志」で検索するとたくさん出てくるが、どれもハッシュタグがついていない。現状、ふつうの三国志ファンはハッシュタグでつながりたいとは思っていないらしい。しかし将来もそうなのだろうか。twitter、そしてハッシュタグが普及したとき、「twitterで#3gokushiといえばブラウザ三国志のことである」という事実を啓蒙し続けるのが「正しい」のだろうか。

件のbotはふつうの三国志関連の雑多なウェブ上の記事を1日数回程度の落ち着いたペースで発信しているに過ぎない。この程度のアカウントに席巻されてしまったというなら、#3gokushiでブラウザ三国志について書いていたユーザーも大した人数ではなかったんじゃないか。とすると、ブラウザ三国志のコミュニティの主力が#3gokushiから#bura3へ移動したことは、一概に受難とも言い切れず、「より自然な姿への移行」のようにも感じるのだ。

5.

結局、公式が#KROOOへ移行した後も#OOOは仮面ライダー関連で使われ続けているのだが、#KROOOが一番人気かな? という状況にはなった。今回の事例は公式アカウントを「改心」させるという戦略が意味を持っていたのかもしれない。

しかしtwitterは「現在」に焦点を当てたメディアであり、一時的であれ、いまはOpenOffice.orgより仮面ライダーOOOの方が、つぶやき需要はずっと大きい。ハッシュタグはみんなの共有物と考え、「タグとコミュニティの関係は自由競争によって柔軟に変化する」という文化で運営する方が、合理的なすみわけにつながりやすいのではないか。

少なくとも、そういう可能性はあるよな、と思ったりした。

平成22年9月17日

1.

番組は見ていないが、このまとめは面白かった。

ところでみなさんは、家族や友人の心を弄ばれたあげく見せかけの「正論」で罵倒されても、堪忍袋の緒が切れませんか。本作品のやりとりは、前考察をふまえて整理すると、次のような対応関係となっています。

正論−反論部分侮蔑・責任回避−義憤部分
敵幹部A:犠牲者の心は弱く、苦悩や努力に意味はないC:(1)(だから心を弄ばれてデザトリアンの素材になるのは、犠牲者自身に全責任がある。)
  (2)(デザトリアンとして無能なのも、犠牲者自身の弱さのせいである。)
プリキュアB:犠牲者の心は尊く、苦悩や努力に意味はあるD:(1)(犠牲者の尊い心を弄び操作している責任主体は砂漠の使徒である。)
  (2)他者の心を操作することは、そもそも許されない。
  (3)純粋な心ゆえの苦悩につけこむことも、もちろん許されない。

AとBの対決にばかり視聴者の関心は向きがちですが、じつはAはCを正当化するための言い訳です。プリキュアは、敵幹部のAをBで批判しつつ、Aに隠されたCをあの決め台詞によって、つまりDとその前置き「〜するなんて」によって糾弾するのです。

あんよさんの主張そのものに異論はない。敵幹部は擁護し難い。プリキュアの脚本は、そのように書かれている。

それでも、直感的にA思考とB思考の対立に目が向く人がいるのは、やはり自然なことだと思う。それは「現実の世界では、A思考を裏付ける体験がかなり多く、B思考はしばしば空理空論のように感じられる」という人が、少なからず存在するからだ。以降、私はプリキュアを知らないので、自分の関心に引き寄せて書く。

2.

「友だち付き合いなんか面倒くさい」「クラスで協力して何かをやるのが嫌だ」「愛だの恋だの、そんなの、あなたの勝手でしょ。こっちが受け止める義理なんかない」みたいな考え方に対して、「本当はそうは思っていないはずだ」論法でひっくり返すのが、もうちょっとリアルに寄せた作品の定番展開。

私はそういうのにいちいちムカついてきた。脚本家はちゃんと、何らかのイベントなり何なりで自分の中にあった「本当の気持ち」を認識して考えを改める、という手順を踏む。けれども、根本的なところを見誤っていると思うのだ。

人はアンビバレントな感情を抱えているもの。友だち付き合いにだって、いいところはある。あるけど、面倒の方が勝つ。だから嫌なんだ。こんな単純な話を、なぜ理解しない。みんなで何かをやれば、そりゃ達成感とか喜びとか、あるよ。それは否定しない。だけど、自分にとって、それは労力や苦痛に見合う報酬ではない。世の中にはいろいろな人がいていいだろう。なぜ、そういう個性を認めないんだ?

ドラマや映画で「1%でも可能性があれば」というとき、その後、6割くらい成功していると思う。本当に6割も成功するなら、そんなに悩むことはないはずだ。成功率が1%なら、99%の物語で「やっぱりダメでした」を描かなくちゃ嘘だろう。同様に、プリキュアの世界ではA思考はたいてい不幸をもたらし、B思考に目覚めることでほぼ確実に幸福になる。こんな嘘っぱちは認められない。本当にそうなら誰も苦労しないじゃないか。

だから、一方に不当に肩入れした不誠実なプリキュアの脚本そのものは脇において、A思考とB思考の対立、すなわち現実を生きる自分たちにとって真に重要な問題を語りたいと思うのは、自然なことではないだろうか。

「こころの花」なんか枯らしてしまった方が人生平和に過ごせる人もいるだろう。理想を取り下げ、苦しい努力などせず、現状に満足する。いいじゃん、それで。あんよさんの各話解説を読む限り、プリキュアに救われる登場人物たちの悩みはたいてい、理想を掲げ、それが実現できないことに端を発している。その理想は社会が個人を洗脳して押し付けた幻想だ。なので頭を切り替えて現状を丸ごと肯定すれば、悩みは雲散霧消する。人は社会を発展させる道具か? 違う、といえるなら、人には向上心を捨てる自由があるはずだ。その自由を攻撃し抑圧する社会こそ真の悪だ。こう考えるなら、「真のA思考」は、敵幹部を否定するはずである。

だから「プリキュアの物語を仔細に検討する限り、どう考えても敵幹部はダメですよね」といっても、議論の枠組みが違うのではないか。ようするに、敵幹部のA思考を擁護する側というのは、敵幹部を擁護したいんじゃない。悪行三昧と矛盾を抱えた敵幹部と一緒に、A思考まで葬り去られるのが許せないんじゃないか。

3.

あんよさんは、敵幹部が「ちっちゃな悩み」と決め付けることを問題視する。けれども、悩みの大小はたしかにモノの見方に依存しているのだ。ある悩みを重視するか軽視するかは、客観的に定まってはいない。ならば、「どちらが自分の幸福に資するか」という観点から、悩みの評価を自由に選択できる方がいい。

理想と現実のギャップが悩みの原因なので、1)現実を理想に近づける、2)理想を取り下げる、どちらの方法でも悩みは解消できる。プリキュアは方法1)を支持し、敵幹部は方法2)を訴えている。私の実感では、より確実なのは2)の敵幹部思考であり、1)のプリキュア思考は基本的に挫折へと通じている。

しかし敵幹部は本来、人間の悩みが大きく深いほど利益を得られるという。ならば敵幹部はプリキュア思考を主張すべきだ。この敵幹部の思想と利益構造の不整合は「多数派の視聴者にカタルシスを与えねばならない」というエンターテインメントの制約に起因するのではないか。

商業フィクションの世界では、プリキュア思考を貫徹することで非常に高い確率で悩みが解消されてしまう。高校野球マンガの甲子園出場率は異常。頑張り続けると良い結果が出てしまうので、「理想を捨てきれないまま努力を停止する」という微妙なバランスを実現しなければならない。よって作中世界では敵幹部の思想と利益構造は矛盾していない(のかもしれない)。

脚本家の構築した舞台に乗って思想の対立を論じても、胸のもやもやは消えない。作中世界においては、なるほどプリキュアは正しい。そうとしかいいようがない。それですむ話なら、とっくに議論は決着しているだろう。

追記:

平成22年9月16日

内容のない話をつらつら書く。

ここで「働く」が賃金労働を意味しているとして、「現金収入が得られる」の他に、特別な意義があるのかどうか、という話題。はてブなどでも話題になっていた。

もし何の苦痛もなく、楽しいばかりの仕事があるならば、それはレジャーとして成立するはずであって、「お金を払ってやらせてもらう」ということになっても不思議はない。さすがにそのような仕事は珍しいが、存続しているボランティア活動の多くは、「苦労」と「やりがい」がバランスするので、無給でもなり手が途絶えない。ニューヨーク市長のブルームバーグさんは、散財するばかりで金銭的には大赤字だが、「やりがい」が大きいので市長を続けたいのだそうな。NGOの支援者などにも、こういう人は割といる。

しかしボランティアの希望者が多すぎて困る、なんてことは滅多にない。人それぞれ「お金」の価値が異なるように、「やりがい」の感じ方も違っている。同じ労働をするのでも、「お金」や「やりがい」を大きく見積もる人は喜んで働くが、逆の人はずーっと不満顔である。そしてフッと辞めてしまったりする。

(やりがい+賃金)−労力・苦痛=労働意欲

私は、こんな風に考えている。やりがいも賃金も苦痛も、人ぞれぞれ。状況にも大きく左右される。客観的な指標は作り難い。貧しい人にとっては、賃金の価値は大きい。より大きな消費を強く望む人も同様だ。

phaさんは自分が望む消費水準を実現する方法として賃金労働以外の選択肢を持っている。だから働かない。これは別に珍しいことではない。年金が支給されている70歳以上の老人の過半は、労働意欲を失っている。たとえ働き口があっても、賃金労働をするつもりはない、ということだ。家事も買い物も「仕事」だから、みんな「仕事」はやっている。でも、賃金労働はしない。

遊んでいてもお金が手に入るなら、それは嬉しい。管理業務を完全に委託してアパートや駐車場を経営するといった資産運用なら、老齢になったからといって、まず引退などしない。とすると、老いて足腰が弱って、年金がもらえて、といった条件が重なると、労力と対価のバランス感覚が変化するのだろう。

ちなみに年収が1000万円を超えるような人の場合、70歳を超えても労働意欲は旺盛なのだという。それくらいの対価があるなら、老骨に鞭打っても働きたいと思う人が多いわけだ。60歳代だと年収300万円でも労働意欲は高いそうで、年金が人の心理に及ぼす影響は大きいのだな、と思う。(この項は雑誌で読んだ話だけどボンヤリした記憶で書いてるので話半分に読んでください)

まあ、数十年働いてきて、自分の稼げる金額というのは、だいたい分かるわけだ。先に70歳以上の老人の過半は「たとえ働き口があっても、賃金労働をするつもりはない」と書いたが、そこには、「どうせ時給700円でしょ」という諦めが込みになっている。

phaさんは31歳だそうなので、労働意欲の高い世代に属する。若く健康な者は、賃金労働の苦痛に比して、賃金に魅力を感じることが多い。人は自分の選択を正義に置き換えたがるので、多数派の選択は社会的な正義となり、少数派の選択を社会悪と規定されることがままある。賃金労働はその一例であり、現状、働かない選択のデメリットは大きく、ふつうは働く方が割に合う。少なからぬ人々は、生活云々より、まずその圧力がつらいから、賃金労働を希望するようになる。

(社会的圧力+やりがい+賃金)−労力・苦痛=労働意欲

先に挙げた式を修正すると、こうなる。主夫には社会的な労働圧力が無視できない水準で存在し、専業の維持が精神的に難しい。税制の優遇措置によって推奨さえされてきた感もあった主婦も、割合が減るにつれ形勢が悪化しつつある。夫の稼ぎが少ないのをなじる妻が共感されなくなり、「だったら、働けば?」と真顔でいわれるようになってきた。

まあこの社会的圧力というのも、気にするかしないか、個人差は大きい。phaさんのように「それが何?」とキャンセルできるなら、賃金労働に従事する動機付けにはならない。多数派というのは残酷だから、それをまた「社会性の欠如」などと規定してphaさんを攻撃する。人間の自然な心理の帰結とはいえ、虚しいことだ。

平成22年9月15日

現実味を軽視して大雑把に書く。まあ、それはいつものことだが……。

1.

私は「選挙」で自宅投票やコンビニ投票を可能とすることには賛成しない。現行の管理水準を確保するなら、コストがメリットに見合わないと考えるからだ。しかしネット投票には別の期待を持っている。

ICタグ付の住民カードで個人認証する程度の管理水準で、全有権者を対象としたアンケート調査として、ネットを利用した自宅投票やコンビに投票を利用できないか。政治の仕組みを直接民主主義に寄せたい。年2〜4回くらいの頻度で、3〜5の事柄について高い投票率で国民アンケートが実現すると、政治と民意の距離が縮まると思う。

税制や金融政策などは、問題を個別に切り出して意見を募ることに疑問がある。また経済問題は「国民が求める政策」と「よい結果」の重なり具合がいまいちであることを示す研究が多々ある。したがって、具体策は政治家と専門家に任せて、結果の良し悪しを選挙で審判するのが妥当だろう。

しかし「脳死移植」「夫婦別姓選択制」「女系天皇の是非」など、人々の意識が議論の中軸に据えられている問題は、国民に直接、意見を求めた方がいいと思う。また、制度そのものは議員が決めるべきだとしても、「さじ加減」の部分は、国民に問うべき場面が多いのではないだろうか。

2.

正直、政党政治にはうんざりしている。とはいうものの、先に述べた通り、多くの問題は経済を介して連関しており、個別に国民の希望を叶えていくのはまずい。だから政党選択という大雑把な選挙の仕組みにも妥当性はあると思っている。それでも、地元で立候補した数人から、所属政党で候補者を選ぶのは、つらい。

では具体的にどのような選挙制度を望んでいるのか……。

まず、死票の多く出る選挙方式には賛成しない。また国政選挙が地域代表制を採る理由についてはいろいろ説明があるが、小学生の頃から現在に至るまで、私は納得できずにいる。いろいろな候補がいていいだろう。地域代表も階層代表も職能代表も、等しく全国区で戦ってほしい。

というわけで、「全国区(のみ)」がいい、と思っていたりする。学識者のために比例代表並立制としてもよい、とは思う。選挙活動は選挙公報、所信表明用ウェブサイト、街頭演説に限定し、ポスター、チラシ、名前を連呼する選挙カーは禁止することで立候補の経済的な敷居を下げるのはどうか。

政治が直接民主主義に寄っていくことで、政策志向への転換が起きれば、議員単位の判断が重視されるようになると思う。間接民主主義のメリットを必要最小限に保持しつつ、実質を直接民主主義に寄せていくことができないか。

3.

無茶をいうなら、議員なんて「抽選で選ばれた国民」でもいいんじゃないか、とさえ思う。裁判員制度のように、専門家の助言を受けつつ、国民の意思を率直に政治に反映させていく方が、国民の満足度は高まるのではないか。専門職としての「政治家」は、助言者に徹した方がよくはないか。

大臣は組織のトップなので、まあ、そういうわけにもいかない。しかしこの問題は、議院内閣制をやめて、大統領制にでもすれば解決できたりはしないか。ちなみに日本の金融政策などは、以前から最高意思決定機関のメンバーに、素人が任命され続けている。優秀なスタッフから上がってきた資料と説明をもとに、常識や生活感覚を活かして政策を決めているのだそうな。

これを知ったときは愕然としたのだが、「なるほど、それで日銀の金融政策は庶民の常識的な感覚に沿っているのか」と納得もした。世界的に金融政策だけは「庶民感覚に従うと過つ」という経験則があり、それゆえ金融政策を司る中央銀行は、民意を反映しやすい国会や政府から一定の独立性を持たせることになっている。だが、日本では政府が世論から遊離して、日銀が民意を体現している。

政治が国民の意志と切り離されていていいはずがない。国民が判断を誤ったら、その痛みをフィードバックして、新しい判断を促すのが基本線であるべきだ。政治家の善意は理解するが、安倍内閣以降、歴代の政権は民意に反する政治を続けて次々に倒れている。

民主党は野党時代、庶民の低金利への不満とインフレ恐怖を利用して、与党の推した金融緩和に積極的な日銀副総裁候補を参院不同意で葬った。ところが、いざ政権をとって参院選を終え、3年間の選挙空白期間を迎えたなら、今度は日銀に緩和圧力を加える側に回っている。いつまでこんなことを続けるのか。……。

平成22年9月14日

1.

「地方分権」と「国土の均衡ある発展」は両立しない。地方分権を進めれば、必ず経済格差は大きくなる。富の再分配を縮小して自主自立を基本とするのだから、それは必然だ。

「地方が疲弊しているから分権を進めるべき」という意見に、私は首を傾げる。しかしまあ、衰退過程にある地域が形勢を逆転する可能性は低いので、「最後の悪あがきに国が付き合うのをやめて、自主財源で好き勝手にやってもらいましょ」と解釈すれば、賛成してもいいかな。ようは納得の問題。手枷足枷を外して、思う存分やりたいことをやって、それで滅びるなら、諦めもつくというもの。

しかし誰が屍を拾うんだ。夕張市だって、破綻してしまったらもう、誰も救済合併なんかしようとしない。財政難の自治体こそ集権による合理化の利益を追求しなければならないのだが、平成の大合併においても、本当にヤバイ自治体の多くは合併できなかった。

2.

分権すればエゴが勝つ。「隣町のことなんて知るか、バーカ」となる。

成田市は1954年に7町村が合併して誕生した。数十年後、空港ができて豊かになったとき、ろくに税収のない市内の「お荷物」地域に下水道を普及させていくことに、大きな反対はなかった。しかし「さらなる合併を行って空港の恩恵を周辺市町村にも分け与えよう」という市長の提案は、市民の総スカンを食った。

約半世紀の間に「成田市民」であることは既得権益と化した。たまたま1954年に合併しなかった周辺町村の人々が、飛行機の騒音だけもらってロクな恩恵のないことなど気にしない。それが市民の意識だった。

ちなみに空港の騒音は、じつは成田市の中心街には響いてこない。空港は市の外れにあって、飛行機は中心街の上空を決して通過しない。成田市民の大多数が空港の建設にも拡張にも賛成してきたのは、そのためだ。空港には、太平洋と茨城方面から飛行機がやってくる。成田市の周辺には、ケチな補償金だけで涙を呑んできた町村がいくつも並んでいる。

だが成田市議会は市民の意見を反映し、週刊東洋経済「日本一住みやすい市町村別ランキング」なんかに一喜一憂していた。成田市民には搾取者の自覚がない。市の外れまで行けば、境界の向こうに下水道なき町並み延々と連なり、その頭上を、我が街に税金を落とす飛行機が飛んでいる様子を見ることができた。しかし、「合併にメリットなし」が市民の結論だった。

結局、成田市民は膝を屈して「吸収合併」を受け入れた町村の合併のみ認め、「対等合併」を求めた町村との合併は許さなかった。境界線の向こうにいる人々の苦しみ、恨み、憎しみなど、「見ても見えない」ということだ。

3.

財政的に豊かなはずの成田市が、どんどん借金を増やしていくのは、市民がそれを求めているからだ。こうした市民との対話録を見ると、そのことがよくわかる。

印旛地域の行政中心地は成田市の2つ隣に位置する佐倉市だ。江戸時代には老中を輩出した佐倉藩があり、明治時代には7県が合併した印旛県の県庁が置かれた街である。現在も、保健所やパスポートの交付窓口などがある。博物館も美術館も大学もある。東京から帰る電車が深夜まで走っている。成田市民は、佐倉市民が羨ましいんだな。

しかし成田市域の大半は幕府領。下総佐倉藩の「領地」ではなかった。よそ者の私などは「一通り窓口や施設の揃った街に暮らしているんだ、という気分が味わいたいなら、佐倉市に吸収合併されるのがいちばん安上がりだ」と思うのだが、賛同されたことはない。佐倉の下に入るなど考えられない、らしい。

余談:

市内の高校生と市長との懇談会の記録もあった。高校生の要望は「道を広くしてほしい」「カーブミラーを大きくしてほしい」「街灯を増やしてほしい」「電車の本数が少ない」……なるほどね、高校生にとって市というのは道路や鉄道のことなんだな。

市長 あと国際人とか、こういうのかな、とか。
成田高等学校A 国際人というのは何かピタッときませんが、今、成田高校にALTがいて、僕らはその人とうまくコミュニケーションをとれないんですよ。英語は余り得意じゃないから。でも、ジェスチャーで頑張ってとっているんで、うまくやっていけるような制度というか、何というか……。
成田高等学校B おまえが勉強しろよ。
成田高等学校A まとまりませんでした。

15年経っても、変わらないな。生徒は英語が苦手で、ALTは意地でも日本語を勉強しない。そして生徒会長は勉強が得意でない。

高校生と市長の懇談会(記念写真)

参加者の大半は生徒会の役員とのこと。写真を見ると、女子生徒が7割。ちなみに全て共学校。私と同期の生徒会長も女子だったし、書記も含めれば3年間ずっと女子生徒が生徒会役員の過半を占めていたように思う。全校生徒の男女比は3:2くらいだったから、生徒会役員に立候補する割合は女子の方がかなり高かった。

30年後には、日本の政治家の過半が女性になるのかもしれないな。

平成22年9月13日

「道州制+地方分権で中央省庁の大半を解散してしまえ」みたいな意見には乗れない。

1.

地方分権の利益を説く人が、まともな実証データを出しているのを見たことがない。他方、市町村の合併は行政の効率化に、短期的には多少の、長期的には一定の効果があるというデータは、いくつか目にしてきた。企業の合併と同様、分権ではなく集権にこそ、合理化の利益はあるのだと思う。

私の暮らす栃木県小山市は、半世紀ほど前に間々田町と合併した。当時、間々田と規模に差のなかった野木町はその後、独自にこじんまりとした福祉施設、工業団地、スポーツセンターを作った。どれも小山市内の各地に立派なものが存在し、車で移動すれば多少道に迷っても1時間以内に到着できる。

旧間々田町には公共施設が乏しいが、(私の知る)多くの住民は、さして不満に思っていない。「旧間々田町」の範囲をきちんと認識しておらず、単純に自宅から近いか遠いかという判断しかしていない。だから施設の場所が昔の町域の外であっても、交通の便がよければ不都合ないわけだ。

住民の満足度が同等なら、経費は安い方がいい。野木町が間々田と同時期に小山市に合併していれば、施設の集約が可能だったはずだ。

2.

私が育った成田市は、数年前に近隣の町と合併した。そのとき(少なくとも私の両親の周辺にいる)成田市民が衝撃を受けたのは、新規加入地域の下水道と都市ガスの普及率の低さだった。図書館や公民館、レジャー施設なんかを作る前に、やるべきことがあっただろうに……そう思った。いま急速に下水道とガスの工事が進められているが、「人間は生活の実質より見栄とプライドを重視する」事実に、人々は慄然としたのだった。

地方自治体の境界線は、住民の心に枠を作ってしまう。中小の町村が、何でも自前で施設を持つ必要はない。隣町に一定のお金を払って、施設を使わせてもらえばいいのだ。が、「我が町の土地にない施設に公金を投入するのは、どうしても許せない」というのが住民感情である。

県も同じだ。「なぜ我が県には空港がないのだ」と考えてしまう。そうして、どれだけ無駄遣いをしてきたのだろうか。県単位で人口の増減に一喜一憂したり、県単位で産業メニューをフルコースで揃えようとしたり。地域エゴのために合理性がどれだけ歪められてきたか。「一票の格差」もその典型だ。「まず各県に代表を1人立てる」という区割りの原則が、参院選の1票の格差を生む元凶である。

夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。

3.

矛盾したことをいうようだが、県下に政令指定都市が誕生したり、政令指定都市が行政区を設けたりすることには、合理性があると思う。これらの制度が、集権の利益を損なわないよう一定の配慮をしている点に、私は注目したい。

「結局、行政区を設けるなら、市そのものを分割すればいいじゃない」とはならない。市長も市議会もひとつでいい。しかし、ある程度のサイズで分割したほうが都合のいい部分は分割しましょう、と。政令指定都市も、都道府県と完全に同等の扱いとはされていない。警察、教育、農林、防災など、人口より地域的な広がりを重視する意義のありそうな分野は、概ね都道府県の担当となっている。

ようするに、事業の性格によって、適切な規模というものがあるのだろう。都道府県と政令指定都市の仕事の区分は複雑なのだが、誠実に考えていけば、どうしてもそうなるのではないか。道州制を導入したって、中央省庁のそれぞれに、国が担当するのがふさわしい仕事が残るはずだ、と思う。

平成22年9月12日

自由市場の効率性を担保するのは、消費者の「選択しようとする意思」にある。また自由な市場には、消費者が真に望むものを提供する機能もある。

営利企業を野放しにすると、「消費者を騙す」「情報を隠す」「人権をないがしろにする」といった手法がまかり通る。いずれも市場を自壊させる行為だが、倫理観に訴えるのは愚策。適切な規制により、自ずと市場が正しく機能するよう導くべきだ。消費者に判断基準を与えること、労働者の人権を守ることを義務付けるのは、正しい規制だ。

他方、消費者が何も考えなくてよい状態を作ろうとする政策には反対である。JAS法やJISマークなど、良品を分かりやすく示す施策なら大歓迎だが、「こんにゃくゼリーの硬さに基準を設け、規格外の製品は販売を禁止する」といった、消費者の選択肢を行政が予め絞り込んでしまう施策は受け入れ難い。消費者が「選ぶ」必要がなくなれば、市場は死んでしまう。

とはいえ、高リスク商品を消費する自由を単純に認めれば、外部不経済が生じる。そこで「メーカーに事故賠償の保険加入と、保険料の価格転嫁を義務付け、保険会社が商品のリスクに応じて保険料率を上下させる」といった施策が考えられる。こうなれば、商品価格はリスク発現時の社会への影響を加味したものとなり、公平な競争になる。

現在の食品市場では、餅や飴(窒息)、生野菜(食中毒)などに特権が与えられている。既に市民権を得ている危険食品なら流通を許可され、危険が発現した際の費用を社会に押し付けてもよいが、新たな危険食品の登場は断固として認めない、といった考え方には与しない。

補記:

ゆっくり健康を蝕むような要素(発がん性)などについては、保険が機能しない可能性があり、流通規制もやむをえないかもしれない。しかし原理的には「発がん性物質の含有が表記され、発がん性物質の存在が価格に反映されているならば、消費者の選択に任せてよいはずだ」と考える。

実際問題としてはいろいろ難しい点があるだろうが、外部不経済を圧縮し、可能な限り市場の選択に委ねる領域を拡大していく方が、自由で楽しい社会になると思う。

平成22年9月11日

妄想だと思うので、実現性は脇へ置いて、賛否など。

1.ネット選挙の導入

選挙活動のネット解禁には賛成。しかし自宅やコンビニでの投票は、安全水準を維持するならコストとメリットが対応しないと思う。

2.一人一票の実現

県県合併が進めば、自ずと問題は解消に向かう。

3.道州制の導入

「地方分権」のための道州制なら、全く賛成しない。地方行政を効率化するための県県合併なら大賛成だが。

4.移民の積極的な受け入れ

基本的に反対。少なくとも「労働力不足対策としての移民受入」は、今後も一切考えるべきでない。その理由は「人手不足こそ経済構造の転換と国際分業の推進による生活水準の向上を実現する最強のエンジンだから」。下記リンク先に、もう少し詳しく書いている。

5.外国語教育の早期化とインセンティブ強化

政府のやることじゃないな。英語教育に本当に大きな利益があるなら、まず民間企業が、社員の英語学習に大きなインセンティブを用意するだろう。大人が勉強していないのに、子どもに勉強させようとするのは、基本的に間違っている。

だいたい、現在の必須科目の習熟レベルを見るがいい。読み書き計算だけでもボロボロじゃないか。学校教育に幻想を抱いても金をドブに捨てることにしかなるまいよ。

6.間接税中心に税制変更

反対。とくに消費税の複数税率には断固反対。所得の再分配は、むしろ強化すべき。累進強化がダメなら、所得税を「一定税率+定額給付」として強力な再分配策を望む。また税制が市場を歪めるべきではないと考えるので、様々な優遇税制は、可能な限り捨ててほしい。

7.あらゆる分野で規制を緩和

既得権益を守り、「変化」に歯止めをかける規制には、基本的に反対。先住民利権の類は、その典型。

ただし、市場競争を正しく機能させるための規制には賛成。具体的には、「消費者を騙す」「情報を隠す」「人権をないがしろにする」といったことが競争に有利に働かないような規制は必要。

8.解雇規制の完全撤廃

デフレを解消して失業率を下げるのが先。理想像としては支持するが、長期的に人手不足が続く見通しが立つまで、実施すべきでない政策。

9.市場機能の整備

これは7.の範疇じゃないのか。

10.65歳以上の生活保障

別に65歳で区切る意味を感じない。あと年金という仕組みは好きではない。基礎所得制度のような、無条件で支給され、さらに働けばその分だけ収入が増える制度が望ましいと思う。

感想

私が10項目を挙げたら、こんな取り合わせにはならないな……と思って、少し考えてみたのだけれども、まとまらない。「とりあえず10項目を挙げてみせる」のがChikirinさんの強みで、私には真似できない部分。

平成22年9月10日

私も給与明細を公開したりしてきたけれども、投票先は秘密にしておこうと思った。

あと本題には関係ないけど、松尾さんのページのデザインなんかを見ると、内容があれば見た目はどうあれ大勢に読まれるということなんだろうな、と思う。フルHD液晶ディスプレイとか、別に気にすることはない。書きやすい環境で書けばいい。見た目を気にするより書くことの方が大事。

とはいうものの権丈善一さんのように記事をPDFで公開する方式だと、さすがに厳しいか。それでも9月8日公開の「勿凝学問 328」のように、大勢の注目を集めることも。

権丈さんがHTML形式で見解を公表しても、せいぜい読者が数倍に増える程度のことだろう。松尾さんがRSSなんかの出るブログに記事を投稿しても、読者が1.5倍になるかどうかすら確信を持てない。

平成22年9月9日

流行るのか? と思ったけど、どうも面倒くさすぎるみたい。ていうか、はてブのエントリーページって、ページビューがよくわからず、ネタを投下する意欲をかきたてるには微妙なのかも。twitter連携でAAを作る場合、より読者が多い(ように感じる)自分のtwitter投稿が意味不明な感じになってしまうわけで、本末転倒な感じがしてしまう。

はてな匿名ダイアリーだと無名のブログよりよほど読者が多くて、はてブも伸びやすいという特徴があり、それゆえ自信作をあえて匿名ダイアリーに投稿するという流れがあったりする。結果、ますます、匿名ダイアリーの読者が増える好循環。自信作の短編を2ちゃんねるに投稿してまとめサイトに拾われるのを期待する、なんてのも同じようなものかな。

まあ、Twitter連携機能はAAを貼るためのものじゃないから、別にいいっちゃいいんだけれども。

追記(2010-09-23)

ニコニコ生放送を連想した。

平成22年9月8日

他人の善意に頼る「ゾーニング」はまったくの無意味です。

そうでしょうか。私がこの記事で「実例」をリンクしないのは、「善意」ゆえです。何の意思表示もなければリンクしていてもおかしくない。具体的な罰則がなければ、物理的にブロックできなければ、意味がない、と私は考えません。

もしそれを無意味だというなら、えっけんさんの批判だって無意味ではないですか。いくら批判したって、検索避けを布教する自由はいささかも脅かされないのです。えっけんさんが「意味がある」と思う程度には、検索避けというマナーを布教する言説にも意味はあります。

言葉の力、文化的な戦いによって、問題の発生確率を許容できる水準まで減らすことは可能です。確率をゼロにするだけが「意味」じゃないし、認証制にしたって仮面を被った敵が入り込む可能性はゼロになんかなりません。「嫌だ」と声を上げるのは大切なことだと思う。

ソーシャルブックマーク問題もそうだし、今年だと「勝手にToggeterにまとめられたくない」問題もそう。

昔からいっていることだけれども、リンク(など)の究極的な自由と、「嫌だ」という意思表示は矛盾しません。どうして「嫌だ」というのか、(すぐには)理解できなくたっていいよ。現にいま「嫌だ」といっている人がそこにいる。それ自体、意味のあることじゃないか。

「嫌だ」という気持ちを踏みにじっても罰はない。たいていの自由なんてのは「やっても法的に罪ではない」だけ。自由を行使する者が、それによって傷つく人の気持ちを斟酌しないでよいはずがない。ときに「それでもやらねばならぬ」こともあるでしょう。それは仕方ない。しかし、信念を押し立てて他人の気持ちを害することを「気にしない」なら、いずれ自由は憎しみによって制限されることになると思う。

どちらの意見が正しかろうと、いま相手が納得していないという現実を、無視すべきでない。

私の中では関連してるえっけんさんの記事3つ

平成22年9月7日

1.

私には「不特定多数には見てもらいたくないけれど、閲覧制限はかけない」というウェブサイトの運営方針が理解できないので、検索避けタカ派の来襲を防ぐ以外の検索避けのメリットが思い浮かばなかった。

私は逆に、どうしてえっけんさんがいつまで経っても「理解できない」のかがわからない。「検索避けの押し付け」を批判することと、「検索避け」をしたいと思う人の気持ちを理解することとは、切り離して考えることができるはずです。同意はしなくてもいいけど、理解はしていいと思う。

2.

同人サイトをやっている人(の大半)は、自分自身が同人サイトの世界に出会うことができたのだから、「検索避けをしているサイトが権利者の方々に発見されることは絶対ない」とは考えていないはずです。

また実際に会員制のサイトをやってみればわかるけど、ふつう閲覧者は激減するわけです。pixivやmixiのようにインフラと化したコミュニティの中に入ることは、むしろ閲覧者を増やしたりもします。しかしmixiで閉鎖型のコミュニティを作ってみれば、あまりの反響のなさに驚くと思う。「全体に公開」「参加自由」でないと、なかなかコミュニティは成功しない。「マイミク限定」のコンテンツが大ブレイクしてマイミク申請が殺到するのは例外中の例外。mixiの中で「全体に公開」していないと、つまり敷居を低くしないと、大勢に読まれるのは難しい。(とくに「交流」の苦手な人はそう)

やっぱり、自分のコンテンツは、そこそこ大勢に見てほしいですよ。たまに人気が出すぎて隠れる人もいますが、大半は「もっと多くの人に見てもらいたい」と思っているのです。だから会員制にはできないのです。

検索避けは、意思表示です。「ふつうに作品名で検索しても、見つからないようにしています。一般的なファンの方のお目を汚すつもりは毛頭ございません」ということです。同人活動に理解のある人に向けて公開しているのです。興味のない方は、どうか内容に触れず立ち去ってほしい。そういう願いが、検索避けには表れています。

世の中にはヤクザみたいな因縁付けがいて、自分の気に食わないものが「目立っている」ことを攻撃するのです。「キモイ」「閉鎖しろ」みたいな書き込みは、絶えず行われています。それが多いか少ないかといえば、私の見るところ、ヘンな人に目を付けられてしまったケースを除けば、大した量ではない。でも、当人にとってはショックなことです。

そういうわけだから、会員制にはしないけれども、「目立たない」ようにしたい。いちゃもんをつけられる要素は排除したい。もちろん、コンテンツそのものは守らなきゃならない。

検索避けは、見た目に分かりやすい「世間様(ふつうに作品名を検索する人)に迷惑をかける意思はありません」という態度表明なんです。大した効力はない。それは実際に荒らしに遭遇した人ならわかる。でも、絶対にやりたくないことは除外して、「自分にできることは何か?」と考えると、選択肢はあまりない。

3.

たいていのサイトは、ほとんどの期間、平穏に運営されるものです。検索避けなどという実効性の乏しい荒らし対策が滅びないのは、平和の裏返しだと思います。

嫌がらせ行為を受けないためには、検索避けをしておくに越したことはないのでは、と思うようになった。

何故なら、「検索避けが同人サイトのマナー」と信じる人の中には、ちょっとアタマがイカれちゃったひとも決して珍しくなく、検索避けをしていない同人サイトを探しては「なんで検索避けをしないのッ! 同人サイトの常識ですよッ! 晒されて荒らされて閉鎖に追い込まれますよッ!」と、執拗にアドバイスを書き込み、検索避けを強要する人がいるからだ。(自分が荒らし行為をしている、という自覚がないのが困ったところ)

馬鹿馬鹿しいな、と私も思う。こうなるともう、何のための検索避けなのか。

それでも、同人をやってる人の少なからずには、自分の創作活動が「見る人を傷つける」という自覚があります。同好の士なら喜んでくれるけれども、みんながそうではないことを知っている。ときどきであれ、決して忘れることのない頻度で、繰り返しその事実と向き合わされてきたんです。

高校時代、文藝部の先輩が「こんなん描いちゃいました。すみません、すみません」というのを聞いてジョークだと思ったのだけれど、間もなく、それは本気だったことを理解しました。「常識」の側に立つ者は、個人の不快感をこれほどまでに尊大な態度で表明できるのか、という現場を見せつけられたのです。他人の趣味なんか、どうだっていいだろうに……。でも私は、ただ黙っていた。まあ卑怯者です。

生涯に一度だって、こんな経験をすれば、「思い知る」には十分です。しかし実際には部活が一緒だっただけの私ですら、数回、現場に遭遇しました。同人界隈で、「目立たない」ことがマナーとして定着したのは、自然なことだと思います。必死な人には、何か嫌な思い出があるのですよ、たぶん。

平成22年9月6日

貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか

基礎所得の金額は、いちばんの関心事。にもかかわらず、山森亮さんの著書などを読んでも、根拠は明確でない。橘木俊詔さんとの対談本は読みやすいけど、読了後の感想は「橘木さんの主張する漸進的な改善の方がずっと現実的だし、実際、それ以上のことは起きそうにないな」というものでした。

基礎所得は、あまり金額が大きいと、労働意欲を損ないます。また所得税を財源とした場合の税率が40%程度に収まるのが7万円という水準。それ以上は、とても国民の同意を得られそうにない。そして国民年金の水準も7万円程度。そんなわけで、7万円はギリギリ現実味のある上限いっぱいという数字らしい。

「7万円では生きられない」という意見への明確な回答も見当たらない。でも私なりの予想はあって、それは「1人で暮らすのは贅沢だ」「最低水準の生活=長屋暮らし」というもの。プライバシーを守って生活したければ、基礎所得の他に稼ぎを持ちなさい、と。

両親が健在で結婚して子どもが1人いれば、賃金労働をせずとも月収35万円になります。これは物価の違いを考慮しても昭和50年代に無年金の老親を抱えていた私の祖父母とほぼ同等の経済状況。倹約に努めれば、衣食住には不自由しません(上を見ればキリがない)。

現在でも、国民年金で暮らす老親の片方が亡くなると、経済的な問題で親子が同居することが珍しくないでしょう。同居は生活のコストを下げます。家族のいない人(など)が問題ですが、基礎所得制度が導く解は「長屋の復権」だと思います。多くの人は「そんなのは嫌だ」と思うので、基礎所得が就労意欲を奪う程度は大きくないと思います。

それなら給付の対象者を絞って手厚く保護した方がいい? でも、財産を空っぽにするまで給付されない生活保護などは、まずプライドを傷付けるし、どうしても制度からこぼれ落ちる人が出てきます。「全員を当事者にする」という基礎所得制度は、やはり魅力的に思えます。

……とはいうものの、この話は基礎所得の水準が最低でも月額5万円はないと成り立たない。いきなりそんな高水準で実現するということがありえるか。まず考えられないですね。

補記:

基礎所得制度があれば官庁は要らない、みたいな意見は虚妄だと思う。以前も書いたけど、営利企業は、ルールと、ルールに実効性を持たせる仕組みがなければ、人権侵害だろうと詐欺だろうとやってしまいます。自由市場は消費者の選択によって機能しますが、まじめに勝負するより騙す方が簡単なので、どうしてもそうなってしまうのです。

だから現金給付中心の福祉が実現しても、消費者の真に自由な選択を保障するために、相変わらず官公庁は必要とされ続けるでしょう。規制緩和によって公務員の仕事がなくなるというのは、勘違いだと思う。

夢をかぶせないで、所得再分配のひとつの方法として検討してほしいところ。定額給付金や地域振興券、子ども手当てへの反発をみるに、日本では国民の支持が得られないことだけは明確なようだけれども……。

関連:

孤独死の最大の原因は、人々の価値観です。多くの人は「孤独死」より「赤の他人と気軽に一緒に暮らすこと」を真に忌み嫌っているのです。

国民年金では生きていけない、生活保護が足りない、ベーシック・インカムなんて非現実的……これらすべて「少しでも気の合わない人とは一緒に暮らしたくない」という価値観ゆえです。貧しい人が肩を寄せ合えるなら、ベーシック・インカムは月5、6万円程度あればギリギリ足りるので、現実味を帯びてきます。

平成22年9月5日

1.

私は基礎所得制度に賛成ですが、自分の意見はもやもやしているので、いくつかの疑問に回答することで、ある程度まで考えを明確にしていきたい。とりあえず、strangeさんの疑問に取り組んでみます。

ベーシックインカムでよくわかんないことがあって、例えば1人毎月7万円(※以下7万円は全部例ね)を全国民に配ったとしてさ、それで物価が上がったりしないのん?

全国民に配分する基礎所得の財源は税金なので、世の中全体のお金の量には影響しません。

所得の再分配は現在も行われています。個別具体的な状況を切り取れば、分配の仕方によって経済は影響を受けるでしょう(富裕層向けの市場が縮小し、低所得者層向けの市場が拡大する、など)。しかし全体としては大きな変化はないと考えられます。

「貯蓄」がタンス預金なら、「貯蓄」が減って消費に回れば、物価が上昇します。しかし、利息がつくような貯蓄の場合、その裏には通常、投資が存在します。そうでなければ、銀行は倒産してしまう。貯蓄率の高低そのものは、物価上昇率に直結しません。

あるいは、現在は不況で生産能力が余っている状況なので、40〜80兆円分くらい消費が増えても、一般的な物価が急上昇するとは考えにくい。

もちろん家計が消費する商品だけに注目すれば、一時的に価格が上がるでしょう(その裏で消費の減ったものの価格が下がる)。しかし、日本でちょっと消費が伸びたくらいで材料価格が上昇するわけはない。価格が上がれば新規参入や設備投資が盛んになり、競争が激化し、結局は元の価格に落ち着くと予想できます。

2.

行政は大幅に簡素化されるため、関連省庁や機関・人員も大幅に縮小・削減できる。雇用を生み出すだけが目的の、ムダな公共事業も不要になる。いうまでもないが、これらの財源がベーシック・インカムの原資に転換する。

(中略)なんかこういうの見てると、公務員の給料や公共事業からのもらっている給料を現状月何十万円からベーシックインカムだけの月7万円にして、その差額を国民全員に配ろうっていってるだけじゃないのかなあってきがしてくる。

まず公務員の給与はGDPの6%ちょいなので、人件費をゼロにしても財源たりえません。基礎所得の財源は、税金しかないはずです。

リハ医さんの主張には、私も賛成しません。基礎所得制度で行政を簡素化できるとは思えません。国民が、それを望んでいるようには見えないからです。所得再分配のやり方のひとつ、という以上の意味を持たせるのは難しいのではないでしょうか。

ただ「現金支給か実物支給か」というのは、よく議論されるところ。現金支給派は「理念を欠く」と批判されがちですが、「人々が真に望む世界へ最も効率的に接近する」ためには、使い道を国民に任せるのが一番いい、というのが理念なんです。特定の人の掲げる理想に国民をつきあわせるような政治はダメだ、と。でも各自が自分の「正しさ」に自信を持ち、他人の判断を尊重しないなら、現物支給の予算分捕り合戦は必然です。

本音と建前のズレが大きな社会では、現金支給は本音を、実物支給は建前を強調することになります。本音が前面に出た社会のあり方を「堕落」と解釈するなら、現金支給が嫌われるのも理解できます。逆に建前の押し付けに反発するなら、実物支給に不快感を示すことになるでしょう。

建前にも支持率の高低があって、公務員の給与水準や、高速道路の延伸工事などは、相当に支持を減らしているようですね。しかしそれらは建前の支持率争いで脱落しただけで、実物支給そのものに疑問を抱く意見は、日本ではあまり活発ではなさそうです。

個人的には、所得税の様々な控除のうち、人の生き方、消費の仕方を誘導するタイプの制度は、バッサリ落としてほしいと思う。でも、それがいちばん難しいのだろうな。

3.

つーかさ、基本的に再配分の仕組みをどんな風に変更しようが、どうかんがえても総額が足りないんだから、日本国外からいかに金を分捕ってくるか(適当な投資を呼び込むとかじゃなく再配分の仕組みを通して国民に再配布できる金をってことね)を真剣に考えないとダメなんじゃないかとおもうよ、おれは。政府系投資ファンドを作って海外で利益をあげてをベーシックインカムの原資にしたらどうかなあ。

現状でも、世の中の4割の人は賃金労働をしていません。でも、生きている。それは親が子を養うとか、年金とか、あと一部は生活保護などによるもの。だいたいそれでうまくいっている……といえば、まあそう。

だけど、「だいたい」からこぼれ落ちた人を「仕方ない」といったり、何かしら粗探しをして「当然だ」といって、痛みを我慢させる仕組みでいいのか? これが私の問題意識です。論者によって、基礎所得で解決したい問題はかなり違っていて、呉越同舟の感はあります。私は基礎所得制度を所得再分配の一方式と捉えているので、「総額は足りている」と考えます。

あと、政府系投資ファンドについては、「みんなのお金でリスクを取るのはおかしい。民間が自己責任でやるべきだ」と考えます。民間が儲けたお金を、所得税や消費税で吸い上げて、分配の原資とするのが正しい。それを遠回りに感じ、中抜きしたいと思うのは自然ですが、それは結局「儲かる会社を買って国営企業にすれば中抜きゼロだよね」という話に行き着いてしまう。

もっとも、年金基金などは昔から基金の一部を投資に回しているわけですが……。

平成22年9月4日

エアコン設置費は、1校あたり約5000万円と見込まれ、全校に付けると約300億円が必要という。

私が小中高の12年間通った私立の小中高一貫校では、毎年設備費を積み立てて、「3年に最低ひとつは何らかの設備改修を行う」ことにしていた。トイレ改修などに当たると、ほとんどが積み立てに回って単純には8割くらい払い損になることもあるのだけれども、昔の積立金で校舎や講堂が建ったのだから、お互い様。

公立校は、お金を溜め込むことができないのがつらいよね……。

横浜市立金沢高(金沢区)など同市立高3校では昨年度以降、保護者が資金を出し合ってエアコンを設置した。金沢高は今年6月、リース会社と10年契約を結んでエアコンを取り付け、空調整備費として保護者1人あたり、年間5000円を負担している。

その手があったか! なるほどね。これなら、修学旅行を1泊減らすか、ちょっと近場へ変更すれば金銭的な問題はないな。

金額が小さいので「自分で負担すりゃいいじゃんか」とは思うのだけれども、実際にはそれがなかなか難しい。金額の問題ではなく、計画を立案実行する意志、そして「追加負担」という発想を大勢に納得させる方策の問題なんだろう。とくに保護者は3年で入れ替わってしまうのに、10年契約を実現しているのは驚嘆に値するところ。どうやって異論を打ち負かしたのだろう……。

こういう前例が積み重なって、保護者が主導権を握って教育環境を整えていくことが、特別なことではなくなっていってほしい。

ちょっと待て、公立学校なんだから行政に訴えるのが当然じゃないか? 私は、そのようには考えない。貧窮者への支援は公立校の生徒でも私立校の生徒でも同様に行うべきだし、逆に富裕層の子女が、単に公立校に合格したからといって進学費が安く済むのは不合理だと思う。私立校の保護者たちは設備費を積み立てて20年前にクーラーを設置していた。公立校で同じことができない方がおかしい。

つまり、クーラー代を払えない人に対する何らかの支援ならわかるが(それは修学旅行の費用積立などについて部分的に実現している)、クーラーそのものを公費で設置するのが当然だとは思わない。まず保護者自身が、自分の希望を実現する教育環境を実現できるような環境や制度を作ることが先ではないだろうか。

直感的には、年額5000円の負担を(ほぼ)直接の受益者に納得させることより、368万人の市民に負担を求めて受け入れられることの方が簡単だ、みたいな感覚には首を傾げるということ。しかし実際には簡単なんだろうね、議会に働きかける方が。

関連:

ニュージーランドの公立学校と主体的に学校運営に関わるPTAについて。興味深く読んだ。

平成22年9月3日

筆者のように敏感に「迷惑」を感じ取ってしまう場合、忙しい系の職場なら、世界中どこでも同じ問題があるよう。海外の映画や小説にも、「仕事で評価されるには家庭を犠牲にするしかない職場」は、よく出てくる。

ただ、働き方のバリエーションには差があるのかもね。海外の作品だと、仕事より家庭を選んでスパッと解雇された人が、とくに就職活動で苦労する描写なしにのんびりした仕事を見つける展開がままある。田舎へ引っ越したりして。「正社員だけど、暇で給料は安いよ」という職場が、日本にも、もっと増えるといい。

でも、当の労働者がそれを望んでいないんだよね……。忙しくてもいいから、もっと給料をほしいと思っている。当人の言い分としては、こんなに頑張っているのに給料がこれっぽっちなのはおかしい、というのだけれど。実際に儲かっていないんだから仕方ないじゃないか。

というか、現状は「棲み分け」ができていないんだろうな。同じ職場にバリバリ系の人とノンビリ系の人がいて、バリバリ系が多数派を形成し、ノンビリ系を「やる気がない。迷惑。死ね」と思っている構図。まあね、バリバリ系の成果を基準に給料が決まっているなら、ノンビリ系の人は成果にただ乗りしているという面がある。怒りはわかる。

ノンビリ系の人が、もっと起業しやすくなれば、状況が変わってきたりもするのかな。でも「給料は同業他社よりずっと安いけど、仕事と家庭の両立は十分できるよ」という人員募集(だけ)で会社をやっていくには、経営者の強い信念が必要。苦境に陥っても耐え切るのは難しいと思う。

平成22年9月2日

具体的には、こう。

  1. 過去に人気のあった記事の一覧
  2. ブロガーのある程度詳細なプロフィール
  3. 最近の記事一覧
  4. 月別の記事一覧
  5. TwitterやSBMなどへの投稿ボタン
  6. 関連記事へのリンク
  7. RSS登録のリンク
  8. QRコード
  9. 他ブログへのリンク
  10. ブロガーへの連絡手段

山田井さんが提示されている要素は、どれもあまり利用されないけれども、あって邪魔に感じる人はもっと少ないし、これがあるから二度と見ないなんて人は滅多にいないので、それなら用意しておいたほうがいいのだろうな……という感じ。

ただ私の場合は、「ふつう」ではなく「自分」が気に入るように設計することを優先したい。だから適当に取捨選択したい。もともとこの『備忘録』はテキストサイトのスタイルを気に入って、その形式を模倣するところからはじまっている。「ブログ」が上陸したのはその後のこと。そのためかどうか、全ページに情報満載のサイドバーやヘッダーをくっつけるスタイルは、「自分のやり方じゃない」と思う。

オマケの情報は別のページにまとめて、リンクひとつで済ませるのが私の流儀ではあった。例えば人気記事の一覧は、2003年から2007年まで、年別ページにまとめていた。だが自分自身が過去ログをもっぱら検索エンジン経由で探索するようになると、存在意義を見失って更新意欲も途絶えてしまった。しかし、たまに見直すと、なかなか有意義なんだ。今年の末に3年分まとめてもいいかな、と思う(たぶんやらない)。

SBMの投稿ボタンには関心ないな。月別の記事一覧は、ある。リンクをたどる必要はあるが。最近の記事一覧はトップページを参照してほしい。それを面倒くさがるような人の相手をする気はない。他ブログへのリンクはさ、別ページにおいてリンクするという形式ならいいけど、こういうのはメンテが面倒なんだよね。

……なんていいつつ、だんだん感化されるのも私のパターン。繰り返し嫌悪感を表明していたのに結局トラックバックを受け付けることにしたように、多少の情報は全てのページに入れてもいいかな、と。そこれで今年の4月、きっかけを得てフッター情報を充実させた。まあ、悪くない。

本文以外の部分をコンパクトにしたいという思いは変わらない。しかし一定のサイズの情報領域を作ることにはしたのだから、その範囲内で、情報を充実させていきたい。しばらく考えることにする。

追記(2010-10-06)

これまでdeztec.jpだけで案内していた連絡先を、各ページに付すことにしました。また従来はてなブックマークを優先連絡先に指定してきましたが、そのようには利用されていないので、取りやめました。ただ、今後も感想などは、はてブでいただきたいです。

その他、過去の人気記事一覧などをNoteに追加。あれこれの変更を反映してInfoも改訂しています。5年以上にわたって新規のご利用がなかったバナー画像は撤収しました。あのバナー画像文化って何だったんだろう。

平成22年9月1日

1.

良く働いて呉れたいい機械でした。マザーボードが死亡した模樣です。外してみたらコンデンサが何本も膨らんだり液噴いたり非道い事になつてゐました。

先日、会社のパソコンが新しくなったのだけれども、「調子が悪い」とぼやいていた方のはどれもコンデンサがダメになってました。

今囘のPC故障で感じたのは、矢張り壞れるにしてもバックアップがある事は安心だと云ふ事。データのバックアップもさうだが、マシンのバックアップもあると言ふのは、ネットジャンキーにとつては洵に有難い。

私の場合、最初に買ったNEC製のノートパソコンが何度も何度も故障してくれたので、2台持ちがデフォルトになってます。卒研の経過報告会は個人の都合と関係なく開催されたわけで……。定期的なデータのバックアップは「心がけ」ではどうしてもうまくいかず、自動化が必要だということを教えてくれたのも、このパソコンでした。

2台目のパソコンは中古のB5ノートにすることが多かったのだけれども、今はネットブックに落ち着いてます。

データのバックアップ先はSDカード、ポータブルHDD、Dropboxの3つ。実質的に据え置かれてるパソコンはHDDでいいけど、そうじゃない方はSDカードにして本体と一体化しておかないと、結局、面倒や邪魔が勝ってしまいがち。会社で仕事に使っているノートPCも、バックアップ用に常時SDカードが挿さってます。

2.

PCの組立てもWindowsの導入も「面倒臭い」のでやりたくない。「そこから先」に樂しみがあるやうになつて以來、「環境整備」はただただ苦痛なだけの事になつてしまつた。

私はもともとパソコン自体にはほとんど興味がないので、面倒なことはお金で解決したいと思ってきました。それで、経済的に十分な余裕ができて以降、パソコンは基本的にサービスの質に定評のあるエプソンダイレクトで買ってます。長期保証に加入し「期限後に故障したらアッサリ諦めてリサイクルに出す」と決めてます。自分の手を煩わせない。

「大掃除」を業者任せにして久しいけれども、人余りの状況でもあり「経済的余裕で労働力を買う快適さはかなり凄いことになってきているな」と感じます。最初のパソコンは20万円近い値段でした。いま使ってるパソコンの本体価格は4〜7万円程度。こうした価格低下分をあれこれのサービスに振り向けてみると、意想外の快適さがいろいろ得られて楽しいです。

Dropboxなんかも、有料版にすると用途がぐっと広がるわけです。無料の2GBじゃカツカツなんだけど、とりあえず50GBまで拡張すれば、映像と音楽以外はたいてい何でも常時監視でバックアップできちゃう。

昔はAcronis True Imageでシステムごとバックアップを取っていたのですが、何度も何度もパソコンが壊れて経験を蓄積した結果、「自分はデータだけでいいな」と納得しまして。「そっかー、壊れたかー。ついでに使ってないソフトは整理しちゃうか」みたいな。その場合、「ばっちり同期」有料版は最高だと思います。

ファイルのバックアップだけなら無料のツールがたくさんある? それはそうなんだけど、いちばん使い勝手のいいソフトが数千円〜1万円程度で買えるなら、今の私はお金を出しますね。

3.

入社時の手取り月給が13万円と少し。年に約1万円ずつ増えていき、近年、20万円を超えたときがひとつの転機だったと思う。同僚は相変わらずカツカツの生活を送っているらしいのだけれど、私は生活の満足度が急上昇。いったい何が違うのか。少し話してみると、「なるほどね……」と納得しました。

私は、「本体」をランクアップしないで、「付加サービス」を充実させているんですよ。例えば、新幹線には乗らないで、グリーン車で読書を楽しみながら移動する、みたいな。パソコン本体の性能を上げるのではなく、サポートサービスにお金を払う。車は買わない。徒歩で何でも揃う場所に居を構えて、ちょっと重いものは配送サービスで送ってもらう。部屋数より防音。

結局は、その方が満足感が高く、お金の節約にもなるのです(貯金も増え続けてる)。私だけかもしれないけど。