備忘録

平成22年8月31日

1.

メタな話になるが、7月と8月の備忘録は、4〜8月に作成したメモを元に、9月になってからリライトして公開した。

かつて、備忘録の下書きメモは、Webサーバーに置いていた。「ばっちり同期」を使って完全に自動でWebサーバーにアップロードする仕組みだった。それでもとくに問題はなかったのだが、現在はDropboxを使っている。

2.

今夏の決意表明は、虚しく砕けた。2006年、2007年は8月31日までに課題図書を全て読了することすらできなかった。2008年にようやく第一段階をクリアし、2009年には6冊の読書感想文を書き上げた。2010年は全18冊の感想文を書くことを目標としたのだが、2008年水準に逆戻り、という結果だった。

読書感想文の書き方を指南する大人は多いが、「こうすれば簡単」と口先でいうばかりで、実際に自分で「簡単に書いてみせた人」はいない。レビューと感想文は違う。そして、規定枚数の原稿用紙5枚という分量は、相当に長い。読書感想文を書くのは、たいへんなんだ。だから、まず俺が書く。全18冊の感想文を書いて、「感想文なんか簡単だ」なんてたわごとをぬかす連中に、「じゃあ書いてみろよ。俺は書いたぞ」といってやるんだ、そう思っていた。

私の怒りの背景には、「否応なく宿題に取り組まされる子どもたちに対して、選択の自由のある大人がお気楽に説教する」という構図がある。本当は大人だって、実際に感想文を書くのはつらいのだ。だから書き方だけ指南して、自分は書かないんだ。そんなの、許せるか。だから、まず自分が、書かねばならぬ。

2009年の6冊分では、迫力に欠ける。今年こそ、18冊分、書き上げねばならない。課題図書が発表される6月中旬から、夏休みが終るまでの間に書くのだ。

私には「逃避的に備忘録を書き始めると読書感想文が書けなくなる」という確信があった。だから「備忘録は書きたくない」と思った。リンク先の記事は、それを公言することで、自分で自分を追い込むために書いた。しかし、備忘録を自ら封じた私は、見苦しくも他の逃避先を探し回ることになる。

3.

5月頃から「ハーバード白熱教室ノート」の更新が苦しくなっていた。だんだん内容が高度になっていき、理解が追いつかなくなったのだ。そのうえ、職場の移動(異動ではない)に伴う引越しが重なる。それで5月から備忘録は途絶えがちになっていた。

7月になると『セイギのつくり方。』を作るのに協力してほしい、という話がきた。ちなみにこれは無給だ。私が飛びついたのは、「ノート」も感想文も壁にブチ当たっていたからではないか? 「忙しくて無理でした」といえる言い訳を、切望していたのだろう。

『つくり方。』は8月13日に公開された。しかし月末まで修正作業は続いた。「ノート」の空欄は17日までに何とか埋めたが、これも月末までずっと修正が続いた。『つくり方。』ので宣伝活動も、25日頃まで延々と続けた。そうこうする内、24日には地元の高校の夏休みが(実質的に)終ってしまった。27日、地元の学校の始業式。「えっ、31日まで夏休みじゃないの?」

読書感想文はひとつも書けていない。「もう、無理だ」……糸が切れた。そうして、夏は終ってしまった。

補足:

メモを確認すると、今夏、関東キー局で午後8時〜24時に放送された連続テレビドラマのほとんどを録画視聴しているらしい。うわぁ……。『つくり方。』の原稿が進まないから気分転換に視聴しているつもりだったけど、テレビを見飽きたから書くしかない、というのが実情だったか。

平成22年8月30日

1.

8月27日のサンデル教授の講演では、会場で手を挙げて発言した人が、教授の反駁によって次々に当初の主張を撤回していくという場面が繰り返された。

当日、会場にいて手を挙げながら指名されなかった人や、ネット配信でその様子を眺めていた人の一部は、そのことに落胆したり、悔しがったりした。ただ, 私の視界に入ってきた発言のほとんどは、気持ちを吐露するだけで、背景にある考え方がよくわからないものだった。だから「ああ、そういう人もいるのだな」としか反応できなかった。

だが、今日あらためて検索してみると、ある程度まとまった意見をいくつか見つけることができた。

twitterのハッシュタグ#JusticeJPで29日に交わされた議論
件の発言者たちは、ディベートの訓練または反駁を予想した自論補強の準備が不足していたので、よく考えれば十分に予想されたはずの反論に対応できず、腰砕けになったのだという。
日本人が英語で話すと論理的な構成力が下がるのかどうか。 : ひろゆき@オープンSNS
弱い議論をした発言者は、どちらかといえば英語で発言しようとした方に多かったように思えるので、日本人と英語の組み合わせに問題があるのではないか、という。ひろゆきさんの仮説は「論理的構成力が低いけれど、英語を披露したがる日本人がいる」「英語で話すと、論理的な構成力が下がる日本人が多い」この2つ。
Haruka Tsuboiさんの意見
サンデル教授は講演の冒頭で正義を説明する3つの考え方を紹介し、その先の議論を整理する補助線を引いているのだが、発言者たちの多くはその点を全く理解しておらず、その場の思いつきか従来からの持論を述べるばかりだった。結果、講演に資する発言者になれなかったのだという。

2.

私の感想はHaruka Tsuboiさんに近い。ただし、『ハーバード白熱教室』の学生たちの議論をていねいに追いかけた者としていわせてもらうと、ハーバードの学生たちも、自分の立場を明確に定めてはいなかったし、思い付きを話していたので、簡単に腰砕けになったり、論理の破綻を主張のエスカレートで糊塗したり、といった場面はたびたびあった。

  1. 例えば、雑誌で講義のハイライトとして取り上げられたアファーマティブ・アクションに関する議論では、ダニエルとハナのやり取りが興味深い。ダニエルの批判に対し、ハナはほとんど何も答えず、新しい、より大きな主張を打ち出して、結論を死守しようとする。最後には当初ハナが最重視していたはずの人種問題が消え去ってしまうことに、私はポカンとした。
  2. 代理母出産に関する議論では、アンドルーが当初の主張をあっさり取り下げてしまう。講義の構成上は突っ張るべき場面であり、もったいなかった。アンドルーが譲歩した内容が、講義のまとめでは「多くの人々が譲れないと考えている部分」とされてしまい、締まりのないことになっている。
  3. ロックの社会契約論に関する議論では、粗雑な主張がいくつか登場する。ロシェルはロックを悪党と決め付けてその理由を説明しないし、学生Aもまたニコラの説明を無視して自分の論理を一方的に押し付ける。
  4. あるいは同性結婚に関する議論では、サンデル教授はリベラリズムと共同体主義を対比させようとしている。ところが、とくにLecture24の議論は、実際には功利主義と共同体主義の対決になっている。これは教授のミスだと思う。
  5. 同様にサンデル教授の議論に疑問を感じるのがロールズの格差原理に関する議論だ。マイクの主張を反証するために教授が示した事例は、イメージ戦略としては一定の成功を収めているものの、じつはマイクの主張と論理的に正対するものではない。ゆえにマイクの主張は相変わらず力を失っていないように見えるのである。
  6. 契約の義務に関する議論では、ジュリアンが迷走する。最初の主張がうまくなかったので第2の例を出すのだが、勢いに乗った教授は、ジョークによってこれを吹き飛ばしてしまう。面白かったけど、それでいいのか? ちなみにジュリアンが言葉にできなかった部分は、続くアダムがきっちり発言し、一矢報いる形になった。
  7. そしてリバタリアニズムに関する議論は、全面的にひどいと思う。教授の方針がリバタリアニズム批判に偏っているのもひどいし、擁護側に立ったジュリアの言葉足らずも、それが全くフォローされないこともひどい。

平成22年8月29日

某決済系著名外資系企業の人に、日本法人を急速に立ち上げると、「英語が出来る人」じゃなくて、「英語だけ出来る人」がきちゃうんだよね」と言ったら、「それうちです」と言っていた

これはあくまでひとつの例に過ぎないのだけれども、「それ私です」っていう人が少ないのはどうしてなんだろう。

こういう話題への反応もそう。自分以外の誰かの評価能力不足をあげつらう意見はたくさんあるけど、自分の評価能力不足を嘆き、「部下には申し訳ないことをした」という人は滅多に見かけない。

最初に違和感を抱いたのは、いじめられた体験を語る芸能人かな。いじめた体験を語って「反省してます」っていう人がいない。どうなってるんだ、という。

平成22年8月29日

【量子コンピュータ】 2010-08-29 岡田歩久登

◆3種類のコンピュータ

二値コンピュータ
0または1、どちらかの状態を保存・操作できる部品からなるコンピュータ。

多値コンピュータ
複数の状態の内いずれかを保存・操作できる部品からなるコンピュータ。

量子コンピュータ
複数の状態をすべて同時に保存・操作できる部品からなるコンピュータ。

◆多値コンピュータの利点

例えば0から7までの整数を扱う場合、二値部品は3つ要るが、8値部品なら1つで足りる。
* 7=1×2^2+1×2^1+1×2^0=7×8^0

10進数  0  1  2  3  4  5  6  7
2進数 000 001 010 011 100 101 110 111
8進数  0  1  2  3  4  5  6  7

◆多値コンピュータの課題

1.多値部品を作るより二値部品を小型化して集積する方が有利。
2.多値コンピュータを前提としたプログラミング技術の蓄積が乏しい。

◆量子コンピュータの利点

例えば0から7までの整数を扱う場合、8つの状態を扱える量子部品が1つあれば8パターン全てを同時に保存・操作できる。xが0から7までの整数であるとき、

y=ax+b

の計算結果を得るためには、二値コンピュータや多値コンピュータでは0から7まで計8回の計算が必要。しかし量子コンピュータなら、xが0から7までの全ての場合について同時に保存・操作できるので、1回の計算ですむ。

◆量子コンピュータの課題

1.汎用的な量子部品が実現されていない。
2.プログラミングが困難。
3.計算結果を取り出す技術が未発達。(将来的な課題)

3の補足:
量子コンピュータでは計算の結果も全てのケースが重なっている。数十億通りものケースを一挙に計算できても、結果を個別に全て取り出すには、数十億回の操作が必要だ。計算だけ速くても、実用的には意味が薄いのではないか?

参考文献:
量子コンピュータがわかる本 赤間世紀
量子コンピュータとは何か ジョージ・ジョンソン

平成22年8月28日

「みんな、って具体的に誰と誰と誰?」の一種なんだけど、現実には、なかなか対処が難しい問題。

大学に入るととたんにアルコールを飲むことを半ば強制的に文化として受容せざるを得ない、というのはなんとかならないものか。とくに大学入学以前の友人とアルコールを飲むことに私は強烈な違和感を覚えてしまう。

そういうコミュニティを離れれば、嫌な思いをすることはない。選択の問題。とはいうものの。

ひとりになるのは怖い、という感覚はわかる。そう簡単にはコミュニティを離れられない。新入生なら、「未成年なので」といって勧められたお酒を(少なくとも初回は)断ってみせた人を覚えて、その場で、あるいは後日に話しかけてみると、意気投合できる可能性が高いと思う。数ヶ月を過ぎると、飲まない人は飲まない人同士(あるいは個人の選択を重視する人同士)で集まるか、増田さんと同様に潜行してしまうので、手近なところで仲間を見つけるのは難しくなる。

大学入学以前の友人が、自分と異なる文化圏へ去ってしまうのは、やっぱり寂しい。追いかけたくなる。でも、こういう変化は仕方なのないものなので、それはそれとして諦めて、新しい人間関係を構築した方がいいんじゃないかな。旧友とは今後、1対1で会えばいいと思う。

それでも、自分が一人ぼっちだと、相手はコミュニティの「常識」や「文化」を笠に着ていいくるめようとするから。いまこの場にいるのは自分と旧友の二人だけであっても、つらい。だから、旧友との縁を大切にし続けるためにも、自分と感覚の近いコミュニティを見つけるか、作るかすべき。

すべき、といわれて簡単にそうできるなら、人生に苦労はないわけですが……。

余談

他にどれほど多くの点で意見が一致していても、友人らの中で自分だけが異なる意見を持っている、というのは、それがたったひとつのことでも悲しいもの。小説などを読んでいると、ときどき、自分の一部に似た人物が登場します。私の場合は、そんなことでも、気休めにはなりました。

平成22年8月27日

飲めない事をただ強調するんじゃなくてキチンと理由まで説明すべきだと思うな。学生じゃなくて社会人だし、職場のコミュニケーションて大切なことだよ。お金貰ってるから仕事だけしてればいいってもんじゃないよ。

とりあえず、話題になったひとつの発言だけについていうならば、私は大筋でKanoさんに賛同します。

はてブやtwitterでこの話題に関心のある方々の感覚では、「飲めない」人は単に「飲めない」とだけ主張すればよく、それ以上の説明を求めるのはアルコールハラスメントなのだそう。私は、そうは思わない。「飲めない」理由はいろいろあります。その理由次第で、周囲の対応も変わってきます。

  1. 「今日は車を運転する用事があるので飲めません」
    「飲み会が終るのって、午後7時過ぎでしょ。そんな遅くにどこへ出かけるの?」
    「流し用の洗剤を買ってきてって頼まれてまして。残業続きで面倒くさがってたら、今日もサボったら食事抜きだ、っていわれちゃって。でも田んぼの真ん中にある家なんで、夜の遅い時間に、歩いていけるような距離の場所で適当な店がないんですよ」
    「奥さんも忙しい人なんだよね、たしか。ところで、うちの職場の流しにある洗剤、あれ私物だからあげるよ。洗剤の種類にこだわりがなければ、アレでいいと思うんだけど」
    「えっ、本当ですか! ありがとうございます」

  2. 「毎週、金曜日は休肝日にしているんです」
    「1日ずらせないの?」
    「こういうことは、なあなあにすると崩れてしまうので」
    「じゃあ、今日はしょうがないけど、次は金曜日以外にしようかな。それなら大丈夫? それとも、あえて飲み会の多い金曜日を休肝日に設定しているとか?」
    「じつはそうなんです」
    「了解しました」

  3. 「いま飲んでる薬が、アルコールはダメってことで」
    「その治療、どれくらい続くの?」
    「とりあえず3ヶ月は続くみたいです」
    「それはたいへんだ……。で、お酒はともかくとしてさ、他に、どうなの、仕事でこれはつらいとかある?」

  4. 「今週はずっと風邪気味で、風邪薬を飲んでいまして……」
    「風邪を酒で治すってのは俗説らしいですから、たしかに飲まない方がいいでしょうね。というか、飲み会に出て大丈夫なんですか?」
    「ちゃんと仕事はできていますし、食欲もあります。夕飯だけ無理ということはないと思います」
    「わかりました。でも人ごみは身体によくないでしょうし、無理はしないでください」
    「そんなにひどかったら、ちゃんと会社を休みますよ。風邪をうつしたらもっと迷惑ですし(笑)」

  5. 「俺、酒が嫌いでね。わざわざ参加費を払って嫌な思いをしたくないじゃん?」
    「それはそうですよね。ただ、今のところビール以外は**さんのウーロン茶ひとつしか注文していませんので、今日は形式的に乾杯だけはビールでやってもらっていいですか? もちろん口をつける必要はありません」
    「了解、了解」
    「えーと、次から最初の1杯は、とりあえずウーロン茶でよろしいですか? とくにご希望があればメモしておきますが」
    「いや、ウーロン茶でいいよ。ウーロン茶なら、どこの店にもあるからね」

  6. 「私は、お酒が全くダメでして」
    「体質の問題? それとも宗教? ともかく、一時的な病気とかではない、という風に考えていい?」
    「はい、体質的にダメなんです。本当に少しでもダメなので、乾杯の1杯も遠慮させてください」
    「わかりました。じゃあ、最初に自己紹介の時間を作るので、そのときに一言、その件について付け加えてくれるかな。お互い、楽しい時間を過ごすためには、こういうことを全員が知っていた方がいいので」
    「わかりました」
    「よろしくお願いします。ところで、乾杯はとりあえずウーロン茶でいい? 飲み放題のソフトドリンクのメニューはこれ。希望があれば早めにいってくれると助かります」

お酒が飲めないこと自体は、たしかに個人の問題なのだけれども、やっぱり周囲の人に何らかの影響はあるんです。それは学生とか仕事とか関係ない話であって。単に「私は飲めません」という結論を掲げるだけでも、「飲まない」という目的は実現できるでしょうが、よりていねいな説明があれば、お互い気持ちよく対応できると思うんです。

「何? 飲みたくない? 理由は何だ? 俺を納得させる説明をしてみろよ。え? どうした? よく聞こえないんだけどwww」みたいな人に対して、「飲めない人は単に「飲めない」とだけ主張すればいいのだ」と対抗するならわかるけれども、果たしてKanoさんはそういうタイプなんでしょうか。

職場の同僚なんかにプライバシーを話したくないよ、という考え方は理解できます。ただ、それならそれで、「私はそういう人間です」という説明はほしい。

おい、たった今、そういうのが嫌だといったばかりではないか。誰も他人のプライバシーに関心を持たず、お節介をしようとしない社会になればいいのに。どうして分かってくれないのか。……そういう気持ちは、わかるつもり。だけど、背負っている文化の違う者同士がひとつの社会で暮らすのだから、当面そこまでは「必要最小限」の範囲内とみなしてほしいと思います。

追記(2010-10-01)

上に挙げた例の他には、「今日は飲む気分じゃない」「わかりました」という会話も、私には馴染みのもの。「最近、肌が荒れているから(今日は飲まない)」というのも、ありがち。

ところで、幹事だけが了解しても意味ないじゃないか、という疑問もあろうかと思いますが、これは簡単なんです。最初の乾杯の直後に「AさんとBさんは今日、ソフトドリンクですよね。ソフトドリンクの一覧はカタログのここに記載されています。Cさん、Dさん、Eさんにも順番に回してください」という。このAさん、Bさんは、ふだんは飲むけど今日は飲まない人。お酒を勧めるのが好きな人が勘違いしないように、AさんとBさんの名前を明瞭に伝達します。Cさん、Dさん、Eさんはいつも通りなので、強調しない。これは歴代の幹事が受け継いでいる技術です。

あと、会社でもときどき「食事会」はありますが、この記事では「飲み会」を例にしてます。過半の人が金額を気にせず飲みたい(会費を事前に設定してほしい)という希望を持っているので、「飲み会」になることが多いのが実情だからです。遅れてきたり、途中で帰る方も珍しくないので、定額制にして最初に集金する方が、幹事の負担が減って好都合なんです。多数派の勝手といえば、全くその通りなのですが。

「飲めない人」が空気を悪くするんじゃなくて、「飲めないひとに必要以上にこだわる人」が空気を悪くする。これは「面白いこといってよ」って言うやつがいちばん寒い空気を作るのと同じ。

問題は「必要以上」の線引き。私はKano発言批判の中にあった「飲めない理由を訊く=アルハラ」という主張には賛同しません。その質問が嫌な人の気持ちは分かりますが、「いいたくありません」「そう、嫌なこと訊いちゃってごめんなさい」で済むことですよね。「必要」ではなくとも、常識的なコミュニケーションの範囲内だと思う。「誰も傷つけない会話」しか認めない、といったら誰とも話せないと思う。

平成22年8月26日

為替水準を金融政策の目標とすることには私も賛成しないが、上久保さんの円高メリット論は、もっとおかしい。

1.

円高が輸出産業の収益を悪化させるのは、ドルなどの外貨を貿易の決済通貨に使用しているからだ。逆に言えば、円が決済通貨として使われるならば為替リスクはなくなり、円高でも輸出企業の収益は悪化しないということになる。

既に済んでいる契約についてはその通りだけれども、今後の契約においては、通貨高による価格の上昇を買い手が受け入れる理由はないので、「円高によって輸出企業の収益は悪化する」に決まっている。狭義の「為替リスク」をなくしたところで、円高の苦しみは、さして軽減されない。

外国為替はこう動く

外国為替はこう動く』は通貨の動向と経済成長率には相関がないという事実を示している。インフレ率の高い国と低い国があれば、自ずとインフレ率の高い国の通貨は安く、低い国の通貨は高くなっていく。実質経済成長率がどうあれ、通貨価値が高率で下がる国と、低率で下がる国があれば、為替は(長期的には)通貨価値の釣り合いを取るように変化していく、ということだ。

先進諸国がプラスの物価上昇率を維持しているのに、日本はデフレなのだから、円高になるのは当然だ。しかしそうだとすると、なぜ円高で輸出企業は経営が苦しくなるのか。単純にいえば、人件費は円建てで、株価のように円高連動で給与を下げることができないからだ。(下記の「余談」を参照)

余談

円高になると、株価は下がる。これは、他国の通貨に置き換えた場合の株価を安定させようとする市場の働きとして、説明がつくそうだ。一見、東京株式市場では円単位で株が取引されているように見えるが、市場参加者は、自分の生活する国の通貨価値に換算して売買する傾向があるらしい。

これは日本人の外国株取引を例に考えれば分かりやすい。中国の通貨である元が、円に対してグンと高くなったとする。このとき日本人は、為替得が生じたと考え、「株の売り時」と判断する。そこで多くの日本人が株を売りに出す。すると元単位では中国株市場の値崩れが起きる。そうして、為替得が相殺される水準まで、ずっと株価は下がり続ける。

あるいは、外貨預金のケース。デフレの続く日本で暮らす者からすると非常に高い利率に見える。しかし高利率の預金があるのは基本的に高インフレ国なので、定期預金が満期を迎える頃には大きな為替損が生じてしまい、利益は相殺される。平均すると、自国の通貨価値に換算した場合、国内の銀行にお金を預けるケースと比較して、外貨預金は手数料の分だけ損をすることが知られているそうだ。

2.

円高は輸入を促進し、物価を抑制する要因がある。特に、輸出企業にとっては、原材料費・エネルギー価格のコストダウンが可能になる。

おかしな主張だと思う。先に引用した部分と同様、ここには「円高になっても円建ての輸出価格を維持できる」という錯誤がある。海外の消費者から見れば、それでは単なる値上げになるわけで、それでも売れるなら最初からその値段で売っている。

円高になっても、客先の通貨建てで商品の価格を維持しなければ売れないのだから、原材料価格の低下分は、そのまま売値に反映させるしかない。その上、人件費も圧縮しなければならぬ。人件費の圧縮は難しいから、通貨高は苦しい。(注:インフレ国同士なら、物価上昇率の違いに応じた名目賃金の上昇率の差で調整される。給与を「下げる」調整と比べ、給与の「上げ方を絞る」調整の方が、社会的な摩擦は小さい)

日本の若者の雇用問題は、日本国内の少ない雇用のパイを奪い合うのではなく、アジア地域を日本のジョブマーケットと一体化しなければ解決しない。「仕事がある国に行って働く」という、中国や東南アジアの若者なら当たり前のことを日本の若者ができなければならない。

海外で働きたい人の邪魔をしない制度は必要。だが、国内で働きたい人に「海外へ行け」「当たり前のことだ」というのはおかしい。デフレを脱却して低インフレ国に転換し、「名目賃金の上昇」と「為替の変動に伴う賃金調整」が両立する環境を整えることで、円高が雇用の縮小に直結しないようにする方が、人々の希望に適っているだろう。

円高で日本の貨幣的信用が高まると、海外から日本に資金が集まってくる。

前述の通り、為替変動と実質経済成長率に相関はない。たまたま(円に対しては傾向的に通貨安だが)世界的には概ね通貨高が続いたドル、即ちアメリカの実質経済成長率が高く、長年アメリカへの投資は大きなリターンを生み続けてきた事実が、世間の誤解を誘っているに過ぎない。(ちなみに通算すると日本の対米投資からも円高を相殺する利益が出ているそう)

単純な話、ある程度の為替損を予想しても、利息がそれを上回ると予想したなら、高インフレ国にだって投資するでしょ。逆に為替得を予想して、利率がゼロ近傍でも投資する、こともありうる。リスクを嫌う投資家は多いから、為替の安定には利益があるとしても、「安定して少しずつ通貨安」の国より「安定して少しずつ通貨高」の国の方が有利、なんてことはない。日本も、その一例だろう。

平成22年8月25日

私が研究部門にいた頃、月例報告はパワポ発表だった。開発へ異動してみたら、毎週の進捗報告会議はA4モノクロのペラ1枚にまとめよ(最悪でも両面印刷)、の指示。この合理性は、すぐ理解できた。

パワポ発表の頃は、他の人が何をやっているのか、よくわかっていなかった。いちおうサーバー上に発表データはあるのだが、面倒くさいから読み返さない。自分の発表すら、滅多に読み返さない。これでは自分の仕事の進捗管理すら難しい。A4片面1枚というフォーマットが定まっていると、報告書をファイリングできる。これが効く。

  1. 月1回の月報は数年分、週報と作業指示書は半年分くらいをファイリングし、毎朝、パラパラッとやってから仕事を始める。そうすると、今日の仕事の位置づけが自分の中で明確になる。
  2. 前記のファイルは机の上に出しっ放しでも邪魔にならないよう、薄いものにする。年に数回、古いものを保管用バインダーに移す。このとき資料をドキュメントスキャナで電子化して、ペンで書いたメモをバックアップする。月報は入社以来の全月報を1巻のバインダーに綴じる。週報は薄いバインダーに年単位で保管する。
  3. 電子データはファイルロスト回避の保険。検索語がハッキリしている場合は別だが、私は肝心の単語が思い出せないことが多いので、紙をパラパラする方が速いことが多い。あと、議論する際は資料を全部机に並べるのが情報共有に有効なので、結局は紙メインの方が便利。
  4. 月報、週報、作業指示書(+作業計画書)の他は、逆に電子化を積極的に進める。分類が面倒なので、月単位で何でもフォルダに放り込む。紙の原本は捨てる。書棚が空くので、文房具を置いて課内で共有する。
  5. 月報ファイル(紙)→週報ファイル(紙)→月別フォルダ(PC)の順で、情報を検索、活用する。

お客さんと会うときも、私は基本的にA4両面くらいの紙の資料を持っていく。臨機応変に求められた資料を示すためにパソコンも持参するけれども、最初から見せると決めている資料は、紙の方が確実。「ノートを取るより、資料にゴチャゴチャ書き込む方が好き」という人も、意外と多い。だから適当に余白をつけておく。

なお、渡す資料は、内線電話で相手を呼び出してから、ノートPCなどからメールで送信する。「これからお渡しする資料は30秒ほど前にメールで送信したものですので、面談後には処分していただいてかまいません」と説明する。前日とかに送ると、メールの文中で断っていても、資料を印刷してくれる人がいる。

どれも、先輩が親切に教えてくれた方法。

平成22年8月24日

もし映画『スター・ウォーズ』の作戦会議の説明資料がパワーポイントで作られていたら……というジョーク。

岩田さんがパワポを使っているのかどうかは不明だけれども、この講演資料はパワポで作れるものだと思う。ようは使い方。事前にこれほどきちんと原稿を組み立てている人が、どれだけいるだろう。プロジェクタで映す画面だけ作って、話す言葉はぶっつけ本番、という姿勢が、ダメな資料を作ってしまう根本原因のひとつではないか。

絵は絵、言葉は言葉。両方、しっかり用意しないと。

平成22年8月24日

はてブに「誤読」しているように見えるコメントがつくと、私はときどきポイント付メッセージ送信機能を利用して「ご説明申し上げ」てきた。だが、返信率は1割を切っている。末尾にこちらのメールアドレスを書いているので、ダブルクリックすればメーラーが立ち上がると思うのだが。読まれていないのかね。

私も、いただいたメールにあまり返信しない方だけれども、それでも3通に2通くらいは返しているんだがなあ。返信がなくても、ブコメが修正されるなら満足なんだけど、それもない。こちらの意見を理解した上で「賛成できない」というのは、問題ではない。そもそも理解されていないというのは、悲しい。

平成22年8月23日

1.

いい加減しつこいけど、もう1回だけ。

島国大和さんが批判されている「国際競争によって企業を鍛えて強靭な産業を作る」という意見は、私もナンセンスだと思う。日本の農業や繊維業の歴史を振り返れば、それは明らか。しかしながら、産業保護をやめること自体には、賛成します。

例えば中国は。検索にせよ、webサービスにせよ。ガチガチに自国産業を保護している。その結果どうなったか。かの国にはちゃんとweb産業が成り立ち、自分たちの利益を確保している。その上で他国に打って出るだけの力を有した。

保護していない国はどうか。web上の利益の殆どを海外サービスに持っていかれているではないか。

これは違う。輸入した方がリーズナブルなら、輸入すればいい。私たちは、作って儲かるものを作ればいいのです。そうやって国際分業を進めた方が、結局はみんな得をします。

2.

幼稚産業の保護は、有害です。比較劣位の産業に労働力を縛りつけ、消費者の商品選択の自由を奪う。誰も得をしない。「我が国にもweb産業が勃興した! 誇らしい!」ただそれだけのために、人々は税金を取られ、海外の素晴らしい商品やサービスを利用できなくなるのです。

自然に存在する言葉の壁や文化の壁は、いいのですよ。日本語、日本人の文化、それはどの企業に対しても平等な条件ですから。偏見や差別はいけませんが、「契約書は日本語がいいな」という消費者の声があるのに政府が「英語の契約書を拒絶するのは禁止」なんてルールを作ってはいけない。言葉の壁を乗り越える費用を誰が負担すべきかは、市場の判断に任せるのが正しい。

自由な競争の結果なら、海外企業の日本進出が失敗しても、逆に日本企業の多くが世界市場から撤退しても、それは何ら悪いことではありません。日本のゲーム業界が『GTA』を「作れない」ことを引け目に感じる必要はないのです。市場に対応し、儲かること、自分にできることに取り組んでいけば、自ずと分業が実現し、誰もが利益を得られます。

個別の企業が、苦手を克服しようと努力するのはいいことです。大逆転の例は多々あります。しかし、政府の仕事は、1)人権保護の枠組み作り、2)自由で公正な競争環境の実現、3)激変緩和措置、などであって、「日本はゲーム作りが得意なはずだ」と決め付けて保護するのは間違っています。

「先進的」っぽい産業が世の中に登場すると、「我が国にもこの産業がほしい!」と人々は思いがち。これは心理の罠です。

幸福なんて主観的なものだから……と割り切るなら、「国家の威信」や「民族の誇り」や「アイデンティティー」を賭けて、特定の産業を守り抜いてもいい。民主主義は文化的消費としての税金の無駄遣いも正当化しうるでしょう。しかし実際には、産業保護が経済全体に客観的な利益をもたらす、という俗説が添えられていることが少なくない。虚偽の説明は、いけません。

3.

チャイナ・アズ・ナンバーワン

かつて共産党指導部は計画経済による重工業の発展を企図しましたが、比較劣位の産業に注力する政策は失敗し、経済の停滞と飢餓を招きました。この反省を踏まえ、漸進的な自由主義経済の導入を進めてからの30年間は、年平均9.8%の高度成長を持続しています。結果、巨大な人口を背景に、多くの経済指標で世界一となり、GDPも米国越えが視野に入りました。

しかし今なお中国政府の経済政策は計画経済の尾を引きずっており、いずれも中国経済に負の影響をもたらしています。

  1. 労働集約産業の十分な発展を待たずに資本集約産業の高度成長を促進したため、失業率の高止まりを招きました。
  2. 資本の移動を制限し、為替の管理に腐心し続けた結果、多年にわたり高い物価上昇率を余儀なくされました。
  3. 再分配の仕組みが整備不足のまま、高度成長と高失業率が同時進行したため、貧富の格差が拡大して社会不安を引き起こしました。

したがって、中国が末永く経済成長を持続するために必要な経済政策は、1)自由な経済環境の整備、2)市場の失敗を補う枠組の構築、3)社会保障制度の充実、です。幼稚産業の保護政策は、経済実態と無関係に資源を配分する、上記第1項の経済失政に属します。決して感心するような政策ではありません。

平成22年8月22日

戦後日本の製造業の作った製品は、世界に輸出され失業者を作ったよ。

今中国が、自国の安い労働者に作らせた製品は、世界に輸出され、職を奪っているよ。

だから何だ、という話で。中国人にとってゲーム作りが割に合う仕事で、日本人にとってはそうではないというなら、日本は中国からゲームを輸入して、日本人は他の仕事をした方がいい。

このとき、日本でゲーム産業に従事していた人は「職を奪われた」ことになるけれども、儲からない仕事にしがみつくより、もうちょっと利益の出る仕事をやる方がマシです。戦後、日本では多くの離農者が出ましたが、海外の農家に職を奪われて日本人は不幸になったのでしょうか。儲かる産業に従事し、生活が豊かになって、平均寿命がグーンと延びました。だいたい、よかったでしょう。

もし本当に日本のゲーム産業が斜陽で、継続不可能であるならば、継続しなくていい。滅びるなら滅びるに任せるべきです。その方が、個人としても、その総和の社会としても、正しい選択。社会全体の失業率だけが重要なのであって、特定の産業が消えるのは問題ではありません。

中国は政府がゲーム産業を保護しているのに、日本政府は保護してくれない、これでは互角に戦えない。なるほど、それは確かにその通り。けれども、そのかわり中国人全員が、ゲーム産業を保護するために税を負担をしていることに注意してください。中国政府が保護していない全ての産業について、日本はちょっとずつ有利な勝負ができているわけです。

そして政府の投資は、民間の投資よりも、平均すると成功率が低い。だから、中国の経済は、全体としてはバカな経済政策のために損をしているんです。(日本政府の農業保護も構図は同じです)

したがって、特定の産業の興廃を眺めて、海外に富をばら撒いたといって怒るのは違います。かつて生糸生産者は、生糸作りに誇りと愛情を持っていたけれども、儲からないから止めることになりました。それはつらいことでした。「海外に生糸のシェアを奪われるのを座視した政府は許せない」そう思いもしました。

でも、最盛期の労働力をずっと生糸生産に張りつけていたら、日本の経済発展は絶対になかった。日本人は今でも平均寿命が60歳くらいだったかもしれません。

日本は何が得意なのか、それは市場に聞く他ない。政府が「日本はゲーム産業が得意に決まっている」と決め付けるのは危険なんです。これまで得意だったことが、これからも得意だとは限らない。特定の産業の保護は、するべきではありません。大雑把な議論としては、そうです。

平成22年8月21日

1.

経済学がかれこれ250年ほど論敵としてきたのが、こういう発想。まあでも、説得するのは難しいよね……。みんな、自分の仕事を変えたくないわけだから。リンク先の記事はゲーム製作者の方なので、「国内のゲーム製作産業を興隆させるには」というのが大前提になっている。そこに思考の枷があるわけ。

中国や韓国はのネットゲームはバリバリに保護されている。国の投資が入っているし、税金も優遇されているし、他国産のゲームの営業は制限されまくっている。その上でパクリ放題。コピー大会。しかも日本にはそれらが大量に流れ込んでいる。

これは、中国、韓国がヒドイってのもあるが、まず日本が駄目過ぎる。

ネットゲームというのは外貨獲得手段として物凄く有効だ。かの国では既に映画の輸出より利益を出している。

なぜ、自国の国益として産業を保護しない?2次エロ規制してる場合じゃないだろう。

  1. ゲーム産業がみんなに利益をもたらすかどうかなんて、わかったものではない。だから、ゲーム産業に投資するのは、国ではなく、民間の銀行であるべきだ。特定の産業に政府が投資するとき、その裏で国民がリスクを負っていることを忘れてはいけない。バカな投資をしているのが銀行なら、人々は預金を引き上げることができる。だが政府なら? みな逃げようがない。税金の取られ損になるだけだ。

    民間なら、より儲かりそうな投資先があれば、そっちへ投資する。ゲーム産業よりいい投資先があるなら、国策なんてものに縛られてゲーム産業への投資を続けたりはしない。だから自ずとよりよい投資先が選ばれていく。もちろんバブルとか失敗もするけれど、平均すれば世論に縛られた政府よりマシな打率になる。

  2. 公共財への投資は、政府がやるしかないだろう。だが、ふつうの産業に政府が投資するなんてのは、基本的に間違っている。税金の優遇も同じ。優遇することが、国民全体の利益になるなんて、どうしてわかるのか。減税が産業振興に有効なら、全産業に対して減税をすればいい。実際、経済学者の少なからずは法人税の撤廃を主張している。再分配は、所得税の累進課税、または定率税+定額給付でやるべきだ、と。

  3. 他国産ゲームの流通制限は、消費者の選択肢を奪う愚策。もし輸入ゲームが素晴らしくて国産ゲームが駆逐されるなら、その国は少なくとも現時点ではゲーム作りには向いていないということだ。それなのに、消費者の幸福を奪い、苦手な産業に労働者を縛り付けてしまうのは、「我が国にも、いま、ゲーム産業が存在していなければならぬ」という思い込み以外に説明がつかない愚かさだ。

    前段で「素晴らしい」と書いたが、これは価格を含むことに注意。質が高くても、それ以上に値段が高くて手が出ないなら、消費者にとってそれは十分に素晴らしい商品ではない。品質と価格の調和が取れていなければならぬ。

  4. パクりとコピーについては、それが公正な競争の条件を満たさないようなもの(法的に保護されるべき権利を侵害しているもの)であるならば、粛々と対処しなければならない。やった者勝ちではいけない。まず国内市場の流通を厳しく監視し、海外市場の規制・監視のため国際的な協力体制を強化していくべきだ。

……というわけで、リンク先の記事が羨ましがっている中韓の政策は、じつはどれもダメな政策であって、日本政府が同じようなことを(あまり)やっていないのは、正しい。その結果、国内のゲーム産業が滅びるなら、滅びればいい。何か他の、もっと儲かる仕事をする方が、個人としても社会全体としても、経済的には正しい選択なんだ。

2.

ようするに、「特定の産業の保護」は国全体の経済に対してはマイナスの影響がある。だから、どんな分野であれ、特定の産業を政府が保護するのは間違っている。

日本の農家は生産性が高い。しかし比較劣位にある。だから日本の農家の過半は、廃業して他の仕事をした方がいい。じゃあその、他の日本が比較優位にある仕事とは何か。それは「農家より割にあう仕事」である。もし将来、食料不足の時代になれば、必ず食料価格が高騰し、農家は魅力的な仕事となり、後継者不足は自ずと解消される。

農家やってるより工場で働いた方がマシだな、と人々が思うような状況があるなら、ゴチャゴチャ考えずに工場で働いた方がいい。大勢がそうして、シンプルに仕事を移っていくことができれば、自ずと個人の経済状況も、その総和としての国家単位の経済も、改善される。客観的には、より幸福な状態になる。実際、日本の高度成長は、労働力が農業から工業やサービス業へ大規模に移動することで実現されたのだ。

だから、税金を注ぎ込んだり消費者の自由を奪ったりして特定の産業を保護するのは、全体として有害だ。市場に任せておけば自ずと進む、時代や状況に応じた経済の変化を邪魔するものでしかない。国民の予想や、為政者の分析が、市場より早く正確に経済の先行きを見通せるなら、多少の地均しは可能かもしれない。しかし実際には、必然的な変化を妨げるために大金を浪費するだけ、というケースが極めて多い。

企業というのは、法律がなければ人権侵害すら利益追求の手段とするので、それは規制しなきゃならない。だが、現実の規制の多くは、競争を頭ごなしに抑制したり、消費者の選択肢を政府が勝手に絞り込むような内容となっている。それは「いまある世界への執着」や「昨日までと同じ仕事をしながら、生活水準だけは上げていきたい」といった無茶な願い、「まじめに商品を選ぶなんて面倒」といった国民の声を反映したものだ。

民主主義にしたがって経済発展の足を引っ張っているわけであり、自業自得だから仕方ないともいえる。ま、経済的に豊かになることと幸福の増大はイコールで結べないから、こうなるんだろうな。ただ、少なからぬ規制はノイジーマイノリティの声を反映したものなので、総論としては繰り返し規制緩和が叫ばれるわけだ。

平成22年8月20日

1.

規約違反だからダメだ、という話はわかるけれど、そもそもどうしてRMTを禁止するのだろう。公式の課金アイテムより安いというなら、まあ分からないでもないが……。課金アイテムの中古市場を規制する、みたいな話か? もしそうだとすると、そんな規約、じつは法的には無効なんじゃなかろうか。

不正に作成されたアイテムで濡れ手で粟の大儲けをされかねない、なんて理屈は通らないと思う。古本屋があると、偽造された本が流通する可能性がある(だから中古流通を許してはならない)、という意見は聞かない。偽造は、それ自体の悪を叩くべきであって、偽造を抑制するために中古品の売買を禁じることまで正当化できるわけじゃないと思うのだが。

仕様としてアイテムを渡せないならともかく、プレゼント機能は実装されているのだというし。『怪盗ロワイヤル』の課金アイテムやレアアイテムは、ユーザーの所有物ではない、ってことなのかな。限定的な使用権を認めているだけですよ、という。

2.

ユーザーは規約に同意して遊んでいる。でも、ブログの著作権に関する規約では、それでも「こんな規約はおかしい」とか、いろいろ騒動が起きたりした。

ブログなんか、はじめたばかりの段階なら「ツール」でしかないのだから、他サービスへの乗り換えは容易だった。それでも、あれだけワーワーギャーギャー議論された。『怪盗ロワイヤル』は、そういう取り換えのきくものではない。本と一緒。選択の余地のないものだ。なのに、各社の判断で中古アイテムの取引を制限していいのだろうか。

RMT規制は当然だと思う人が、現状ではおそらく多いのでしょう。でも、法律というのは、個別の状況に対する賛否によって恣意的に適用されるものではない。規約で「中古販売はダメ」と謳うだけで、消費者の自由を縛ることが本当に可能なのかどうか、私は疑問に思う。

おそらく、公式のアイテム敗倍価格より、RMTの方が、相場が安いのだと思う。あるいは、確率を金額に置き換える市場が存在すると、「絶対にお金では買えない」という価値が成り立たなくなってしまい、お金のないユーザーのガス抜きが難しくなるのかもしれないね。そういうことはわかるのだけど、という話。

3.

現にRMTは「できている」わけでしょ? 何が気になるの?

うん、まあそうなんだけどね。リンク先の記事への反応などを見ていると、そういう状況を「許せない」と感じる立場が当然視されているような感じがしたので、こういう記事を書きました。(でも、もう一度よく読むと、実際にはそうでもなかった……)

平成22年8月19日

1.

大事になるのは、GIGAZINEはどういうメディアでありたいのかという「理念」を示すことである。大風呂敷でもかまわない、夢物語でもかまわない。何を目指しているのか、他のニュースサイトと何が違うのか、どういうレベルを目指しているのか、記事の質とは何か、どういう観点・どういう価値観を重視しているのか、何を伝えたいのか......それを実現するのに一緒にやっていく「同志」が必要だ、という流れで人材を集めるべきだと思う。

こういう意見は耳あたりがよいけれども、個人的には「どうかな……」と思う。ふだんの仕事でも、ボランティア活動でもそうなんだけど、コア中のコアの部分で同志を募るなら話は別かもしれないが、コアメンバーが共有すべきなのは、じつは単純で具体的な目標であって、「理念」ではないと思っている。

というのは、話を抽象化すると「総論賛成、各論反対」の罠が待っている。これはもう、本当にちょこっと抽象化しただけで、そうなる。

2.

町内会なんてのは、ふだん今年の当番役員しか顔を合わせない。たまに掃除の日とかで小さな班の中の人同士は顔見知りになるけれども、隣の班の人とは分断されている。役員になるのは10数年に1回でしかないので、10m先のアパートに住んでいる人なのに、たまたま当番になった人同士しか、お互いを知らない。大きな祭りになると、作業の合理化が進んでいるから、役員だけで「仕事」は済んでしまうし、祭り会場には広い地域から人が集まるので、誰が誰だかわからない。地域の親睦を深める役には立っていないんじゃないか?

「だから何かやろう」という話が出ても「そうですね」「賛成です」でおしまい。飲み会で2時間も3時間も話が盛り上がることがあっても、何ひとつ決まらない。次の会合で決めようとしても、議論百出で振り出しに戻る。どうにもならない。

イメージは共有されているわけだ。半径20mくらいの小さな地域で、家族連れで参加できるイベントをやって、お互い顔見知りになりましょう、と。玄関先に「こども110番の家」なんてステッカーを貼って、「うちにご家族の方がいないときは、一人で留守番をしないでこども110番の家を利用してください」なんて回覧板を回したってさ、実際、利用されないじゃないか。信頼・信用の基盤なしに、制度だけ形式的にはじめてもダメだ。だからまず、顔を合わせる場が必要だね……。でも、そんなことをいっている間に1年が過ぎ、役員は交代してしまう。翌年もまたゼロから議論が始まる。

私の知っている例だと、結局、5年が空費された。そして6年目、たまたま順番で役員になっていた人が、娘の通う幼稚園から「今年はイモ掘り+焼きイモ大会をやりません」という通知をもらって大いに悲しみ、「だったら町内会でやる!」とブチ上げたところからドラマが始まる。パパ友、ママ友ら数人をコアメンバーとして「焼きイモ大会をやる、絶対やる、娘の5歳の秋は1回しかないんだ!」といって実現に向けて動く。場所の問題、煙の問題などを解決し、実現の目処が立ったところで役員会にて大勢の協力を募った。「理念」が語られたのは、その段階でのこと。その内容は、昨年までの議論と大差なかった。

「なるほど、物事というのは、こういう手順で進めるのか」と私は思った。

いくら「理念」を語っても、それをひとつの形に具体化することはできない。まず誰かが、ひとつの形にしてしまうことが必要なんだな。

これって、いろいろなソフトウェアを見ていても、同じようなことを思う。改良を重ねても、理想に大きく近付くことはなくて。結局、根本的にインターフェースの異なる別のソフトが彗星のごとく登場し、定番の座を奪い取っていく。そういうことが、よくある。後付けでこれを「理念」の違いだといっても、それらしく聞こえはするのだけれども、実際はそうではないのではないかと思うのだ。

問答無用で「焼きイモ大会をやるのだ」と決めた。それは偶然だよ。運命とか天啓といってもいい。多分、議論を通じて全員が納得する形で「目的達成の手段としては、焼きイモ大会が一番いいね」決めるのは無理だ。しかしそうして始まったプロジェクトが、役員会を一瞬で通過した。「素晴らしい」「頑張りましょう」「成功させましょう」「異論はございませんか? 無いようですので、提案は承認されました」……5年間の議論とは、いったい何だったのか。

3.

GIGAZINEはGIGAZINEでよい。「アレをやるんだ」ということ、それ自体がプロジェクトの目的だろう。2004年頃のGIGAZINEが編集長の理想であるならば、「それを現代に再現し、拡大再生産する」で十分だ。

「理念」には賛同するけど「GIGAZINE」は否定する人、なんかが集まってきても、ロクなことにはなるまいよ。あそこに問題があるから、ここに問題があるから、だから「GIGAZINE」はダメなんだ、なんて自己否定はさ、もっと後になってからすればいい。軌道に乗って安定したはいいけど、なんか殻に閉じこもっちゃってる感じだね、つまんないね、みたいな状態になってからでいい。

外にいると、だいたいどんなプロジェクトもつまらなく見えるんだよ。「焼きイモ大会をやりたい」という話を聞いたって、ふつう、「それはいいね!」と人がワーッと集まってくるなんてことはない。「ふぅん、まあ、個人的に検討するのは自由なんじゃない」てのが、一般人の反応。

だけど、コアメンバーは「よし、やろう! 何が何でもやろう! どんな困難にも挫けずやろう!」と高い士気を保った。あれくらいでなけりゃ、5年間(あるいはもっと以前からの)の停滞を破って焼きイモ大会を実現することなど、できはしないのだな。とすると、私はこのまま、何もなさずに死んでいくのだろう、と思った。まあいい、それは役割分担だ。お手伝い要員だって必要さ。

ともかくね、「理念」を語れば、その手段が「GIGAZINE」である必然性は怪しくなる。それはそういうものなんだ。どうしようもないことだよ。そして、外部からはどう見えているにせよ、編集長は、GIGAZINEは攻めの段階にあると認識しているわけだ。社内に評論家は必要ないということだね。それで討ち死にするなら、それもまたよし、という覚悟だろう。

もちろん私たちがGIGAZINEを批評するのは自由。だけど、編集長が同志を募るにあたり、「理念」を語らず、「GIGAZINE」を特別だと思ってくれる人という条件を掲げたのは、個人的には「正しい」と思っている。

多くの会社が「志望動機」を問うのも、つまりはそういうことなんじゃないかな。抽象的な「理念」への共感なんて、あまり意味はない。話を相当に具体的なところまで落とさないと、「この会社に入りたい」理由にはならない。これは非常に難しい。難しいが、少なからぬ企業は、それができる人を切実にほしがっている。

多分、面接官も正解は持っていない。それでも、納得のいく答えと、上滑りして聞こえる答えの区別は(ある程度)できる。そういうものだと思う。

平成22年8月18日

1.

これから飛躍せんとする零細ベンチャー企業に「賃金労働者」がいては困る、という感じかな。私もいろいろノンフィクションを読んだけど、大企業の中でも新規プロジェクトの立ち上げ時などでは「賃金労働者」感覚の者がコアメンバーに入っているとうまくいかない、という話はしばしば出てくる。

ボランティア活動なんかでも、新しいこと(地域の小さなお祭りとか)を始めるときは、まず「やりたい」人だけでチームを作る。昼も夜も、ふと気付くと「企画」のことを考えているような人たち。ボランティアにも「空き時間を適当に提供する」感覚の人は多くて、間違ってそういう人がコアチームに入ってしまうと、「企画」は空中分解する。これは私も経験した。「企画」が始動すれば、「作業」の領域が圧倒的になるから、やる気の希薄化は善意と人数でカバーできる。

社内プロジェクトならメンバー交代で乗り切れるが、プロジェクト=会社の零細ベンチャーだと辞めてもらうしかない場合もあると思う。日経エレクトロニクス誌の開発ドキュメントなどを読んでみても、とても挑戦的な社内プロジェクトの場合、指名でメンバーを選定するのは難しく、能力よりやる気を重視して立候補を募るのが常道ということのよう。GIGAZINEも順調に先人の軌跡を辿っているのだと思う。

それはともかくとして、GIGAZINEに安定した生活の糧を求めて就職を希望するのって、どんな人なんだろう。個人的には、そういう人がいるということの方が不思議。

へぇ、鮮やかなものだなぁ。(追記 2010-08-31)

2.

自称「GIGAZINEを解雇された人」は、サーバー費用がGIGAZINEの経営難の原因だと認識しているそう。ちなみにGIGAZINEの編集長は、この人は偽者だと断言しているので念のため。

専用のサーバールームか……。凄いな。これが経営難の原因かどうかは別として、お金がかかっているのは明らか。素人考えだけど、私なら30万PV/日クラスのブログを複数抱えているライブドアブログへの移転を検討すると思う。gigazine.netというドメインを維持することもできるし。あー、でも過去ログが問題か。

そしたらやっぱり、新ドメインでもいいんじゃないのかな。この2年くらいの間に独自ドメインへ移行した2chまとめ系の著名ブログがいくつかあったけど、どこもPVは減ってないみたい。ただ、トップページの検索順位はなかなか旧アドレスを逆転できないことも。はちま起稿は短期間であっさり新アドレスがトップにきたけど、アルファルファモザイク旧アドレスがいまだにトップに出る。理由は不明。

過去ログへの検索経由などのアクセスが膨大だとしても、過去ログを新ブログへ移植して転送案内を出すだけなら、劇的に負荷が軽くなったりするんじゃないか。そうでもないのかな。

トップの痛いニュース(ノ∀`)は1日150万PVあるとする説を方々で見かけたのだけれども、ドンナメディアの調査では2位と3位が1日30万PV前後となっている。トップがその5倍ということはないんじゃないか。同じ調査でGIGAZINEは1日66万PVだから、ライブドアブログへ移転したとして、ランキングで3位になることはなさそう。1位も十分にありえるのではないか。

しかし、GIGAZINE自身による今年7月の集計では1日平均200万PV超。ドンナメディアとは3倍の違いがある。PVってのは、これだから困るんだよな……。痛いニュースが1日150万PVというのも、計測手法次第ではあり得るのかもね。50万×3みたいな感じで。

3.

ドンナメディアは面白い。ハムスター速報geocities全体と同等のページビューで愕然とする一方、じつはYahoo!のラーメン特集とも同等だとわかってずっこける、みたいな。

データ収集の対象が少ないのがドンナメディのちょっと残念なところ。実際に調査しているのはマーケギアで、日本国内に100万人の協力ユーザを抱えている「インターネット視聴率」調査の国内有力企業。100万人というと凄いのだけれども、偏りなく慎重に標本を選ぶには、いささか規模が大きすぎる感じはします。だからこそ、正確性より規模を強みにして、ドメイン単位ではなくブログ単位で1日1万PV以上のところはみんなデータ収集する、なんて方向に進んでくれたらいいのにな。

ちなみに、とくに断りなく「インターネット視聴率」のデータが示された場合、ふつうそれはネットレイティングスのデータです。昔はインプレスの『インターネット白書』に概要が載っていましたが、値段が高いためか、掲載されなくなって久しいです(ここ2年ほどチェックしてないので再び掲載されている可能性はある)。

平成22年8月17日

1.

個人が使える、最も低利のローンのひとつ。事前申込不要で、完全に自動で発動するのだから、これほど手間要らずの仕組みもない。実質年利は0.25%と低く、サラ金はおろかクレジットカード会社のカードローンとも比較にならない水準だ。

最初に自分が必要とする大きさの定額貯金を用意しなければならないが、それさえ済んでしまえば、カードの分割払いやリボ払い(実質年率10〜18%)など、あまりにもバカらしい。カードの引落し口座をゆうちょ銀行に設定すれば、カードは1回払い以外、考えなくてよい。

2.

サラ金やカードローンは、収入・支出の片方または両方に波があり、一時的な赤字が生じる場合に利用される。「利用者の大半が、長期的には収入が支出を金利分以上に上回る」見込みがあればこそ、融資事業が成り立つ。無審査ではその見込みが立たないため、何らかの審査は欠かせない。

だが、長期の高額融資と比べて、短期の小額融資の審査は相当に簡素化できる。ここに消費者の大きな需要があった。そこでサラ金各社は法定金利の上限付近に張り付いて、審査の簡単さを競い合うことになった。結果、2種類あった法定金利の中間で競争が行われ、グレーゾーン金利問題が生まれることになる。

しかし「多少、審査が厳しくてもいいから、少しでも低利の方がいい」という消費者も少なからず存在したのだから、サラ金同士の金利競争は、もっと活発になってもよかったはずだ。そうならなかったのは、金利競争の苛烈さ故だろう。

ゆうちょ銀行の貯金担保自動貸付けは凄まじい商品であり、最初のひと手間の先は、何の面倒もなく実質年利0.25%の小額融資を受けることができてしまう。カードローンも、最初に信用調査を行うため、実際の利用時にはカード1枚で年率5%程度で融資を受けられる商品が存在する。とすると、サラ金の利便性というのは「飛び込みで利用できる」ことの他に見当たらない。金利競争で血を吐いても、ていねいな信用調査を欠く以上、ライバルに太刀打ちはできる数字にはならない。

営利企業は、当然、より大きな利潤を得られそうな道を進もうとする。サラ金業者は「粗利はいいが、高いリスクを抱え、営業経費もかかる」という方向性を選択した。

結局はこれも消耗戦になっていったのだが、絶対に勝ち目のない敵が先に待つ金利競争よりは、夢や希望を持つことができたのではないか。実際、グレーゾーン金利問題で過去に遡って採算ラインを人為的に変更されてしまうまでは、(一時的であれ)大きな利潤を上げることができていた。

3.

クレジットカードの分割払い、リボ払いも、収支の不整合を均す、サラ金と競合する商品だ。調べてみてギョッとしたのが、その利率。年利10〜18%程度というのでは、サラ金と同等ではないか。

分割払いやリボ払いを利用している人がどれだけいるのかよく知らないのだけれども、個人的に連想したのはアニメ産業。たった数千人がDVDやBDを買ってくれるおかげで、百万人単位の人々が無料で「広告」としてのテレビ放送を視聴できている、というアレ。

年会費無料+1回払いのみの利用という多数派には利益だけあって、一部の人がせっせとカード会社を儲けさせているんじゃないか……。クレジットカード会社の利益構造について書かれた本は読んだことがないので、空想に過ぎないのだが。

補記:

この記事の趣旨は、どの金融機関も欲している低リスク顧客の獲得競争において、サラ金がいかなる戦略を採用したか、というものです。サラ金以外に貸し手のない高リスク顧客は考察の対象としておりません。

平成22年8月16日

この手の議論の多くは、「どうして高利貸しが大きな利益を出すことができたのか」という点を誤解しているように思う。借りた金を返せないような人になんか誰も貸したくないわけだが、利便性を優先して審査を簡単にすると、そういう人もやってきてしまう。だから利率を高めに設定する。当然、少しでも利率は低い方が客は集まりやすいわけで、簡単かつ精度の高い審査の実現に各社は知恵を絞ってきた。

しかし利率競争は低調だったではないか? そう。実際には、審査技術の向上は、いっそうの審査簡素化の実現、即ち借り手の利便性向上に配分された。それが消費者の選択だったのだ。サラ金より低利な小額融資市場は、「初回のみ一定の審査を行う」クレジットカード会社のカードローンなどが押さえていた。初見の人を相手にした簡単審査では、どうしても太刀打ちできない。それで、「低利を求めるならカードローンでいい、サラ金は利便性を追求せよ」が市場の回答となった。

サラ金業界の歴史を遡れば、人権を軽視した取立てによる損失の圧縮が「より頭を使わずに実行できる利益増大策」としてまかり通っていた。これは政府が規制した。この規制は私も支持する。しかし、「金利とリスクの釣り合う解」は金貸し各社が自由に追い求められる方がいい。「破産者を一人も出すべきでない」といえば自由がなく非効率な管理経済へ進むしかない。「簡単にお金を借りられる社会は間違っている」などと決め付けて、大衆の常識が経済を縛りつけることがあってはならないと考える。

金利に上限をつければ、金貸しが取れるリスクには自ずと制限がつく。結果、経済的に破綻する人が減ることはたしかだ(そうでなけりゃ金貸しの方が破産する)。しかし、大半の人が問題なく借金を返済できていたからこそ、サラ金業界は潤っていたのだ。

大半の借り手は、簡単に融資を受けられる利便性と金利が釣り合うと考えて、他人の強制ではなく自分の意思でサラ金から融資を受けていた。金利を規制するということは、簡単に小額融資を受けたいという需要を頭ごなしに押さえつけるということだ。経済問題に限らないが、薄く広い(合計すれば大きな)メリットは、狭く深いデメリットの前にかき消されがちだ。

これは功利主義とリベラリズムの対立だ。自分の意思で金を借りる人と貸す人がいて、破産も生まれる。この、誰が強制したわけでもない破産というものを、国家が「強制的に減らす」ことに正義はあるのか。

功利主義者は「簡素な小額融資の利便性は、破産の害を相殺し、さらに利潤を生み出す規模だった。それは市場でサラ金が成功した事実から明らかだ」と考える。しかしリベラルは、社会全体の利益より痛みの解消を優先するから「破産して自殺するような人がいる限り、それを減らすのは明らかに正しい」と考える。

追記(2010-09-27)

かつて消費者金融最大手だった武富士が、会社更生法を申請するという。「グレーゾーン金利」が事後的に「違法金利」とされ、リスクと金利のバランスが崩壊した。法改正後にはリスク低減策を取ったが、過去にはグレーゾーンの高金利を前提にリスクを取っていたので、「過払い利息の返還」による経営悪化は必然だ。

グレーゾーン金利問題で消費者金融各社が軒並み経営難に陥ったことは、各社が「儲け過ぎている」との批判が実態に即していなかったことを示している。高い金利に見合った、大きなリスクを取っていたのだ。

平成22年8月15日

2chの反応を見ると、科学を装って消費者の信頼を得る詐欺的な手法について、直感的に嫌悪感を覚える人が予想以上に少ないようだ。

『脳トレ』に登場する「脳年齢」は科学を騙っている、と私は2006年に書いた。その言葉の知名度は圧倒的であり、市場での存在感も大きい。ニセ科学批判の優先順位としては、「血液型性格分類」が先天的要因に基づくとする俗説を粉砕することよりは下だろうが、「ゲーム脳」よりは上じゃないかと思う。

「脳年齢」チェックの仕組みをよく確認すればわかる通り、脳トレの示す「脳年齢」が若くなることは、「脳が若返った」ことを全く保証していない。ゲームに習熟するにつれ、より若い年齢のサンプルユーザーの平均得点に近付いていく、ということに過ぎない。だとすると、少なからぬ人々が「脳年齢」という指標から連想した「脳を鍛える」という言葉のイメージは、実質と乖離しているといえないか。

「脳年齢」が単に「得点」であってもゲームの内容自体に変化はない。だが、商品の本質の少なくとも一部は、「脳年齢」という言葉の選択にあった。大学教授が監修し、「科学的な裏付け」っぽく見える理屈とデータも用意した。そうやって、「顔の皺は増えても、せめて脳くらいは若くありたい」という消費者の感情を、巧みに引っ掛けたのだ。

ゲームの得点と「脳の若返り」(まずこの言葉の定義が必要だが消費者の一般的なイメージから乖離したものであってはなるまい)の関連について、川島教授は科学的な説明を何もしていない。にもかかわらず、任天堂は「脳年齢」という言葉を採用し、「ゲームで脳が若返る」という誤解を利用してきたように見える。

たしかに任天堂は、「脳が若返る」とは宣伝しなかった。そこは慎重に言葉を選んでいる。だが、それは卑怯な言い逃れではないか。「DSで脳を鍛える! あなたの脳は何歳ですか?」これが脳トレの宣伝コピーだった。合わせ技一本でアウトとみなす見解に、私は与したい。

法的に罰するのが相当だという意味ではない。道義的な観点からいっている。端的にいえば、ズルいと思うのだ。科学でないものを、それらしい味付けで科学っぽく見せかけることで商品をヒットさせる……それは科学への信頼にタダ乗りする行為だ。やった者勝ちであってはならない。

自分の好きなものを脅かすニセ科学には猛反発するが、自分の生活を害しないニセ科学なんか、どうでもいい。それはそういうものだろう、とは思う。しかし、「勝手に議論してろよ。楽しければいいだろ」と要約されるような感覚は、個人的には許容できない。

平成22年8月14日

要約すると、現代の日本では人々が「血液型性格分類」を「信じる」ことによって「血液型性格分類が自己成就」し、性格分類が次第に妥当性を持ち始めている、という内容。だから血液型性格分類は有用だ、と話を展開するので、私は「えっ!?」と驚いた、のだが……。

ABO FANには、リンクしたもの以外にもいろいろ記事がある。そこで繰り返し引き合いに出されているのが「郷土性」の研究だ。どういうことか? 生育環境の性格への影響を「悪」としないならば、例えば大阪で生まれ育った人が「大阪人らしい性格になる」ことが人間性の毀損といった「悪」ではないならば、血液型性格分類が広まった社会で生まれ育った人が「血液型性格類型に沿った性格になる」ことを「悪」とみなす根拠は何か、ということだ。

ううむ、と唸ってしまった。性格の郷土性を裏付ける研究は多々あり、遺伝子とは関係なく、環境によって人の性格が変化することの証左となっている。つまり、人が生まれ持った性格が「外力によって少しも歪められることなく開花する」なんて、まずありえない、と。伝統的な食品ゆえに餅が規制されず、新参のこんにゃくゼリーだけが規制されようとしていることに首を傾げる私の姿勢と、ABO FANさんの主張が、重なった。

A型の子どもを、A型らしく育てようとしている親はいない。そのような社会でもない。ところが、郷土性については、親も社会も、むしろ積極的に子どもを型にはめようとしていないか。そうして、「出身地」に対する「偏見」は「現実」となっていく。大阪人なら全員がこうだ、とはいえない。それはわかっている。しかし、多くの人が一定の先入観を抱いていて、その先入観は現実の体験によって強化されていく。

なぜ「郷土性」はよくて、「血液型」はダメなのか。どちらも子どもが自分で選ぶことのできないものではないか。「郷土性」の問題が「地域差」にあるならば、全国の環境を均一化してしまえばよい。それでも、環境が「本来の性格」を「歪める」ことは避けられない。しかし「本来の性格」って何だ? そんなもの、実際に存在しうるのか?

会社でチームを作るとき、理想的には個々人の性質を十分に把握して適材適所を貫くべきという話に異論は出ないが、実際には、人は自分自身すらよくわかっていない。仕方なく、過去の経験や根拠不明の通説・風説も人事に影響してしまう。「徳保くん、生まれは愛知だったよね」「育ちは千葉ですが」「今度のプロジェクト、愛知出身の**くんと組んでくれ」「了解しました」

いや、出身地は関係ないだろう、と思う。ようするに、誰でもよかったのだ。でも籤引きにするのは無責任だと思った。何か理由を付けたかった。だから、同郷の二人ならうまくいく、そう信じたのだ。まあ、いいんじゃないか。学生時代、「血液型でチーム編成を決めた事例」をネットで読んだときには直感的に嫌悪感を抱いた私だが、なぜか同じような気持ちにはならなかった。

しかしそれは「郷土性」という怪物が闊歩する社会に馴らされてしまっただけではないのか。逆に、それを原理的に否定しないなら、「血液型性格分類」と「郷土性」への対応の差は、それぞれの仮説の説明力の差だけに支えられているのではないか。となると、そのボーダーはもはや……。

平成22年8月13日

1.夏休みの自由研究、みたいな。

ガイドブック『セイギのつくり方。』できました!

NHK『ハーバード白熱教室』の完全文字起こしを(勝手に)やったVisuaLectureのヒロケンさんという方に誘われて、白熱教室のガイドブック『セイギのつくり方。』のお手伝いをしました。全54ページの電子書籍(無料/PDF/約25MB)です。

ハーバード白熱教室ノートを面白いと思ってくださった方には、面白いかもしれない。全くの素人が夏休みの自由研究のようにまとめたものですが、ご一読いただければ幸いです。

2.『セイギのつくり方。』はこんな本です。

タイトルは釣り。内容は『ハーバード白熱教室』のガイドブックです。

第1章「政治哲学者タイプ診断チャート」はウェブ版があります。所要時間は1分です。ガイドブックに関心を持っていただく手がかりとして、気軽に挑戦してください。(2010-08-29)

あなたはどの政治哲学者に意見が近い?

「タイプ別診断チャート」の画面例

あなたの正義、問い直してみませんか?

「Q20」の画面例

これでようやく『ハーバード白熱教室』がわかる

「講義の概要」の画面例

日常生活に役立てる手がかり

「セイギマニュアル」の画面例

いろいろ便利な感じになってます

画面案内

ダウンロードはこちら!

『セイギのつくり方。』配布サイトへ

3.個人的なメモとか

ヒロケンさんから「iPad向けの電子書籍で白熱教室のガイドブックをやりたいので手伝ってください」と連絡があったのは7月9日。11日には東京から栃木までヒロケンさんがやって来たので、私は圧倒されてしまった。そのときは、7月末には完成させようよ、みたいな話だったんだけど、まあ、甘かった。

ヒロケンさんは文化系の社会人サークルを主催しているのだという。学生時代の同期とはじめて、今では色々な人が集まってカオスなメンバー構成になってるのだとか。「ふぅん、社会人になっても勉強会とか主催してる人の熱意って何なんだろうな」とか他人事のように聞いていたのだけれど、何となく流れで7月24日の会合に出席することに。

本当は24日の会合に完成第1稿を持ち込む計画だったけど、とても無理。素案を持参するのが精一杯。正直、肝心のヒロケンさんのエンジンがかかってなかった。それでも、まじめでポジティブな方々の意見や、期待の言葉をたくさん頂戴することができ、個人的にはやる気が出た。あとヒロケンさんのサークル仲間のジマさんが参加されたりとか。

その後、父方の祖父が危篤になり、生きているうちに会わなきゃと思って愛知県へ行き、また回復したので長期滞在になって作業が進まず……みたいなこともあった。毎日、一日中、病室にいた。さすがに腰が痛くなった。もう祖父は年齢が年齢なので、たとえ命尽きても大往生である。祖母も含め、みんな表情が明るく、笑いが絶えないのがよい。話を戻す。

NHKで白熱教室の2度目の再放送が始まる11日までには完成させたいとヒロケンさんが仰るので、サポーターとしては仕事をするしかない。8日までに自分の担当する作業を終えた。それでどうして公開が13日になるのか、という話はあるんだけど、私以外は労働基準法違反ぽい労働時間の方々だったりするので、仕方ないのです。たぶん。

平成22年8月12日

その9

放り出す。

平成22年8月11日

その8

ノーコメント。

平成22年8月10日

その7

たった1段階でも、話を掘ってみると「あれっ?」と思うことがままある。

平成22年8月9日

その6

Togetterの記事は短期間で簡単に消え過ぎだと思う。

平成22年8月8日

その5

平成22年8月7日

その4

平成22年8月6日

その3

平成22年8月5日

その2

平成22年8月4日

その1

これから数日、いいたいことがあってアドレスをメモしたけど面倒くさくなって放り出してる記事をいくつか紹介していきます。ちょっと数が多いので、大まかにジャンル分けしようかと思っているのだけれども、途中で飽きてしまうかも……。

過去にも何度か書いてきたことだけれども、「この記事について何か書きたい」と思うかどうかということと、その話題についてとくに強い関心があることは、イコールではありません。「興味関心はあるけれども、自分の意見はとくにない」話題の方が、ずっと多いです。

私自身は、もう就職活動とかにあんまり関心はないのだけれど、この件については自分の意見を持っているので、「一言いいたくなる」のです。でも、書き始めてみると、「あれ? これって、先日、書いたことと同じだな」となる。で、つまらなくなって途中で放り出す。記事を書くのって、面倒くさいんですよね。

ちょっと挨拶に行ったり面接を受けるだけでも不愉快きわまりない会社なんか、受けるな。内定が出ても、入るな。結局、どんなに「世間体のいい会社」へ入っても、人間関係や病気で辞めることになってしまうのだから、基本的に社風というか、先輩方の人柄で選べよ。思い切って目線を下げれば内定は出る。とはいえ、他の条件が同等なら、そりゃ大きな会社に入った方がいい。統計上、大企業が有利なのは明らか。

だいたいこれくらいかな。まだ内定の出ていない方も、諦めずに頑張ってください。大学の研究室の同輩は1月に内定を取りました。私の勤務先でも、年が明けてから最終の追加募集をしたり、新年度になってから既卒者を急遽採用して春に人材を補充したことがあります。

平成22年8月3日

twitterやはてブで話題になったのは5月か……。で、これって本になるんじゃなかったの? まとめサイトを見たらあまりの長さに「こりゃ読めん」と思って、ポヤーンと待っていたんだけど。

利口な編集者が、まともな校正者とそれなりのイラストレーターをセッティングすれば、100円×13章くらいで配信できそう。

あー。桝田さんが中心になって、twitterで用語集を付けようとか何とかいろんな「アイデア」を受けて……なるほどね、それだから、2ヵ月半経っても本にならないんだ。新潮社なら、あっさりほとんどそのまま本にしてたろうと思う。で、それなりに売れたんじゃないか。

書籍版の『電車男』を見たとき私は「えっ? これでいいの?」と驚愕した。けれども、これがミリオンセラーになる。私は『電車男』の編集から「部外者にはよくわからないお約束や方言などをいちいち解説する必要はない。ネット上で生のコンテンツが大勢にヒットしたからには、枝葉の部分がよくわからなくても、根幹の魅力が損なわれることはない」という思想を感じ取った。まあ、私の妄想と思っていただいてよい。

ただ、会社で何かを提案する際、『電車男』の編集姿勢を思い出すことが時々ある。「全て」を理解してもらおうとすると、話がくどくなってしまい、結局うまくいかない。提案が却下された際、「ここを理解されなかったからだ。説明が足りなかった」と思いがちだけれども、そうではないのではないか。

twitterの議論を眺めると、『まおゆう』のファンたちが、「『まおゆう』の素晴らしさを広く一般の方々に伝えるためにはどうしたらよいか?」という問いを立てて、自分と同じような理解の水準で楽しんでもらおうと知恵を絞っているように見える。でも、本当に充実した用語集や豊富なイラストなどが必要なのだろうか。冗長だったり文章が稚拙だったりする部分を整理しなきゃならないのだろうか。

いま私は、ウェブサイトの書籍化は、「それなりのレイアウトでシンプルに印刷した紙束を製本したもの」でいいのではないかと思っている。ウェブ版を読んだ人は、しばしばそういうのを「手抜き」とかいって馬鹿にしたりする。しかし、ウェブでただで読めるものを本にして書店に並べることで「届く」人がいるのだから、それでいいじゃないか。

要約:早く出版してください。

2.

書籍化を待っている間に、いろんな感想を斜め読みするだけでお腹いっぱいになってしまった……。

平成22年8月2日

1.

向井万起男さんという宇宙飛行士の夫として著名な病理医の診断が問われているケース。向井さんが患者の子宮腫瘍を診たのは2003年。結論は「良性の偽肉腫」で、学会発表も行われたそう。結果的にこれは誤診で、2004年の末に患者は亡くなっている。問題は、向井さんが「もし患者が自分の妻なら子宮を摘出していた」という意味の発言したこと。遺族はこの発言をつかまえて、不作為の罪を訴えた。現在も係争中。

リンク先の記事は「医療に不確実性は付き物であって、当時26歳だった患者と、既に50歳を超えた向井医師の妻とでは、子宮摘出の重みが違う。良性の偽肉腫の可能性が高いと診断した以上は、子宮温存の道を選択したことが罪に問われるのはおかしい」とする。

2.

しかし記事中に引用された病院側の反論は、「転移は全く見られず悪性を疑わせる事情はなかった」ので死亡は「全く予想外」というものなのだそうだ。私の感覚だと、「さっきと話が違うじゃないか」ということになる。病理医の意見と主治医の意見が完全に一致するとは限らない、と増田さんはいう。それはそういうものだろう。が、私が気になるのは、ここで病院側が「悪性という可能性もゼロではないと思っていた」とは主張していないことだ。

増田さんはリスクの存在を前提として、子宮温存と生命リスクのバランスは人それぞれじゃありませんか、と問いかけていたのではなかったか。そして、医療にリスクは付き物なのだから云々、と話を展開している。ところが、実際の病院側の主張は、ガンによる死は「全く予想外」というものだ。矛盾しているではないか。

ベストセラー小説『白い巨塔』に描かれた医療過誤を巡る裁判のシーンでも、私は同様の引っかかりを覚えた。財前医師は、自分の判断に揺ぎ無い自信を持っており「事前には決して予見できない病状のために患者は死に至った」と主張し、それが崩れて敗訴する。

医療に100%はない。しかし、僅かなリスクを恐れて患者を検査漬けにすれば、医療はパンクしてしまう。患者も疲弊するだろう。だから一定のリスクは受容してもらうしかない。……そのような考え方が、じつは背景にあるのだとしても、財前医師が前面に押し出した主張は「私の診断に過失はなかった。どんな名医に頼んでも私と同じ判断をしたはず」であった。

3.

もし私が患者の家族だとして、「まさか、ガンじゃないですよね?」と問うて「違いますよ。ガンという可能性は全く考えていません」と主治医に説明されたなら、子宮摘出なんて考えもしない。それから2年も経たずにガンで死んでしまい、事後説明で「正直、ガンの可能性はあった」といわれたら、怒りが爆発する。

「ガンの可能性は、かなり低いですが、決してゼロではありません」「でも、かなり高い確率でガンではない?」「はい。ですから、閉経後なら念のために摘出してしまうのがふつうですが、26歳くらいですと、経過を見るのが一般的です」といったやりとりだったならば、万が一の場合にも、「赤ちゃんの可能性を残したくて、リスクを取ったのだ」と納得もできる。

患者が完璧を求めるから、どうしても医師も「大丈夫ですよ」といいたくなる。そういうことはあると思う。そして医療の世界にも、99.99%くらいの「大丈夫」は実際に存在するのだろうし、その場合、「リスクはゼロではない」と強調することが、むしろ誤解を生むという話は、私だって理解できる。

だけど、生きるか死ぬかの話なのである。90%を100%といわれてはたまらない。治療せずに放っておいたら10人に1人は死んでしまうのだ。99%だって、100%と説明されたら「騙された」と感じるだろう。患者や家族は医療に100%を求めがちだが、「実際には100%ではない」なら、そのことをきちんと説明してほしいという思いは、より強いのではないだろうか。

繰り返すが、病院側の説明は、ガンは「全く予想外」だ。それなのに「50歳代の女性なら子宮を摘出する」という判断になるものだろうか。私はここに矛盾を感じる。「主治医がリスクの認識を誤った or 説明を怠った」あるいは「病理医が主治医に正確な報告をしていなかった」と考えるのが、自然ではないだろうか。

4.

結果論で病院が責められている、という側面は否定しない。娘が死んだのは病院の不作為のせいだ、という提訴内容の根幹に、私は同意しない。しかし遺族の怒りには正当性があると思う。怒りの原因を直接に問うことができないから、死の責任を問うているとするならば、全体として一定の支持をしたい。

診断・治療は統計的事実にのっとり行われるという。であれば、「全く予想していなかった」なんて医師には簡単にいってほしくない。少なくとも「50歳代の女性なら子宮を摘出する」という状況で「全く」なんて言い方をするのは、おかしいと思う。これは納得の問題だ。医師の説明が不十分だったために、主体的な選択ができないまま命を絶たれた……私には、そう見える。だから遺族の怒りに共感する。

これは民事の裁判だ。この件について、医療崩壊をチラつかせて提訴自体を否定する意見には与しない。ただし、「病院には民事上の罪があって、損害賠償をするのが正しい」とも思わない。きちんとリスクが説明されても、結果は変わらなかったろう。それでも。

5.

向井先生が有名であるが故にたまたまニュースになってるだけで、こんな話日本中にゴロゴロ転がってるんだよ。医療に幻想を抱き、結果だけを求める国民と、それを煽るマスコミが癌であることは間違いないけれど、家族を失う悲しみ、悔しさを怒りにすり替えて医療側を叩くのは、もういい加減やめにしよう、ホント・・・

裁判の構図が、根本的に筋違いだ、という批判は分かる。事実として、良性の可能性が高かったのだろう。何でも手術すればいいというものではない。このようなケースで患者の死について病理医が責任を取らされたら堪らない。なり手がいなくなる。それはよくわかる。だから裁判自体は病院側が勝てばいいと思っている。

だけど、医療の側に、本当に反省点はないのか。遺族にしてみれば、警察に相談していたのに「大丈夫ですよ」といわれて放置されたまま娘をストーカーに殺されてしまったようなものではないか。遺族が「全く予想外」という言葉に不信感を覚え、後に病理医が「ガンの可能性はあった」という内容の発言をするのを聞いて黙っていられなくなった気持ちが分からないのか。

そりゃいちばん悪いのはストーカーであるところのガンだろうよ。だけど、納得できない気持ちのいくらかは、実際、医療関係者の発言が招いているんじゃないか。同じ死ぬのでも、やれるだけのことをやって、「これでも死ぬなら仕方ない」と思って死にたい。それが叶わなかったから、いっそう悔しいんじゃないか。

繰り返すが、裁判は病院が勝てばいいよ。だけど、裁判を起こす他に、遺族に何ができたというのだろう。同じような思いをする人を減らすために、どんな方法があったというのだろう。

平成22年8月1日

1.

「すごい」と思う。そのアイデアにも技術にも感心する。ただ私は、本題から外れたところで、ちょっと違うことを考える。

2.

IEは非推奨です。IEでも一応閲覧は可能ですがGoogle Chrome、firefox、Operaのようなデザインでは表示できません。

ここで今IEを使っている人に言いたい! そのブラウザを使うのをさっさとやめてくれ。あれはWeb業界の足を引っ張りまくっているお荷物なんだ!

もうIEとかネタでしかないし、早く滅びればいいのにw

昔からいっているのだけれども、製作者が「特定のデザイン」を閲覧者に押し付けようとするなら、CSSデザインもテーブルレイアウトと何ら変わりがない。ブロードバンド時代である。段組なんか、テーブルを使って何の問題もなかろう。theader要素に「本文」とか「メニュー」とか書いておけば説明もつく。

幅広い閲覧環境に柔軟に対応できるというのがCSSデザインのメリットだったはずなのだが、裏技shop DDさんのサイトは、音声読み上げでは非常に利用しにくい。1分経っても本文が始まらない。視覚系のブラウザなら大丈夫かというと、最大シェアのIEを非推奨と言い切ってしまう。ちゃんと文章を読めるのだから、それでいいだろうに。

単に軽くしたいなら、8割方の閲覧者がクリックしないであろう、本文と無関係のコンテンツを大量に紹介する部分をバッサリ削る方が、よほど効果的ではないだろうか。

3.

こんなむちゃくちゃな事をやるってことはhtmlの記述に問題がありそうな気がしますが、その点は全く問題なくXHTML 1.1で製作しています。もちろんW3C Markup Validatorも通りますし、ちゃんと 「This document was successfully checked as XHTML 1.1!」と表示されます。

これは観点がずれている。Validatorにできることは、文法的な誤りがないかどうかを確認することだけ。ひとつひとつのマークアップが、その内容に照らして適切かどうかは、今のところ人間にしか判断できない。

かつて俗に「不思議マークアップ」といわれたのは、ひとつはたしかに「(一部の)ブラウザはいい感じに補正して表示してくれる文法ミス」だったけれども、より本質的なのは「見出しでない部分を、単に文字を大きくしたいがためにh1やh2でマークアップする。逆に見出しを見出しとしてマークアップせず、fontなどを駆使してそれっぽく装飾するだけ」といった事例に対する批判だった。

裏技shop DDのドラえもんのソースを見ると、内容空っぽのdiv要素がたくさん使われている。単にドラえもんの絵を描くためだけに、絵柄の都合でdiv要素が使われている。これは馬鹿げた話であって、img要素を使う方が、手間とかそういう問題でなしに、マークアップとして理が通っているだろう。

CSS3 ドラえもんは、技術デモとして面白い。それは否定しない。しかし、文法違反がないからhtmlとして問題がない、という意見には同意できない。