議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

Lecture5

Lecture5からLecture16まで、自由主義の検討が続く。自由主義は、全体の幸福よりも、個人の権利を保護することを優先する点に特徴がある。ではどのような権利を、いかなる制度で保護するべきか。これは様々に意見が分かれる。

今回のテーマはリバタリアニズムへの賛否。リバタリアニズムは自己所有の原則を掲げ、個人の自由を最大限に主張する点に特徴がある。自由主義の主流をなす社会契約論との大きな違いは、「社会の必要な領域」を極めて小さく見積もる点にある。

映画『スター・ウォーズ』のエピソードでルーク・スカイウォーカーらは帝国の圧制に抵抗し、デス・スターを破壊する。ひたすら自由を求める強い信念が反乱軍を突き動かしていて、帝国打倒後の新国家の建設に十分な意を払っている様子はない。こうしたルークらの姿勢は、リバタリアニズム的だと思う。

ちなみに皇帝側の発想はエピソード1〜3から窺い知ることができる。当初は国民を保護するには迅速に正しい判断を下せる国家体制が必要だという社会契約論から始まり、次第に全体の幸福のためなら個人が犠牲になることも厭わないという功利主義へと軸足を移していく。

所得再分配の是非

リバタリアニズムは政府による強制的な所得の再分配を否定する。取得の正義と移転の正義を満たし、更生に稼いだ財産について、人々は不可侵の権利を持つ。それゆえ、大金持ちから貧乏人への所得の再分配であっても、強制してはならない。

(教授)貧しい人たちを助けるためであっても、再分配は間違っているだろうか?

学生たちは明白な反応を示した。ただし、ここには教授の強力な誘導が働いている。

少数派 再分配は間違いだ
多数派 再分配は正しい

教授はビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンら大金持ちばかりを例にひき、現実には年収300万円足らずでも所得税やその他もろもろの税金を徴収される事実には触れなかった。また、仕事を持っていない学生たちを相手に問いかけているという状況もある。つまり、学生たちは極端な貧富の格差で目くらましをされた上、自然と所得を奪われる人より、再分配の恩恵を受ける側に同情するように誘導されているのだ。

リバタリアニズムは豊かになった先進諸国で隆盛を誇るようになった思想だ。経済発展が個人の力を強くした結果、社会が個人への強い干渉を維持する必然性は小さくなってきているのではないか、という素朴な実感が広がりつつあることが背景にはある。自称リバタリアンは方々にいる。

歴史的経緯から、コミュニタリアンのサンデル教授はロールズのリベラリズムを主な論敵としており、この講義でもそれは変わらない。しかし今後を考えるならば、リバタリアニズムこそコミュニタリアニズムと対立する自由主義の雄へと育っていく存在であって、極論を持ち出してアッサリ否定してみせるようなやり口で対応するのは間違いだと思う。

議論の主題は、「弱者救済の美名のもとに、当人の意思を無視して正当な財産を収奪することが、道徳的に認められていいのか」という点にある。リバタリアンといえど、現実には徴税の即時廃止を求める急進派は少ない。これは功利主義者でもそうだった。道徳的に正しい、将来的に社会が目指すべき理想の姿は何か、そういう思索の先に、「政府による強制的な所得の再分配は悪である」という尖がった主張が存在している。

もっと端的にいえば、所得の再分配は「必要悪」なのか、「完全に正義に適った行為」なのか、が真の問いであるはずである。

リバタリアンなら、現状の世界を前提とすれば「必要悪」であり、理想的にはその前提を改善して「不要」とすることを目指す、といった回答になろう。功利主義者なら、少なくとも現時点では所得の再分配が社会全体の幸福を増大させることは明らかなので、所得の再分配は道徳的にも正しい、と考えるに違いない。

ところが、サンデル教授は、リバタリアニズムの理想を現実に直接あてはめてみせ、「政治的に正しい」と「道徳的に正しい」の区別をつけずに、即ち「現実問題として所得の再分配の廃止は正しいか?」という問いとごちゃまぜにして、リバタリアニズムという政治思想を疑うよう、学生を誘導した。これは公正な態度ではないと私は思う。

(教授)まずリバタリアニズムに反対の人の意見から聞こう。再分配に反対するリバタリアンの主張のどこが間違っていると思う?
(学生A)ジョーダンのような人は社会から一般の人よりは大きな贈り物をもらってるのですから、再分配によってそれを返すより大きな義務を負っていると思います。ジョーダンも1日十数時間、洗濯をしている人と同じくらい必死にやっているかもしれませんが、収入ははるかに多いわけで、それを全てジョーダンが一生懸命やったからだというのは違うと思います。

学生Aの意見は興味深い。ジョーダンとクリーニング業者の収入の格差は、「勤勉さ」という美徳への報酬としては説明できない、と述べているのだ。多くの社会では、経済的報酬は美徳の対価ではない。

現代の先進諸国では、「結果」に対して払う、「生活」を保障する、という2つの観点から報酬が決定される。前者は格差の原因であると同時にインセンティブの源泉でもあり、後者は最低賃金制度や様々な労働者保護の制度に結実している。なお、自由経済では人々のトライ&エラーの繰り返しが経済成長には欠かせないことからも、単純な成果主義は否定される。まず基本給で生活を保障し、そこに昇進やボーナスで差をつけていくのは、合理的なやり方だといえる。

しかし、学生Aのような主張は、私たちもしばしば耳にするものである。よくあるパターンは、「汗水たらして頑張る」ことが高額報酬の必要条件とするものだ。「濡れ手で粟の大儲け」への嫌悪感の表明とセットになっていることが多い。

ここから転じた「より多くの報酬を得る者は、より道徳的にも正しくあらねばならない」といった意見も、よく目にするものだ。「報酬」の部分を「権力」に置き換えても、話は変わらない。ふつうの人が持たざるものを持つ人々は、道徳的にも優れていなければ許せない、という感情は根強く存在する。そのような議論においては、正当な手続きによって報酬や権力を手にしたことは、全く考慮されない。

私自身はこの考え方に賛同しない。彼らの論理を貫徹するならば、例えば、底辺層といえども発展途上国の貧しい人々よりはずっと裕福な日本人は、みな高潔でなければならないはずだが。あまりそうした意見を聞くことはない。所詮は嫉妬心に理屈を乗せて羨望の対象を攻撃し心の慰めにしている過ぎないのではないか。

(教授)では、次にリバタニアニズムを擁護する側の意見を聞こう。貧しい者を助けるために、金持ちに課税するのは間違いだと思う人は?
(ジョー)僕のスケートボードのコレクションは100個くらいあります。僕が100人の社会に住んでいるとして、突然、皆がボードを欲しいと思い、僕のボードを99個持っていってしまうのは、公正ではありません。生死がかかっているなら不正を見逃す必要もあるでしょうが、人の所有物や資産を奪うのは不正です。
(教授)飢えている人に食べ物を与えるためでも、ジョーダンから税金を取るのは、間違いであり、盗みだというわけだね。
(ジョー)はい、不正だし盗みです。でも、その盗みを見逃す必要もあるかもしれない。
(教授)でも、盗みは盗み。
(ジョー)はい。
(教授)なぜ、それが盗みになるのかな? 君のボードを取り上げるのと同じになる理由は?
(ジョー)僕の意見では、そしてリバタリアンの考え方では、正当に稼いだのですから、彼のものです。それを取り上げれば定義によって盗みになります。

「必要悪」と「完全に正当化できる行為」の違いに注意が必要。

そして、ジョーは教授が大金持ちと貧しい人を対比させた誘導に引っかかってしまい、学生Bの反論を招く。

(学生B)100個ものスケートボードなんて使い切れないのだから、政府が99個とりあげたとしても問題ありません。どうせ使いきれないのだから、政府がその一部をとりあげて分け与えても、ちっとも悪くないでしょう。政府が再分配しない社会では、金持ちはどんどん裕福になり、貧しい人はスタート地点の差を埋められず、一生、低い賃金で働くことになります。
(教授)ある程度の富の再分配がなければ、底辺に取り残された人々には機会の平等が与えられなくなる、ということだね。結構。ノージックはジョーよりもっと厳しい。ジョーは極端な状況では盗みも許されるという意見だったが、ノージックはあくまで課税は盗みだといった。

学生Bの意見は、ベンサム的な最大幸福原理に拠っている。みなの幸福のためなら、個人の財産権など蹂躙してかまわないということだ。

それに、ジョーは100人の社会において、100個のスケートボードのうち99個を自分以外の99人に分け与えるケースを挙げている。学生Bは「どうせ使いきれないのだから、政府がその一部をとりあげて分け与えても、ちっとも悪くない」と断言するが、財産の99%を再分配するのを「一部を取り上げて分け与える」と表現するのは印象操作によって問題設定を捻じ曲げているといわれても仕方ないだろう。

学生Bのような理屈でリバタリアニズムを否定するなら、実際、スケートボードは同時に1つしか遊べないだろうから、99個を再分配することが正義に適うだろう。だが、それはリバタリアニズムよりもっと尖がった意見のように思えるのだが。

そして最後の教授の発言もひどい。ジョーは、生死がかかっているような状況では、被害者である自分自身が、不正を見逃すこともありうる、といったのだ。社会が勝手に見逃すのではない。あくまで被害者自身が、声高に不正を追及することなく、しかし許すのではなく、「見逃す」というのだ。

ジョーの主張は、「もし貧しい人に支援が必要なら、自発的な寄付を原資として富の再分配を行えばよい」というリバタリアニズムの考え方に沿っている。たとえ生死がかかっている状況でも、盗みは不正である。道徳的に許されない。この点で、ジョーとノージックはきちんと一致している。しかし、被害者自身が、事後的に財産の一部譲渡を承認することはあるだろう。そうした「思いやり」を、ノージックは否定していない。

だから、ジョーと対比してノージックを「もっと厳しい」とするサンデル教授の解説はおかしい。

Lecture6

Lecture5でサンデル教授がリバタリアニズムに対して狡猾な攻撃を仕掛けたのは、Lecture6の前振りだったのだろうか。Lecture6では、リバタリアンの学生に存分に発言の機会が与えられる……のだが。

リバタリアニズムへの疑問と回答

(教授)リバタリアンが再分配に反対する論拠は、自分を所有するのは自分だ、という根本的な考えだった。ノージック曰く、もし全体としての社会がビルゲイツやマイケル・ジョーダンから彼らの富の一部を税金としてとりたてることができるとしたら、社会が行使しているのはビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンへの共有財産権なのだ。しかし、それは自分を所有するのは自分、という根本的な原則に反している。……さて、リバタニアニズムに対する批判がたくさんでてきた。今日はリバタリアンたちに反論の機会を与えたい。

教授は事前にブログでリバタリアンを募集しており、アレックス、ジョン、ジュリアが手を挙げた。

(教授)ジュリア、ジョン、アレックスでリバタリアニズムのチームが結成されたところで、講義とウェブサイトにでてきた主な反論を要約しよう。
 第1の反論は『貧しい者はより金を必要としている』というものだ。これはわかりやすい。その必要の度合いはビルゲイツやマイケルジョーダンより、はるかに高い。
 第2の反論は税金を課すのは奴隷制度ではない、少なくとも民主的な社会は税金を課すのは奴隷所有者ではなく、議会だからというものだ。議会は民主的なものであるから、統治されている者の同意による課税は強制ではない。
 第3の反論はゲイツのように成功した者は、成功について社会に借りがあるから、税金を払うことでその借りを払うというものだ。税金を払うことで、その借りを返すべきだということだ。

以上がサンデル教授の論題整理である。相変わらず、極端な大金持ちを引き合いに出すことに不満がある。現実には大多数の者が関わる問題なのだから、極端な格差を例に出すのは目くらましに過ぎないのだが。

(教授)1番目の、貧しい者の方がより金を必要としている、に反論してくれる人は?
(ジョン)貧しい者の方がより金を必要としていることは同意します。でも、富を再分配にメリットがあるからといって、所有権の侵害は正当化できません。それがたとえ、一部の人の生存にとって必要なことであっても、です。しかし、個人的な慈善事業という道があります。ミルトン・フリードマンがこれを論じています。
(教授)ビルゲイツが望めば慈善に金を出すのはいいが、強制するのは間違っている。貧しい人がそれを必要としていても。
(ジョン)そうです。

ジョンは無難に切り抜けた。次のジュリアの主張は微妙な内容を含むので、要約せずに紹介する。

(教授)残る2人も賛成かな?
(ジュリア)何かを必要としていることと、何かに値するということとは違うと思います。理想の社会だったら全員の必要は満たされているでしょうけど、ここでは私たちが何に値するかのどうかの議論なので……。
(教授)では、貧しい人はマイケル・ジョーダンから取った税金で助けるに値しないというわけかな?
(ジュリア)今までの議論の流れでいけば、値しないと思います。
(教授)ジュリア、もう少しそこのところについて聞かせて欲しい。ハリケーンカトリーナの被害者は深刻な状況であり、助けを必要としている。それでも彼らは税金を財入とした連邦政府の支援には値しないのかな?
(ジュリア)難しい質問ですね、これは助けを必要しているけれでも、助けには値しないというケースだと思います。でも、命を維持できないレベルに達したら助けは必要です。食べ物や住むところがないとか……。
(教授)助けが必要なのと、助けに値するとは別物なのかな?
(ジュリア)はい。

自滅、といっていいだろう。私なりにジュリアの発言を擁護したい。ジュリアが主張したかったのは、こういうことだと思うのだ。

貧しい人は、マイケル・ジョーダンの財布を盗んでいいのだろうか? ハリケーンの被災者は、被害を免れた商店の倉庫を破り必要な食料や道具を奪ってもいいのだろうか。そのような罪過が「仕方のないことだった」と理解されるのは、生命の決定的な危機に直面している場合に限られるはずである。助けがほしい気持ちはよく理解できる、という状況が、当然に他人の財産を掠め取っていい理由となるわけではない。

しかるに、間に政府が入っただけで、マイケル・ジョーダンの財産の何割かを没収し、真っ当な方法で築いた市民の財産を奪うことが正当化されるというのは、いったいどんな理屈だろうか。

助けがほしい人は、声を上げることだ。その声に心を動かされた者は、自ずと支援の手を差し伸べるであろう。困窮する他人のために私財を放出するのは、全く個人の自由だ。支援は、それに同意する者によって行われるべきなのだ。権力が私権を制限して個人の財産を強制的に再分配することは、当面、現実的には不可避の選択なのかもしれないが、道徳的に間違っていることは明白である。

……というのが、リバタリアニズムの考え方だろう。

(教授)誰か反論がある人は?
(ラウル)個人の所有権は政府が制定・施行しています。民主的な政府は、私たちの代表です。
(教授)第2の反論だね。もし統治される者と同意による課税が強制ではないとしたら、それは正当だということだ。ビル・ゲイツもマイケル・ジョーダンもアメリカ市民であり、議会に投票できるし、他の皆と同じように政策に対する自分に信念を投票によって表明できる。これに対する反論は?
(ジョン)下位10%のために、上位10%がすることを、中間の80%が決めてよいのでしょうか。
(ラウル)開かれた社会では、誰もが自分の意見を代表を通して主張することができます。もし過半数の人々の合意が自分の主張と違っていても、この社会に生きるなら、多数決を受け入れなければなりません。
(アレックス)自分の権利を行使するために、2億8000万人を説得する必要があるでしょうか。僕は多数決の有効範囲を厳しく限定する憲法を持つ民主主義を支持します。多数決によって人間の基本的な権利を制限するのは間違っています。
(教授)なるほど。経済の議論、課税についての議論はちょっと横において置こう。宗教の自由についての個人の権利が焦点になっているとしよう。アレックスは演説で個人の自由の権利を投票にかけるべきではない、とみんなに訴えかけるだろうね。
(アレックス)その通りです。そのためにアメリカ合衆国憲法修正第一条があるのです。

ちなみに、その修正第一条は連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。というものである。

修正第一条とは、改定された第一条ではなく、当初は全7条だった憲法に付け加えられた修正条項の第一条を意味する。本文の7条は手続き関連の記述が主となっている。そこで憲法が発効した翌年の1979年には早くも、国民の人権を保障する修正条項10か条が連邦議会から提案された。これを規定以上の州が批准し、発効したのは、1791年のことである。この10か条は権利章典とも呼ばれる。

アメリカ合衆国憲法は1788年に発効した世界最古の成文憲法であり、大きなことから細かなことまで、結構ごちゃごちゃ書かれている。この憲法の特徴のひとつは、主要条項の改訂や挿入ではなく、新しい条項の追加によってアップデートするスタイルを採用した点だ。過去、文言を挿入した例はあるが、項目の無効化や文章の一部削除は行われていない。

ただし、修正第18条の禁酒法は、修正第21条により廃止されている。修正第18条自体を無効化するのではなく、それを廃止するという修正第21条によって内容を上書きしている。わかりにくいように思えるのだが、アメリカ合衆国憲法は改正に高いハードルが設けられており、ルールが変更される見込みはない。

(アナ)宗教と経済を同列には論じられません。経済活動には社会の安定が必要です。政府が貧しい層10%を助けなかったら、犯罪を防ぐためにもっと大きな警察が必要になり、結局は税金が増るでしょう。
(教授)なぜ宗教の自由に対する基本的な権利は、私有財産の権利とは異なるのかな?
(アナ)経済活動は社会と不可分ですが、宗教は究極的には個人的な実践です。
(教授)よくわかった、ありがとう。では少し問いを変えよう。腹をすかした家族を養うために、パンを盗むのは間違っているかな?
(アレックス)間違っています。
(ジョン)所有権の侵害であり、間違っています。
(教授)家族を養うためでも?
(会場 笑い)
(ジョン)他に方法はあるはずです。盗みを正当化して僕を笑うのは、もう少し待って下さい。自己所有権、財産権について、僕たちは存在する権利だと認めました。権利の侵害を直視してほしい。

多数派の常識に反する意見を述べたジョンを嘲笑する連中は不愉快だ。政治哲学の講義中ぐらい、きちんと人の意見に耳を傾けたらどうなんだ。

ただ、これまでの講義と同様、サンデル教授は少数派を嘲笑する者にお説教はしない。お説教は、教室の空気を冷やし、政治的な正しさに縛られた反応を学生に強いることにつながるからだろう。無論、重大な場面では介入も辞さない。実際、Lecture23では、サッと議論に割って入った。

幸い、ジョンは強い学生であり、この場面では、教授は動かなかった。

(教授)なぜ、家族を養うためでも盗んではいけないのか。
(ジョン)良い結果がもたらされるからといって、その行為が正当化されるとは限らないからです。
(ジュリア)このパン泥棒は自分を救うために行動しています。自己所有の考え方からいえば、人は自分で自分を守る権利があるあるはずです。だから、リバタリアニズム的な論点からも許されると思います。

またまたジュリアからヤバげな主張が飛び出す。「えっ?」と驚いた人も多かったのではないか。再度、ジュリアの主張を私なりに補いたい。

リバタリアニズムは一種の個人主義だから、正義は社会ではなく個人の中に存在する、と考える。パンを盗まれた側が「盗みは盗みだ」といって怒るのも正当なら、盗んだ側が「自己保全のための緊急手段だ」と主張するのも正当である。

ジュリアはLecture6の前半で、生命の危機に陥った貧者には助けが必要であり、助けに値すると述べている。このとき、私有財産を守る正義と、自己保全の正義がぶつかるわけだ。このとき、どちらの論理も死んでいないことに注意が必要だ。泥棒は、どんな理由があっても泥棒である、という理屈は揺るぎない。ただ、生命の危機が存在する場合、盗む側にも、自己所有の原則から導かれる別の正義が認められるのである。

ただし、双方が納得する道は、貧者が富者に助けを求め、富者が承認することである。請願に応じるかどうかは自由な判断なので、強制的な再分配とは全く異なる。この理屈は相変わらず頑健である。

(教授)さて3番目、成功した裕福な者は社会に借りがある、という反論へ進もう。社会や他者の支援があって成功したのだから、仮は課税という形で返さなければならない。
(ジュリア)報酬はサービスの対価です。成功者をアシストした人々も、既にサービスの正当な対価を得ているのであって、とくに高い評価を得た成功者の報酬を分配される理由はありません。
(ビクトリア)自己所有の原則自体に疑問を感じます。社会の中で生きることを選んだら、完全に自分を所有をできません。周りの人を無視することができないからです。
(アレックス)良識があれば、ゲイツやジョーダンがあれほどの富を独占できるはずはないと思う人もいるだろうけど、重要なのは、彼らはサービスと対価の自由な交換によって富を手にしたということです。
(教授)よろしい。では、今日の議論のことで学んだことをまとめてみよう。その前に、ジョン、アレックス、ジュリアのがんばりに感謝しよう。
(会場 拍手)

終盤の議論はザックリまとめてみた。ブログのコメント欄で活躍したというアレックスの議論は、たしかによくまとまっている。教授がまずジュリアやジョンを指名するのは、自然な選択だろう。いちばん弁の立つ者が縦横に論じた後で、同じ立場の者を指名するのは、まず教師としては無神経な態度である。

最後に少数派を代表して頑張った3人を称えたことも含め、Lecture6では教授の仕切りが光っていた。