復習課題に取り組む

現代では、お金は王様である。しかし、お金で買ったらいけないものもあるのではないか?市場の商品やサービスのように扱ったらいけないもののあるのではないか?以下のケースを考えてみよう。

  1. 売春の道徳性についてどう思うか?自分の生殖器の使用を売る(あるいは貸す)ことは道徳的に間違っているか?セックスを買うことは道徳的に間違っているか?セックスの売買は合法であるべきか?
  2. インターネット上には、花嫁、花婿を宣伝するウェブサイトがある。花嫁や花婿はあなたと結婚することに同意した、自発的な取引であるとして、そのようなサイトから結婚相手を買うことは道徳的に間違っているか?そのような取引は違法にすべきか?
  3. 多くの人が養子を望んでいるが、子供は常に不足している。養子を欲しがっている人々は、自分の子供を養子に出そうとする若いシングルマザーにお金を支払うことを許されるべきか?養子に出されるのを待っている子供たちは、一番高い値段を払ってくれる人のところに養子に行くべきか?
  4. 多くの人が臓器移植を必要としているが、ドナーからの臓器は常に不足している。利用できる臓器は、一番高い値段を払ってくれる人に行くべきか?そうではない場合、臓器はどのように割り当てられるべきか?
  5. 多くの発展途上国では、二、三十万円で腎臓を買うことができる。売り手は多くの場合、非常に貧しく、自分自身や家族を養うのにお金が必要なのだ。彼の腎臓を買うことは道徳的に許容されるのか?

1.

売春の道徳性についてどう思うか?自分の生殖器の使用を売る(あるいは貸す)ことは道徳的に間違っているか?セックスを買うことは道徳的に間違っているか?セックスの売買は合法であるべきか?

まずベンサムの功利主義に即して考えてみると、売買春の効用が、その代償を上回っているならば、「道徳的に正しい」という結論が導かれる。この議論において、売買春を攻撃する意見は、

といったものになるだろう。現在の費用便益計算に欠けた要素はないか、見積もりの誤りはないか、という問いかけである。しかしそれでもなお、費用と便益の関係を再計算した結果がプラスなら、売買春は道徳的に正しい行為であり、したがって合法であるべきだ、となる。

ミルの功利主義では、「愛情の伴わない性行為は低級な喜びであり、物理的には夫婦間や恋人同士のものと同様の行為だとしても、その効用まで同等のものとして扱うことは間違いである」という議論が加わるだろう。売買春には様々なコスト要因やリスクが存在する。さらに効用も少ないとすれば、売買春を道徳的に正しい行為だと結論付けるのは難しい。だが、費用便益計算の結果を見るまで、結論は出ない。このことには注意が必要だ。

リバタリアニズムの観点からは、基本的に、売買春に道徳的な問題は存在しない。当然、違法化などありえない。が、リバタリアニズムに即してもなお、売買春を批判し、制約の付加を主張することは可能だ。例えば、次のような意見だ。

ロックの哲学から考える場合、売買春が不可譲な自然権の放棄にあたるかどうかが問題となるだろう。不可譲の権利は、自分自身の意思で放棄することもできないので、ロックは自殺を否定した。もし「愛情のない他者に生殖器(など)を利用されないこと」が不可譲の権利だとすれば、売買春は道徳的に許されない。

単に身体の自由が問題なのであれば、ロックは賃金労働を是認しているわけだから、適切な報酬を得られるならば、身体活動の一部を提供することに道徳的な問題はない。自然権の中に、生殖器(など)の利用について特別な付帯条件があるのかどうかが、ロックの哲学においては議論の帰趨を決定付ける要所である。

最後に。「定言的道徳律の根源を考える際に自然権など持ち出す必要はなく、ダメなものはダメ、いいことはいいのだ」という考え方もある。とにかく売春も買春も道徳的に許されない、よって合法化などとんでもない、といった人は、最後の立場だといえる。ロックの自然権は、多くの人が持っている道徳観念のかなりの部分を基礎付けることが可能だが、完全な説明に成功しているとはいえない。売春の忌避は、自然権では説明できない、しかし社会の多数派が持っている定言的道徳律なのかもしれない。

この見地に立てば、そもそも売買春の不道徳は自明であり、議論を要するような問題ではない。

2.

インターネット上には、花嫁、花婿を宣伝するウェブサイトがある。花嫁や花婿はあなたと結婚することに同意した、自発的な取引であるとして、そのようなサイトから結婚相手を買うことは道徳的に間違っているか?そのような取引は違法にすべきか?

講義の内容を踏まえて考えると、まず、結婚生活が成り立つかどうかは一定期間の密接な付き合いなしには正しい判断ができないはずであり、ウェブサイト上の情報だけでなされた結婚の同意は有効なものとはいえないと考えられる。

もし双方が過去に結婚していた経験があったとしても、今度の結婚がどうなるかについて、同意が成り立つ精度で事前に予測できたはずだ、とはいえない。したがって、通常の婚約とネット情報(だけ)に基づく婚約を同等に扱うことはできず、例えば婚約が一方的に破棄されたとしても、慰謝料を請求できるかどうかは疑問である。

次に、そもそも結婚相手を市場取引によって決定することは非人間的である、という批判があるだろう。人気のある花婿・花嫁と婚約するためには、ライバルより多くの金額で入札しなければならない、といった仕組みの場合、抵抗のある人が多数派だろう。

現実に存在する営利企業による結婚相手紹介サービスは、仲介事務の手数料を徴収するにとどまっている。より多くの手数料を払うことでより多くの相手を紹介されるシステムはあっても、より多くの金額を支払うことで、人気のある相手と婚約できる可能性が高まるといったサービスは提供していない。これは、より高い金額を支払うことで、よりレアな(優れている、と考えられる)精子を得られる精子バンクなどとは大きく異なる点である。

3.

多くの人が養子を望んでいるが、子供は常に不足している。養子を欲しがっている人々は、自分の子供を養子に出そうとする若いシングルマザーにお金を支払うことを許されるべきか?養子に出されるのを待っている子供たちは、一番高い値段を払ってくれる人のところに養子に行くべきか?

養子縁組に金銭補償を組み合わせると人身売買になる?

金銭のやり取りを排除したシステムでは、子どもを手放す側の動機が乏しい。結果、子どもを虐待しつつ、子どもを手放すことも拒否するという親が後を絶たない。「養子縁組に金銭補償を組み合わせるのは、人身売買に他ならず、絶対悪として排除しなければならない」という定言的道徳律に、必ずしも圧倒的多数の支持が集まるとは限らない。

そもそも人身売買が否定されるのは、金銭に人間の自由すなわち基本的人権が制約されることを問題視するものである。だから例えば、双方が自発的に結んだ、人権に十分な配慮のある賃金労働の契約などを、人身売買であるとして排除するものではない。労働時間等の規制は、勤務時間の拘束それ自体を問題視するのではなく、状況に強制されなければ同意できるはずのない健康を害するほどの長時間労働などを排除するための「程度の問題の判断基準」として機能している。

養子に出される子どもが納得しており、新しい扶養家庭で大切に育てられることへの信頼がある場合(=養子縁組された子どもが、金銭取引の代償として不当な人権の制約を受けることがない場合)、「金銭のやり取りがあった」ことだけに注目して「人身売買だ! 絶対に認められない」と主張することに、どれほどの妥当性があるだろうか。

いやもちろん、養子縁組に金銭のやり取りが絡んでは絶対にいけない、という意見もあっていい。理由はない、ダメなものはダメだ、という立場はありうる。ひょっとすると、それが社会の多数派の考え方かもしれない。しかしこれは私の予想だけれども、前述のような説得がなされても、なお頑として意見を変えない人がどれほど多いかについては、多少の疑問をなしとしない。

しかし養子の値段がどんどん吊り上がっていくと、子どもを売るために子どもを作るという人が出てこないか、という心配がある。それの何が問題なのか? と首を傾げる人もいるだろう。たしかにその通りだ。その取引が強制されたものでない限り、直接の関係者は誰も損をしない。社会全体の効用は明らかに増えるので、功利主義者は、この取引に何の問題があるのか、というだろう。リバタリアンも、問題視しないはずだ。

もちろん、実際に子どもを手放してみなければ、真に正当な対価は確定できないのではないか、という問題はある。「通常の経済取引と比較して、親子の絆を再編する痛みは、予測の困難な事象である」という主張に賛同する人は、少なくないと思う。よって養子縁組の約束が反故にされたり、後から価格変更の申し入れを受け入れたり、といった柔軟な対応は求められるかもしれない。本来、契約とは、そうした将来の不確実性を縛ることで経済取引を活発にするためのものだけれども、養子縁組をどこまで活発にするべきかについては、意見が分かれるに違いない。

気持ちの対価

もうひとつ、「一番高い値段を払ってくれる人のところに養子に行くべきか?」という問いにイエスと答える人は、非常に少ないと思う。その理由はいくつかある。

  1. まず、大勢の人々の価値観の平均値を示すには、通貨単位は有効だけれども、個別の特殊な取引においては、じつは単位当たりの通貨の価値が、人によって異なっているという事実を無視することはできない。大金持ちにとって100万円は大した金額ではないが、一般人にとっては大金である。100万円で買えるモノは、その持ち主が誰であっても変わらないわけだが、養子縁組における金銭補償は、親子の絆の再編という「気持ちの問題」の対価なのだ、ということに注意すべきだ。

    子どもを手放す側のみを基準として金銭の価値を考えるなら、単純により高い金額を受け取れば、より充実した補償だということができる。しかし実際には、とくに気持ちの対価として金銭による補償を受ける場合は、支払う側にとってその金額が持っている意味についても、かなりの程度、重視されることが多いのではないか。カーネギーが彼にとっての1年分の葉巻代より安い金額で兵役の身代わりを雇ったことへの不公平感も、支払う側にとっての金銭の価値が、取引全体への納得感に影響するために生じている。身代わりになった者にとっては、カーネギーが提示した金額は兵役を負う決断をするに十分だったわけだが、しかし、それがカーネギーにとっては端金であることには、割り切れない気持ちを抱いたことだろう。

    補償金額と養子をほしいという気持ちの大きさは比例しない。金銭補償する側にとっての金額の重さを重視する人は、富豪が提示する最高価格よりも、一般人が提示するより低い価格の方が納得しやすいという可能性がある。

  2. あるいは。子どもを養子に出す人が最も重視するのは、子どもの幸せであることが多いだろう。そうであれば、親自身がより多くの金銭を受け取ることよりも、「新しい扶養家庭が子どものためにどれほどの教育投資を行うか」ということを、より重要な判断の基準とするかもしれない。

  3. おいおい、さっきから何の話をしているんだ? 子どもの養育は、投資額よりも、愛情の深さ、大きさ、性格の相性といった通貨単位で表現することが難しい要素こそが最重要なんだ、当たり前の話じゃないか……という多くの方の声が聞こえてきそうだ。それはそうでしょうね、と思う。

以上、3種類の「理由」を述べてきたが、結局のところ、「その他の様々な条件がほぼ同等」の人々が養子をめぐって競争する場合について考えてみれば、功利主義者やリバタリアンなら「一番高い値段を払ってくれる人のところに養子に行くべき」という考えに同意するはずだ。ただ現実には、なかなかそういうことはないものだから、「そのほかの様々な条件」のところで養子に出す先が決まることが大半だろう。

なお、「どんな付帯条件が満たされたとしても(=例えば、同等に子どもを大切にしてくれることがわかっている複数の家庭からひとつの家庭を選ばねばならないケースであっても)、最終的に補償金額の多寡によって養子先が決まるようなことがあってはならない」と考える人は、抽選を支持するだろう。意外と、社会の多数派は抽選支持者かもしれないな。

4.

多くの人が臓器移植を必要としているが、ドナーからの臓器は常に不足している。利用できる臓器は、一番高い値段を払ってくれる人に行くべきか?そうではない場合、臓器はどのように割り当てられるべきか?

功利主義で考えても、人の命にきわめて高い値段をつけるならば、臓器移植の成功の可能性が高い人から順に手術を行うのが正しい、ということになる。だから現実には、功利主義者の多くは、適合度準の臓器配分に賛成することになる。

問題は、同等程度の適合度の患者から、どの1人を選択したらいいか、だ。この場合、功利主義とリバタリアニズムは、同様に市場による配分を支持することになるだろう。功利主義者は、誰が生き残ることが社会全体の効用を最大化するかを考える。リバタリアンは、個人が私財を投じて自分が助かる可能性を上げるための努力を否定する意見に与しないだろう(より助かりたい人が助かること、いざというときのために正当な方法でより多くの富を蓄えてきた人の助かる可能性が高くなることを、リバタリアンは不公平だとはいわないのではないかと思う)。

一方、命の重さの平等を重視する定言的道徳律の持ち主は、くじ引きを選択するのではないか。そしてじつのところ、社会の多数派はくじ引きを支持すると思う。……が、意地悪な見方をすれば、世の中に金持ちは少なく、庶民は多いので、利己的に考えてもくじ引きを選択することになるだろう。そういう直感的な損得勘定が先にあって、後付で聞こえのいい理屈を適用しているのだ、と考えることも可能である。

5.

多くの発展途上国では、二、三十万円で腎臓を買うことができる。売り手は多くの場合、非常に貧しく、自分自身や家族を養うのにお金が必要なのだ。彼の腎臓を買うことは道徳的に許容されるのか?

まず「腎臓を失った後の人生について、正しい認識があるのかどうか」という問題がある。例えば、腎臓をひとつ失ってしまえば激しい肉体労働に制約が生じるため、今後の就労に制約が生じ、結果として腎臓の売却代金より大きな障害収入の減少が生じる可能性がある。あるいは、ひとつしか残っていない腎臓が回復不能の病に侵された場合、腎臓を提供していなければ寿命が大きく延びたかもしれない。そうしたコストやリスクを、契約時点でどれだけきちんと承知していたのか。

そして、貧困による暗黙の強制という側面にも目を向けなければならない。ただし私は、貧しい人が「腎臓を売らなければ生きていけない」という切迫した状況にはなく、単に「少ない苦労で多くの報酬を得る手段」として腎臓の売却を選択するようなケースまで含めて「暗黙の強制がある」と断じることには賛成できない。例えば年収400万円の日本人であっても、報酬が1億円なら腎臓を売る判断をすることは十分に考えられる。自分の身体を傷つけるような決断は全て状況に強いられたものだ、といった意見には違和感がある。

暗黙の強制を排除するための臓器売買規制は、せいぜい「ドナーの収入が当該国の労働者の平均以上であること」といったルールを付加すればよいのだと思う。臓器売買=暗黙の強制=道徳的に許されない、という三段論法には与しない。

とはいえ、腎臓は再生しない臓器なので、(再生が容易な)精子や(再生はしないが数量が比較的多い)卵子の提供はもちろん、(約1年間、身体と生活を拘束する)代理母契約と比較しても、いっそう慎重な取り扱いが必要だと考える人が多いだろう。ちなみに髪の毛の売買は通常、先進国においても全く問題視されていない。臓器再生の容易さ(あるいは希少さ)の度合いは、その臓器の売買の道徳的規範に影響する要素と考えられる。

また別の論点として。先進国の中だけで臓器の売買が行われるなら、腎臓の価格は少なくとも数百万円になるだろう。それが、発展途上国では、20〜30万円となってしまう。たまたま先進国で生まれた者にとって30万円は比較的容易に調達できる金額だが、発展途上国で生まれ育ったものにとっては大金だ。この格差は個人の努力や能力によって生じたものではなく、不公平である。そうした不公平な構図に乗っかって、先進国の人々ばかりが容易に腎臓を入手するのは、道徳的に間違っているのではないか。

つまり、先進国の人々は、もし自分が健康な腎臓を2つ持っていたとして、その片方を売ってもいいと思える金額を、発展途上国のドナーに支払うべきである。発展途上国のドナーが腎臓を売ること自体は暗黙の強制だとはいえないが、売却金額が30万円であることには経済環境が影響している。30万円で妥結しなければ、他のドナーが現れてしまうので、それ以上の価格で契約を結ぶことができないという意味で、安い妥結金額には暗黙の強制が働いていないか。

もう少し書くと、身体の一部が永久に失われることのつらさ、健康を損なうつらさは、先進国の人々だろうと発展途上国の人々だろうと同じはずである。そしてじつは、腎臓を提供することのコストの大部分は、そうした、個人が属する社会に関わらず共通する部分であるといえないか。にもかかわらず、腎臓の価格には10倍以上の差が生じてしまうのは、臓器の価格が、その人の生涯収入などを重要な基準として決められているからだ。それはおかしいのではないか。

だから例えば、より道徳的に妥当なやり方として、「先進国の人は、臓器の価格として1000万円を支払い、30万円がドナーに渡り、970万円がドナーの属する社会の経済的な発展のために用いられる」といった仕組みが考えられないか。