復習課題に取り組む

功利主義から始めよう。功利主義の原理によれば、私たちは常に、何であれ最大の幸福を生み出すことをするべきであり、何であれ最大の不幸を避けなければならない。しかし、それは正しいことなのだろうか?私たちは常に幸福を最大化するよう、努めるべきなのだろうか?私たちは常に何であれ、不幸を最小限にしなければならないのだろうか?

  1. 多くの人に危害をもたらすことを避ける唯一の方法が、少数の人を傷つけることである場合がある。多数の人に危害をもたらすことを避けるために、少数の人を傷つけることは許容されるか?
  2. あなたは狭いトンネルを運転していて、作業員が道路の目の前に落ちてきたとする。車を止める時間はない。直進すれば、作業員に衝突して殺すことになるが、急ハンドルを切り対向車線に突っ込めば、スクールバスに衝突し、少なくとも5人の子供を殺すことになる。何が正しい行いなのか? 功利主義には正しい答えがあるのだろうか?
  3. 一万人の無実の民間人が、戦時中の国で軍需品工場の隣に住んでいる。その工場を爆撃すれば、彼らは全員死ぬ。爆撃しなければ、工場は他の国の五万人の無実の民間人に投下される爆弾を生産することになる。何が正しい行いなのか?
  4. ある男がニューヨーク市に爆弾を仕掛けたとする。そして、警察が二十四時間以内にその爆弾を発見できなければ爆発する。警察が疑わしい爆弾犯人から情報を引き出すために、拷問することは合法だろうか?
  5. 爆弾を仕掛けたある男は、彼の無実の家族を拷問にかけなければ、爆弾の場所を明かさないとする。それが巨大爆弾のありかを発見する本当に唯一の方法だとしたら、警察が無実の人々を拷問することは合法だろうか?

1.

多くの人に危害をもたらすことを避ける唯一の方法が、少数の人を傷つけることである場合がある。多数の人に危害をもたらすことを避けるために、少数の人を傷つけることは許容されるか?

まず、個人の意見と、社会(仮に現代の日本とする)の一般的な意見を区別したい。個々人に意見を訊ねていけば、絶対に許容できないとする意見と、許容せざるを得ない場合もあるという意見の両方があるだろう。しかしそれでは議論が煩雑になり過ぎるので、あらゆる話題について社会の多数派に属する人を仮定したい。

例えば、問題の設定が少し変わっただけで賛否の投票結果が4:6から6:4に変化したとき、じつは意見を変えた者は全体の2割に過ぎない。だが「社会の多数派」を代表できる個人を仮定すると、「多数派が見解を変え、矛盾した結論を出したのはなぜか?」という問いが、シンプルに成立する。それは嘘なのだが、話を簡単にするために、そのような暗黙の前提を置いて書いていくものとする。

そしてこの先の文章では、とくに主語が明記されない場合、「社会の多数派」が共有する一般論(だと筆者が考えているもの)が主語である、つまり筆者個人の価値観に基づく見解ではない、という点に注意して読んでいただきたい。

さて、前置きが長くなったが、多数の人を救うために少数の犠牲が許容されるには、いくつかの条件のうちひとつ以上が満たされることが必要である。

条件の1は、被害者の当事者性だ。多数の人と少数の人が同じ問題に直面していなければならない。Lecture1の路面電車の事例では、本線上の5人と待避線上の1人の選択は許容されたが、誇線橋の上の1人との選択は許容されなかった。もし誇線橋にハンドル式の落とし穴があり、路面電車の進路上に穴を開くハンドルがあるなら、選択肢としてもよい、という議論は示唆的だ。

路面電車が直進すれば待避線上の労働者は死なずに済むわけだが、路面電車の運転手がハンドルを切るという程度の操作で電車に撥ねられる場所にいるというのは、「同じ問題に直面している」といえる範囲内のようである。

条件の2は、少数派の犠牲を避ける手段がないかどうか、可能な範囲内で十分に検討されていることである。緊急・切迫した状況下において検討の幅や深さが制約されることは考慮される。路面電車の事例では、そもそもブレーキの故障を起こしたことについて鉄道会社は責任を免れず、運転手による最後のハンドル操作の判断に限って免責されることになろう。

条件の3は、費用と便益のバランスである。数千人を殺害するテロ計画の情報を持っていると予想されるが、通常の尋問では口を割りそうにないテロリストを逮捕したとき、このテロリストを拷問してよいかどうか……これは悩ましい問題である。他方、毎年数万人が自動車事故によって死傷しているが、自動車の生産・販売は道徳的な悪とはみなされていない。

これらの条件は、被害者が「やむを得ないことだった」と納得できるかどうか(既に死亡している場合は、本人が奇跡的に復活した場合を仮定する)に関わっている。

2.

あなたは狭いトンネルを運転していて、作業員が道路の目の前に落ちてきたとする。車を止める時間はない。直進すれば、作業員に衝突して殺すことになるが、急ハンドルを切り対向車線に突っ込めば、スクールバスに衝突し、少なくとも5人の子供を殺すことになる。何が正しい行いなのか? 功利主義には正しい答えがあるのだろうか?

この先、いちいち繰り返さないが、こうした哲学の問いにおいて、問題設定の外側に解決策を求めることは、ここで考えたいことから逃げるだけで意味を成さない。

功利主義はあらゆるものごとの価値を同一尺度で比較できることを前提としている。まず個々人の価値観においてはそれが可能であるとすると、次に価値尺度の設定の問題がある。

「私」にとっての正しさは、「私」個人の価値尺度から功利主義によって定めることが可能である。

一定の範囲を持つ社会における正しさを決める価値尺度は、その社会の構成員の価値尺度を足し合わせていくことによって見出されると考えられるが、それは不可能なことかもしれない。だが、これも仮に可能であるとするならば、功利主義から「正しい行い」を決めることが可能になる。

多産多死の社会では、子ども5人よりも、無事に子どもを持てる年齢まで生存した大人1人の方が希少で価値があると考えられるかもしれない。逆に少産少死の社会では、子ども5人は大人1人より重要視されるのではないか。

余談になるが、日本では、妊婦の身体が危険に陥ったとき、必ず母体を優先するのだという。出産可能な女性の命は、死産の可能性さえある胎児の命より価値がある、という判断がなされているわけだ。では大人が殺人事件の被害者になるより、子どもが被害者になったときの方が大騒ぎになるのはどうしたわけなのか……。

3.

一万人の無実の民間人が、戦時中の国で軍需品工場の隣に住んでいる。その工場を爆撃すれば、彼らは全員死ぬ。爆撃しなければ、工場は他の国の五万人の無実の民間人に投下される爆弾を生産することになる。何が正しい行いなのか?

国籍など、所属する集団の違いによって命の扱いに差が生じることはよく知られている。ある社会において、そのような価値判断が広く共有されていることは珍しくない。

もし当該の軍需品工場が自国のものならば、自国民1万人を犠牲にして他国民5万人を救うことに賛同する者は少数派になることがふつうだと予想できる。

あるいは、いずれも自国とあまり関係がない場合、ある国の軍需工場のそばの1万人が死のうと、また別の国の5万人が死のうと、ただ傍観するだろう。こうした問題に関与するリスクの方が大きいと判断するわけ。そして、どちらの出来事が起きても「悲しいことですね」という。多くはこのケースに属するのではないか。

ともかく、単純に失われる人命の多寡を比較して、どちらが正しいと単純に決めるのが功利主義というわけではない。あと、そもそもその軍需工場のせいで本当に5万人が死ぬという確証がない。戦闘や事故が起きなければ、兵器はただ配備されるだけで、誰も殺さない。

4.

ある男がニューヨーク市に爆弾を仕掛けたとする。そして、警察が二十四時間以内にその爆弾を発見できなければ爆発する。警察が疑わしい爆弾犯人から情報を引き出すために、拷問することは合法だろうか?

アメリカのブッシュ政権が行った拷問は、結局、正当化に失敗した。もし合法といいうる状況があるとすれば……拷問した警察官自身が生命の危機に瀕しており、誰もその拷問を止められない状況にあった場合、かな。なかなか難しいね。

現場の高揚した気分のもとではいろいろ許されてしまっても、法廷ではみな頭が冷えているから。

しかし功利主義で考えるなら、制度の正しい運用の難しさの見積もり次第という留保はつけるけれども、合法化するのが正しいのかもしれない。

5.

爆弾を仕掛けたある男は、彼の無実の家族を拷問にかけなければ、爆弾の場所を明かさないとする。それが巨大爆弾のありかを発見する本当に唯一の方法だとしたら、警察が無実の人々を拷問することは合法だろうか?

現実には「合法」とはならないでしょうね。問題は、功利主義で考えたときにどうなのか。

もし拷問の効果が確実なら、正当化しうるのかもしれない。でも、4.の例でも同じなんだけど、拷問の効果なんてわからないんだよね。それに、そもそも「ある男」が本当に犯人なのか、ということだって怪しいわけでしょ。しかも、まだ実際には悲劇は起きていない。本当に予想される悲劇が起きるんですか、と。

もし本当は爆弾なんて存在しなかったら? もし爆弾が不発だったら? 別に捜査が失敗しても誰も死ななかったわけだ。「誰も死なない場合」でも功利主義で拷問を正当化できるだろうか。それは「不安」の見積もり次第なんだけれども、なかなか厳しいものがある。

捜査機関の見込み違いは過去に多くの実例があって、「これから起きるかもしれない犯罪を防ぐために**が許されるか」という問いは、厳しく査定せざるを得ない。麻薬組織の捜査に盗聴という手段を用いてよい、という程度で大騒ぎになっているのは、功利主義の観点からも納得のいくところだと思う。

誰が問題を作っているのか知らないが、こういう例を挙げて「ね、功利主義だけじゃダメでしょ」というのは、ズルいと思うね。功利主義で残酷な結論を導くために、現実に存在する不確実性をないものとしてしまっているんだもの。