議論を再検討する

最初に、この『再検討』というページについて説明します。

サンデル教授の講義には毎回、学生同士の議論を喚起する場面があります。学生たちの思いつきによる発言が、どうして教授の意図する講義の流れにうまく乗っかる議論になるのか? じつは、発言の流れを仔細に検討してみると、端々で教授が議論の方向性を誘導していることがわかります。

スピーディーで流れるような講義と学生同士の議論が両立しているのは、素晴らしいことです。しかし、学生の主張の一部が無視されて宙ぶらりんになったり、あるいは時間の都合で発散した議論がバッサリ刈り込まれたり、という部分が、たくさんあるのも事実なんです。

『再検討』では、議論の流れを再現し、「のどに引っかかった小骨」に注目していきます。その成果の一部は既に『ノート』の中に埋め込まれていますが、本稿は字数無制限で気の済むまで書き込んでいきます。なお、本稿に登場する教授や学生の発言は、私のメモを元に大意を再現したものであり、番組の文字起こしではありません。

また、講義の全体像は『ノート』にまとめています。『再検討』では議論の部分だけを抜粋していることに注意してください。

Lecture1

ケース1 故障した路面電車

教授はまず、こんな問いかけから、議論を始めた。

Q1 あなたは路面電車の運転手である。ブレーキが故障して止まれなくなった。そして前方の線路上には5人の労働者がいる。隣の待避線には1人の労働者がいる。いま使えるのはハンドルだけだ。さて、道徳的に正しい選択は?

ここでは「法的に正しい選択」ではなく、「道徳的に正しい選択」が問われていることに注意が必要だ。よって唯一無二の正解はない。

教授がこのような問いを発した意図は、この時点では明らかでない。しかし何回かの講義を経るうちに、これらの問いは「多数派の道徳観」を浮き彫りにするためのものであることが見えてくる。『ハーバード白熱教室』の元になった講義のタイトルは『Justice』だが、サンデル教授が自らの思想信条を語る場面はない。この講義の中核をなすのは、私たちの属する社会に透明な空気のように存在している正義に対する観念を、どうにか言葉にして捕まえようとする試みだ。

さて、Q1に対する学生の反応は、こうなった。

多数派 5人を助けるため、ハンドルを切って1人を犠牲にする。
少数派 命の選択を拒否し、ハンドルを切る。

もちろんQ1は哲学的な問題設定であって、現実にはもっと様々な選択があるだろう。そもそもブレーキの故障が起きないようにするために手を尽くすべきだろう。あるいは電車が接近しているのに線路の工事が続行されていることが問題なのであって、工事担当と運行担当の連絡ミスをゼロに近付ける工夫があって然るべきだ。それでもこうした事態に至った場合に備えて、工事中は現場付近の架線の電力供給を止めたり、電車の接近を知らせる警報機を設置したり、せめて見張り番を立てるくらいのことはするべきだった。路面電車のブレーキ機構も二重化、三重化して冗長性を確保し、一系統が壊れても、他のブレーキが効くように設計すべきだ。さらに警笛を最大音量で鳴らし、1人でも多くが助かるよう最善を尽くすべきだ。そうした方法が一切使えず、ただただ命の選択を迫られるような状況に陥ることこそ、真に解決されるべき問題である。

しかし、そのようなことをいちいち言い募っていたら、こうした講義は成り立たない。きわめて記号的な、抽象的な問題設定しか許されなくなってしまう。それでは議論と一般社会との距離感が掴みづらい。道徳観念と深く結びついている、各人の記憶や生活実感をうまく適用できない。結果、現実に応用できない議論を延々と繰り返すことになってしまいかねない。

だから、現実の一部を切り取って、しかし現実の複雑な諸要素を捨象して問題を単純化し、考えていくことにする。それがサンデル教授の方針だろう。私もこの方針を支持する。ただし、問題設定がいかに現実を単純化しているか、ということは、今後も折に触れて指摘していく。

さて、学生の大多数は、5人が犠牲になるよりも、1人が犠牲になる方を選択するのが「道徳的に正しい」と判断した。逆に考えてみると、多数派は「状況を座視してより多くの犠牲を出すこと」を「道徳的に間違っている」と考えていると推察できる。そして少数派は、「人が人の生死を積極的に選択すること」を「道徳的に間違っている」としているのだろう。

教授はまず、多数派に訊ねる。なぜ5人を殺すより、1人を殺す方がよいのか?

(学生1)1人を殺せば済むところを、5人も殺すのは正しくない。
(学生2)悲劇的な状況だが、5人が助かるなら1人を殺す方がいい。

多数派の見解は、シンプルだった。では少数派の意見は?

(学生3)多数のために少数を犠牲にする考え方は大虐殺につながる。
(教授)大虐殺を避けるために5人を殺す?
(大勢)笑い
(学生3)はい。
(教授)勇気ある答えだ。

少数派の意見は、発言者が真剣に話していても、笑いの対象となる。それはハーバード大学の、しかも政治哲学の教室でさえ、変わらないのだ、ということがわかった。教授はきちんと「勇気ある答えだ」と学生を賞賛した。大多数の教師が、こういうことをきちんと積み重ねてきたからこそ、ハーバード大学の学生は、少数意見を述べることができるのではないか。日本の学生が沈黙するのは、学生の気質の問題ではなく、教師たちの怠慢の結果に過ぎないのではないか。

アメリカでも少数意見を述べるのは勇気が必要なことであり、学生であっても力強く賞賛される行為なのである。それくらいできて当たり前なので、いちいち褒めるには値しない、とサンデル教授は考えない。翻って、日本の教師はどうか。学生が手を挙げないのは、講義への参加意欲が足りないからだ。多数派の嘲笑に耐えられないのは、心が弱いからだ。そう思っているから、手を挙げた学生を褒めず、嘲笑されて心が折れた学生を「軟弱なヤツ」と唾棄してはいないか。あるいは逆に、多数派を抑圧して「笑うな」と怒って、教室の空気を重くしてはいないか。

参加者みながリラックスしていて、気楽に「あはは」と笑える空気を維持しながら、少数意見の代弁者に力強い賞賛を与えることで、活気にあふれた講義を作っていくサンデル教授は、すごい。しかし教授一人が立派でも、学生に染み付いた学習性無力感はなかなか払拭されない。家庭で、学校で、みなが努力を重ねていかねばならない。

さて、教授はここで問題の設定を一部変更する。

Q1-1 誇線橋から現場を見下ろしていたあなたは、路面電車が速度を落とす気配を見せずに走ってくる様子に気付いた。隣を見ると、とても太った男がいて、あなたと同じように下の様子を見ていた。その背中を押して路面電車の前に落とせば、電車は止まると仮定しよう。ではこのとき、道徳的に正しい行為は何か?

学生の反応は、Q1とは対照的だった。

ごく少数 1人を突き落として5人を助ける。
大多数  事態を傍観する。(線路上の5人は死ぬ)

現実には、太った男がぶつかったくらいで路面電車が止まるわけがない。それに、傍観するといっても、「逃げろー!」と大声で呼びかけたりはするだろう。非常停止ボタンを探すかもしれない。しかしここでは、電車を止める方法は太った男の背中を押すことしかなく、しかもその効果は確実だとしよう。そして、何もしなければ5人は死ぬ、という問題設定に従うことにする。

多数派は、太った男を殺さず、線路上の作業員を見殺しにすることを、道徳的に正しいと判断した。教授はその理由を問う。

(学生4)新しい問題では、状況の外側の人を巻き込むことになる。太った男は本来、事件に無関係の人間だ。
(教授)では、待避線にいた労働者は? 彼も本来は自己に巻き込まれずに済むはずの人だったのでは?
(学生4)しかし彼は線路の上にいた。
(教授)太った男は橋の上にいた。
(大勢)笑い
(教授)多数派は、Q1では5人を助けるために1人を犠牲にしたが、Q1-1では、5人を見殺しにするのが道徳的に正しいと判断した。この矛盾を説明する意見を聞きたい。
(アンドル)「私」の置かれている立場が違う。運転手は最初から状況の当事者だが、誇線橋の上の人は第3者なので、能動的に問題に関わらねばならない、という違いがある。
(教授)死ぬ人を選ばなければならないのは同じではないか?
(アンドル)車両が人を殺すのと、直接、自分の手で人を端から突き落とすのは違うと思う。
(教授)では、太った男は落とし穴の上にいて、ハンドルを回せば彼は落ちる、という場合は?
(大勢)笑い
(アンドル)それはもっといけないことのように思う。電車の進路上にスイッチがあって、いずれ太った男が落ちる場合とか、偶然ハンドルに寄りかかったら太った男が落ちてしまった、という場合なら、許されるかもしれない。

アンドルは、太った男の当事者性の程度によって、彼を犠牲にして他の5人を助けることが正当化されうるかどうかが決まる、という視点を提供している。待避線上で作業していた人は、線路上が危険な場所であることを承知の上で作業をしていたはずなので、一定の当事者性が認められる。しかし誇線橋の上にいた人は、本来、安全な立場だ。安全な状況にいる人を、危険にさらしてはいけない。

この考え方が明瞭に現れるのが、「もし路面電車の進路上に太った男の足元の落とし穴を開くスイッチがあったら?」という仮定を付加したケースだ。この場合、暴走電車を止めなければ、どのみち太った男は橋から落ちる。すると「それなら落としても許されるかもしれない」と判断が変わるのだった。一見、安全そうであっても、実際には危険な状況下にいた人は、同様に危険な状況下にある人の命を救うため、犠牲となっても仕方ない、という道徳的な判断があるのだ。

ケース2 5人の患者と1人の患者

Q2 あなたは緊急救命室の医者で、6人の患者の治療をしなければならない。5人は中程度のケガ。1人は重症だ。あなたは、中程度の怪我の5人を助けるか、重症の1人を助けるか、選ばなければならない。では、どちらの選択が道徳的に正しいか?

学生の反応は、こうなった。

大多数  5人を助ける
ごく少数 1人を助ける

教授はサラッと流して次へ進んでしまったが、私なりに、ごく少数の側を擁護しておきたい。

おそらく、単純化された問題を、より現実的に考えてみたのだろうと思う。実際には、1人を助ければ5人は死ぬ、5人を助ければ1人は死ぬ、と明確にわかることは、まずないだろう。ならば、いま最も助けを必要としている患者から順に治療していくべきだ、という判断も成り立つ。重症患者を放置したら亡くなってしまうことは明らかだが、中程度の怪我の患者は生き残る可能性が相当にある。

これはトリアージ否定の論理に通じる。医療のリソース不足を理由として、確率的な未来を仮定によって確定していくのは殺人に等しい、という考え方だ。放置すれば確実に死ぬ患者を見捨てて、それよりは状態の良好な患者を助けるのは、間違っている。結果として平均生存率が高まるとしても、道徳的に正しくない。積極的な命の選別による死は、消極的な、結果としてのより多くの死より罪深い。そういう考え方はある。

教授の問題設定は空想的なので、確率的事象について考慮する必要がない。だから、5人を助ければ1人は絶対に死に、1人を助ければ5人は絶対に死ぬ。そこに疑いがないので、どちらを選んでも「積極的な死者の選別」に等しい。よって前段の問題は生じない。そうだからこそ、5人を助けるという側が圧倒的多数派となっている。しかし現実において、未来を確実に予想することは不可能なので、「積極的な死者の選別」をこそ忌避する考え方は、多数派とはならないにせよ、もう少し支持を伸ばすことになるだろう。

Q2-1 あなたは移植医だ。5人はそれぞれ別の臓器の移植を待つ末期患者で、ドナーが見つからず余命わずかである。このとき、隣の部屋で昼寝している健康な患者から臓器を奪って5人を助けることは、道徳的に正しいだろうか?

教授が問題の設定に少し手を加えると、多数派の判断は見事にひっくり返った。

ごく少数 正しい
大多数  間違っている

教授は、「正しい」とする側に意見を問うた。

(学生5)別の解決策を提案したい。最初に亡くなった1人の臓器で、残り4人を助けてはどうか。

講堂はドッとわいた。教授も「それは名案だ」と評価したが、これでは本当に問題に答えたことにならないのは明白である。

実際の講義ではもう少し何かやり取りがあったのかもしれないが、番組では、以上で議論は終了。教授が論点を整理し、講義を閉じている。

私なりに移植医の事例を解釈すると、ここでも当事者性の問題が重要なのかもしれない。救急医の事例では、1人の重症患者も、5人の中程度の怪我の患者も、ともに生命の危険を抱えていた。しかし移植医の事例では、臓器を奪う対象とされた患者は健康だった。

追記:

Lecture1でサンデル教授が紹介した思考実験は、フィリッパ・フットの『トロッコ問題』やジョン・ハリスの『臓器くじ』として有名なものなのだそうだ。既に膨大な研究が行われているとのことだが、生物学者マーク・ハウザーが整理した、「他者にどのような形で危害を加えることが、より非道徳的と判断されるか」という研究成果は興味深い。

なるほどね、「直接突き落とすのは嫌だということなら、ハンドルで落とし穴を開くならOKかい?」というサンデル教授の質問は、この研究を踏まえていたわけだ。

Lecture2

ミニョネット号事件

1884年7月、イギリス船ミニョネット号は難破し、ダドリー船長、スティーブンス航海士、ブルックス船員、パーカー見習いがボートによる脱出に成功した。半月後、食料が尽き、飲み水が尽きた。見習いは他の3人の忠告を退けて海水を飲み、衰弱した。船長は航海士と船員を集め、くじ引きで1人を犠牲にして3人を生かすことを提案したが、船員は拒否した。その後、船長と航海士は共謀して見習いを殺害した。3人は見習いの血と肉によって生き延び、殺人の5日後に救助された。船長と航海士は殺人の罪で起訴され、船員は不起訴となった。これが有名なミニョネット号事件である。
Q1 法的な問題は横に置く。道徳的に、この3人は許されるか?

1884年の世論は、3人を許した。船長と航海士は死刑判決を受けたが、女王は世論を斟酌し、2人に恩赦を与えている。だが現代の学生の反応は対照的だった。

少数派 許される
多数派 許されない

教授はまず、少数派に意見を訊ねた。

(教授)なぜ、彼らの行為は道徳的に許されるのか?
(マーカス)必要性の程度が有罪性を免除する場合があります。彼らは生き残るために、しなければならないことをしました。それに、生き残った人が後に大勢を救うかもしれません。
(教授)しかし殺し屋になるかもしれない。
(マーカス)たしかに、それはわかりません。

では、多数派の意見はどのようなものか。

(キャスリーン)極限状態で適切な判断をできなかったとすれば、彼らは法的には無罪かもしれない。でも道徳的には正しくありません。殺人は条件によらず間違いです。もしパーカーの同意があれば、話は違ってくると思いますが。
(教授)ナイフを手にして同意を迫った場合はどうかな。
(キャスリーン)殉教者になれるぞ、とか。でも意識が朦朧とした状態での同意や、脅迫による同意では、殺人を正当化することはできません。

この議論を受けて、教授はあらためて問い直した。

Q1-1 パーカーが自分の犠牲に同意していたとすれば、生き残った船長たちは道徳的に許されるのかな?

大勢が意見を変え、過半数が「許される」側についた。

(教授)なぜ、同意があれば殺人が正当化されるのか。
(学生2)自発的な犠牲ならいいと思います。状況による強制ではないと考えられるのは、自発的な場合に限られるのではないでしょうか。
(教授)では逆に、同意があっても殺人はいけないと考える人に理由を聞きたい。
(学生3)この問題設定では、3人が救助される望みがあることを前提に、殺人が正当化されています。実際には救助の保証はないので、1人の死が3人の命を助けるとはいえません。
(教授)なるほど。他に意見のある人は?
(学生4)カニバリズムはいけません。
(教授)自然死だとしても?
(学生4)いけません。個人的な道徳観ですが。

学生3の議論を補足したい。

1884年の市民が3人を擁護したのは、功利主義的な考えに拠っていた。生き残った3人には家族があったが、殺された見習いは孤児で、身寄りがなかった。単純な3人対1人ではなく、3人が助かれば、数十人の幸福に資すると考えられた。最大多数の最大幸福のためには、1人の犠牲はやむをえない、そういう判断が働いた。

だが、もし救助の船がずっと現れなかったら、どうなっただろうか。無益なことのために、次々と殺人が起きたことになる。最低1人の生存に希望をつなぐこと自体に、どれほどの価値があるといえるだろうか。彼らが救助されたのは偶然であって、殺人が行われたその時点で、3人の命を守ることを、殺人を正当化する根拠として持ち出すことはできなかったはずだ。

この考え方は、例えば、殺人の30分後に救助船と出会った場合について考えてみれば、いっそうはっきりするのではないだろうか。たった30分間、待てなかったはずがない。だから無用の殺人をしたことになる。このように考えてみると、いつくるかわからない救助を前提に殺人を正当化することには、慎重になるべきだ、と理解されると思う。

結果を知っている問題を再検討するとき、「その時点では未来は見えていなかった」ことを私たちは見落としがちだ。よく注意しなければならない。

Q1-2 くじ引きは同意と考えてよいか。もしパーカーがくじ引きに賛成していたら、生存者は道徳的に許されるだろうか。

「許される」と考える学生が、明瞭に多数派となった。

(学生5)くじ引きは独善的ではなく、みなが平等に扱われる手続きです。実際の事件では、パーカーは議論の輪にも加えられず、同意もなしに殺害されました。これは不平等な扱いです。
(教授)くじ引きの後で殺されるのを拒否したらどうなる? やっぱり死ぬのは嫌だよね?
(学生5)くじ引きへの同意は口頭の契約であり、くじ引き後に撤回しても殺人の強行は正当化できると思います。

教授は公正な手続きと生前の同意があれば、多数を救うための少数の犠牲は道徳的に許されると考える人が多いようだ、と整理したうえで、「それでも殺人は間違っている」と考える人の意見を募った。

(学生6)くじ引きに負けた人が自殺をすれば、殺人の問題もありません。それでも、生き残った人が、犠牲を正当化し、良心の呵責を感じないのは許せない。
(学生7)殺人は殺人です。状況は関係ありません。
(教授)この事件では、1人の生命に対し3人とその家族の生命と幸福が関わっていた。当時のロンドンの新聞や大衆は、ダドリーに同情的だった。もし状況が戦争中で、3000人の生命との対比だったら?
(学生7)やはり殺人は間違っています。
(教授)では、ベンサムのような、最大幸福の追求は間違いということかな?
(学生7)ベンサムが間違いだとは思わないが、しかし殺人の悪を帳消しにはできない。

学生6の意見を補足すると、諸般の事情を鑑みて「仕方なかった」「罰を与える必要はない」と判断するとしても、だから「道徳的に正しい行いだった」「道徳的には間違っていない」ということにはならない、という主張なのだと思う。「他に手がない状況で、通常の規則を破ることは、道徳的にも正当化される」という考え方を否定しているわけだ。

『24』の主人公であるジャック・バウアーは、テロリストや、関連する情報を持っている人々を殺害したり拷問したりしてきたことについて、「世間や法律は認めないかもしれないが、自分自身は正しいことをしてきたと考えている」という意味の発言をしている。しかし『24』には、学生6と同様に、「それは状況に迫られて行ったことかもしれないが、バウアーの行為は道徳的に正当化されない」と主張する人物も大勢登場する。

講義ではこの観点からの整理はなかった。まあ、実際問題、「仕方なかった」という点で同意はあるので、これは行動の選択に影響しない議論だ。なので盛り上がらない。捨象されたのは当然だろう。

だがしかし、ひかりごけ事件やウルグアイ空軍機571便遭難事故の生存者は、彼らの属する社会の多くの者が「人肉食は仕方のないことだったが、しかし道徳を踏み外したこともまた事実である」という考え方をしていたために、つらい人生を送ることになった。

法的に無罪となっても(注:ひかりごけ事件では死体損壊で有罪になった)、「仕方なかった」ことが理解されても、彼らは救われなかったのであり、「仕方ない行動は道徳的に許される」かどうかというのは、重要な論点にもなりうるのではないだろうか。