議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

Lecture23

行政は同性結婚を承認すべきか?

この問題設定では、反対側が少ないことが予想される。そこでサンデル教授は事前にブログで意見を募り、反対側に立って発言する学生を募っておいたそうだ。

(マーク)カトリックの僕は、セックスや結婚について、目的論的な概念を持っています。すなわち、結婚という社会的な制度は、生殖を賞賛し名誉を与えるためにあるのではないでしょうか。
(ライアン)同性愛を否定する理由はありませんが、結婚の目的を考えれば、政府が同性結婚を賞賛し後押しする理由もないと思います。
(教授)誰か、意見のある人は?
(ハナ)マークに質問です。結婚後に不妊症がわかったカップルのセックスを禁止するべきだと思いますか?
(マーク)セックスの目的は生殖だけではありませんから、閉経後のカップルでも結婚をしていいと思います。
(ハナ)失礼ですが、マスターベーションをすることは?

ここで教授が割って入った。

(教授)ちょっと待って。その質問には答えなくていい。君たちは、この学期中、とてもよくやってきた。大学で話し合えるとはとても思えないような問題を扱い、今もとてもうまくやっている。ハナ、君はいいところを突いている。でも、それを一般的な議論としていってくれないかな。個人を問い詰めるのではなく。論点をはっきりさせてほしい。
(ハナ)はい、聖書では……
(教授)三人称でね。あくまでも三人称で。二人称ではなく。

これは当然の介入だと思う。ことにマークとライアンは少数派の見地に立って発言していることに注意が必要だ。多数派の発言は、常に数の暴力を内包しており、その刃が個人に向けられることには敏感でなくてはならない。

鈍感な教師は、少数派が心を砕かれて意気消沈した様子を見て初めて、介入する。自由な議論に任せるという美名のもと、殺戮を座視してしまう。その帰結は、少数派の沈黙である。ハナの詰問に教授が間髪入れず反応したのは、さすがだと思った。司会者の役割、教育者の役割をよく自覚し、議論の手綱を握り続ける意思がなければ、このようにはできない。

既に何度も書いたことだが、ハーバード大学の学生たちが積極的に発言するとすれば、その理由の第一に教師たちの資質を挙げることができるだろう。小、中、高を経た、しかも全米トップクラスの大学であるハーバードの講堂においてさえ、多数派は少数派を嘲笑する。まじめな主張に対して、である。だから、教師のフォローが必要なのである。サンデル教授は、意識的にか、無意識的にか、それを理解されている。

ハナの質問は、自己矛盾を問うものだ。相手が多数派なら、様々な事情も考えられるが、大教室にたった2人しかいない少数派を問い詰める場合、個人の事情が派全体の事情へと拡大解釈されやすい。それゆえ、多数対少数の議論では、多数派は本来の議論そのものだけで戦うことができるのに対し、少数派は全人的に矛盾を追求されることになりやすい。もちろん少数派も同様の戦術を採用することはできるが、いくら個々人の矛盾を攻撃しても、「それは個人の矛盾である」と受け流され、議論の大勢に影響を与えることはできない。

形式的に多数派と少数派が平等に戦術メニューを与えられていても、現実の議論においては実質的に不平等が生じる。発言者の個人的な事情を持ち出して矛盾を指摘しようとする戦略は、多数派にとって一方的に有利な戦術なのだ。私はそのように考えるので、ハナの発言にピリリと反応するものがあり、そしてサンデル教授の迅速な介入に安心した。

(ハナ)聖書では、マスターベーションは許されていません。子どもの誕生につながらなければ、地上にあなたの民をこぼすことになるからです。でも、私が指摘したいのは、あなた(マーク)が、子どもを生み出さない生活やセックスは間違っているといっていることです。どうして間違っているのでしょうか。マスターベーションは明らかに子どもを生み出さないのに、許されているではないですか。

これは旧約聖書の記述である。「旧約聖書を知っていますか」が面白い(2006-04-04)という記事で紹介しているので、興味のある方は参照してほしい。このエピソードは論理的帰結から(男性の)自慰の禁止とも解されているが、旧約聖書で描かれているのは膣外射精であり、正確には自慰ではない。この点に留意しなければ、教会が長らくコンドームなどを利用したバースコントロールをも否定してきた重大な根拠を見落とすことになる。

さて、マークはどう答えたか。

(マーク)結婚は、社会が美徳と考えるものを制度にしたものだと思います。たしかに僕たちは毎日期待通りには生きられません。人には多くの足りないところがあります。誰かに道徳的欠点があったからといって、その人の議論する権利が奪われることはないと思います。

防戦で手一杯、という感じだ。以降、リベラルな平等主義を取り込んで議論が先へ進んでしまうので、私なりにマークとライアンの立場に踏みとどまって、その議論を擁護してみたい。

生殖のみを結婚の目的とする場合、異性愛のみを認めるという基準の設定は、閉経後の男女の新たな結婚を認める意義は薄く、また男女を問わず不妊症の者も結婚を認める価値が疑われる、という論理的帰結を招く。この講義における道徳的枠組みの中で議論すれば、そういう話になるのだが、もし今、現実の問題を考えているのだとすれば、論理的な精密さよりも、それが実際に運用可能な制度なのかどうか、ということの方が重要ではないだろうか。

生殖を生命の誕生に限定することにも疑問がある。現実には、単に赤ちゃんが生まれるだけでは意味がなく、長い時間をかけて子孫を育てていくことは、誕生と同様に重要である。直接に子をなさずとも、結婚により安定した家族の枠組みを形成することによって、親戚の子を引き取って育てたり、あるいは若い親戚の子育てを手伝ったり、養子をもらったり、といった様々な広義の生殖を支援することができるだろう。

そして、結婚して家族を形成しようとする人々に許可を与える際、人が人を現実的な(=それなりに簡便な)手順によって適切に判断するために、自然の摂理に則った(=多くの場合に新しい命が誕生する組み合わせである)、そして相当な歴史的蓄積のある形式に従っているかどうかを判断基準のひとつとすることに、一定の合理性はあるといえるだろう。

以上の議論に、私の功利主義に与する性向を加味すれば、「その一定の合理性が、その結果、排除される人々の苦しみ・悲しみと比較して大きいか小さいか、という点を検討していけばよい」といった主張になる。

簡単にいえば、「男女1人ずつの結婚のみを認める」という形式的な基準は、広義の生殖活動を支援するという結婚制度の目的に対して、おおよそ期待通りに機能する

社会的に不幸な結婚を奨励したい人は少ないだろうが、そのために政府に「婚姻を希望する人々の人物調査をし結婚の是非を判断させる権能」を与えたいと考える人はもっと珍しいと思う。どのみち目的に対して完全な制度は(現在の情報処理の技術水準では)ありえないし、逆にありえたとすれば、それはコンピュータが最もマシな相手を紹介し、他の選択肢を与えないような管理社会に通じている。

「一定水準以上の結果が見込める限り、選択の自由を認める」という落としどころは考えられるが、いずれにせよ政府にプライバシーを渡すという代償は支払う必要がある。それだけの価値があるだろうか(個人的には、「ある」ような気はするが)。

(教授)他の人の意見も聞いていこう。
(スティーブ)マスターベーションは人に許可されてするようなものではありませんし、同性愛のセックスを禁止しようとする人もいないと思います。マスターベーションする人が自分自身と結婚することを社会が認めないだけです。
(ハナ)実際にはそのような選択を迫られることにはならないと思いますが、原理的には、私は自分自身との結婚も認めていいと思います。一夫多妻結婚なども、当人たちの合意があれば問題ありません。
(ビクトリア)結婚の目的を巡るこの議論の問題は、カトリックの価値観を自明視していることです。他の宗教の信者や、無神論者は、私たちとは異なる価値観を持っている可能性があります。政府に、この国の全ての人に、カトリックの目的論的論法を押し付けるべきではありません。教会が教会の価値観に基づいて、教会の中では一夫一妻制の結婚のみを認めることは自由ですが、国が特定の結婚の形のみを押し付けてはなりません。
(セザン)私はそもそも国が結婚に許可を与えることに反対します。個人の結びつきは、個人の自由に任せるべきです。子どもの教育には安定した家庭環境の実現が必要だとの意見もありますが、現実には機能していません。

面倒なので略記したが、ハナは教授の問いに答える形で、同姓婚と同様に、一人婚、一夫多妻婚も1対1の異性婚と平等に扱う意見を述べた。これは正義と道徳を切り離し、特定の個人や集団が自律的に選択した道徳には干渉せず、自由な選択の権利を擁護する枠組みを正義とする、リベラリズムの平等主義を反映した主張だといえる。

しかし現実の(自称)リベラル派は、一夫多妻制には反対することが多い。一妻多夫を同時に認めるとしても、だ。これは封建制の社会に一夫多妻制が多く見ら れ、そこでは女性が男性と平等に扱われない状況が広範に観察されたことに依拠している。リベラルを自任する者であっても、平等の原則よりも、「だいたい失敗する」ことがわかっている制度はおいそれと認められない、という考え方をより上位に置くことが多いわけだ。

中国雲南省北西部の迪慶チベット族自治州には、一妻多夫制を現在に伝えている部族が存在する。財産分与による土地の細分割を防止するための知恵だといわれる。多くの場合、夫たちは兄弟であり、これも財産争いを避ける知恵だと考えられている。これは「だいたいうまくいっている」制度のように見えるが、中国政府は因習として認めていない。実態として一妻多夫婚は残っているが、政府は一夫一妻制の結婚のみを公認している。その結果、20代、30代では一妻多夫婚はほぼ廃れてしまったという。

リベラル派は、チベットの伝統を守る人々と、中国政府のどちらを支持するだろうか。そして、自分の家族が一妻多夫の事実婚を申し出たとき、許容するのか、それとも(苦労するよ、といった損得の問題ではなく、道徳的な問題として)反対するのか。

何度も書いている通り、私は功利主義に与するところが大きい。そんな私からすると、ふだんリベラルな主張を展開する人が、「二股は絶対にダメ!」とか言い出すのが、解せない。当人たちが納得していないならダメだが、それでいいといっているなら、とやかくいうことに何の利益もないじゃないか、と。

ハナの主張にアンテナが反応してしまうのは、現実に選択を迫られたら、ハナは主張を撤回して、他人の自由な選択を道徳的に擁護しないのではないか、と思うからだ。教授のツッコミに対し、ハナは苦笑いしながら、非現実的な問題設定であることを強調しつつ、平等主義を主張した。こうした態度から、ハナは口先だけのリベラルで、腰が据わっていない、と私は見るのである。

リベラル色の強い政治家たちは、個々の事情をよく見ずに、失敗例の多寡を制御しようとすることが本当に多い。サラ金規制もそのひとつだ。高金利でも問題なく返済する人が大多数だからこそ莫大な利益を生んできた産業を、一部の多重債務者の存在を理由に全体として規制せんとした。簡単に借金ができるような世の中はおかしい、という保守とリベラルが結託して、あっさり法律が通ってしまったわけだが、個人の自由な選択の権利はどこへ消えてしまったのだろうか。

私は原理的にはリベラリズムにも大きな魅力を感じる者だが、現実のリベラル派には幻滅する。自由を規制して自分たちの規定した「弱者」の保護を進めようとするなら、形式的には保守と変わりない。

そんなわけで、ハナの主張には眉唾の私だったけれども、それまでの議論を突き抜けたセザンの主張には、大いに賛同する。結婚の歓びが、政府の承認によって大きく増減するとは考えにくい。社会的承認は、もっと狭い共同体の内部において得られれば十分ではないか。とするならば、結婚の枠を広げ、全員を救おうとする発想の転換には、反対する理由が思いつかない。

……が、Lecture24に続く議論では、「政府が公的な結婚制度によって個人の結びつきに名誉を与えること」が社会全体の幸福を明らかに増やす、という前提の上で進んでいくことになる。それゆえに、正義と道徳を切り離す議論が当然に行き着くセザンの主張を却下して、結婚には生殖より大切な目的があり、同姓婚はその目的に合致しているから、政府が名誉を与えるに値する、という説明に落ち着く。

人と人の永続的な信頼関係を祝福することが結婚制度の目的だ、という説明は、同性愛者という「絶対的な人数が(政治に影響を与えるには)十分に多い相対的な少数派」を多数派に取り込むことに成功するのだが、私にはこれが「共通善」を導き出すのに成功した議論だとは思えない。ま、議論は尽きないということだ。

Lecture24

続・行政は同性結婚を承認すべきか?

(アンドレア)人々の生活は、世界をどのように見るかに左右されるのに、国家が中立でいることができるでしょうか。私は、アリストテレスがいうように、政府の役割は、人々が何が善くて何が悪いかということを、集合的に理解して生きることを助けることだと思います。
(教授)妊娠中絶を例に考えてみよう。君は、道徳的な判断をすることなく、人工妊娠中絶の是非を政府が決めることができると思うかね?
(アンドレア)いいえ、それはできないと思います。だからこそ、これほど論争になっているのではないでしょうか。人々は胎児が生存権を持っているかどうかについて、根本的な信条を持っているからです。もし私が胎児の生存権を信じているとしたら、自分の考えを脇に置いて他人のしたいようにさせるのはとても難しいことです。私にとっては殺人であることを、あなたにはさせましょう、というようなものだからです。
(教授)君は同性結婚の擁護者だといったね。ただし君は、道徳的に考えて納得して初めて同性結婚の擁護者になったんだそうだね。
(アンドレア)そうです。多くの人の信条は信仰によって決定されます。私はキリスト教徒で、カトリックです。私はよく考え、祈り、たくさんの人と話した上で、同性愛は罪であるという見解に反対することを決めました。私が同性結婚に賛成するのは、道徳的にもそれでいいと考えるからです。
(教授)法と道徳は切り離せないというアンドレアに反対する意見はあるかな?
(ダニエル)法と道徳は、やはり切り離せると考えます。僕は中絶に反対で明らかに道徳的に間違っていると思いますが、違法にすることで中絶がなくなるとは思いません。だから僕は、中絶を選択できることに賛成で、女性の安全のためにもその方がいいと思います。僕は男性と結婚したくはありませんが、誰かの選択の自由を邪魔したくもありません。
(アンドレア)何かを合法にする、あるいは違法にするということは、暗黙のうちに賛否を示すことです。合法にすればそれは「問題ない」ということになります。
(ダニエル)僕は中絶が問題ないといっているのではなく、女性が違法なクリニックで中絶し、危険な状態に陥ることを望まない、といっているのです。

ダニエルの主張は、根本的に選択の自由を認めるものではなく、結局のところ政府が保護者としてふるまい、個人の選択に影響を与えることを善しとするものである。多くの「リベラル派」はダニエルのような立場に与するものと思う。しかしこれはロールズの正義論からは明確に後退しているといってよいのではないか。

思想的に不徹底だからダメだ、といいたいのではない。私が疑問に思うのは、「それってリベラルなの?」ということだ。

ダニエル自身は、別にリベラル派を自称していない。その主張も、個人の選択の自由を擁護するという考え方とは大きく乖離している。しかし結果的に、「中絶という選択肢を認める」側に与しており、世間的にはリベラル派ということになるだろう。こうした言葉のよじれが、問題を見えにくくしている。

(教授)同性結婚の例に戻ろう。ダニエル、君は同性結婚に賛成だったね。
(ダニエル)はい。同性結婚を強制するような法律ではないので、同性結婚が道徳的に間違っていたとしても、他人の選択の自由を認めることに個人的な害はありませんから。

こうしたやり取りから理解できるのは、ダニエルが功利主義に近い立場だということだ。

功利主義は社会全体の損得の収支そのものを道徳的な価値とみなし、損でも得でもない価値観については「どうでもいい」とする。同性結婚を道徳的に間違ってると思う人もいるだろうが、そういう人は同性結婚をしなければいいだけの話であって、同性結婚を認めないことに利はない。ダニエルの主張はこのように読み解くことができて、つまり功利主義と解釈して問題ないわけだ。

中絶に関しても、胎児の命を守ることは大切だが、妊娠可能年齢まで成長した女性の命を守ることはもっと重要である、とダニエルはいっている。生命に至高の価値を置くなら、その比較などしようがないわけだが、功利主義者なら、様々な方法で比較が可能だというだろう。そして検討の結果、ダニエルと同様の判断をすることになると思われる。

……で、私は何に引っかかっているのか? それは、講義の趣旨としては、リベラルな義務論と、目的論に沿った共通善の追求を対置させようとしているのだが、実際には「功利主義か定言的道徳律か」というLecture1のトロッコ問題の構図に戻ってしまっている、ということだ。話が進んでいるようで進んでいない。一周して戻ってきたのでもない。ただ単に、不注意で堂々巡りに気付いていないように見えるから、首を傾げるのだ。

その先の展開

同性結婚に関する裁判は、基本的に「同性愛者にも結婚を認めよ」という形でなされてきた。これはリベラルな主張の純粋に論理的な帰結とは異なっていることに注意しなければならない。

どんな結婚も平等に認めるなら、もはや結婚制度は存在する意味がない。真に平等を欲するなら、結婚制度の廃止を求めることになるだろう。ところが現実の同性愛者たちは、社会的承認=名誉の分配を求めている。ならば、その是非を検討するには、価値観の問題は避けて通れない。「ご自由にどうぞ。政府はあなた方の結婚について、何もいうことはありません」という対応では満足できないからだ。

したがって、政府が同性結婚を認めるとするならば、同性結婚が道徳的に価値のある行為だという主張をしなければならない。不平等の是正といった、ロールズが唱えた正義の枠組みだけでは、問題は解決されないのである。

……というのがサンデル教授の主張なのだが、個人的には別の考えを持った。

そもそも、ここにリベラルな立場の者はいないように思える。学生たちの議論が示すように、これは功利主義をめぐる問題として考える方が、現実に即しているのではないだろうか。

ダニエルは同性結婚を「自分に害はない」と述べたが、「不愉快だ」と思う人が実在する。同姓婚を許可した場合の喜びの総和と、不愉快の総和の比較が問題の真の争点であって、上っ面の御託は所詮、格好のつく言葉を口にしている方が気分がいいという話に過ぎなかったりしないか。

あるいは、結婚の条件を緩くしていくことで、古い厳しい条件で結婚を認められた者が幸福感を減じるのではないか。結婚を認められた誇りのようなものが、安っぽくなってしまうように感じられるのではないか。結婚の名誉の総和が一定量のように認識されているとすれば、結婚の枠を広げるかどうかは、既得権益を巡る争いとして分析することも可能だ。これを功利主義に基づき道徳的な問題として読み解いてもいいし、単なる私欲の衝突と見てもいいだろう。

だいたい「不公平だ!」という主張は、不公平であることそのものへの怒りなのか、「俺にも権益をよこせ」という主張なのか、区別することは難しい。ただ、同性結婚を認めろという人が、一妻多夫婚も認めろとはいわない、一夫多妻婚もいっそう認めない、とするなら、「本当は不平等に怒っているんじゃないんじゃないの?」という推測に大きな根拠を与えることになるだろう。そして私は、同性結婚を公的に認めるべきだと主張しているのは、リベラリズムを信奉する人々ではない、と考えるに至った。

功利主義は、個々人の価値観に優劣をつけることに距離を置く点で、平等主義と通じるものがある。それゆえ、功利主義は様々な場面で、じつはリベラリズムと同様の方策を支持することになる。ここに混乱の種があると思うのだ。