復習課題に取り組む

これまで議論をしてきたカントやロールズにとって、道徳的な義務は2種類しかない。一つは、人として人を尊重するといった人間に対して負う普遍的な義務、もう一つは、約束や契約など同意したことによって生じる義務である。これに対しコミュニタリアンは第三の義務があると考える。集団の構成員としての義務である。私たちが自発的に義務を引き受けていなくても、特定のコミュニティに負う義務である。メンバーシップや忠誠心の義務は、アイデンティティ、コミュニティや伝統を共有することから生じうる。私たちは誰かの息子であり、娘であり、誰かの友人であり、特定のコミュニティのメンバーであり、特定の国の市民だからである。

  1. 自分の兄弟が万引きしているのを見つけたら、あなたは警察に通報するだろうか?多くの人は自分の兄弟を届け出ることに躊躇するだろう。これは、家族という特定のコミュニティへの義務が、正義の普遍的な責務と衝突するという証拠だろうか?
  2. 親には、他の人の子供よりも、自分の子供に対してより大きな義務があるのか?あなたの子供が見知らぬ人の子供の隣で溺れているとする。あなたには、知らない人の子供を助けるよりも、自分の子供を助ける、より大きな道徳的義務があるのだろうか?
  3. 子としての義務は自発的なものか?子供は親を選ぶことはない。子供が他人よりも、自分の親を助ける、より大きな義務があるとするならば、この義務はどこから来ているのだろうか?
  4. 愛国心は美徳だろうか?それとも、単なる自分自身の偏見か?多くの人は、自分がどの国で暮らすか選ぶことはできず、誰も自分がどこに生まれるか選んでいない。なぜ私たちは他の国の人々よりも、自分の国の人々に対して、より大きな義務があるのか?

個人的には、共同体主義者(コミュニタリアン)の主張には賛同し難い。以下、そのような観点から縷々述べていく。

1.

自分の兄弟が万引きしているのを見つけたら、あなたは警察に通報するだろうか?多くの人は自分の兄弟を届け出ることに躊躇するだろう。これは、家族という特定のコミュニティへの義務が、正義の普遍的な責務と衝突するという証拠だろうか?

私も、兄弟の万引きを警察には通報しない。それはなぜかと考えてみると、もともと万引き犯を警察に突き出すという行為自体が、私にとって、あまり道徳的な意味を持っていないのだと思う。

露悪的な書き方をすれば、それは、「自分より下等な人間」を社会的に後ろ指をさされない方法によって痛めつけることへの、暗い欲望に根ざしているように感じるのだ。私は万引き犯の更生を真に願ってなどおらず、気に入らない人間に罰を与える神になりたい、その罰の効果など、じつはどうでもいい、という感じ。

だから、万引き犯が兄弟だった場合、兄弟を痛めつけても楽しくないから、警察には突き出さない。兄弟の万引きは悲しい。二度としてほしくない。だが、更生を第一に考えたとしても、やっぱり警察には通報しないな。万引きという犯罪からの更生に必要なのは、刑務所ではないと思う。刑務所での生活が、自分を見つめなおす裁量の機会を提供する、とも考えられない。

きちんとした根拠に基づく話ではないのだが、もし兄弟の犯した罪が殺人だったならば、私は通報すると思う。俗世間に身をおいて、昨日・今日の延長上の生活の中で、その罪と静かに向き合うことは難しいように感じるからだ。また、被害者への償いという面からも、そうしないわけにはいかないように思う。

じつは、殺人のような(私にとっての)大罪については、自分自身が犯した罪ではなくとも、一種の連帯責任を私は感じる。だが、私はそれが正当なものだとは考えていない。だから、私の理性は、他の犯罪者の親族などに対して、単に犯人と同じ共同体に属していたという理由によって責任を追及することは、決してしてはならない、と考えている。

「共同体主義は、集団的な利己主義である」という説明は、多くのケースに関して、妥当なものだと思う。ただ、私は功利主義にも賛同するところが大きいから、家族の支援によって更生させることが難しい万引きの常習犯を、社会からいったん切り離して、別の方法で(例えば罰を与えるという方法で)更生を試みることが「道徳的に正しい」ケースもあることを否定しない。

社会全体の効用を考えてもなお、警察には通報せず、家族という共同体の力で問題の解決に取り組もうとすることが、道徳的に正しい場合はありうると思う。が、不道徳を自覚しつつも、個人的な苦しみを避けるため、弟を匿う場合もあるだろう。

いずれにせよ、私は「家族への義務として弟を通報しない」という道徳律には賛同しない。

以前から、ドラマなどで親の元へ逃げてきた逃亡犯が、警察に通報されてその不義理を詰るシーンには、疑問を感じてきた。殺人犯なんか、通報するのが当たり前だろ、と。あくまでも感情の問題として、「信じていたのに」というなら、共感もできる。だが、親なら子を匿うのが当然、子どもを警察に「売る」なんて、親失格だ、なんて道徳観念が提示されると、私はポカンとする。

でも、世の中には「うんうん、そうだよね」と思う人が多いらしい。講義の中でも殺人容疑のかかった弟の捜査に協力しない州議会議長の態度を「道徳的に正しい」とする学生が多数派であり、「ああ、そうなのか」と思いましたね。だけど、日本では、身内をかばうのは「人情」と理解され、社会的な道徳としてはむしろ批判する側に立つ人々が多数派ではないか、と思う。

日本では、例え家族でも逃亡者を庇えば有罪ではなかったか。アメリカでは州によって扱いが違っていたりするのだろうか。まあ少なくとも、

2.

親には、他の人の子供よりも、自分の子供に対してより大きな義務があるのか?あなたの子供が見知らぬ人の子供の隣で溺れているとする。あなたには、知らない人の子供を助けるよりも、自分の子供を助ける、より大きな道徳的義務があるのだろうか?

溺れた子どもを助ける、という事例においては、私は「知らない人の子供を助けるよりも、自分の子供を助ける、より大きな道徳的義務」を否定したい。

だいたい、そんな理屈がまかり通るなら、子どものいる人は、レスキュー隊員などになってはいけない、ということにならないか。他人を助けるために自分が死んでしまった場合、結果として、自分の子どもよりも、他の見知らぬ誰かを優先したことになる。それを道徳的に非難する考え方に、私は賛同しない。

自分の子どもをとくに重視するのは、個人の選択の問題であって、道徳的な問題ではない、と考える。

3.

子としての義務は自発的なものか?子供は親を選ぶことはない。子供が他人よりも、自分の親を助ける、より大きな義務があるとするならば、この義務はどこから来ているのだろうか?

講義の中でも出てきた、利益の相互性を義務の根源とする考え方に、私は与する。

実母には、妊娠、出産の分だけ、最低限の義務がある。育ててくれた養父母には、大きな義務を負う。実父は、ただ実父だというだけでは、とくに義務を負わない。出産まで実母を支えたなら、その分だけは義務を負う。代理母出産の場合はどうなる? これは難しいが、いずれにせよ、養父母に圧倒的に大きな義務を負う。

生命の発生を重視して、実父母に大きな義務を負う、という考え方もある。しかし生命自体を「返す」ことはできないので、そこにこだわると、計測不能のサイズの義務を実父母に対して負うことになってしまい、いささかの問題を孕むと私は考える。

4.

愛国心は美徳だろうか?それとも、単なる自分自身の偏見か?多くの人は、自分がどの国で暮らすか選ぶことはできず、誰も自分がどこに生まれるか選んでいない。なぜ私たちは他の国の人々よりも、自分の国の人々に対して、より大きな義務があるのか?

利益の相互性からくる広義の契約関係、という考え方に私は与する。アクション映画の悪役には、国に見捨てられた特殊部の元隊員や、諜報機関の元職員などがよく登場する。彼らが愛国心を捨てる心情に私は大いに共感する。国への忠誠は互恵関係に基礎付けられるもので、先天的なものだとは考えない。

とはいえ、正義のヒーローはたいてい愛国心にあふれた人物であり、多数派は愛国心を契約のようには考えていない、という現実は認識しているつもりだ。

ちなみに私は、総合的にはヒーローの側を支持する。それは私が功利主義に与するところが大きいからだ。ときには腐敗した上層部の私利私欲のために信頼を裏切られたというケースもあるが、多くは功利主義的な観点から末端の切捨てが行われている。私はこれを「ある程度は仕方ない」と考えるのである。

その結果、一部の者がつらい思いをするのだが、他に選択肢がなかったとすれば、やはり上層部の判断は支持せざるを得ない。1部隊のためにアメリカ全土を危険にさらすのが正しい、とは考えられない。

心情的に復讐を目指す側に共感しても、道徳的な正しさは別問題だろう。アクション映画の悪役たちは、自分たちの怒りや悲しみを解消するために、100万人の生命を費やすようなアイデアを実行しようとする。これは到底、容認できない。ヒーローを支持する所以だ。

が、それはそれとして、ヒーローの強い愛国心を支えるものが何か、という点については、私にはよくわからない。そういうタイプの人も実在するのであろう、と思うのみである。