概要をノートにまとめる

Lecture11

カントの義務論・1

イマヌエル・カント(1724-1804)
ドイツの哲学者
1781年『純粋理性批判』
1785年『人倫の形而上学の基礎付け』

用語
 自律……自分自身で与える法則に従って行動すること
 他律……傾向性や自然の法則に従って行動すること
 傾向性…本能的な衝動や欲望

カントの考え方

a 自由に行動すること=自律⇔他律

b 自律の重視は功利主義の否定を導く
  人を目的そのものとして尊重せず、(社会全体の)
  効用を最大化する手段として使うのは誤り。
   →ベンサムのみならずミルの功利主義も否定

c 結果ではなく動機(善意)が大切である
 「善意はその結果や成果のために善いものになる
  のではない。それ自体が善いものなのだ」
 「最善の努力をもってしても何も達成しない場合でも、
  善意はそれ自身が全き価値を持つものとして
  宝石のように光り輝く」

d 傾向性ではなく義務に由来する行為に道徳的価値がある

カントが善い結果に道徳的価値を認めないケース
 Ex. 店の評判を守るため正確に釣銭を出す店主
 Ex. NYT紙掲載の商事改善協会の広告
   「正直は最善の策。そして最も有益なもの」
 Ex. カンニング防止のための報奨制度
    →ただし道徳以外の感情が行為を支えていても、
     動機の一部が義務にあるならば、問題はない。

アマディ(学生)の2つの疑問に答える
1.「道徳的になりたい」という動機付けは行動の純粋性を
 損ない、道徳的な実践を阻むことにならないか?
  →カントは、義務を理解し納得した人が道徳的価値ある
   行動を取りたいと考えるインセンティブを認めている。
2.自律が道徳律を導くとすれば、道徳律=主観なのか?
  →カントの言葉「私たちはみな、自律的な存在として
   自分に法則を与えるが、そこへ導く理性は1つである」
  →特定の目的とは無関係に先験的に法則を制定する
   「純粋実践理性」が人間には備わっている。

次回→『人倫の形而上学の基礎付け』を読んでいく。

Lecture12

カントの義務論・2

用語
 命法……しなければならないこと
 格率……人がそれに従って行動する原則、原理
 定式……命法のチェックテスト

『人倫の形而上学の基礎付け』の2大テーマ
 1.道徳性の最高原理は何か
 2.どうすれば自由は可能になるか

カントを理解する3つの対比
 1.[道徳性]動機   : 義務 VS. 傾向性
 2.[自由] 意思の決定:自律的 VS. 他律的
 3.[理性] 命法   :定言的 VS. 仮言的

義務のため自律的な判断で定言的命法に従う→道徳的

定言命法を導く3つの定式
 1.普遍的法則の定式
 2.目的としての人間性の定式
 3.相互配慮の定式

カントの言葉と考え方

仮言命法と定言命法の違い
「もし行為が、単に別の何かのための手段としてのみ
 善いのであれば、命法は仮言的である」
「行為がそれ自体において善いと示され、それゆえ
 それが理性と一致している石のために必要であるなら、
 命法は定言的である」
  →仮言命法は正しい手段を指示するが、
   定言命法では指示される行動自体が目的である

普遍的法則の定式
「同時に普遍的法則となることを意思しうるような
 格率に従ってのみ行為せよ」
  →この定式は、命法が特定の条件設定に依拠しない
   ことを診断するテストであり、帰結主義のような
   道徳律の基礎付けとは異なる。
   ○定言的命法は普遍的/×普遍的だから道徳的

目的としての人間性の定式
「存在そのものが絶対的な価値を持つもの、つまり
 それ自体の中に目的を持つものがあると仮定すると、
 そのものにのみ定言命法の根拠が見出される」
「人間および一般的に理性的な存在すべては、
 目的自体として存在し、誰かの意思を恣意的に
 使用するための手段として存在するのではない」
「君の人格にも、他の全ての人の人格にもある人間性を、
 単に手段としてのみではなく、常に、同時に
 目的として扱うように行為せよ」
  →私たちが社会で生活を送るとき、お互いを利益の
   ための道具として用いることを避けられないが、
   人の尊厳を尊重する限り問題はない。

Ex. カントは殺人・自殺を否定した
   殺人・自殺は人間を目的のための道具として用い、
   その尊厳を破壊する行為である。よって間違いだ。

次回→カントの語る道徳性の最高原理は説得力十分か?

Memo

定言命法(=定言的道徳律)を導く定式が講義では1つ欠けていた(か、私が見落とした)ので、自分で調べて「相互配慮の定式」を補ってあります。その内容は、「道徳的に正しい定言命法は、秩序ある共同体の形成に資するものでなくてはならない」ということです。

自由と道徳――カントの義務論

自由とは、私たちが食べたいものを食べ、着たいものを着、住みたいところに住む、といったことでしょうか。『リベラリズム』に属する政治哲学者カントは、人が状況に応じて最大の利益を得ようとしたり、動物的な欲求を満たそうとするとき、人は状況や欲求に縛られている、と考えました。

カントは「人は自ら定めた義務に従うときのみ真に自由であり、その真に自由な行動こそ人間に特異な道徳的な行為なのだ」と定義します。そして、人が純粋実践理性に従うならば、個人の価値観とは無関係に人類共通の義務(=道徳法則)が見出されるはずだ、とも主張しました。

以上のカントの主張を受け入れるならば、状況に応じて利益の最大化を目指すベンサムやミルの功利主義は、道徳とは無関係の考え方だ、ということになります。

例えば「発明家は道徳的な賞賛に値するか?」といった問いを考えてみてください。現実の不都合に発明で対処するのは、カントの定義では状況への対応です。即ち、真に自由な行動とはいえません。発明がどれほど多くの人の利益になろうとも、それは道徳とは無関係です。

注意していただきたいのは、カントは発明家を賞賛しただろう、ということです。ただしそれは「道徳的な賞賛」ではなかったに違いありません。