議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

今回はアファーマティブ・アクションをテーマとして2回連続で学生の議論を中心に展開する。

Lecture17

道徳的な対価と分配の正義について、ロールズの考え方をLecture16で学んだ。では、具体的な問題について、学生たちはどう考えるか。リベラリズムに賛同するのか、それとも……?

この問題を考える手がかりとして、サンデル教授は積極的差別是正措置の代表であるアファーマティブ・アクションを取り上げる。具体例は1996年のシェリル・ホップウッド訴訟だ。テキサス大学ロースクールはアファーマティブ・アクションを採用していた。アフリカ系、メキシコ系の応募者と同等の成績でありながら、ヨーロッパ系のホップウッドは不合格になったのだ。

テキサス大学の主張はこうだった。テキサスの人口の4割をアフリカ系とメキシコ系のアメリカ人が占めている。ロースクールとして学生の多様性は重要であり、学業成績やテストの得点だけでなく、人種や民族的バックグランドの多様性に配慮しなければならない。

Q1 シェリル・ホップウッドには告訴する権利があるのだろうか。ロースクールの方針により、彼女の権利は侵害されたのだろうか。

学生の賛否は割れた。教授は双方に意見を求める。

(ブリー)私は権利が侵害されていると思います。人種は自分の努力によって変えられない要素なので、判断基準とするべきではありません。
(アニーシャ)教育制度には格差が存在しています。私が育ったニューヨークでは多くの場合、マイノリティが通う学校は、白人の学校に比べて、予算も少なく設備も整っていないので、必然的にマイノリティと白人の間では格差が生じます。だから、現時点におけるテストの点数は、能力を正確には示していません。

戦後、日本では教育環境の均等化が強力に進められた。その経緯、データは『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか』(苅谷剛彦、2009年)に詳しい。それは第一に下からの運動であり、強い国民の支持を背景としていた。現在、各県の平均所得と学力の相関は解消されている。逆にいえば、人の移動が自由になった現在、教育に力を入れても地域経済の発展につながらない、ということでもあるのだが。

これに対し、アメリカでは教育は地域に決定権があり、裕福な地域ではお金を出し合って優秀で十分な人数の教師と、立派な施設が提供されるが、貧しい地域では教育の水準が著しく劣る。教育の自由度が高いといえば聞こえはいいが、口を出さぬが金も出さぬ、ということだ。連邦政府どころか、市町村単位ですら、教育環境の均等化を本腰を入れて目指すことはないのだった。

現代の日本において、アファーマティブ・アクションは容認されないだろう。だが、戦前の日本なら、話は違っていたかもしれない。とはいえ、適切な制度設計は、容易ではない。

アニーシャの主張自体には、首肯する者が多いかもしれない。しかし、シェリル・ホップウッドは貧しい家庭に育ち、働きながら学業を積んだ苦学生だった。ホップウッドをアフリカ系より有利な環境で育ったと判定する制度に、説得力があるだろうか。

この問題を解消するためには、全国各地の教育環境と成績との関係をデータベース化し、また世帯の収入や、両親の学業への理解などを加味して、「総合的な判断」によって合格者を選抜するしかない。この場合、学生たちはプライバシーを放棄しなければなるまい。

アメリカの制度はよくわからないので、日本の場合について考えてみる。すると、じつは上記のような取り組みは、既に部分的に実施されていることがわかる。

例えば推薦入試である。学力テストに加えて、高校時代の様々な活動や、教師の推薦文、作文や面接なども課されることがある。田舎の高校に通った私の観察するところ、一般受験ではとても合格しないような志願者が推薦入試では見事に合格することが珍しくなかったので、田舎補正みたいなものがあったとしても驚かない。AO入試と呼ばれる、より多様な入試形態もある。ただ、AO入試では多くの場合、個人を様々な観点から評価することに主眼が置かれ、環境の差が学力に与える影響を補正する、という要素は乏しい。

しかしその推薦入試にせよ、積極的に環境の違いを補正するとは謳われていない。現代の日本では、入試の段階で恣意的な要素を持ち込むことに忌避感があり、格差の放置こそが問題である、というのが支配的な物の見方だと思う。アメリカではこの感覚が逆で、各地域が自由に教育を行って、それによる格差は入試の方で調整するのが正しい、といった意見が強いのだろう。

個人的には、義務教育すら不平等なアメリカ方式には、違和感がある。また、アニーシャの主張が人種による優遇策へ結実するのは、いくら何でも大雑把に過ぎる。日本では、学業成績だけで合否が決まる枠が、予め示されている。アメリカでも、受験枠を選択できる制度にすべきではないか。そして、人種だけでなく家庭や地域の環境も問うようにすべきだ。

アファーマティブ・アクションが一律に適用されるから、納得できず、裁判にまで至るのだと思う。

(ブリー)アファーマティブ・アクションを正当化できるのは、人種や民族以外の全てのことを検討し、その人の才能や出身やどんな人であるかについて、恣意的な要素を除いて検討した結果が全て同じ場合だけです。
(デイビット)アファーマティブ・アクションには一時的に賛成です。理由は2つ。1つは大学教育の目的は学生を教育することだからです。学生たちの人種や背景の多様性は、様々な形で教育に貢献します。2つ目の理由は、アファーマティブ・アクションはある種の償いであり、とくにアフリカ系アメリカ人に対して行われた奴隷制や人種差別などの過ちを緩和するための、一時的な解決策だと思います。
(ケイト)過去に起こったことは、今起こっていることと関係ないでしょう。人種差別は常に間違っています。差別されるのがどの人種であれ間違いです。私たちの祖先が何かをしたからといって、現代に生きている私たちに影響を及ぼすべきではありません。
(モンソー)奴隷制度など過去の差別のせいで、今でもアフリカ系アメリカ人の多くが貧困に苦しみ、社会進出の機会も白人より劣ります。つまり、200年前の奴隷制度、人種分離が、現在までに続く人種に基づく不正を生んだわけです。
(ケイト)もちろん格差はあると思います。でも格差を是正するには、結果を人為的に操作をするのではなく、問題そのものを解決すべきです。育児や教育の格差解消のため、適切なプログラムを実施したり、低所得者地域の学校に資金を援助するのが正しいやり方でしょう。実際は平等ではないのに、結果を操作して平等に見える状況を作り出すべきではありません。
(ハナ)白人だって、400年以上、縁故主義などの形で、自分たちを優遇するアファーマティブ・アクションを行ってきたではありませんか。ですから400年間、黒人に対して行われてきた不正義を是正することには、何ら間違いはありません。

私はケイトに共感するが、教室ではハナの発言が拍手喝采を浴びた。日本でも、戦後30年以上の年月をかけてようやく、教育の機会均等を実現したのである。長期的対策なんてのは、なかなか結果の出るものではない。だから、短期的対策を性急に打ち切ろうとすれば、強い反発が出ることに不思議はない。

かといって、結果を操作して平等を実現したように装えば、実際の格差を放置することにつながりやすい。現にアメリカでは、長年にわたって歴代の大統領らが教育機会の均等化と最低水準の向上に取り組みながら、そのための大きな社会負担になかなか同意を得られない状況が続いている。国民皆保険もオバマ政権がようやく一定の進展を果たしたが、ついに無保険者の解消には至らなかった。

小手先の改革は、コストの割りに高い成果が出るように見える。だが、そこには明らかに限界がある。点数で調整したって、人生は返ってこない。特別に有能な者は、大学に入れれば、一発逆転もできるだろう。だが平凡な者はどうなのか。約20年間もの停滞を、取り返せるわけがない。

だがしかし、デイビット、モンソー、ハナの発言からは、補償の論理からスタートして、性急な解決策に飛びつく人々の考え方が読み取れる。大学への入学、大企業への雇用、そういったゴールの地点で平等を実現しようとする、その段階からなかなか抜け出せないアメリカ社会の課題が見えてくる。

本来は、両方やるべきなのだ。ハナとケイトの主張は、理念の面ではぶつかるが、政策論としては矛盾しない。

ところで、ハナが持ち出した縁故主義とは、レガシー・アドミッシュンのことである。卒業生の子女は入試の際に配慮される、という制度だ。講義の中では詳しく説明されなかったが、愛校心を高め、寄付を集めやすくし、教育環境の維持・発展を実現しようという意図がある。卒業生には成功者が多いが、その子女が親と同等に有能だとは限らない。そこにちょっと手心を加えることで、社会に最適なバランスになるのではないか?

無論、この考え方には厳しい批判があり、リベラリズムの広まった現在では、ほとんど滅び去った制度といってもいいだろう。

(ハナ)レガシー・アドミッションには反対すべきです。ハーバード大学の歴史では黒人よりも白人の方が卒業生の親を持つ学生が多いですから、白人と黒人の恣意的な格差を固定する制度です。
(ダニエル)アファーマティブ・アクションが過去への償いなら、なぜアメリカにおいて歴史的には差別されていないマイノリティにまで、この制度が適用されるのでしょうか。また、アファーマティブ・アクションは人種にこだわらない社会をつくるという目標に反し、人種間の問題をかえって長引かせているように思えます。
(ハナ)その意見には賛成できません。多様性を促進し異なるバックグラウンドを持つ人々と交流させることで、全ての学生、特に白人地域で育った白人学生への教育になります。白人学生を白人学生の環境に置くことは、白人学生にとっても不利益です。
(ダニエル)多様性には様々なものがあるのに、なぜ人種だけを取り上げるんですか? それが大学や社会での人種間の問題を長引かせていると思います。
(ハナ)有利な扱いを受けているアフリカ系アメリカ人たちは特別な貢献をもたらします。なぜなら彼らは独自の視点があるからで、それは異なる宗教や社会、経済的バックグラウンドを持つ人たちと同様です。あなたがいう通り、様々な多様性がありますが、人種の多様性が除外される理由はありません。

ハナはダニエルの意見に対して、先ほどとは異なる理由を持ち出した。こうしてどんどん「自説が正しい理由」を増やすことは、ディベートの際にありがちなのだが、戦略としてはうまくない。

ハナの新しい発言を文字通りに読むと、償いも格差も関係なくなってしまっている。「永久にアファーマティブ・アクションをやるべきだ」という結論にしかなりえない。このような最も強い主張を、後から出すのは、どうしたわけか。結果の重大さに反して、その動機が弱いことの現われ、と解釈するのが自然だろう。だんだん主張がエスカレートする論者は、相手に信頼されない。

さて、ケイトとハナの議論を振り返ろう。既に18歳になってしまった人を救済するには、アファーマティブ・アクションのような方法が必要である。しかし、これから生まれてくる子どもたちには、平等な教育環境を提供すべきだ。教育の格差については短期と長期の問題があり、それぞれに適切な制度を割り当てる必要がある。にもかかわらず、ケイトとハナの議論では、その点がごっちゃにされていた。

ダニエルの最初の疑問は、制度の目的の一部を問うものに過ぎないから、償いの論拠は単純に取り下げればいいだろう。ダニエルの2番目の疑問はもっともな話だが、私なら「短期の政策を複雑精緻なものとする意義は薄く、長期的な対策によってケアすべきだ」と回答する。

(テッド)この国で人種差別は違法です。アフリカ系アメリカ人の指導者だったマーティン・ルーサーキングも肌の色ではなく、自分の人柄、実力、業績で判断されたいといっています。人種だけに基づいて判断することは不公正だと思います。不利なバックグラウンドを考慮して是正しようとすることはいいと思いますが、白人でも恵まれない人はいます。白人でも黒人でも関係なく……。
(教授)人種を考慮するのが不公正なら、民族や宗教を考慮するのも不公正だということになる。では、成績とテスト結果で合否判定される権利があると思うかな?
(テッド)いいえ。大学は多様性を促進する必要がある思いますが、自分ではどうしようもない恣意的な要素のみに基づいて人を差別しなくても、多様性は促進できます。
(ダー)そもそも実力やテストの結果など学業成績の大部分も、育った家庭環境に関係しています。両親が学問好きならば、子どもも学問を好きになり、良い成績をとる確率は高くなります。
(テッド)レガシーアドミッションは別の形の多様性であるとはいえ、先祖が数世代に渡って、ハーバードに入学してきた家の人を少しくらい入学させる意義も多少はあるでしょう。しかし人種と同様、入学に有利な要素とはせず、多様性について考える1つの要素であるべきです。

テッドの主張は、よくわからない。キャンパスの立地とか、クラス分けの方法、そういった手段により、入学の基準に手を加えずとも、学生の多様性は促進できる、といいたいのだろうか。

共同体主義とリベラリズムの激突

残り時間を費やしてサンデル教授は議論を整理しているが、その概要はノートを参照のこと。

そのノートでは整理の都合上、Lecture20の方に記している内容だが、ホップウッドが入学資格を得られなかったのは人権の侵害か? という抽象的な論点が興味深かった。

(教授)私たちは業績、功績、努力によって評価されるのに値するのではないだろうか、それなのに、それは危機に瀕してる権利なのではないか。
 私たちはすでにこの議論に対する答えを知っている。シェリル・ホップウッドに権利はない。彼女は入学を許可されるのに値するとはいえない。値する者は1人もいないのだ。
 ハーバードがひとたびその使命を定め、その使命に照らし合わせて入学審査基準を決めたら、その基準に合致する者が入学を許可されることになる。つまり、入学の資格を持つことになるのだ。
 だが、この議論によれば、誰もその存在自体で入学に値する、ということはないのだ。ハーバードはまずその使命を定め、入学審査基準を決めるが、それは出願者がたまたま豊かに備えている資質を評価する、という方法で基準を決める。ピアノの才能であれ、優れたフットボール選手であれ、アイオワ出身であれ、マイノリティグループの出身であれ。

「えっ?」と思う人も多いだろう。以下、私なりの理解を記す。

差別によって、能力があるのに雇用を認めないことは、裁判の対象となる。このとき、差別そのものは人権の侵害だから、主な論点は人権である。が、しかし、ある人が特定の企業に雇用されないこと自体は、正当な期待に対する対価が支払われないという問題なのであって、人権の毀損ではない。

プロ野球選手になりたい。でもなれない。それは人権の侵害ですか? 違いますよね。どんなに努力をしても、野球が好きでも、関係ない。

芸能人などの場合、芸そのものの得意・不得意とは別の要素が採用の決め手となることも多いだろう。自分の方が演技がうまいのに、歌がうまいのに、と技能を誇っても、意味がない。客観的な認知度、人気調査の結果などをいくらかき集めても、ある役をもらえるかどうか、番組で採用されるかどうかが、人権の問題となることはありえない。

大学の入学資格の場合、なまじっか学業成績なる客観的に比較可能な判断要素が世間では非常に重視されているものだから、「頑張っていい成績を取った」ことが「入学を認められる権利」を生み出すかのように錯覚されてしまうのである。

募集要項に何と書いてあったか。「ペーパー試験の結果のみで合否を判断する」と書いてあったなら、大学はその契約を守らねばなるまい。これは正当な期待の対価というものであろう。だが、学生の人種構成を多様化するため、応募者の人種を考慮する、と書いてあったなら、前記の期待は成立しない。だから、ホップウッドが貧しい家庭で育ったにせよ、これは人権の問題ではない。

大学はその目的に合う学生を選ぶ。それでいいという話になる。企業が社員を選ぶケースを考えてほしい。成績のいい方から順番に選ぶのではない。会社には様々な作業がある。だから、会社は様々なタイプの人を採用する。ひょっとしたら、製品組立の流れ作業だって、院卒の方が上手かもしれない。それでも、流れ作業担当の正社員として、基本的に院卒は採用されない。それをおかしいと思うだろうか。

……リベラリズムの権利の考え方を敷衍すれば、そういう議論になるのである。だが、私たちは、学業成績が十分なのに、人種のせいで入学を拒否されるのは「権利の侵害」だと考えがちではないだろうか。それは、私たちが目的論的思考を根強く持っていることに由来する。私たちは、大学の入学にふさわしい者を選抜する要素として、人種の多様性よりも、学業成績を重視しているのである。より重要でない要素のために、大切な要素がないがしろにされることに、違和感があるのである。

さらにいうと、私たちは、大学の入学資格について、リベラリズム的には第三者でしかない自分たちの総意が、大学当局の判断より優先されるべきだと考えているのだ。

かくて、リベラリズムの浸透したはずの現代の先進国においても、人々が共同体の常識を個人や特定の集団の自由より優先したいと考えていることが理解できる。その素朴な実感に寄り添うのが、サンデル教授ら共同体主義者であり、それは自由の敵で克服すべき考え方だと批判するのがリベラリズムである。

Lecture18

正直、あまり見るところはない。

(ダー)論点は2つあります。1つは私的な機関はその使命を自由に決めてよいか、という点です。例えば、私が自分の使命を「世界中のお金を集めること」と定めるのは正しいでしょうか。私立の機関だからといって、なんでも好きに決めてよいとはいえません。

ここで教授が口を挟む。

ホップウッドに訴えられたテキサス大学ロースクールは、1950年代には、アフリカ系アメリカ人を雇う法律事務所はテキサスには存在しないことを理由に、アフリカ系の入学を拒否して裁判沙汰になっている。同様に1930年代のハーバード大学は、ユダヤ人の入学を制限していた。学士が就く職種にユダヤ人は珍しく、ユダヤ人を大勢入学させても仕方ない、という論拠だった。

では、現代の大学がアファーマティブ・アクションの論拠に挙げる多様性の重要さと、1950年代のテキサス大学や、1930年代のハーバード大学が掲げた大学の社会的使命の間に、原理的な違いはあるのだろうか。

(ハナ)違いはあると思います。それは「含む」ことと「除外する」ことの違いです。大学が宗教や人種を理由に出願者を除外するのは道徳的に間違っています。これは恣意的な要素に基づく拒絶です。今のハーバードは、多様性を促進することで、過去に除外されていた集団も含めようとしています。
(スティービー)私が考えるもう1つの違いは、過去の人種差別は悪意が動機だった、という点です。黒人やユダヤ人の入学を許可しないのは、彼らが劣った人々や集団だと考えたからではないかと思うのです。

それはともかく、ハナは最初、2つの反論をしようとしていた。実際に語られたのは1つだけだ。もう1つは何だったのだろうか。気になるな。

アリストテレス登場

(教授)分配の正義の問題を、道徳的対価の問題、美徳の問題から切り離すことは可能なのだろうか。そして、それは望ましいことなのだろうか。
 この論点は、現代の政治哲学を古典政治思想から多くの点で区別している。
 道徳的対価を脇におけるかどうか、という問いにおいて問題となるのは何だろう。ロールズの著作を読むと、彼が分配の正義を道徳的対価から切り離すべきだとする理由は、平等心的なものであるように思える。道徳的対価を考慮しなければ、平等主義的な考えを実践するためのより広い視野が得られる。無知のベール、2つの原理、最も恵まれない人々への援助、再分配などである。
 しかし興味深いことに、今まで取り上げてきた思想家をみてみると、正義を道徳的対価から切り離したいと考える理由は、平等への関心とは別のところへあるようだ。
 リバタリアニズムの立場を取る権利中心の理論家たち。そして平等主義の立場を取る権利中心の理論家たち。その中にはロールズやこの論点に関してはカントも含まれるが、彼らは分配の正義や福祉国家などについては、正義とは美徳や道徳的対価に報いたり、それを讃えたりするものと理解されるべきではない。という点では意見が一致している。なぜ全員がそう考えるのであろうか。それは平等主義的な理由だけではありえない。全員が平等主義的ではないからだ。
 ここで我々は大きな哲学的問題に突き当たる。なぜか彼らは正義を道徳的対価や美徳と結びつけることは自由から遠ざかることであり、自由な存在としての個人の尊重から遠ざかることだと考えている。彼らが問題だと考えていることを理解するために、また、彼らに共通している前提は何かを知るために、1人の思想家、哲学者をとりあげてみよう。
 この思想家は彼らとは違い、正義を名誉や美徳、真価や道徳的対価にはっきりと結びつけている。この思想家とはアリストテレスだ。

というわけで教授が長々とアリストテレスの考え方を説明してくださるのだが、私の理解はノートの方で簡潔にまとめているので、繰り返しません。