例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。
アメリカの大手自動車メーカーであるフォード車は1970年、小型車『ピント』を発売した。日本やドイツの自動車メーカーの参入により小型車市場は沸騰しており、フォードは開発期間の短縮を図った。その結果、追突されたとき燃料タンクが炎上しやすいという欠陥を見逃したまま商品化してしまった。
自動車は大事故を起こせば人が死ぬ製品であるが、人命尊重のための設備は、合理的な範囲内に止めてよいことになっている。人命尊重のため徒歩と同程度の速度にしたり、周囲に数メートルにも及ぶ緩衝材をつけたり、そういった自動車も実現は可能だが、そこまではする必要はない、とされている。自動車の安全性については基準などが存在するものの、安全水準を決める根拠は、ハッキリしない。競合他社の製品と比較して極端に危険でなければ「製品の欠陥」とはみなされないようなのだが……。
さて、フォード・ピント事件は1972年から世間の耳目を集めることとなった。ひとつの追突炎上事故の裁判において、ピントの構造上の欠陥が明らかとなったのだ。そこで1973年、アメリカ運輸省はフォード社に車両改修の提案をした。これに対しフォード社は「製品の欠陥は明らかだが、設計の改良や製品の改修に要するコストが多大なため、個別の事件について車両の欠陥を認めて賠償金を支払っていく方がリーズナブルである」という回答書を出した。企業倫理の欠如として世論の批判が集中し、フォード社の販売は落ち込み、懲罰的な賠償金を課せられた上、製品の改修も余儀なくされた。
フォード社のピント改修の費用便益分析
費用 1台当たり11ドル×1250万台≒1億3700万ドル
便益 死者180人×20万ドル+負傷者180人×67000ドル+自動車修理2000台×700ドル≒4950万ドル
Q1 この費用便益分析が成り立たないとしたら、それはどんな理由だろうか?
講義のテーマは「功利主義への批判」である。個人が功利主義を信奉することは問題ないが、多数派が功利主義を道徳観念の最も重要な基礎理論としていないことは、これまでの講義から、たしかなようである。講義の大きな目的は「多数派の道徳観念を理論的に分析していくこと」なので、講義の展開としてはどうしても功利主義にキツク当たっていくことになる。
(ジュリア)人の命は生涯収入では測れない。愛情を加味しなければならず、それは数字にできない。
(教授)他には?
(ボイテク)インフレを考慮しなければなりません。現在の通貨価値に換算して……200万ドルとすれば、妥当だと思います。
(教授)他に費用便益分析をいいことだと思う人は?
(ラウル)費用便益分析なしに企業は成り立ちません。自動車メーカーがなければ、誰も通勤に自動車を使えなくなり、より多くの人が不便を被り、不幸となります。
学生の多くはフォード社の判断を「ひどい」と思ってはいるようだった。けれども、意見を述べた学生3人のうち、功利主義の費用便益計算自体を否定したのは1人で、残る2人は費用便益計算を否定していない。
ボイテクが述べているのは、費用便益計算そのものが悪いのではなくて、命の値段を安く見積もりすぎたことがフォード社の間違いだった、ということだ。ちなみに、裁判の結果、フォード社の出費は2億ドルを超えたという。それなら燃料タンクを改修した方が安かったわけだ。
ラウルの発言は、上で私が述べたことに関係している。安全だが1台1億円だったり不便極まりない形状・構造の自動車では、誰も買えない。当然、社会のモータリゼーションは進まず、経済発展は阻害される。これは一企業の存亡という枠にとどまらない。
19世紀のイギリスには赤旗法というものがあって、衝突事故防止のため、自動車の前を赤い旗を持った人が歩かねばならなかった。結果、自動車は重量貨物を牽引する以外の利点を持たず、イギリス国民は自動車による高速移動の恩恵は受けられなかった。当然、自動車は売れず、自動車産業の停滞を招き、以降長らくドイツやフランスの後塵を拝することになる。
だが、ジュリアのいうように、「人命には数字にできない至高の価値がある」とするならば、赤旗法を導入しなかった国々こそ「どうかしている」のであって、イギリスが結局は赤旗法を廃止してモータリゼーション推進へ舵を切ったことは道徳的退廃と批判されるべきかもしれない。(→そうとも言い切れないという話を『Lecture9,10 再検討』で展開しています)
こうしてみると、教授が意図したであろう講義の大きな流れとは裏腹に、自動車の安全性能というテーマにおいては、世界中のどの先進国でも究極的には功利主義が勝っていることを確認できる。
フォード・ピント問題で、多くの人が直感的に嫌悪感を抱いたポイントは、費用便益分析に人命の金銭的価値を織り込んだところにあったのかもしれない。しかしよくよく考えてみるならば、ここで真の争点となっているのは、「どの程度の頻度で事故が発生するなら自動車メーカーが全車両を改修すべき欠陥だといえるのか」という「程度の問題」の線引きなのである。絶対に乗員が死なない自動車など、私たちは期待していない。それが非現実的であることを知っていて、それでも自動車の利便性は捨て難く、危険を承知で自動車を利用することに同意している。そこには暗黙の「人命の価値を含んだ費用便益計算」が存在する。
1250万台に対して、「欠陥」に起因する死者180人、負傷者180人……いや、そもそもこの程度の頻度でしか事故は発生しないのに「欠陥」と呼ぶのが妥当なのだろうか。「1台あたりたった11ドル」で改修できるのに……と考えるのか? 改修費用(≒技術的困難さ)の問題なのか。そうだとすればやはり、費用便益分析の対象とすること自体に問題があるという話ではないわけだ。
(教授)運転中の携帯電話の使用による死者は年間2300人に上るが、ハーバード大学リスク分析センターの研究では、運転中に携帯電話を使う費用と便益はほぼイコールだという。運転中に商談すれば、時間が節約され、経済効果が産まれるからだという。この分析によれば、運転中の携帯電話の使用を認めるかどうかは、一概に決められないということになる。さて、人命の価値を費用便益分析に織り込むのは、道徳的に正しいことかな?
(ラウル)大多数の人が携帯電話の利便性を最大限に活かそうとするなら、いくつかの人命が失われることもまた避けられないことです。満足に犠牲はつきものですから。
(教授)君は完全な功利主義者だ。ありがとう。それじゃあ、最後の質問だが、人の命に値段をつけるとしたら、いくらが妥当だと思う? 運転中の携帯電話の使用を禁止するかどうかを決めるためには、数字が必要なんだ。
(ラウル)軽々しく決めたくはありませんが……思い切って決めるなら、100万ドルでしょうか。
(教授)よく答えてくれた。ありがとう。
教授はラウルを功利主義者だといったけれども、その発言から透けて見えてくるのは、人命を折り込んだ費用便益分析は「仕方ない」ことではあっても、道徳的に正しいとは考えられない、という価値判断だ。ネガティブな評価を下しつつも、人類が費用便益計算と手を切ることはできないと認める、そんな論理構成である。
功利主義を擁護する意見も、その言葉の選択に注意すると、必ずしも功利主義を「道徳的に正しい」と言い切る確信は持っていないようだ。とすると、堂々と功利主義を掲げる者に世論が強烈に反発することも頷ける。私は自分が功利主義者に肩入れしているので、ここまでの議論の展開を見て、ついつい「費用便益計算は道徳的に(も)正しい」という意見が多数派のような気がしていたけれど、こうして議論を再検討してみると、「微妙な空気」が漂っていることを理解できる。
Q2 功利主義に賛成か反対か?
結果はこうだ。
多数派 賛成
少数派 反対
教授はまず反対派の意見を求めた。
(アナ)最大多数の最大幸福という考え方のもとでは、少数派の意見が軽んじられ、望んでも発言の機会が得られなくなってしまうと思います。
(教授)面白い意見だ。君は少数派への効果を心配しているんだね。この意見について賛成派の意見は?
(ヨンダ)少数派の意見は決して軽んじられてはいません。1人の意見は1人分として平等に扱われているのです。意見を合計したとき多数派と少数派があるだけです。決断が必要な場合には多数派の意見が通ることになるでしょうが、それは少数派の意見が無視されることを意味しません。
(教授)なるほど、一人一人の意見は平等に尊重され、費用便益計算には少数派の意見も加味されているというわけだ。アナは功利主義は少数派をないがしろにするといったが、なぜそう思うのか教えてほしい。
(アナ)少数派の一人一人にも尊重されるべき権利があり、それは多数派の幸福のためでも侵されてはなりません。効用のために少数派の権利が犠牲にされてはなりません。
(教授)ありがとう。古代ローマでは少数のキリスト教徒が多数派のローマ市民の楽しみのためにライオンと闘わされ殺されていた。ヨンダは、これをどう考えるだろうか?
(ヨンダ)それは過去の話で、現在の為政者は、例え犠牲者が少数であれ、その痛みや苦しみを、観客の快楽の数字の総和より小さいと判断することはないでしょう。
(教授)でも、君の先ほどの主張を突き詰めていくと、大勢のローマ人の快楽は少数のキリスト教徒の苦しみを上回ることになってしまうよ。
教授はこういって議論を打ち切り、講義のまとめに入ってしまったけれども、これには不満が残った。
ヨンダの主張を私なりに補足しておきたい。ようするに、こういうことだ。私たちは、ライオンと格闘させられる人々の苦しみのついて、きわめて大きなウェイトを設定するに違いない。キリスト教徒1人の死に喝采するローマ人が1万人いたとしても、その程度では死というあまりに大きな犠牲を正当化するには足りないだろう。1人対100万人ならどうか。1000万人なら?
じつのところ、映画やドラマのスタントや、闘牛はこれに近い構造を現在に残している。ただしそこでは、危険に臨む者が、強制によらず自発的に参加していることに注意が必要だ。この点に注意して、功利主義で統一的に説明するなら、「強いられた生命のリスクは、自発的な生命のリスクより苦しみがずっと大きい」ということになろう。
……とはいうものの、ちょっとこのあたり、功利主義だけで擁護するのはつらいものがあるな、というのが正直なところ。だって、たとえ1人対1億人であっても「娯楽としての殺人」は受け入れ難いもの。多くの場面で功利主義を支持する人であっても、だいたいそうなんじゃないかなあ。
ライオンとの格闘による強制された死は殺人に等しい。殺人による死は、自発的に引き受けたリスクの結果としての死とは倫理的な意味合いが全く異なる。それゆえ大衆の娯楽のため自発的に危険を引き受けたものが死ぬことは許容しても、娯楽のための殺人は決して許されない、という説明の方が、功利主義に肩入れする私にとっても、説得力は大きい。私も完全に功利主義的な発想を受け入れることはできないということみたい。
Lecture4は教授の語りが多くを占め、学生を次々指名しながら講義を展開させていく「議論」の分量は少ない。JSミルの主張は微妙な部分を多く含むので、どうしても説明が中心になる。Lecture11,12でカントを扱った第6回放送分ほどではないが……。
(教授)ミルは功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを区別することは可能だと論じている。さあ、既にミルを読んでいる人なら、どうすれば両者を区別できると論じているか、わかるだろう。功利主義者は、どうやって劣ったものや卑しいもの、価値のないものから、質の高いものを区別するのか?
(ジョン)両方を試してみれば、人は自然に、高級な方を好むものです。
(教授)その通りだ。ミルはこういっている。「人々の願望や好みを除外して考えることはできない。なぜなら、それでは功利主義の前提を崩してしまうことになるからだ。高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただひとつ、両方を経験した人が、それを好むかどうかである」
教授はミルの主張を検証するため、「シェイクスピア原作の映画(のワンシーン)」「フィアファクター(我慢大会バラエティー)のPV」「ザ・シンプソンズの短編」を上映し、学生に問う。
(教授)どれが好きだったかは聞くまでもないね。ザ・シンプソンズだという人? シェイクスピアだという人? フィアファクターがよかった人?
シンプソンズが圧勝で、シェイクスピアの支持者はごく僅か。フィアファクターを最も気に入った人は数えるほど、という結果になった。
(教授)少し質問を変えてみよう。どれが最高の経験、最高の喜びだったと思うか?
今度はシェイクスピアが多数派になった。
(教授)フィアファクターだという人?
(数人)手を挙げる
(教授)いや、そんなわけない。本当?(ジョーク)
(大勢)笑う
(教授)理由は? どうぞ、話して。
(ネイト)一番、面白かったからです。
(教授)それはわかるが、どれが一番価値がある、崇高な経験だったか、教えてほしい。
(ネイト)僕にとっては、愉快なことに、価値があります。他の人がどう考えるかは、関係ないのではないでしょうか。
(教授)わかった。君は純粋なベンサム派に属するわけだね。人々の好みを集計するのはいいとしても、その価値を誰かが判断するのはおかしい、と。なるほど。ありがとう。
このやり取りは、とてもいいな、と思った。少数派の意見こそ、きちんと受け止め、賞賛しなければならない。この教師の鉄則を、サンデル教授はきちんと実践している。
敢えて多数派の笑いを誘って座を暖めるのは高等技。日本の教室では少数派の学生を萎縮させてしまう可能性が高いわけだが、単なるウケ狙いをふるい落とす効果に加え、ある程度の度胸がある学生ならば、かえって腰が据わって発言しやすくもなる。暗く沈うつな教室では、学生の口が重くなってしまう。明るい環境を用意することは大切なんだ。(私自身はこれが苦手)
(教授)では、好きというのは別として、シンプソンズが実際に高級な経験だと思う人は? いいだろう。では、シェイクスピアの方が高級だと思う人は?
シェイクスピアの方が多数派とはいえ、シンプソンズにも相当数の手が上がった。
(教授)できれば、シェイクスピアが最も高級だと思う人の中で、シンプソンズの方が好きだ、という人の意見が聞きたい。
私はノートだけでなく『再検討』においても講義の内容を相当に端折っているのだけれども、教授の発言を忠実に文字起こししてみると、偶然に頼っているかに見える教授の講義が、じつは相当な力技で計画に従った展開へ軌道修正されていく場面が少なくないことがわかる。
学生と学生のやりとりで進む箇所でも、映像を少し戻して聞き直してみると、学生の発言の間で必ず教授がいったん内容を整理し、枝葉が切り落としたり、講義の主題と関係ない部分もスパッと略したりしている。なるほど、そうでなくては、これほど短時間でサクサクと話が進むわけがない。私が講義を受けてきた先生の多くは、話を刈り込むどころか、どんどん話が微に入り細に入り、収拾がつかなくなっていく。サービス精神旺盛なのはいいけれど、自分が講義のマスターだということを忘れているんだよね。
発言者は、基本的に教室に1人しかしない。多人数の講義になればなるほど、「発言者以外にとってはどうでもいいこと」をどう扱うかが重要になっていく。一人一人の意見を大切にするのは重要なことだけれども、そうだからこそむしろ、大人数の講義では教授と学生が「2人だけの会話」をやっちゃいけないんだ。「どっちもいい加減にしろよ」って大多数の学生が白けてしまう。
その他、これは既に何度も書いてきたことだけれども、教授は学生の発言を基本的に肯定するんだよね。学生が話し終えると、最初に短く「Good.」といってから、教授の発言が続く、というパターンがある。日本語吹き替え版だとこの「Good.」が略されてしまうのは、言語の習慣的特性だから仕方ないのかもしれないが、これは学生の発言を引き出す真髄だと思う。「All right.」は「なるほど」と吹き替え版でも入っていて、これも相当に多い。
あとは質問の仕方。サンデル教授は、学生が「うーん……」と悩み込んでしまわず、その場でパッと意見をいいやすいような質問の仕方を豊富に用意している。代表的な意見を複数例示して、そのうちのどれに近いのかを訊ねたり、ときには回答を誘導したり、そうじゃなくてですね、と学生が食いつくような餌を投げたり。学生が言葉に詰まるとすぐに助け船を出す。これらは会議などにも応用できることなので、多くの方にとって参考になると思う。
こうして見ていくと、素朴にやっているようでいて、名人の講義は違うんだよな、ということを思う。ドラマや映画をたくさん見てみれば、アメリカにだってお通夜みたいな講義はいくらでもあるらしいことがわかる。学生の問題は二の次で、まずは教師の力量が最重要だということ。
話を戻して。
(アニーシャ)シンプソンズは楽しいので、見ているだけで笑わせてくれます。でもシェイクスピアを楽しむには、読み方や解釈の仕方を誰かに教えてもらわなくてはなりません。レンプラントの絵画なども同じだと思います。
(教授)アニーシャ、もし誰かが、シェイクスピアの本がいいと教えたら、君は無条件でそれを受け入れるの? シェイクスピアを高級だといったのは、そう教えられたからなのかい? それとも、自分自身でも納得しているんだろうか。
(アニーシャ)シェイクスピアは教えられたからではありませんが、レンブラントはそうです。レンブラントの絵はすごい、といわれればそう思いますが、実際は漫画を読むことの方が楽しいと思います。
(教授)なるほど。君のいうように、文化と伝統の圧力というのも、ある程度はあるだろう。私たちは、どれがよい作品かということを教えられているからね。他には?
(ジョー)今日のこの授業の中では、シンプソンズが一番楽しいと感じました。でも、もし残りの人生を、3つのうちどれかひとつの作品について考えて過ごすとしたら、僕はシンプソンズとフィアファクターは選ばないと思います。深い喜びについてじっくり考えれば、自分自身の視野が広がり、さらに多くの喜びを引き出すことができると思うからです。
(教授)では、君は残りの人生を、カンザスの農場で過ごすことになって、シェイクスピアか、シンプソンズのどちらかひとつしか見られないとしたら、シェイクスピアを選ぶんだね。ジョン・スチュアート・ミルは、高級なものと低級なものの両方を経験した人は、必ず高級なものを選ぶといったが、実験の結果、それは証明されただろうか?
(ジョー)別の例を挙げてもいいですか?
(教授)どうぞ。
(ジョー)神経生物学の授業で教わったんですが、ネズミの脳には強烈な快楽をもたらす神経があり、この神経を刺激する方法を学んだネズミは、食べることも忘れて死んでしまうそうです。それだけ強烈な快楽を得られるからです。僕は強烈な喜びは、生涯にわたって得られる喜びよりも、質の低いものだと思います。もちろん、強烈な喜びを得たいとは思います。でも……そうでしょう? 本当に、そう思っている。
(大勢)笑い
(ジョー)でも、長い目で見れば、ここにいるほとんど全ての人が、束の間の強烈な快楽に溺れるネズミであるよりも、高級な喜びを享受する人間でありたいと考えるはずです。先生の質問に答えると、この例が証明する、いえ、証明するとまではいいませんが、このことからいえるのは、ふたつの喜びのうち、どちらを選ぶのかを訊ねられたとき、過半数の人が高級な喜びを選ぶだろう、ということです。
(教授)つまり、ミルは正しかった、ということだね?
(ジョー)そうです。
(教授)ありがとう。誰か、ジョーに反対する人はいないかな? 今回の実験で、ミルの理論が誤りだとわかった、という人は。功利主義の枠組みの中で、喜びが高級かどうかを区別することは不可能だと考える人は?
(学生)人は、よいものを選びます。それは相対的なもので、客観的な定義はありませんから、シンプソンズがより好まれる社会もあるでしょう。シンプソンズは誰にでも理解できますが、シェイクスピアを理解するには教育が必要だと思います。
(教授)なるほど。高級なものを理解するには、教育が必要だと。ミルも、高級な喜びは理解と教育を必要とするといっている。その点は争っていない。そして、一度教育されると、人は、高級なものと低級なものの違いがわかるようになり、さらには、実際に低級なものより高級なものを好むようになるというのだ。
学生の相当数がシンプソンズの方を実際にも高級だと考えていたように、これはなかなか微妙な事例だったのだけれど、教授はうまく講義を展開させて、ミルに好意的な形で講義を閉じることに成功した。なぜシンプソンズが高級か、というところを突っついていくと、じつはシンプソンズには実際、下世話なドタバタコメディというだけで括れない批判精神が詰まっているため、そもそもの問題設定が破綻しかねない懸念があった。本当に高級なんだから、高級だと思って何が不思議なの? と、なってしまう。
教授が最後に、自分で設定した枠組みを離れて反論を募ったとき、シンプソンズの擁護ではなく、この実験がミルの主張を破綻させているかどうかを問うたのは見事。洞察によらず直感的に正しい質問を選択したなら、ちょっと怖いというくらい。
あと、ジョーの意見を私なりにちょっとだけ補足したい。低級な喜びは短期の強烈な喜びなんじゃないか、というのがジョーの意見。会場の爆笑は、まあ、その言葉から下世話な連想が働いたのかもね。
強烈だけど、後で虚しくなる。長く打ち込んで、積み上げていけるようなものではない。だから、目先のことだけでなく、長い人生を認識できる人間は、高級な喜びを選択できるし、選択するのではないか。
これはミル自身も認めていることらしいのだけれど、高級な喜びを知っていても、だから低級な喜びから縁が切れるというものではないらしい。つまり、短い時間の区切りの中では、低級な喜びへの欲求が勝ることはある、ということだ。「なーんだ」と、ホッとする人も多いんじゃないだろうか。「高級な喜び」が「低級な喜び」に勝つというのは、いわば積分値の比較だと思えばいい。
私見だけれども、「高級な喜び」の代表格は、家族と過ごす歓びと、仕事の楽しさじゃなかろうか。もしこの意見が正しいとすると、実際、相当数の人が、低俗なテレビ番組を見て笑っている「低級な喜び」より長い時間を「高級な喜び」に充てていることになると思う。
ところで、「カンザスの農場」はLecture3の末尾で紹介されたソーンダイクの実験の内容を引き合いに出したジョーク。番組では笑い声が入っていなかったけれども、ちょうどそこで映像の編集がされているようだったので、カットされたのかもしれない。アップで教授の「これから面白いことをいいまーす」っぽい自信満々の表情が抜かれていたので、ちょっと気になって確認してみたんですが。でもホントにスルーされたんなら、ちょっと気まずいよね。