議論を再検討する

例によって、学生の発言を中心とした「議論」の部分のみ取り上げる。

Lecture9

兵役の市場取引

現代のアメリカ合衆国において、兵役は純粋な奉仕活動ではない。兵士には規定の給与が支払われる。しかし兵士たちは、生命のリスクに見合わぬ薄給を承知の上で志願している。現代の米軍は、多くの人々の社会奉仕の精神なしには成り立たない。

リバタリアニズムでは自己所有の原則が議論の出発点となるので、たとえ軍人といえども、敵前逃亡や不服従を理由とした処罰は許されない。究極的に個人の生命は個人の所有物であり、何人たりとも本人の意思に反して生命リスクの増大する行為を強制することはできない。あるいは、入隊時に自由意志によって結んだ契約には従わねばならないが、その場合、入隊するかしないかの判断を強制されてはならない。

ジョン・ロックの哲学では、人々は社会契約を結び、政府の庇護のもとに暮らしている。政府は人々の生命や財産を守るため、民主的に決定された「恣意的ではない方法」によって一定数の市民を兵士として選び出し、国防の任務に就けることが可能である。そして徴兵制は、長らく「恣意的ではない選出方法のひとつ」とみなされてきた。

Q1 イラク戦争などのため、米軍は人員の確保に頭を悩ませている。十分な人数の兵士を確保するための方法として、道徳的に最も望ましいのは、次のうちどれか?
1.給与と手当てを増やす *志願制を維持
2.徴兵制へ移行
3.外部委託(傭兵)

学生の多数派の判断は、明瞭に現れた。

大多数  1.給与と手当てを増やす *志願制を維持
10人程度 2.徴兵制
20〜30人 3.外部委託

この結果と対比させるべく、教授は古い事例を紹介し、学生の意見を訊ねた。

Q2 南北戦争のとき、北軍は徴兵制によって兵士候補を徴集したが、候補者たちは身代わりを雇うことができた。身代わりの相場は300ドル程度であり、鉄鋼王カーネギーは、彼が1年間に葉巻に使うより小さな金額で身代わりを立てることに成功したという。この制度は道徳的に公平で正しいといえるだろうか?

学生の多数派の判断は、ここでも鮮明に出た。

ごく少数 公平で賛成できる
大多数  不公平で間違っている

以上を前提に、議論がはじまる。まず教授は、北軍の仕組みを不公平だと考える学生に、その理由を訊ねた。

(リズ)一回兵役を免除されるために300ドル払うということは、人間の命に値段をつけているのと同じです。これまでの講義で、はっきりさせたとおり、人間の命に値段はつけられないのですから、おかしいと思います。
(教授)ということは、それが300ドルだろうが、500ドルだろうが、1000ドルだろうが……
(リズ)それが命の価値だ、といっていることになります。

この発言で、いきなり躓いた。この講義において、「人の命に値段はつけられない」なんて結論、導かれていたっけか? せいぜい「多数派の感覚としてはそうだ」というくらいの話だったはずだ。

ベンサムの功利主義が議論されたとき、ある学生が、「人命に値段をつけることを全否定したら、自動車の設計はできない」と主張した。サラッと流されてしまったが、この意見に反論はなかったと記憶している。

交通事故で毎年何万人も亡くなっているが、「衝突しても命に関わる怪我にはならないような自動車以外、製造・販売を許可しないことにしよう」なんて議論にはならないし、たとえ誰かがそうした主張をしても、多くの賛同は得られまい。

そもそも不可能なことだから議論されないのだ? そんなことはない。「自動車の最高速度を10km/h程度に制限し、全周にフワフワのクッションを装着することを義務化する」とか、「赤旗法を復活させる」とか、手はいろいろある。やりたくないからやらないだけだ。

人の命に値段はつけられないとしても、年間数万人の命が、社会の自動車化(モータリゼーション)の利益より小さいものとして扱われている事実は変わらない。

それどころか、自動車事故による死傷者への補償を、自動車化の恩恵から分配しようという議論さえ存在しない。私などは、ガソリン税などから見舞金が出てもおかしくないと考えているのだが、どうか。命の値段が可視化されることを忌避して、肝心の補償が進まないというジレンマに陥っているように思える。

いや、違うか。自動車事故をドライバーの責任に矮小化すれば、自動車化の恩恵に与っている自分自身も間接的な加害者である、という視点を避けられる。しかも、結果的に「命の値段を可視化されたくない」という願いも叶う。しかし現在の自動車では、ドライバーの注意だけで事故を完全に防ぐことはできないことは、みな知っているはずだ。自動車の危険を改善するペースを現状程度でよしとするなら、「中期的に発生し続ける事故の被害は、自動車化の恩恵より小さいという判断をしている」とみなされても仕方ないだろう。

赤旗法の施行されたイギリス経済が、産業の発展を阻害されてドイツやフランスの後塵を拝することとなった事実はある。その結果、イギリス人の平均寿命の伸びが、しばらくの間、抑制されたかもしれない。それは悲劇である。「高度な経済社会を維持・発展するによって救われる人命の総量と比較すれば、自動車事故によって失われる人命の総量は小さい」という説明は可能だろう。これは人命と人命を比較する議論だから、人命と通貨価値の比較を忌避する人でも矛盾なく支持できる意見かもしれない。

しかし……私は納得できない。経済成長を人命計算に置換できるなら、どうしてその逆は不可能なのか。人々は、自分の生命を守る場面では、その価値を極大化してみせ、(切迫した事情がない限り)どんな値段を示されても「それでは足りない」という。が、いざ自分自身もまた他者の生命に責任を負う立場となると、巧妙な詐術を弄して問題を隠蔽して議論から逃げるばかりで、実質的には命と経済を天秤にかけているのである。

なぜ人々は階段のある家を建ててしまうのか? 階段に大きな生命のリスクがあることは、みな知っているはずだ。土地の値段が高いから? 地価の安い地方へ移住したら仕事がないから? 本当に? 田舎で自給自足の生活をしている日本人は、現代においても存在するわけだが。私には、生命に究極絶対の価値を置いている人など、まず存在しないように思える。

そんなわけで、リズの発言には驚かされた。リズはこれまでの講義の展開をよく理解していないと思う。ここまでの講義において、「多数派の意見が正しい」と結論して終ったケースは存在しない。これまでの講義から見えてきたのは、「**については、**が正しい、と考えるのが多数派です」ということに過ぎない。

さて、リズの発言に続いて、概要、以下の展開となった。

(ジェイソン)自分の意思で、報酬に納得して戦争へいくことが間違っているとは思いません。
(サム)所得の低い人にとっては、一種の強制です。他方、富豪のカーネギーは兵役に就かずに済む。これは不公平です。
(ラウル)経済環境が個人の正しい判断能力を奪っており、強制です。強制される層が社会の一部に偏っており、公正ではありません。
(エミリー)志願制であっても、サムやラウルのいうような意味での強制は存在します。現在の米軍は志願兵に頼っていますが、志願者は、愛国心の強い地域で育ったり、貧しく職の足りない地域に暮らす人々に偏っています。
(教授)エミリーは南北戦争のシステムに強制性があることを認めているが、もしそれが是認できないほど大きな問題を含むものだとすれば、現在の志願制の軍隊にも問題があるだろう、と主張しているわけだね。
(ラウル)愛国心という要素が関係する分、志願制の軍隊の方が強制性は低いと思います。
(教授)実際に兵士に志願する層には偏りがあるとしても、かな? 実験してみよう。自分または家族が兵役に就いたことがない人は?
(大多数)手を挙げる
(教授)エミリー、思ったとおりかな?
(エミリー)はい。
(教授)君たちの圧倒的多数は全志願制の軍を支持したが、圧倒的多数は南北戦争のシステムを否定した。ではその違いは何だろうか?
(ラウル)南北戦争のケースでは、人によって異なる条件で雇われることになります。志願制の軍なら、みな政府に雇用されるので雇用条件が平等です。
(エミリー)徴兵制においては、貧しい者も富める者も兵役について決断を迫られますが、志願制の場合、じつは愛国心が旺盛だったり、貧しくて兵士の給料が魅力的だったりする層だけが兵役について決断を迫られることになります。これはむしろ不公平なことではないでしょうか。
(ジャッキー)志願制では、志願したいという気持ちが先にあって、給与は後からついていくものです。これは根本的な違いです。
(教授)ということは、信念によって戦いに赴く方がよい、と。
(ジャッキー)もちろんです。信念を持って戦う者の方が、より優秀でしょう。
(教授)愛国心は給料を得たいという動機より崇高なものなのだろうか?
(フィリップ)愛国心は兵士としての優秀さとは関係ないでしょう。傭兵は優秀です。
(ジャッキー)命を懸けて戦わねばならない場面では、貧困ゆえ仕方なく戦場へきた者よりも、意欲を持ってやってきた者の方が活躍できるでしょう。

個人的には、フラストレーションのたまる議論だった。

その先の講義の流れからすると、徴兵制と市場取引と組み合わせた北軍の仕組みは「貧困による暗黙の強制という問題があるため、一見、自発的に行われて、双方が納得して合意が形成されたように見える市場取引であっても、道徳的に許容できない歪みが存在している場合がある」という指摘を引き出すための例示に過ぎない。だが、その指摘が妥当性を持つためには、いくつかの前提条件を確認しなければならない。

まず、多くの学生は、「兵役に行くなんてとんでもない。300ドル? 現在の価値では6000ドルくらいかもしれないが、やっぱりそんな金額で兵士に立候補するなんて信じられないな。それは暗黙の強制があったと考えるしかないんじゃないの?」といった素朴な直感を持っているように見えた。だが、当時の生活水準を考えれば、現在の価値に直して6000ドルなら、それは生命のリスクの対価として十分な金額だったかもしれない。

徴兵制においては、兵役に就いて政府から支給される給与は刑務所での労働と大差なかったりする。徴集の抽選に漏れた人の少なからずにとって、ぼんやりしていて徴集の抽選に当たってしまうことこそ最悪だったのではないか。だから、兵役を逃れたい金持ちから300ドルを受け取って身代わりで戦地へ赴くことは、合理的な判断だったかもしれない。

兵役に就いている間、衣食住には困らない。傭兵の給与が意外に安いのも、このあたりにひとつの理由があるという。だから、300ドルがふつうの仕事と大差ない報酬だったとしてもなお、兵役には一定の魅力がある。自分の命のリスクがどの程度の報酬に見合うかというのは、個人の価値判断に任せればいい問題だ、と考える人は少なくないだろう、とも思う。

あるいは、より単純で根本的な疑問として、そもそも300ドルで雇われることを望んだ人々は、大きな生命のリスクを「選択せざるを得なかった」人々なのか? というものがある。失業して他に生きる術がなかったような人ばかりが応募したのだろうか? 前段で考えたように、ふつうに安定した生活をしていた市民かもしれないじゃないか。

それとも、「たとえ少数ではあっても、暗黙の強制によって身代わりの兵役に応募した者がいたとすれば、道徳的に認められない」といいたいのか。しかし学生たちの口ぶりでは、あたかも「大半は仕方なく応募した者だった」という仮定を置いているようだった。その理由が私にはわからなかった。

そこへ飛び出したのがエミリーの反撃であり、教授の実験だった。「あー、なるほど」と思ったね。ハーバードの学生も、その家族も、ブルジョアなんだよ。だから低所得者層のリアルな感覚が見えていないんだ。

愛国心とか、国を守りたいという気持ちを強調するジャッキーの勇気には感動した。そんなことをいえばいうほど、「結局、実際には軍に志願する気持ちなどサラサラない」ハーバードの学生たちの愛国心の乏しさが浮き彫りになる。

学生たちの議論を引き取って、教授は「愛国心こそが重要なら軍隊は無給の奉仕活動にでもすればいいだろう。志願制の実態は給与制であり、現在の米軍は政府が直接雇用する傭兵に他ならない」と整理してみせた。全くその通りだと思う。

学生たちの「自分が戦地へ駆り出されることだけは避けたい」という本音が、「兵役の身代わりに立候補するなんて暗黙の強制があったからに決まっている」という主張を心情的に支えている。学生たちが北軍の仕組みを嫌うのは、他人に(誰かが担わねばならない)国防の仕事を押し付けている後ろめたさと向き合うのが嫌だからだ。政府を通して兵士を雇用すれば、間接的にしか他人の生命に責任を負わずに済む。まさに自分の代わりに誰かが死んでいくのだ、という感覚と距離を置くことができる。そういう卑怯な感覚が根っこにあるんだ。

ラウルの主張は噴飯モノだろう。学生が「兵士の雇用条件を改善すれば応募者は増える」と考えたように、雇用条件が統一されているかどうかなど瑣末な問題に過ぎず、一定のリスク・プレミアムを付加すれば、兵士といえども自由な労働市場の仕組みの中で雇用されていくわけである。講義のまとめとしてはどういうわけか「兵役は自由市場を通じた割り振りにそぐわない(というのが多数派の道徳観念である)」なんて話になっていたが、自分が直に兵役の市場取引に関わるのは気が重い、というのが実情じゃないか。ごまかすんじゃないよ、とイライラした。

Lecture10

代理母契約の有効性

Lecture10ではベビーM訴訟を例題として、心変わりした代理母が、事前の契約を遵守しなければならないのかどうかを、考えていく。

不妊に悩むスターン夫妻は、心身の負担に見合った金額で代理母を募り、応募者の中から2児の母メリー・ベスを選任し、契約を交わした。出産後、代理母は子どもの引渡しを拒否し、契約の履行を求めるスターン夫妻との間で訴訟に至った。
Q1 法的な問題はさておき、裁判所が代理母に強制的に契約を遵守させることは道徳的に正しいだろうか?

学生の意見は、割れた。

半数強 契約は履行されるべき
半数弱 契約履行の強制は間違っている

そして、議論の概要は、以下の通り。

(パトリック)あらゆる強制がない状態で双方が自発的に納得して結んだ契約は、守られるべきです。
(エヴァン)子どもが実際に生まれるまで、母親の気持ちは知りようがありません。契約の時点で代理母が必要な情報をすべて知っていたとはいえず、この契約は無効です。
(アナ)一般的には契約は守られるべきですが、自然によって作られた絆は不可譲の権利であり、契約によって引き裂くことはできません。そもそもこの契約は無効です。
(キャスリーン)母子の絆を不可譲の権利とみなす考え方には賛成できません。代理母の心変わりを問題とすべきではありません。むしろ、心境の変化といったことによって約束事が反故にされることを防ぐために、契約は結ばれるのです。
(アンドルー)それが不可譲な権利かどうかはわかりませんが、母親は子に対して何らかの権利を持つのではないでしょうか。また代理母契約は非人間的で正しくないと思います。この契約は、ある程度までは、幼児売買とみなすことができ、間違った契約です。
(キャスリーン)ここで問題となっているのは代理母の心境の変化です。代理母契約自体を幼児売買とみなして否定するのは大げさではないでしょうか。
(アンドルー)母子の絆を考慮せず、生殖機能だけに注目した契約が問題だと思います。
(キャスリーン)個人が自発的に行う養子縁組や代理母契約を否定するのはおかしい。その権利は認められるべきです。
(アンドルー)代理母は認められていいという立場には納得できます。しかし母子の絆を考慮していない契約を裁判所が強制執行することには賛成できません。
(ビビアン)本題とは離れた意見になりますが、私の兄は精子バンクに登録しています。レズビアンのカップルに兄の精子が提供され、生物学上の姪っ子が生まれました。しかし生物学的な父親は代理母とは大きく異なり、子どもとの絆は薄いようです。

実際の事件においては、下級裁判所は「自発的に結ばれた契約は有効」と判断し、州の最高裁判所は「契約時には判断に必要な情報が欠けていたし、そもそも妊娠・出産は市場取引にそぐわないので、契約は無効」と判断した。ただし生まれた子の幸せを考えて子どもの養育権は生物学的な父親であるスターン氏が有することとなり、代理母のベスさんには子どもと面会する権利が認められた。

この議論で「なるほどな」と思ったのが、キャスリーンの主張。出産後の気持ちの変化など気にする必要はない、という意味の発言にはギョッとさせられたが、話を聞いてみると説得力を感じた。そもそも契約というのは、関係者が後で心変わりしても、将来の計画が狂わないようにするためのものなのだ、と。人の心は移ろいやすいものだからこそ、契約を交わすことで見通しをよくする必要がある。契約社会の進展は、経済の発展の必須条件である。「そのときになってみないとわからない」なんて主張が通用するなら、およそこの世に有効な契約など存在し得ないではないか……言葉を補って考えてみると、つまりそういうことをキャスリーンはいいたいのだ、と私は思った。

ところで、議論の先の講義の展開などを見るに、教授の狙いとしては、この議論を通じて「判断に必要な情報が揃っていない状態での同意は無効」という話と、「生殖機能は市場取引にそぐわない」という話を引き出したかったようだ。前者はうまくいったようだけれども、後者はちょっと苦しいな、という感じ。アンドルーの「代理母契約は非人間的な感じがします」という発言があったからよかったものの、当のアンドルーはあっさり説得されてしまい、「代理母契約そのものは道徳的に問題がないものと認める」と意見を後退させてしまっている。そこは私も「えっ!?」と思ったんだけど。

ついでに少し考えてみたんだけれども、日本だと、「代理母を有償で引き受ける」という契約自体が批判されるんじゃないかな。だから、代理母出産が認められたとしても、ボランティアしかダメだ、と。結果的に、代理母のなり手が乏しく、ほとんど代理母出産は行われない。そんな風になると思う。

補記:

Lecture9/10の議論を聞きながらもやもや考えていたことは、『Lecture9/10 復習』の方にいろいろ書き込んでいるので、ぜひそちらも参照してください。