義務論の限界・1 Ex. レガシー・アドミッション 親と同じ大学への進学を希望する者が有利になる制度 →社会的には廃れつつある。 Ex. アファーマティブ・アクション =積極的差別是正措置/主に人種的少数派を利する。 →学生の賛否はきれいに割れた。 格差是正措置を支持する論拠 1.是正 教育的背景の格差を是正するため 2.償い 過去の過ちを償うため *今回は議論しない 3.多様性 教育的経験のため 社会全体のため 裁判で重視されたのは多様性の論拠である。 バッキ訴訟(1978)におけるハーバード大学の意見書 「我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さがハーバード大学 入学審査の際の唯一の基準だったことは過去に一度もない。」 「優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際、人種は プラスに働く。それはアイオワ出身であることや、優秀な フットボール選手やピアニストであることと同じだ。」 「アイダホの農場の少年は、ボストン出身者にはできない 何かを大学にもたらす。同様に、黒人学生は白人学生には できない何かをもたらす。 全学生の教育的経験の質は、それぞれの学生に固有の背景の 違いや、ものの見方の違いに負うところも大きい。」 →学生の教育的経験のため多様性は必要 ホップウッド訴訟(1996)におけるテキサス大学の主張 「我々はテキサス州および国全体の市民的な強みとなる弁護士、 裁判官、指導者、公務員を育成しなければならない。」 →社会全体の利益(=大学の使命)のため多様性は必要 次回→大学の目的と入学資格の分配について議論を深める。
義務論の限界・2 アファーマティブ・アクションの是非について議論を続ける。 多様性の論拠は正しいか? 1.多様性の論拠は功利主義であり、全体の利益のために個人の 権利を侵害している。 →「大学に入学する権利」は誰にも存在しない。大学は 自らの使命を定め、それに適合する審査基準によって 入学に値する者を決めてよい。 2.テキサス大学のロースクールは1950年代の訴訟で 「本学の使命はテキサスの法曹界が求める人材を養成する ことだ。アフリカ系アメリカ人を雇う法律事務所は存在 しないので白人だけに入学資格を与えるのは妥当だ。」 と主張した。自らの使命を自由に決めるのは問題だ。 →アファーマティブ・アクションは悪意に基づく排除の 制度ではなく、受入拡大の制度である。 3.入学資格の分配に、勉学の努力などへの道徳的な対価という 側面があることを(社会的な利益よりも)重視すべきだ。 →現代の政治哲学者は、分配の正義を道徳的な対価と切り 離すことが、個人の権利を守るために必要だ、と論じる。 手強いのは第3の批判だ。例えば大学の入学資格について、 「あなたは偶然、現在の社会が求める資質を有していたので 入学を許可します」といった扱いを妥当と考える人は少ない。 アリストテレス(紀元前384-322) 古代ギリシャの哲学者/プラトンの弟子/目的論を唱えた 「正義にはふたつの要素がある。ひとつは物、ひとつは物が 割り与えられる人々だ。平等である人々には、平等なものが 割り与えられるべきである。」 「全ての正義は差別を内包する。」 目的論的論法 テロス(=目的、目標)から出発する考え方 Ex. 最高のフルートは、最高のフルート奏者に与えられるべき。 音楽を奏でることがフルートの目的だから、最も多くの金銭的 対価を払う者より、最も容姿がよい者より、最高の演奏者こそ 最高のフルートを手にするのにふさわしい。 アリストテレスは分配の正義を道徳的な対価と結びつけた。 →目的に適った分配には道徳的価値がある。 アファーマティブ・アクションに関する議論では、義務論は 影を潜め、道徳的対価に基づく分配の正義を求める意見と、 大学の目的(=多様性の論拠)を掲げる意見が対立する。 →これは義務論の限界を意味しているのではないか? 次回→目的論について、さらに検討していく。
Lecture18のノート末尾は、私が独自にまとめたもの。教授の解説された内容ではありません。
ロールズの主張は、所得と機会が偶然に基づいて分配されるのは不公正だ、という直感に根ざしています。生育環境の違い、持って生まれた才能の違い、才能と社会の需要の適合、などは偶然によるとロールズは考えます。リバタリアニズムが支持する自由市場も、義務教育制度などで機会の均等に配慮した能力主義も、十分に平等ではないのです。それゆえロールズは、分配の正義の基準を道徳的な対価とすることを批判し、公正な期待に基づく対価として整理します。
現代の先進諸国では、人々に特定の美徳を押し付けるような法律は嫌われています。リベラリズムの概念が浸透しているのです。ならば難関大学への合格は、道徳的に賞賛されていないでしょうか? いいえ、現実には多くの人々が大学合格を誇りに思いますし、社会的にも道徳的な賞賛が与えられることが多いでしょう。
人々に特定の「よい生き方」を推奨する美徳に根ざす正義には、長い歴史があります。紀元前4世紀の哲学者アリストテレスの『目的論』は、美徳から正義を考える主張です。現実の幸福を実現する妨げとして功利主義に厳しく批判され、個人の選択の自由を侵害するものとして自由主義にも批判されました。しかし、現代においてもなお、人々の直感の中に美徳は生きています。
ノージックのリバタリアニズム、ロックの社会契約論、カント、ロールズのリベラリズムなど、自由から正義を考える議論は、いずれも自由な権利の行使を擁護することが正義だと考えます。カントは理性が導く普遍的な道徳の原理について説明しましたが、それは個人の価値観や美徳の観念とは分離されていました。
例えばもし、アリストテレスの主張が正しいとすると、バスケットボールの超一流選手だったマイケル・ジョーダンがプロ野球に挑戦する自由は、道徳的に否定されます。自由そのものを擁護するためには、全体のためには個人の犠牲をも許容する功利主義を否定するだけでなく、個人の生き方に干渉するあらゆる価値観から中立な正義を求める他ないのです。