復習課題に取り組む

リバタリアン(市場原理主義者)によれば、個人の権利に対する最大の脅威は政府によるものだ。本人が望むなら、シートベルトをせずに運転してもいいはずだ。政府には、教訓的な法律を通す権利はない。政府は、どのように自分の人生を生きるべきか教えるべきではない。さらに大切なのは、政府は再分配の目的で、課税するべきではない。再分配のための課税は盗みである。あなたの所得を取り上げ、他の人に与えるのは、ほとんど奴隷制であると言う。リバタリアンはこんな強硬な主張をしているが、彼らは正しいのだろうか?

  1. 政府が人々にシートベルトを着用することを求めたり、自己を危険にさらす他の行為を禁じることは不公正なのか?そのような法律がなければ、より多くの人が亡くなることがわかっている場合はどうだろうか?彼らの行為が、他の誰かの権利を侵害することがなければ、人々は自由に自分を傷つけたり、自殺したりできるのだろうか?
  2. 最低賃金はあるべきか?雇用者が、1ドル25セントの時給しか払えないと言い、そして、貧しい人々がその時給で働きたいとしたらどうか?政府が雇用者に、少なくとも7ドル25セントの時給を彼らに支払うことを求めるのは不公正なのだろうか?
  3. 政府は労働安全基準を課すべきか?雇用者が安全対策にお金をかけることを拒否し、非常に貧しい人々が危険な条件で働くことに同意したらどうだろうか?
  4. 公益の事業のために、裕福な人に課税するのは公正か?政府は、ビル・ゲイツなど裕福な者に課税し、そのお金を公立の学校、病院、道路、公園、消防、警察の費用を支払うために使ってもいいのか?それともそのすべては、不公正なのか?

1.

政府が人々にシートベルトを着用することを求めたり、自己を危険にさらす他の行為を禁じることは不公正なのか?そのような法律がなければ、より多くの人が亡くなることがわかっている場合はどうだろうか?彼らの行為が、他の誰かの権利を侵害することがなければ、人々は自由に自分を傷つけたり、自殺したりできるのだろうか?

当然ながら、それが公正か否かは、考え方による、としかいいようがない。

自分は自分の所有物であり、所有権は人間が持つ不可侵の基本的な権利である、という前提から出発するリバタリアニズムの見地からは、政府が自らを危険にさらすような行為を禁止することは、重大な人権侵害である。個人の自己決定権を侵している。道徳的に正しくない。自殺するのも個人の勝手でしょ、となる。

しかしこれは空想的な話であって、現実には、シートベルトを着用しない人は、周囲にとって迷惑になる。他の誰の迷惑にもならず、当人だけが損をするような行為は、相当に瑣末な領域に限定されている。

例えば、健康保険について考えてみよう。政府の健康に関する啓蒙活動に本当に効果があるかどうかはわからないが、ここでは効果があると仮定する。そのとき、不摂生な人が「政府はうるさいことをいうな」といって政府のお節介を止めさせた場合、社会全体の傷病者は増加するだろう。すると健康保険の負担額は増えてしまう。その結果、健康保険が自由加入だとしても、他の保険加入者に付けを回すことになる。それは他人の財産を不当に奪うことに他ならない。もっとも、啓蒙活動の効果がその費用に見合わない場合は、啓蒙活動をやめて税金を減らした効用の方が大きいわけだが。

現実の社会では、個人の怪我も病気も死も、たいていの場合、何らかの形で社会の他の構成員の時間や労働力などを奪う方向に作用する。よって他の誰かの権利を侵害することがなければという仮定が成り立たない。それゆえ、リバタリアンといえど、現実社会において自殺を「道徳的に正しい」とはいいにくい。

リバタリアンの主張から極端な結論を導き出す議論には、必ずといっていいほど非現実的な前提が紛れ込んでいる。これは功利主義から極端な結論を導き出し、功利主義を否定せんとするLesson1-4におけるディスカッションガイドの誘導と共通している。

功利主義もリバタリアニズムも現実の人々の生活を観察する中から生まれてきた議論である。少なくとも現代の先進諸国において、いずれの支持者も同じ社会に同居することができており、激しい対立と憎悪を生み出すには至っていない。意地悪なディスカッションガイドに取り組む中で、私は、その謎を解く鍵が、社会の複雑さの中にあるのではないか、と考えるようになった。

2.

最低賃金はあるべきか?雇用者が、1ドル25セントの時給しか払えないと言い、そして、貧しい人々がその時給で働きたいとしたらどうか?政府が雇用者に、少なくとも7ドル25セントの時給を彼らに支払うことを求めるのは不公正なのだろうか?

リバタリアニズムの見地からは、双方が納得している取引に政府が介入するのは不公正である。道徳的に間違っている。

経済学的に考えるならば、時給7ドル25セントを政府が強要すれば、企業は時給1ドル25セントで求職者を募っていた仕事の供給を断念するだろう。その結果、例えばスーパーマーケットの床掃除が1日4回から1日1回になったりすることで、社会の豊かさもまた減じ、人々の生活水準の向上が少し抑制されることになるだろう。

時給1ドル25セントでは生活できないとしても、例えば年金生活者や、基本的な生活費は既に満たされている学生や主婦、障碍者などが生活費の補助とするには満足のできる仕事であって、時給1ドル25セントだからといって、直ちにそれが不当な搾取であるとか、強いられた労働であると決め付けることはできない。

とくに社会福祉の分野では、半分社会奉仕、半分労働といった働き方が広く認められることによって問題が解決する領域が多々ある。多くのボランティアが従事する老人福祉の他、学校の教師に荷重な負担のかかる体勢となってしまった小学生以上の教育についても検討の意義は大きい。

フルタイムで働き独立して生計を立てたい者が、時給1ドル25セントの職で妥協を迫られるような社会は、生存権を保証しておらず、問題だろう。一見、双方が賃金水準に納得しているようであっても、それは労働者が状況に強いられて納得せざるを得なかったのであって、真に自由な取引の結果とはいえない。

だが、そうしたことは問題を切り分けて考えるべきであり、時給1ドル25セントの仕事を全否定することは、間違っている。以上の議論は功利主義者とも共通の理解が得られる内容だと考える。

3.

政府は労働安全基準を課すべきか?雇用者が安全対策にお金をかけることを拒否し、非常に貧しい人々が危険な条件で働くことに同意したらどうだろうか?

リバタリアニズムの見地からは、基本的には、政府は労働安全基準を課すべきではない。

ただし、非常に貧しいものが、その貧しさゆえに、状況に強いられて弱い立場に追い込まれ、不本意ながら危険な労働を強いられるようなことがあってはならない。それは移転の正義に反する。同時に、そのような形で雇用者が利益を得ることは取得の正義に反する。よって明らかに道徳的に正しくない。間違っている。

ではリバタリアニズムが政府による労働安全基準の押し付けを否定するのは何故か? それは例えば、サーカスやスタントといった職を強制して潰してよいのか? という問題につながるからだ。仕事に誇りを持ち、納得のいく給料を得て、他の職業を選択できる状況下で、あえて危険な曲芸やスタントといった職種を選ぶ自由を政府が制限するのは、自己所有の原則の侵害である。

つまり、政府が整備すべきなのは労働安全基準ではなく、労働者が雇用者と対等の立場で労働契約を結ぶことができる環境なのである。

とはいえ実際には、1.にも書いた通り、個人の怪我・病気・死が周囲の他者にとって迷惑にならないということは考えにくい。したがって、「なるべく政府のお節介な基準の範囲を狭く取りつつも、完全に廃止するには至らない」というあたりに落ち着くだろう。

4.

公益の事業のために、裕福な人に課税するのは公正か?政府は、ビル・ゲイツなど裕福な者に課税し、そのお金を公立の学校、病院、道路、公園、消防、警察の費用を支払うために使ってもいいのか?それともそのすべては、不公正なのか?

リバタリアニズムの見地からは、あえて踏み込むなら、すべて不公正だといってもよいかもしれない。あらゆる課税を断固拒否するのは、実際問題としては難しい。しかしここで問われているのは、道徳的な正しさなのであるから、やはり個人の所有する財産を強制的に奪うのは盗みであり、悪いことだ、という方が話はスッキリする。

講義中の議論でも、腹を空かせた者が裕福な者のパンを盗むことは悪か、という問いがあった。リバタリアンの側に立ったある学生は、「基本的な権利の侵害である、という事実は認めるべきだ」という意味のことをいった。また別の学生は、それはそれとして、個人には自分を守る権利がある、とも述べた。道徳的に財産権の侵害は悪いことだが、人には生存権がある。これは権利の衝突でって、どちらにも理があるということだ。

公益の事業のための課税にも、これに似た側面があるだろう。本来は説得によって自発的な納税を促すべきだが、現実問題としては、それでは人々の基本的な権利を守れるような社会の維持には不十分である。必要なお金を十分に集めるためには、強制的な徴税という手段を取るしかない、というのは突飛な理屈ではないだろう。しかしやはりそれは財産権の侵害に他ならず、その意味では不公正である。

「仕方ない」ことはあくまで「仕方ない」のであって、そのどうしようもない状況が、行為を道徳的にも正当化し得るものではない。